鹿児島県南大隅町佐多地区2集落における生業と自 治の状況 ―地域社会維持の諸条件に関する一考察
―
著者 石原 俊
雑誌名 明治学院大学社会学部付属研究所研究所年報 =
Bulletin of Institute of Sociology and Social Work, Meiji Gakuin University
巻 45
ページ 61‑69
発行年 2015‑03‑02
その他のタイトル Livelihood and Autonomy in the 2 Villages of Sata District, Minamiosumi, Kagoshima: A
Consideration of Conditions for the Sustenance of Regional Society
URL http://hdl.handle.net/10723/2377
1.はじめに
本稿は、鹿児島県南大隅町内の旧佐多町地区
(以下では佐多地区と略記する)の2集落を対 象として、集落の生業や自治の状況が地域社会 の維持にどのような影響を与えているのかを考 察する。佐多地区は南大隅町の中心部である根 占からみて周辺部にあたり、現代日本の農山漁 村の過疎化がもたらす典型的な諸問題をかかえ ている。本稿は、佐多地区の中心部である伊座 敷からみても周辺部に位置する2集落を対象と する。ひとつは、住民の多くが長らく沿岸漁業 を主な生業としてきた尾
お ば波瀬
せであり、もうひと つは、住民の多くが長らく農業を主な生業とし てきた打
うち詰
づめである。
本稿は、明治学院大学社会学部付属研究所を 拠点とする特別推進プロジェクト「現代日本の 地域社会における<つながり>の位相──新し い協働システムの構築にむけて─」 (代表:浅川 達人、研究期間:2010年度~2012年度)が実施 した佐多地区現地調査のうち、2011年2月20日
~22日と2012年2月18日~21日の2回の共同調 査に筆者が参加してえた知見に基づいている。
本稿の記述は、合計わずか1週間程度の現地調 査でえられたインタビューデータとフィールド ノーツに基づいているにすぎない。したがっ て、本稿における筆者の視界はごく部分的・断 片的であることを、あらかじめことわっておか
ねばならない。しかしながら、短時間の調査か らえられた質的なデータには、過疎化が進行す る地域における地域社会の維持(の困難)につ いて、多くの示唆に富む知見が含まれているた め、簡単な調査ノートとして本稿を残しておこ うと考えた次第である。
佐多地区全体の産業構造や社会経済的状況の 変遷については、明治学院大学社会学部付属研 究所が1983~84年に佐多地区で実施した共同調 査に基づく諸論考と、今回の特進プロジェクト の共同調査に基づく先行論文のなかに、ともに 簡にして要をえたモノグラフがある(牛島 1987a・1987b・1987c;水谷 1987;長濱 1987;
浅川 2013;半澤 2013;箕曲 2013)。
佐多地区の主たる産業は長らく第一次産業で あったが、農業に関しては平坦地が乏しいこと もあって1戸あたりの耕地面積が鹿児島県旧郡 部平均よりもかなり少なく、林業も大部分が零 細で農業との兼業であり、漁業についても経営 規模が相対的に小さいため、多くの住民が第一 次産業だけで生計を維持することができなかっ た。そのため1980年代まで、多くの住民が生業 に従事しつつ、3大都市圏などへの出稼ぎで現 金収入をえることによって生計を維持してきた
(佐多町誌編集委員会 [1973]1990: 145-146, 180- 181;牛島 1987a: 277-280)。
出稼ぎの終息後、佐多地区では若年層を中心
鹿児島県南大隅町佐多地区2集落における 生業と自治の状況
─地域社会維持の諸条件に関する一考察─
石 原 俊
研究所年報 45 号 2015年3月(明治学院大学社会学部付属研究所)
