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完徳への道における言葉と理性

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完徳への道における言葉と理性

──聖アンブロシウス『ヤコブと幸いな生』

導入部(第 1 巻1,1-3,9)試訳──

石井 雅之

 ここに掲載するのは、 4 世紀にミラノの司教を務めた聖アンブロシ ウス(Ambrosius340年頃~397年;374年司教叙階)の著作『ヤコブと 幸いな生(De Iacob et vita beata)』の導入部の試訳である。原文は、

G.ノロワの校訂本(2010年刊)のラテン語テクストによる1。同書は二 巻に分けられ、第 1 巻が三つの部分から、第 2 巻が二つの部分から成 ると考えられるが、訳出したのは第 1 巻の最初の部分で、全体への導 入部とみられる1,1から3,9までである2

 本書は、人間の教導の在り方について論じることから始められる。

そこで論じられたことは、第 1 巻の第三部のはじめの部分に反映して くる。その部分を先取りして参照することは、導入部の論点を理解す るうえで有益だと思われるので、導入部試訳を提示する前に、第三部 はじめの「幸いな生」に関係づけられた立論の概略を示しておきたい。

 アンブロシウスは、本書第 1 巻7,27(第 1 巻の第三部の最初の節)

で、「嵐も、深刻な危難も、死の恐怖や罰の恐怖も、決して慈愛(caritas)

の力を弱めることはない」(1,7,27)ことから「そのような事態のなか に幸いな生(beatavita)が、たとえその生が多くの危難に溢れていよ うとも存すること」(同)を強調している。

 そのうえで彼は、「知恵ある者(sapiens)」が、肉体の苦(dolor)に よって打ち砕かれることがなく、また災難によって動じることもなく、

むしろ艱難にあっても幸いな者(beatus)としてとどまる」(1,7,28)

(2)

とみられることにも着目する。そして、「生の幸い(vitaebeatitudo)」

は、「肉体の快(delectatio)のうちにではなく、犯されたいかなる罪 にも汚されない意識(conscientia)に、そして、善いことはたとえそ れが苛酷であっても快いということを知る者の精神(mens)にこそ存 する」(同)こと、その「善いこと」をもたらすもの、すなわち「善く 生きること」の導因(causabenevivendi)は、「精神の賢慮(mentis prudentia)」ないし「理性(ratio)」であること(同)、そのことのゆ えに「精神」が「幸いな生の仲介者(interpres)」であること(同)を 説いて、「知恵」、そして「意識」「精神」「賢慮」という内なるものを 重視する見方を打ち出す。さらに、そのように説かれる「幸い」が存 する人にとっては、「善いこと」とは「自己自身がもつもの」(1,7,29)

でもあって、幸いな人にはその意味での「善いこと」が現在している

(同)とも言われる。

 これらのことをふまえて、「イエスに従う者」(1,7,28)は、愛の掟 に従って善く生きる以上、「自己自身のなかに自らの受ける報酬をも つ」(同)、すなわち「自らの情愛のなかに報償と恵みをもつ」(同)の であり、「もし苛烈な仕打ちに耐えるなら、その人は自らの品性(mores)

によって幸いであり、危難によってすら幸いとなる」(同)、と説かれ るのである。さらにそれは、山上の垂訓のなかの「義(iustitia)のた めに迫害を受忍する人は幸いである」(マタ 5:10)を引くことによっ て、「義」の概念を用いてもとらえ直される。

 そのような論のなかで、「幸いな生」が存立する人間としての在り方 が問われ考察されている。端的な答えは「完徳の生(perfectavita完 成された生)」(1,7,29)が成立している人間とみられる。そして、そ の「完徳の生(完成された生)」とは、「理性の施用(tractatiorationis)

と精神の活力(mentisvivacitas)にもとづく理性的な生([vita]

rationabilis)」(同)と説明される(「理性の施用」については1,1,1に

(3)

対する注 9 参照)。そこにおいては、「働き・活動(operatio)」におい て成る「人間の完徳(perfectio完成)」が「幸いを引き起こす(beatum facit)」(同)という側面からとらえられているのである。

 以下に訳出する導入部は、その完徳への道のいわば見取り図が伝統 をふまえて描かれているものと考えられる。その立論に関しては、そ の一部と「第 4 マカバイ記」 1 ~ 3 章との照応がつとに指摘されてい る。また、プロティノスの著作(『エネアデス』Ⅵ,8)との比較も論点 の一つとなっている。これらの論点に関して、本稿では、『エネアデ ス』との比較の論点には踏み込まないことにし、注 9 での言及(「正し い理性」に関する言及)のみにとどめた。一方、「第 4 マカバイ記」に 関しては、本書との関係性が濃厚と考えられる箇所については引用も いとわず盛り込んで注記することにした。

 G.ノロワの上掲書は、それらの論点にとどまらず、テクストの多く の箇所(今回の試訳の範囲に限っても41箇所に及ぶ)について広く世 俗の文書にわたる博引旁証の詳しい注を施しているが、本試訳の注に おいては、彼の注記内容を紹介したり吟味したりすることは断念し、

聖書中の参照されるべき箇所を(引用とみられる箇所だけでなく、重 要語句等の典拠候補と目される箇所等を、とくに知恵文学のいくつか とその影響が認められる文書に注目して)提示することに主眼を置き、

彼の注に触れられていない点に及んで記すようにした。

 1,1. 諭し(disciplina)3のためにすべての人にとって必要なのは、賢 慮(prudentia)に満ちた「善い言葉(bonussermo)」4である。そして、

理性(ratio)に繋がれた精神(mens)5が、諸徳(virtutes)を先導し、

諸感情(passiones)を制限する6。たしかに、徳は教えられる。つま り、精励(studium)して学ぶこと(discendum)によって獲得され、

無頓着になることによって逸失する。

(4)

