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著者 石塚 倫子

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マッジ・ローウィン 『ウィリアム・シェイクスピ アと頂く食事』 「序文」 〈解説と翻訳〉

著者 石塚 倫子

雑誌名 英語英文学研究

巻 17

ページ 82‑99

発行年 2011‑09

出版者 東京家政大学人文学部英語コミュニケーション学科

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009696/

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マッジ・ローウィン

『ウィリアム・シェイクスピアと頂く食事』

「序文」 〈解説と翻訳〉

石 塚 倫 子

本書はマッジ・ローウィンの『ウィリアム・シェイクスピアと頂く食事』

(Madge Lowin, Dining with William Shakespeare, Atheneum: New York, 1976)のIntroduction(pp. 3-14 )の翻訳である。

この著書が独特なのは、英文学や歴史学には縁の無かったひとりの主婦 が丹念に調べた資料を基に、シェイクスピア時代のレシピと料理について、

こつこつと書き上げた一冊であるという点である。ジャンルとしては料理 本に入るかもしれないが、われわれが手にするこの分厚い一冊は 400 ペ ージ以上にもわたる約400 年前のイギリスの食文化の集大成となってい る。もともとローウィン自身、学問的研究とは無縁の一主婦であったが、

料理の本を書くつもりも全くなかったという。それが、どうしてこの大作 を著すことになったのであろう。

著作のきっかけは、アメリカのオレゴン州のクラブが 1966 年に主催し た観劇会に始まる。このクラブは 20 世紀初頭に始まる婦人読書会を前身 とした伝統あるクラブであるが、この年、折しも上演されていたシェイク スピアの『十二夜』を観劇したあと、メンバーである何組かの夫妻が、ロ ーウィンの自宅で軽い食事会に招待されることとなった。ところが、この 食事会は普通の食事会ではなかった。料理そのものが、まずシェイクスピ ア時代のレシピ通りに再現されていた上、照明はろうそくの灯火、テープ ルのセッティングやテーブル・ウエアにいたるまでエリザベス時代の裕福

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な家庭の宴会を思わせる趣向を凝らしていた。客を喜ばせたいというロー ウィンの試みは見事に成功し、この夜、海の向こうの遠い昔に帰って人々 は楽しい宴を満喫したようだ。

この噂はすぐにオレゴン大学の博物館に届き、ローウィンは毎年、博物 館後援会の会合で供されるエリザベス時代の食事をプロデュースするコン サルタントに就任する。その後、オレゴン州アッシュランドのルネッサン ス研究所からも声がかかり、総勢 200 人を越す大規模な宴会を催した後、

出版の話が当然のように舞い込む。さすがに著作と成ると、専門家でもな いローウィンには荷が重すぎて躊躇していたとき、ヨーロッパ社会史の研 究者である夫が妻に強力なサポートを申し出る。はじめはヒュー・プラッ ト(Hugh Plat)の『淑女のための楽しみ』(Delightes for Ladies, 1602)

一冊を頼りにはじめた彼女の仕事は、夫が大英図書館で集めた膨大な資料 をもとに、専門家顔負けの書籍へと成長する。出来上がってみれば、16 世紀後半から 17 世紀初頭のイギリスの食生活を、具体的な料理を再現し ながら、詳細にまた全体的に捉えた立派な文化史の研究著書となっていた。

本の構成は、第1 章の序文でまず概括的に当時の食生活について紹介す る。そして第2 章から 14 章まで、シェイクスピア作品の一つ一つを取り 上げ、作品にちなんだメニューを考え、当時のレシピ通りの作り方を紹介 している。しかし、それにとどまらず、関連するほかのシェイクスピア作 品からの引用、当時の食に関する風習――台所の器具、食材、給仕の仕方、

テーブルマナーなど――、そしてその時代の有名なプロの料理人の紹介に いたるまでを提示し、いくつもの参考図版を差し込みながら、興味深いコ メントを加えている。結果として、食生活を通じて当時の人々の生き生き した生命、奥深い文化を感じさせる一冊となっているのだ。

今回取り上げた序文は、16世紀後半から17世紀前半にかけての飲食に 関する言及を、15 人のイギリス人やイギリスを知る外国人の書き記した 文献から丹念に引用し、当時の食生活の現実を総合的に紹介している。さ らにシェイクスピア作品の具体的な引用を織り込みながら、シェイクスピ

