: 川崎市ふれあい館を事例に
著者 塩原 良和, 原 千代子
雑誌名 PRIME = プライム
号 33
ページ 47‑62
発行年 2011‑03
URL http://hdl.handle.net/10723/1028
1.はじめに
日本社会に住む外国人住民の増加にともない、
多文化共生への取り組みの重要性が認識されるよ うになって久しい。だが行政の施策の整備はいま だ十分とはいえず、外国人住民支援の現場は市民 団体の活動によって担われている。外国人住民支 援に取り組む団体には財政規模が比較的小規模な ものが多く、その結果、人的資源の極めて大きな 部分をボランティアに依存しているのが現状であ る。東京外国語大学多言語・多文化教育研究セン ターが2007年度に東京都内で外国人支援に取り組 む団体を対象に行ったアンケート調査では、17の 市・区の国際交流協会のスタッフ133名のうち、
常勤47名に対して非常勤が40名、無給が46名で あった。また11の
NPO・市民団体のスタッフ130
名のうち専任はわずか18名で、24名が非常勤、無 給は88名にのぼった(1)。大学教員である塩原が人材確保に苦労している 支援団体の関係者に会うと、ボランティアをして くれる大学生を紹介してほしいとよく頼まれる。
外国人住民支援団体の職員である原からみれば、
大学は若くて優秀な人材の宝庫である。もちろ ん、人手不足だからといって支援現場に大学生ボ ランティアを送り出すことが対症療法に過ぎない ことは、塩原も原も十分承知している。行政の外
国人住民支援・多文化共生施策が質量ともに充実 し、専門的技能を持った人材が養成され、適切な 処遇をもって働くことのできる環境が整備されな ければ、人材不足の問題は根本的には解決されな い。長期的にみれば、大学が熱意にあふれて若く 優秀な多数の学生を支援現場に送り出すことは、
外国人住民支援活動がボランティア依存から脱け 出すことを妨げる結果になりかねない。
しかし、たとえば外国につながる子どもたちの 支援の現場では、施策が整備され予算化されるま で待つ時間的余裕はない。目の前の子どもの学力 をどう保障するか、受験をどう乗り切るか、不就 学やいじめにどう対処するかといった難題に取り 組む支援現場からみれば、即戦力の大学生ボラン ティアを確保することは重要であり、現に多くの 支援現場で大学生が活躍している。外国につなが る子どもたちのなかには、ふだん日本人の同年代 の若者に接していなかったり、日本の大学に通っ た経験のある知人や家族がいない人も多い。その ような子どもたちがボランティア大学生と接する ことは、ロール・モデルの獲得という意味で好ま しいという指摘もある。
また支援現場でのボランティアは、学生に大学 のキャンパスでは得られない知的・人間的な成長 の機会を与える。それゆえ大学教育にとっても、
支援現場に学生を送り出すことには大きな意義が ある。日本語教育を教える者にとっては、支援現 研究ノート
外国人住民支援現場と大学教育の「協働」の可能性
─川崎市ふれあい館を事例に─
塩 原 良 和
(慶應義塾大学法学部)
原 千代子
(社会福祉法人青丘社ふれあい館職員)
場は絶好の実習の場であるし、塩原のように社会 学を教える者にとっても、外国人住民をめぐるさ まざまな問題に日々直面している支援現場は学生 にフィールドワークをさせるのにうってつけであ る。学生は現場において、キャンパスでは学べな い実践的な知を身につけるのであり、そのような 機会を学生に提供することはいまや大学への社会 的要請のひとつである。ただし、大学生への教育 的効果を重視するあまり、教員が支援現場を大学 教育にとっての「教材」とみなしてしまうことも 起こりうる。教員の思惑と支援現場の事情が乖離 した結果、支援現場の側が大学に「利用されてい る」という不信感を抱いてしまうこともある。
外国人住民支援の現場と大学教育とのボラン ティアを介した連携には、支援者、教員、大学生、
そして何よりも外国人当事者自身にとって、ニー ズとメリットがある。そうであるからこそ、単な る「実習場所・教材」「ボランティアの供給源」
にとどまらない「協働」のあり方を模索するべき である。そこで本稿では「川崎市ふれあい館」で 実施されている、外国につながる子どもたちの支 援事業を事例に、外国人住民支援の現場と大学教 育との協働がもつ可能性について考察する。ふれ あい館およびその運営母体である社会福祉法人青 丘社は、川崎市川崎区桜本において20年以上外国 人住民支援を行ってきたが、2007年度より東京外 国語大学との連携を開始した。そしてそこから派 生した人的つながりから、現在では慶應義塾大学 の学生とのあいだにつながりが生まれている。本 稿はふれあい館の職員である原と、東京外国語大 学でふれあい館との協働事業に従事し、現在は慶 應義塾大学の教員である塩原が、それぞれ支援現 場と大学教育の視点から、自分たちが関わったふ れあい館の実践を分析したものである。
ところで、「協働」という言葉は行政用語とし て頻繁に用いられるが、多文化共生・外国人住民 施策をめぐる議論では、行政とボランティア団
体・NGO(NPO)、企業などが対等な立場で協力 関係を築くことを意味する場合が多い(2)。社会 学者の渡戸一郎は市民活動による外国人住民支援 を論じるなかで、「協働」を「異なる主体が、対 等の立場で、限定された問題・課題に対して認識 を共有し、一定の期間連携して取り組むこと」と 定義する(3)。東京外国語大学多言語・多文化教 育研究センター長であり元浜松市長の北脇保之 は、「協働」を社会関係資本、すなわち「信頼、
規範、ネットワークなどの社会的仕組み」を創る 過程と位置づける(4)。これらの定義は大変示唆 的であるが、大学教育の文脈では、「協働」を異 なる主体間の対等なつながりにもとづく共同作業 としてのみ定義するのは不十分である。なぜな ら、教員が自らの教育実践として大学以外の場や 組織に関わるのは、大学の中だけではなしえない 教育的効果を新たに「創り出す」ことを望むから である。そうでなければ、そもそも協働する必要 はない。本稿の考察は、協働の定義に「いっしょ に何かを創り出す」実践という要素を加味する必 要性を提案することも意図している。
2.川崎市ふれあい館と中高生学習サポート
川崎市ふれあい館がある川崎区には市内でもっ とも外国人住民が集中しており、2010年3月末現 在、市の外国人登録者総数(32,614人)のうち約 37%の12,007人が住んでいる(5)。外国人生徒も 多数在籍しており、市内で外国人生徒が多い小学 校・中学校の上位10校は全て川崎区内にある(6)。 区内の学校に通う日本語指導が必要な児童・生徒 のうち、もっとも多いのはタガログ語を母語とす る生徒であり、2006年度では小学校では36名中21 名(58%)、中学校では26名中15名(58%)を占 めた(7)。
