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国際文化論集 第26巻 第2号

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(1)

岩尾龍太郎先生の思い出に

はじめに

「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」(1939)において,

ベンヤミンは抒情詩の読者がもつ経験が,十九世紀において根本的に変容した のではないかと問うている1)。その際,「生の哲学」の試み,すなわち「文明化 した大衆の規格化された生活,その本来の性格を奪われた生活のうちで形と なった経験に対して,

!真の"経験を奪取する」(I/2, 608)という試みが,こ

の問いに答えるための手掛かりにされている。ディルタイ,クラーゲス,ユン グ,そしてベルクソンの名を挙げながら,ベンヤミンは生の哲学における真の 経験の重視が「大工業時代のよそよそしく,目を眩ますような経験」からの反 動から生じてきたのだと言う2)。言い換えれば,生の哲学が確保しようとした

!真の"

経験」とは,大工業時代の経験を「補償するようなたぐいの経験

eine

Erfahrung komplementärer Art」(I/1, 609)だったのである。

近代において新たに生じてきた経験を補償するという試みは,哲学において

1) Vgl. I/2, 608. ベンヤミンのテクストは,本文中においても註においても,以下の

全集から引用し,上記のようにローマ数字によって巻数を,アラビア数字によって分 冊数とページ数を指示する。Walter Benjamin, Gesammelte Schriften, unter Mitwirkung von Theodor W. Adorno und Gershom Scholem, hrsg. von Rolf Tiedemann und Hermann Schweppenhäuser, Frankfurt am Main 19721989.『パサージュ論』からの引用について は,ベンヤミンによって付された原稿整理番号も付す。

2) Vgl. I/2, 609.

新しさと永遠回帰

ヴァルター・ベンヤミンにおけるファンタスマゴリーの理論 森 田 團

西南学院大学 国際文化論集 第26巻 第2号 157−177頁 2012年3月

(2)

のみ生じたわけではない。『パサージュ論』において主題となっているのは,

「ボードレールのいくつかのモチーフについて」や「複製技術時代における芸 術」(

1935

1939

)において分析されていた「ショック体験」に代表されるよう な大都市における経験とは対照的に,その補償として機能している経験であっ た。すなわち,「ファンタスマゴリー

Phantasmagorie

」の経験である。

以下においては,このファンタスマゴリーの経験を,生の哲学者――とりわ けクラーゲス――が焦点を合わせていた!イメージ

Bild "の経験に即して解釈

することによって,その内実を探ることを試みる。ベンヤミンにとって,ファ ンタスマゴリーの経験とは,十九世紀固有のイメージの経験であり,まさにそ れゆえにこの経験のうちに近代の原像が求められることになった。では,この ようなイメージ経験のうちから,どのような近代的経験が浮かび上がってくる のだろうか。まずはファンタスマゴリーとイメージの関係について考察するこ とからはじめたい。

1.ファンタスマゴリーとは何か

『パサージュ論』は,長期間にわたって取り組まれた仕事であり,かつ途中 で数年の中断期間をはさんでいる(第一期作業時期

1928

1929

年,第二期作業 時期

1934

1940

年)。それゆえ『パサージュ論』のもとに集められた断章群の 主題も多岐にわたり,その方法論も必ずしも一定しているわけではない。しか し,十九世紀のパリ研究という企てにおいて,最初期から最後まで維持された 発想があるとするならば,それは十九世紀の都市経験を夢のメタファーによっ て捉えるというものである。次の引用にはこの発想が最もよく表われている。

資本主義はひとつの自然現象であり,この現象とともに夢を伴っ た眠りがヨーロッパを覆った。そして,この眠りのなかで神話的 な諸力が再活性化したのである。(V/1, 494 [K1a, 8])

−158−

(3)

『パサージュ論』が対象とするのは,十九世紀がみた「夢」にほかならない。

夢のメタファーは,十九世紀ヨーロッパの文化現象が社会的現実からある仕方 で退隠していることの帰結であること,そしてその補償の経験を提供している ことをよく表現している。さらに眠りと夢のメタファーは,この補償としての 経験が,イメージ経験であることも含意している。ベンヤミンはこの退隠の在 り方を具体的かつ直観的なかたちで捉えようとしていた3)。つまり,この「眠 り」という現実からの退隠が最も顕著に現れる場と,そこにおける経験を問題 にしたのである。その代表例がパサージュという建築にほかならない。

ベンヤミンは,とりわけ公共建築,すなわち「パサージュ,室内庭園,パノ ラマ,工場,!人形館,カジノ,駅」を,夢が経験される空間として「集団の 夢の家

Traumhäuser des Kollektivs

」とみなす4)。また,万国博覧会,市場,百貨 店,室内,さらにはオスマンの都市計画によって生まれ変わったパリそのもの でさえ,夢の家ないしは夢の空間と考えることができよう5)

大衆や遊歩者が,この空間のうちで身を委ねることになる経験は,総じて

「ファンタスマゴリー」の経験であると言うことができる6)。ファンタスマゴ リーとは,目の錯覚を利用し,暗室において観客に向けてイメージを浮かび上 がらせる技術,ないしはそのような出し物を指すフランスで用いられはじめた 造語である7)。派生的な意味としては「光線の戯れによって生み出されるぎょっ

3)ベンヤミンは,マルクス主義が「直観性=具象性Anschaulichkeit」を犠牲にしてい ることを指摘しつつ,自らの試みをマルクス主義において「直観性=具象性」を回復 する試みとみなしている。Vgl. V.1/575.

4) Vgl. V/1, 511 [L1, 3].

5) Vgl. V/1, 48 ff.