 また、もし「善い言葉」が戒め(correctio)7のために必要でないな ら、決して律法は「姦淫することなかれ」(出20:14;申 5:18)と言わ なかっただろう8。しかし、無装備の言葉は忠告するためには役立って も、説得するためには弱いので、それゆえ、「正しい理性(ratiorecta)」9 の考察があてがわれなくてはならない。理性が、十分に施用されるこ とによって(tractata)、「善い言葉」の命じたことを説得しうるように するためである。

 というのも、わたしたちは、従順であることへと隷属的必然で縛り つけられているのではなく、裁量者たる意志によって、ある場合には 徳へと向かったものが、ある場合には罪へと沈むのだからである。そ して、それゆえ、わたしたちは、放埒な情念(affectus)によって過ち へと引き寄せられたり、理性に従った意志によって呼び戻されたりす る。

 ところで、最も重大な感情は罪に向かう欲望であるが、理性はこれ を和らげ、抑えるのである。というのも、和らげることはできても、

根絶することはできないからである。なぜなら、理性を受容できる魂

(animus)は自らの諸感情の支配者だとはいっても、抑制者なのだか らである。たとえば、怒りっぽい人が怒らないようにはなりえないの であって、ただ、理性によって自らを調節し、憤怒の情を押しとどめ、

罰せられるべき事柄から自己を呼び戻すようになりうるだけだからで ある10。それは、預言者が「怒るがよい、だが、罪を犯してはならな い」(詩 4:5)11と言って、わたしたちに教えているとおりである。預 言者は、自然本性に属するものは許容したが、罪にあたるものは否定 したのである。

 1,2. その場合、あらゆる「正しい理性」は、それ自体からではなく、

他から要因を取得しているのであって、その意味で副次的である。す なわち、自然本性的であることからか、あるいは、有用であることか

(5)

らである。それゆえ、「正しい理性」は、自然本性的なものを調節し、

あるいは有用性の守護者12である。つまり、「正しい理性」は、誰かか ら欲望を取り除くのではなく、わたしたちを欲望に隷従しないように するのである13

 実際、実を結ばないいちじくの木について、すなわち、ユダヤ人た ちの邪心(malitia)について、次のように言うことのできた、あの方 ただ一人をおいて、誰が肉体的衝動を取り去りうるほどの者であると いうのか。「『見よ、わたしはこのいちじくの木に実を探しに来て三年 になるが、まだ見つけていない。だから、その木を切り倒せ。』しもべ は主人に答えた。『わたしがその木の周りを掘って、籠一杯の肥料を投 じてみますので、それまでのあいだは、どうか今年もその木を大目に 見てやってください。きっとその木は実を結ぶことと思います。です が、もしそうならないならば、将来あなたがその木を切り倒すことに なりましょう。』」(ルカ13:7 -9)適切にも、そのしもべは主人に相談 した。それは、肉体的躓きを取り除く力は、それを彼自身が自分のも のにすることはできず、ただ主人のもとに保有していただけだからで ある。

 1,3. まさに、聖なるダビデ以上に卓越し剛毅な者として、わたした ちは誰を人間のなかから取り上げようか。彼は、敵軍に封鎖されたベ ツレヘムにある井戸の水を渇望したのだったが、その自らの欲望を自 身から取り去ることはできなかったけれども、和らげることができた のである14。つまり、他の人たちにとって、すなわち、軍隊のかくも 多数の兵士にとって、他の泉から得られる水はどうみても不足しては いなかったことがわかるし、王に不足することは確実にもっとありえ なかったが、そうしたときに王が非理性的なある種の欲望を感じて熱 望したのは、敵軍の包囲によって防護されていた水であり、それゆえ、

最大級の危険なくしてそれを運びとどけることは、ほとんど不可能で

(6)

あったであろう。それゆえに、彼は言う。「ベツレヘムの城門のそばに ある井戸から、誰がわたしに飲み水を供してくれるだろうか。」(サム 下23:15)そして、極度の熱望によって彼が切望した水を、敵の陣営を 突破して運びとどける三人の男の姿が彼の目に入ったとき、同じ水で もそれは他者が危険を冒すことによって彼のもとにもたらされたもの だということを彼は認識して、その水を主にささげたのであった。そ の水を運びとどけた彼らの血を飲むとみられまいとしたのである。

 この事例は、欲望は確かに理性に先行するが、理性は欲心に抵抗す る、ということの証拠となる。したがって、ダビデは、非理性的に欲 望するような世人的な感情をいだいてはいるが、非理性的な欲望を、

用意された薬(remedium)によって15理性的に懐柔したことは称賛す べきことである。わたしは、自分たちの王の欲望を恥じて、王の廉恥 心の到達点を自分たちの安全を冒してさえも運びとどけることを選ん だ男たちを称賛するものであるが、わたしがよりいっそう称賛するの は、おのれの欲望のもとに他者を危険にさらしたことを恥じ、疑わし い種類の価値ゆえに求めた水を血に比した王である。彼は欲心を制圧 し、勝者のごとく水を主にささげたのと同時に、彼が御言葉の勧告

(consolatio)によって自身の欲望を制圧したことを証示したのである。

 1,4. 要するに、節度ある精神(menssobria)16は、どんな強烈な感 情の刻印をも制御ないし制圧し、極度に燃え上がった欲心の熱のすべ てを冷却し、衝動を他方へと誘導し、「正しい理性」の施用(tractatio)

