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近藤久恵*㌔榎田勝利 Post−War History fbr the Policy of Education

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日本における国際理解教育政策の戦後の歴史

一国際理解教育政策をめぐるユネスコと      文部省の施行の乖離一*

近藤久恵*㌔榎田勝利

   Post−War History fbr the Policy of Education      for Intemational Understanding in Japan

−The Distinction Between UNESCO and Ministry ofEducation Through Policy of Intemational Understanding Education−

       Hisae KONDO, Katsutoshi ENOKIDA

       序章 はじめに

 本稿では、1974年を境にして、日本独自の国際理解教育へ転換したとされる従来の先行研 究から遡り、戦後の1945年以降における教育政策から日本固有の国際理解教育の方針へ進 む布石を見出していく中で日本の国際理解教育政策の全貌を明らかにすると共に、今後の日 本における国際理解教育政策への提言を行なうことを目的とする。

 日本における国際理解教育は戦後、ユネスコが提唱した国際理解教育を始まりとして拡が り、1974年以前に関しては、ユネスコの影響を受けた国際理解教育の展開が行われてきたと 論じられてきた。それらの根拠として、1952年第7回ユネスコ総会で採択された協同学校計 画の積極的展開に拠るところが大きい。その後、ユネスコは、1974年第18回ユネスコ総会 にて、通称、「国際教育」勧告を採択し、全世界に向けて国際理解教育の方向性を示した。し かし、同年に出された文部省(現、文部科学省)に置かれている審議会である中央教育審議 会(以下、中教審)は答申を出して、ユネスコとは異なる国際理解教育の道筋を提示した。

 先行研究では、上記の事態を受けて、1974年以降、日本独自型の国際理解教育へと進んだ ことが論じられてきた。すなわち、1974年に出された中教審答申は、当時の日本社会が国際 社会との関係で表面化した課題に応える国際理解教育の推進であった。しかしながら、1974 年以前においても、既に、ユネスコの国際理解教育の方針とは相容れない国際理解教育の実 践が行なわれていたことが明らかになっている。

 よって、1974年以前の日本の国際理解教育政策の変遷を「ユネスコ」、「日本ユネスコ国内 委員会」、「文部省」の三機関に焦点を当てて検証する。

 尚、本稿における国際理解教育とは、1945年、ユネスコによって提唱され、日本国内で普

本稿では、近藤久恵の修士号学位論文「日本における国際理解教育政策の戦後の歴史一国際理解教育をめ ぐるユネスコと文部省の施行の乖離一」を指導教員・榎田勝利教授の監修のもとに再編したものである。

文化創造研究科国際交流専攻修士課程修了

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及したものを指す。初期は、人権、他国理解、国連研究を実践テーマとして掲げた。1960 年以降、南北対立及び、東西対立が顕在化する中で、ユネスコを通して南北の格差是正、世 界の新秩序樹立を図ろうとする意図から1974年、国際教育勧告が出された。同勧告は、国 際的側面の強調や全人類的視点の発想、態度の育成が新たに加わった。

      第1章 今日における国際理解教育の重要性

 現在、グローバリゼーションの進行により、世界中で人の国際移動現象が起きている。

このような状況は日本も同様である。現在、総人口1億2777万1千人のうち外国人登録者 数は215万2973人(2007年末)に達した。これは、総人口の約1.69%にあたる。

 徐々に、多文化社会に応じた法整備、受入体制等のインフラ整備がされていく中で、根本 的には受け入れ国の多様性の有無が大きく関わってくるだろう。「グローバリゼーションは、

文化的に均質な国家という神話をよりいっそう非現実的なものにし、各国の多数派に多元性 と多様性をもっと受け容れるよう強いてきたのである。」1と述べられているように、これか らの日本の多文化社会は、多様性が必要とされ、その為には寛容性を育む機会を設けていか なければならない。そして、日本人と外国籍住民が共により良く暮らしていく社会を形成し ていくことが重要である。そのような社会を醸成していく為には、各々の国際理解の酒養が 求められている。「日本語を母語としない子ども達と日本語を母語とする子どもの双方が異な

る文化を持つ相手を尊重し、共生する為の教育が必要。」2と言われるように、正に、多文化 社会においては、国際理解のための教育が必要とされており、こうした教育の果たす役割は 非常に大きいと考える。

 では、先の状況を踏まえて、どのような国際理解教育を行っていくべきであろうか。国際 理解教育を提唱したユネスコの国際教育勧告、また、開発教育、グローバル教育等が持つ理 念も考慮して、以下に幾つかの要素を示す。

①地球市民意識の酒養

②人権の尊重一共生・共存意識の醸成

③地球規模の課題への理解と解決に向けての態度の育成

 各々の教育、また研究者によって、表現は異なるが共通項目として上記の条件が挙げられ るのではないだろうか。もはや、地域社会と世界は密接な関係にあるため、自国枠内におい て、経済はおろか、政策さえも世界との関係に左右される時代である。よって、当然、教育 においても今日に見合った教育の在り方が求められているのである。

1佐藤群衛・吉谷武志「ひとを分けるもの つなぐもの 異文化間教育からの挑戦」(2006)

2教育科学研究会「現代教育のキーワード」(2006)