に人口流出に歯止めがかからなくなった。佐多 地区は、第二次・第三次産業が多く立地する旧 鹿屋市や旧鹿児島市といった都市部からの遠隔 性のために、通勤による現金収入の確保に障壁 をかかえている。加えて、1990年代後半に本格 化した日本政府の構造改革路線により、佐多地 区においても公共事業とりわけ建設業への就業 者数が著しく落ち込んだ(半澤 2013: 137-142)。
こうした条件のもとで、20世紀末以降、佐多地 区の過疎化は著しく進行したのである。1950年 のピーク時に11,494名を数えた佐多地区(旧佐 多町)の人口は、2010年代に入ると3,000名以下 にまで落ち込んでいる。
2.尾波瀬
尾波瀬は、旧佐多町の錦江湾(鹿児島湾)側 に位置する集落のなかでは最も南西端に位置す る、山岳地に囲まれた入り江の集落である。尾 波瀬は、太平洋側に位置する外
と之
の浦
うら、大泊、そ して佐多岬に最も近い最南端の集落である田尻 とともに、旧大泊小学校区に属している(佐多 町誌編集委員会 2005: 5)。主な生業は長らく漁 業であったが、1戸あたりの漁業経営規模は小 さく、耕地面積も非常に狭隘であるため、旧佐 多町のなかで最も出稼ぎ者数が多い集落のひと つであった(牛島 1987b: 283-284)。
わたしたちは尾波瀬の現況について、2011年 3月まで尾波瀬自治会長を務めていた上
うわごもり籠一昭 さんに、2011年2月と2012年2月の2度、イン タビューを実施した。2012年2月時点で66歳の 上籠さんは、1945年に旧佐多町の島泊に生まれ、
高校卒業後東京に出て働いていたが、約10年間 の在京生活の後、子どもが喘息になったことな どが理由で、1977年に旧佐多町の別の集落に 帰ってきた。その後、妻の実家がある尾波瀬に 移住し、消防署に勤めながら、小さな船で漁業 もおこなっていた。消防署を定年退職後も、タ
イ・カンパチなどの小規模な釣漁を継続してい る。
2−1.集落の状況
尾波瀬の人口は2012年2月時点で68名、世帯 数は34戸程度である。上籠さんによれば、独居 世帯が7~9戸あり、子どもは2世帯に計3人 が居住しているという。
そのほか、集落内には15~16軒の空家があ る。空家になる理由として最も多いのは、若者 が進学や就職を期に集落を出て行って両親が 残っていたが、後に両親がともに死去したケー スである。そのほか、身体が不自由になってき た親を子が引き取ったために空家になった事例 や、住人が特別養護老人ホームやグループホー ムに入所して空家になった事例も、数例ずつあ るという。
近年では尾波瀬に若者がUターンしてくるこ とは皆無に近く、人口の減少に歯止めがかから なくなっている。1980年代前半に出稼ぎ者がい なくなった後、集落内や近隣集落の仕事だけで 生計を維持することが困難になったためであ る。
仕事を求めて都市部に定住するようになった のは、2012年現在で50代~60代以下の世代であ る。この世代は、親が健康な間は盆や正月に子 ども(親にとっての孫)を連れるなどして尾波 瀬に戻ってきていた。しかし両親の高齢化とと もに、前述のように子が親を引き取ったり老人 福祉施設に入れたりする世帯も増加し、盆や正 月に尾波瀬に帰ってくる人も減ってきている。
両親がともに死去すると、子ども世代が墓から
先祖の遺骨を引き取っていくケースも多い。わ
たしたちは尾波瀬の集落墓地で横に寝かせられ
た墓碑を多く確認したが、こうした墓碑は遺骨
が他所に引き取られていったことを示してい
る。
他の集落との移動や交流も、上籠さんによれ ば、以前は祭りや農林漁業の手伝いのため近隣 の集落との人の行き来が頻繁にあり、婚姻に よって近くの集落に親戚をもつ世帯も多かっ た。だが近年、こうしたつながりも希薄になっ てきているという。
2−2.生業をめぐる状況