1988年、それまでの約10年に及ぶ在日韓国・朝 鮮人の人権保障を求める市民運動の積み重ねの成
果として、川崎市ふれあい館が川崎区桜本に開設 された。ふれあい館は川崎市が設置し、社会福祉 法人青丘社が運営している。その目的は「日本人 と韓国 ・ 朝鮮人を主とする在日外国人が、市民と して相互のふれあいを推進し、互いの歴史、文化 等を理解し、基本的人権尊重の精神に基づき、共 に生きる地域社会の創造に寄与する」ことであ る(8)。そうした目的のために、1988年には在日 韓国・朝鮮人1世を対象に識字学級を開設した が、そこに国際結婚をしたフィリピンやタイの女 性たちも大勢参加するようになった。原はふれあ い館の職員として識字学級を担当していたが、当 初は彼女たちのことを「日本語がわからなくて日 常生活が大変そうだ」と表面的にしか理解してい なかった。しかし、1998年にふれあい館にフィリ ピン人職員が雇用されたことがきっかけとなり、
不平等な国際結婚の関係、在留問題や悩みの深刻 さを認識するようになった。
識字学級に参加するようになってから10年ほど たち、日本での結婚生活がやや安定した外国人妻 たちは、本国に残してきた中学生期の子どもたち を呼び寄せるようになった。そこでふれあい館で は、子どもを学校につなげ、定住しやすくするよ うに取り組みを始めた。しかし、生活に必要な言 語能力(生活言語能力)は渡日1・2年である程 度身についたとしても、学校の授業を理解するた めの教授言語(学習言語能力)を独力で習得する のはむずかしい(支援現場では、生活言語能力の 習得には2年ぐらい、学習言語能力の習得には十 分な支援システムがあっても5年ぐらいかかると 言われている)。また、中学生の時期に渡日した 子どもたちは、準備不足のまま高校進学などの進 路を決定する時期を迎えてしまう。母親からのこ うした相談にできる限り対応していたが、個別の 対応ではおさまりきれなくなった。
そこで2004年、ふれあい館に地域在住の教員や 識字学級を手伝っていたボランティアが集まり、
中学生学習サポートが始まった。公的な事業とし ての位置づけも予算もない、ふれあい館の自主事 業であった。2010年7月現在、ふれあい館の学習 サポートに参加する外国につながる中高生は28名 で、渡日後1年〜3年間の子どもが約8割を占 め、一番長い子どもでも数年である。子どもたち の多くは中学生の時期に渡日し、3年も経たない うちに高校受験に直面する。こうした子どもたち の学習を効果的に支援するためには、学習サポー トの内容を質量ともに一層整備していく必要性が あった。
3.支援現場からの視点〜新たな協働の場の創出 へ
(1)協働実践研究プログラムへの参加
2007年、それまで国際交流協会に勤め、外国人 住民支援に関わる広範なネットワークをもってい た人物が新たにふれあい館の職員になった。その 職員の提案で、原とふれあい館は東京外国語大学 多言語・多文化教育研究センターが実施する「協 働実践研究プログラム」に参加することになっ た。
多言語・多文化教育研究センターは、外国につ ながる子どものためのボランティア活動を行う大 学生を支援するため2004年10月に設置された多文 化コミュニティ教育支援室(文部科学省「現代的 教育ニーズ取組支援プログラム」として採択)を その前身とし、「多言語・多文化社会における問 題解決に寄与することを活動目的に」2006年4月 に設立された(9)。2007年当時、同センターには 専任のプログラム・コーディネーター、塩原を含 めセンターの業務にほぼ専念する専任教員2名、
フルタイム・パートタイムあわせて10名前後の職 員が活動しており、いわゆる「多文化共生」に特 化した大学の教育研究組織としては特筆すべき規 模と予算を有していた。
協働実践研究プログラムは、多言語・多文化教 育研究センターの中心事業のひとつとして2006年 9月に開始された。このプログラムは、「いまや ますます複雑な様相を呈している日本社会の多言 語・多文化状況を把握し、問題に対処していくた めに、さまざまな分野の人々が対等な立場で協働 する」ことを目的とし、経済、教育、法律、医療、
行政など、各分野の実務家および大学内外の研究 者が参加している(10)。2007年度からは5つのテー マごとに研究班が編成され、「多言語・多文化社 会における諸課題を解決するための行政・地域社 会・市民・企業間の連携・ネットワーキングのあ り方や、人材の専門性や人材養成のあり方、そし て多言語・多文化社会に求められる『市民』のあ り方などについて」、それぞれの地域・領域にお いて行政や実践者と連携しながら実践・研究を進 めることになっていた(11)。
同プログラムに加わったことで、ふれあい館は 川崎市の行政や大学の研究者とのネットワークを 発展させていくことになった。ふれあい館を主な フィールドのひとつとし、様々な地域や分野で外 国につながる子どもの教育に関わっている人々が 参加した研究班がつくられた。原と塩原も加わっ た研究班では、川崎区の外国籍の子どもたちの現 状を分析し、各々の知識と経験知と人脈をもちよ りながら①学習支援に関わるボランティアの確 保、②外国籍の子どもの課題を整理するための、
地域における支援者間の対話の創出、③地域の中 学校との連携の推進といった課題に取り組んだ。
①学習支援に関わるボランティアの確保
日本における外国人児童生徒を支援する市民活 動の多くは、ボランティア支援者に依存してい る。ふれあい館の学習サポートも例外ではなく、
恒常的なボランティア不足に悩まされていた。塩 原は、自身が東京外国語大学教員として統括を担 当している多文化コミュニティ教育支援室に登録
した学生ボランティアをふれあい館の学習サポー トに送り出すことを提案した。しかし、府中市に ある東京外国語大学と川崎市ふれあい館の距離の 遠さもあり、学生にボランティアとしての参加を 継続的に促すことは困難であった。そこで2008年 度からは、やはり塩原がコーディネートを担当 し、多言語・多文化教育研究センターが開講して いた学部生向け講義コース「Add-on Program多言 語・多文化社会」の実習として、ふれあい館が学 生を受け入れることになった。実習に参加した大 学生は少人数ではあるが非常に熱心であり、大半 が実習が終わった後もボランティアを続けた。多 文化コミュニティ教育支援室は、ふれあい館まで 通う交通費を補助することでこうした学生をサ ポートした。外国につながる中高生にとって、年 齢の近い「お兄さん」「お姉さん」的な存在で、
英語やその他の語学にも堪能な大学生が親身に勉 強を教えてくれる機会はとても貴重であった。ま た大学生にとっても外国につながる子どもたちの 社会状況や想いを肌身で学び、自ら実践に参画す る場になっていた。
②外国籍の子どもの課題を整理するための、地域 における支援者間の対話の創出