6)「ファンタスマゴリー」という概念は第一期の作業時期においては用いられていな い。この語の導入は,1929年秋のいわゆる「歴史的対話」(ベンヤミン)におけるア ドルノとホルクハイマーの『パサージュ論』初期草稿の批判――十九世紀の分析をマ ルクスの参照なしに成し遂げることはできない――を機縁としていると思われる。こ の点に関してはティーデマンの論文を参照のこと。Vgl. Rolf Tiedemann,Dialektik im Stillstand. Annährung an das Passagen-Werk, in:Dialektik im Stillstand. Versuch zum Spätwerk Walter Benjamins, Frankfurt am Main 1983, S.23 f.(ティーデマンのこの論文は,『パ サージュ論』の導入として書かれた論文の再録である。全集の頁数も付け加えておく。

Vgl. V/1, 24 f.

新しさと永遠回帰 −159−

(4)

とさせるような効果」であるとか,「非現実的にみえる魔術的なスペクタク ル」などが挙げられる8)

ベンヤミン自身は,さまざまなコンテクストにおいてファンタスマゴリーと いう語を用いており,その意味を一義的に規定することは難しい。しかし,

1939

年にマックス・ホルクハイマーの要請によって,フランス語で書かれた

『パサージュ論』の梗概における用法は,ファンタスマゴリーの概念が,パリ 研究という試みにおいてどのような位置をもつのかを理解するうえで非常に役 に立つ。以下においては,このフランス語版梗概の草稿とみられるドイツ語で 書かれた稿から訳出する。

文化という物象化された表象との関連付けによって,新しい,

とりわけ商品生産によって規定された,前世紀に負っている産 物と生活形式が,いかにファンタスマゴリーの総体に含み込ま れるかを表現することが,この研究の課題である。この創造物 が,理論的な加工によってはじめてイデオロギー的に「美化」

されるのではなく,いかに無!!!!!!!!!!!!!!!

〔in unmittelbarer Präsenz sinnlich〕

!美化 verklärt"されているの

かを示さねばならない。このような創造物はファンタスマゴリー として現れたのである。(V/2, 1255 f. 強調引用者)

ファンタスマゴリーは,まず何よりも十九世紀における資本主義的な生産様

7)装置としてのファンタスマゴリーについては,以下の書物の第一章を参照のこと。

マックス・ミルネール(川口顕弘,篠田知和基,森永徹訳):『ファンタスマゴリア

――光学と幻想文学』(ありな書房)1994

8) Vgl.Grand Larousse de la langue Française, Bd. 3, Paris 1986, S. 1882.ちなみに現在は

『パサージュ論』という表題のもとにまとめられている十九世紀のパリ研究に,ベンヤ ミンは最初「パリのパサージュ――弁証法的夢幻劇Pariser Passagen. Eine dialektische

Feerie」という表題を与えていた。このFeerieという語は,フランス語のféerie,す

なわち魔術的なスペクタクルという意義をもつ語に由来するが,ファンタスマゴリー の同義語でもある。

−160−

(5)

式によって生み出された事物が纏う相貌である。そして,ファンタスマゴリー として現れる十九世紀的な事物は商品にほかならない。「資本主義的な生産様 式 が 支 配 す る 諸 々 の 社 会 の 富 は,

!途 轍 も な い 商 品 の 集 積 eine ungeheure Warensammlung "

として現れ,個々の商品は基本的形式として現象する」9)と『資 本論』の冒頭でマルクスは書いている。『パサージュ論』においては,ファン タスマゴリーの概念によって,社会の富が「途轍もない商品の集積」として

「現象する

erscheinen

」仕方に焦点が絞られていると言える10)。つまり,ベン ヤミンにとって,「商品の集積

eine ungeheure Warensammelung」は,「ファンタ

スマゴリー

Phantasmagorie

phantasma

agora

(<Φ·ΉϟΕΉ΍Α=

sammeln

)」11)=「途 轍もないイメージの集積

eine ungeheure Bilder-Sammlung」として現象するので

ある。ファンタスマゴリーという語に含まれる「ファンタスマ

phantasma

」と いうギリシア語がイメージを意味することを考慮すれば,ファンタスマゴリー は,十九世紀的な事物の!イメージ"としての現れであり,それも「美化」に よって生じた!イメージ"であると言えよう。このファンタスマゴリーという イメージとしての現象,つまり「十九世紀の集団がもつ夢の現象形式」(V/1,

493 [K1a, 6])の解釈こそが,『パサージュ論』の中心的な課題となる

12)

したがって,ファンタスマゴリーは,たんなる事物ではなく,そのイメージ 9) Karl Marx,Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie, in: Karl Marx, Friedrich Engels

Werke, Bd. 23, Berlin 1962, S. 49.

10)『資本論』における特定の概念,とりわけフェティッシュ概念のベンヤミンによる 読解については,次の論文を参照のこと。Vgl. H. D. Kittsteiner, Walter Benjamins Historismus, in:Passagen. Walter Benjamins Urgeschichte des neunzehnten Jahrhunderts, hrsg. von Norbert Bolz und Bernd Witte, München 1984, S. 163197.

11)語源は『ドゥーデン・ドイツ語大辞典Duden. Das große Wörterbuch der deutschen Sprache』による。リトレの『フランス語辞典Dictionnaire de la langue française』に よれば,ファタスマゴリーは,ΚΣΑΘ΅Ηΐ΅Φ·ΓΕΉϾΉ΍Αからの造語であり,「幽霊に話 しかけるparler aux fantômes」,「幽霊を呼び出すappeler les fantômes」という意味であ るとされている。Vgl. Dictionnaire de la langue française, Bd. 3, Paris 1956, S. 1407.

