九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
玉虫厨子の所謂「多寳塔図」について
谷口, 鉄雄
https://doi.org/10.15017/2328849
出版情報:哲學年報. 9, pp.105-130, 1950-07-20. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
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宮殿部扉正面二天王掴 全雨側面各掩二菩薩岡 背面一多蜜塔岡 須彌座正面舎利供養圖 右・側面捨身飼虎岡 左側面施身聞偶岡 背面弧彌山岡
この中︑宮殿部罪の二天王岡や韮︑薩岡は︑各共その州柄が躯純であり︑一尊づ此の像容逓叩半柵に描いたものにすぎ
ないために︑その川柄のよって來昂經典上の典擦といふことに開してば︑ほとんど問題が起らない︒
いかなる維典によってその岡柄が描かれたかといふ問題の生ずるのは︑鏡る海殿部背而の咽と弧州座四面の囮とに
ついてであり︑それ等の中︑鋼彌座胴側面の﹁徐身飼虎咽﹂と﹁施身聞侶剛﹂については︑すでにその典擁がはっき
りしてゐて︑前考は︑金光明經︵北東玄始年Ⅲ︑西紀四一二四二七︑蜂無誠漢諜︶の播身nmによるものであり︑後
蒋は︑大般浬梁經︵北東玄始十年︑西紀四三︑曇伽識漢課︶の聰行品によるものであることは︑ほとんど罫論逓み れて來てゐる︒ 法隆寺所蔵の玉迩好子には︲数面の迩皿が描かれてゐろ︒宮殿部の扉と北n面の羽目板︑並びに須蠅座四面の羽目板
に漆注以イ描かれてゐる約がそれである︒これ等の適側に描かれてゐる主題については︑從來一般に次の様に解澤さ ︑●
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玉鐡厨子の所謂﹁多寶増圖﹂にっ
一﹁︑玉熾厨子の繪画
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ない︒﹁狐聴山圃﹂については︑その典擁が︑或は金光明維讃佛品に求めら弛冠一︶或は浬薬経に求められてゐる
け伽ど︑冠己私はやはり︑長阿含維︵後案弘始一二一四年︑西紀四一○四一・二︑佛陀耶舍︑竺佛念洩課︶策四
分︑世記經に求めんとする説が︑姪三一番邇切であり︑そ弧にょつ子︶の釧彌山岡の圃様は︑ほとんど餘す所なく
説明され得てゐると思ふ︒
残るのは︑﹁舎利供養固﹂と﹁多変塔剛﹂であるが.前者については︑從來︑金光明經捨身品の末尾の記事によっ
て薩睡王子の舎利供養の囮と解する説が行はれてゐたのであるが︑詮凹峨近奔山武松氏は︑涯蚕その圃中の︑從
來舎利壷とみられてゐた器物が︑舎利壷ではなく供養物としての一睡の合子であることを指摘しv從ってこの岡の題
︑目も﹁舎利供養岡﹂とすべきでなく︑恥に一般的に﹁供養凪﹂と稲すべきことを説かれた︒私もこの新説が適當であ
ると恩ふ︒︑
從2﹂玉迩卿子の繪面の中︑その囮様の典篠の解明について尚問題の残されてゐるものは︑宮殿部背面の所謂﹁多
喪塔脚﹂のみとなったので診勾が︑この﹁多愛塔団﹂についても︑泰山武松氏は同論文に於て新しい解樺を提出さ
れ︑︒﹁嬢聴山囲﹂ではあるまいかと説かれてゐろのであるが︑しかしこの新鮮樺については︑春山氏自身も幾分の疑
問を残されてゐる如く︑私も︑未だこの新説を以て十分であるど首肯することが出来芯い︒本稲の目的も︑この所謂
﹁多喪塔剛﹂なるものについて︑更に別の角度から新しい解耀と推論を試みようとするにあるのである︒今︑春山氏
説の紹介批評に入る前に︑順序として從來の﹁多蛮塔岡﹂に關する諸解輝を瞥見してみるごとにしたい︒
二︑﹁多寳塔圖﹂についての從來の諸説 ︒︑
︑玉録哩ナについての古い文献訟料としては︑天平十九年︵七四七︶の﹁法隆寺伽藍縁起並流記登財帳﹂や法隆寺の﹁金堂日記亦名金堂佛像等目録﹂の承勝二年︵一○七八︶・の條や︑.法隆寺融眞得業の嘉頑四年︵三三穴︶頃の箸
﹁聖徳太子仲私記亦名古今目録抄﹂などが塁げら伽得るが︑いつ伽も▽迩凹の岡様や典擁芯どの問題についてそこか
ら伽等かの示唆逓得るぺ丈餘りに簡単である︒
明治に入って黒川眞頼博士が︑経ち玉識脚子について始めて訓亦報告をされてゐるが︑しかしこの訓在に於て.
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ダダは︑漸く玉鐡の羽飾の存在を雑認したことの報告にとどまって︑囲様の鮎に至っては︑ただ﹁捨身祠虎圖﹂の典擁を
金光明經捨身品に求めるぺきこと駐説かれるのみで︑﹁多録皿塔圃﹂については全く燗れられてゐ菰い︒
次いで小杉梱邨博士がやや詳しい調森研究を發表され︑涯七︶始めて各皿の主題にふれ︑宮殿部背面の岡について
も︑始めて﹁うしろ戸は多変塔岡逓ゑがけり﹂といって︑ここに﹁多変塔岡﹂なる題名が提出されたのである︒しか
しその多変塔岡なるものの詳しい解説や︑その經典との關係などについては︑未だ少しも説き進めらいてゐ蔵い︒
この識を受けて﹁稿本帝図美術略史﹂ば︑涯八︶|更に細註を附して多擬塔なるものの意義駐説明してゐる︒即ち︑
﹁後壁には多変塔︵佛読に東方寅淨仙界中の多笂塔商さ五百曲句常に法華所説の道場に﹄棚現すと︶逓面けり﹂と︒
その後は︑椎軒氏も︵註九︶法隆寺大鏡も︵註十︶この多喪琳説を受けついでゐろのであるが︑しかしこの様に法華經蛮
塔品によってこの岡を多密零峠Ⅷ現岡と解することは︑多震琳の特徴たる繩迦多変の一脈がこの喪塔中に並座註十一︶し
てゐない鮎からして困難であることが︑すでに指摘されてゐる︒冠十三
言次いで瀧糖一博士は︑︵註十三︶厨子約全休と金光明経を中心として統一的に解樺しようと試みら肌︑所謂﹁多費塔
圖﹂については︑その典擦を金光明經捨身品の序分誌に求められたのである︒即ち
﹁此厨子の宮殿の犀に画ける金剛力士及び菩薩は別として︑宮殿の背後の壁及び台座四四に一側ける一州に至っては︑何れも特殊里皿喋ありて︑稗迦に開係なき能はす﹂↑︑
﹃何れも本生即ち樺迦過去の行道に關すら説話にじて︑即ち輝迦に關係あ一ろものたるは明かにして﹂
と述べ
︑﹁窩殿稚後の壁の画は.金光明經拾身品の七賓塔油出を窮し﹂︒
と證かれてゐる︒
即ち金光明經拾身品の薩蠅王子本生は︑繩迦如來が地中から蛮塔逓揃出させ︑塔中に牧められてゐろ舎利の由來を
説くところから始って︑王子の死去の場所に︑残さ弧た白什筵記念して父王が七変の塔遼建てろといふ所で終ってゐ
るのであるが︑瀧博士は︑乙伽を詳競し一﹂︑径十四次の如く記されてゐる︒
﹁扮身品は扮身の事淀読く前に︑七笠塔大地より柵出し︑世尊阿雌として共中の舎利を取出して衆に示して之を供
養したとある︒謎は要するに七謎警汕出の肱を岡するものであって︑崎かも此序分の菱に合するのであ毎︒扮身の
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本論遼謹くに先って︑此脚を宮殿の背面に謎いたのは︑意謹める事と言は芯け弧ぱならぬ︒蓋し彼描座の四面に本
生を両くからには此厨子の本鉱は織迦で芯ければならないのは明白である︒︵中略︶繰迦註本尊として其説話とし
ての本生が楓彌座匹凹かれて︑共序分でをっ七蜜塔棚出が宮殿の背面匹凹かれるのも正さに其虚を得てゐろ﹂と︒
この様に厨子紬全休が或る統一的な見地の下に案配構成されてゐるであらうといふことは誰しもこれを豫想したいこ
とであろが︑しかしそれであるからと言って直ちにこの瀧博士の説を︒とることも出來ない︒何となれば︑多誕塔岡を
この様に金光明純総身品の序分逓典擴として解窪するにしても︑多蜜塔岡の岡様が完全にそ伽によって説明さ伽ない
からである︒即ち︑金光明経捨身品の序分を典擁としてみる場合には伊多寅塔岡中の蜜塔は一塔で十分である筈なの
に︑琳が三韮も描かれてゐる鮎に不審があり︑また塔中には舎利の小函が安置されてあるべきであるのに︑各塔中にノ
ー佛づつが安坐してゐる黙にも難瓢があるのである︒/
そこで︑それに代って提唱されたのが源豊宗氏の﹁起塔出家功徳﹂剛といふ解裡である︒詮十五︶源氏は︑↓︶の岡が法華経蜜塔品に擦るものでない乙と遂指摘したのち︑次の様に説いてゐる︒
﹁乙郡は単に蜜塔と総すべきで︑吾等は此の岡逓起塔出家の功徳を描けるものと見たい︒かつ下方の四人の人物
は.衣逓以って頭をまとひ窟中に於いて坐祁﹂てゐる︒こいは出家荘象徴したものである︒日月並び輝き天人が讃
嘆し肌凰飛翔し︑妙華飢陸してゐるのは︑功徳を象徴したものと見らいる︒進寺出家の功徳の信仰は営時非常に行
はれて居たので︑必ずしもある経典に頼って表現さるるまでもない事であった︑﹂と︒源氏は︑彼獅座正面の所謂﹁舎利供養脳﹂についても︑同背面の﹁狐彌山圃﹂についても︑を融等を特定の經典と
の關係に於て解織すべきものでなく︑た営営時一般にフアミリアであった魎目を描けるものと見る今へきであるといふ
立場莚とってゐろのであるが︑この多笠塔圃についても︑同様の立場から︑ただ一般的な起塔出家の功徳を描けるも
のと解耀す尋へしとされた様であZ︒.