尾波瀬の住民は、長らく沿岸漁業を主たる生 業にしながら、山間部の段々畑でカライモやサ ツマイモを栽培して主食にしていた。高度経済 成長期以降、主食は徐々に米に変わっていった が、その後も米はほとんど移入に頼り続けてき た。また尾波瀬では戦後長らく、製炭(炭焼き)
もおこなわれていた。そして前述のように、尾 波瀬は佐多地区のなかでも最も出稼ぎが盛んな 集落のひとつであった。
上籠さんによれば、2012年2月時点の尾波瀬 における生業・従業の状況は、沿岸漁業従事者 が10名程度で、うち漁業を専業とする人が5~
6名である。なお、公務員は1名もいなかった。
尾波瀬の漁獲物は、まず大泊にある「おおす み岬漁協」佐多岬支所──かつては大根占・佐 多・佐多岬の3漁協があったが2006年に統合し た──に集荷されて捌かれた後、鹿屋に出荷さ れセリにかけられている。過去には、尾波瀬の 漁獲物は旧佐多町の中心部である伊座敷に出荷 されており、伊座敷の魚屋で捌かれ売られてい たそうだが、現在では漁協経由で鹿屋に出荷さ れている。
だが上籠さんによれば、昨今は沿岸漁業だけ で生計を立てていくことは非常に難しい。以前 に比べて「魚の値段が安すぎる」うえに、漁獲 高も減少し、加えて燃料費が高騰したためであ る。上籠さんは漁獲物について、 「まあ、お金に するんですけど、市場にあげるんですけど、材 料費などトントンでしょ」と述べ、 「釣りは、趣
味」とさえ話していた。
尾波瀬における釣り人向けの瀬渡し船は、
2012年2月時点で1隻のみであった。上籠さん によれば、空家を釣り客に貸して船釣りをさせ 観光客を誘致しようとするアイディアがかつて 提案されたことがあるが、尾波瀬は技術的・地 理的な要因のため、釣り客などの観光客を誘致 することにさまざまな困難をかかえているとい う。
まず技術的要因として、尾波瀬の漁民が所有 する1~2人乗りの瀬渡し船では、錦江湾対岸 の山川の漁業者が所有する4~5人乗りの遊漁 船に、太刀打ちできる見込みがない。次に地理 的要因として、尾波瀬は宿泊客を誘致できない ため、実質的な経済効果を見込めないことがあ る。かりに尾波瀬に宿泊施設を作っても、釣り 客は宿泊せずに都市部に帰ってしまうか自家用 車やレンタカーの中に宿泊することが、容易に 予想できるからである。モータリゼーションが 現在ほど進行しておらず、道路事情がもっと悪 かった時期であれば、1960年代に観光地として 栄えた本州最南端の佐多岬や、その中途に位置 する尾波瀬などに、観光客が宿泊してくれる条 件も残っていた。だが上籠さんは、料理人を雇 うなどさまざまなコストをかけてまで尾波瀬に 宿泊施設を作っても、採算が取れる見通しはほ とんどないと説明する。
もうなあ、泊ってくれる観光客が来れば。
でも、泊まっても、何もないもん。温泉が あるわけじゃないでしょ。繁華街もないで しょ。泊まるだけでしょ。
現在の尾波瀬でほぼ唯一の生業となってし まった漁業を観光客誘致に結びつけることは、
幾重もの困難な条件によって阻まれている。
研究所年報 45 号 2015年3月(明治学院大学社会学部付属研究所)
2−3.自治をめぐる状況
現在の尾波瀬自治会は、居住実態のある世帯 は強制的に正会員となるシステムである。上籠 さんによれば、正会員の自治会費は月1,250円で あり、TV の共同アンテナ維持費の250円を加え て、1,500円が1ヶ月の負担額である。いっぽう、
居住しないで家を持っている世帯には、月あた りの会費600円程度の準会員になることを「お 願い」してきたが、10年前ほど前に準会員はす べて脱退したという。
尾波瀬自治会は山林に集落の所有地をもって おり、かつて国産材がよく売れていた時期は、
そこで伐採した木材を売ると、「何百万になっ て」、「墓の造成をしたり、公民館を建てたり、
そういうのに使えた」が、現在は事実上、会費 のみが自治会の活動資金となっている。
ここ[=尾波瀬]を引き揚げて他所に行く でしょ。その人たちは、準会員になっても らっていた。そうすると、その人たちは、
