埋葬された種子
〜ウラジーミル・ナボコフの第二の亡命〜
杉 本 一 直
The Buried Seed:Vladimir Nabokov s Second Exile
Kazunao Sugimoto1.はじめに
亡命ロシア人作家ウラジーミル・ナボコフ(BnapmMnp BnaAHMMpoBIIg Ha60KoB
1899・1977)は『ロリータ』 (Lo7ita. 1955)や『青白い炎』 (Paノθ Fire. 1961)などの長編小 説で世に広く知られているが、生涯にわたって、長編小説執筆の合間にさかんに短編小説も 書き続けていた。生前に短編集はいくつか編まれたが、没後20年近く経った1995年になって 初めて、未発表のものを含めた65編の作品が短編全集として英語で出版され1、それを機に研 究者のまなざしがやっと短編作品にも向き始めた感がある。 (ちなみに短編全集の邦訳版は 2001年に出版されている2。長編小説σ)ほうも、1999年に『ディフェンス』 (Defense)が、
2002年に『透明な対象』 (Transρarent Things)がそれぞれ邦訳され、これで長編、短編 とも、ナボコフのすべての作品の邦訳が出揃ったことになる。)
さて、さまざまに意匠を凝らした作品がひしめき合うこの短編全集のなかに、『ヴァシー リイ・シシコフ』 (レ≒5力ZアS始ish、をOV)と題された、おそらく一番目立たない、地味な作品 がひっそりとうずくまっている。この作品の邦訳を担当した私自身、ナボコフらしからぬ、
あまりに「ひねり」のないシュジェートと文体に疑問を抱かざるを得ず、それが原因で、逆 に『ヴァシーリイ・シシコフ』という作品が妙に気にかかるようになり、作品執筆の契機や 当時のナボコフの状況について調べ始めることとなった。そして、この作品にまつわるさま ざまな情報を得るにつれ、『ヴァシーリイ・シシコフ』は、ある意味ではもっともナボコフ らしい作品のひとつであり、もっとも注目すべき作品のひとつなのではないかという見解を 持つに至った。この逆説的なプロセスにっいて紹介していきたい。
2.二重の嘘:ナボコフとアダモヴィチ
1Vladimir Navokov, Thθ Stories ofレ7adimir 7Vabokov, New Jersey,1995.
2ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフ短編全集1・ll』作品社、2000年、2001年。
まず、厳密な意味で言えば、『ヴァシーリイ・シシコフ』は短編小説とは呼べないのかも しれない。1939年9月、パリの亡命ロシア人向け新聞「新報(HocneAHbie HoBocTll)」にこの 作品が掲載されたのは、フィクションとしての短編小説ではなくてエッセイの形であったか
らだ3。ヴァシーリイ・シシコフという「実在の」詩人についてのエッセイである。このエッ セイが出る2ヶ月前のこと、ヴァシーリイ・シシコフなる無名の詩人が『詩人たち』と題さ れた一編の詩をやはりパリの亡命系雑誌「現代雑記(CoBpeMeHHble 3anucKva)」に発表し、亡 命ロシア人たちの注目を浴びたのだが4、シシコフを知る者は当時の文壇には誰ひとりなく、
謎の天才詩人として一層もてはやされることとなった。そこにナポコフのエッセイ『ヴァシ ーリイ・シシコフ』が現れたのである。
ナボコフはそのエッセイのなかで、詩人シシコフとの出会い、シシコフの風貌や人柄、さ らにはシシコフから受けた相談の内容などについて包み隠すことなく仔細に、淡々と語った 後、シシコフが突如として失踪した顛末を紹介して文章を締めくくる。
このエッセイは、言ってみれば、 冗談の冗長な第二章であり、手品の種明かしであった。
つまり、ナボコフは「ヴァシーリイ・シシコフ」という偽名で一編の詩を発表して世間を騒 がせたあと、みずからシシコフについてのエッセイを発表することで、二重に嘘を重ねたの である。ただ、この二番目の嘘は手の込んだ種明かしとして機能し、多くの読者はシシコフ
=ナボコフという答えを見出したようだ。