しかし︑この立場そのものが問題であ鋤︑すでにその後﹁頭蠅山叫﹂についても︑﹁舎利供養団﹂についても新し
〃い解樺が提示さ伽てゐろ次第であって︑殊に﹁痕弛山剛﹂について内藤藤一郎氏が指抽されてゐる如く︑本厨子の画
家が相富経典に紬通し・そ肌に粘碓に依披しつつ描いてゐる画家であるとするならば︑安易に泌氏の如き立場ととる
ことは許さ伽ねと言はなければならない︒
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その後︑一般に信用されて来たのが︐田中豊減氏の佛界剛説である︒涯十さ田中氏は︑この多蛮塔個を︑須彌座
背面の披蝿山掴と一聯の柵幽逓︾●催すものとし一℃解樺す書へきで診嘗︶と涯説き.弧蠅山脳が欲界を代表してゐるとすい
ば︑多笠塔圃は佛界と現はすものであると解繩される︒
﹁この両価︵多蜜塔佃と釧彌山岡︶は同じく全卿子の背面に位し︑同一の槻鮎より並︒へ硯るべく︑岡様は連綾せざ
るも︑︑共に山岳を中心とし左右に景物駐配したる構側は︑両者逃しく類似し︑随て相通する氣脈のあるを感ぜん︒
即ち須弛山は〆︵中略︶処れ欲界諸天の中の蚊も恕著なる一世界荘現せるものにして︑此を以て暫く三界の衆生を代
表させたるものとせん︒﹂
﹁須彌山剛と以て暇に三界牡代表的に示すものとして︑恰も共上方に位する﹁多識塔岡﹂は︑余の比擬すち所によ
れば︑是れ佛界を現すものならんか︒即ち人界の衆生が修祁の功によりて成佛する淀得る過程と岡示するなり︒天
人といひ︑露烏といひ︑何れも佛徳逓莊厳するに過ぎざるのみ︒﹂
﹁此﹁多蛮塔岡﹂は︑三界の外︑別に佛界砥ろを示すものにして︑そは位澄として當然須彌山岡の上方に位すべ
く︑錬彌山団と併せて︐沸教の基本的知識たる仰と衆生︑解脱と輪廻の對立を脇解するものといふを得ん︒﹂
この解樺は︑まことに傾総すべき妙説と講すべきであらうが︑しかし︑この解澤を以て多喪塔岡の岡様を全面的に
説明しようとす郡ぱ︑そこに幾多の困難が現れて來ろ︒すでに田中氏自身もその鮎に危倶逓感ぜら弧︑
﹁此場合︑佛は唯だ−体にて足り︑且つ塔中に坐すると要せず︑処等は徒に蛇足を添ふる嫌あるも︑此岡の画家︑
偶然此椛囲を試みしと見る外芯けん︒﹂
と言って︑三端一二佛の岡柄の問題に突き當ってゐら伽ろ︒それのみで江息︑春山武松氏も指摘されてゐる如く︑庭十
八︶田中氏説の榛に佛界と三界と淀思想的に腿分するとすれば︑佛界咽たる多寅塔圃中に︑修櫛の遁程にある羅漢の
如きもののゐる乙とは許されなくなるであらうし︑また日月の廻り照らすのは三界内のことであるから︑佛界固中に
日月の描かれてゐろことも不可解といふ乙とになる︒
その後下店靜市氏は︑︵註十九︶多喪塔剛の典推としては瀧粘一博士の金光明経捨身品説をとり︑岡の教理的意饒と
しては田中豊藏氏の佛界脳説に近い立場荘とって︑両者を折衷した如き説明遼なしてゐろが.ただ新たに三塔三佛と
四羅漢について次の如き解耀を下してゐる︒即ち︑金光明綴総身品の末足には︑この輪身飼虎の本生諏の因縁を説い
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℃︑この過去の藤罐王子とは即ち現世の躍迦のことであり︑諏中の王とは即ち父淨飯王︑母后とは母摩耶夫人︑長子
の太子は即ち慈子︵彌勒︶︑次子の太子は旦殊室利︵丈殊︶︑虎は大世主︑五兒は五泌籾であって︑その一は大目
連︑一は舎利子であると記してを弓そ弧によって下店氏は︑岡中の三佛在窪迦︑慈子︵彌勒︶︑塁殊室利︵文殊︶
の三奪に配し︑山中の四羅漢左淨飯王︑摩耶夫人︑大目連︑舎利子の四人に配してゐる︒
しかし︑この解樺は極めて便宜的であって︑捨身品末尾の縁起には︑大世主もまた躯げられてゐろにも拘らず︑こ
の大世主のみは勝手に符略して︑自餘のもののみ紅間中の人物に振り勝て上ゐるし︑また櫟迦︑彌勒︑文殊︵文殊を
佛に数へてゐるのも如何かと思はれるが︶の三傘を三佛に該愉させるにしても︑三佛が各産一基の塔中に安坐してゐ
なけ伽ぱならない理由が出て來ない︒要するに下店氏の解騨には︑瀧博士説と田中氏説とに残さ伽てゐた疑問がその
まま依然として残されてゐろと言はなければならない︒
以上紹介して來た如き從來の諸説に對して︑妓近春山武松氏は︑﹁蕊山岡﹂江る新説を提唱さいた︒
﹁私は三峰に分れた山の上半部に︐際髭として雨翼を仲べた猛禽の姿遼見る︒この烏はいふまでもなく瀞であり︑
從って山は霊鷲山と漣る︒懸鷲山心頭を蝿に形どることは約因果經に例があり︑紺紙金泥經の見返し嬢山淨土鍵で
は定石にさく江ってゐ﹂名私が﹁唯山岡﹂と主張す﹄っ所以である︑﹂と︒
恐らく春山氏は︑小杉一雄氏が︑涯並多寅塔岡中の山岳岡様の曲線の末端が.三個まで鳥獣の面部となってゐろ/
ことを指摘された示唆に基いて︑主峯の象形を鷺頭と解樺さい︑そこから﹁嬢聡山団﹂説逓提出さ伽たものと思はれ
るp●
︑この﹁懸驚山岡﹂説は極めて稚當と恩はれる解樺であり︑私もかつてその様に考へてみたことがあるのである︒難
聴山と僻織すれば︑春山氏の言はれる如く︑主峰の上に税法印の繩迦佛が安坐してゐることも︑修祁の過程の羅漢が
かかる山中にゐることも筋が通るし︑また卿子全魁の樅成意匠に於て︑本尊窪迦佛を安置する宮殿部の背面に︑樺迦
如來常住の嬢礎山が描かれることも安徴であることになる︒︑
しかし︑この﹁霊山凶﹂説にも︑春山氏自身が認めら伽る如く︑二三の難黙がある︒
第一に︑本岡が蛾鷲山岡であるならば︑佛は稗迦如來一奪で十分であるのに︑三佛の描かれてゐる乙とが依然とし
て疑問として残る︒
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巳 ﹁多賓塔個﹂に限らず︑一般に玉迩脚子繪の画材の中には︑非佛激的な要素の混在してゐることは︑すでにはやく
小杉柵邨博士が︑︵註什二・・
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録 第二には緬三佛が各凌塔中に坐してゐろことの疑問である︒第三には︑露総山剛であるとするならば︑主峯が聡頭に形どられてゐろのみで事足りるのに︑瀧の雨翼に當るべき左右の峯にも象鼻の如き形が柵か伽︑それに眼さへ黙ぜら伽てゐるのは伽故であるか︒
