山崎弁栄 の 光明主義 と 伝統的仏教 の 現代的展開
︱宗教社会学的視点から︱
中 村 眞 人
目 次一 浄土教の現代的展開としての光明主義二 山崎弁栄の出自と光明主義の形成まで三 光明主義の教義と儀礼四 光明主義の宗教体験と﹁念仏三昧﹂五 光明主義の宗教運動と社会組織六 宗教における伝統と近代︑および宗教共存の可能性
一 浄土教の現代的展開としての光明主義光明主義とは︑浄土宗僧侶であった山崎弁栄︵一八五九年︱一九二〇年︶が一九一三年頃から唱え始めた独自の教義と宗教実践であり︑山崎弁栄自身によってこのように名づけられた︒光明主義は︑口称念仏を中心とした伝統的な浄土宗の儀礼をもとにしながらも︑それとは異なった儀礼の体系をそなえている︒また︑信仰活動は︑浄土宗の僧侶や壇信徒だけでなく︑それ以外の広い範囲で︑仏教に積極的な関心を寄せる人々によって実践されている︒その活動
は︑後でみるように︑現在も︑いくつかの宗教集団によって継承されている︒そこでは︑浄土宗に僧籍をもつ職業的な宗教者が中心的な役割を果たしていることが多いが︑しかし︑運営の中心的な担い手のなかには︑職業的宗教者以外の人物も少なくない︒したがって︑光明主義は︑浄土教の系統に分類される仏教の︑現代の日本社会に生きている一つの実践形態と見なすことができる︒宗教学者の脇本平也は︑宗教の構成要素を教義︑儀礼︑教団︑体験の四つととらえ︑宗教一般に対して各側面から考察を加えている
︒光明主義は︑教義︑儀礼︑教団のそれぞれについて︑既成の伝統的宗教とは異なる独自性を有し 1
ており︑浄土宗など既存の浄土教に帰することのできない一個の独立の宗教現象と見なすことができる︒社会学者エミール・デュルケームは︑宗教を構成する二つの要因として︑信念と儀礼を挙げた︒信念は表象から
なっており︑儀礼は行為的な実践である︒そしてこの両者が密接に相互作用しあうことを指摘し︑それぞれの形態について考察を加えている
本来︑浄土教は︑中国において新たな展開を見せた大乗仏教の一潮流である︒さかのぼれば六朝時代における廬山 帯によって儀礼が執行される︒ ︒さらに︑この宗教的信念は︑宗教集団のメンバーによって共有され︑これらメンバーの連 2
の慧遠による白蓮社といった古い事例もある︒しかし︑中国浄土教として大きな社会的勢力となったのは︑曇鸞︑道綽︑善導の系譜に位置づく人々によって唐代以降に確立された︑口に阿弥陀仏の名号を唱えることのみによって極楽浄土へ往生できると信じる宗教実践である︒日本においても︑当初は︑阿弥陀如来の浄土に往生しようとする信仰が︑多くの小集団によって広範囲に実践されていた
︒それらを社会的な宗教勢力として統一し︑浄土宗として制度化 3
するために︑一二世紀なかばから一三世紀初頭に活動したのが︑法然だった
がて多数派を占めるにいたったのは︑法然に直接師事した僧侶の一人である聖光房弁長に始まる鎮西派であり︑現代 ︒この法然に従う宗教集団のなかで︑や 4
日本の浄土宗もこの流れを汲む
ある人格としての阿弥陀如来に対する絶対的な帰依にある︒第二に︑口に阿弥陀仏の名号を称えることを実践の中心 発展させようとするものであった︒伝統的な日本浄土教の発展である以上︑宗教生活の特徴は︑第一に︑信仰対象で 山崎弁栄の光明主義は︑出発点においては︑日本に伝承されてきた浄土教を︑近代化の進行する日本社会において ︒ 5