にもとづいて諸々の感情を唾棄することができるのである。

 というのも、神は、人間を創造し、人間のなかに品性(mores)と 感性(sensus)を植え付けるとき、人間の衝動に対する精神の王的支 配権を付与したのであり、そうして人間のすべての感性と衝動は、精 神の活力(vigor)ないし能力(potestas)によって統治されるようにした のだからである17。神が被造物への恵みに付与したのは、精神そのもの

(7)

を神の命令によって形づくり、「知恵の諭し(sapientiaedisciplina)」18 によって教導して、用心するべきことをも知り、選ぶべきことをも認 識するようにすることであった。したがって、精神は、神的なことと 人間的なこととを認識するべく、「知恵の諭し」を「正しい理性」に よって保持するとき、律法で教化される19。律法によって精神は、ど んな感情を自己に服従させるべきかを学ぶのである。

 2,5. ところで、諸感情のなかでいわば主導的なものは、自然的な快

(delectatio)と苦(dolor)であり、他の諸感情はこれらに帰属する20 つまり、快と苦は全感情を包括するのであって、それらはいずれも肉 体(corpus)からだけでなく魂(anima)によっても生じる感情であ る。そして、これら快と苦に他の諸感情が従属するとわたしたちは言っ たわけだが、それだから、快の前には欲望(concupiscentia)があり、

快の後には喜び(gratulatio)があるし、他方、苦の前には恐れ(timor)

があり、苦の後には悲しみ(tristitia)があるのである。だが、心の興 奮(commotioanimi)は、快にも苦にも共通の感情(感応)(communis passio)である。それは、他の諸感情にわたっている。すなわち、傲 慢、貪欲、野心、競争心、嫉妬に──これらは魂による感情である。

さらに、飽くことのない食欲や、贅沢と勝手気ままから来る放縦に──

これらは肉体に結びつけられた悪徳(vitia)であり、肉体によって作 用する。

 そして、適切にも、節制(temperantia)はそれらの感情の炎をでき るかぎり鎮める。まず節制が、節度(sobrietas)と統御によって心を 調節し、精神を教導し、次いでさらに、快楽の禁欲(abstinentia)が 肉体的放漫の手綱を締めるのである。それゆえに律法は、食べ物の放 埒、料理の量を制限しているのである21。それは、ただ贅沢を削ぎ落 とすためだけではなく、禁止の命令について熟考することによって、

理性の施用へ道を開くためでもある。理性は、食道楽の刺激や他の諸々

(8)

の欲を制限し、肉体的な感情と衝動を封じ込めるのである。したがっ て、節制は、戒め(correctio)の先導者であり、諭し(disciplina)の 教師である。

 2,6. 節制を発揮して、聖なるヤコブは、持っていなかった長子権を 兄から貰い受けた22。そして、兄の同意によって地位を上げたヤコブ は、爾後、不節制な者は当人固有の徴表によって下賤であるというこ とを教えた。

 節制を発揮して、聖なるヨセフは、若者の情欲をも制圧し、姦通の 誘惑によって試みを受けた心を、「正しい理性」の導入によって固守し 23。まさしく、彼は強く逞しかったけれども、理性の施用(tractatus)

によって自己を支えて、自分の主人の妻に対して次のように言うこと を選んだのである。「ご主人様はわたしを信頼して家内の諸事には関知 なさらず、所有なさっているものは何であれすべてわたしの手中にお 委ねになりましたので、わたしから引き離されているものは何もあり ません、ただあなたを除いては。あなたはご主人様の妻なのですから。

そして、どうしてわたしはこのような悪事を語って、神の前で罪を犯 すでしょうか。」(創39:8 -9)

 つまり、これが「正しい理性」の施用であり、これをギリシア語使 用者たちは「ロギスモス(logismos)」と呼んだ。これによって、精神 が知恵に繋がれて堅固にされるのである24。すなわち、美しくも、「主 人の引き立てに対して恩知らずであるべきでない、そして、罪は神を 証人として犯すのであって、神から隠れることはできないのだから、

罪を秘匿することはできない」とする理である。

 2,7. すると、理性は、敵なる情念(affectus)を大抵は振り捨て、不 法行為のもたらす苦しみを隔離するかぎり、善いものである。のみな らず、戦列においても、理性は、勝者を柔和にし、まさに突こうとす る者の剣を引き留め、懇願する者を死から救い出す。それゆえ、「義に

(9)

適う理(iustaratio)」は、「屈服した人たちをゆるす」25よう説得する ことができるのである。

 不法行為のもたらす苦しみを排除もしくは和らげることに関しては、

いったい誰が族長ヤコブ以上に良い教師であろうか。彼は、自分の息 子たちシメオンとレビを論難して言った。「おまえたちはわたしを憎ま れ者にしてしまったのだぞ。わたしが残酷な者だとみられるようにし たのだから。」(創34:30)そして確かに、彼らは妹の受けた不法行為

(暴行)に報復をしていたのだった。彼女はその前に貞潔を侵されて辱 めを受けており26、その受けた行為は父祖の掟に逆らうものであった。

ヤコブもやはり、諭しの指導者、貞潔の監督者として、凌辱行為が犯 されたことを是認することはできなかったのだが、理性が憤怒の情を 調節することができると知っていたので、高ぶる二人を理性によって 封じ込めることを選んだのである27

 2,8. それゆえ、欲心を切除するのが節制である。神は、この節制を 保持するよう最初の人間たちに命じてこう言われた。「だが、園の真ん 中にある木の実に関しては、それを食べてはならない、また触れても いけない。おまえたちが死なないようにするためである。」(創 3:3)

ところが、節制は保持されなかったので、それゆえに彼らは卓越した 徳に対する違背者として、園からの追放者となり28、また不死性を奪 われた者となったのである。

 律法はこの徳を教えて、すべての人間の情念に注ぎ入れるのである。

 3,9. ところで、この徳(節制)が知恵とその諭しとともに教えられ ることは、聖書によって証される。節制については律法において、他 についてはヨブ記においてである。後者にはこう書かれている。「主は 知識(intellectus)と諭し(disciplina)を授けてくださる方ではない のか。」(ヨブ21:2229