乙虹等の難戦に開しては︑春山氏自身試案的な解輝症示されてゐろのであるが︑その詳細については︑後段に於て
私見逓述尋へる際に︑引照しつつ論するつもりである︒〃
1以上︑主錨附子の所謂﹁多費塔岡﹂について︑從來の諸説を紹介し︑それ等の各友について主たる難鮎を學げて批評と加へぞ来たのであるが︑乙肌によっても知られる如ぐ︑今のところ所訓﹁多蜜塔岡﹂については確聞たる定説は
存在し芯いと言っていい︒いづ弧の読逓以てしても︑そこに割り切れぬものが幾分残るのである︒
そこで私は︑この﹁多識塔脚﹂の解輝については︑從來とは全く異もた側面から光逓営ててみなけ肌ぱなら芯いと
恩︽のであ一名本稲の目的は︑その新しい立場を述べることにあるのであるが︑今豫めことに本稲の結論を先きに述
べることによって︑これからの諭旨の大凡の導きにして遜きたいと思ふ︒
ここに私の提出しようとする解輝は︑もしそれに名前荘つけ易とするならば︑森山氏と同様に﹁雛山剛﹂説とする
より外にないのであるが︑Iil︵そして私自身︑滋は春山氏とほとんど同様の解樺を心に抱いてゐたのであるが︶
lしかし︑本圃に對しては所謂﹁礎山岡﹂なる解稗のみを以てしては不十分であるといふこと︑この間の背景に
は︑更に複雑な經典關係乃至思想史的關係が存在してゐるといふことを︑試案として提出したいのである︒それは︑
要約して言参ならば︑玉迩脚子納の思想的背景︑殊にこの﹁多蜜塔岡﹂の背景には︑非佛教的要素︑特に遁激的要素
が認めら昂零へきではないかといふことである︒
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三︑玉鐡厨子繪にみられる非佛教的要素の意義
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﹁須彌座及び扉の納様は︑淡式とは見とめ難きものありて︑これを極むとするに苦しむ︒されば此厨子の様式たろ︑梵洩和牛するに似たりとやいはまし︑﹂
と言って乙肌を指抽さ肌てゐろのであるが︑この梵漢相半する様式の具体的な説明遂展開さいたのが︑田中豊藏氏で︒
ある︒︵注汁三氏は︑王識叫子納の中に漂鼻一価の佛敏的ならざろ氣分を指摘して︑
﹇その重なる源因は︑斑に岡様逓組立つる素材に︑極糞の非伽教的なろもの若くは佛教以前なる考托混入ぜろに因
らすんぱあらず︒佛敬以前なる薪とは︑洲ふこころは︑佛敏によりて始めて支那に輸入せら肌たる藝術材料よりも
更に古く遡りて︑支那が其民族藝術として古來傳承し來りし或睡の形式を意味するなり︑﹂
と述べて︑その具体的な例として︑日月が三足烏と兎︵?︶の動物的標示を以て表はさ匁七ゐる如き︑また金翅烏が
漢民族愛用の四紳の一たる朱雀形迩以て表はさ伽てゐる如き︑或はまた賊に騎り族とたてて空中を飛行する支那式の
仙人や︑正面扉の二天王の手にせる紐逓垂れた環頭の直劒や︑同じくその手にせる支那式の調旋をつけた長戟の如ぎ
を躯げら伽てゐろ︒
更にまた下店靜市氏は︑霊並ご須彌座疋面の所謂﹁舎利供養団﹂の供養蕊左右の砿獣が︑その胸のあたりに蕊の
如き鱗状の弧線筵描き現はし︑また前脚の両側に火踏状の飾りをつけろなど︑支那的な一種の祁性の象徴をつけて描
かれてゐることを指摘してゐる︒
或はまた︑かつて伊東忠太博士によって︵註汁四︶忍冬文の鍵形の一種として説明さ弧てゐた本厨子金具の文様の中
の或る極のものが︑擁は忍冬文からの愛形ではなくして︑・支那固有の動物文の中肢も動物文離れのした動物波状文︑
即ち流雲文から起源するものであること淀の小杉一雄氏が些細に指摘された如き︑晨廿遅數へ來肌ぱ玉識厨子繪中
の非佛激的要素は︑職しき数に上るのである︒
乙伽等の漢民族間有の形象健王掘叫子納の中にいかなぉ意味ともって描か伽てゐるのであらうか︒一般に古代繪
画がさうである様に︑支那の古代納両に於ても︵例へぱ︐淡の画像石や雲崗龍門の佛傳岡等花とってみればいい︶︑
所詔冒昌.︒曙乱o三の概念からして︑両面は剰す所なく極凌の一形象淀以て埋め稚さ伽てゐろ@であるが︑上述の如
き漢民族固有の匝廷の形象も︑本厨子約に於てその様な班なる一川面の埋め草として使用さいてゐろにすぎ芯いのであ
らうか︒從來の解牒がさうであった様に︑︵註並cこの事は一面に於てたしかに蕊通である︒飛仙や散華や禽獣等
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が︑所謂﹁一川面娠充聿蕊﹂のために︑一叫而の空地の埋め草として一剛き散らされ配列されてゐろと兄ろべき而もある︒
しかし︑王撮厨子緋に於けるこれ等の形象の意味は︑王鐡脚子納の歴史的位歴遊理解する上に︑もっと深く理解さ
・るぺきものではなからうか︒単なる埋め草として?濟來の徳統剛な一皿材の中から迩立に選び出し.それを配列したと
いふのみでなく︑この約の両家は︑むしろその様涯鮮統的な漢民族問有の適叫Ⅷ題材と表現形式の中に生きイ|ゐたこ
と︑或は一歩を護って漢犀族固有の趙叫方式と︑新しい佛敏的莚阿材の表現様式との剛のはっきりした腫別恩樫識の
上に立つてゐなかったといふこと︑從つ壬川家内身にとっては︑例へぱ金翅蝿が僻統的た朱惟形と以て表現されるこ
とに少しも矛盾や不調和を感じてゐなかったといふこと迩考へなければならないと恩ふ︒即ちこの総三川家にとって
は︑漢民族固有の鱒統州薩趙凹方式と︑新しい佛激的涯趨州方式とが︑今日D我盈の老へる様に︑一弓の異った方式
として對立してゐたのではなく︑両考が混沿し融合して︑むしろ一つの逝脚方式として理解さ飢意激されてゐたこ
と︑そして或る面に於て時代一般の流れがまたまさにその様な壯態の中にあったことを老へ芯け鯉ばならない︒私は
この事を︑本厨子締の山岳の描法に於て特に感ずるのでをっ︒一
一王鐡厨子繪に於ける山岳描法については︑小杉一雄氏の指摘されてゐろ如く︑その奇異な表現方法は︑恐らく支那
・固有の蟠蛎文の如き動物文から鱒化した山岳文の描法に淵源するものであらう︒そして多炎塔岡に於て︑山什駐現は