『ヴァシーリイ・シシコフ』は当初ロシア語で執筆されたが、生前にナボコフ自身がこの 短編の英訳版を発表し、その際に次のような解説を加えている。
1939年の暮れのこと(それから約半年後に私はアメリカに移住したのだが)、パリでの わびしい生活に少しでも楽しみをもたらそうと、当時もっとも名をはせていた亡命批評 家ゲオルギイ・アダモヴィチに他愛のないいたずらを仕掛けることを思いついた。(ア ダモヴィチは私の作品をいっもさんざんにけなしていたし、同様に私のほうも、彼のお 気に入りσ)詩人たちが書く詩をいつもこきおろしていた)。亡命ロシア人のあいだでも っとも売れていたふたつの雑誌のうちのひとつに、新たなペンネームを使って一篇の詩 を発表し、アダモヴィチの反応を見ようと考えたのだ。〈中略〉アダモヴィチは、彼と してはきわめて異例な熱狂をこめてこの詩を賞賛する書評を書いたが(「とうとうわれ われのなかに偉大な詩人が誕生した」云々一私は記憶をもとに引用したが、伝記作者 が今頃正確な情報をつきとめようとしてくれているはずだ)、私はさらに手の込んだい たずらをしたくなり、アダモヴィチによる賛辞が掲載されたあと、同じ新聞に(1939 年σ)12月だったか?またもや正確な日付が思い出せない)散文作品『ヴァシーリイ・
3「新報(nocnenHbie HoBocTg)」1939年9月12日付、ベルリン。
4「現代雑記(CoBpeMeHHble 3anncKH)」1939年6月(69号)、ベルリン。
シシコフ』を発表した。5
1920年代と1930年代にベルリンとパリで賑わいを見せた亡命ロシア人による「亡命ロシア 文壇」において、ナボコフは大多数の読者に支持される人気作家では決してなかった。むし ろアダモヴィチのように、ナボコフの作品に「人間味のなさ」を指摘する者が多かった。祖 国ロシアへのノスタルジーを共有する社会においては、ナボコフの芸術至上主義とも映る作 品群は「冷めた作品」と受け取られがちだった。そんなナボコフが、当時の文壇を牛耳って いたアダモヴィチにいたずらを仕掛けたのである。シシコフの詩に対するアダモヴィチの実 際の反応は次のようであった。
ヴァシーリイ・シシコフとはいったい誰なのか。この名前で発表された詩が以前にあっ ただろうか。確信はできないが、活字でこの名前を見たことはないような気がする。「現 代雑記」に載った詩から考えれば彼の名前は私の記憶にひっかかっていそうなものなの だが、これっぽっちもひっかかっていない。シシコフの「詩人たち」のどの行からも、
どの語からも才能が感じられるのだ。(訳注:アダモーヴィチはここに「詩人たち」の最 初の2連を引用している。)紙面の関係で、この驚くべき詩の全文を引用できないのが残 念である。だがもう一度質問させてほしい。ヴァシーリイ・シシコフとはいったい誰な のだろうか。この1年か2年のあいだに、ロシア詩に関心のある者すべてのあいだでこ の名前が有名になる可能性は十分にある。6
ナボコフのいたずらにまんまとひっかかってしまい惜しみない賞賛をあらわにしたアダモ ヴィチだが、このあとエッセイ「ヴァシーリー・シシコフ」を読んだ彼は、ナボコフの資質 について次のように負け惜しみじみた見解を述べる。 「シーリン」というのは、ナボコフが ベルリン・パリ時代(1920年代〜30年代)に使っていたペンネームである。
ある疑念が私の心をよぎったことをここで告白しておかなければならない。つまり、シ ーリンがすべてを仕組んだのではないか、ヴァシーリイ・シシコフという人物もシシコ フの詩もシーリンが作り上げたのではないかという疑念である。シーリン自身の詩は確 かにかなり違う作風である。だが、他者の意識に成り代わって何かを作り出し、他者の テーマを直観することがもし可能であるならば、それはまさにシーリンの才能と創意を 持ってすれば誰よりもやすやすやってのけられそうな仕業なのである。パロディーやパ スティーシュにおいてはときおりインスピレーションの抑止が利かなくなり、まるで役
5Vladimir Navokov,乃・rants Destroyed and Other Stories. Penguin Books ed. pp.191・2.