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アが作品を書く上で、いかに飲食をさまざまな形で利用していたかを解説 している。

なお訳出にあたって、当時の引用部分は現代文とは多少違うので、なる べく違和感のないように訳した。また、翻訳の本文ではわかりにくいとこ ろや説明を要する部分は訳注を付記した。

「序文」

「俺たちの命は四元素〔火・水・土・空気〕からできているんじゃない の?」と、酒浸りの、オリビアの叔父サー・トービー・ベルチは『十二夜』

(2 幕 3 場)の中で、サー・エーギュチークに尋ねる。「そう、そういう

話だね。でも、それより飲み食いから成り立ってると思うけど」と飲み友 達は答える。

サー・トービーは酔っ払ってまじめになり答える。「君は学者だねえ。

だったら飲み食いしようぜ。」

シェイクスピアとその時代の人々は、人生を楽しむことに最善を尽くし た。そして、飲食はその楽しみの重要な部分を占めた。彼らは長いイギリ スの伝統に従っただけだが、その伝統はイギリスを訪れる外国人旅行者か ら、驚嘆の声を引き出さずにはいなかった。1500年ころ、ヘンリー 7 世 の宮廷を訪れたベニス大使の書記官は、イギリスの生活について大使に報 告書を用意し、その中で「イギリス人はかなりの量の上質の食物を大いに 楽しみ、また、長い時間、食卓についている」と述べている。実際、「イ ギリス人は人を会食に招くことをこの上ない名誉とし、また招かれる名誉 も負けず劣らず大きい」が、「ひどく困窮している人に4 グロート[ 4 ペン ス]与えるより前にさっさと、客の接待に 5、6 ダカット使ってしまう」1 などと、辛辣に言い足している。善意を見せなければというイギリス人の 自尊心が、この書記官には面白かったのである――「外国人とご馳走を食

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べるとき、イギリス人はこういうものはあなたの国で作るかと尋ねる。」 スティーヴン・パーリンという、シェイクスピアの生まれる2、3 年前に イングランドを訪れたフランス人旅行者は、後に自分の印象を本に書いて 出版した。パーリンによるとイギリス人は一般に愛想は良くないが、「お 互いにとても陽気で……宴会好きで……そして居酒屋では最低一日に一度 は、養殖ウサギや野ウサギ、その他あらゆる種類のご馳走を食べる」とあ る。イギリス人はまた大酒飲みだと彼は述べたが、「彼らはたいてい食卓 で『お元気で!』と言ってくれる」ことを、今度は感じよく付け加えた。

その少し後、歴史家であり外交官のオランダ商人で、エリザベス女王の 全治世期間イングランドに住んでいた人物は、もっと好意的な言葉でイギ リス人を説明した。『オランダ史』の中で、このエマニュエル・ヴァン・

メテレン2は「イギリス人は雄弁で、とてももてなし上手である」と述べ た。しかし、「ドイツ人が飲酒においては慎みがないように、イギリス人 は食べる事において節度がない」とつけ加えた。

1581年にイングランドを旅した内科医で聖職者のレヴィナス・レムニ アスというもう一人のオランダ人は、大変イギリス人贔屓だった。彼が言 うには、「この有名な王国では、言葉使いは信じられないほどの礼儀と親 しみがあり、物腰は丁寧である」。レムニアスは、ほかの人がけなすよう にイギリス人を大食だとは感じていない――「食事では贅をこらし、上質 の食べ物を愛するが、飲み過ぎることも無ければ他人に無理強いすること もない。それどころか、各人皆が楽しむための適量を飲むに任せている。」

大陸の人々の批判的な意見に気づいていたイギリス人は、たいてい、そ れをやっかみの印として肩をすくめる傾向があった。ファインズ・モリソ ン3というイギリス人の世界旅行家は国内もよく旅していて、イギリス人 の習慣とマナーについて良い面を強調しようとしている。『旅行記 1603- 1617』で、モリソンは「イギリス人が自分用、あるいは偶然やってきた 友人用には、たいていは普通の食事を用意するというのは事実である。一 方、招待した友人のための宴会では、皿数は度を超していて、次々料理が

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置かれないと、食卓の用意が不十分だと考えられている。」と記した。そ して宴会ではイギリス人は「特別の友人や立派な人物を記念して2、3 度 乾杯する」。モリソンは、暴飲暴食があること、他国ではイギリス人を