︸す曲線の末端が三燗までも鳥獣の面部となってゐることも︵三つの山半の中の左右雨米にみら畑ろ一側つつの欺面 一とvその下方右側の鈍い職逓もつ心の顕部との三佃である︶︑漢魏以来の蟠蛎文や山岳文に於ける所調龍頭臥首式の
・︷描法から郷化したものとして理解さるべきであらう︒しかし︑その龍頭肌荷式な描法の形態上の洲脈が古来の山岳文
にあるにしても︑本厨子紬の一川家がそれを踏襲してゐる時代的な背最には︑或る特殊な複雑な思想史的闘係が存在し
てゐろことを考へなければならない︒要約してそれと言卦ならば︑支那の山岳崇拝思想と︑この多識然洲の本來の主二・題たる雛川淨土思想との混添といふことである︒︑
元來支那に於ては︑一山海經﹄等を通して知られる様に︑︵註汁七︶古來山岳には何等か一の耐や岬離宿ってゐろと考
へ︑その祁嬢は︑例へぱ﹁蝿身而瀧首﹂とか﹁龍身而人面﹂とか不思瀧な形態を典へてゐろものと老へられてゐる︒
乙肌は︑山岳そのものを祁聖帆する概念と︑山岳に住む奇係な動物に封する畏怖の念とが混融して發生した老へ方で
・あらうが︑玉録厨子の多識解岡に於ける山僻の鳥職形もまたこの様芯思想的杵餓なしには毒へら帥ない︒
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この山岳郷坐概は︑更に發岐すると︑山岳そのもの逓澗誰胸な天幽とまで老へるに至る︒︵道家の祁仙思想による
五祁山説や二祁山説は︑︵註廿八︶その代表的な祁山説話であらう︒︶ここに支那古代の山岳崇拝思想と︑佛教の雌駕
山その他の山岳に閥する睡盈の説話とが結び付き得る地盤が準伽さ伽てゐろのであって︑例へぱ北魏撰述の侭經とい
はれる﹁拠訓波利維﹂中にみられる泰山信仰と佛教の太山説話との結び附きの如きはその一例であり晨廿九︶両
者混浦の事例は︑大正新修大藏維策八十五巻疑似部所收の諸經典をひもどけば種荏の形態に於て認められるのであ
るO私は︑この様な漢民族固有の観念と︑佛敏的な概念︲この混浦といふ時代的な背策なしにはか玉迩卿子紬に於ける種
糞の非佛激的要素の混入も十分に理解され得ないと思鼻︒日の二兎烏や支那式の飛仙の如きも︑ただ個産の埋め草と
して偶然に使川されてゐるといふよりも︑上の如き両思想の混融といふ時代的背景から必然的に生じ來つたものでな
ければならない︒この槻鮎からして私は更に︑多謎塔岡につ隆﹂具体的にその思想的背景を考へてみたいのである︒
前節に於て︑玉迩脚子納に於ける非佛激的な一凹材の背後には︑漢民族固有の概念の混入逓考へろ︒へきこと︑殊に山
岳の擬人的︵擬職的︶表現︵註冊︶の北此払には︑支那Ⅲ有の山砿宗秤思想の混融が老へらる︒へき乙とを述︒へたが︐今
この槻鮎からして多賓塔川に於ける剛様を極討してみるのに︑本岡中央にそぴゆる山岳は頂上に於垂一ろに別れ︑そ
の左右両峯が擬獣的表現注以て描かれ一﹂ゐるのに對して︑中心の主峯は︑擬獣的表現を以て描かれてゐない︒︵赤山
氏嘩この中央の主罪の形を確の頭に形どったものと見て届ら飾るが︑左右両峯の獣首の意匠と較尋へるとき︑到底こ
︑
弧を総顕の意匠化などとみることは出来ない︒左右相稚的榊剛に腿盈捉はいてゐるこの紺の一四家は︑中心の主峯が正
面向きであるためにそれを鳥獣の形に意匠化するに困難と感じたのであらう︑と私はみる︒︶主峯が総頭を以て描か
帥てならず︑左右雨峯も恥形︵認の形︶ではなくして獣形を以て表現さ伽てゐる如き黙から考へて︑編︾鷲山であ郡
ば少くとも烏の形を以て意匠化さ帥なけ伽ぱならないであらう︶この剛里︑瞳は︑後世の紺紙金泥経の見返しの鑿山
浄土愛にみられる如き鷲脚の意匠化とは未だ趣を異にしてとり︑単純に錐剛迦のゞ媒碓叫川とみなすごとは川來ない︒私
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四︑﹁多寳塔圖﹂と侭經
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代その押後に︑支那の山帰崇拝思想と混禰され鐡貌された癖︷鷲山淨士の思想を考へてみなけ肌ぱならないと恩ふ︒
この問題についてここに考察に入り來るのは︑支那に於ける道竣と佛戦との交渉史上に現れて來た所調侭經の存在
で あ
る ︒
侭 經
と は
︑ ま
さ に
︑ 支
那 的
習 伶
や 信
仰 の
代 表
た 為
逝 教
と ︑
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駁 と
の 調
停 融
和 乃
至 對
抗 運
動 の
現 れ
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て 發
生 し
て 來
た 擬
装 の
經 典
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述 の
如 き
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那 的
表 現
形 式
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敦 的
表 現
形 式
﹃
との混桁の問題に對して︑思想上に於てこ肌逓皿︿休的に表現するものとその中に含むものでなけいぱならない︒/
逝佛の交渉史はγこれを概槻すれば︑︵誰冊一︶始め魏晋僻代に於ては︑逝家乃至道教の全盛時代であり︑佛教の方から這家に向って調和をはかり︑所柵格義佛教の磯んに行はれた時代であるが︑東晋末︑羅什や慧速と中心に南北支
那にわたって佛教の趣膝するにつ弧︑大勢は逆稗して︑以後南北朝にわたって這激の側から︑佛教に對時する必要
上︑佛經に擬した経典の製作が磯んに行はれるに至ってゐろのである︒︵這佛の交渉は︑次の除より店にわたる時代
に肢もめざましいものがあるのであるが︑しかしすでに薮理的には逝教が常に佛教の後を追身にすぎない状況に至っ
てゐる︒︶この様な道佛の交渉史上に於て︑這佛各登の側か彦︑五に勢力の消長莚みつつも︑侭經の製作が盛んに行
はれてゐろのである︒
今︑道敦側の經典乃至備經については︐南北期時代のもので原型のま出泄存してゐるものが殆んど存在しないので
