学 生 諸 君 へ
細菌感染症の治療薬であるペニシリンとストレプトマイシンは,それぞれ, カビと放線菌のつくる抗生物質(antibiotic)として有名です。著者のひと りは,これまで 40年余り,抗生物質をつくる微生物,特に「放線菌」を研究 対象としてきました。そのきっかけとなったのは,卒論生として抗生物質の生 合成を解析する研究室に配属されたからです。その研究室に入って最初に与え られたテーマは,ストレプトマイシンのリン酸化酵素の諸性質を明らかにする ことでした。毎日実験することを通じて,次第に研究することの楽しさがわか ってきました。卒論のテーマは,それなりに興味深かったのですが,自ら え た『抗生物質は,病原菌や癌細胞を殺すいわば毒物であるにもかかわらず,そ れをつくる微生物は,なぜ自らの産物によって自滅しないのか?』という疑問 を解決するための研究を,いつの日かやってみたいと思うようになりました。 縁あって,大学院の修士課程を修了すると同時にその研究室の助手として採 用され,自らの研究テーマを決めるときがきました。思い切って,学生時代に 抱いた上記の疑問を解決したいと教授に申し出たところ,「やってみなさい」 と,即座に許可して下さいました。ちなみに,自らつくる抗生物質に対する生 産菌の耐性を「自己耐性(self-protection)」と呼びます。以来,抗生物 質生産菌の自己耐性や抗生物質の生合成について遺伝レベルで研究することが ライフワークの一つとなっています。 「制限酵素」,「DNA リガーゼ」,「DNA ポリメラーゼ」等の発見が契機と なって,1970年代初期には基本的な遺伝子操作技術が確立されました。その 頃には,異種(例えばヒト)の遺伝子を大腸菌や動物培養細胞で大量に発現さ せるための技術も確立し,その後,試験管内で目的遺伝子を容易に数億倍まで 増幅できる技術も開発されました。著者はこれまで,自己の研究に遺伝子操作 技術を積極的に導入しつつ,微生物 野の研究を進めてきました。 遺伝情報,すなわち塩基配列の解読に関しては,かつて,マキサム・ギルバートが開発した方法で決定されていましたが,今や,超高速で解析できる手法 と装置が開発されたお陰で,各種生物のゲノムが,容易に,かつ,短期間で解 読されています。他方,タンパク質の立体構造がその機能を決めるという見地 に立って,X 線結晶解析法を用いたタンパク質の三次元構造も短い期間で決 定されています。 ところで,講義を通じて感ずることとして,最近の大学生の多くは,大学へ 入学したばかりの頃は講義を熱心に聴いているのですが,次第に熱心さが失わ れていくような気がしています。教育事業を展開する企業のアンケートによれ ば,最近の大学生の学習実態としては,授業には出席するが,予復習や自主学 習をするのは少数派で,「講義の予復習や課題」を週に 3時間以上する大学生 は 4人に 1人との調査結果でした。これは教員の責任でもありますが,自主的 な勉強や読書を楽しもうとする学生が少ないのも事実です。 著者(杉山・久保)らは,理工系の大学生に遺伝子操作とタンパク質の解析 技術の基礎を学んでもらうための教科書として,2001年に「遺伝子とタンパ ク質の 子解剖」を出版しました。この本では,著者のひとりとして滝澤 昇 先生に参加していただきました。時が経ち,この 野の技術はさらに進歩して きました。最初の出版から 10年ほどの間に進展した新規技術を読者の皆さん に紹介しようと,上記の本の改訂作業を計画した次第です。そのため,新たに 若い研究者(熊谷)も参加しています。 本書を通じて,生命科学や薬学を学ぶ学生諸君が,遺伝子発現の調節機構の 巧妙さやタンパク質の立体構造の美しさを知ることで,遺伝子レベル, 子レ ベルの生物学に興味を抱いてもらえるなら,著者としては嬉しい限りです。 2013年 8月 著者代表 杉山 政則
は じ め に
1972年,米国スタンフォード大学のバーグ(P. Berg)博士は,試験管内 (in vitro)において動物ウイルス DNA と大腸菌に寄生するファージ DNA と の結合実験を行った。続いて,その翌年には,同じ大学のコーエン(S. N. Cohen)博士とカルフォルニア大学のボイヤー(H. W. Boyer)博士の共同研 究グループが,Eco RI と名づけた酵素(restriction endonuclease)と DNA 同士を貼り合わす酵素(DNA ligase)を用いて,大腸菌の異なったプラスミ ド(plasmid)同士をつなげることに成功した。しかも,このハイブリッド (混成)プラスミドを大腸菌と混ぜたところ,それが大腸菌細胞内に取り込ま れ細胞質で DNA の複製が観察されたのである。ちなみに,プラスミドという のは,染色体 DNA のコントロールを受けることなしに独立に複製できる遺伝 因子であり,染色体 DNA に比べかなり小さなサイズをもつ。 プラスミドは,最初,エピソーム(episome)といわれていた時期もあっ た。この「epi」は「外」という意味をもち,エピソーム上に薬剤耐性遺伝子 が載っていたことから,この染色体外遺伝因子は遺伝子組換え実験のツールと して利用されることとなった。コーエンらの実験が成功した裏には,「塩化カ ルシウム溶液で洗った大腸菌の細胞と外来 DNA とを混ぜて低温下に置くと, DNA が細胞内に積極的に取り込まれる」という発見があった。それはハワイ 大学のマンデル(M.Mandel)とヒガ(A.Higa)によって,1970年にもたら された功績である。1974年,異種遺伝子を大腸菌で発現させる実験がチャン (A. C. Y. Chang)とコーエンによって行われた。彼らは,大腸菌と黄色ブド ウ球菌のそれぞれのプラスミドを Eco RI で切断後,DNA リガーゼを用いて 連結し,その混成プラスミドを大腸菌に導入した。その結果,大腸菌が黄色ブ ドウ球菌由来の DNA を複製することがわかり,この研究を通じて異種遺伝子 が大腸菌の細胞内で発現することが証明された。以来, 子生物学の領域に身 を置く多くの研究者は, 子生物学に対する期待感と生命現象の完全解明に向