「食いしん坊、肉の大食家」と呼ぶこと、を認めた。しかし、「イギリス人 は一人の人間のためだけに多くの料理を出すのではなく、大勢の人のひと りひとりの食欲を満たすために食事を出す。また家族のみならず、他人や 貧しい人の気分転換のため、食卓を用意する。」と説明した。

シェイクスピア時代、事実、節制は高く評価される習性であった。内科 医や食養生を説く作家は、健康のために飲食の節制を勧めた。説教師は人 間の魂のため同じ助言をした。随筆家、劇作家、詩人でさえ、節制には好 意的であった――とは言え、暴飲暴食の悪を毒のある言葉で非難するピュ ーリタンのパンフレット作家よりは、もっと穏やかな論調ではあったが。

彼らの書いたものからは、イギリス全土が鹿やビーフのローストをむさぼ り、強い酒におぼれていたと思わざるを得ないだろう。

友人との飲み食いの喜びを楽しんで書いたシェイクスピアもまた、節制 を説いた。『アセンズのタイモン』は、節制を欠くことによってもたらさ れる結末を描いたひとつの例である。もっとも、タイモンの問題は基本的 判断力の欠如にあるのだが。タイモンが友達に気前良くご馳走や贅沢な贈 り物をばらまいたお蔭で、財布が空っぽになってしまったとき、助けを請 うと「お友達」がひとりまたひとりと消えていくのが、タイモンにはわか った。

ジョン・ハリントン4は、エリザベス女王を名付け親とする才気煥発な 人物だが、彼もまた贅沢な食事や過度の飲食をよしとしていない。「饗宴 に反対して」という詩で、彼は接待側の度を越したメニューを批判してい る。

親切なマーカスは、最近私を食事に誘った。

いかに客人思いかを示すため

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部屋にはイグサでなくバラがまき散らされ、

手に入る限りのあらゆるご馳走を享受できた。

我らがもてなす美味しい料理の真ん中でいま、

あなたは悲しんでいるようだ、と彼は言った。

ああ、(私は言った)それは君が空から鳥を奪い、

海から魚を、大地から獣を奪うのを見るからだ。

そんなに犠牲を払っても、一時間のうちに 全部食べてなくなってしまう料理のために。

フィリップ・スタッブス5は、16世紀末の最も過激なピューリタンのパ ンフレット作家だが、1583年出版の『悪弊の解剖』の中で、エイルグナ

(アングリアを後ろから綴ったもの)と呼ぶ、架空の島の人々の「大食い と飲み過ぎ」について非難している。作中の解説者であるフィロポナスは

「報告するにも嘆かわしいものを見てきた。その島の人々はすばらしく旨 い食事を与えられて牛飲馬食する上、大半が大酒飲みの食い道楽でもあ る。」と報告している。

フィロポナス曰く、もてなしとは「立派で敬虔な行為だが、行き過ぎる と耐え難いものとなる……というのも、最近では食卓に端から端まで、と ころ狭しと高級な肉料理がたっぷり並んでいないと……そして、どの料理 にもその種類に合った幾通りかのソースが無いと、晩餐の名にふさわしく ないと考えられている。……そして、これらの美味なるものには、きっと あらゆる種類のワインが不可欠であろう。なんという虚しさ、放縦、過剰 がここにはあることか!」

フィロポナスはその暴飲暴食の罪が来世で地獄行きになるのみならず、

この世で健康を害し、早死にすることになると予言する――「黒パン(ラ イ麦、大麦、エンドウ、豆類、オート麦、その他の穀類から作られるなに がしかのもの)を食べ、わずかの酒を飲むか、そう、時には水を飲み、ミ ルク、バター、チーズを常食とする貧しい人々を、君たちは見ないのか。

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(いやはや)こういう人は、毎日美味しいものをたらふく食っている人よ り健康で、強くて、長生きするのが、わからないのか。」

行き過ぎは節制より宣伝効果がある。宗教改革者は時折、ほとんどの人 がおおかたの時間、節制して過ごしているという事に目をつぶっている。

貧しい人々には節制以外の選択肢はなかった。金持ちでさえ、いつも宴会 をしていたわけではない。良識はなくても財布が節制を勧めた。たっぷり 食すことを楽しむ大半の人は、一人の時は簡単な食事をした。