Φ·ΓΕΣΦ·ΉϟΕΉ΍Αは同系の語であり, Φ·ΓΕΉϾΉ΍Αは,公共の場(アゴラ)で話すこ とを意味する。また,『ラルース大辞典』は,ファンタスマゴリーは,phantasma

allégorieからなる造語であるとしている。アレゴリーは「ほかのことを語るΩΏΏΓ

Φ·ΓΕΉϾΉ΍Α」に由来する。

12) Vgl. V/1, 493.

新しさと永遠回帰 −161−

(6)

としての現れである。さらに「ファンタスマゴリーは体験の志向的な相関者で ある」(V/2, 966 [m3a, 4])と言われる以上,ファンタスマゴリーこそが十!!!!!な経験の対象にほからなない。ベンヤミンにとって,

!近代"の経験と

は,何よりもまず,ある種のイメージ体験なのだ13)。そのとき,ファンタスマ ゴリーがたんなる現象ではなく,「美化」を被った現れであるとベンヤミンが 述べていることに注意すべきだろう。おそらく,ファンタスマゴリーというイ メージを産み出す美化という過程にこそ,近代固有のイメージ経験の秘密が ある。

2.『パサージュ論』における表現の概念

では,ファンタスマゴリーというイメージは,どのようなイメージなのか。

ファンタスマゴリーの経験とはどのような経験であるのか。それはいかにして 知覚されるのだろうか。『パサージュ論』が浮き彫りにしようとした近代固有 の経験を探るためには,このような問いが不可欠になる。にもかかわらず,『パ サージュ論』において,イメージ知覚の問題はほとんど掘り下げられることは ない。

もっとも,イメージ知覚がいかなるものであるのかを探るための手掛かりは いくつか存在する。ファンタスマゴリーが現れる空間は,夢のメタファーに よって語られていた。つまり,そこでイメージは夢見られるように受容される。

ベンヤミンはこのような受容の在り方を「陶酔

Rausch」に結び付けて語って

いる14)。たとえば,遊歩者が都市を彷徨するとき,彼は陶酔のうちで事物を受 容する15)。とりわけ,「遊歩者」の項目にまとめられた断章群のうちにある次

13)以下の論文におけるファンタスマゴリー解釈が,この論文における立場に最も近い ものである。Vgl. Thomas Weber, Erfahrung, in:Benjamins Begriffe, hrsg. von Michael Opitz und Erdmut Wizisla, Bd.1, Frankfurt am Main 2000, S. 247 ff.

14)『パサージュ論』が最初に企てられた時期に,ベンヤミンはハシッシュの吸引実験 についての記録を残している。Vgl. VI, 558618.

15) Vgl. V/1, 525 [M1, 5].

−162−

(7)

の断片は,非常に興味深い。

ハシッシュ吸引時における重畳現象や重ね合わせの現象を類似性 の概念のもとに把握すること。ある顔がほかの顔と似ていると私 たちが言うとき,これは別の顔の諸特徴が当の顔のうちに,その 顔の在り方が変わることなしに,私たちに現れることである。し かし,このようにある顔のうちに別の顔の諸特徴が現れる可能性 は,いかなる規準にも服することがなく,それゆえ制限がない。

類似性のカテゴリーは目覚めた意識にとっては極めて限定された 意義しかもたないが,ハシッシュの世界においては無制限の意義 をもつ。というのも,そこではす!!!!!!!!からであり,す べては生に溢れた現前という度合いをもつからである。そのため に顔におけるのと同じようにこの現前のうちに現象している諸特 徴を探究することができるようになる。(V/1, 526 [M1a, 1] 強調 引用者)

「ある顔がほかの顔と似ていると私たちが言うとき,これは別の顔の諸特徴 が当の顔のうちに,その顔の在り方が変わることなしに,私たちに現れること である」というベンヤミンの表現は,類似性の体験のみならず,イメージ体験 のあり方をよく示している。イメージは現実の知覚を基盤にしながらも,それ とは区別される次元に立ち現れる。たとえば息子の顔に父の面影をみるとき,

私たちは父の面影というイメージを眼前にしているわけである。さらに陶酔に おいては「すべてが顔である」と述べられるとき,そこでの知覚が根本的にイ メージの知覚であるとみなす必要があろう。すべてが「生に溢れた現前の度合

Grad von lebhafter Präsenz」をもつとは,まさにすべてが無媒介的な現前に

おいて美化されるのだと読み替えることもできるからである。このような現象 は夢における知覚にも当てはめることができよう。では,ファンタスマゴリー の経験は,陶酔において「すべてが顔」となるような知覚の在り方に基盤をも 新しさと永遠回帰 −163−

(8)

つのだろうか。

すべてがあたかも顔の よ う に み な さ れ る 知 覚 の あ り 方 は,「表 現 現 象

Ausdrucksphänomen

」の知覚と呼ばれている。表現現象の理論は,前世紀初頭

の心理学と哲学において大きな役割を果たしていた。それはたとえばルート ヴィヒ・クラーゲスにおいては,原初的な知覚の在り方として前言語的な経験,

すなわちイメージ経験の説明原理となり,エルンスト・カッシーラーにおいて は,「神話的思考」の根底に存する知覚様態とみなされたのである。かりにファ ンタスマゴリーの知覚様態が表現現象の知覚であるとするとき,ファンタスマ ゴリーの経験は,どのようなかたちで理解されることになるのだろうか。

ここではベンヤミン自身が大きな影響を受けたクラーゲスではなく,カッ シーラーの『シンボル形式の哲学』を参照しながら,表現現象の概念の概要に ついて説明することにしたい16)。カッシーラーは,「神話的意識」を次のよう に説明しているが,そこで暗黙に依拠しているのは表現現象の知覚の在り方で ある17)