に置く︒第三に︑社会生活の現状を﹁穢土﹂と位置づけ︑それとは異次元の高い価値をもつ生活空間を﹁浄土﹂として志向する︒この第三の点に関して︑伝統的な浄土教では︑﹁仏説阿弥陀経
﹂に﹁十万億土﹂と表現されていること 6
から空間的に極めて遠い位置に﹁浄土﹂を想定するが︑光明主義では﹁客体の如来を必ずしも遠き彼岸に置かず
この論文では︑山崎弁栄の光明主義と︑その流れを継承する光明主義系宗教運動を対象として︑第一に︑近代社会 現世における生活の価値転換を志向する︒ して伝統的浄土教とは異なった解釈を示し︑空間的に大きな距離を想定していない︒むしろ︑浄土教の信仰による︑ ﹂と 7
と伝統的宗教との関係について考察を加える︒伝統的教義という世界観と価値観の体系にしたがい︑伝承された宗教儀礼という伝統的行為を共有する集団が︑近代化が急速に進行し合理主義が強く支配していく近現代の社会におい
て︑信念と行為をどのように継承し変容させるか︑について検討する︒仮説として述べれば︑光明主義は︑口称念仏を中心とする阿弥陀如来への人格的信仰という伝統的形態を保ちながら︑近代合理主義にもとづき世俗生活を営む人々によって実践されてきた︒そのなかには︑大学で教育と研究に携わる哲学者︑数学者︑工学者なども含まれている︒浄土教は︑合理的世俗生活のなかで実践されることによって︑近代的な客観性や合理性を信奉する人々の精神生活とも両立可能な理知的宗教へと内容を変容させた︒第二に︑伝統的な宗教が︑自らとは異なる世界観・価値観の体系と接触するなかで︑他の宗教や︑また非宗教的な
信念体系と交流し共存していく可能性について考察する︒このことは︑キリスト教においては宗教多元主義の問題として提起されている
や儀礼を説く文書のなかで﹁恩寵﹂﹁完徳﹂といったキリスト教的な表現が用いられている︒また︑儀礼に西洋音階 葉づかいや振る舞いを受容し︑キリスト教に対して融和的な態度を示した︒光明主義では︑山崎弁栄によって︑教義 ︒光明主義は︑日本における社会生活の近代化という文脈の上で︑キリスト教と接触し︑その言 8
による聖歌が採用され︑初期のものは山崎弁栄自身が作詞しており︑重視されている︒教義の説明のなかでは︑カント哲学を始めとする西洋哲学の概念が用いられることがある︒光明主義は︑日本浄土教の伝統とは異なるものへの融和によって︑近代合理主義的価値観とライフスタイルを持つ社会階層のなかに浸透することができた︒このことはまた︑非西欧の伝統的宗教である浄土教が︑西欧的近代合理主義と共存するために自己変容を遂げる過程でもあった︒
この近代合理主義と宗教との関係は︑マックス・ヴェーバー以来︑宗教社会学の主要な問題である
さらに︑その山崎弁栄の生存中から︑キリスト教徒であるままに光明主義の宗教運動へ参加する者があった︑と伝 ︒ 9
えられている︒今日でも︑光明主義系の主要な団体の一つが主催する︑教義を研鑽するための集会で︑ローマ・カトリック教会の司祭が講義を行なうことがある
︒光明主義の現代における指導的な実践者であるとともに理論的探究者 10
でもあった河波昌︵一九三〇年︱二〇一六年︶は︑山崎弁栄が宗教体験を深めるなかで︑キリスト教的世界との一致を体験した︑と論じ︑この側面を強調している