協働実践研究プログラムへの参加以前にも、ふ れあい館と川崎市の間にはフィリピン人の子ども たちの教育相談を協力して行うなどの連携があっ た。2007年度には、市の総合教育センタ─に相談 しにきた川崎区のフィリピン人中学生に、タガロ グ語で作成されたふれあい館学習サポートの案内 が配布されていた。しかし、そうした連携は総合 教育センターとのあいだにとどまっており、市内 の学校とのネットワークを広げていくことが課題 であった。
そこで協働実践研究プログラムでは、川崎市総 合教育センターとの共催で市内の小中学校の教員 研修を兼ね、外国につながる子どもたちの抱える
課題を一般市民を交え討論する機会を開催する場 を 設 け る こ と に し た。 こ う し て2007年10月 に
「「楽・ふれあい・トーク」─目の前の外国につな がる子どもたちに私たちができることを─」とい うワークショップがふれあい館で開催された。小 中学校の教師、日本語指導等協力者、ボランティ ア、地域住民など多様な人々が参加し、外国につ ながる子どもを支援する際の課題をどのように解 決するかが活発に話し合われた。2008年10月には、
川崎市国際理解教育担当者会を兼ねたより大規模 なフォーラムを開催し、全市関係者に参加を促し た。フォーラムではふれあい館の学習サポートの 現状も報告された。こうした教員研修も兼ねた公 開討論の場で学習サポートの取り組みが紹介され ることで、ふれあい館の活動への理解と関心が深 まることになった。
③地域の中学校との連携の推進
先述のようにふれあい館の学習サポートには、
近隣の高校教諭らがボランティアとして個人的に 参加している。しかし、サポートしている子ども たちの多くが在学する川崎区内の中学校との連携 は進んでいなかった。そこで2008年9月から、総 合教育センターなどの仲介で川崎区の国際教室担 当の学校教員が集まる「川崎区日本語担当者会」
にふれあい館が参加することになった。そして 2009年度には「サポートノート」という帰国・外 国人児童生徒支援活動が試みられた。これはひと りの外国につながる子どもの学習記録を、その子 が小学校から中学校、高等学校へと進学する際に 引継ぎ共有することと、学校と日本語指導等協力 者、地域の支援者のあいだで共有することを目指 したものであった。情報共有の過程で現場の情報 交換や異なる立場から率直な意見交換が行われ、
連携を深めることが目指された。
また地域内にあるK中学校との情報交換会が継 続的に開かれるようになった。この中学校の国際
教室に在籍している6名のうち、フィリピン人生 徒4名がふれあい館の学習サポートに通ってい た。情報交換会では、学校、家庭、地域における 具体的な子どもの状況、進路に向けた学習内容等 を話し合われた。情報交換により、子どもの多面 的な姿が把握されるようになり、生活面の支援
(不登校の子どもへの働きかけなど)での連携も 始まった。また子どもたちが学習した内容につい ては1週間ごとにファクスで情報交換しあい、受 験対策等に活用するようになった。
(2)協働の場の制度化
ふれあい館の協働実践研究プログラムへの参加 は2008年度にひとまず終了した。しかしその後 も、東京外国語大学とは
Add-on Program
実習の 受け入れや、大学生ボランティアについての多文 化コミュニティ教育支援室との協力などで継続し た。また、原は多言語・多文化教育研究センター が2008年度に開始した「多文化社会コーディネー ター養成講座」を受講した。同講座をつうじて原 は行政や大学、学校間の協働の重要性を改めて認 識するとともに、問題意識を共有する他の受講者 や講師とのつながりを深めた。なお同講座には、塩原も運営委員として参加していた。
2009年度、ふれあい館は文部科学省「定住外国 人の子どもの就学支援事業」の委託を受けた。2010 年からは事業が拡大され、不登校、不就学、学齢 超過者を対象とした「学習サポート教室かわさき」
という学習・就学支援の取り組みが開始された。
6月には、ふれあい館が事務局となり「定住外国 人の子どもの就学支援事業」推進連絡会議を発足 させた。これは、川崎市総合教育センターや川崎 区とふれあい館における事業の連携を強化してい くことを目指したものである。協働実践研究プロ グラムの研究班の主要メンバーの多くが同会議に も参加しており、ふれあい館の今後の外部との連 携の取り組みの中心となることが期待される。
4.大学教育からの視点〜学生の実践と省察の場 の創出へ
塩原は東京外国語大学多言語・多文化教育研究 センター専任教員として協働実践研究プログラ ム、 多 文 化 コ ミ ュ ニ テ ィ 教 育 支 援 室、Add-on
Program
多言語・多文化社会などの運営に携わった。同センターの活動の特色のひとつは、ふれあ い館のような学外の団体との連携と学部教育実践 を連動させる点にあった。大学生はキャンパス内 で、Add-on Programの講義やセミナー・ワーク ショップなどで日本の外国人住民の置かれた状況 や外国につながる教育の課題、多文化共生に関す る理論や政治など、さまざまな知識を学んだ。そ のような学生を実習やボランティアとして支援現 場に送り出すことで、学生たちの認識をより深め ることが目指された。
(1)より柔軟で継続的な関与へ
実際、大学生をボランティアとしてふれあい館 をはじめとする支援現場に送り出すことには、大 きな教育的効果があった。学生たちは、外国につ ながる子どもたちと実際に交流し、対話すること で、文字通り教科書どおりには進まない現場の実 態に戸惑いながらも、多文化社会状況に対する洞 察を深めていった。Add-on Programは、100人以 上が履修する中・大教室科目から数人が履修する 演習まで、約20の半期2単位の科目群によって編 成されており、1年次から複数年を費やして合計 20単位を取得した学生に独自の修了証が授与され ることになっていた。ただしそれらの科目群は東 京外国語大学の正課の授業科目であったとはい え、一般教養科目の扱いで必修ではなかった。
実習科目はプログラム修了に必要な単位をほぼ 修得した学生のための総仕上げと位置付けられ、
春学期と秋学期にそれぞれ開講された。実習に参 加した学生は学期のあいだ毎週1回程度支援現場 に通い、ボランティアとして活動に参加しつつ、
そこで得られた知見をプレゼンテーションやレ ポートとして提出することで2単位を取得した。
し か し 実 習 を 履 修 す る た め に は 他 の
Add-on
Program
の科目の大部分を既修済みであることが条件とされ、必修科目ではないのにもかかわらず 厳しい履修制限が課されていた。そのため実際に 支援現場で実習を行う学生はごく一握りに留まっ た。塩原は
Add-on Program