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      第2章 国際理解教育政策における従来の論点

 今日、日本の国際理解教育の必要性が更に高まっていることを述べたが、そもそも日本に おいて国際理解教育はユネスコが1945年にユネスコ憲章で述べたことにより始まった。従 来の国際理解教育に関する研究では、1974年を分岐点として、ユネスコが提唱する方向性と は乖離したことが論じられてきた。

 ここでは、便宜的に日本独自型国際理解教育という呼称を使用するが、国際理解教育に関 する研究において、1974年がターニングポイントとなっている。佐藤は、「国際理解教育の 実践は1970年代にユネスコ主導型から、国際化に対応するための教育へと転換され、海外 帰国児童生徒教育、外国語教育、国際交流へと傾斜していった。」3と述べ、各研究者は先行 研究において、1974年以降を「日本スタイルの国際理解教育」4、「臨教審型国際理解教育」5 などという表現を用いている。

 ユネスコは、1974年、第18回ユネスコ総会にて、「国際理解、国際協力及び国際平和の ための教育ならびに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告(通称、「国際教育」勧 告)」であり、すべての段階及び形態の教育に国際的側面及び世界的視点をもたせる、個人が その所属する社会や国家及び世界全体の諸問題の解決への参加を用意することなどを指導原

・則として示した。同年、日本では、中教審答申「教育・学術・文化における国際交流につい て」が出され、「国際社会に生きる日本人の育成」を筆頭に挙げた。

 こうしたユネスコ国際教育勧告とは相容れない方向性を打ち出した背景には、幾つかの理 由が考えられる。1つは、ユネスコの理念が十分に理解されていなかったことは大きい。仮 に、日本国内において十分なユネスコ国際教育勧告の内容審議が行われていたとすれば、ア メリカ、イギリス、シンガポールのように脱退という選択肢も視野に入っていたのかもしれ ない。また、2つめには、経済発展による国際化施策策定の急務は、以下の2点を重点に置 いたものとなった。それは、OECD加盟や海外直接投資完全自由化、ニクソンショックによ る変動相場制への移行により国際社会における日本、もしくは日本人の育成の重要性に加え て、石油危機や貿易摩擦が象徴するように他国との協調、すなわち国際交流が重視されるよ

うになったことが答申の内容に反映されている。

 同時に、経済発展に伴う社会の変容も無視できない。1974年当時は、日本の高度経済発展 に伴う国際社会での地位向上による自負が、日本社会特有の文化を肯定する世論に傾倒した

と考えられる。よって、1974年の中教審答申の内容は日本文化論、あるいは日本人論に見ら れる日本社会の特殊性を擁護する議論の影響を受けたことは否めない。それならば、尚更、

1974年以前において既に、日本社会の特異性を肯定する萌芽があるはずである。それは、

1961年に発表された丸山真男による「日本の思想」に表れている。西欧近代社会と比較して、

3佐藤群衛「国際理解教育の現状と課題一教育実践の新たな視点を求めて一」(2007)

4石井由理「総合的な学習と国際理解教育」(2003)

5魚住忠久「共生の時代を拓く国際理解教育」(2000)

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日本の未発達な点を挙げ克服を求めた著書が、一部の批判を受ける要因となったのは、欧米 と日本社会の相対化による非近代的価値観の否定的論拠に立ったことであろう。次章で詳細 を述べることになるが、1966年に出された中教審答申にも、「国際社会における日本人の立 場の育成」が記述として見られることから、当時から、上記のような日本社会の特殊性を肯 定する風潮があったことが考察できる。

 奇しくも、同年に出された国際教育勧告と中教審答申は、いわば中教審答申がユネスコの 勧告の日本版であるという解釈を与え、結果的に、その後の日本における国際理解教育を推 進していく上で大きな役割を果たしたのである。6それ故に、研究者達の間で、1974年以降、

日本独自型国際理解教育へと進んだと論じられてきたのである。しかしながら、先の日本社 会の変容に加えて、「ユネスコ」、「日本ユネスコ国内委員会」、「文部省」の教育政策を1974 年以前に遡っていくと既に、三機関の間に方向性の相違があったことが明らかになってきた。

次章では、1974年に至るまでの三機関の経緯に焦点を当てて検証していく。

      第3章 1974年以前の日本の国際理解教育政策

 前章で述べたように、日本の国際理解教育政策は1974年を機にユネスコ型から離れた独 自の道へと進むようになった。よって、1974年以前に関しては、ユネスコの影響を受けた国 際理解教育の展開が行われてきたと論じられてきたが、それらの根拠として、1952年第7回 ユネスコ総会で採択された協同学校計画の積極的展開に拠るところが大きい。しかしながら、

「ユネスコ協同学校計画」による実験授業には、「日本独自型国際理解教育」に通底する実践 内容も含まれている。7よって、協同学校計画事業においても、1974年以降に展開される方 向性と同様の内容が既に行われていたのである。以上から、1974年以前を境にして区別する 論議は不十分であると考えることができる。よって、1974年以前においても、既に日本独自 型国際理解教育政策の布石があると仮定し、「文部省」、「日本ユネスコ国内委員会」、「ユネス

コ」の変遷から検証を試みる。尚、嶺井は国際理解教育政策の時期区分を3つに分け、第1 期(1945〜1951年)「国際社会復帰、ユネスコ加盟を目指す国家的プロジェクトの一環とし て取り組まれた時期」、第n期(1951〜1974年)「日本ユネスコ国内委員会が中心となり、