神話的意識は,現象から本質へと推論するのではなく,現象に おいて本質を所有し,もつ。本質は現象の背後に退くのではな く,本質は現象において現れる。本質は現象において自らを覆 うのではなく,現象において自らを与えるのである。その都度 与えられた現象は,ここではある位置を代表するような表象

〔Repräsentation〕という性格をもつということなどはまったくな く,真正なる現前〔Präsenz〕という性格をもつ。存在者と現実 的なものは,ただ媒介的に現象を通して自らを!現前化する

16)ベンヤミンとクラーゲスとの関係については,以下を参照のこと。森田 團『ベン ヤミン――媒質の哲学』,水声社,2011年,171179頁。

17)カッシーラーはクラーゲスの表現現象の理論におもに依拠している。Vgl. Ernst Cassirer,Philosophie der symbolischen Formen. Dritter Teil : Phänomenologie der Erkenntnis, Gesammelte Werke, Bd. 13, Text und Anmerkungen bearbeitet von Julia Clemens, Hamburg 2002, S. 74.

−164−

(9)

vergegenwärtigen "代わりに,現象において,十全なる現在にお

いて存立するのである18)

神話的意識にとって現象はいまだ「表象」でも記号でもない。つまり,そこ に意味するものと意味されるものの分離は存在しない。現象は即意味の現象な のである。カッシーラーはこの次元を「表現‐意味

Ausdruck-Sinn」とも呼ぶ。

「表現‐意味は,むしろ知覚そのものに癒着している。表現‐意味は,知覚にお いて把握され,無媒介的に!経験される"のである。」19) 表現現象の知覚は,

表現‐意味の無媒介的な知覚である。あらゆる論理的な関係に先立ち,概念的 な媒介を経ることなしに,表現知覚においては,いわば!個物"において!普 遍"が同時的かつ十全に観取される。このような表現現象の範例となるのが人 間の表情である。たとえば,笑顔の意味を新生児はいかなる言語的な媒介を経 ずして了解すると言われる。一瞬の笑顔の知覚でもって,意味(敵対的か,友 好的か,極端な場合は,微笑かける人の人格)が無媒介的に了解されるのであ る。神話的な世界とは,このような表現に満ちた世界,「すべてが顔である」

ような世界であると言えよう。「神話的な諸力が再活性化」する夢の世界とは,

すべてが表現現象として現れる世界なのである。

『パサージュ論』が,ある種の観相学の試みと特徴づけられるならば20),な おさらファンタスマゴリーの受容という局面は,表現現象の知覚を基盤にして 考察すべきであろう。つまり,無媒介的な現前において感性的に美化された現 象とは,このような表現現象(の一変種)ではないだろうかと問う必要がある。

ベンヤミン自身は,表現現象の理論に直接的に言及することはないが,表現の 概念は『パサージュ論』において一定の役割を果たしている。「最初期の工業 製品,最初期の工業建築物,最初期の機械装置,さらには最初期の百貨店や広 告などの表!!!!〔Ausdruckscharakter〕」(強調引用者)が,パリ研究の分析の

18) Ebenda, S. 75.

19) Ebenda, S. 76.

20) Vgl. Rolf Tiedemann,Dialektik im Stillstand, S. 27 (V/1, 29).

新しさと永遠回帰 −165−

(10)

対象となると述べられているが21),まさにこの「表現性格」がファンタスマゴ リーとして特徴づけられる当のものであるように思われる22)

3.新しさと永遠回帰

表現‐意味の概念によって,ファンタスマゴリーにおいて問題にされる「無 媒介的な現前において感性的に!美化"されている」と言われる次元に照準を 合わせることができる。ファンタスマゴリーとして現れる対象は何よりも商品 であった。したがって,問われねばならないのは商品の表現‐意味である。無 媒介的な現前において,イメージの次元において体験される商品の意味がある とすれば,それは「新しさ

das Neue, nouveauté

」以外にないだろう。

新しさは商品の使用価値から独立した質である。新しさは集団的 無意識が産み出したイメージにとって,ほかには譲り渡すことが できない仮象の根源なのだ。(V/1, 55)

新しさがファンタスマゴリーに固有の表現‐意味であるならば,そこにこそ 十九世紀の経験全体が表現されていることになる。つまり,新しさの経験こそ が近代固有のイメージ経験なのだ。これは!近代

Neuzeit"にふさわしい経験

21) Vgl. V/1, 574 [N1a, 7].

22)もっとも,ベンヤミンが『パサージュ論』で用いる表現概念を,一義的に表現現象 から解釈することはできない。哲学において表現概念は新プラトン主義以来の伝統お いて,またその影響を受けたドイツ神秘主義において大きな役割を果たしたが,ベン ヤミンにおいてとりわけ重要であると思われるのが,ライプニッツのモナド論におけ る表現の概念(représentationないしexprimer)である。またカント以降の美学におけ る表現概念も考慮に入れる必要があろう。とくにライプニッツの表現概念とベンヤミ ンとの関係は稿を改めて論じることにしたい。ベンヤミンの言語哲学と表現概念につ いては,森田 團『ベンヤミン――媒質の哲学』の第3章(特に92112頁)も参照 のこと。また哲学における表現概念に関しては次のものを参照。Vgl. Hans Georg Gadammer, Zum Begriff des Ausdrucks, in:Gesammelte Werke, Bd. 2, Tübingen 1993, S. 384386 ; Art.Ausdruck, in:Historische Wörterbuch der Philosophie, hrsg. von Joachim Ritter, Bd. 1, Basel/Stuttgart 1971, Sp. 653662.