全体の統括も担当し ていたが、このように大規模かつ体系的な科目群 で構成されたプログラムの一環として実施する以 上、実習を履修した学生すべてが平等にボラン ティアに参加できるようにしなければならない。しかしそのようなアレンジメントは支援現場側か らは「毎回違う大学生がボランティアにやってき て、顔も覚えないうちに次の大学生に代わってし まう」といった印象を与えることになった。それ はボランティアと支援団体・当事者のあいだに親 密な関係性を築こうとする現場の意思とはそぐわ ないものであった。さらに授業期間が終わった後 まで学生を拘束することはできず、学生がボラン ティアを継続するかどうかは完全に自発性に任さ れた。この点も、より継続的な参加を望む支援現 場の意向に反することがしばしばであった。この ように実習は、大学全体のカリキュラムや教員の 勤務体制との兼ね合いのなかで、教員にとっても 支援現場側にとっても裁量の余地が少ない体制で 実施せざるを得ない部分があり、それが大学教育 と支援現場の関係を深める妨げになっていた。
2008年10月、塩原は東京外国語大学での任期を 終えて慶應義塾大学に着任した。多言語・多文化 教育研究センターの業務にほぼ専念していた前任 校とは異なり、慶應義塾大学ではゼミ(研究会)
を担当することになった。慶應義塾大学法学部の ゼミは、3・4年生が2年間続けて履修し、授業 運営において教員の自由度が高いものであった。
半期もしくは1年単位の講義履修が主流の日本の 大学にあって、この授業形態は学生が長期にわ
たって現場に足を運び、外国人当事者や支援者と の信頼関係を構築して実践を行うのに適してい る。そこで、大学生の多文化社会・多文化共生へ の学びを深めると同時に、支援現場の意識や状況 にもプラスの影響をもたらすような協働の実践を ゼミの活動として行うことを、2008年の冬に塩原 は学生に提案した。もちろん、当初から大学生た ちが私の意図をすべて理解したわけではなかっ た。しかし議論を重ねるうち「外国につながる子 どもたちとの対等な関係性づくり」をテーマにし て実践を始めることに決まった。ひとりの学生 が、この実践に「FRIENDSプロジェクト」と名 付けてくれた。
(2)「異文化経験」の意味
2009年度に新たにゼミに加入した学生を加え、
FRIENDS
プロジェクトは動きはじめた。制約の少ない授業形態を活用し、教員があらかじめ活動 内容を決めることを極力避け、学生が現場に足を 運ぶなかから自分たちに何ができるか、何がした いのかを考えるように促した。学生たちのほとん どは、外国につながる子どもたちと実際に接した 経験がなかったため、まず春学期にフィールド ワークを実施し、秋学期に外国につながる子ども たちとの実践を行うことだけをあらかじめ決めて おいた。フィールドワークの受け入れ先を決める 際、東京外国語大学在任時に担当した実習授業の ように明確な目的を教員が設定しているわけでは ないので、受け入れ先団体が私たちのフィールド ワークの意図が分からず戸惑う事態も考えられ た。したがって、受け入れ先団体を選ぶ際には、
塩原とのあいだに既に一定のつながりがあり、先 方から信頼してもらえるところを選ぶ必要があっ た。そこで塩原は原に依頼し、ふれあい館学習サ ポートにボランティアとして学生を受け入れてい ただくことにした。
学生は、ゼミでの文献輪読やゲスト講義などで
日本の外国人住民の現状やふれあい館について予 備知識を得たうえで、2009年度の春学期にフィー ルドワークに臨んだ。しかし、ポール・ウィリス のいう「学校文化」を内面化しているゼミの大学 生たちにとって、まさに「反学校文化」を実践し ているふれあい館の一部の外国人中高生たちとの 出会いは、それ自体が「異文化経験」だったよう である(12)。塩原は学生のフィールドワークに出 来る限り同行し、学習サポートで大学生が中高生 に勉強を教える様子を観察していた。また参加し た学生全員にフィールドノートを書かせ、後日提 出させた。そのフィールドノートには、以下のよ うな記述があった。
サポートが始まって15分、こない生徒に携帯電話で連 絡。しかし返答もなく、「時間ちょうどにくることはあ んまりないし、来ても、何も勉強道具を持ってこないか も。ごめんなさいね」。勉強道具をもってこないで、何 をしに来るのだ!?
いよいよ勉強が始まる様子だ。だが、まだ落ち着かない ところはまったくそんな雰囲気ではない。あるラッパー は女の子といちゃつき、ある子は先生のことを大声で呼 び、またある子は戸棚の前で教科書を探す。そして僕は 途方にくれる
勉強が始まるかとおもいきや、教科書を開けば「吐き気 がする」といったり後ろの子に話しかけたり。ダンスが 大好きらしくダンス部に入っているそうだ。しかしもっ と他の団体でも踊りたい、またはそれを公の場で発表し たいらしい(13)。
また6月には、大学生たちは地域の子どもたち 300名ほどが集まる「ふれあい館まつり」に参加 し、外国につながる中高生たちとともに運営を手 伝った。
このように実際に外国につながる中高生と接し
てみて、ゼミの大学生たちはエスニシティや言語 の違いというよりも、上述した社会階層の違いに 起因する「学校文化」と「反学校文化」の違いの ほうにより違和感を覚えたようだ。実は、ゼミに 参加した学生たちの多くは「異文化経験」自体に は慣れていた。自分自身がいわゆる帰国子女で あったり、留学経験があったり、サークルで留学 生との交流活動を行っていたり、国際協力に関心 があり頻繁に海外に行くなどしていたからであ る。ただし、こうした「異文化経験」が、自分自 身が日本における社会的中・上層家庭出身者であ る自覚を学生に促すことは少なかったようだ。そ れに対して、ふれあい館に集う外国につながる中 高生たちの多くが、日本では非熟練労働に従事す る親のもとで育ってきた。たとえ日本語を(生活 言語としては)流暢に操っていても、身につけた ハビトゥスや文化資本は大学生たちのそれとは大 きく異なっている。年齢が比較的近く、日本語を 一見不自由ないように話す中高生たちであるほ ど、大学生にとっては自分が知っている「異文化 交流」の枠組みで理解することのできない不可思 議な他者のように見えていたようだ。
大学生たちのこうした反応は、ある程度予測さ れたものであった。しかし意外だったのは、ふれ あい館やそこに集う子どもたちに対してある種の 親近感を覚えた学生が一部にいたことである。そ のうち2名は、フィールドワーク期間が終わって も引き続きボランティアとしてふれあい館に関わ ることを希望した。塩原ゼミとふれあい館のその 後の連携がスムースに進んだのは、この2名がパ イプ役になってくれたことが大きい。
フィールドワークの期間が終わった後、夏休み にゼミの学生と今後の実践の方向性について話し 合い、秋学期のゼミでも引き続きふれあい館との 協働のもとで実践を行うことを確認した。ゼミの 学生たちは当初、大学生という自分たちの身分を 活かし、周囲に大学進学者が少ないふれあい館の