 そして、福音書において、主御自身が言われている。「わたしから学

(10)

びなさい。わたしは柔和で謙遜な者であるから。」(マタ11:29)さら に、別の箇所では、弟子たちに言われている。「行って、すべての民族 に教えなさい。父と子と聖霊の御名において彼らに洗礼を授けたうえ で。」(マタ28:19)では、なぜ彼らはこう命じられたのか、いやむし ろ、彼らは諸徳に関する指令を遂行すること以外、他の何をキリスト から学んでいたであろうか。

 さらにまた、ダビデはこう言っている。「子らよ、来なさい。わたし の言うことを聞きなさい。主に対する畏れをおまえたちに教えよう。」

(詩33(34):12)[ここに言及されるのが]数ある徳のなかで特に神に 対する畏れであるのは、「知恵の始まりは神への畏れ」(詩110(111) 10)30であって、それによって信心にもとづく教え(piadoctrina)31の規 範(forma)が受け取られるからである。その規範については、パウ ロがこう言っている。「しかし、神に感謝します。あなたがたはかつて は罪の奴隷でしたが、いまは伝えられたその教えの規範に心から従っ て、逆に、罪からは解放され、義のしもべとなったのですから。」(ロ マ 6:17-18)

 つまり、教え(doctrina)は、わたしたちが義(iustitia)に至るこ とができるようにする。したがって、義は、学ぶことによって得られ うるのである。それゆえ、わたしたちは、精励して福音の教えの規範 に専心しようではないか。

 最小の精励がしばしば最大の精励と認められる。というのも、精励 のなかにはすべてがあるからである。精励を通じて従順(oboedientia)

がもたらされるが、それは両方向[従順と不従順]のいずれにも傾き うるのであって、罪を結びつけることもあれば恵みを結びつけること もある。それは、第一のアダムにおいてわたしたちを死へと引き込ん だが、第二のアダムにおいてわたしたちを命(uita 生)へと呼び寄せ たのである32

(11)

1  Ambroise de Milan, Jacob et la vie heureuse,introduction,textecritique, traduction,notesetindexparGérardNauroy,SourcesChrétiennes534, LesÉditionsduCerf,2010. 翻訳に際しては、同書所収の仏訳及びThe Fathers of the Church: St. Ambrose, Seven Exegetical Works,translated byMichaelP.McHugh(CatholicUniversityofAmericaPress,1972)所 収の英訳を適宜参考にした。なお、この著作のラテン語テクストは、ラテ ン教会著作家集成(CSEL)では第32巻第 2 分冊(ed.Schenkl,1897,pp.1- 70)に、ミーニュのラテン教父全集(PatrologiaLatina)では第14巻

(coll.627A-670A)にそれぞれ収められている。

2  第 2 巻後半部(10,43-12,58)については、本誌前号所収の拙稿「聖アン ブロシウスとマカバイ記の殉教者たちの物語─『ヤコブと幸いな生』第 2 巻10,43-12,58」(『白百合女子大学キリスト教文化研究論集』第19号(2018)、

61-80)に試訳がある。

3  disciplinaは、「訓育」「教育」「教訓」「規律」などとも訳されうる。この箇 所をNauroyはinstructionという語で、McHughはtrainingという語で訳し ている。本誌前号に試訳を掲載した箇所(2,10,43;2,11,45)で筆者は「規 律」という訳語を採用したが、それらの箇所のdisciplinaについては、McHugh はそれぞれtraining,teachingsと、Nauroyはいずれもrègleという語をもっ て訳している。

   聖書のラテン語訳の伝統では(アンブロシウスが用いた聖書の問題は別 として)、「ヘブライ人への手紙」においてdisciplinaはギリシア語のpaideia

(パイデイアー)に相当する語として用いられている(ヘブ12:5,12:7,12:

8,12:11)。そして、そこにふまえられているとみられる知恵文学では「箴 言」「知恵の書」「シラ書」においてdisciplinaという訳語の使用が目立つこ とも確認できる(disciplinaはヘブライ語の「ムーサール」に相当する語と して用いられたようであるが、筆者にはヘブライ語の知識がないので、こ の点には立ち入らない)。「箴言」「知恵の書」「シラ書」でdisciplinaという 語が用いられた箇所としては次の箇所を挙げることができる。箴 1:2,1:

8,3:11,4:1,4:13,5:12,5:23,6:23,8:10,8:33,10:17,12:1,13:18,15:5,

15:32,15:33,19:20,22:15,24:32;知 2:12;6:12(11);6:19(18);6:27

(12)

(25);7:14;シラ 1:7 (Vulg.),16:24(Vulg.),16:25,19:19,33:18,38:38

(33),39:11(8),41:17(14),42:8.