牧師として生計を立てていたウィリアム・ハリソン6は、『イングランド の描写』――1577年出版――の中で、食事時のイギリス人について理路 整然とした描写をしている。この著書はチューダー朝時代の社会史の唯一 最高の資料である。ハリソンは貴族と裕福な商人に対して最も批判的であ る。「料理の皿数と肉の種類の変化において」、彼は言う、「イギリス貴族 は(彼らの料理人はほとんどが音楽好きのフランス人もしくはよそ者[外 国人]だが)すべてを凌駕している。というのは、ビーフ、マトン、子牛 肉、子羊肉、子ヤギ肉、ポーク、ウサギ(ラビット)、子豚、その他時期 的に手に入る幾種類もの肉だけでなく、アカシカ、ダマジカの部位、加え て多くの種類の魚、野鳥、それにそのほか様々なご馳走を食べるというな らわしが、頭をよぎらない日など無かったからだ。」

紳士および平凡な商人はもっと慎ましく食事をしていたとハリソンは言 う。「小さな集まり(少人数の客)、あるいはひょっとしてひとりかふたり、

せいぜい3 人くらいの場合、もしくは食卓に誰も客人がいないときは、そ

れぞれ 4 皿、5 皿、あるいは6 皿の料理で満足していた。」「最も貧しい 階級の人々については、一般に食べられるときに昼の正餐および夕食を食 べた」、と彼は言う。7

金持ちの農夫は、たいてい簡単な料理だが、よく食べた。そして平均的 ヨーマンの家庭では通常は慎ましい食事をしており、休日にはご馳走を食 し、家の召使いや、もしいれば雇われ労働者には、物惜しみぜず休日の正 餐を提供することが望まれていた。トマス・タッサー8は『優れた畜産学

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の 500 の要点』の中で、農夫とその妻たちに農場の問題とともに家事に ついてのアドヴァイスをした。タッサーは来客を好み、特に休日には喜ん で来客を迎えた。親切で社交的な男であったが、贅沢は認めていなかった。

来客が誰も楽しんでいない場合、彼は次のように語りかけている。

優れた夫と妻たるもの、ときには自分たちだけは 一口だけでやりくりし、骨をつついて食べるもの。

そして祭日以外は来客には、

三しなの料理をおいしく料理し、心からのもてなしを。

それで友が楽しめば、君らの食堂にお似合いだ。

タッサーは子供のころ音楽家としての訓練を受け、宮廷で職に就いてい たが、そこでの生活を嫌い、かわりに農業を選択した。農夫としては成功 しなかったが、彼は農耕の原則や方法についてかなりの知識を習得した。

農場経営者向けのタッサーの本は、ある種の滑稽詩で書かれているが、お そらく詩で書けば読者が彼の忠告を忘れずに覚えていてくれることを望ん だのであろう。タッサーは、家庭だけでなく農場経営における農家の妻の 役割について、堅実な意見を持っていた。

亭主から、女房取ったら何が残る?

………

亭主の仕事が食扶持稼ぐ、そうは見えても、

女房の働き、実は苦労は同じこと。

天気によっては亭主は息抜き、

でも女房の仕事に終わりなし。

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イギリス人の大部分はめったに一切れのロースト・ビーフですら口にす ることは無かったし、水っぽい(弱い)ビール以上のものを飲むことも無 かった。ニコラス・ブレトン9は、『空想家』の中でイギリスの労働者の日 常の食事について説明している。それによると、「バター・ミルク・チー ズは労働者の食事である。美味しいビール一杯が元気をよみがえらせる」

とある。『風刺の描くお転婆娘』の中では、「今しがた荷車からもどってき た百姓女」について語っているが、「その女はプディングとインゲン豆と エンドウ豆で生きていて、黒パンのくずだけでポタージュの中身を濃くし ている」という。

こういう人々はまだしも幸いな貧乏人だ。何千ものイギリスの男女、子 供は飢えていた。多くは家もなく、中には仕事を求めて田舎をさまよい歩 く「丈夫な乞食」10として知られる一団を形成する人々もいた。彼らは仕 事がみつからないときは食べ物の施しを請い、物乞いの成果がないときな ど、時には盗みを働いた。法に触れるとひどく罰された。