6reoprmi AJ[aMoBHg,「新幸艮(nocnenHbie HoBocTH)」1939年8月17日付、ベルリン。
柄に熱中している役者のように、演じているということさえ忘れてしまうことがある。7
ナボコフ自身、当時すでに2冊の詩集を出版し、雑誌や新聞にも詩を投稿していた。 「ヴ ァシーリイ・シシコフ」の新たなペンネームのもとに発表した『詩人たち』は、韻もリズム もナボコフ自身の詩とは似ても似つかないもので構成され、その主題も「祖国へのノスタル ジーと絶望」という、いかにもアダモヴィチが好みそうなものに仕立てあげられていた。だ から、『詩人たち』がもしパスティーシュとしてパロディーとして作用しているとすれば、
それは「アダモヴィチにとって理想の亡命ロシア詩人」という架空の詩人のパスティーシュ
/パロディーである。
こうしてみると、『詩人たち』という韻文と『ヴァシーリイ・シシコフ』という散文には もっぱらいたずら心と文学的遊びが充満しているようにも思えてくるのだが、実際はそうで はない。ナボコフ自身が『ヴァシーリイ・シシコフ』に対して貼り付けた「アダモヴィチに 対するいたずら」というレッテルは、じつは見せかけにすぎず、偽りの品質表示であるとさ えいえる。これらの作品を通してナボコフが本当にもくろんでいたのは、まったく別のもの であった。
3.彼岸:ナボコフとホダセヴィチ
シシコフの『詩人たち』が掲載された雑誌の同じ号に、ナボコフは詩人V.ホダセヴィチの 追悼文を書いている。ホダセヴィチは、当時のナボコフがもっとも尊敬し、親しみを抱いて いた同時代の書き手であり、追悼文にも「いまやすべてが終わってしまった」というナボコ フの深い?胆が見て取れる。そして、もっとも興味深いのは、同じ雑誌の同じ号のためにナ ボコフが書いたこれらふたつの文章(詩と追悼文)が互いに共鳴しあっていることだ。まず、
『詩人たち』を訳出しておこう。
詩人たち no3Tbl
部屋から出た蝋燭が、玄関の間へと辿りつき、
そこで吹き消さされるS目のなかでともしびの刻印が泳ぐ、
だがそれも、星なき夜が暗い紺色の枝々の合間に みずからの輪郭を見出すまでのこと。
7Feopmti A」[aMoBHq,「新報(nocnelHbie HoBocTH)」1939年9月22日付、ベルリン。
もう潮時だ、立ち去ろう一まだまだ若く、
いまだ夢見ぬ夢のリストを手にしたぼくらは、
最後の詩の青白い燐光を放つ韻の合間に
かすかに見え隠れするロシアとともに、立ち去ろう。
だが、.ぼくらは霊感というものを知っていたではないか。
生き続けられるかもしれない、多くの書物が生まれていくかもしれない、
そう感じられたではないか。けれども、祖国を失ったミューズたちが、
ぼくらをずたずたにしてしまった。いまやこの世から立ち去るときが来たのだ。
それは、ぼくらの自由によって心やさしき人々が傷つくのを 恐れているからではない。ただ、もう潮時なのだ、
それに、もう目にしないほうがいいのだ、
ぼくら以外の人々にには見えないすべてのものを。
もう見ないほうがいいのだ、この世のあらゆる苦悩も魅惑も。
はるかかなたで光をつかむ窓も、
軍服を着た従順な夢遊病者たちも、かなたにただずまう空も、
用心深げな雲たちも、ぼくらはもう見ないほうがいい。
答めるような表情をした美。ほら、海辺の小屋に隠れたり そのまわりを走り回る幼い子供たち。夏の夕暮れのなかで その小屋もぐるぐる回っていく。夕焼けの美しさ、
答めるようなその表情。もうぼくらは見ないほうがいいのだ。
もう見ないほうがいい。ぼくらを苦しめ、傷っけ、
ぼくらに絡みつくすべてものもを。向う岸のネオンサインの働嬰を、
霧のなかを流れるそのエメラルド色の光を。
そして、もうぼくには言いあらわしきれないすべてものを。
今、この世の敷居を飛び越え、あの領域へと移り住もう。
そこをなんと呼ぼうとかまわない、好きなように呼んでくれ、
荒野? 死? 言葉から解き放たれた領域?
