推薦のことば
ナノスケールと一口にいっても,サブナノメートルから 100 ナノメートル程度 までの大きさがナノテクノロジの対象と考えられていて,大きさには非常な広が りがある.通常の物質では,原子間の距離はおよそ 0.3 nm 程度であるから,1 nm の距離の範囲には,三つの原子が並ぶことになる.そうすると,100 nm では 300 原子並ぶことになるので,それが 2 次元的な構造物とすると,すでに 9 万原子に もなる.あるいは,長さのスケールが 10 nm だとしても,それが 3 次元的な構造 物だとすると,約 3 万原子である.ナノテクノロジでの重要な概念の一つは量子 効果であるが,3 万個の原子を量子力学的に扱うことは容易ではない.すなわち, ナノスケールの構造物というものは,それを切り離して考えても,量子力学計算 にとっては挑戦的な課題になっている. 一方,実験との関連を考えると,ナノスケールの構造物の構造を実験で決める ことは困難である.たとえば,クラスタがよい例である.構造解析は,対象が結晶 になっていると強力な武器であるが,そうでないと非常に難しい.STM や AFM はナノテクノロジにおいて重要な役割を果たすが,構造解析という観点から言え ば,通常の場合には構造物の表面の情報を与えてくれるに過ぎない.したがって, クラスタについては理論計算で構造の情報を得ることが重要な課題になる.しか し,クラスタの構造の理論予測は,非常に困難な課題になっている.その原因は, 非常に多くの局所安定構造があって,大局的な安定構造を知ることが難しいから である.これは,対象の持つ位相空間の探索に関する問題である.位相空間探索 は,反応の経路の探索にも関わることであり,構造物の形成過程や分解過程のシ ミュレーションでは避けられない課題になる. 現実のナノテクノロジのシミュレーションをさらに複雑にするのは,現象や機 能の主体がナノスケールの構造物(分子,細線,クラスタ,ドット,など)であ るにしても,それらの構造物は一般には何か基板の上に置かれているということ であり,ナノスケールの構造物と基板の相互作用を忘れるわけにはいかない.た とえば,分子エレクトロニクスの場合は,電極が基板に相当する.金微粒子の触 媒作用は,触媒におけるナノテクノロジのよい例であるが,金微粒子と基板の関 係は重要な役割を果たしている. 推薦のことば vこのように,ナノテクノロジにおいては,長さのスケールが異なるものが混在 していたり,複数の異質の現象が関わるので,シミュレーション手法としてもい くつもの異質のものを総合的に用いることが必要になる.本書はこうした状況を 考えて,物質,材料に関わる多様なシミュレーション技術に関する事典として編 集されている.計算機シミュレーションのための,市販のパッケージも広く利用 されつつある状況において,やろうとする計算が自分の目的に適しているかどう かを判断するために,自分の行う計算の手法の骨子だけでも理解していることは 非常に重要なことである.本ハンドブックに記されている個々の項目の記述は, 紙数の制約もあってとても十分なものとは言えないが,必要に応じてより詳細な 内容の理解に進むための導入として,まずは概要を掴むには大いに活用できそう である. 寺倉 清之 東京大学名誉教授 北海道大学創成科学研究機構教授 産業技術総合研究所 vi 推薦のことば