『コリオレーナス』(1 幕1 場 )の中で、シェイクスピアは貧しい人々 の絶望と怒りの感情を描いている。ケーアス・マーシャスはローマ元老院 の連中に最も憎まれているが、飢えて度し難い市民のグループを次のよう に説明している。――

奴らは腹が減ったと言って、ことわざを吐いたのだ、

飢えの思いは石垣を通すとか、

だれしも犬を食わねばならないとか。

肉は口に入れるもの、神は金持ちだけに穀物を贈ったのではないとか。

イギリス人は当時のヨーロッパ大陸の国民の誰よりも、概して健康では なかった。たびたびの病の発作のため、飲食の節制が推奨された。富める ものも貧しいものも胃病を患った。部分的にその理由は明らかで、金持ち は食べ過ぎ、貧乏人は飢えて過ぎていたからだった。しかし、いちばんの

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悪因は、正しく食品冷却ができないこと、および非衛生的であったことだ ろう。ロンドンでさえ、シェイクスピアの時代、ほとんどの家には水道が なかった。下水処理設備は未だに原始的であった。ジョン・ハリントンは 現代のようなものではないが、「水洗トイレ」を発明した。しかし、王室 筋の彼の後見人がそれをリッチモンド城に備え付けたものの、――金持ち の間でさえ――1 世紀近く、水洗トイレという発想は流行らなかった。

健康本や「養生食」の人気は、健康についての個人の関心の深さを証明 した。それは、沢山の料理本に病人用の家庭療法の項が見られるのと同様 である。養生食は概ね健康に関する食事のアドヴァイスで成りたっていた。

食べられるものはすべて健康上の効果という関係で分析された。「憂鬱質」

の人には、ある一定のものを食べ、そうでないものを避けるよう忠告した。

「胆汁質」気質には、胆汁をふやすような食品に気をつけるよう警告した。

食品の中には「悪い血」の原因となるため危険視されるものがあった。さ らに体や頭を「悪い気」で満たす可能性のある食品もあった。中には「人 間の精子」をふやすことのできる食べ物もあり、当時は子供がたくさん若 死したので、それは多くの人に望ましく見えたかもしれない。

また、シェイクスピアがほかの作家同様しょっちゅうほのめかしたテー マ、つまり媚薬を考慮した食べ物に対する並々ならぬ関心もあった。「天 からサツマイモの雨を降らせてくれ、キス用のコンフィッツ11の霰を降ら せ、エリンゴ(シュラブ・エリンゴの砂糖漬けにした根っこ)の雪を降ら せてくれ」と、フォルスタフはフォード夫人を抱きしめながら『ウィンザ ーの陽気な女房たち』(5 幕5 場)の中で言っている。三つの食品はみな 媚薬だと考えられていた。

養生食のほとんどが多かれ少なかれ、同じ事を述べ、どれも性行為と飲 食の節制を勧めた。養生食は医師によって書かれたものもあったが、それ 以外はギリシャ時代にまで遡る書物から、素人によって編集された。それ はある特定の食べ物を用意する健康法であり、料理本と競争するためのも のではなかった。

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人気の養生食のひとつはアンドリュー・ボアード12の『概略的規律と健 康食』で、ボアードはオクスフォード大学で神学と医学両方の教育を受け た開業医であった。司教であり医師のボアードは、幸福であることは心身 両方に良いと進言した。すなわち、楽しんで食べる食物は、そうでない食 物より、本人には良い働きをするのだ。食事をすることは快い事であるべ きだが、人は飲食においては節度を保つべきである。「正餐と夕食では雑 多の飲み物を飲んだり、いろいろな肉を食べるべきではない。せいぜい 2,

3 種類の料理を食べ、……食後は飲み物をたくさん飲んではいけない。夕 食では消化の良いあっさりした肉を食し、こってり厚みのある肉を控える べき。つまり、満腹もしくは空っぽの胃袋で寝てはならない。」と彼は忠 告する。さらに「幸せな気分で寝よ」と付け加えている。彼は食卓で長い 時間を過ごすイギリスの習慣を案じた。「イングランドには正餐や夕食時 に、長時間座っている悪い習慣がある。……正餐や夕食で長く座っている のはよろしくない。正餐は一時間で充分、夕食はそれより短くて良い」と のことだ。