あるいはもっと簡潔に、愛の沈黙とでも呼ぶべき領域。
花々が泡となってわだちを隠す 遠い荷馬車道の沈黙、
祖国の沈黙一望みのない愛の沈黙、
かなたで光る稲妻の沈黙、種子の沈黙。8
1連目の4行でろうそくの炎の残像という周到なメタファーを与えられているのは、おそ らく祖国をあとにした亡命者たちの存在そのものであろう。徐々に薄れていく残像のように、
異国での苦しい生活に磨り減ってどんどん希薄になっていく自分たちの存在意義や存在感が、
はかなさとともにたった4行で描写しつくされている。
第2連以降は、ナボコフを置き去りにして「向こう側」へと去っていったホダセヴィチの あとを追いたがっているかのように、 「私」は「もう潮時だ、立ち去ろう」 「沈黙の領域へ 移り住もう」としきりに宣言する。「この世」からみずから立ち去ること、っまり自殺に似 た行為が示唆されていると取れる。
同じ雑誌の同じ号に載ったホダセヴィチへの追悼文の一部も訳出しておこう。
現代のもっとも偉大な詩人であり、チュッチェフ経由のプーシキン後継者であるホダセ ヴィチは、 ロシア詩というものが人々の記憶にほんの少しでも残っているかぎり、ロシ ア詩の誇りでありつづけるだろう。 〈中略〉 いずれにせよ、いまやすべてが終わっ てしまった。遺品としてのこされた宝物が、未来を見すえながら棚の上にたたずんでい る。宝物を掘り出した当人は、遠い彼方へ去っていってしまった。だが、その彼方から は、偉大な詩人たちの耳に何かが届く。そして、彼岸のみずみずしさをわれわれの日常 に吹き込み、芸術の真髄を成す神秘なるものを作品に付与してくれるのだ。9
詩人がこの世に残した詩行を通して、「彼岸」からこの世へ何かがもたらされる。後世の 才能ある詩人たちと彼岸の領域とを結びつける媒体としてホダセヴィチの作品が作用する。
この追悼文とシシコフ名義の『詩人たち』は、ふたっともnoTycTopoHHocTb(彼岸)という キーワードが主軸となっていて、さらにYiTH TyAa(あそこへ立ち去る)などの多くの語彙 を共有している。言い換えれば、ナボコフはシシコフという架空の詩人を設定することによ り、フィクションの領域で(架空の詩人であるがゆえに)、そして韻文の領域で、「もうひ とっの追悼文」を差し出したのだといえる。
『詩人たち』がホダセヴィチにまつわる詩であることを示すさらに確実.な証拠が存在する。
この詩の最後の詩句「種子の沈黙(MO」[[・laHHe、3ePHa)」がホダセヴィチの代表作『種子のよう
8Vladimir Nabokov, Poems and」Problems, McGraw−Hill lnternational,1970, pp.92・4.
