資科
最近の佛國政治事情
松尾正路
三六年六月以來の所謂人民職線なるものがフランスの財政維濟の危機を深め︑文化の諸領域に於ても或る種
の沈滞と疲勢をもたらしたことは︑巴里の日常生活に於ける直接経験として否み難い事實であつた︒まことに
フランス人民職線の最初の一ヶ年は︑これらの危機と政治的不安に加へ︑スペイン職争の砲聲と猫逸の擾頭に
怯えた曙澹たる一ケ年だつた︒
ブリユムに課せられた総括的な問題は︑彼自身がその首頭である枇會窯と急進肚會窯及び共産窯の支持の下
に如何なる程度まで彼の政治的就會的改造がフランスの奮ブルジヨア就會機構の申で實現され得るか︑といふ
根本的な問題に懸つてゐた︒然るに︑ブリユム内閣成立當時︑フランスは︑各種重要産業はもとより︑水泳場
の從業員に至るまで︑一般勢働大衆の大罷業の渦申にあり︑また既にラヴアルのタフレ政策の結果と七て︑略ブ
最近の佛國政治事情(松尾)一四一
一四一.一
リユムの肚會経濟政策を困難ならしめる幾多の曙礁が待つてゐたのである︒更に﹂人民戦線を支持するフラン
次の肚會贋と︑これを代表す乃政治勢力の分配は董わそれの利害と要求に於て將來の分裂を豫想させるもので
あり︑ラランスの就會全般が重苦しい室氣につ﹂まれてゐた︑そこには日本のある入達が信℃でゐたやうな人
民職線的麦化とも樗すべき文北葡撚情瀞揮動倣見當らす︑輕濟不況に瑞ぐ巴里市民の無氣力が目につくばかり
だつた︒
人民職線と政蕪.︑
︑ヤ∵し'
三武年五月四日総擢墨の結果は下院議損六一八名申︑急進就會黛(寄島o器N8∩竃剛ω8¢)}一五名︑継會窯(QゆOO一陣嵩qD再⑦oo口昌剛h四中ω)一四六名︑共産窯(O︒ヨヨき馨︒︒︒)八二名︑となり︑多歎蕪の赴會窯首領レオン.ブリユム
がサロオ内閣の後を受けて首相となり所謂人民職線内閣を組織した︒この内閣は大臣数二十名の申鴇祉會窯一
一名︑急進就會窯九名︑共産窯は蕪書記長モリス・トレーズの名をもつて入閣を拒否︑閣外にあつて薪内閣を
支持する方針をとつた︒
上記の如く入民職線を構成する政窯は急進批會窯注肚會窯が︑伯仲︑共産窯は最下位にあるが︑この藪字の
分配は必すしも各政窯の思想傾向や政治勢力の表現どなつてはゐない︒左翼思想を申心として考へる場合︑共
産窯から最も遽距離にあるのは急進就會窯であつて肚會窯ではない︑即ち右に急進肚會窯︑左に共産窯を持っ
杜會窯は︑その右端が急進就會窯︑の急進分子と左端が共産窯の右翼分子から成るフランス左翼政窯の申軸であ
つて︑一九=一年︑ジヨレス︑トーマ︑ルノーデル等によつて組織されたものである︒ジヤン︒ジヨレス以來
入道主義的肚會主義をもつて出嚢したとの就會窯が︑その革命的な思想にも拘らす︑第三インクーナシオナル
共産窯の革命主義からな全く猫立したフランス就會主義を現してゐることは云ふまでもない︑︑一九二〇年肚會
窯が毎スねーに代表者を逡り︑・爾後コムインテルンの支駕を受けるや否やの大問題に逢着した時︑就會窯の大
分裂が始り︑現在の共産窯が生れたのである︒経濟組織の改革を主眼とし︑ジヨレスの入道主義的立場にあつ
たブリユムはヴオルシエヴイスムを拒け︑危機に瀕した肚會裳内に止まつた︒ブリユムが文藝欄を澹當した
﹁ユーヤ昌テ﹂はこの時以來共産窯の機關紙となり︑就會蕪の機關紙は﹁ポピユレール﹂に攣つた︒現在就會
蕪の地盤はフラシスの北部︑申部︑リヨン等工業地嘔の組織化された榮働大衆であるが︑大工業を持たな塾南