この立派な医師は食べることを楽しみ、良い料理人の価値を知っていた。

彼の言うには、「良い料理人とは、半ば医者のようなもの。主要な薬(医 者の助言は別として)は台所からやってくる。医師と料理人は共に相談し て病人のために肉(食べ物)を用意しなければならない。もし料理人なし で、医師が料理の専門家でもないのに食事を作れば、病人が食べられない 出鱈目の料理(不適切な調合)を作ることになる。」良い料理人を見つけ るのは難しいとボアードは強調し、古いイギリスのことわざを引用した

――「神は人間に良い料理を贈り、悪魔は人間をだめにする悪い料理人を 贈る。」

トマス・マフェット13の『健康改善』は、18 世紀半ばまで人気を保ち続 けたもう一冊の養生食である。マフェット博士は同胞の食道楽をたしなめ、

また節食を勧めた。「スペイン人は食い過ぎ、ドイツ人は飲み過ぎ、イギ リス人はその両方だ」とのこと。

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イギリスの料理本の中には、イギリスだけでなくヨーロッパ大陸のレシ ピを提供するものもあった。ロバート・メイは『熟練した料理人、あるい は料理の技術と奥義』の中に、相当量のフランス料理のレシピはもちろん、

イタリア料理のレシピを入れた。イギリスの料理本の作者は、イギリス料 理でない(あるいはそうでないとされている)起源の料理レシピを「フラ ンス式」とか、イタリア式、ドイツ式、スペイン式、ポルトガル式に調理 されたものとして認定した。そうした認定はその著書にある種、高い評価 を与える意図があった。また著者がヨーロッパ本土を旅行して最高の外国 料理を選び出したことを見せつけて、自らの名声を高めるつもりもあった。

彼らの主張は、必ずしも本をより多く売るための努力というだけでも無か った。ジョン・マレル、ロバート・メイ、ウィリアム・ラビシャなどは、

料理本作家の中でも、実際に料理人としての経験と訓練をヨーロッパ本土 で受けたことがあり、それはたいてい海外にいるイギリス人の下で働いて いる間に経験していた。

上等のフランス料理の起源は、カトリーヌ・ド・メディチが許嫁の国王 アンリ 2 世と結婚するためにフランスへ来たほんの 16 世紀半ば――

1533 年――にまで遡るにすぎないが、そのとき、カトリーヌは生まれ故

郷フィレンツェからたくさんの料理人を連れてきたのだった。しかし、イ ギリス生まれのプロの料理人がかっかりしたことに、16 世紀後半までに は、フランス料理はすでにある種のイギリスのグループでは流行となって いた。タイトルに「フランスの」という言葉の付いた料理本が登場し始め、

イギリス料理の本と競いはじめた。だが、ほとんどのイギリス人はなおも 古き良きイギリス料理の方を好んだ。

ほとんどの料理本は、レパートリーを広げる助けとして、プロの料理人 向けに書かれた。中には、家族と召使いに食べさせなければならない主婦 のために書かれた料理本も何冊かはあったけれども、タイトルに「貴婦人、

淑女」という言葉の付いた料理本はたいてい、デザート、甘いお菓子、保 存食、花およびハーブの蒸留水についてのレシピ集だった。

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専門職に就くもの、大商人、豊かな農業経営者の妻や娘は、紳士貴族階 級の婦人同様、料理本を購入し、大切にしていた。そのほとんどは何世紀 もの間に散逸したが、ときおり、16 世紀あるいは17 世紀の料理本が遊紙 に最初の所有者の名前入りで、ひょっこり出てくる。メアリー・プリンは、

ジョン・パトリッジ作『良案の宝と隠れた秘密』という一冊を自慢に思っ ていたに違いない。そうでなければ自分の名前を見ることにうっとりして いたに違いない。というのは、彼女のサイン(それはおよそ1573 年のそ の本の出版の日付とほぼ同じ時のものだ)が、タイトルのページに三カ所 もあるのだ。また、おそらく素人ながら料理に強烈な興味を持った男性も 料理本を買ったはずだ。多くの料理本が何版にも渡って出されたが、シェ イクスピア時代の政府は普通の本には各版1250 部の制限を設けていたの で、発行部数は思ったより少なかった。

貴族や紳士階級の婦人は、保存食、香りの蒸留液、砂糖菓子作りとは別 の料理の腕を持つことが望ましく、また実際、料理上手だった。ウィリア ム・ハリソンは女王陛下の侍女の腕前にひどく感服していた。花の香水、