ユネスコ活動の一環としてユネスコ協同学校中心に国際理解教育が推進された時期」、第皿期

(1974〜)「国際理解教育が日本の国際理解教育政策の課題として位置づけられた時期」に

6米田伸次「ユネスコの提起する「今日の新しい国際理解教育」一「平和・人権・民主主義のための教育」

の採択をめぐって一」(1995)

7具体的には、広島大学教育学部付属高等学校での1959年〜1961年及び1963年〜1964年度の実践を挙 げている。当校は、「ユネスコ協同学校計画」が日本国内で始まった当初から、実験学校として積極的な展 開を行なっていた。上述の期間は、前半3年間を「国連の研究」として、後半の2年間のテーマを「世界の 国家群の研究」と定めた。1959年の実験では副題を、「日本人としての立場からjとし、「世界の重要問題 解決に努力している国連のはたらきを日本人としての主体的な立場から研究させることが必要である。」と

している。また、「世界の国家群の研究jにおける1963年度の指導目標の中には、「世界の平和に対して、

日本人のなすべき役割を考えさせる。」と挙げていることに着目している。(出典1高田準一郎「ユネスコ協

同学校計画「国際理解と国際協力のための教育」における教育実験内容にっいて」(2006))

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区分している。8

 ユネスコは、1945年、ユネスコ憲章前文にて、「戦争は人の心の中では生まれるものであ りながら、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」と記し、「国際理解」の必 要性、すなわち、「国際理解」のための教育の重要性を主張した。日本では、その翌年である 1947年に、ユネスコ憲章に感銘を受けて、「仙台ユネスコ協力会」が設立されたのを皮切り にして、全国にユネスコ協力会が登場したのである。同じく、日本政府も、民間の活発な動 きを盾にして、文部省内に渉外ユネスコ課を設置する。積極的に、ユネスコ総会へのオブザ ーバーとして参加した実績が認められ、晴れて1951年にユネスコ加盟を果たす。1952年に は、「ユネスコ活動に関する法律」(1952年法律第207号)が公布され、文部省の一機関と

して、日本ユネスコ国内委員会(The Japanese National Commission for UNESCO)が発 足した。

 嶺井が区分したように、正に、第1期は、国家的プロジェクトとして機能していたと言え る。よって、ここでは、先の高田の指摘にあるように、第ll期に当たる1951年〜1974年を 更に細分化して検証する。第II期間には、1956年、1966年、1974年と国際理解教育に関わ る3回の中教審答申が出されている。この3回の答申を区切りとして、第1期を1951年〜

1955年、第2期を1956年〜1965年、第3期を1967年〜1974年とする。

第1節1951〜1954年「ユネスコの理念を取り入れた日本ユネスコ国内委員会と文部省の協働期」

 この時期は、三度にわたり、日本ユネスコ国内委員会と文部省がセミナーを開いている。

両者は、ユネスコの理念や事業を、直ぐに国内で反映させるなど緊密体制を取っていた。1952 年に、ユネスコ第7回総会にて、「国際連合とその専門機関の目的や活動および世界人権宣 言の原則についての教育を奨励すること」という決議が採択され、これに基づいて、1953 年度から協同実験活動計画が実施されることになった。そして、協同実験活動計画は、各加 盟国における国際理解を主眼とする教育実験の比較、研究および調整を目的としており、ユ ネスコは各加盟国の実験活動の進行を援助するものであると定められた。9ユネスコが協同学 校計画を実施するために各加盟国から参加学校を選ぶことになり、33校が選定された。参加

申し込みを行った国は、イギリス、フランス、西ドイツ、日本を含めて15力国であった。

33校のうち、日本は6校が選定されたことから、いかに積極的にユネスコ事業を推進してい たことが推測できる。更に、1953年には、「世界共同社会に生活するための教育」(Education for Living in a World Community)10がユネスコから発表された翌年、日本国内で行われ

8嶺井明子「文部省の機構改革・組織改変と国際理解教育政策」(2004)

9 内海巌「国際理解の研究」(1973)

lo具体的に、以下の8つを挙げている。

1.世界共同社会のために人類を教育する処置がとられないかぎり、国連憲章の精神にのっとって国際社会 を造ることは不可能であるということを明らかにすること。

2.各国は、その国情と生活様式がいかに異なっていても、国際機関に協力する義務とならんでかよう協力

をすることにたいする利害関係を持つということを明らかにすること。

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た「国際理解の教育」指導者講習会では、第1日目に「世界共同社会に生活するための教育

(国際理解の教育)」と題して、3時間半の時間が割かれている。これは期間中の全講義の中 でも、最長であり、最も重視されていたことが考えられる。この講義を行った森戸辰男氏は、

ユネスコの考えを積極的に引用し、「世界共同社会に生活するための教育」を前年にユネスコ が発表したと説明している。

 1953年に行われた協同実験活動計画会議で協同学校計画に参加する学校に課せられたテ ーマは、「世界人権宣言」「他国の理解」「婦人の権利」に決まり、各々の教育現場での実践を 求めた。1954年には、 日本ユネスコ国内委員会が「国際理解教育目標」の策定を行った。