−166−

(11)

である。したがって,近代固有のイメージ経験が何であったのかという問いは,

この「新しさ」の内実を問うことによって答えられることになろう。

では,夢の空間において,いかにして新しさは生じることになるのだろうか。

奇妙なことにベンヤミンは,新しさの概念を「永遠回帰

ewige Wiederkehr」の

時間と結び付けている23)

夢見る集団は歴史を知らない。この集団にとっては,出来事の経 過はつねに同じものとして,またつねに最新のものとして過ぎ 去っていく。というのも,最新のもの,最も近代的なものがもつ センセーションは,すべて同じものの永遠回帰と同様,出来事の 夢の形式であるからである。(

V/2, 678 f. [S2, 1]

十九世紀を覆った眠りにおける「出来事の夢の形式」は「永遠回帰」という 時間に規定されている。つまり,ファンタスマゴリーというイメージの経験は,

永遠回帰という時間のうちで生起する。さらには,十九世紀における文化現象 は,このような時間性のうちでこそイメージとして現れるのだと言うこともで きる。しかし,新しさが永遠回帰とい!!!結び付くかは,この引用から明らか にすることはできない。『パサージュ論』において,「永遠回帰」と題されたメ モと資料の項目があるが,そこでもこの関連についてはこれ以上詳しく述べら れることはないのである。

そもそも永遠回帰はイメージに関わることになるのだろうか。ここでクラー ゲスの所論を参照したい。ベンヤミンはクラーゲスが永遠回帰をイメージの問 題として思考していたことを知っていた可能性があり,少なくとも『筆跡と性 格』の次の箇所を確実に読んでいる24)

23)『パサージュ論』における永遠回帰の概念に関しては次を参照のこと。Vgl. Winfried Menninghaus,Schwellenkunde. Walter Benjamins Passage des Mythos, Frankfurt am Main 1986, S. 94108.

新しさと永遠回帰 −167−

(12)

ブナの木から実が落ち,その実は森の土のなかで新しい木へと成 長する。もしかすると,母のブナは子のブナにおいて死後も生き 続けるのだろうか。もちろん違う! 私たちはブナの母を切り倒 すことができ,燃やすこともできるが,ブナの実はすくすくと 育っていく。あるいは,もしかすると古いブナの物!!が新しいブ ナのなかで生きているのだろうか。これも違う! というのも,

完全に生長した若木は,それがそこから生い育った実がもってい た物質のひとつの原子さえ含んでいないからである! しかし,

新しい個体のうちに,古い個体も,その物質も保持されていない とするならば,何がいったい何千もの世代を通して途切れなく貫 徹されているのだろうか。答えはイメージである! 樫のイメー ジ,松のイメージ,魚のイメージ,犬のイメージ,そして人間の イメージが,種の個々の担い手に回帰している。「繁殖=伝播

Fortpflanzung」とは,物理的には永遠に近づくことのできないよ

うな出来事であり,この出来事が種の原イメージを場所から場所 へ,時間から時間へと伝承するのである25)

クラーゲスにとってイメージこそが回帰するものである。「原イメージ

Urbilder」は回帰する当のものであり,かつイメージの表現‐意味というべきも

のだろう。上の引用では新しさについては直接的には語られていないが,つね

24)ベンヤミンは,社会学研究所の紀要にボードレール論ではなく,ユングとクラーゲ スについて書く希望をもっていた。193751日付,テオドール・W.アドルノ宛 書簡参照。Vgl. Walter Benjamin,Gesammelte Briefe, hrsg. von Christoph Gödde und Henri Lonitz, Bd. V, Frankfurt am Main 1999, S. 523.このことは,『パサージュ論』において,

ユングとクラーゲスが批判されねばならない対象であったことを示唆している。ユン グに関しては,「集合的無意識」という概念の『パサージュ論』における使用の正当 化という理由がある。クラーゲスを論じる必要性は,イメージの概念と表現概念にベ ンヤミンが暗黙に依拠していたからこそ生じたのだと思われる。この点に関しては 1937328日 付,マ ッ ク ス・ホ ル ク ハ イ マ ー 宛 書 簡 を 参 照 せ よ。Vgl. Walter Benjamin,Gesammelte Briefe, Bd. V, S. 489 f.

25) Ludwig Klages,Handschrift und Charakter, Bonn 1989, S. 35.

−168−

(13)

に回帰するイメージとは,つねに自らを更!!!!イメージであると考えれば,

ここにイメージの新しさを見出すことができる。そもそも

neu

という形容詞に

neu anfangen

(新たに=もう一度はじめる)という用法にみられるように,

反復の意味が含まれている。ここで反復とは原イメージが現在のイメージに回 帰していることだが,クラーゲスの言うような自然的なイメージにおける新し さは,まさにこのような回帰に見出すことができる。新しさと永遠回帰は,イ メージの次元においては,本源的に結び付いているのである。

ただし注意すべきは,クラーゲス自身は『魂の敵対者としての精神』におい て,ニーチェ的な同じものの永遠回帰に対して,自らのイメージの永遠回帰を

「円環的な時間

kreisförmige Zeit」のもとに理解していることである。クラー

ゲスによれば,ニーチェ的な永遠回帰とは,結局のところ,ニーチェ自らが克 服しようとした機械論と見分けがつかない。なぜなら,そこで回帰するのはか つてあったものの回帰であるうえに,何よりも同一物の回帰であるからである。

クラーゲスによれば,回帰するのは事物ではなく,本来イメージであり,イ メージの回帰は,ニーチェ的な永遠回帰と区別されねばならない。

!永遠回帰"が,かつて存在したすべての事物の状態の恒常的な

反復を意味するのに対して,

!円環的な時間"は,止めどもなく

流れるイメージの恒常的な更新を意味する。永遠回帰にしたがえ ば,世界はすべてが循環するごとに,そのあいだに過ぎた歳時の 長さの分だけ年老うことになるだろう。円環的な時間にしたがえ ば,回帰という意味において体験されるべきものは,まさに瞬間 の歴史を欠いた新しさなのであり,その瞬間の創造的な始まりの 性格であり,その瞬間の決して減じられることのない最年少性=

最新性〔Jüngstheit〕なのである26)

26) Ludwig Klages,Geist als Widersacher der Seele, Bonn 1964, S. 1349 f.