医療用ハーブ飲料の蒸留知識はもちろん、楽器の演奏や歌唱力、見事な針 仕事、レース作り、絹糸紬ぎの能力を、彼は褒め称えている。そして「侍 女のひとりひとりが、宮廷での自分の居場所を確保するための、何らかの 技術に熟練していた。同様に礼節において、自分の考え出した幾種類もの おいしい料理で、家にいるときは台所の普通の必要を満たせない侍女はひ とりもいなかった。」

シェイクスピアはしばしば、それも効果的に料理人や料理作り、飲んだ り食べたりを利用した。事実、食べ物や飲み物にまつわる場面、あるいは 飲食の比喩に基づく場面が織り込まれていない劇は一つもない。シェイク スピアは、雰囲気を作り出したり、ムードを定めたり、人物の特徴を引き 出すためにこれらを用いている。

食べ物に関するありふれた毎日の行動を、シェイクスピアは辛辣な場面、

悲劇や喜劇の場面に変えてしまう。そういう場面はわれわれを悲しみや恐

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怖で満たしたり、うっとりさせて楽しませたり、ぞっとさせては怒らせた りする。また、いまなお、感動や喜び与えてくれる登場人物を提供してく れる。

『ペリクリーズ』(1 幕5 場 )では、たった 3 行の中に市民の災難状況 図を描いている。それはクリーオンが自分の都の市民が陥った状態を語る ところである。

ほんのふた夏ほど前までは、味覚にかなうには 新しい創作料理がないと満たされなかった口が、

今ではパンをありがたがって請い求めている。

ジュリエットが冷たく死んだように見えるのを見つめて、キャプレット の悲しみはいかに哀れを誘うものであろうか。

祝いのために整えた一切のものが 役目変わって陰気な葬式用になる。

婚礼の楽の音は悲しみの鐘に転じ 喜びのご馳走は弔いの宴に変わる。

『ロミオとジュリエット』4 幕5 場

ハムレットの、父の死と母の再婚についての辛辣で陰気な気持ち(1 幕 2 場 )は、ホレーシオに対する次の言葉にあらわれている。

倹約だよ、倹約、ホレーシオ!葬式用のパイが 冷たくなって婚礼の食卓に出されたのさ。

喜劇的流れで言うと、フォルスタッフの食べ物やお酒に対する欲求は、

豊富なユーモアの源となっている。そして『間違い続き』では、エフェサ

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スのドローミオが自分の主人の双子の弟に、愛嬌たっぷりに皮肉った返答

をする(1 幕2 場 )。その弟の方の主人はドローミオを自分の召使いだと

間違えていて、使いに出て行ったばかりなのに、どうしてそんなにすぐに 戻ってきたかを尋ねるのだ。

すぐに戻ってきた?遅すぎるくらいですよ。

鶏肉は焼け焦げて、豚は焼串から落っこちるし、

時計が12 時の鐘を打つと、

奥様が私のほおを打つんです。

奥様がかっかとくるのは食事が冷えるため、

食事が冷えるのは旦那様がお帰りにならないため、

旦那様がお帰りにならないのはおなかが空かないため、

おなかが空かないのは断食しないで朝ご飯を食べるため、

でも朝抜きでお祈りすると承知してる私たちは 旦那様のお陰で罰として懺悔させられるんだ。

それから『夏の夜の夢』( 3 幕 1 場 )で、女王タイテーニアがボトム

――ロバの頭の――を幸せにするために、お付きの妖精たちに与えるうっ とりするような命令もある。

この方にていねいにお仕えしてね。

この方の歩く道では跳ね回って踊ってね。

お食事にはアンズにキイチゴをお出ししてね、

紫のブドウに緑のイチジク、それから桑の実もね。

田舎での接待の場面では、『冬物語』( 4 幕 4 場 )の羊飼いは養女にし た拾い子のパーディタに、羊の毛刈り祭りに来た初めての客はもちろん、

招待した客を恥ずかしがらずにもてなすよう急き立てる。

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おい娘、何しておる!かあさんが生きてたときには 祭りの日には、食事の支度に給仕に料理、