 以上から、この時期はユネスコの事業に共鳴し、国内において日本ユネスコ国内委員会と 文部省が協同して展開していたのである。

 一方、ユネスコは呼称の変化が数年の間に度々、起きている。振り返ると、「国際理解のた めの教育」(Edtication for International Understanding 1947年〜)、「世界市民性教育」

(Education in WorId Citizenship 1950〜1952年)、「世界i共同社会に生活するための教 育].(Education for LiVing in a World Community 1953〜1954年)、「国際理解と国際協 力のための教育」(Education for lnternational Understanding and Co・operation 1955年

〜)、「国際理解と平和のための教育」(Education for International Understanding and Peace 1960〜1970年頃)、「国際協力と平和のための教育」(Education fbr InternationaI Co・operation and peace 1960年頃〜)と変遷を遂げている。

 もともとユネスコの設立準備段階では、「市民と国際問題の教育」(Education for citizenship and international affairs)という名称が用いられていた。国際理解教育の概念 に対する初代事務局長ジュリアン・ハックスレイの貢献は非常に大きかった。彼の唱えた世 界的、科学的ヒューマニズム、ならびに宗教的運命論やイデオロギー的観念論に対決する進 化論的ヒューマニズムが国際理解教育の基礎に据えられた。これは、国家の枠を超えてすべ ての人の心と精神の中に一つの平和な世界を築くことで、その為には知的、精神的貧困と対 決することであった。11こうした背景がある故に、1950年に「世界市民性教育」をユネスコ が発表したとき、加盟国からの猛烈な反発が起きた。そのため、ユネスコは1953年には「世

3.文明は多くの国民から寄与から生じたものであるということ、そして、すべての国民は相互に依存する ことが非常に多いということを明らかにすること。

4.現在および過去における種々な国民の生活様式、その伝統、その性格、その問題と解決方法が異なる ことの説明になるような、基本的な理由を明らかにすること。

5.あらゆる時代を通じて、道徳的・知的・技術的な進歩は徐々に増大して、全人類の共同の遺産となつ ていることを明らかにすること。世界は、まだ相反する政治的な利害と緊張とによって分離してはいるけれ ども、各国民の相互依存の関係は、日々にあらゆる面においていちだんと明確になってきている。全世界を 包含する国際機関は必要であり、今や可能であること。

6.国際機関の加盟国によって自由に選ばれた取り決めは、これらの国民によって活発、かつ効果的に支持 されるかぎりにおいてのみ、効果を持つことを明らかにすること。

7.とりわけ若い人たちの心の中に、この共同社会と平和に対する責任感を呼びさますこと。

8.改善された国際的な理解と協力の素地ができるように、児童に健全な社会的態度の発達を奨励すること。

11日本国際理解教育学会「第12回大会・特定課題研究報告 国際理解教育とユネスコのかかわり一海外の

動向と対比して考える一」(2003.6)

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界共同社会に生活するための教育」への変更を余儀なくされたが、最終的には、「国際」を掲 げた名称に落ち着いた。こうしたユネスコが描く理想郷への蓮進は常に 国家 という障害

との拮抗点を探る状況に陥ることになる。だが、これは、ほんの序章に過ぎず、第2期にお いては当時の国際情勢を直に投影する場となり翻弄されるのだ。こうした迷走は日本におけ る国際理解教育の方向性にも少なからず影を落としたことは明らかであろう。

第2節1956〜1965年「現実的課題にシフトしていく文部省と日本ユネスコ国内委員会活発期」

 1956年は、いわば、ユネスコ、日本ユネスコ国内委員会、文部省の三者の方向性の相違に 繋がる最初の年であると言える。この年には、ユネスコでは第9回ユネスコ総会が開かれ、

「東西文化価値の相互理解」の重要事業計画(Mutual Appreciation of Eastern and Western Cultural Values)として、10力年計画を打ち立てた。 「東西文化価値の相互理解」とは、

諸国民間の平和協力のために必要な相互理解は相互の文化についての完全な知識と理解を前 提にしなければならない。東洋および西洋に生じた民族の生活の徹底的な客観的研究の必要 性の急務から上記計画の意義を述べている。

 一方で、同年には文部省中教審が、「教育・学術・文化に関する国際交流の促進について」

の答申を出している。そこでは、 「国際間の理解と親善とを増進するには、留学生、研修者 の人物交流、学術に関する文献・資料の交換ならびにわが国文化の海外紹介等の施設を強力 に推進することが緊急である。」と示している。これまでの変遷を見ていく中で、少なから ず追究の余地がある。それは、 「国際理解」という文言を示し、 「国際理解のための教育」

もしくは「世界共同社会に生活するための教育」という文面は一切記されていないことであ る。第1節で明らかにしたように、日本ユネスコ国内委員会と文部省は積極的にユネスコ事 業に関わっていく傍ら、文部省はユネスコ事業とは一線を画した動きが、この中教審答申に よって明確にされたのである。これは、1954年に国費留学制度が新設され、10年後には留学 生課が設置されることからも、当時の文部省は留学生受入体制の整備が目前の課題となり、

それ故に留学生との交流、国際交流の重要性を唱ったのであろう。同時に、初めての日本人 学校がバンコクに開校された年でもあり、当初は28名の児童が在籍していた。

 1956年から1965年の間では、日本ユネスコ国内委員会が非常に活発に動いている時期であ る。対称的に、文部省は国際理解教育事業の表舞台には出てきていない。文部省は当時、ユ ネスコ路線とは異なる国際理解教育に着手していたのである。なぜなら、1961年に池田勇人 首相とアメリカのケネディ大統領との間に交わされた日米会談での共同宣言において、両国 間の教育協力及び文化交流が促進されることが決まった。翌年、1962年から日米文化教育交 流会議(通称、CULCON)が開催され、偶然にも後に述べる1974年に大きな転機を迎える