新しさと永遠回帰 −169−

(14)

このようにクラーゲスはイメージ が 生 き る「円 環 的 な 時 間」に「更 新

Erneuerung」を結び付け,その関連で「新しさ Neuheit」という語も用いてい

る。

4.ファンタスマゴリーにおける死

クラーゲスが,ニーチェ的な同じものの永遠回帰を批判し,イメージの永遠 回帰と区別することは,『パサージュ論』における新しさと永遠回帰の関係を 考えるための大きな示唆となる。ベンヤミンもまた,先の引用からも読み取ら れるように,ニーチェ的な永遠回帰を否定的に評価しているうえ,ファンタス マゴリーが生み出す新しさは永遠回帰に拠ると考えているからである。言うま でもなく,ファンタスマゴリーは,クラーゲスが言うような自然のイメージで はなく,資本主義的な生産様式によって生み出された事物の現象形式に過ぎな い。したがって,ファンタスマゴリーにおける永遠回帰は,クラーゲスがいう 意味でのイメージの円環的時間ではありえない。クラーゲスが特徴付けるニー チェ的な永遠回帰が,そのままファンタスマゴリーにおける永遠回帰に相当す るはずなのである。だからこそ,ファンタスマゴリーは美化されたイメージで あり,新しさという仮象を呈示するものでしかないのだ。しかし,仮象と断じ られているとはいえ,問われているのは,近代特有のイメージ経験,つまり新 しさの経験の内実であった。ファンタスマゴリーの新しさ,商品の新しさとは いったい何に拠っているのであろうか。

高度資本主義における商品生産の弁証法。製品の新しさは,

需要の刺戟として,いままでは知られていなかった意義を受 け 取 る〔bekommt〕。同 時 に,つ ね に 繰 り 返 す 同 じ も の〔das

Immerwiedergleiche〕が,大量生産品においてはっきりとしたか

たちで現れることになる〔erscheint〕。(V/1, 417 [J56a, 10])

−170−

(15)

ベンヤミンは「製品の新しさ」が「いままでは知られなかった意義」を受け 取ることと,大量生産品において「つねに繰り返し同じもの」があらわになる ことを対照させている。おそらく,両者の関係に弁証法が存在するのであろう が,具体的な関係は語られていない。この対照を二つの動詞(bekommenと

erscheinen

)に注意して読めば,商品の新しさが未知の意義

X

を受け取ること

によって,逆に「つねに繰り返し同じもの」がはっきりと現象するという関係 を読み取ることができよう。もちろん,つねに新しい商品は存在し,存在して きた。したがって,ここで言われている「新しさ」とは,「いままでは知られ ていなかった意義」をもった新しさであり,それこそが明らかにせねばならな い近代特有の現象,すなわちファンタスマゴリーの核となるものである。そし て,この「新しさ」は,おそらく具体的には大量生産品として現れる「つねに 繰り返し同じもの」でしかない。未知の意義

X

は,「つねに繰り返し同じもの」

が大量に現れることを新しさとして知覚させるのである。

では未知の意義

X

とは何か。そのときベンヤミンによる「娼婦」の考察が 役に立つ。なぜなら,娼婦は一方で生身の人間であり,自然的な存在であると 同時に,他方で商品であるからである。いわば自然的な存在者の商品化という 出来事が,娼婦において目に見えるかたちで表現されている。ベンヤミン自身 は,「自然がまとう商品の仮象は娼婦においてこそ体現されている」(V/1, 435

[J65a, 6])と言う。自然が商品形態をとるときに何が起こるのかを,ベンヤミ

ンは娼婦を例にして考察しているのである。

大都市において売春婦がとった形姿のうちに,女性は商品として だけではなく,正確な意味において大量生産品として現れる。化 粧の成果である職業的な顔つき〔Ausdruck〕のために,個人的な 顔つきを隠し装うということを通して,このことは示唆されてい る。(V/1, 437 [J66, 8])

新しさと永遠回帰 −171−

(16)

大都市における娼婦は自らを商品とするために,大量生産品であるかのよう に装わねばならない。この装いによって娼婦は市場としての大都市に参入する。

ここで興味深いのは,この装いが,娼婦自らの生(「個人的な顔つき=表現」)

を否定することによってなされていることである。自らの生の表現を隠蔽し,

擬装することによってのみ,娼婦は商品としての自己を市場に呈示する。言い 換えれば,娼婦は自らの使用価値,すなわち享楽に供される肉体を一度否定す ることによってのみ,ファンタスマゴリーとしての商品となる。つまり,ファ ンタスマゴリーとは,無媒介的かつ自然的な生の現前とは区別され,かつその ような生を否定することによって逆説的にも生み出されるようなイメージなの である。

生が否定される代わりに,このイメージにおいて前景化するのが,「つねに 繰り返す同じもの」である。娼婦が自らの生を否定して,大量生産品のように 装うことによって呈示するものこそが,「つねに繰り返す同じもの」の現象相 なのだ。そこで娼婦の個性が問題にならないことは言うまでもない。商品とし ての娼婦はそのような現れの背後に!れるような人格ではもちろんなく,また 対価としての肉体でさえない。この一様な,大量生産品のような呈示そのもの が商品としての娼婦なのである。