あるから︑一般史書乃至佛教側の文献を通してその内容を推知するより外に手段がないのであるが︑︵註世一︶道教經
典の中︑佛典の模倣乃至刺窺によって製作さ畑たものの多欺であるこ︲cは︑諦査料の詳しく体くる所である︒︵註世二︶
乙乙で臆︑玉懸厨子の多蜜聯剛の僻繩に鯛係する縦︐に於てl即ち診笠辮鮒遊呈法華維見蛮辮回附説の轤鷲山漂
︑︑︑︑︑︑︑︑︑土と描けるものとみるが︑しかし支那的に鍵容さ肌た鍵山脇であるとみる私の解樺に關係し一﹂來ろ限りに於て︑佛教
側の姿料によって抽出してみるのに︑第一に知られることは︑逝教側に於て佛典を模倣して作った偲經の中︑法華經
を模倣改作したものの多いことである︒↑︒︑
例へぱ︑﹁弘明維置巻節六所戦の劉宋謝旗之園蔵道士析夷輿論﹂︵遊士顧漱の箸はせる﹁夷夏諭﹂に反駁せろも
の︶に︒
道家經籍簡晒多生︑穿曜至し如一磁従妙﹈坐︑採二雌法華一制川尤拙︵大正五士一一・四二下︶
とあり︑﹁旗弘明集﹂雀第八所收の北周遜安.藪諭﹂︵鋪十︑叫典腫侭の條︶にも︑
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黄庭元陽採二雌法華一︑以レ道換レ伽︑改川尤拙︵大正五十二・一四一中︶
とあって︑道教の蝿喪經妙眞經或は黄庭經元賜經なるものが︑法華経を愉み︑﹁佛﹂.といふ所逓﹁道﹂と近き換へて
︑ゐるにすぎないこと牡言ってゐる︒︒
また﹁旗弘明集﹂悪第九所收の北川跳雛の﹁笑道諭﹂巻下︵二十九︑改佛鯛迩の樵︶には︑道教の﹁妙反偽﹂なる
ものが︑︲︒
︑︑假使雛間衆其數如恒沙識思共畦並不能測逝判︹大正五十二・一四一中︺
と云ってゐるのは﹃法華経の﹁仙郷﹂を改めて﹁逝獅﹂としてゐるにすぎ芯いのみで江く諺その他同様のことが深山
あること瞳述べてゐるが︑︵註冊凹︶事庇この偽は.法莱経方便品の偶に一 假使滿世川皆如舍利弗誰思共度量不能測佛智
とあるのと改作したものにすぎない︒そして﹁笑道諭﹂は更に次の様な珍談をものせてゐる︒
ゞ昔有し間二道士唖漱一︑漱答︑﹁雛変妙經︑天文大字︑川二於脚然一︑本非二法華↓︑乃是維什妄與二肘唯一︑︒
改二我這經一︑涌二法華一也﹂
即ち︑道士厭職は︑道教の蛾変維なるものが︑自然より川づ﹄や所の天文の大字であり︑法華経逓愉んだものではな
く︑むしろ法華經こそ︑羅什が价碓と共に道維を改作して妄りに作ったものであると弧濤するのである︒これにょつ
七も︑法華繩の刺繍改作がいかに磯んであったかが知ら伽る︒更に︑暦法琳﹁辮正諭﹂錐六にも︑
世州道士經及行迩︑義理則約二欺諭一而後通︑言愉二佛家総論一︑改作二這香一︑如二茨庭元賜雛︽
蜜上清等經︐及三皇之典一︑並改二換法韮及無並蒜等経一而作者也︑︹大正五十二・五三四中︺
.とあって︑法華経や無堂蒜經からの愉作の多かったことを説いてゐるし︑同諜節八には︑
︑法華維を愉胞せる道經として太上雌変五緋生戸妙經︑本机維︑方等經一名妙法猟多子經︑六十四睡歩脆両血糊慧思
微定志經︑太上仙公諸間經︑嬢我妙興經等多数の道誓を騒げ︑その中︑本相經については︑
本相維云︑天尊説法時︑乾則婆及人非人等︑六牙白象四衆剛態一百醗匝︑天鉱以二中真一晋一波二読斯義一︒
衆生随し昔類解︹中略︺改法兼維座般潜︹大正五十二・五四三中︺
と述べて︑モの﹁天尊以中夏一昔︑淡説斯義︑衆生随背熱雌﹂なる句が︑法華謡の改作であ﹂っことを指摘し︑方等經
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一・名妙法彌多子經については︑方等經両巻亦名妙法蝿多子維︑延魏仙道士張逹所し造.愉二那家大方等経名一也︑妙法彌多子取二妙法蓮華経︑
蝿多羅尼子名一也︑廻三一米之雛塗一︑堂二乗之正路一︑純一鉦雑︑問以レ何嬢二一韮一乗一︑何名二純三何
名二無雑一︑案荘華総一︑有二一韮一乘純一無雑一︑具足清白梵行之州名箆一七善一︑一云何数し之︑︹大正五十︲
・二・五四三下︺・蕊
と述べて︑捕多子經なろ名が法華雑の彌多雑尼子の名から取ったものであり︑その中に一︲廻二乘之津塗︑宣一乘之正
路.純一無雑﹂とあるのが︑法華経の.乗二乗︑純一無雑﹂の句を改川したものであることを指摘してゐる︒殊
に︑六十四眞歩虚品なるものの偶に︒
︑︑︑︑や有見過去尊自然城侭適身色如金山端縦逃微妙如淨疏璃中内現元始風︑
︑︑︑︑︑聖黛在大衆敷波化迷弧︹大正五十二・五四四上︺
とあるのが︑・法華経︵序品︶の偶に︑︑︑︑︑︑
叉見諸如來自然成佛道身色如金山端厳韮微妙如淨琉璃中︑l内現眞金像︒
︑℃1︐︑︑℃︑︑
世鋪在大衆敷演深法義
匙とあるのと改作したものにすぎないことを︑両句を引いて説明してゐる︒これ等の事変を以てしても︑法華經からの
か芯り極端漣模倣の改作が行はれてゐたことが知られるし︑従ってまた法華經兇変塔品所説の多笠塔棚現について
︑も︑恐らぐはまたそれにか芯り若しく類似した億作の這維が作られてゐたであらうことが推測崖れる︒
〆
而もまた一方に於て︑這吸に於ても︑佛轍の奪像に倣った這激像の迭顯が︑南北朝の始め頃から行は虹てゐるのである︒即ち︑店法琳﹁藩正論﹂巻鋪六に︑
考梁陳齊魏之前一︑唯以一菰脆一成二經本一︑無天尊形像一︹大正五十二・五三五上︺
一とあって︑梁魏以前には未だ迩像のなかったことを言ひ心唐迩立﹁佛道諭衡﹂巻丁綾附の中に︑道士郭行眞↓︵後に佛
教に師依す︶みづからの言として
遥本無し形︑形し之於二間魏一︑佛惟有し像︑像布二於人天一︹大正五十二・三充五下︺
︺梁魏巳上未し閣一通有陵形一︑周齊巳下弘筋州二於峻俗一︑Ⅷ淫則擬一伽陶化一︑維詐飾於儒蒙一︑ハ全.一二九一ハ上︺
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11︐脱︲lIIfLIjIIlⅢIIl1llUJlIIIr−11Ⅱ叫咽1帖F︲や1︐18111111曲■■■■■■■■日日■■■■■lIj44凸
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一一八
とあり.これによっても.遼吸の紘像が.梁魏の間に於て佛像にならって迭顯せられ始めたことが分る︒︵年紀銘あ