9<<OXo其aceB四e)》「現代雑記(CoBpeMeHHble 3aHHcKn)」1939年6月(69号)、ベルリン。
に(IIYTeM 3ePHa)』を確実に想起させるのである10。ロシア革命直後に書かれたホダセヴィチ の名作をここに訳出しておこう。
種子のように
真っ直ぐな馬鍬路を、種を蒔きつつ農夫が歩む その父も、祖父も、まさにその同じ路を歩んだものだ
農夫の手には、金のごとく種子がきらめいている だがそれは、暗い地のなかへ落ちてゆくさだめ
盲目のミミズがくねって進むその場所で
聖なる期間を、種子は、死ぬ 一 そして、発芽する
わたしの魂もまた、種子と同じ道を行く 闇へ入り込み、死に、そしてよみがえる
わが祖国よ、わが民よ、おまえも、死んだのち この年を通り抜け、そしてよみがえるのだ
「生きとし生けるものは種子の道を行く」
それがわたしたちに与えられたただひとつの英知ゆえ
nyTEM 3EPHA
npoxoAm cefiTenb no poBHLIM 60po3AaM.
10『詩人たち』とホダセヴィチを結びっける証拠はほかにも存在する。そのなかのもっとも 確かなひとつは、ホダセヴィチが1936年に創作した『ヴァシーリイ・トラヴニコフの生涯』
と題された散文作品である。これにっいては稿を改めて論じたいが、この作品でホダセヴィ チは「18世紀の知られざる詩人ヴァシーリイ・トラヴニコフ」なる人物を握造し、その生涯 と作品の一部を読者に紹介している。ホダセヴィチは朗読会でこの作品を朗読し、そこにナ ボコフが同席していたという確かな記録がある。「シシコフ」と「トラヴニコフ」が「ヴァシ ーリイ」というファーストネームを共有していること、そして、「シシコフmHmKOB」の語 源がmHIIIKa (松かさ)であり、「トラヴニコフTpaBHHKoB」の語源がTpaBa(草)である
ことが、ふたりの架空の詩人の血縁を明示している。ホダセヴィチの『ヴァシーリイ・トラ ヴニコフの生涯』はB刀aぷHc刀aBΦe丑x田HΦHoB四Xo以aceB四, AepoKaBHH)》, M.:KHHra,
1988.に所収されている。
OTe凪ero H丑en・no・TeM・・Ke・mnH・nyT兄M.
CBepKaeT 30JIαToM B eFo pyKe 3epHo,
Ho B 3eMnKo q6pHyK)oHo yrlacTbぷoJI激Ho.
HTaM, rAe qepBs cJleno□npoKJIaJ[hlBaeT xoA,
OHo B 3aBeTHhlti cpoK yMp6T−Hnpopa(r. r6T.
TaK H兀yma MO月㎎さT nyT6M鋼旦:
CoiAH Bo MpaK, 6T−MooKHBeT oHa.
HTbl, MoH cTpaHa, H TLI, e6 HapoA,
yM 6皿b H ooKHB6mあ, llpofiJ[H cKBo3b 3ToT ro耳,一
3aTeM, qTo MynPocTb HaM eAHHa只AaHa:
BceMy oKllBYIIIeMY㎎TH nyT6M⊇L l i (下線は引用者による)
ナボコフが『詩人たち』の最後の語を、ホダセヴィチの名作の最後の語とまったく同じ 3ePHa(読みは「ゼルナー」、意味は「種子の」、3ePHOの単数生格)という単語で結んだ時 点で、この詩はホダセヴィチへのオマージュとして完成する。
ホダセヴィチの詩において「種子」が象徴するものはyMP6T ll OOKIIB6T, yMp6mb H o)KHB6mbなどが示すように、死と再生である。種蒔き人(ceHTeJib)によって地に「埋葬さ れた」種子が再び発芽して花を咲かせるというプロセスだ。ホダセヴィチはこの詩をロシア 革命に捧げた。より正確に言えば、革命によって「殺された」ロシアに捧げた。さらに、革 命によって亡命していく自分自身に捧げたのである。ここでは、種子とロシアとホダセヴィ チ自身の「死と再生」が三重に重ねあわされている。
そうだとすれば、シシコフ名義の『詩人たち』で宣言されている「自殺」は何らかの形で の再生を目指したものだということになる。ここでの再生とは、ホダセヴィチへの追悼文で ナボコフが書いているように、詩人がその死後に、この世に残した作品を媒介として、そこ から霊感を受けた新たな詩人の作品のなかに蘇ることであり、また、のちに述べるように、
ナボコフ自身の来るべき再生でもある。
このように、ナボコフが「無名の詩人シシコフ」を捏造した契機はホダセヴィチの死であ
.ll BJIaAHcJlaB XoAaceB四,《《Co6paHHe coqHHeHHti B 4・x ToMax》》, MocKBa,1996, ToM 1,㏄p.