このような意味で商品としての娼婦を捉えるならば,それはいかなる原型も 実体ももたない現れであると言うことができよう。すでに指摘したように,ク ラーゲス的なイメージにおける新しさは,原イメージが現在におけるイメージ において更新され,再生することに求められる。しかし,ファンタスマゴリー における新しさは,既存のものの更新ではありえない。なぜなら,ファンタス マゴリーは自らのいかなる起源をも現前させることがないからである。ファン タスマゴリーは,ちょうど合わせ鏡にうつる事物が無限に自らを増殖させるよ うに,自らのみを純粋に反復すると言うことができよう。ただし,自らと言っ てもそれは原型としての自己ではない。イメージとして現れる商品は自らの起 源を欠いていると言わねばならないからである。それはすべて正確に同じなの だが,商品の現れの次元では,この同一性はモデルに基づく同一性ではないの

−172−

(17)

だ。その意味で商品は大量生産品なのである。ファンタスマゴリーにおける新 しさとは,まさに生産物が「途轍もない商品の集積」として,正確に言えば「途 轍もないイメージの集積=ファンタスマゴリー」として現れることそのものに 存するのだ。

商品としての娼婦の分析によって際立つのは,資本主義社会における生産物 が原理的に,いわば自らの自然的生の否定――あるいは起源の喪失――を経る ことによってのみ大量生産品となることである。言い換えれば,大量生産品と なるためには死に裏打ちされた生が必要なのである。娼婦がファンタスマゴ リーとして市場に参入するときに纏うのは「モード」であるが,ベンヤミンに よれば,モードこそがこのような生を可能ならしめる。

モードは生きた肉体を無機的な世界に結び付ける。生きているも のに対して,モードは死体の権利を擁護する。(V/1, 66)

ベンヤミンにとって,モードとは生を装いのうちに現前させるさなかでそれ を死へと関係させるような装置である。新しさという表現‐意味――これは ファンタスマゴリーの生とも言えるだろう――を得ることは,逆説的にも死を 孕むことなのだ。ここで未知の意義

X

とは何かという問いに答えることがで きよう。それは死にほかならない。娼婦は「死を意義する生」(V/1, 424 [J60,5])

をもつとベンヤミンは言うが,この生がファンタスマゴリーというイメージに おける生――したがって娼婦自身の生ではない――であるならば,ファンタス マゴリーにおける新しさの経験,ある意味で商品の生の経験は,同時に死の経 験なのである。したがって,ファンタスマゴリーの本質的な機能としての美化 とは死の美化を意味することになろう。娼婦の化粧とは本質的に死化粧なので ある。

今日の人間にとって,ただひとつの根底的な新しさ〔eine radikale

Neuigkeit〕が存在するのみである。そしてそれはつねに同じ新し

さ,すなわち死である。(

I/2, 668

新しさと永遠回帰 −173−

(18)

死が新しいのではない。近代において新しさは死としてしか,あるいは死の 美化においてしか経験できない。ここにこそファンタスマゴリーというイメー ジ経験の核がある。「ファンタスマゴリーに支配された世界は〔……〕近代で ある。」(V/1, 77; V/2, 1258)そして,この「近代」固有のイメージ経験の内実 として最終的にあらわになるのが,独特の死の経験なのだ27)

おわりに

クラーゲスは,精神によって作られた事物が呈するイメージを「幻像」と呼 び,それが「イメージを殺害する無の仮面化

Larvierung des bildermordenden Nichts

」にほかならないと断じた28)。「幻像

Phantom

」もまた

phantasma

に由来 する言葉であることを想起し,ここで言う「仮面化」を「美化」の裏面とみな すならば,新しさの経験とは無の経験以外の何ものでもないことになる。

近代の経験が独特の死の経験であることの意味を,このクラーゲスの言明は 示唆してくれる。近代のイメージ経験の核としての死の経験とはまた無の経験 でもあるのだ。ここでは近代のイメージ経験がニヒリズムの経験の具体的なあ り方であるという解釈の可能性を示唆しておきたい。主題的にはほとんど展開 されてはいないが,たとえば『パサージュ論』の

K

の束の表題には「人間学

27)ベンヤミンによれば,この二つの経験に引き裂かれながら生きたのが,ボードレー ルである。死の経験は,ボードレールにおいては「アレゴリー」の経験として現れる。

ベンヤミンは,ボードレールの経験のうちに十九世紀のイメージ経験がもつ全振幅を 見出したのである。そして,この振幅を含んだイメージとして構想されたのが「弁証 法的イメージ」にほかならない。またベンヤミンは,ブランキもまたファンタスマゴ リーの経験が死の経験であることを見抜いていたと言う。『天体による永遠』におい てブランキが展開する永遠回帰の思想は,地獄としての十九世紀を表現しているとみ なされるが,地獄の経験とは「つねに繰り返す同じもの」の経験,すなわち死の経験 なのである。Vgl. V/1, 76 f.

28) Vgl. Ludwig Klages,Der Geist als Widersacher der Seele, S. 1224. ちなみにアドルノ はクラーゲスの「幻像」の概念が,『パサージュ論』におけるイメージの問いに深く 関連すると述べている。アドルノの1934125日付,ベンヤミン宛書簡参照。Vgl.

Theodor W. Adorno; Walter Benjamin,Briefwechsel 19281940, hrsg. von Henri Lonitz, Frankfurt am Main 1994, S. 84.