ことになるのである。

 同時期、ユネスコは、1954年にソ連が加盟以降、ユネスコ内での東西陣営対立が起こり、

1960年にアフリカ諸国が18力国加盟することで、南北問題を扱う場ともなった。各国の思惑

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が幾重にも交錯したユネスコは自ずと国際理解教育の方向性にも混迷をきたしたことは明ら かである。こうした背景から、日本の教育政策はユネスコを支持しながらも第1期に見られ るような追随ではなく、日本が抱える国内課題に応じた方向性へ転換していくことになるの である。こうした動きは、1963年に開かれたセミナーが端的に表している。

 1963年、日本ユネスコ国内委員会主催のもとに、 「学校における国際理解教育セミナー」

が開催された。翌年に発行された「学校における国際理解教育セミナー報告書」によると、

このセミナーの目的は、1956年に採択され、1958年に共同宣言が出された東西文化交流重要 事業計画のねらいの達成に貢献することであった。よって、セミナーの内容は全体会として 東西文化交流重要事業計画のねらい等がテーマとして挙がった。更に、1963年における協同 学校計画の共有がなされた。当時の協同学校計画のテーマは人権、国連、他国研究であった ため、各中学校及び高校が各々のテーマを選択している。最も多かったテーマは、他国研究 で約4割の学校が取り上げている。次に、人権を選んだ学校は全体の約3割である。また、今 回のセミナー目的である東西文化交流重要事業計画であることから、「東洋と西洋における 平和の考え方について」 「社会科における日本史と西洋史との関連から見た国際理解」と設 定した学校もあった。参加者は52人で、協同学校計画に参加している教員が35名、教育委員 会の指導主事が17名となっている。最も着目すべき点は、講師の内訳である。講師10人のう ち、驚くことに6人は文部省関係者である。加えて、残り4人のうち、森戸辰男氏は中教審会 長という肩書きを持っている。主催は、日本ユネスコ国内委員会でありながら、蓋を開けて みれば中教審会長も含めて、7人が文部省に属する人々であったのだ。当然、ここでのセミ ナーの内容は、何らかの形で教育政策に影響を与えると考えるのは妥当であろう。しかしな がら、その3年後に出される中教審答申には、「国際理解教育」という文言さえ出てこない。

それは、中教審答申と同年に発足された制度と深く関わっていると推察できる。

      第3節 1966〜1974年  「文部省の国際理解教育政策黎明期」

 第3期の初めに当たる1966年に中教審は「後期中等教育の拡充整備について」に関する答 申を出している。

 この答申では、国際理解教育という言葉は全く用いられていないが、 「期待される人間像 として、世界に開かれた日本人育成を期待」 「世界に開かれた日本人」などと記され、後の 1974年に出される中教審答申と酷似している。第2節の終わりで述べたように、この1966年 の中教審答申では、1963年に行われたセミナーの一片も反映されなかっ.たと言わざるをえな い。文部省は、中教審が出された同年に「帰国子女教育協力制度」を発足させ、 「海外子女 教育要覧」を発刊している。文部省の比重は明らかに「海外子女教育」に移行していくのだ。

同年、海外在留邦人子女は2,279人となり、初の日本人学校が開かれた1956年から、わずか 10年で100倍にも上る増加となっているのだ。

 加えて、1971年には海外在留邦人子女は8,622人になり、急激な増加となっている。翌年

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には、海外直接投資完全自由化を受けて、海外在留邦人子女の増加に更なる拍車をかけた。

文部省は、1972年、学習指導要領を改正して、「日本人学校を国内教育機関として位置づけ ること」を正式に定めたのである。

 こうした文部省の活発な動きとは、対称的に日本ユネスコ国内委員会はユネスコと文部省 との間で、新たな活路を見出していく。それが、国内の国際理解教育から発展途上国に対す るユネスコの援助を支援する方向性へと進んだのである。同時に、日本の国益と一致させる ためにも、アジアに重点を置いた教育協力ヘシフトしていく。1968年には、「アジア地域開 発のためのユネスコ事業を振興させることを目指し、アジア地域ユネスコ加盟国間の緊密な 協力を図る」ことを目的として日本ユネスコ国内委員会主催の「アジア地域ユネスコ国内委 員会代表者会議」を開催している。他にも、1958年から1965年に至るまで、毎年、アジア地 域の教育発展に繋がる会議を、日本ユネスコ国内委員会が直接関係して、日本で開催してい る。また、1968年には、日本ユネスコ国内委員会が、協同学校計画の事務から手を引くこと となった。12

 一方、ユネスコは、第2章で述べたように、1962年から執行委員会を設けて国際理解教育 のコンセンサスに着手していく。1974年には、セネガル出身のムボウ氏が事務局長に就任し たことで、ユネスコの方向性は、 「協力」や「援助」が前面に押し出されることになった。