137.
ったこと、『詩人たち』がホダセヴィチに捧げたオマージュであったことが確認される。そ して、2ヶ月後に発表したエッセイ風の物語のなかでナボコフはシシコフをいったん散文の 世界で肉付けしたあと、物語の結末では彼を未知の次元へと失踪させ、消失させる。そうす ることで、自らの分身を彼岸にいるホダセヴィチの元へと送ったのである。これが、短編『ヴ ァシーリイ・シシコフ』の裏側に隠された第二層であり、いわば「ホダセヴィチの層」であ る。だが、この短編小説はさらなる第三の層を隠し持っている。
4.第二の亡命:シーリンからナボコフへ
『ヴァシーリイ・シシコフ』は、これと同時期に書かれた『北の果ての国』(Ultima Th ule)、
『孤独な王』(So/us Rex)とともにナボコフがロシア語で執筆した最後の散文作品である。
これに先立つ1938年の暮れには、英語による最初の小説『セバスチャン・ナイトの真実の生 涯』(Thθ Rea1 Life of Sebastian Khight)の執筆をすでに開始し、1940年の渡米以降、すべ ての散文作品をナボコフは英語で執筆することになる。
1940年5月の渡米の直前、ナボコフはヨーロッパの亡命ロシア人社会に一通の置手紙を残 している。すでにシシコフ=ナボコフという種明かしがされたにもかかわらず、「現代雑記」
の4月号に、ふたたび「ヴァシーリイ・シシコフ」のペンネームで『ロシアへのことつて』
と題する一編の詩を掲載したのだ。冗談の蛇足と見なされても致し方ないこの詩は、しかし、
ヨーロッパの亡命ロシア人社会に宛てた最後の手紙であり、再生を夢見た「自殺」をみずか ら宣言したものだった。この、シシコフ名義の第二の詩も訳出しておきたい。ちなみに、こ の詩における二人称「きみ」はロシアを指す。
ロシアへのことつて 06pa皿eHHe/K POCCHH
そっとしておいてほしい お願いだから!
夕暮れが恐怖を抱かせ、人生のざわめきはすっかり静まり返った。
ぼくは無力だ。そして死にかけている、
ぼくに打ち寄せるきみの、見えない波にさらされて。
気ままに祖国を捨てた男が山の頂に立ち、
祖国を想い遠吠えしようとも、それは彼の自由だ。
だがぼくは今、谷間へ降りてきたところ、
今は、けっしてぼくに近づかないでくれ。
ぼくはもう、永遠にこの身を隠し、
名を捨てて生きていこうと思う。ぼくはもう、
夢のなかでさえきみと出会わないために、
あらゆる夢を拒否するつもりだ。
自分のからだから、血をすべて抜き取ろう。何もできないからだにしてしまおう。
ぼくのいちばん好きな書物にも、もう触れまい。
ぼくのすべてを、つまりぼくの言語を、
どんな国のどんな方言とだっていいから、取り替えてしまうつもりだ。
だけど、そのかわり、ロシアよ、涙を透かし、
ふたつの墓が離れて立っ草地を透かし、
白樺のまだら模様を透かし、
若い頃からぼくを支えてきたすべてのものを透かし、
きみのその見えない目で、
ぼくを見つめないでくれ、少しは哀れんでくれ、
この炭坑のなかで、探さないでくれ、
探り当てないでくれ、ぼくの生命を!