中高生たちの大学進学への意欲を高めるための実 践を行うことを考えていた。しかしフィールド ワークを行うにつれ、外国につながる中高生たち の置かれた社会経済的に不利な状況や家庭環境の 不安定さなどを目の当たりにし、大学進学だけを 目標に実践を行うことは、現場のニーズに必ずし も合致しないのではないかという認識を大学生た ちは抱くようになっていた。やがてゼミでの討論 は、ひとりひとりは優れた感性や意見をもち、人 生経験も比較的豊富な中高生たちが、日本社会の なかで自己を肯定し、主体的に生きるにはどうし たらよいのかを考えたいという方向に収斂して いった。こうして、大学生と外国につながる中高 生が一緒になって映像作品を制作する実践を行う ことになった。夏休みの準備期間の後、大学生た ちは再びふれあい館を訪れ、1ヶ月間ほどをかけ た映像制作実践が行われた。
5.協働がもたらした相互変容①〜大学生の気づ き
(1)関係性の逆転の経験
映像制作の実践は、学習サポートで勉強を教え ることよりも大学生たちに大きな影響を与えたよ うに思われる。勉強を教えるという状況では、大 学生たちは外国につながる中高生に対して優位な 立場を維持できる。教室に入ったとたん、大学生 たちは中高生から「先生」と呼ばれる。ゼミとし ての活動が終わってもボランティアとしてふれあ い館にかかわり続ける一人の学生は、このことへ の違和感を表明した(14)。外国につながる子ども たちとの「対等な関係性づくり」を目指してふれ あい館にやってきた大学生は、そこで「先生−生 徒」という非対称な関係性のなかに埋め込まれ る。そのような関係性からは「反学校文化」的な 態度をとる一部の子どもたちは「問題児」として しか捉えられなくなる。
しかし映像制作の実践には、大学生と中高生た ちとの関係を一時的に逆転させる効果があった。
あるグループは、ダンスが得意な女子高校生に大 学生たちがレッスンを受け、一緒に踊る様子を撮 影してミュージッククリップを制作した。幼い頃 から生活の中でダンスに慣れ親しんできたフィリ ピンの若者たちは、リズム感にあふれ、ダンスが 上手であった。ある大学生は、学習サポートの際 は学習意欲がなく、自分が厳しく勉強を教えてい た女の子が、振り付けをうまく覚えられない自分 に対して「スパルタ式」で熱心に振り付けを教え てくれたことに驚く(15)。別の大学生はダンスが 苦手で、高校時代に「ダンスにまつわる苦い思い 出」があった。外国につながる女子高生たちにし ぶしぶダンスを教わっているうちに、彼女は以下 のようなことに気づく。
嫌々物事を強制されることが、こんなにもつらいことだ とは思っていなかった。私にとってはダンスがそうだ が、彼女たちにとっては日本語や日本で暮らすこと自体 がそれに当たるのではないか、しかもその苦しみは私が ダンスをする苦しみとは比べものにならないほど大きな ものだということを痛感した。私は新宿区大久保のアジ ア人街の近くで育ったため、小学校の頃からニューカ マーの子どもたちと机を並べていた。しかし、そのとき もそれからも、彼らのことを理解できないでいた。日本 の学校にいるのに中国語だか韓国語だかで会話する彼ら に、不信感を抱いたこともあった。そんな、10年間も理 解できないでいた私の心の中にあったわだかまりが、ダ ンスを踊る、という一瞬の出来事の中で溶けていっ た(16)。
ゼミ生の別のグループは、外国につながる中学 生と自分の人生を振り返るワークショップを行 い、将来の自分に向けた夢を語ってもらい、その 様子をビデオレターに仕立てて子どもたちに
DVD
としてプレゼントするという実践を行った。しかし、実施の際には、ワークショップに来ると 約束していた子どもが来なかったり、新型インフ ルエンザの流行による中断があったりして、思う ように実践は進まなかった。ある女子大学生は実 践のあいだ、ひとりの男子中学生と親しく話して いた。彼はふれあい館に集う子たちのなかでも
「反学校的」と見なされているひとりで、いつも 大声で話し、ボランティアや職員に反抗的な姿勢 を見せることもあった。それでも最後のワーク ショップでは、その男子は将来についての自分の 夢を大学生たちに真摯に語ってくれ、大学生はそ の様子に感動を覚えた。しかし、実はその頃、男 子中学生は親との意見の食い違いで母国に単身で 帰国させられるかもしれない状況にあった。そのこ とを後から知った大学生は、次のように振り返る。
最後の回では、彼が私たち大学生の望むものを察知し て、私たちが期待することをしてくれたのではないかと 感じた。年齢は下だが、人生における経験値は間違いな く彼の方が多いのだ。それは例えば、親に対する反抗心 は強いが、その反面お姉さんのことをとても信頼してい て、そのお姉さんに対する愛情をストレートにする点か らも伺えた。中学生の男の子とは思えない程、しっかり していて、冷静だった。結局、彼に影響を受けたのは私 だったのではないだろうか(17)。
(2)自分たちを取り巻く社会構造への問い このような「関係性の逆転」の経験は、「相手 の立場に立って考えてみる」ためには「教える−
教わる」「支援する−支援される」という非対称 な関係性を一時的に留保することが重要だという ことを、多くの学生たちに気付かせることになっ た。そのような思索を行った結果、大学生の多く は日本の外国人住民をめぐる状況を「自分自身に 関わること」と実感するようになっていた。ビデ オレターづくりに参加した別の学生は、次のよう に述べる。
・・・日本にそのような現実があることに、思いが至ら なかった。そして同時に、可哀想だとは感じても、その 現実は自分とは別の世界の話であったと思う。
しかし、プロジェクトが始まってから、そんなことは とても言えなくなった。否応なしに、彼らと私は関わる ようになった。私は、初めて、「外国にルーツをもつ子 供たち」という現実を、一人一人の人間として、リアル に感じたと思う(18)。
いっぽうでこの学生は、「自分のやっているこ とは、何も社会構造を変えることには意味のない ことなんじゃないかという不安をもった」(19)。外 国につながる子どもたちとの交流が深まり、彼・
彼女らを取り巻く家庭環境や社会的背景の複雑さ を知るにつれ、彼・彼女らとダンスを踊ったり、
ビデオレターをつくることが、どのようにしたら 多文化共生社会の実現に結びつくのだろうかとい う疑問が、学生たちのあいだに広まっていた。
こうした疑問についての大学生たちの省察を深 めることになったのが、学生たちが自分たち自身 の実践の様子を別のビデオカメラで撮影し、編集 して制作したドキュメンタリー作品であった。当 初、この作品は子どもたちとの実践とは別個に一 般向けの上映会を開催するために制作されてい た。しかし映像は次第に、ふれあい館での自分た ちの実践の意味を再解釈しようする内省的な試み へと変容していった。自分たちの実践がどうした ら多文化共生社会の実現につながるのか、ドキュ メンタリーを作成することでオーディエンスに何 を伝えるべきなのか、いくら議論しても、学生の あいだで意見の一致を見ない。そこで大学生たち は、いくら議論しても答えを見つけ出せない自分 たちの混乱した様子そのものを映像化すること で、多文化共生を「自分のこと」として考える難 しさを伝えるという手法を考え出す。その結果、