1974年の国際教育勧告の正式名称は「国際理解、国際協力および国際平和のための教育なら びに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告」である。これには、「国際協力」を 掲げられながらユネスコが創立当初から重点を置く「人権」も明記されている。また、上記 を条約制定もしくは、勧告に据え置くかについて意見の対立も生じた。千葉氏は、1974年勧 告は、先進国と途上国の綱引きの結果生まれた妥協の産物であると述べている。13

 ユネスコ国際教育勧告と同年には、1962年から始まった日米文化教育交流会議

(C肌CON)に関する勧告も出ている。これは、日米文化教育協力を一般の国民レベルへ広 げようとするものである。このようにして、1974年のカルコン第7回会議は、日米間の国際 理解に関する教育を両国の初等・中等教育段階で開発する必要を認め、この教育を促進する

ための調査及び共同研究を、日本の文部省とアメリカ合衆国連邦政府教育局(U.S.Office of Education)とが協力して行うよう勧告したのであった。14文部省は、国際理解教育に携わる 研究者や文部省職員を交えた専門家チームを結成し、2年後に開催される「日米合同ワーク ショップ」において成果を発表している。更に、特筆すべきことは、上記の報告書刊行物は、

文部省学術国際局ユネスコ国際部から「国際理解教育の学習一アメリカ合衆国を例として一」

が発行されており、当時の文部省が国際理解教育という観点から見たとき、カルコンに相当 の比重を置いていたことがうかがえる。

12天野正治・村田翼夫「多文化共生社会の教育」(2001)

13日本国際理解教育学会「第12回大会・特定課題研究報告 国際理解教育とユネスコのかかわり一海外の 動向と対比して考える一」(2003.6)

14永井滋郎「国際理解教育j(1989)

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 過去の研究においては、従来、1974年以前は、ユネスコの理念を取り入れ、協同学校計画 を積極的に行っていたと論じられてきたが、「ユネスコ」、「日本ユネスコ国内委員会」、

「文部省」の役割と実績を詳細に検証していくことで、1974年以前において、日本の国際理 解教育はユネスコの国際理解教育を推進していたとは言い難いことが明確になった。

      第4章 日本の国際理解教育政策の現状       第1節 1974年以降の日本の独自型国際理解教育

 日本における国際理解教育とは、あくまでも、時代に応じた自国の利益を最大の主眼に置 いた政策の下で行われてきたと言える。1974年中教審答申が出された後に、当時の中曽根康 弘大臣の下で臨時教育審議会答申15(以下、臨教審答申と表記)が1984年〜1987年まで第4 次にわたって出された。1987年の最終答申「教育改革に関する第四次答申」では、国際社会 において真に信頼される日本人を育成することが重要であるとし、次の提言を行っている。

①広い国際的視野の中で日本文化の個性を主張でき、かつ多様な異なる文化の優れた個性を も深く理解することのできる能力が不可欠である。

②日本人として、国を愛する心をもつとともに、狭い自国の利害のみで物事を判断するので はなく、広い国際的、人類的視野の中で人格形成を目ざすという基本に立つ必要がある。

③多様な異文化を深く理解し、十分に意思の疎通ができる国際的コミュニケーション能力の 育成が不可欠である。16

 その後1996年7月の中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」は、

それ以降の教育政策において、画期的な提案がなされた。すなわち、「総合的な学習の時間」

の創設である。 「生きる力が全人的な力であるということを踏まえると横断的・総合的な指 導を一層推進し得るような新たな手だてを講じて、豊かに学習活動を展開していくことが極 めて有効であること。」 「今日、国際理解、情報教育、環境教育などを行う社会的要請が強 まってきているが、これらはいずれの教科等もかかわる内容を持った教育であり、そうした 観点からも、横断的・総合的な指導をしていく必要性は高まっている。」という背景から、

「総合的な学習の時間」の提案に至ったとしている。これを受けて、教育課程審議会の答申 がなされ、平成10年版(1998年)学習指導要領で現実のものとなったのである。172002

15臨時教育審議会が諮問された背景として、「教育の今日的な課題に対処しつつ、今後の社会の変化及び文 化の発展に対応する教育の実現を期して、21世紀を担うにふさわしい青少年の育成を図るという長期的な 観点から、我が国社会における教育諸機能全般に検討を加え必要な改革を図るため総理府に内閣総理大臣の 諮問機関として臨教審を設置することにしたのがその設置の趣旨としている。」(出典1教育政策研究会「臨 教審答申〈上巻〉〈下巻〉」(1987))

16朴聖雨「国際理解教育と教育実践全23巻第12巻国際理解教育における学校の国際化と学校教育 革新」(1994)

17大津和子・溝上泰「国際理解重要用語300の基礎知識」(2000)

(11)

年4月から、全国の小中学校で新教育課程が施行され、学校教育現場において、「総合的な 学習の時間」が実施されるようになった。「総合的な学習の時間」が扱う分野の最初に、国際 理解が挙げられたことで、学校教育現場で国際理解教育の推進の機運が高まったとされた。

 しかしながら、実際には、英語活動を実施することが、すなわち国際理解であるという考 え方が広がっているとの指摘がある。「愛知県における国際理解教育・開発教育ニーズ調査」

18によれば、「総合学習における国際理解教育で取り組むテーマ」として、教員が答えたアン ケートによると、外国語学習が67.9%に上る。在住外国人との共生(12.0%)、人権・環境・