女主人から召し使い役まで全部一人でやっておったぞ。

お客を迎え、給仕をし、歌ったり、踊ったりしたものだ。

いま食卓の端にいるかと思うともう真ん中にいる。

こっちの人と踊ったり、あっちの人と踊ったり。

動き回って顔が火照ってくると、それを冷すため 客のひとりひとりと乾杯したものだ。

………

………さあ、お願いだ

この初めていらしたお客さん方をお迎えして。

そうすればもっとよく知るお友達になれる。

そんなに顔を赤くしないで

宴の女主人らしく、さあ、しっかりするんだ。

訳注

1 グロートは当時のイギリスの4 ペンス銀貨。ダカットはヨーロッパ諸 国で広く使われていた金貨。当然、ダカットの方が価値がある。

2 Emanuel Van Meteren(1536-1612)。当時、かなり力と富を有した 商人であり、歴史家。スペインとの戦いにおいて、エリザベス女王側 に有利な働きをした。

3 Fynes Moryson(1566-1630)。ケンブリッジ大学で学んだ後、ヨー ロッパ各地を旅して、5巻にわたる旅行記を書いた。また、アイルラ ンド総督・モントジョイの秘書も務め、「ティローンの反乱」でも戦 った。

4 John Harington(1561-1612)。エリザベス女王の宮廷で、 saucy

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godson (生意気な名付け息子)として呼ばれた作家。詩をはじめ、

さまざまな作品を書いたが、その内容が過激であったため、しょっち ゅう女王に叱責されていた。次のジェームズ1 世王にも仕えた。水洗 トイレの発明者。

5 Philip Stubbes(c. 1555-c. 1610)。当時最も過激なピューリタンの説 教師で、大衆劇場を悪の巣窟として非難した。シェイクスピアはじめ 劇場関係者にとっては不愉快な人物であったが、彼が劇場前で演説し ても、観客は減ったわけではなかった。『悪弊の解剖』(Anatomie of Abuses, 1583)は、フィロポナスという学識ある旅行者が Ailgna 、

つまり、 Anglia (England)を旅しながら、田舎者の相棒とその国

のマナーの悪さを語り合う対話形式で成り立っている。

6 William Harrison(1534-1593)。オクスフォード、ケンブリッジで 学んだ学識ある牧師。メアリー1 世のころ、一時カトリックに改宗す るが、ふたたびプロテスタントの聖職者として過ごす。彼の歴史書は いまだに、エリザベス時代を知るための重要な資料である。

7 この当時は昼が正餐で夜はそれより簡単な食事をした。朝食は無しか、

食すにしてもごく軽いもので済ませ、一日2 食が原則であった。

8 Thomas Tusser(1524-1580)。もともと歌が上手で子供のころから 教会の聖歌隊にいた。宮廷に仕えた後、農業に転向するが、『優れた 畜産学の500の要点』(A Hundreth Good Pointes of Husbandrie, 1557)のことわざの中には今でも使われる有名な台詞もある。

9 Nicholas Breton(1545-1626)。詩人、作家。散文の著書は20を超え るており、同時代の文献にもよく引用されている。裕福な商人の出で、

アントワープで学び、ペンブローク家をパトロンとするなど、上流階 級とのつきあいもあった。『空想家』(Fantastickes, 1626)では、キ リスト教の祭りなど年間の行事を解説し、当時の習慣を知るよい資料 となっている。

10 sturdy beggar として知られる乞食。法的な用語になっている。

(19)

働ける体力はあるが、職がなく、物乞いをして歩いたグループを指す。

11 コンフィッツは当時流行った、良い香りのする砂糖菓子。食べておく と、キスするときに良い香りがするというので使われた、木の実やク ルミを使った丸い菓子。

12 Andrew Boorde(1490c.-1549)。旅行家、内科医、作家。オクスフ ォード大学で学び、修道士(宗教改革前だったので)に成る予定であ ったが、あまり気が進まず、断念して医学を学ぶため海外に留学する。

その後、トマス・クロムウェルにかわいがられ、海外を視察して歩き、

旅行記をクロムウェルに送ったと言われている。医師としても活躍し た。

13 Thomas Muffet(1553-1604)。博物学者であり、医師。ケンブリッ ジに学び、当時流行っていたパラケルスス派の医学を信奉していたた め、College of Physicians(当時の医学界の権威集団)と次第に敵対 するようになる。『健康改善』(Health’s Improvement, 1655)はプロ の医師のためと言うより、素人向けに書かれた健康書。

参照

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