た 独自の宗教運動を展開した日向美則は︑浄土教を基調としながら︑仏教とキリスト教の共存と交流を明示的に主張し ︒これとは別に︑光明主義の影響を強く受けて京都北山修道院という 11
︒以上から︑光明主義は︑宗教間対話および異なる宗教の共存について考察するために︑特に示唆的な具体的事実 12
である︒
二 山崎弁栄の出自と光明主義の形成まで︵一︶山崎弁栄の伝記的な資料光明主義の教義と儀礼は︑山崎弁栄によって形成された︒宗教の歴史の上では︑実際に教義を形成した人物とは別個の︑崇拝対象となりうるような人物に︑教義の形成が帰せられることが少なくない︒しかし︑光明主義という宗教運動は︑山崎弁栄の生存中は弁栄による直接的な指導下にあった︒ここでは︑山崎弁栄の個人史を時間軸に沿って検討しながら︑光明主義の形成について考察する︒山崎弁栄の伝記として︑最も記述の量が多く︑また内容に信頼がおけるものは︑田中木叉による﹃日本の光︵弁栄上人伝︶﹄︵ミオヤのひかり社︑一九三六年︶である︒復刻されて︑
A 5
版本文六〇三ページの大著である︒田中木叉は︑長崎県の寺院に生まれ︑第一高等学校を卒業︑東京帝国大学で英文学と哲学を修めて卒業し︑宗教大学︵現在の大正大学︶などで教授を務めた︒一九一八年︑三七歳のとき︑山崎弁栄が六〇歳のときに師事した︒山崎弁栄の著 13
とされる光明主義の教義書﹁光明大系﹂は︑﹃人生の帰趣﹄︵初版は一九二三年︑増補四版は一九六四年︶を始めとして﹃光明の生活﹄﹃無量光寿﹄などいくつもの巻からなる
知ることができる︒そこで︑以下では︑主として田中木叉による伝記に依拠しながら︑山崎弁栄の個人史を軸とした 資料を適切に整理し︑伝記を執筆するための知的能力と資質を十分に有することは︑その学校教育歴と職業経歴から また︑山崎弁栄の生存中における逸話をもっともよく採集できる人物の一人であった︒さらに︑それらの信頼できる 以上から︑田中木叉は︑山崎弁栄が布教のために刊行・配布した文書類や遺稿を豊富に披見できる立場にあった︒ 継承に努め︑戦後は光明園を主催した︒ 簡集﹃御慈悲のたより﹄全三巻もまた田中の編集になる︒山崎弁栄の没後は︑有力な後継者の一人として光明主義の が︑田中木叉はこれらの編者である︒また︑山崎弁栄の書 14
光明主義の形成と普及の経過について考察する︒このほかにもいくつかの資料がある︒上記﹃日本の光﹄を第一とすれば︑第二は︑同じ田中木叉が自ら編纂した山崎弁栄﹁光明大系﹂の第一巻である﹃人生の帰趣﹄の巻末に﹁編者謹誌﹂として収めた﹁弁栄聖者略伝﹂である︒これは増補四版では四ページからなる小編であり︑﹃日本の光﹄の摘要と見ることができる︒第三は︑二〇〇九年に刊行された河波定昌﹃如来さまのおつかい﹄︵
A
六判本文一八四ページ︶である︒財団法人光明修養会が弁栄上人九〇回忌記念事業の一環として刊行したもので︑﹁中学生でも理解できるような入門書的なもの﹂を企図して執筆が依頼され︑依頼者である光明修養会理事長鶴山瑞教は﹁当方の念願にかなうようなものができあがり﹂と感謝を記しており︑著者河波も企図を果たしたと信じていた︒たしかに︑敬体文︵です︑ます調︶による親密な語り口で書かれてあ
り︑明晰で理解しやすい叙述がなされている︒しかし︑内容は︑河波による最新の学術的成果をも背景とした高度なものであり︑叙述された内容は現代の平均的な中学生にはとても理解しがたい︒敢えて言うなら︑旧制中学校の成績優秀者程度の基礎知識と論理的理解力に辛うじて相応した水準である︒前篇は弁栄の伝記︑後篇は光明主義の教説の概略と考察からなる︒前篇は田中木叉﹃日本の光﹄を主たる資料としている︒したがって︑事実認識としては﹃日本