   ラテン語訳聖書でdisciplinaが用いられてきた箇所は、日本語訳聖書で は、新共同訳の場合、「箴言」の上記すべての箇所が「諭し」(聖書協会共 同訳も同じ)、「知恵の書」の上記すべての箇所が「教訓」(聖書協会共同 訳は「教え」)、「シラ書」の16:25以下の上記箇所もすべて「教訓」(聖書 協会共同訳は16:25,19:19が「教え」、それ以外は「教訓」)という語をもっ て訳されている(なお、ラテン語訳でdisciplinaが用いられた「エレミヤ 書」17:23と32:33に関しては、日本語訳の場合、新共同訳では前者が「諭 し」、後者が「戒め」であったが、聖書協会共同訳では両者とも「懲らし め」とされた)。そして、「ヘブライ人への手紙」の上記箇所は「鍛錬」と 訳されている(聖書協会共同訳も同じ)。

   本書のこの箇所での訳語選定に関しては、disciplinaが、続く箇所の correctioと組み合わせて用いられているとみ、戒め、訓戒、懲らしめ、叱 責といった意味合いをより色濃くもつ語と対になった場合の用例を考慮し た(注 7 参照)。

   なお、「第 4 マカバイ記」においては、律法のもとで徳を育む過程を、

paideia(パイデイアー)とaskesis(アスケーシス:訓練、鍛錬)という二 語で記述している(13:22;24.ただし13:24は動詞形)。また、paideia概念 はそれ自体で、進むべき善い方向を指し示して導くことも、また、しては ならないことがわかるよう懲らしめることも含みえた(聖書ではたとえ ば、前者の含意については「テトスへの手紙」 2:12、後者の含意につい ては「テモテへの手紙一」 1:20参照。ただし、これらはいずれもpaideia の動詞形が用いられている箇所である。また、ラテン語訳でdisciplinaとい う語が用いられたわけではない)。

4  本節において三度用いられる「善い言葉(bonussermo)」について、Nauroy はその表現の「聖書の根」として「箴言」16:24を挙げているが、その語 句が教育ないし人間形成について語るうえで用いられていることを考え合 わせるならば、むしろそれは「エフェソの信徒への手紙」 4:29を想起さ せる。そこには、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、

聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い

(13)

言葉を語りなさい。」(聖書協会共同訳による)と書かれていて、訳文中の

「悪い言葉」(logossaprosロゴス・サプロス:腐った言葉)はラテン語では sermomalusと訳され、「善い言葉」([logos]agathosロゴス・アガトス)

は[sermo]bonusと訳された。なお、「その人を造り上げる」はギリシア 語ではoikodome(オイコドメー)であり、文字通りには「家を建てるこ と」だが霊的に人間を造り上げるという意で用いられた。ラテン語では aedificatioと訳された。

   いまひとつ想起される箇所として「テサロニケ信徒への手紙二」22:17 を挙げることができる。同書簡 2:15-17を新共同訳の日本語によって引く と次の通りである([ ]内は引用者による)。「15ですから、兄弟たち、

しっかり立って、わたしたちが説教[logos]や手紙で伝えた教えを固く 守り続けなさい。16わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、

わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてく ださる、わたしたちの父である神が、17どうか、あなたがたの心を励まし、

また強め、いつも善い働きをし、善い言葉[logosagathos]を語る者とし てくださるように。」ここに用いられたlogosagathosという語句は、ラテ ン語ではやはりsermobonusと訳された。(なお、15節の「説教」は聖書 協会共同訳では「言葉」とされた。)

   なお付記すると、アウグスティヌス(354-430)は、『キリスト教の教え

(De doctrinachristiana)』の第 4 巻(426/427年頃)の終わり近く(4,30,

63)において次のように述べている。「ある人が人々の前か、あるいはもっ と小さな集まりで、これから話そうとしている(…)とき、神がその口に 良いことば[sermobonus]を与えて下さるように祈るとよい。王の前で その民のしばしの幸福のために話すことになった王妃エステル(エス一 四・一三)が、その口に、神がふさわしいことば[congruussermo]を与 えて下さるように祈ったとすれば、まして人々の永遠のしあわせのため に、ことばと教えによって[inverboetdoctrina]働く者は、神がふさわ しい賜物を下さるように祈るべきではないか。(中略)説教[dictio]のす ばらしい成果を得たならば、うたがいもなくそこからうけとった神に感謝 しなさい。『ほこる者は神にあってほこるように、われらも、われらのこ とば[sermo]も、みなそのみ手にある』(ソロ知恵七・一六)」(加藤武

(14)

訳『アウグスティヌス著作集 6:キリスト教の教え』教文館、1988年、287 頁による。ただし[ ]内は引用者による。

   聖書のなかの、sermoとdisciplinaの関係に関する言及としては、「知恵 の書」の次の箇所が想起されうる。 6:12(11)の「わたしの言葉を熱心 に求め、慕うがよい。そうすれば教訓が身につくだろう」、 6:27(25)の

「ゆえに、わたしの言葉を教訓とし、役立たせよ」(訳文はいずれも新共同 訳による)である。これらいずれの箇所においても「言葉」「教訓」にあ たる語は、ラテン語訳聖書ではそれぞれsermones、disciplinaと訳された ものである。なお、 6:27(25)は、聖書協会共同訳では「ゆえに、私の 言葉から教えを受けよ。それはあなたがたの役に立つ」と訳されている。

5  「精神」と訳したmensは、ギリシア語のnous(ヌース)に相当する語とし て用いられていると考えられる。 4 マカ 1:15、 2:21-23参照。前者の箇 所では「正しい理性(orthoslogos)をそなえた精神(nous)」、後者の箇 所では「諸感情(patheパテー)を導く聖なる精神(nous)」が語られてい る。注 9 及び16をも参照。

6   4 マカ 1:30との類似が指摘される。そこには、「理性は、もろもろの徳

[aretaiアレタイ]の導き手[hegemonヘーゲモーン]、またもろもろの情 念[patheパテー]の支配者[autokratorアウトクラトール]だからであ る」(土岐健治訳「第 4 マカベア書」(日本聖書学研究所編『聖書外典偽典 3旧約偽典Ⅰ』教文館、1975年所収)、103頁による。[ ]内は引用者に よる)と言われている。ただし、この引用文中の「理性」は、ギリシア語 のlogismosの訳語である(注 9 参照)。