る送像例としイーは︑北魏延昌二年︵五一三︶這士張相隙の迭天錬像銘が清王昶編﹁金石誌編﹂第廿七に職ぜら肌てゐ
ろ︶事溌また︑﹁瀞正論﹂巻第六には︑﹁王淳三激諭云﹂として︑
近世道士︑取し活無し方︑欲二人師信一.︑乃學二佛家一︑・制二立形像一︑假総二天懲及左右二眞人一︑・置二之這堂一︑
以恐二衣食一︑梁・︹朱︺陸修靜之鰯二此形一也︑︹大正五士一・藝一孟中︺ダーとあって︑伽像にならつく天球及び左右二反人と稲する三愈像麩造立してゐたことが知られ器︒而もこの三奪像
は︑﹁笑這論﹂巻上によれば︑
︑↓道士有修造二老像一︑二菩薩侍し之︑一日金剛藏︑二日襯世音︹大正五十二・一四六中︺
︐とあって︑金剛藏へ観世昔の両善藤像と侍者とする三愈像ではなかったかと推測される︒而も這激に於ては︑
・梵形者慰元始天奪︑於一一龍漢之世一號也︑至二赤明年一︑號二狸音一実︹全・全︺
と解して︑観世音は元始天愈の號であるとしてゐたやうであるが︑しかし︑金剛藏︑槻世音の両菩薩症侍者としたと
いふことは︑︑恐らく華厳︑法華の両經を表現したものであらうと思は伽ろ︒華厳經十地品には金剛藏菩薩が活動し︑
法華經許門品には観世一昔菩薩が中心をなしてゐるからである︒
初唐に降ってではあるが︑﹁綾商价体﹂巻二十二・唐京師醤光寺羅慧滿傳︵貞観十六年卒︶によれば︑集仙寺の或
る尼附が︑佛法に對する理解も芯く︑妄りに老子腕人等の像症造って私かに供養し︑炭く道士等逓招いて慶會註して
ゐたので︑腰滿が呵止して︑遂に這像を取って太原寺に入弧︑改めて佛祁逓涯したといふのであるが︑それと相似た
白
・例が︑周趙王の時代にもあったとして︑次の如く記してゐる︒昔周趙王冶レ蜀︑錆下道士進一老烈像一而以菩薩一侠侍上︑价以レ事聞︑王乃判日︑菩薩已成不し可し鰹︑
天奪流下進二一階官一乃迎一手寺中一︑改同中佛相上︑例相似也︑︹大正五十・六一八中︺
■〆一︒これによって見るのに︑菩薩像を脇侍とし・た老君像が造られ︑それ蓬改めて佛相と同じくしたといふ以上︑その老君
三奪像なるものが︑少し改作すれば佛像とMじになり得る程に佛像と相似たものであったことが察せら弧・ろのであ
ろ
御 ◎
﹁縦高附仰﹂巻二十八︑従州禰赤寺擁護理博︵貞観八年卒︶によれば︑壷瓊の本貫徐州地方は︑古くより造激信
合
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、
一
、巳
仰の磯ん涯地方であっただけに︑住民の中に佛似を祇らぬ者すら多く︑蛮瓊も︑或る時道會に招かれて天尊像症艘拝
す﹄ご︶となしに座に着いたために︑會衆から法に非すと非難一合れたといふことであるが︑これは階乃至初唐の話であ
るにしても︑こいによって迩像の製作がそれ以前からかなりに行はれてゐたで一あらうことが知ら伽るのである︒
以上の麦料によって知られることは︑經典に於て︑道教側に著しく法華経に類似した偲經の存在してゐたらしr︶
と︑また像形に於て︑佛教の像容に似た三錬像が道教側に於ても迭瓢されてゐたらしいことである︒
しかL︑これだけの費料と以てしては︑逝激側の侭經中に︑玉識厨子の所謂﹁多蛮塔岡﹂︵法華經見賓塔品所説の
︑確聡川剛の愛容形︶の典媒が存在してゐるなどと言ふことは刊底出来ない︒唯︑漢民族固有の習俗や信仰ときはめて
多分に保有し鱒へてゐろ迩激側に於て︑支那的な山僻崇拝思想と佛教的な蛾総山の概念との智合や︑新しい支那的な
三奪像芯どが︑法華經からの剰窺偲維といふ如き形に於て存在し得てゐたのではなからうかといふ乙と︑少くともさ
ういふ智合の素地が準術さ伽てゐたのではなからうかといふことが推測さ細るのである︒
この問題荘佛激側について考察してみるのに︑鋪一に氣づくことは︑佛激側に於ても︑︲安協的乃至對抗的に憶經が
製作され︑老子化胡説駐始め︵老子化胡読は︑這敷側から咄︿られたもののみとは限らない︑むしろ佛教側に於て︑︑
道教との安協上麺而も佛教の優位を主張しつつ考案さ師た方便説とみるべき黙もあ一s︑︵註冊至化胡思想に對する
化夏思想ともい易くき佛菩薩の垂通説︵三聖乃至五聖の化現説︶といふものを説いてゐろ︒例へぱコー激論﹂︵第九
へ︑服法非老の條︶には︑
浦淨法行經云︑佛遥二三弟子一振旦激化︑儒並菩薩彼稲二孔丘一︑光淨菩薩彼辮二顔淵一︑摩訶迦葉彼榊二老子一
︵大正五十二・一四○上︶
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狐彌四域維日︑寅應蝶菩薩名日二伏燕一︑愛吉鮮菩薩名日二女蝸一︵全上︶とあり︑殆んど同様のことが﹁識正諭﹂巻難五第六にも
案二佛説筌寂所問維及天地経一︑皆云︑吾︹伽︺令三迦葉在し彼爲二老子一號二無上道一︑儒童在し彼號日二孔塁︑
漸漸激化令二共孝順一︵大正五十二・五二四中︶
筌寂川問経云︑迦葉鰯二老子芦︑儒並危二孔子一︑光淨爲二顔回一・︵大正五十二・五三○上︶
猟州凹域経云︑唯醗菩薩鰯二伏裁︐吉群菩朧爲二女蝸一︑︵大正五十二・五三○上︶〆
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それ等の維典が︑老子孔子顔回や︐更には伏裁女蝸逓も諸菩薩の垂迩として説硫てゐたことを知るのである︒驫什さ
私のここに力説したいことは︑佛教と逝職乃至支那思想一般1この調合による新しい三奪が説かれてゐることであっ
て︑この新しい三奪︑或はそいと川様の過程によって成立した何等かの︑三鐘が︑﹁多壷塔岡﹂に於ける三峯上の塔中
の三伽と何等かの關係ともってゐるのでは一なからうかといふことである︒
次に氣づくこどは︑佛教側の傭經の中にも︑法韮經に似託或は改作したと思はれるものが︑すでに南北鮒頃からか
なり存在してゐることである︒﹁出三誠記集﹂と﹁法經鋒﹂について顯著なものと拾ってみるのに︑
出三誠記集︒
︒↑法華光珊菩薩現毒經三巻︵稚節凹闘經鋒の條︶︹大正五十五・三二上︺
抄法兼薬玉品一巻悪第五抄經鎌の條︶昊正五十五・三七画
法華經一巻永元元年出時年九歳︹所謂齊末太學博士江泌虚女尼子所出經ノ内︺︵巻第五安公注經及雑經志鋒
の條︶︹大正五十五・四○上︺
.法經録︑巻第二.