平和(20.2%)であるのに比べて、非常に高い割合である。安達の調査では、「英語学習はほ とんどの小学校において、1〜6学年まで実施され、年間12〜15時間の所が多かった。それ に比べ、国際理解活動の年間数時間は英語活動=国際理解教育と捉えている学校もあり、平 均2〜14時間と少なく、実施されていない学年も多い。」と綴った。19

 国際理解と外国語学習が共に行われていることが望ましく、外国語学習から国際理解学習 への発展につなげる可能性も充分に秘めているにもかかわらず、外国語会話が他の分野と並 立して、列挙されている状況である。「総合的な学習の時間」が国際理解教育を行う時間を創 り出し、積極的な実践へ繋がることを望みたいが、2008年に出された中教審答申「幼稚園、

小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」にて、「総合 的な学習の時間」の時間数が削減されることになり20、事態は厳しいと言える。

      第2節 国際理解教育政策の新しい方向性

 先の1996年中教審答申は、嶺井が指摘するように、3点から、過去の中教審答申とは異な るものであった。その1っは、「国際理解教育を正面から取り上げていること」、2つ目には、

「外国人子女を教育項目に挙げていること」、最後に、「異文化・異言語に開かれた学校を作 る必要性がある」と示したことだ。21今日の相互依存が深化していく国際社会において、国 際理解教育はますます重要なものとなってきていると明確にしたのは初めてである。そして、

次の3点に留意して進めていく必要があるとした。

a)広い視野を持ち、異文化を理解するとともに、これを尊重する態度や異なる文化を持っ た人々と共に生きていく資質や能力の育成を図ること。

18JICA中部 (2004)

19安達理恵「小学校の総合的な学習の時間における英語教育・国際理解教育の  実践上の課題 各種報告書および愛知県でのフィールド調査より」(2005)

20以下の理由から、「総合的な学習の時間」時間数の削減経緯を述べている。「これまで総合的な学習の時 間で行われることが期待されていた教科の知識・技能を活用する学習活動を各教科の中でも充実することや 高学年において外国語活動を設けることなどから、総合的な学習の時間の授業時数にっいては、各学年にお いて35単位時間(週1コマ相当)程度縮減し、第3学年から第6学年を通じて年間70単位時間(週2コ マ相当)とすることが適当である。」(出典:文部科学省 中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、

高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等σ)改善について(答申)(2008年1月17日)」)

21嶺井明子「転換期にある学校現場での国際理解教育一他者と共に生きる力を身にっけるためにJ(2001.3)

(12)

b)国際理解のためにも、日本人として、また、個人としての自己の確立を図ること。

c)国際社会において、相手の立場を尊重しっっ、自分の考えや意思を表現できる基礎的な力 を育成する観点から外国語能力の基礎や表現力等のコミュニケーション能力の育成を図るこ

と。

と示された。「共に生きていく」、すなわち、「共生」という概念に触れたことは過去の中教審 答申において前例がないため、非常に画期的なことである。この流れは、2003年中教審答申

「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」にも同様の記 述がなされている。「教育の普遍的な使命と新しい時代の大きな変化の潮流を踏まえ,「21世 紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」を目指すため,これからの教育は,以下の 五つの目標の実現に取り組み,多様な個性や特性を持った国民を育成していく必要がある。」

と述べた上で、目標の1つに「日本の伝統・文化を基盤として国際社会を生きる教養ある日 本人の育成」が掲げられた。「グローバル化の中で,自らが国際社会の一員であることを自覚

し,自分とは異なる文化や歴史に立脚する人々と共生していくことが重要な課題となってい る。」として、1996年と同じく「共生」という文言が用いられている。

         第5章今後の日本の国際理解教育政策の方向性

 日本の国際理解教育を語る上で、教育政策の及ぼす影響は計り知れないことから、文部省

(現、文部科学省)の教育政策に焦点を当てた。従来の研究では、1974年を機に日本独自型 国際理解教育へ転換したと述べられてきたが、それ以前においても既にユネスコ型国際理解 教育との乖離がユネスコ、日本ユネスコ国内委員会及び文部省の三機関の動きや目ざす意図 から明らかになった。こうした日本独自型国際理解教育政策が今日における国際理解教育の 礎になっていることは言うまでもない。

 日本の国際理解教育政策は、時代によって求められる要請は変わってきているが、1945年

〜1951年までは国際社会から認められることを最大の目標とした時期であり、1951年にはユ ネスコ加盟を果たすこととなった。1951年〜1955年までは、文部大臣の所掌機関として発足 した「日本ユネスコ国内委員会」と文部省がユネスコの活動や理念を積極的に取り入れる姿 勢が見受けられた。しかしながら、同時期に朝鮮戦争による特需、「コロンボ計画」への参加、

更に国連加盟を経て、国際社会における日本の位置づけが変化していくと共に、ユネスコ、

日本ユネスコ国内委員会、文部省の三機関の方向性も平行線を辿って行く。1956年〜1965

年は、そうした分岐点の始まりであり、日本ユネスコ国内委員会は徐々にアジアへの教育協

力へ傾倒していき、文部省は留学生受け入れや海外在留邦人子女教育への対応や整備に追わ

れていく。一方、ユネスコは、1960年代のアフリカ諸国の独立や1962年、キューバ危機等の

冷戦を前にして国際理解教育の重要性を再認識し、世界共通のスタンダードとなるガイドラ

インの構成に着手し、1974年に国際教育勧告を採択した。日本は、経済発展を遂げるにつれ

(13)