私たちは帰ってこないし、いつまで会費を 払うんですかと。それじゃ、もう自由にし ましょうかと。ここの権利問題が、山のな かにありますからね。辞めるなら、権利を 放棄しますという念書をとるわけ。今はほ ら、やっかいなわけ。というのは、税金[=
固定資産税]を払わなければならいで しょ。税金を払わなければいけないので、
山は売れない[=買い手がない]でしょ。
自治会が所有する山林は、いまや集落にとっ て負担になりつつある。現状では自治会費収入 からどうにか固定資産税を支払うことができて いるが、早晩収入を納税額が上回る見込みだか らである。
尾波瀬は集落内に神社がないため、神社の祭 礼は実施されていない。過去には、毎年11月15
日に五穀豊穣や集落の安全などを祈願する「霜 月祭」が開催されており、上籠さんによれば、
「昔はその日に部落で飲み食いをしよった」が、
「最近はもうそれもなくなった」。
わたしが自治会長のときは、 [自治会の]会 計と2人でお神酒をあげて、まあ部落の安 全を祈願して、そんなもんですよ。
また旧佐多町内では、2013年の3月にすべて の小学校が佐多地区の中心部である伊座敷の佐 多小学校に統廃合された。尾波瀬の児童は2012 年時点では大泊小学校に通っていたが、2013年 4月以降はマイクロバスで伊座敷に通学するよ うになった。
上籠さんは小学校の統廃合に関して、やや複 雑な心境を吐露した。教職員の人件費による町 予算の圧迫や、子どもに一定程度の児童数のな かで教育を受けさせたい親たちの心情を勘案す れば、統合に反対すべきではないのだが、他方 で「そういう[=自治会長の]立場からすると、
学校があった方がよい」からである。
[先生たちが集落にいなくなることで]商 店の売り上げとか、減るわけでしょ。で、
肝心なのは、行事なんかをするときには、
運動会とか、駅伝とか、集落単位の、校区 単位の行事をするときには、先生たちが頼 りだったんです。[校区ごとに]7、8人
[の小学校の教職員が]、みんな協力してく れましたからねえ。それも、もう出来ない ねえという。だから相当、マイナス面が多 いんですけど、どうにもならんですよね。
佐多地区は、子どもの教育環境と地域社会の
維持との間に、容易に解決できないディレンマ
を抱えながら、小学校の統廃合にふみきったの
である。
以上のように尾波瀬では、生業の衰退にとも なう過疎化・高齢化が著しく、自治会の活動内 容や資金も痩せ細ってきており、地域社会の紐 帯も弱まってきている。そして尾波瀬は、こう した問題の解決の糸口をえることも、非常に困 難な状況に置かれている。
3.打詰
打詰は、旧佐多町の太平洋側に現存する集落 のなかでは北東端に位置しており、旧辺
へ塚
づか小学 校区(以下では辺塚地域と略記する)で自治会 をもつ、辺塚西・辺塚東・中村・中郷・打詰の 5集落のひとつである(佐多町誌編集委員会 2005: 5)。打詰は海に面しているが、漁港は有 していない。高台に位置する集落から海岸にか けて、棚田や段々畑が広がっており、米や野菜 が栽培されている。
わたしたちは打詰の現況について、2012年2 月の現地調査時に、自治会長を務めている小坂 忍さんにインタビューを実施した。2012年2月 時点で55歳の小坂さんは、打詰に生まれ、鹿屋 の高校、鹿児島市内の専門学校を経て、打詰の 実家に戻って農業に従事した後、30歳になる頃 に農協に就職し、伊座敷と鹿屋の JA に約20年 間勤めていた。だが2007年に農協を離職し、現 在は米とジャガイモを中心に農業をいとなみつ つ、イノシシなどの狩猟や磯釣りもおこなって いる。磯釣りは小学生の頃から半世紀近くの キャリアがあり、狩猟の技術は40歳代前半の頃 に習得したという。
3−1.集落の状況
打詰の人口は2012年2月時点で30名、戸数は 16戸であり、うち約10戸が独居世帯である。年 齢構成は、小坂さんによれば次の通りである。
50歳以下が3名で、うち1名は事実上鹿屋に在