蔀地方︑ローヌ︑プロヴアンスに及び︑この地方の急進的な農民小地主をも加へてゐる︒
急進肚會黛は所謂小市民的もしくは小ブルジヨワ的枇會主義といふ意味で最もフランス的な政窯である︒肚
會的生活的には保守的な現實主義者でありながら思想的には左翼の味方として︑時には枇會窯の領域にまで進
出したり共産窯と握手したりする程の左翼的習性を持つてゐる︒然し多少なり坂謄な就會制度の攣革や改造が
實際問題として登場する場合︑つねに之に反封する人達である︒肚會窯とともに人民職線の二大陣螢を構成し
ながら︑ブリユムの全権委任案が︑殆ど急進肚會窯から成る上院で否決され届のはこの爲めである︒急進肚會
當而の地盤は農村都市︑殊に地方小都市の大ブルジョワでもなくプロレタリアでもない人達である︒
人民職線の戌立と大罷業
人民職線政府の肚會政策は當時の逼迫した敢會情勢から甚大な影響と支配を受けた︒三六年五月二六日︑ブ
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ラγスの金屡工業地匿︑サy.︾ウアン︑ルヴアロア︑'フルベイユ︑ぜラツクール等にW彼生心た罷曲業は次第に
総罷業工場占擦の形勢をとるに至つた︒六月二日には巴里の金属工場一九六が勢働者の手に落ち化學工業︑印
刷︑食料品工場にまで及んだ︒ブリユ錠内閣が成立した六月四日︑巴里地匠の罷業金屡工場三〇〇︑その他石
柚︑製紙︑織物工場︑トラツク︑一部のカフエ︑レストランまで罷業に参加した︒巴里赤色地帯では警官隊が
非常警戒線を張り︑地方では憲兵隊が治安維持に當つた︒五日の新聞﹁ユーマ昌テ﹂はフランネ全國の罷業者
総藪五十萬と計算してゐる︒六日の朝は﹁ユーマニテ﹂﹁ポピユレール﹂を除き巴里新聞の休刊をみるに至わ
た︑九日︑十日︑十一日に至るまで︑リヨン︑ボルドす︑ルアン︑ヵかー︑.ヂイジ̀ヨン等︑ラランスの重要﹁都
市に於ける工場︑各種組合從業員は殆ど罷業に参加してしまつた︒
この大罷業と工場占擦は共産黛の地琶︑イスイ︑サン.手ウアンに端を嚢してゐるのであるガ︑此堤に人民
職線政府の政策として最も吾々の注意液便することは︑この大罷粟の渦中にあつてブリユムが共産蕪及びC.
G.T(勢働総同盟)に入閣を懲想したことである︒共産窯は﹁大衆の閣損﹂として人幌職線の合法的政府を
監親統卒するといふ立前から︑C.q.Tは一週四十時間制の即碍實行等を要求しつム︑いつれも正式に入閣
を拒絶したが︑この事實はそ⑱後のフラン久榮働者の心理に大影響を與へ一裾業の流行︑生産力の低下︑物債
騰貴に加へ外交上の危機に直面した人民職線政府が事實上の崩壊を飴儀なくするに至つた原因となつてゐゐ︒
ブリユムは政棲を握つた翌日︑罷業牢の勢働者側の要求︑團膿契約権︑有給休暇制︑一週四十時間制の即時
裁決を約束し︑六月七日︑ブリ芦ム及び内務大臣サラングロの斡旋により︑巴里地匠を合せ佐金薦機械工業者
側代表者(フランス産業聯盟)とC・G・Tの委屓之がオテル・マチ昌ヨンに會談も凋有名な︑マチニ弓ツ協
調﹂が成立︑殆ど艸労働者側の完全に近い勝利に絡つた︒C書G・T書記長レオン・ジ昌オ書は全フランスに向
ひ︑勢働者の薪時代出現をラヂオによつて叫び︑げ勢働者の生活條件は昇給三割五分に等しく改善された︑・と云
づでゐるが︑︑・﹁マチ昌ヨン協調﹂・では最低賃金一・割五分までの昇給となつてゐる︒