−174−

(19)

的ニヒリズム」という語を見出すことができ,ニヒリズムが『パサージュ論』

のひとつのテーマであったことは疑い得ない。そして何よりもこの解釈は永遠 回帰の思想を考慮するとき意義ある認識となる。

『パサージュ論』においてベンヤミンは,「近代と古代の問題について」と いう見出しをつけたメモのあとに,カール・レーヴィットの『同じものの永遠 回帰というニーチェの哲学』(1935)から引用している29)。その引用によれば,

近代における「不安定で,意味を失った生と,捉えがたく,非感性的なものと なった世界」は,互いによそよそしく乖離しているが,それらを再び統一しよ うとするのが「永遠回帰への意志」であり,それにより回復されるのは「可視 的な世界という生き生きとしたコスモスにおけるギリシア的な生」である30)

この永遠回帰への意志は,ファンタスマゴリーの経験において,いわばアイ ロニカルに実現されたと言うことができる。たしかに,ファンタスマゴリーの 経験においては,表現現象の知覚という古代的な生において働いていたはずの 知覚が前景化する。つまり,夢の空間における生は,コスモスにおける生を知 覚の次元で取り戻しているのである。この点でファンタスマゴリーの経験は,

古代,あるいは神話の経験たろうとした。しかし,ファンタスマゴリーの経験 は,結局のところコスモスの経験でも自然の経験でもなく,古代の追体験でも,

神話の追体験でもない。いわば,それは歴史から退隠しながら,自然を取り戻 し損ねた試みなのである。この挫折は,ファンタスマゴリーの経験が,結局の ところ死の経験へと変転するときあらわとなるだろう。

ところで,永遠回帰は「ニヒリズムの最も極端な形式」にほかならない。レー ヴィットによれば,その絶頂において「ニヒリズム」は反転し,克服されるは ずであった31)。ベンヤミンがレーヴィットの著作からこの認識を読み取ってい

29) Vgl. V/1, 74 [D8a, 4].

30) Vgl. Karl Löwith,Nietzsches Philosophie der ewigen Wiederkunft des Gleichen, Berlin

1935, S. 83. レーヴィット著作集に収められている版は改訂版であり,題名を含めて

初版とは異同がある。上の引用にほぼ該当するのは以下の箇所である。

Vgl. Karl Löwith,Nietzsches Philosophie der ewigen Wiederkehr des Gleichen,in: Sämtliche Schriften, Bd. 6, Stuttgart 1987, S. 206.

新しさと永遠回帰 −175−

(20)

たかどうかは確認のしようがない。レーヴィットからのベンヤミンの引用に

「ニヒリズム」の語が含まれるものもあるが,直接的に永遠回帰に結び付けら れた箇所ではないからである32)。しかし,ニヒリズムに一定の関心をもってい た以上,新しさと永遠回帰の結び付きの根柢に死を見るベンヤミンが,そこに 無の問題,あるいはニヒリズムの問題を重ね合わせていないとするならば,そ れは逆に不自然であるように思われる。

ファンタスマゴリーの経験の核心に独特の死の経験があり,それが結局のと ころニヒリズムの経験であると解釈することができるならば,ファンタスマゴ リーの経験をより広いパースペクティヴから捉え直すことができよう。ベンヤ ミンはニヒリズムの経験を具体的なイメージ経験に見出しているうえ,それを ある意味で近代的な生の条件と考えていることになるからだ。このことがどの ような含意を持つのかについては,もちろん稿を改めて論じる必要がある33)

いずれにせよベンヤミンによれば,「十九世紀は,技術がもつ新しい潜勢力 に新しい社会秩序によって応えることができなかった」(V/1,76; V/2, 1257)。

近代は,ニヒリズムの経験――すなわち死ないし無の経験――を核に秘めた擬 似的なコスモス,すなわちファンタスマゴリーに支配されるにまかせたのであ る。

しかし,ベンヤミンは,この挫折に終わった経験そのもののうちに読み取る べき「ひそかなインデックス」(I/2, 693)を見出してもいる。ファンタスマゴ

31) Vgl. Karl Löwith,Nietzsches Philosophie der ewigen Wiederkunft des Gleichen, Berlin 1935, S.170.

32) Vgl. V/1, 467 [J81, 1].

33)ニーチェのおける永遠回帰とニヒリズムの経験を,近代における形而上学の根本的 経験と解釈したのはハイデガーであった。それはまた同時に西洋の歴史の必然的な

「運命Geschick」であると言われる(この辺りの解釈は最も簡潔に『ニーチェ 第二

巻』の「ニ ー チ ェ の 形 而 上 学」の 章 に ま と め ら れ て い る。Vgl. Martin Heidegger, Nietzsche, Zweiter Band, Stuttgart 1961, S. 231 ff.)ハイデガーのニーチェ講義は1936 年の冬学期から始まっているが,このようなハイデガーの解釈とほぼ同時期に,ベン ヤミンは永遠回帰とニヒリズムの内的な連関を,近代特有のイメージ経験のうちに 探っていたことになる。永遠回帰の思想の諸解釈を検討することは,当時の哲学の近 代解釈=自己理解の核心に迫るために必要不可欠な主題なのである。

−176−

(21)

リーにおける「願望のイメージ」(

V/1, 47

)という側面である。美化によって 生じるイメージに投影されるのは,集団の願望でもある。ファンタスマゴリー は歴史において自然を取り戻し損ねた。しかし,ファンタスマゴリーというイ メージは,大都市における「ショック経験」,あるいは「不安定で,意味を 失った生」ないし「捉えがたく,非感性的なものとなった世界」の補完となる だけではなく,歴史と自然の宥和のイメージをおそらく秘している。ベンヤミ ンがフーリエのユートピアに垣間見たのは,まさにそのようなイメージであっ た34)。パサージュは,資本主義社会の地獄への通路でもあれば,このように再 び歴史と自然を結び合わせる通路であるかすかな可能性を保持しながら没落し たのである。

34) Vgl. V/1, 47.

新しさと永遠回帰 −177−

参照

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