住しており、他の2名は打詰に居住しながら伊 座敷など辺塚地域外の小企業に自動車通勤して いる。50歳代は5名で、うち1名は米作を主と しながら農閑期には日雇いやアルバイトの仕事 にも従事しており、他の4名は辺塚地域外に自 動車通勤している。残りの住民はすべて60歳以 上であり、その大多数が農業中心の生活であ る。
そのほか、3軒が空家となっている。うち2 軒は居住者が死去したケース、1軒は居住者が 老人福祉施設に入所したケースである。
打詰の集落の歴史は非常に古く、遅くとも中 世初期には定住者がいたようである。また近代 以降は住民の流入が極端に少なく、戦後に農業 入植者を受け入れた事例も皆無であり、直近の 新規住民の流入は小坂さんの祖父母の同世代ま で遡るそうである。
高齢者が要介護状態になった場合は、後述の ように若者が打詰で生計を立てられる条件がな いため、辺塚地域を出て行った子が親を引き 取っていく。
小学校は前述のように辺塚小学校が存在して いたが、2012年時点では校区内に児童がおらず 休校となっており、2013年3月に実施された佐 多地区の小学校統合にともない廃校となった。
3−2.生業をめぐる状況
打詰の主たる生業は、米や野菜の栽培を中心 とする農業である。畜産はおこなわれていな い。漁港がないため専業の漁業従事者もいない が、クロダイ(冬)やイサキ(夏)などの磯釣 りは盛んにおこなわれている。出稼ぎに行く人 は10年ほど前にいなくなったという。
小坂さんによれば、打詰では農産物の集落内
自給率はかなり高く、野菜は身体的に農作業が
可能な住民は「みんな作って」おり、米や野菜
は「おすそ分け」や「交換」によってほぼ集落
研究所年報 45 号 2015年3月(明治学院大学社会学部付属研究所)
内自給を達成しているという。小坂さんは、 「米 や野菜を買うという人は、ほとんどいないん じゃないかな」と述べた。小坂さん自身は、耕 作放棄地を借りるなどして打詰のなかでは比較 的規模が大きい営農を展開しており、ジャガイ モは自家用以外すべて市場に出荷し、米も相当 量を市場に出しているという。
鶏は20羽前後を飼っている世帯があり、鶏卵 の集落内自給も「おすそ分け」によって達成さ れている。海産物の集落内自給率もかなり高い ようである。小坂さんは、 「ここらへんの若い人 はほとんど、釣りにいきますよ」と語った。
昔からそういう習慣がありましたもんね。
隣の人が釣りに行けば、釣れたらおすそ分 けしてもらったりして。また、自分が行っ たら、反対に。
打詰でも旧佐多町内の他の集落と同様、週3 回程度、移動販売業者が回ってくるが、小坂さ んによれば、打詰の住民が移動販売業者から購 入するのは、トイレットペーパーなどの日用雑 貨が中心で、生鮮食品は牛乳や乳製品のほか、
せいぜい肉類の一部にとどまるようである。
その肉類にしても、イノシシ猟に従事してい る小坂さん自身は、近年「買ったことがない」
という。イノシシの猟期は11月15日から3月15 日であり、小坂さんは4ヶ月間の猟期で年平均 15頭程度を獲る。解体した肉は冷凍庫に保存し ておくとともに、自治会のメンバーには「ほと んど配る」らしい。かつては、 「山でイノシシが 1頭獲れたら、そのお祝いといって、部落民を 呼んで」、解体した肉をふるまって飲食の場を 設けていたが、近年飲酒運転の取締りが厳しく なって「お祝い」は難しくなり、 「おすそ分けと いうことで少しずつという感じ」になった。
小坂さんの説明では、「おすそ分け」や「交
換」あるいは共同作業を通した集落内のつなが りは、辺塚地域の5つの集落のなかでも打詰が
「特に強い」という。
ここも、 [他の集落と同じで、誰とも]会わ ないときは、全然会わない日があります よ。だけど、人が何か忙しそうな仕事をし ていると思えば、行きますし。人が稲刈り をしていれば、見た人がすぐ加勢に行った りとか。昔の結制度みたいな、そういう感 じですね。