7  この箇所と2,5の末尾の文でcorrectio(改め正すこと、戒め、訓戒)とい う語が用いられるが、その語はいずれの箇所においてもdisciplina(諭し)

と何らかの意味で組を成すものとして理解されていると考えられる。ラテ ン語訳聖書の場合、「箴言」では、disciplina(諭し)とcorripere( 3:11)

又はincreptio(5,12,6:23,10:17,12:1,15:5,15:32)(懲らしめ、叱責)と の組み合わせとなっている。これらは七十人訳ではそれぞれおもにpaideia

(パイデイアー)とelenchos(エレンコス:非難、論難、咎めること、誤り・

過ちを認めさせること)に当たる(ヘブライ語では「ムーサール」(注 3 参照)と「トーハハット」に相当するようである)。新共同訳の日本語で

(15)

は、一部の例を挙げるならば、「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲ら しめを避けるな」(箴 3:11)、「無知な者は父の諭しをないがしろにする。

懲らしめを守る者は賢明さを増す」(箴15:5)などと訳されている箇所で ある。

   また、「エフェソの信徒への手紙」 6:4 (カテキズム2223で引用されて いる箇所)では、corripereの名詞形correptioとdisciplinaとが組み合わさ れている(educateillosindisciplinaetcorreptioneDomini)。この箇所の disciplinaとcorreptioはそれぞれギリシア語のpaideiaとnouthesia(ヌーテ シアー:勧告、訓戒、警告)に対応する。聖書協会共同訳の日本語では「主 のしつけと諭しによって育てなさい」と訳されている箇所である。nouthesia 及びcorreptioのもちえた意味合いについては、「テトスへの手紙」 3:10参 照。

   なお付言すれば、「第 2 マカバイ記」 7:33のように、ギリシア語の epiplexis(エピプレークシス:叱責)とpaideiaが組で用いられた例も見出 される。この箇所は、ラテン語訳では各語がincrepatio,correptioと訳され た。

8  律法との関係に関しては、1,4参照。聖書においては、一つには「エレミ ヤ書」17:19-27が思い当たる。そこでは、十戒のうち「安息日を聖別せ よ」という第四戒(出20:8 ほか)に関して、エルサレムの住民たちがそ れを守らなかったことが次のように述べられている。「21主はこう言われ る。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エル サレムのどの門からも持ち込んではならない。22また安息日に、荷をあな たの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安 息日を聖別しなさい。23それをわたしはあなたたちの先祖に命じたが、彼 らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くして、

聞き従わず、諭しを受け入れようとしなかった。」(エレ17:21-23:新共同 訳による)23節で「諭し」と訳された語(聖書協会共同訳では「懲らし め」)はラテン語ではdisciplinaと訳された。また、「知恵の書」 2:12には、

神を信じない者の言葉として次のようにある。「神に従う人は邪魔だから、

だまして陥れよう。/我々のすることに反対し、/律法に背くといって 我々をとがめ/教訓に反するといって非難するのだから。」(新共同訳)引

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用文中「とがめ[る]」「教訓」と訳されている語はラテン語訳ではそれぞ れimproperat,disciplinaと訳された。「シラ書」39:11(8)には、「心を傾 けて、いと高き方の律法を研究する人」(同38:39(34))に関して、「彼は 学んだ教訓を輝かし、主の契約の律法を誇りとする」と言われている(い ずれも新共同訳)。この箇所に関しても、「教訓」と訳されている語はラテ ン語訳ではdisciplinaと訳された。さらに、 4 エズ 1:8 参照。

9  周知のとおり、ギリシア語で言うorthoslogos(オルトス・ロゴス)に相 当するラテン語表現である。プラトン(前427-347)の著作では『パイド ン』73Aなど、アリストテレス(前384-322)の著作では『ニコマコス倫 理学』第 6 巻第13章1144b23以下など参照。その概念は、キケロ(前106- 43)、アレクサンドリアのフィロン(前25頃-後50頃)、セネカ(前 4 -後 65)、プロティノス(205-270)等の著作においても用いられた。

   アンブロシウスは本書2,6で、そのorthoslogosすなわちrectaratioの「施 用(tractatio)」をlogismos(ロギスモス)は意味するとする理解を示して いる。関連性が指摘される「第 4 マカバイ記」 1:15では、logismosは「知 恵(sophiaソフィアー)の生活(biosビオス)を優先する、orthoslogosを そなえた精神(nousヌース)」であると言われている。

   本巻1,1-1,2の立論はプロティノスの『エネアデス』VI,8(一者の自由 と意志について)と比較されるが、後者には次のように述べられている箇 所がある。「われわれは、われわれ次第のことを意志[boulesisブーレーシ ス]に帰着せしめ、それから後者(意志)を理性[logos]に存すると、さ らに正しい理性[logosorthos]に存すると規定して──しかしおそらく は「正しい」の上にさらに「知識[epistemeエピステーメー]に基づく」

を付加しなければならないであろう。なぜなら、だれかが正しい意見をい だき、正しく行動したとしても、そのばあいに彼が、なぜ正しいかを知ら ないで、偶然か何らかの想念に導かれて正当にふるまったのであるなら ば、彼が疑問の余地なく自主性を有していることにはならないであろう。

なぜなら、まさに想念がわれわれ次第でないことをわれわれは承認してい るのに、想念にしたがって行動する人びとを、どうして自主的なもののう ちに数えることができようか。」(VI,8,3.水地宗明訳(『プロティノス全 集』第四巻、中央公論社、1987年、513-514頁)による。ただし[ ]内

(17)