非常に錯綜しているが興味深いドキュメンタリー 映像が出来上がった。2009年12月から2010年1月
にかけて、慶應義塾大学内のいくつかの場所で外 部の人間を交えた上映会が行われたが、参加した 大学教員、外国人支援関係者からは概ね好意的な 評価をいただいた。そこには社交辞令も加味され ているだろう。しかし上映会ごとに実施した来場 者アンケートの結果を見ると、外国人住民支援の 現場では意外と焦点が当てられることの少ない
「支援に参加するボランティア大学生たちの本音」
が映像の中に映し出されていたことが、教員や支 援現場の人々にとっては印象的だったことが伺え る。
(3)「守られた場所から出る」ことの難しさ だが皮肉なことに、学生たちの内省的思考が深 まっていくほどに、ドキュメンタリー作品の内容 は学生たちが感じ取ったはずの、ふれあい館に集 う外国につながる中高生たちの現実からは離れて いった。それはむしろ「多文化共生に向けて実践 する私たち大学生の戸惑い」を強調する映像に なっていったのだ。大学生たちの自己省察の深ま りという意味では、それは有意義な試みであっ た。反面、上映会に参加したある大学教員が批評 したように、大学という「守られた場所」で、学 生たちが頭でっかちの議論を戦わせて自己満足し ている様子を映像にしただけだと受け止められて も仕方のない部分が確かにあった。
ドキュメンタリーの映像には東京タワーの夜景 が頻繁に挿入されている。学生たちが主に映像編 集を行った大学の建物の部屋の窓から、たまたま 東京タワーが良く見えたからである。しかし、東 京タワーは川崎市川崎区桜本にあるふれあい館か らは見えない。映像を制作した学生たちが東京タ ワーに固執したことは、彼・彼女らが無意識のう ちに自分たちの実践を桜本ではなく、「東京タ ワーの見える場所」すなわち自分たちの通う大学 のキャンパスの視点から再構成してしまっていた ことを暗示している。
こうした限界については、ゼミの大学生たちも 十分自覚している。いまもふれあい館でボラン ティア(現在はアルバイトスタッフ)を続けてい るある学生は次のように述べる。
上映会だパンフレットだ何だかんだと、正直プロジェク トを手のひらの上でこねくりまわしすぎました・・・プ ロジェクトを自己満足で終わらせないために、来年度以 降が重要だと思っています。・・・思い切り相手とぶつ かり、何かを生み出すのが大事だという気がします(20)。
もっとも、これはふれあい館との実践を通じて 大学生たちの思考を深めていくという、指導教員 である塩原の教育方針を大学生たちが忠実に実行 した帰結でもあった。その意味で、2009年度の
「FRIENDSプロジェクト」は大学教育実践として は成功だった。だが、最後の最後で「大学生たち への教育効果」を優先してしまったことが、か えって大学生たちと外国につながる子どもたちと の対話の深まりを妨げてしまったのかもしれな い。共生教育の重要性について論じる高橋舞が、
他者との「出会い損ね」と呼ぶ状況がそこに生じ ていたとすれば、その原因は教員である塩原自身 にある(21)。
ふれあい館でボランティア(現在はアルバイト スタッフ)を続けるもうひとりの大学生T君は、
FRIENDS
プロジェクトを「期間限定(プロジェクト)で友だち(FRIENDS)になろうとする取 り組み」と表現した(22)。T君の指摘は、大学生 が「授業」という制度的な場で、外国につながる 子どもたちと「対等な関係性」を築こうとした今 回の実践の限界を示唆している。それが「授業」
のなかの関係である限り、ほんとうの「友だち」
とはいえない。しかし「授業」の外側に出るとい うことは、学生たちが最大限の教育的効果を得る ように教員が状況を統制する術を失うということ を意味する。また大学生にとっても、自分たちを
心理的・物理的に守ってくれる大学という制度か ら出ることを意味する。T君はスタッフとしてふ れあい館で働きはじめてから、そこに集う外国に つながる若者たちと共感にもとづく信頼関係をつ くることに成功した。しかしそれは、外国につな がる若者たちの置かれた困難や苦悩を、まさに自 分の「友だち」として引き受けることを意味する。
ふれあい館では、外国につながる若者たちをめ ぐって毎週のようにさまざまな問題が発生してい る。その多くは外国人住民が位置づけられた社会 構造に起因するもので、日本人大学生がひとりで 解決できるようなものではない。そういう彼・彼 女らと「友だち」になることは、大学生の側にも 心理的な負担をもたらす。
大学教育の実践として、学生を大学制度という
「守られた場所」から出すことが可能なのか、そ うでない限り、他者との深いつながりの形成を目 指した支援現場と大学教育の協働は失敗を宿命づ けられているのであろうか。大学教員ならば、学 生たちが失敗を経験することが、むしろ大きな教 育的効果をもたらすと主張することもできる。し かし支援現場からみれば、わざわざ活動を失敗さ せるために貴重な時間を割いて学生を受け入れた わけではない、ということになる。こうして支援 現場との連携の実践は、大学教員自身にも難しい 課題を突きつけてくる。結局のところ、大学とい う制度によって一番「守られている」のは、大学 教員に他ならないのだ。
6.協働がもたらした相互変容②〜支援現場の変 化
(1)ボランティア人材の継続的確保への貢献 多文化コミュニティ支援室のボランティアや
Add-on Program
の実習の受け入れ先になったり、塩原ゼミとの協働を始める際、ふれあい館の職員 である原が何よりも期待したことは優秀な大学生
ボランティアを継続的に確保することであった。
先述のように、学習サポート教室は恒常的な人手 不足に悩まされている。ふれあい館は塩原ゼミか らボランティアを「供給」してもらい、塩原ゼミ は「実践の場」を確保するという「ギブアンドテ イク」の感覚をもっていることを、原は塩原にあ らかじめ伝えていた。
2009年度の塩原ゼミとの実践で、ふれあい館の 中高生のリーダー的存在であったフィリピン出身 のR君は、中学2年生の頃から学習サポートに通 い、高校卒業後は学校の推薦で就職した地元の溶 接会社で働いている。彼は「自分が中学生の頃は、
ボランティアが少なかった。生徒3人でボラン ティア1人の時もあった。勉強もしにくいし、先 生もかわいそうだった。〔東外大や慶應の〕大学 生が来るようになってから、楽勝。専門性〔漢字・
英語・数学が得意〕がある大学生が来てくれるの がよい」と述べている。
(2)日本人の若者との交流の深まりと支援者の 気づき