また、近隣に住んでいる子の世代が、農繁期 に親の農作業を手伝いにくる事例もある。たと えば、小坂さんには男性2名・女性1名の計3 名の子がおり、息子さんは福岡と熊本に在住し ているが、鹿屋に住んでいる娘さんが週末にな ると農作業を手伝いに通ってきているという。
ただし、集落外に出て行った若い世代が打詰 にUターンして就農することには、困難な条件 が横たわっている。なぜなら、各戸の所有地が 多くとも20アール程度しかなく、農業専業で生 計を立てるには耕作面積が少なすぎるからであ る。そのため、住民の高齢化に伴って、跡継ぎ がいない耕作放棄地も増えつつある。
このように打詰では、生業(農業・漁業・狩 猟)を通した集落内の紐帯が、現在でもかなり 強固であることがうかがわれた。ただし、打詰 も佐多地区の他の集落と同様、若い世代が生業 によって生計を立てることは難しい状況にあ る。
3−3.自治をめぐる状況
打詰自治会を含む辺塚地域の5つの自治会
は、辺塚公民館組織に所属している。小坂さん
は、そのなかで打詰自治会は最も活動が盛んで
あり、最も結束が強いと述べた。打詰自治会も
尾波瀬と同様、全世帯強制加入方式である。自 治会費の内訳は、部落費が月額2,300円で、部落 水道維持費として別途200円を徴収している。
そのほか、祭礼などに際して臨時収入もあると いう。打詰では、消防費、芸能保存費、神社費、
そして2町程度の自治会所有地の固定資産税 を、すべて自治会の収入でまかなっている。
打詰自治会の執行部には、任期4年の会長の ほか、会計と定員3名の役員のポストがあり、
かれらが日常業務を執行している。会長職は小 坂さんの1期目まで、長らく選挙で選出されて きた。小坂さんの2期目就任の際、初めて選挙 を実施せず留任が決定したという。
自治会の現在の主な年間行事としては、3月 に1年間の予算を計上する通常総会が開催され るほか、5月に花見、9月に神社の祭礼、12月 に忘年会、3月の第一日曜日に稲尾岳登山が実 施されている。また、予算に計上されていない 出費が発生する際には、そのつど臨時総会が開 催されている。
なお、辺塚地域の5自治会(辺塚公民館組織)
が協力して実施する行事として、校区の運動会 や老人会のほか、5月に開催される敬老会を兼 ねた「ふるさと祭り」がある。すでに述べたよ うに2012年2月時点で辺塚小学校はすでに休校 状態であったが、校区運動会は実施されてい た。
部落水道は打詰自治会が単独で所有してお り、上述の月200円の水道維持費によって、貯水 タンクの清掃・点検などの維持管理を、公益社 団法人南大隅町シルバー人材センターに外部委 託している。かつては水道維持費を徴収してお らず、部落水道は完全自主管理で、住民が月1 回の交代制で清掃作業にあたっていた。しか し、結果的に各班から「作業に行く人が毎回同 じ人」になってしまい、 「毎回若い人が犠牲にな るもんだから」、2000年代半ば頃から維持管理を
外注したと、小坂さんは説明する。
そのほかの自治会の日常的な業務として、週 1回のペースで南大隈町役場から回ってくる文 書を各戸に配布する作業、その他のチラシを随 時配布する作業、また町役場からの委託で、月 1回程度のペースで「外を出歩かなくなったお じいちゃん、おばあちゃん」の自宅を巡回して 安否確認をする、 「在宅アドバイザー」の仕事な どがあるという。
また、2012年には打詰の神社の建替えがおこ なわれたが、小坂さんら自治会執行部が主導し て佐多地区外に住む打詰出身者から寄付を募 り、できるだけ部落費からの支出を抑制するよ う努めたという。
集落や自治会の将来について、小坂さんは次 のように語った。
あと、5年でしょうね。5年でだいたい、
先がみえてくるんじゃないですか。あと、
5、6年したら、もう[辺塚地域の人口が]
半分になるでしょうから。どっちみち、こ こ[=辺塚地域]は合併しなきゃいかんで しょうから、1つの自治会組織として。