は引用者。)そこでは、「正しい理性」には「なぜ正しいか」の知が含まれ ているということが指摘され、重視されている。

   本書では、その「正しい理性(rectaratio)」の「施用(tractatio)」と いう言い方がとられる(1,1,4;1,2,6)。また、1,1,1の「理性が十分に施 用されることによって(ratiopleniustarctata)」という言い方が、「正し い理性の考察(consideratio)」の言い換えと解しうる脈絡で用いられてい るほか、1,2,5;1,5,17;1,7,29に「理性の施用(tractatiorationis)」とい う言い方があらわれる(1,7,29は本稿導入部で言及した箇所である)。

   このtractatioの意味を訳者は、おもに1,1,1及び1,2,6にもとづいて、さ しあたり、「正しい理性」を具体的な事柄に適用して論考し、「善い言葉」

の教えることを引き出して明らかにすることと解したうえで、試みに「施 用」という訳語を当ててみた。

10  4 マカ 3:3 参照。そこには、「あなたがたはだれも怒りを魂から断ち切る ことができないが、理性[logismos]は怒りを鎮める[boethesaiボエー テーサイ]ことができる」(土岐健治訳、前掲書、106頁による。ただし

[ ]内は引用者)と言われている。

11 エフェ 4:26参照。

12 「善い言葉」に「正しい理性」の考察があてがわれると(1,1参照)、「善い 言葉」の命じたことの有用性が理解される。聖書の次の箇所を参照。「知 恵の書」 6:27(25)「ゆえに、私の言葉から教え[教訓]を受けよ。それ はあなたがたの役に立つ。」(聖書協会共同訳による。[ ]内は新共同訳 の訳語)さらに、「列王記 上」 2:41-43:41シムイがエルサレムからガト に行って帰って来たとの知らせがソロモンに届くと、42王は人を遣わして シムイを呼び、こう言った。「わたしはお前に主にかけて誓わせ、警告し ておいたではないか。『どこであれ出て行けば、その日に死なねばならな いと心得よ』と。そのときお前は『親切なお言葉です[よく分かりまし た]。わたしは従います。』」と答えた。43なぜ主にかけて誓ったこと、また わたしの授けた戒めを守らなかったのか。」(新共同訳による。[ ]内は 聖書協会共同訳。 2:38を合わせて参照。いずれの箇所でも、王の命じた ことに従う意思表示に先立って表明され、王の言葉(語りかけ)をいかに とらえたかを表現した「親切な言葉です」は、ラテン語ではbonussermo

(18)

と訳された。)

13  4 マカ 3:2 参照。そこには、「われわれは欲望を断ち切ることができない が、理性はわれわれが欲望に隷従しないようにすることができる」(土岐 健治訳、前掲書、106頁による)と言われている。

14 以下の「ダビデ王の渇き」の物語については、サム下23:13-17及び代上 11:15-19参照。そして、「第 4 マカバイ記」 3:6 -16では次のように叙述 されている。「6このことはたとえばダビデ王の渇きの物語によってさらに 明らかに認めることができる。7ダビデは一日じゅう異邦人と闘い、同胞 の兵士たちとともにその多くを打ち殺したのち、8夜になると汗をかき、へ とへとに疲れて王の幕屋にはいった。その周囲には父祖たちの全軍が宿営 していた。9ところがほかの者たちがすべて食事をとっていた時、10王は激 しい渇きを覚え、泉の水は十分あったにもかかわらずそれによって渇きを いやすことができず、11かえって敵軍の側にある水を飲みたいという不条 理な欲望が燃えつのり、その欲望は彼の心をにぶくしてこれをとらえた。

12これを知って王の楯持ちたちが王の欲望に不満の声を発した時、二人の 若くて強い兵士が王の欲望を重んじ、武器を整え、かめを携えて敵陣への り込み、13門衛の目を逃れて(敵陣に)はいり込むと敵陣をくまなく探し ながら通り抜け、14泉を見いだすと勇敢にもそこから王のもとへ水を運ん だ。15ところが王はのどの渇きに燃える思いであったにもかかわらず、血 と同じ重みを持つとみなされるべきその水を飲むことは霊魂[psycheプ シューケー]にとってまことに恐るべきことであると考え、16欲望[epithymia エピテューミアー]に理性[logismosロギスモス]を対立させて、その水 を神に献げたのであった。」(土岐健治訳、前掲書、106-107頁による。た だし[ ]内は引用者)なお、「第 4 マカバイ記」の上掲箇所では、王の もとに水をもち帰った者の人数が二人となっているが、「サムエル記 下」

23:16も「歴代誌 上」11:18も三人としている。アンブロシウスの記述は、

後二者に一致している。

15 アンブロシウスは『ノアと方舟(De Noe et arca)』11,38(PL14,coll.397B-C)

において、「精神の節度(sobrietasmentis)」(すなわち「節度ある精神」)

を「薬(medicina)」にたとえている。

16 sobriaの一般的な意味は、節度あること、とくに、酒に関して節度をもっ

(19)

ていること、それゆえ素面で冷静であること、それゆえまた思慮深いこと である。ここでも節度があって思慮深いことを意味すると考えられる。

menssobria(節度ある精神)の働きに関してアンブロシウスは『ノアと 方舟』11,38(注15参照)において、「節度ある精神(menssobria)は、す べての感情(passiones)を抑え込み、感覚(sensus)を制御し、言葉

(sermo)を支配する」と言っている。

   sobrietasは、四枢要徳の「節制」(ギリシア語で言えばsophrosyneソー プロシュネー)を表す語として用いられることもある。「知恵の書」 8:7 に、「だれか正義[dikaiosyneディーカイオシュネー]を愛する人がいる か。知恵こそ働いて徳を得させるのだ。すなわち、節制[sophrosyne]と 賢明[phronesisプロネーシス]、正義[dikaiosyne]と勇気[andreiaアン ドレイアー]の徳を、知恵は教えるのである。人生にはこれらの徳よりも 有益なものはない。」(新共同訳による。ただし[ ]内は引用者)とある が、sobrietasはそのsophrosyne(節制)の訳語として用いられた。ただ し、temperantiaもsophrosyneの訳語として用いられた。アンブロシウス も『聖職者の務めについて(De officis ministrorum)』において四枢要徳 を列挙する際にtemperantiaを用いている(1,24,115;2,9,49)。本書導入 部における彼のtemperantiaとsobrietasの関係理解に関しては、2,5を参照。