日本における国際理解教育政策の戦後の歴史 53

て噴出していく貿易摩擦の改善や国際社会での日本としての役割を重視することになり、結 果的にユネスコとは相容れない方向性を打ち出すこととなった。1980年以降も臨教審答申が 示すように国際社会における主体的な地位を確立するため、日本文化や伝統芸能への理解を 筆頭に挙げた。こうした見解が学習指導要領に大いに反映され、学校教育現場での実践に繋 がっているのである。

 上記を評して、中西は、「先進的多文化社会であるアメリカ、イギリス、オーストラリア、

ドイツ、フランスなどの欧州諸国と比較するとき、日本では、政治、経済、学術、教育など の側面においてまだまだ学ぱなければならない。]と述べている。22

 1945年以降の日本の国際理解教育政策を検証した上で考えられることは、「複眼的思考の 欠如」である。本稿で明らかになったように、日本の国際理解教育政策は、時代による国益 の要請に左右されながら、日本の国益を国際理解教育によって体現してきた。こうした流れ は、過去の中教審答申を一読すると明らかである。また、日本の国益を筆頭に置いた国際理 解教育政策は、当然、日本国籍児童のみを想定している。それらは、常に一義的な「日本人」

を暗黙の前提としていることが顕著に表れている。更に、国家による多元的視点の欠如は、

国際理解教育における多様性の認識にも影響を及ぼしていることは否めないであろう。

  以上を踏まえて今後の日本の国際理解教育政策の方向性に関する提言を行うと、まず、

国際理解教育に対する実践に即した指針の策定がされることが肝要である。「学校における国 際理解教育勧告」を文部科学省のみならず、外務省、経済産業省等の他省庁、有識者、国際 機関、NGO等の従事者を交えた様々なバックグラウンドで構成されたメンバーで策定される

ことを望む。

 次に、外国籍児童と日本国籍児童の共に学びあう国際理解教育政策の実践を通して、グロ ーバルな視野への酒養を進めていかなければならない。今後は、外国籍児童と日本国籍児童 が共に学ぶ国際理解教育の推進に繋がる政策が打ち出されることを期待したい。教育現場に おける外国籍児童の認識は、ひいては日本に在住しながらも国際化を意識して理解するきっ かけになるだろう。こうした変化こそが、地域に立脚した上でのグローバルな視野へ物事を 拡げる可能性を秘めている。

 最後に、文部科学省の関わる現職教員の海外派遣制度は、現職教員としての地位を保障し ながら参加しやすい仕組みを整え、海外派遣が更に促進されることを期待したい。また、海 外派遣に限らず、教員の新たな視点の獲得や気づきを促す研修の機会を設けることも望まし い。今後は、文部科学省認証による「国際理解教育指導者」資格制度を創設し、各教員は培 った経験を土台にした上で、一定時間の国際理解教育指導法を習得すると、上記の資格が付 与される措置を設ける必要性もあるだろう。

 国際理解教育の今後の方向性として、3点を述べたが、21世紀はますます地球的規模の諸

22財団法人伊藤忠記念財団「地域における国際理解教育の推進に関する実証的研究 伊藤忠記念財団調査

研究報告書33」(1997.11)

(14)

54 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010

課題が深刻さを増す中で、自国の利益を中心にして価値を見出す人材は相互依存関係の中で 成立してい.6諸国との関係を反故することにもなりかねない。今日、正に、21世紀を生きる 次世代を育成するための国際理解教育の在り方が問われているのだ。

       〈参考文献〉

天野正治・村田翼夫(編著) (2001) 「多文化共生社会の教育」玉川大学出版部 佐藤群衛(2007) 「国際理解教育の現状と課題一教育実践の新たな視点を求めて一」

   『教育学研究』2号pp.77 87

佐藤照雄(編) (1993) 「国際理解教育の歩み」 (国際理解教育大系 全12巻 第1巻)

  教育出版センター

高田準一郎(2006)「ユネスコ協同学校計画「国際理解と国際協力のための教育」における教育実験内容に   ついての考察(共同学習・交流学習,日本教育情報学会第23回年会)」『年会論文集』23号pp262−263

』日本ユネスコ国内委員会(1957) 「国際理解の教育」・.

(1959)

(1960)

(1960)

(1960)

(1963)

(1964)

(1971)

「国際理解教育の理念」

「国際理解の教育」

「学校における国際理解教育の手びき」

「国際理解の教育一教育実験5ヵ年の歩み」

「学校における国際理解教育の手びき(昭和38年増補板)」

「学校における国際理解教育セミナー報告書j

「学校における国際理解教育の手びき〔改訂版〕1

嶺井明子(1994)「国際理解教育の理念に関する一考察(その1)一ユネスコ1974年勧告と国内教育政策   の対比を通して一」『比較・国際教育』2号pp.3−15

    (1995) 「「学校教育」における「国際理解教育1の課題」 『比較・国際教育』3号pp.73・78

    (1999) 「日本における国際理解教育政策に関する覚書」『比較・国際教育』7号pp.155−163

    (1999) 「ユネスコ74年勧告と日本の国際理解教育の課題」 『国際理解教育』2号pp.26−42

参照

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