しかし実践が始まるにつれて、外国につながる 中高生と日本人大学生の一部は、単に勉強を「教 える−教えられる」だけでなく、友だちや学校、
家のことなどを「友だち感覚」で話し合う関係に なっていった。先述の大学生T君と親しくなった R君は「今まで同じ年代の日本人と友だちになっ たことはなかった。何を考えているかも知らな かった。T君と親しくなって、自分のフィリピン 人の友だちと変わらないと思った」と述べる。
先述のように、ふれあい館の学習サポートに来 ている中高生の大半は比較的最近日本へ呼び寄せ られた。彼・彼女らは思春期に突然、ことばも全 く通じない日本に来て学校に通うようになった。
日本語能力を十分に身につける時間もなく、やが て進路選択の時期がくる。周りの日本人生徒は進 学の準備を始めるが、ふれあい館に来ている中高
生には展望がない。また、相談すべき親ともさま ざまな葛藤があることが多い。外国人の母親は、
子どもへの教育の思いがあっても自身の日本語能 力が不十分で、受験など日本の教育制度がよくわ からないことが多い。また原が出会ってきたケー スのほとんどでは、日本人の義父等は子どもの教 育について手助けをしてくれない。子どもたち は、学校や地域社会でことばがわからず、外国人 への「冷たい目」に晒され、ときには差別を受け る。学校の勉強もわからず、将来への展望も持て ず、家にも居場所を感じられず、孤独である。彼 らが唯一、居場所を感じられるのは、同じような 環境にある同胞の友だちだけである。「どうして 日本にきたのか?自分は何者か?自分はどう生き ていくのか?」自分の存在を肯定し、意識化する ことができない。
ふれあい館の学習サポート実践では、こうした 子どもたちの悩みや心に「寄り添う」ことを大切 にしてきた。そして、常に「対話」「話し合い」
を繰り返し、子どもたちに自分の状況を「意識化」
し、課題に立ち向かうことを呼びかけ、共に歩ん できた。しかし、「子どもたちの目線」に立つこ とを心がけてはきたものの、原やボランティアの 多くは彼・彼女らの親の世代以上の年齢である。
そのため、話の内容はどうしても「アドバイス」
「指摘」「お説教」になりがちだ(もちろん、こう した日本社会を生きていくための情報、知恵、
「親」の愛情も必要ではある)。
塩原ゼミの実践に参加して大学生たちとの出 会った外国につながる中高生たちが見せた顔は、
当たり前だが中学生、高校生の実像だった。思春 期の一番の関心「かれし」や「かのじょ」のこと、
「フアッション」や「好きな歌」や「音楽」、将来 の夢、日本での生活が長くなるほど、彼・彼女ら はこういったことを話し合える「友だち」を求め ている。そして、日本人の友だちがなかなかでき ないことに、どこか疎外感を感じている。
大学生のT君は、子どもたちの人気者である。
気さくに、ごく自然に子どもの中に入っていく。
T君が高校受験のサポートに関わり始めた頃、
「日本に来たばかりの子たちに、なんで、こんな むずかしい面接なんかやるのか!」と怒ってい た。受験指導のノウハウを積み上げてきた私たち には当たり前に思える「壁」なのだが、T君のこ とばを聞いて、原ははっとさせられた。私はいつ の間にか、社会の現実にただ子どもたちを「適応」
「順応」できるよう、本人への努力のみを求めて いないか。子どもたちの現実をともに「変革」し ていく「同伴者」でなかったのか。T君のことば を聞いて、子どもたちの置かれている現実にただ
「寄り添う」だけでなく、「共感する力」が重要だ と気づかされた。家族の問題、高校受験、大きな 壁を抱える彼らにとって、「話を聞いてもらい」
「共感し」、共に「寄り添う」力を感じた時、その 関係性は道を切り開く新たな力になる。たとえす ぐに解決の道筋が見えなくても、同胞の友だち同 士だけでなく、日本社会への道を切り開く日本人 の「友だち」が必要なのである。
(3)振り返りと継続することの重要性
2009年12月には、塩原ゼミの学生が制作したダ ンスとビデオレターの映像を、学習サポートに参 加している外国につながる中高生たちといっしょ に鑑賞する上映会が、関係者も招いてふれあい館 で開かれた。映像に出演した子どもたちにはその 場で記念の
DVD
が贈られ、その後、みんなで ケーキを作って一足早いクリスマスを楽しんだ。子どもたちは、自分たちが主役の映像に喜び、う れしそうだった。映像に出なかった子たちは、自 分たちも今度は出たいと言い、興奮の渦だった。
とても仲良く、映像の完成を喜び合っている中高 生と大学生の姿は、原には新鮮で清々しくみえ た。
翌年1月から、ふれあい館の学習サポートは中
学3年の受験対策を中心として進められた。その 頃、慶應義塾大学では塩原ゼミの大学生のドキュ メンタリー映像の上映会が行われたのだが、学習 サポートに参加する中学生の多くが公立高校入試 の前期試験に落ちてしまい、原はその対応に追わ れていた。そのため、中高生とともに協働して映 像を作成したことへの振り返りを行うことができ なかった。
4月頃になってようやく、原は上映会や映像の 感想を何人かの中高生に尋ねることができたが、
どうやらあまり印象に残っていないようだった。
いまもふれあい館に出入りするT君も、「思い出 話にもなっていない」と寂しげに言う。原として は、初めての試みでもあり、12月の上映会までに 築かれた中高生と大学生の関係性は実存的なもの であったと評価している。ただし、支援現場と大 学教育の協働を目指すという観点からいえば、現 場の原たちの思惑と、大学の教員である塩原の思 惑、大学生の葛藤について、もっと壁を取り払い、
振り返りの話し合いをすべきだった。また、大学 生だけではなく中高生も企画の立案の段階から映 像制作に参加させるべきだったとも思う。
2010年度に入り、ふれあい館と塩原ゼミのあい だには新たな協働の試みが始まっているが、2009 年度の成果と限界を踏まえつつ、子どもたちとの 協働も視野にいれた実践の場を創造していく必要 がある。
7.おわりに
本稿では、川崎市ふれあい館を事例に、「実習 場所・教材」「ボランティアの供給源」にとどま らない外国人住民支援現場と大学教育との協働の あり方を模索した。その結果、ボランティアとし ての人的資源の送り出し/受け入れからはじまっ たふれあい館の学習サポートと大学教育との協働 は、やがて支援現場と大学生の双方に以下のよう
な変化を及ぼしたことが明らかになった。それゆ え本稿の考察は、「協働」を単なる共同作業にと どまらず、対等な立場での連携から「いっしょに 何かを創りだす」相互変容の過程として再定義す る必要性を示唆している。
⑴支援現場の変化
① 大学との関わりは、支援現場が研究者、行政、
小中学校等とのネットワークを拡大する触媒 の役割を果たす
② 大学生を受け入れることで、支援現場に新鮮 な発想や感性、熱意が持ち込まれ、実践が再 活性化する
⑵大学生の変化