三七年の夏︑僕は度々附近の市螢室内プールへ泳ぎにでかけたが︑此塵の從業員も罷業の仲聞だつたことを
思び出し︑覧脆衣室め樂書にも當時の孚議風景をしのばせるものがあつて面白かつた︒ソヴイエツト派︑右翼︑
共和派等︑入り齪れたフランスの縮圖を示す観を呈してゐたが︑﹁全世界の﹂と書いた側に﹁レ
オン.︑ジユオーは艸労働者の尻馬に乗りた備善者である﹂・といふのがあつた︒僕はC・﹁G・Tの書記長が備善者
であるかどうかは知らないが内フランス全國に五百萬のメンバーを持ち︑あらゆる産業部門︑中小粕ハトηン階
級にまで挑職し︑罷業の指導者︑人民職線政府の監覗者となつてゐる﹁フランス勢働総同盟﹄は酒就會蕪の場
合と同様︑ソヴイエツト革命以來コム︑・︑ユニストとの間に分裂を生じ︑一九二一年リールの大會では戴然と二
派に別れた︒その後︑一九三四年二月︑プアシスト勢力に封抗︑合流の氣蓮を生じ︑三六年三月︑トウルーズ
の大會で正式に一團となり︑七月の犬罷業を指導したのである︒
一週四+時間制
人民職線政府の肚會政策申︑巴里の生活様式に最も直接的な影響を與へたものは何と云つても一週四十時間
制である︒四十時制は各種産業︑螢業者側に蜀して同時に施行されたのではなく︑最初は三六年十一月一日︑甲
炭坑榮働者に適用され︑漸次他の産業部門に及んだのである︒然し前述の如く︑逼迫した肚會状勢から生れ︑
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至急實施を飴儀なくされた爵め︑この四十時制も亦紛璽原因となつた︒㌃︹︑π,﹂︑f.'
三七年三月三十一日の施行令に依り︑,巴里では多く凹の商店が四月三巴(土曜)︑四日(日曜),五日(月曜﹀に
休業した︒即ち︑﹃週四十時間を一日八時間榮働として五日間に分配し︑︑残りの二耳N土曜日曜馬若くは巳曜,
月曜を休日(有給)乏する0である︒然るに四月二十日には巴里の各商業地匿の店員達が街頭に進出し︑﹁閉
めろ1閉めろー﹂と叫びながら四十時制の實施検察と示威運動を始め︑地方の都市では休日の午後開店した商
店に他の商店員の群が侵入︑即時閉店を迫るなど︑店主側の陣螢は法律と使用人の氣勢の前に平︑伏するばかの
であつた︒この時の小費商店に關する四十時間制は食料品店を除外したものであつたが︑螢働省は食料品店に
關する施行令を五月三日までに公布することを襲表してゐた︒これに封し食料品店組合は︑四十時制に伴ふ從
業員の増加︑債格引上︑螢業の特種性︑更に萬國博覧會の季節等を理由に反封し︑從業員側は︑西十時制が五
月三日までに施行されない場合は罷業断行の氣勢を示すに至つた︒一方には巴里の劇場,ジネマ︑︑︑︑ユジッ
ク︑ホール等の從業員が罷業を始め︑巴里市民を刺激したが︑﹁ジユルナル﹂紙によれば︑シネマ︑﹁︑萬ユロジッいク.ホールの部分的な閉塞を見たのみで︑︑劇場はすべて興業を櫃績した︒
萬國博覧會は遅くも四丹にば開かれると聞いてゐたが︑五月末になほ肋骨を青空に曝し︑セメントの塵と用
材の山の申に投げ出されてゐた︒七月を過ぎ八月に至るも各種のイノグユラシオン︑が行はれ︑完成されたのが
何月何日であるか巴里人さへも知らないq勿論その聞入場は許されてゐたが︑結極赤字を生んで閉塞した︒博
覧會工事の大逞延の理由は︑先づ博覧會の性質が失業救濟を目的とした魅會事業であり︑封外的な意味よりゑ
多く封内的事情に由來してゐたこと︑從つて國家の名魯の下に奉仕的な螢力を榮働者に要求することが不可能