   また、「テトスへの手紙」 2:12-13には、「12その恵み[神の恵み]は、

わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く

[sophronosソープロノース]、正しく、信心深く生活するように教え

[paideuousaパイデウウーサ]、13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大 なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ を待ち望むように教えています。」とあり、このsophronos(sophrosyneの 副詞形:聖書協会共同訳では「慎み深く」)もラテン語ではsobrieと訳され た。

17 「第 4 マカバイ記」 2:21-23には次のように書かれている。「21神は人間を お造りになった時、これに情念[patheパテー(パトス):感情]と心情

[etheエーテー(エートス):品性]とを備えたもうた。22しかるにその時そ れらすべての上に、感覚をとおして導く聖なる導き手として精神[nous ヌース]を置いて君臨せしめ、23これに律法を与えたもうた。」(土岐健治

(20)

訳、前掲書、105頁による。ただし[ ]内は引用者)

18 箴15:33;シラ 1:7 (Vulg.).また、知 7:14をも参照。

19  4 マカ 1:16-17参照。そこには、「知恵[sophiaソピアー]とは神と人と の事柄およびその原因を知る知識[gnosisグノーシス]である。この知識 は律法に関する教養[paideiaパイデイアー]のことであり、これを通して われわれは畏敬の念をもって神の事柄を学び、有益な仕方で人の事柄を学 ぶのである」(土岐健治訳、前掲書、102頁による。ただし[ ]内は引用 者)と言われている。

20 訳文におけるこの段落は、「第 4 マカバイ記」 1:20-27(次に引用)に対 応する部分を多く含む。「20情念のうちでは快楽[hedoneヘードネー]と 苦痛[ponosポノス]がもっとも包括的である。これらはおのおの肉体と 霊魂の両者に関して存在する。21そして快と苦との周囲に多くの付随的な 情念が生ずる。22事実、欲望[epithymiaエピテューミアー]が快楽に先行 し、喜悦[charaカラー]が快楽ののちに生ずる。23同じように恐れ[phobos ポボス]が苦しみに先行し、悲しみ[lypeリューぺー]が苦しみののちに 生ずる。24怒り[thymosテューモス]は、人がどのようにして怒りをいだ くにいたるかということを考えればわかるように、快と苦とに共通の情念

[koinonpathosコイノン・パトス]である。25,26,27すべての情念のうちで もっとも複雑多様な形をとる悪意[kakoethesdiathesisカコエーテース・

ディアテシス]、そして霊魂に関するところのうぬぼれ、貪欲、名誉心、

敵愾心、嫉妬心、また肉体に関しては、なんでもかんでもみさかいなく食 べること、大食、ひとりでこっそり食べること、これらはみな快楽に属す るのである。」(土岐健治訳、前掲書、102-103頁による。ただし[ ]内 は引用者)「第 4 マカバイ記」のこの一節に単純に対応づけて理解すると すれば、本訳文中「心の興奮(commotioanimi)」はthymosに、また、「悪 徳(vitia)」はkakoethesdiathesisに、それぞれ相当することになる。

21 レビ11:2 -47参照。

22 創25:29-34.

23 「第 4 マカバイ記」 2:2 - 3 では、「創世記」39:7 -10に関して次のように 述べられている。「節度を持った[sophronソープローン]ヨセフは、知性

[dianoiaディアノイア]をもって肉欲を支配したまさにそのことのゆえに

(21)

称賛せられたのであるが、それは彼が若くて性的欲望が盛んな時であった にもかかわらず理性[logismosロギスモス]によって情念の衝動[oistros オイストロス]を抑えたからである。」(土岐健治訳、前掲書、104頁によ る。ただし[ ]内は引用者)

24  4 マカ 1:15-16参照。注 9 参照。

25 ウェルギリウス『アエネーイス』6,853.

26 創34:27.

27  4 マカ 2:19-20参照。そこには、「それにあのわれわれの賢い[pansophos パンソポス]父祖ヤコブがシメオンとレビの仲間たちを、彼らがシケムの 一族を理性[logismosロギスモス]を用いないでことごとく殺したという のでとがめて、『彼らの怒りはのろわれよ』と言ったのはなぜであろう。

もしも理性[logismos]が怒りを支配する[krateinクラテイン]ことがで きるのでなければ、彼はおそらくこのようには言わなかったであろう」(土 岐健治訳、前掲書、105頁による。ただし[ ]内は引用者)と言われて いる。

28 創 3:23.

29 七十人訳にほぼ対応しているとみられるが、その場合、intellectusと disciplinaに対応する語はsynesis(シュネシス:理解、分別)とepisteme

(エピステーメー:専門的知識)だということになる。

30 箴15:33;シラ 1:25(Vulg.);21:13(11)参照。

31  1 テモ 6:3 参照。そこには、「信心[eusebeiaエウセベイア]に基づく教 え[didaskaliaディダスカリアー]に」(tekat’ eusebeiandidaskalia)と いう語句がみられる(訳は新共同訳による。ただし[ ]内は引用者)。

この語句は、ラテン語訳聖書ではeiquaesecundumpietatemestdoctrinae と訳された。合わせてテト 1:1 参照。

32 ロマ 5:12-21;1 コリ15:45参照。

参照

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