けた夢をもって,遺伝子組換え技術を自己の研究に積極的に取り入れていっ た。 組換え DNA 技術の出現は,医学,薬学,基礎生物学の領域に身を置く人た ちだけでなく,農学部や工学部で生物を扱う研究者にとっても,研究を推進す るうえできわめて役立っている。薬学の研究 野でも,遺伝子研究がスタート した頃には途方もない夢があった。一例を示そう。抗生物質は微生物によって つくられ,病原菌や癌細胞の増殖を阻止する働きがある。抗生物質の多くは放 線菌によってつくられるが,この微生物は大腸菌に比べて増殖速度が遅い。そ こで,繁殖力の強い細菌に抗生物質をつくらせれば,大量にその物質が得られ る結果,それを安価に供給できるかもしれないと。また,抗生物質の産生遺伝 子を組み合わせて,新規の抗生物質を 生できる可能性も えられる。このよ うに,遺伝子組換え技術は,原理的には生物のもつ能力から生じるすべての物 質を生産しうる可能性を秘めている。 1970年代初頭に確立された遺伝子組換え技術は,1985年に発明された PCR (polymerase chain reaction)法によってさらなる発展を遂げた。実際,PCR 技術を開発したアメリカのマリス(K. B. Mullis)は,その功績によって 1993 年度のノーベル化学賞を受賞した。ちなみに PCR 法とは,1個の DNA 断片 から 1,000億個以上のコピーをたった数時間で作り出す画期的な技術であり, 今や遺伝子組換え研究には欠かすことのできない方法である。さらにいえば, この技術は, 子遺伝学のほか,犯罪科学(鑑識),スポーツ医学, 古学な どの 野にも大きく貢献している。 ヒトゲノムの全貌ほぼ解明」とのニュースが,最初に世界を駆け巡ったの は 2000年 6月。そのニュースに驚嘆した生命科学者や製薬会社は,「これで病 気の原因遺伝子はすぐに特定できるし,その病気に対する特効薬も実現可能」 と過大評価した。しかしながら,その当時は単にヒト遺伝子の塩基配列がわか ったということだけであり,遺伝子のすべての働きや機能がわかったわけでは ないと批評する人もいた。 A,G,T,C といった暗号で書かれている塩基配列情報が得られると,次 は,タンパク質情報をもった染色体上の場所を特定し,さらに,そのタンパク 質の構造と機能を明らかにする作業が必要である。タンパク質の機能解析はゲ
ノム解析後に行われることから,ポストゲノム解析とか,もう少し限定して 『プロテオーム解析』または『プロテオミクス』と呼んでいる。今や,科学者 のなかには,特定した遺伝子によってコードされるタンパク質の機能と構造の 解明に精力を注いでいる人もいる。その一つがタンパク質の立体構造の解明で ある。 本書の出版は,医・薬・農・理工系学部などで生命科学を修めようとする学 部生に対し,遺伝子操作の基本原理や遺伝情報の解読法を解説するとともに, タンパク質のアミノ酸配列や立体構造を解き明かす原理をわかってもらうため に計画した。ところが,今の高 では,物理,化学,生物などの教育科目が選 択制となっているので,例えば,高 で物理を取らなくとも医学部に入学でき る。そのような大学生に対し,タンパク質の二次構造や立体構造を決めるため に われる,円偏光二色性(CD)や核磁気共鳴(NMR),それに X 線回折な どの基本原理をイメージしてもらうのは至難のわざである。実際,「偏光」を 理化学辞典(岩波書店)でひくと,「偏光とは,一般に進行方向に垂直な面内 で互いに直角方向に振動する成 が合成されたものと えることができ,電場 ベクトルの成 が……」と記載されている。その記述は著者にも理解するのが 難しい。しかし,関連 野のテキストをいくつか調べた限りでは,その記述は 専門用語がびっしりと書き込まれ,難しい言葉をそのまま って書かれたもの が多い。そこで,本書の執筆にあたっては,専門用語の羅列はできるかぎり避 け,内容的にはストーリー性をもって,気軽に読める科学啓蒙書的な教科書づ くりを目ざした。それでもなお,本書を理解するのは難しいと指摘されるに違 いない。さらに,ここに取り上げた項目は著者らの独断と偏見に満ちており, 読者からあまりに片寄った内容で,教科書としてはふさわしくないとお叱りを 受けるかもしれない。 本書では,著者らの研究 野の周辺領域における話題を織りまぜながら,遺 伝子とタンパク質の構造と機能をいかに解き明かすかを解説する。この著書を 通じて,読者が遺伝子やタンパク質に興味を抱いてくれれば,著者らにとって この上ない喜びとなろう。なお,本書は 3人で執筆したが,文脈や文体を統一 するために,最初に書き上げた原稿をかなり修正してしまった感がある。も は じ め に
し,本書の記述に誤りがあれば,これらはすべて著者代表の責任である。本書 の出版にあたり,原稿のできあがりを忍耐強く見守って下さった共立出版(株) の横田穂波氏に,この場をお借りして深く感謝申し上げる。また,本書の刊行 にあたり,2001年に出版した「遺伝子とタンパク質の 子解剖」の記述から 転用した箇所があり,その当時,執筆者のおひとりでありました滝澤 昇先生 (岡山理科大学教授)に深謝申し上げたい。 2013年 8月 著者代表 杉山 政則