の光﹄を超えるものではない︒しかし︑河波による光明主義の教義と儀礼についての研鑽に基いて︑弁栄の生涯にわたる宗教活動に対する時期区分と解釈がなされており︑独自の意義を有している︒第四に︑冨川茂原作︑吉松喜久造・吉松史恵編集﹃弁栄上人様のお話とお弟子達の入信
便利な書物である︒特に笹本戒浄︑田中木叉︑藤本浄本という人物について︑山崎弁栄との関係を軸に叙述されてい 体に振り仮名が施されている︒山崎弁栄本人と︑その信仰を直接に継承した人々について︑明瞭な人物像を描くのに 二〇〇四年の改訂版と︑二〇一三年の改訂新版では︑三島健稔が改訂者となっている︒挿絵と写真を豊富に含み︑全 ﹄を挙げることができる︒ 15
るのが資料的に有意義である︒この三人はいずれも浄土宗僧侶であり︑大学での教職を経験し︑弁栄逝去の後には︑継承者の集団を組織化するのに重要な働きをした︒以上四点は︑現在︑容易に披見しうるものであり︑このほかにも優れた伝記的叙述が存在している︒しかし︑ここでは︑既に示したような研究関心を基準とした選択により︑第一の資料における事実認識と︑第三の資料による解釈
に随うことにする︒
︵二︶山崎弁栄の誕生から光明主義の前段階まで山崎弁栄は一八五九︵安政六︶年二月︑下総国葛飾郡鷲野谷︑現在の千葉県柏市鷲野谷に生まれた︒生家は自作農
で︑七人兄弟姉妹の第三子︑長男だった︒土地の風習として第一子が女性であっても養子を迎えて家督を継がせることは普通であり︑山崎家でもそのようにしていた︒長じて自らの意志で僧侶となるにあたっても︑性別と出生順位は特に抵抗とはならなかった︒当時は︑近代的学校教育制度の施行以前であり︑のちの初等教育に該当する国語や書写などの教育は﹁手習い﹂によって私的な教育者のもとに通い︑一〇歳代なかばからは父親のもとで農業に携わった︒生家は家父長みずからが中心となって農作業を行う手作農家だった︒家計は安定しており︑後年︑父親が弁栄の宗教活動に対して金銭を寄付することもあった︒一八七九︵明治一二︶年一一月︑二一歳の時に自らの意志によって出家し浄土宗僧侶となり︑自らも浄土信仰の篤かった父親はこれを支持した︒浄土宗関東一八壇林の一つである東漸寺に所属し︑二〇歳代前半には浄土宗学をはじ
めとして伝統的な仏教学一般を学ぶために東京に派遣された︒さらに東漸寺にて職業的宗教者としての務めに携わりながら︑仏教学の研鑽と口称念仏の実践によって宗教体験を深めた︒時には単独で野外における昼夜にわたる長時間
の口称念仏を行うこともあった︒三三歳のときに善光寺なる新設寺院の創建を果たして住職となった︒三六歳のときにはインドに渡り︑三か月あまりにわたって釈迦の事績が伝わる土地を巡る機会に恵まれている︒
この時期から既に強い意欲をもって独自の布教活動を繰り広げていた︒その特徴は︑第一に︑浄土宗所依の経典である浄土三部経のなかでも﹁仏説阿弥陀経﹂を中心とし︑自ら細密な線描画である﹁阿弥陀経図絵﹂を制作して配布
するところにあった︒﹁仏説阿弥陀経﹂は︑時間を超越した存在である阿弥陀如来が︑西の方角に無限の距離をおいた理想的国土に実在しており︑いま現在︑最高の真理を語っている︑と説く︒そして︑日数の多寡を問わず精神集中