︑妙法蓮華經度量天地品一巻︵大乗僑妄の條︶︹大正五十五・二一六下︺
妙法蓮華天地鍵異經一巻︵全︶︹全・一二七上︺︑︑
法華藥王經一巻︵全︶︹全・全︺
法華經一巻南齊水元元年出時年九歳︵全︶︹全・二一七中︺
法華光珊菩薩現瀞經三巻︵大乘失諜の條︶︹全︲︒一二○中︺
等があり︑大正新修大赦雑第八十五巻疑似部にも︑明らかに法華經の名逓冠してゐろ煽經が二三存在するのみで江く
︵例へぱ﹁妙法蓮華經度難天地品第什九︲一﹁妙法蓮推經馬明菩薩品第三十﹂︶︑その他にも何等かの意味で法華經に
仮託或は改作したと患はれる侭耗がかなり存在する︒例へぱ﹁佛溌天公経﹂は法兼維の寅塔普門両品の影響遼受けて
ゐるものとみられるし︑一佛惟海職智慧解脱破心棚經﹂は︑その上巻後牛に於て法華經蜜塔品の材料を僻りてゐ一つが
如きである︒︑
|
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一般に佛教側に於ける偏經の撰述は︑その量に於て附代と武周時代が特に纈著であったとはいへ︑それ以前に於て
も︑すでに道安の疑經録以來︑雁世の衆經鎌の記栽にみる如く︑疑偲雑は暇しき数に上るのであるから︑南北朝時代
に於ても︑法華經喪塔品からの刺瓢改作の顯著な傭經が存在し得たのではないかといふことも推測さ伽ろのである︒
私の述べんとする所は︑一方に於てこの様に法華経の改作があり︑他方に於て上述の如き支那化さ伽た三鰊があると
すれば︑それ等が結びついてそこに特殊な鍵容された蛮塔品といふものが成立し︑それが玉迩厨子の﹁多蛮塔岡﹂の
一典蝶をなしてゐたのではなからうかといふことである︒
﹁多喪塔圃﹂については︑その三塔三仰なる剛様が︑全大職經を探してもその典推となる零へきものが見幟ら江いと
言はれてゐるのであるが︑︵註冊さその様に大賊雑巾にその典推が見川されないといふことは︑即ちそれが特殊な改
作と習合の上に立ってゐたものであることを示してゐるのではないかと私は推測するのである︒
勿論傭維の中には︑佛道両激のいづれの側の製作にかかるものであるか不明である程に和似た侭經も存在してゐろ
一 一 一 一
今﹁佛性海藏經﹂を例にとってみるの噂同郷は﹁大周刊定澱︲一億総目錬所收の侭經であり︹大正五十五・四七三・
下︺︑時代としては今我糞の問題としてゐろ南北帆時代よりはるかに下るものでは曹っが︑泄存せる偏維中︑顯著に
法華經逓改作愉用せる好例としてここに引照してみるのに︑同經上巻末尾は法華經の蜜塔品を愉改して多蛮塔の沁出
を次の如く記してゐる︒齢
読赴偶已︑ゞ有多喪佛塔︑從地湘出︑↑高七十漉巾句︑縦康正等︑去地亡多羅梅︑於虚室中凝然而住︑百笠燕厳︑
諸樹行列︑鼓舞隷歌︑稲極伎樂︑微風徐動︑吹諦林木︑出微妙腎嘩︑嵐珠羅網棚覆費塔︑下有一蜜池言云︹大︽
正八十五・一三九六中下︺今
そして次に阿難が賓塔の因縁駐世愈にたづねる段があり︑それに對して羅愈が詳しく賓塔の脚縁涯語り︑絶りに大衆
の讃佛偶を記してゐる︒その結椛といひ︑文章といひ︑法華經︵その他︶を刺蕊するに鮭りにも極端であ一つと言はざ
るを得ない︒この﹁佛性海藏經﹂は︑店代に入ってからの製作であると老へられるが故に︑我糞の問題としてゐざ南/
北朝時代に於ける法華經の愉用の問題には直ちに解答逓與くるものではないだしかしこの様に極端芯法華經の︑而
も喪塔品の測窺が存在するといふことは︑少くともこ肌と獅川の侭作が︑それ以前にも存在し得たであらうといふこ
とを豫想させるのである︒
↓
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全
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といふことであるから︑︵註冊八︶直ちに以て佛激側の偲維の中に多炎塔棚の典推が存在してゐろと言ふことは川來な
いし︑從って両面からの攻究が必要でありそのために上來佛這両激に於ける法華經に基く偏經と三愈像とに就いて
考察してみたのであり︑そ伽によって一つの試案迩拠川してみたのである︒
尚ここで問題となることは︑たとへ多愛塔剛の典擁として何等かの的確な侭經の存在が指摘さ伽得たとしてみて
も︑しかし一般に偽經の如きものが果して佛薮美術の製作に街ってそ・の擁り所とされるといき︶とが有り得るであら
うかといふ疑問である︒しかしこの疑問は︑擁一には︑他にも侭經乃至疑經を擁り所として製作された佛激美術の迩
品の存在すること︑第二には︑侭經といへども同時代の人盈には臓經として存在せず︑むしろ傭經の時事的な或は安
協的迎合的な性格の故に却って炭く信懇され論議の典鑛とされることも有り得たといふことによって解答されろと思
卦︒︵註冊九︶從って玉雄厨子の両家が︑經典に忠避涯画家であったといふことと︑傭經が典擦であったかも知れない
といふ乙ととは︑必ずしも矛盾しないのである︒︒
尚最後に︑﹁多喪塔剛﹂に於ける山中修耐の羅漢の岡様について老へてみるのに︑﹁多喪塔岡﹂を難総山岡と解澤
すれば︑森山氏も言は匁名如く︑嬢鷲山の如き﹁殊勝の山中に修禰の羅漢がゐろ乙と﹂は少しも不思識が蔵いのみで
なく︑解繰としては一應そいで筋も通ってゐるのでぞっが︑しかし私は更にこの山中修廊の羅漢についても︑その異
様な山窟の岡様を老へるとき︑そこに特殊な背量を老へなけ伽ぱなら稚いのではないかと思ふのである︒簡単に言へ
ぱ︑それは︑半なる山中修禰ではなく︑道家的芯祁杣思懇による所訓↑﹁仙窟﹂の槻念から一の縛化であらうといふことで
ある︒そしてこの鋤に於て私の聯想に上って來るのは︑南北朝國より支那に於エ特殊な信仰を得てゐたと恩はれる月
光童子傳説とその中に現は帥る仙彌の概念である︒月光菩薩については睡盈の疑億經典があるのであるが︑︵註四土
今︑大正砿經露八十五巻所收の﹁首維比丘見月光童子雑﹂一巻急四十ごについて必要の個所逓抽き川してみるの
に︑君子國の國王が︑大寧寺中の大仙の許に行き︑大仙に月光童子は今何虚にあるかと問ふたのに對し︑大仙は︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑善哉善哉︑大王善薙二吾読一︑月光明王今三千大衆︑在二蓬莱山中海陸山下関子窟所一︑止思惟時示現也︹大正
八十五・一三五七中︺
と答へ︑そして℃℃︑︑︑︑やいむ︑や︑︒
王及大臣並及人民随二從大仙一︑有二五餌七千人一去二対子國一七千除里︑釧二蓬莱山中海唆山下関子窟所一︑見二月
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一
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前に述今へた如く︑﹁多笠塔剛﹂中2−琢三仰といふ剛様は︑その雌蕊が全大藏經中のどこにも見川さ伽ないといふ
所から︐春山武松氏は︑この辮形を以て本來の塔とみずに佛股の鍵形であると解繩しようとされるのである︒即ち春
山氏は︑岡中の塔は︑玉錨脚子そっくりの錬獅座の上に立ってゐると解樺され︑そこから次の様に説かれる︒
一四家は佛殿のつもりで佛寵風の覆ひのある建物とかいた︒しかしそれだけでは上の方の納まりが悪いので▽一層
一一一〃一一二
光亜子一︹金上︺とある︒この引用句のみでも︑祁仙思想淀交ふぉ侭經であることが明らかであるが︑ここに州世前の月光童子が山窟の中にゐること逓私は特に塑但したいと︑心ふ.勿論﹁多識塔川﹂中の修祁の羅漢が直ちに月光童子傳読と關係あるも
のではないが︑しかしその山中修榔の剛様の概念の曲って來る所が︑月光童子陣誘に見られる如き艸仙家的な﹁仙窟
﹂の思想と何等かの關係あるものであらうといき︶と︑從ってここにも佛迩雨思想の習合が見らるべきであらうとい
ふ乙と逓私は老へたいのである︒︒
以上私は︑漢民族固有の信仰乃至思想と佛識思想との智合した或る唖の形態が︑王迩厨子の多費塔岡の思想的背景