わたしは、 [辺塚地域の自治会が]合併して も何も変わらなくて、もともと[各集落に]
ある行事は継続していくんじゃないかと思 う。合併したから、この行事はやらないよ、
もうしないよ、じゃなくて。逆に、合併す
ることによって、わたし個人の考えとして
は、外部[=他の4集落]を引き込める
じゃないかなと。いままで[打詰に]来て
いない人たちが、同じ活動のなかでするわ
けだから。[打詰自治会から、行事への]招
待の案内を、ずっと他の自治会長さんがた
に送っているんだけど、結局いままでは打
詰自治会主催だった。でも辺塚全体で主催
研究所年報 45 号 2015年3月(明治学院大学社会学部付属研究所)
するとなると、自然と、招待じゃなくて、
当事者としてやっていかないといけないわ けだから。
小坂さんは、自治会の統合によって「楽をす るんじゃないかなと、わたしは個人的に思って いる」とさえ述べて、辺塚地域の自治会の合併 について明るい見通しを示していた。
以上のように、打詰においても佐多地区の他 の集落と同様、若い世代が居住して生計を立て ていく経済的条件を見出すことは難しく、住民 の高齢化は著しい。しかし打詰では、農漁業や 狩猟など生業による自給的なエコノミーが存続 しており、また「おすそ分け」「交換」あるいは 共同作業を通して生業を基盤とする集落内の強 い紐帯が維持され、高齢化のなかでも自治会の 活動内容や活動資金が痩せ細っていないことが うかがわれる。
4.おわりに
まとめよう。
尾波瀬は、出稼ぎが終焉した後、歴史的に生業 であり続けてきた漁業によって住民が生計を立 てることが難しいこともあって、人口の流出に 歯止めがかからなくなった。尾波瀬では過疎化と 高齢化の進行にともなって、集落内の紐帯や自 治会の活動も弱まってきており、地域おこしの 見通しも立っておらず、地域社会の将来におけ る維持・存続が危機的状況にあるといえよう。
いっぽう打詰も、多くの現金収入が必要な若 年層が歴史的な生業である農業や漁業・狩猟に よって生計を立てていくことは難しく、住民の 高齢化は著しい。だが打詰では、生業によって 食料の集落内自給が一定程度維持されており、
さらには生業を基盤とする集落内の紐帯や自治 会の活動が再生産され続けている。打詰におい ては、近い将来に地域社会が崩壊するリスクは
低いと思われる。
このように、本稿がとりあげた佐多地区の2 集落は、ともに住民の高齢化率が50% をはるか に上回る「限界集落」であり、過疎化と高齢化 にともなって生じる共通の問題をいくつもかか えている。他方で、将来における地域社会維持 の見通しに関して、両集落には対照的な条件も 存在している。
冒頭でも述べたように、本稿の記述はわずか 1週間程度の現地調査でえられたデータに基づ いており、ここで示した認識はあくまでも仮説 的・暫定的な水準にとどまるものである。たと えば尾波瀬において、今後なんらかの内的・外 的要因がきっかけで、住民の紐帯が再び強まる 可能性や経済的な活性化が実現する可能性も、
まったくないわけではない。また辺塚地区にお いても、打詰以外の集落で本格的なインタ ビュー調査をおこなえば、本稿が参照した小坂 さんの見解に対する異論が出る可能性も排除で きない。
ただ、本稿の部分的・断片的な認識からも、
次のことは指摘できるだろう。高齢化率の単純 な量的規定に基づく「限界集落」という枠組み によって、地域社会の崩壊や集落の消滅の危険 性を推し量る認識方法は、決定的な限界をもっ ていることである
(1)。
あまりにも当然のことではあるが、高齢化が 進行している地域社会が将来にわたって維持さ れるかどうかは、生業をめぐる状況、住民の紐 帯の状況、自治をめぐる状況など、相互に関連 するさまざまな条件をみつめながら、個別的・
内発的に考察されねばならない。たとえば、若
い世代がUターンして生計を立てていくことが
困難な状況に置かれていても、現住者である高