して阿弥陀仏の名前を称えれば︑死後︑この阿弥陀如来の国土に転生して救済される︑と主張する︒すなわち︑現世とは別の空間への転生によって救済を得ようとする教義である︒第二の特徴は︑絵画と音楽という芸術的表現によって感受性に訴える布教方法にある︒﹁阿弥陀経図絵﹂自体︑既に絵画表現の形をとっていたが︑それにとどまらず︑布教のために多種類の絵画や造形作品を制作している︒書作品
のなかには︑﹁米粒名号﹂と呼ばれる︑﹁南無阿弥陀仏﹂の名号が筆で書かれた米粒もあった︒絵画は︑生涯にわたって︑白描・彩色を問わず豊富に制作され︑現在も遺作が多数残されている︒遺作のなかには︑﹁三昧仏﹂と称して宗教儀礼の際に礼拝の対象とされる完成度の高いものが多数ある︒これは弁栄自身が深い宗教体験のなかで視覚化した像であり︑阿弥陀如来の胸から頭頂までが極彩色で描かれ︑主に後の光明主義形成後の段階で制作された︒
また︑布教では音楽表現が積極的に用いられた︒多くは﹁美しき天然﹂のように当時すでに広く親しまれていた西洋的な音階の旋律に︑自ら作成した仏教的な歌詞を付したものであった︒弁栄は︑当時あまり一般的ではなかったア
コーディオンを自ら演奏して伴奏とした︒これはキリスト教の儀礼のスタイルを採り入れたものと考えられ︑当時は﹁耶蘇くさい﹂との非難もあった︒後には﹁光明聖歌﹂の名称で弁栄および後継者によって数多く制作された︒のち
に光明主義が発展するなかで弁栄が制作した聖歌には﹁念仏七覚支﹂﹁三身の聖歌﹂のように教義を韻文で表現したものもあり︑現在も重視されている
用いられているが︑近代初期の当時では異例だった︒当初︑弁栄は︑聖歌を特に子どもへの布教に積極的に用いた︒ ︒現在でこそ︑日本仏教のいくつかの宗派で西洋音階の旋律をもった仏教賛歌が 16
三 光明主義の教義と儀礼︵一︶光明主義の教義の形成山崎弁栄は︑四〇歳代なかば頃から︑独自の教義と儀礼の形成を始めた︒これによって︑光明主義は一つの独自性をもった宗教として確立されることになる︒この教義と儀礼は︑一体となって︑﹃如来光明礼拝儀
﹄に体現されてい 17
る︒この礼拝儀にもとづく宗教儀礼は︑現在も山崎弁栄の流れを引く光明会系の信仰者によって行われている︒河波定昌は︑﹁阿弥陀経図絵﹂を中心とする宗教活動を﹁前期弁栄﹂︑光明主義の段階を﹁後期弁栄﹂として二分
し︑前期から後期への転換を︑法然の宗教体験︑シェリング哲学︑ハイデッガー哲学などの例と並べながら﹁決定的に重要な意味﹂があると論じている︒前期弁栄教学が主として﹁仏説阿弥陀経﹂に依拠するのに対して︑後期弁栄教学は﹁仏説無量寿経
九〇二年︑弁栄四四歳のときに刊行された﹁無量寿尊光明嘆徳文及要解﹂がその出発点である︒ ﹂︑特にそのなかでも﹁如来光明歎徳章﹂と呼ばれる一節を中心にしている︒河波によれば︑一 18
この﹁如来光明歎徳章﹂は︑﹁仏説無量寿経﹂の︑﹁仏告阿難無量寿仏威神光明最尊第一﹂に始まる一節から抜き出した文章を編集し︑訓読を施したものである︒その中心は︑阿弥陀仏の別号である一二の名前を列挙する部分であ
る︒それらは︑無量光仏︑無辺光仏︑無礙光仏︑無対光仏︑焔王光仏︑清浄光仏︑歓喜光仏︑智慧光仏︑不断光仏︑難思光仏︑無称光仏︑超日月光仏と︑いずれも光という語を伴っており︑古来︑十二光と呼ばれてきた︒