乃至その血鵺となしてゐたのではなかったかといふ推測症一つの提案として記して來たので.あるが︑乙の様に非佛駁
的要素を玉錨厨子の邇阿について弧調することは︑一見府突に恩はれるかも知れないoしかし︑玉雄瞳子と同時代と
思はれる日本佛激美術の初期の迩品の中にも︑非仰駿的要素を談みとるべきものが間奏存在するのであって︑例へぱ
法隆寺金堂安置の羅迦三愈像の光韮剛銘の僻何の中には︑遥教臭をもってゐるものが存在して注り︵例へぱ﹁登遮﹂︶
また天蒜國繍帳については︑その銘丈の僻句のみでなく︑剛様の或る趣のものについても︵例へぱ蝿甲形︶︑その道教的臭味が指摘されてゐるのである︒︵註四十三
玉澁厨子﹁多賓塔岡﹂についてそ児汕後に道教思想との調合牡推測することは決して唐突でなく︑上來︑不十分乍
らも述ぺ來つた理由によってこの推測に幾分かの根鑛あることが明らかにさ肌たとす郡ぱ︑本稲の所期の目的は逹せ
ら肌てゐるのである︒
五︑﹁多寳塔圖﹂に於ける塔の形について
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ぱ︑時代は降って勝代のものではあるが︑耀煙千佛洞節三五C瓶壁Ⅷ中の多笠塔の形は︑︵註問十三︶その拱形の佛
寵風の塔身が﹁多喪塔岡﹂中の塔形と似てゐるのみでなく︑塔身の刑刷に加へられてゐる渦狄の装飾もまた五に相通
するもの筵もってゐろのである︒第二には︑赤山氏は︑﹁多喪塔川﹂中の塔が王過厨子そっくりの弧獅座の上に立ってゐると解輝さ伽︑そこから佛
殿といふ解繩を川されたのであるけ帥ども︑この帯脚時の支那耐北朝時代の塔形の中には︑一見狐蠅座の如きものの上
に立ってゐる形遼してゐるものがあるのであって︑例︿ぱ︑雲楜石獅中の塔の形には︑塔の覆鉢の下に五府の方形漣
が設けらいてゐるのみでなく︑︵例第二洞束壁︶︑塔の韮部が五飯の方形亜によって支へられてゐろのであって︵例
第五洞箙六洞︶︑一見須揃座の上に立ってゐる如くに見えるのであり︑︵註四十瓜︶鯉煙壁叫に於ても.大統四年︵五
三八︶以前と認められる千佛洞第一二○N猫の多蛮窪迦並座興註腿十五︶に於ては︑︵韮皿迩の塔形とは異ってはゐる
が︶やはり錬彌座様の上に立ってゐるのである︒また東魏興皿一犀︵五四この銘ある迭象碑児n面に陰刻さ伽てゐ
る塔婆凪に於ても︑︵註四十六︶塔の舘身部は狐彌座によって丈へられてゐる︒從って弧揃座桂云掩逓以て佛殿説の根
擦とすることは川來ないと思鼻のである︒第三には︑﹁多費塔岡﹂中の塔形をみるに.各塔の水煙の下端からは各盈帷が翻ってゐるのである罪︑祁輪︵刹頭︶
︾に幡逓獄へらせることは︑すでに支那に於て古くから行は伽一﹂ゐたのみでなく︑詮四十七︶滿北朝時代には道教の益
算説の影響を受けて幡燈績命法が咄へられるに至つ一﹂︑︵註四十八︶一層顯著な側向を現はしてゐたと思はれるのであ
る︒︵例へぱ害岡策二洞東壁の亜麻塔の相輪にも幡逓みることが川来る︒︶この黙からも︑﹁灸立塔剛﹂中の塔形は︑
やはり本来の塔筵表はしてゐ一つと恩ふのであって︑以上の諸黙からして︑﹁多費塔加﹂はやはり法華雑兇変塔品所諭
︑︑︑の多笠塔油現の愛芥形であらうと老へる上述の私児皿場を主張したいのである︒一 しかし私は︑﹁多変塔皿﹂中の塔形は︑やはり本の﹁多誕塔剛﹂中の塔形とか芯りよく似た然形が︑ やはり本来 一二四
莊厳にするために相愉逓商く佛寵の上にたて左のである︒一叫家は仰のゐる佛殴と︑舎利筵奉安する塔婆との睡別
牡はっきりさせなかったので︑かういふ混雑が生じた︒厨子紺にば他にもそういふ例がある︒︵中略︶だからこ
こでは佛殿といふ解騨も許さ帥るだらうし︑弧ひて塔婆に限るといふわけもあるまい︒
の塔を表現しで治るもの
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煙煙壁州中の本來の多蛮塔の形に認 と解樺する︒その理由は︑鋪一には︑こめらいるからである︒例へ
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王鐡厨子の製作地の問題については︑從來︑支那説ゞ朝鮮説︑日本説の三様に分伽で各燕の立場から推定論が述
〆.へられてゐたのであるが︐妓近に於ては︑日本説に傾いてゐる様に見受けられる︒︵例へぱ村川治郎敦授は︑建築構
造の發展上に於ける位世といふ鮎から︑王迩勝子の日本製作縦に伽いた説墜叫てら伽てゐろ︒︶︵註四十九︶今若し玉錨
厨子の製作地が日本であったとすれば︑上來私が本硫に於て述べ來つた所の玉鐡脚子納の思想史的背紫の如き川題
も︑乙虹注支那南北帆甑にのみ限って研究することは︑偏頗であり不十分であると思はれるかも知れないけれども︑
しかし第一に︑王雄厨子の製作地を日本とする根礁も未だ確定的ではなく︑鋪一一に︑たとへ日本製作︲こい鼻乙とに一
歩を譲るとしても︑営時の日本に於ける佛激美術の製作の画紺﹄史的背鍬といふもの峰岱然これを支那にまで測って
老二﹄みなければならないのであって︑殊に玉澁好一士紬の如く淡災族問有の蕊術的要素の濃厚な作品につい一﹄は︑尚
更その必要が痛感せら飾るのであり︑その意味に於て︑本稲県習uも一應意味と持ち得ろと思ふのである︒︒
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そこで本稲の論旨を要約してみ伽ぱ一︑玉迩厨子の所謂﹁多蛮塔囲﹂については︑從來の諸解稗めいづれを以てしても︑その典擦について十分説明し
︑切伽雄い不明の部分が残る︒二︑從來の諸解羅の中では︑難驚山岡とみる解耀が肱も受営に近いものと思はれるが︑しかし普通の軍純な盤総山
剛とみる︒へきで芯く︑その背後には.佛敏の懲粥山淨土の概念と支那的な山岳崇拝思想との混合や︑佛逝二教
の習合による特殊な三尊の概念の如きものが存在するのではないかと推測さいる︒
三︑本稲は︑この推測筵︑主として文献的な研究によって傍謹せんこと莚試みたのであって︑︐︵徴すべき迩品が少
なく︑ために具体的な剛形上の研究に至らなかつ?たことは残念で参e︑そ里浬口は一つの提案であって未だ
妓後的な解決に到逹してゐろものではないが︑本研究の例によって︑一般に︑|初期日本佛教美術の迩品の研究
に︑更により肢い硯野からの展望が必要であることを示唆し得てゐ肌ば幸である︒二九四九︒十一C十己
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一望月信亨博士﹁佛教大僻典﹂玉遜厨子の項︒
二下店靜市氏﹁王鐡厨子繪の研究﹂︵同氏箸﹁大和納史研究﹂昭和十九年所收︶︒
三内藤藤一郎氏﹁日本佛激約両史飛鳥筋﹂︵昭和十年︶頁六一以下︒
四瀧精一博士﹁橘夫人厨子の識に就て﹂︵國華三六七號大正九年士一月︶今瀧拙庵美術論築日本篇﹂に
﹁玉遜厨子と橘夫人好子﹂と改題して増袖收栽︶・
五春山武松氏﹁王迩厨子約に閥する疑問﹂︵國華六七八號昭和廿三年九月︶
六黒川眞頼全集第三︵明治四十三年刊︶所收﹁東大寺法隆寺の美術﹂︵明治二十二年︶の中の﹁玉遜の厨
子﹂の項︒
七・小杉柵邨博士﹁法隆寺金堂笹く所玉録厨子﹂︵國華七八號明治廿九年三月︶︒
八﹁稲本帝國美術略史﹂は初版明治三十四年︑再版明治四十一年である︒
九椎軒氏﹁法隆寺玉録厨子に就て﹂︵國華一八二號明治壯八年七月︶
十南都七大寺大鏡﹁法隆寺大鏡﹂第十一l土ハ集︵大正三年九月四年二月︶
十一法華經見寅塔品
﹁爾時多費佛︑於二蜜塔中一分二手座一與二樺迦牟尼佛一︑而作二赴言一︑﹁樺迦牟尼佛︑可レ就二此座一︑﹂
即時繩迦牟尼佛︑入二共塔中一坐二其半座一結伽跣坐へ爾時大衆︑見下二如來在二七蜜塔中師子座上一結伽
畉坐上訂各作一見念一云燕﹂
十二源豊宗氏﹁玉錨卿子及び其の繪画に就いて﹂︵佛教美術策士二冊︑昭和四年六月︶十三瀧精一博士上禍論文︒
十四︸瀧精一博士上描論文の増補版︒
十五︲源豊宗氏上掲論文︒一
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