齢者たちが生業による集落内自給や集落内の紐
帯・自治をある程度再生産していれば、都市部
に就職していた集落出身者たちが定年退職後に
──あるいは定年前にでも──Uターンしてく る条件は維持され、地域社会崩壊のリスクは格 段に低まるであろう。
わたしたちは、集落やその住民の個別的状況 に寄り添うことのないかたちで行政サービスの 統廃合や法的措置の発動が進められ、地域社会 の内発的な諸条件を奪っていく方向にだけは、
進んではならないのである。
【付記】
引用文中で筆者が補足した部分には[ ]を付 しています。上籠一昭さん、小坂忍さんをはじ め、調査にご協力いただいた佐多地区のみなさ まに、心から謝意を表します。調査全般のサ ポートに尽力された石井大一朗さん、インタ ビューデータの文字起こしに協力された斉藤雅 哉さんにも、深く感謝いたします。また、2010
~2012年度特別推進プロジェクトの成果に基づ く本稿は、ほんらい本誌42号か43号に掲載され るべき報告でしたが、諸般の事情により執筆が 遅れ本号掲載となったことを、関係各位にお詫 びいたします。なお、本誌掲載に先立って、本 稿の英語版にあたる Ishihara(2014)が刊行さ れているので、参照いただければ幸いです。
【注】
(1) ちょうどわたしたちが佐多地区での2度目の 現地調査に向けて準備を進めていた2012年1 月、山下祐介の新書『限界集落の真実──過疎 の村は消えるか?』が刊行され、社会学のアカ デミアの枠を超えて話題をよんだ。現代版イ エ・ムラ論に基づく「集落の主体性」の復権を 唱える山下と、筆者はかならずしも理論的前提 を共有するものではないが、行政区単位の高齢
化率という単純な量的規定に基づく「限界集 落」論に対する山下の批判は(山下 2012 20- 40)、筆者も共有するものである。
【参考文献】
浅川達人、2013、「<つながり>の位相とフードデ ザートの問題──東京都港区と鹿児島県南大 隈町佐多地区を事例として」『研究所年報』43 号、明治学院大学社会学部付属研究所。
半澤誠司、2013、「南大隅町佐多地区の産業構造」同 上『研究所年報』43号。
Ishihara, Shun, 2014, Livelihood and Autonomy in the 2 Villages of Sata District, Minamiosumi, Kagoshima: A Consideration of Conditions for the Sustenance of Regional Society, The Phase of “Relationships” in the Contemporary Japanese Society: for the Construction of Modern Co-operation Systems, The Research Project Report Funded by Institute of Sociology and Social Work, Meiji Gakuin University.
箕曲在弘、2013、「佐多地区にお住まいの方の意識 調査──身近な人とのつながりと食事に着目 して」前掲『研究所年報』43号。
水谷史男、1987、「出稼ぎと家計」渡辺 栄・羽田 新 編『出稼ぎの総合的研究』東京大学出版会。
長濱一夫、1987、「出稼ぎと地域生活」同上『出稼 ぎの総合的研究』。
佐多町誌編集委員会 編、[1973]1990、『佐多町誌』。
佐多町誌編集委員会 編、2005、『佐多町誌 追録』。
牛島千尋、1987a、「鹿児島県の出稼ぎ地帯と佐多町」
前掲『出稼ぎの総合的研究』。
牛島千尋、1987b、「対象地区の概況」同上『出稼ぎ の総合的研究』。
牛島千尋、1987c、「出稼ぎと家族生活」同上『出稼 ぎの総合的研究』。
山下祐介、2012、『限界集落の真実──過疎の村は 消えるか?』筑摩書房。