① 外国につながる同年代の若者という「他者」
との出会いが大学生の感受性を刺激し、相手 の立場に立って考えることで他者への想像力 を高める
② そのような想像力をもってしても理解しきれ ない「他者」としての外国につながる中高生 の存在に触れることで、大学生が自分と彼・
彼女らの関係を個人的であると同時に社会的 に構造づけられた関係として理解し、構造変 革の必要性や可能性についての思考を育む
ふれあい館と東京外国語大学・慶應義塾大学の 協働において不十分ながらもこうした変化が起き た要因として、両者の関係が長期的に継続してき たことが大きい。両方の大学に勤務した塩原の視 点からみれば、ふれあい館との協働は足かけ3年 に及んでいる(慶應義塾に異動してゼミでの実践 を開始する際、「東外大でやり残したことを慶應 でやる」という意識を塩原が強く抱いていたこと も付記しておく)。その間、大学生ボランティア を連れて定期的にやってきた塩原を、原をはじめ とするふれあい館の職員が受け入れたからこそ、
このような継続的関係が成立した。冒頭で述べた
ように、大学が支援現場に学生をボランティアと して送りだすことは支援団体にとって常にプラス であるとは限らない。しかし、学生ボランティア の送り出しと受け入れをめぐって何度も交渉を重 ねるうちに、学習サポートをコーディネートする 原と、実習やゼミの実践をコーディネートする塩 原とのあいだに一定の信頼関係が築かれた。この ように、大学生ボランティアの送り出しと受け入 れは大学教育と支援現場の協働関係を長期的に持 続させるきっかけづくりには効果的である。定期 的かつ持続的な交渉をつうじて大学側と支援現場 側の連携と信頼関係を強化していくことが、協働 による相互変容をもたらすうえでの前提条件であ ろう。
いっぽう、今回の実践事例が大学にもたらした 変化を評価するのは難しい。もちろん、この協働 の経験は塩原の大学教員としての研究教育実践に 大きな変化をもたらしてはいる。学生を現場に送 り出し、他者との出会いと対話の萌芽を経験させ ることの教育的効果の大きさを認識して以来、塩 原の学部教育実践は学生に教授した学術的知識を フィールドワーク経験によって身体化させ、省察 的な対話と討論によって学問知と融合させるプロ セスを常に意識するようになった。また学生とマ イノリティ当事者との対話・協働の媒介として映 像制作を活用した経験から、社会科学における映 像教育の可能性に関心をもつようにもなった。
2010年6月には国内外の映像教育の専門家を招い た学術シンポジウムを企画・開催した(23)。2011 年度以降も、そうした人々との共同研究を実施す る準備を進めている。もちろん、それらはひとり の研究者のささやかな気づきや試みに過ぎず、大 学教育やアカデミズムのあり方に一石を投じるも のなどとは到底いえない。にもかかわらず、こう した試みをつうじて、同様の問題意識をもつ研究 者・教育者たちとのつながりが次第に広がりつつ あることも確かである。
こうしたつながりがいずれ大学教育や研究の変 革をもたらす、あるいは今回の実践で生じた協働 がより広い社会的波及効果をもたらす、そう言い 切れるほど楽観的にはなれない。本稿で分析対象 としたような協働の実践は、異なる立場の人々の 対話と討議を前提とするがゆえに強いリーダー シップを生み出しにくい。それゆえ、必要とされ る迅速な対応を取れなかったり、即効性のある変 化をもたらしにくい。だが、こうした実践がその 本領を発揮するのはおそらく中・長期的な人材育 成においてであろう。支援現場と大学の協働は、
支援現場におけるマイノリティ当事者のエンパワ メントに貢献するとともに、多様性や他者の存在 への敏感さを学んだ大学生を社会に送り出す。こ うした人々が社会へと参画し、やがて内側から社 会を変えていくことこそ、支援者と教育者の共通 の目標でありうるはずだ。
註
(1)東京外国語大学多言語・多文化教育研究セ ンター『外国人相談事業──実践のノウハ ウとその担い手〜連携・協働・ネットワー クづくり〜』東京外国語大学多言語・多文 化教育研究センター、2009年、112ページ。
(2)たとえば平高史也ほか編『共生──ナガノ の挑戦 民・官・学協働の外国籍住民学習 支援』信濃毎日新聞社、2009年を参照。
(3)渡戸一郎「『多文化共生社会』に向けて──
自治体と市民活動の『協働』と『広域連携』
の課題」東京外国語大学多言語・多文化教 育研究センター編『越境する市民活動〜外 国人相談の現場から〜』東京外国語大学多 言語・多文化教育研究センター、2008年、
6ページ。
(4)北脇保之「外国人受け入れ施策としての外 国人相談の位置づけと連携・協働の必要 性」東京外国語大学多言語・多文化教育研
究センター『外国人相談事業──実践のノ ウハウとその担い手〜連携・協働・ネット ワークづくり〜』東京外国語大学多言語・
多文化教育研究センター、2009年、8ペー ジ。
(5)川 崎 市 ウ ェ ブ サ イ ト
http://www.city.
kawasaki.jp/20/20tokei/home/gaikoku/gaikoku.
htm(2010年6月28日アクセス)。
(6)平成18年度川崎市立小・中学校海外帰国・
外国籍児童生徒数調査及び教育相談状況の 報告(川崎市総合教育センター)より。
(7)同上。
(8)川崎市ふれあい館条例第1条より(川崎市 ふれあい館・桜本子ども文化センター編
『だれもが力いっぱい生きていくために──
川崎市ふれあい館20周年事業報告書(ʼ88
〜ʼ07)』、2008年、36ページ所収)。
(9)東京外国語大学多言語・多文化教育研究セ ンター2008年度パンフレットより。
(10)東京外国語大学多言語・多文化教育研究セ ンター『2006(平成18)年度年次報告書』、
2007年、16〜18ページ。
(11)東京外国語大学多言語・多文化教育研究セ ンター『2007(平成19)年度年次報告書』、
2008年、14〜18ページ。
(12)ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ど も』(熊沢誠・山田潤訳)ちくま学芸文庫、
1996年。
(13)蜂屋絵美里編『FRIENDS PROJECT 2009報 告書』2010年3月、4ページ。
(14)同上、11ページ。
(15)同上、12ページ。
(16)同上、17ページ。
(17)同上、19ページ。
(18)同上、24ページ。
(19)同上、24ページ。
(20)同上、28ページ。
(21)高橋舞『人間成長を阻害しないことに焦点 化する教育学──いま必要な共生教育と は』ココ出版、2009年、189〜192ページ。
(22)ドキュメンタリー映像より。
(23)このシンポジウムの開催に至る経緯につい ては、塩原良和『変革する多文化主義へ──
オーストラリアからの展望』法政大学出版 局、2010年の195〜205ページを参照。