なぜなら、年月が過ぎ去り、幾世紀もが過ぎ去ってしまったからだ、
悲しみを、苦しみを、恥辱を、
一もうおそい、おそすぎる!一誰も償ってはくれないからだ、
魂が許しを与える相手はもうどこにもいないからだ。12
ナボコフはそれまで、ベルリンとパリを中心とした亡命ロシア人社会のなかでロシア語作 品を発表し続けてきたが、離れ小島のようなこの閉塞的社会に彼は限界を感じつつあった。
とくに、1930年代後半になり、ナチスの台頭や戦争の予感にさらされて雑誌や新聞が時事問 題ばかりを取り上げるようになり、亡命者たちの関心も文学や芸術からしだいに離れていく につれて、ナボコフは生活の場も執筆の言語も刷新したいと真剣に考え始めた。そうした願 いが大きな決心へと変わり始めた頃、ホダセヴィチが亡くなったのである。ナボコフはおそ らく、ホダセヴィチの死に、ベルリンとパリにおけるロシア亡命者文化の終焉を、決定的な 象徴として感じ取ったにちがいない。少なくともナボコフにとっては、 サれは確固たる終焉
であった。
12Vladimir Nabokov, Poems a加「乃roblems, McGraw Hill International,1970, pp.96・98.
一連のシシコフ・シリーズ、つまり2篇の詩『詩人たち』、『ロシアへのことつて』とrp ッセイ風の短編『ヴァシーリイ・シシコフ』は、いずれも「失踪」や「自殺」をテーマとし、
その先の「再生」を暗示している。ホダセヴィッチの詩を契機に、ホダセヴィチへのオマー ジュとして書かれたこれらの作品は、同時に、新たなる生へ踏み出そうとしているナボコフ 自身の宣言であり、ロシア語作家fシーリン」 (ナボコフがベルリン・パリ時代に使ってい たペンネーム)の「遺書」であったのだといえよう。
のちにナボコフは、ベストセラーとなった『ロリータ』へのあとがきのなかでこんな言葉 を漏らしている。 「私以外の人には関係のないことだが、私の個人的な悲劇とは、自分の言 語を一何の束縛もなく、豊かで、無限に従順なロシア語を 二流のへたくそな英語と引 き換えに捨てなければならなかったことだ。13」ナボコフにとってもっとも大きな「個人的 悲劇」は、1919年に祖国を捨てて亡命せざるを得なかったことではなく、大きな決心ととも に作品執筆言語をロシア語から英語に切り替えたことだったのである。
考えてみると、ベルリンとパリにおける亡命ロシア人のコミュニティーは、失われた祖国 ロシアの残像を一見陽気に、実は絶望的に、温存しようとし、しだいに薄れていくその残像 にすがりつきながら、それでも驚くほど長い期間存在し続けた。執筆言語を英語へと切り替 え、ヨーロッパからアメリカへ移住することによって、ナボコフはもう一度、そして最終的 に、ロシアから、ロシアの残像から、立ち去ったのだと言えよう。それは、ナボコフにとっ ての、第二の亡命であった。シシコフ・シリーズの三作品は、この第二の亡命直前のナボコ フをわれわれ読者にはっきりと見届けさせてくれる。
これが、『ヴァシーリイ・シシコフ』の第三層であり、最後の層である。
13Vladimir Nabokov, Zうθ.4η刀ota ted Lo]lita Re viseゴanゴUpdated, ed. by Alfred Appel,
JR., New Ybrk, pp.316・7