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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折

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名 経 法 学 第

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年) 論 説

社会主義諸政党連合政府」構想、の挫折

新 美 治

目次 第l章 第E回全ロシア労働者・兵士代議員ソヴィエト大会 第2章 ソヴィエト政府・人民委員会議 (CHK) 第3章 全ロシア労兵代ソヴィエト大会の時期の諸政治勢力の攻防 第4章 「社会主義諸政党連合政府」構想 第5章 ヴィクジェリ主宰会議直後の社会主義諸政党連合政府構想 第6章 社会主義諸政党のポリシェヴ、ィキについての評価と 「連合政府」構想 第7章 ポリシェヴィキ・ソヴィエト政権の過酷な試練 まとめ

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年のロシア革命ほど,異なる評価がある社会革命は稀有であ る。とりわけ,ソ連邦崩壊ののちには,

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十月革命の再評価とボリシェ ヴィキ独裁」に関する論評が文字通り百家争鳴のありさまである。 本稿は, ロシア革 命

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年を契機に,

I

ソヴィエト社会主義論の破 産とソヴィエ卜国家崩壊」の理由を確かめておきたい,

I

ボリシェヴィ キの歴史的責 任 と は 何 か ?

J

,という思いを綴る作業である。なお, この作業は,本稿に先立ち,上梓した『全ロシア憲法制定会議論』の 継続でもある。 最初の作業を,ボリシェヴィキが国家権力を掌握し,臨時労農政府 を樹立した直後からおよそ 10日間に亘り激しい論争が行われた 「社 会主義を政治綱領に掲げるすべての政党による連合政府

J(以下,社

会主義諸政党連合政府とする)構想問題に焦点を絞りたい。 これに着手する小生の問題認識と取り組む姿勢について,簡潔に言

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えば,以下のようなものである。

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月に,ポリシェヴィキが権力を獲得し, 自らの革命を社 会主義革命と称していたという限りで,この十月の社会革命は,

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社 会主義革命」であり,

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ソヴィエ卜社会主義国家」は,

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月 まで存続した。この間に,ある特定の個人に引き付けても,その者の 認識を規定する歴史的状況によって,ソヴィエト社会主義とその国家 が,ときには勤労者を資本の輯から解放する希望の星であり,ときに は市民の基本的人権を極限まで圧殺する軍・警察によって維持される 煉獄であったりしたのである。 相当数の人々に理解文は納得されるような,総合的な・科学的なソ ヴィエ卜社会主義とその国家像の評価が定着するには,いましばらく の歳月が必要で二ある。そうであれば,本稿が<評価という極めて猿と した,つかみどころのない世界>の一滴の露にでもなり得たら,とい う思いでもある。 本稿で扱う主題は, 第E回全ロシア労働者・兵士代議員ソヴィエ卜大会(以下,第H回 全ロシア労兵代ソヴィエ卜大会,と略す)で組織された 「臨時労農政 府」が正当であることを前提にして革命をおしすすめていたボリシェ ヴィキに対抗する形で,他の社会主義政党が 「社会主義諸政党連合政 府」構想、を提案し,ボリシェヴィキをこの論争の舞台に引きずり込み, それぞれの政党が厳しい自らの存立をかけた闘いをする。本稿は,こ の闘いの分析である。

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 第

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章 第

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回 全 ロ シ ア 労 働 者 ・ 兵 士 代 議 員 ソ ヴ ィ エ ト 大 会1 1 )ロシア二月革命以降の政治過程のなかでの第E回全ロシア・ソヴィ エト大会の位置 ① 二月革命・ソヴィエ卜・臨時政府 二月革命のさなかに組織され,十月革命まで存続した地主・ブルジョ ア臨時政府は,初秋の頃には,内部から崩壊し・その統治能力を完全 の喪失していた。全ロシア憲法制定会議まで,その国家権力を維持す るために種々の措置を講ずるが,いずれも成就させることができなかっ た。臨時政府には,民衆が要求する諸政策・ 「都市の住民には職と食 糧を,農民には耕作地を,兵士には即時停戦を

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を実現するための 策はなく,政権に対する信頼は地に落ちていた。カオスが社会全体を 覆っていた。 民衆は,自らの力で,自らの命と生活を守らざるを得なかった。 ツアーリ統治の1864年のゼームストヴォ改革(露語 3eMCKal1 peφopMa)が行われ,都市にはドゥーマ,農村地域にはゼームスト ヴォ(代議制機関:ゼームスコエ・サブラーニエ,執行機関:ゼーム スコエ・ウプラヴォ)が置かれた。1914年, ドイツとの戦争がはじ まると,両者がそれぞれの自立性を尊重しながら, 軍需物資の補給等 の役割を担う目的で,全ロシア・ゼームスキー同盟を組織し, 二月革 命臨時政府の初代首相・リヴオフを委員長に選任している。二月革命 以降,ソヴィエ卜に対抗する目的もあって,地方自治制度は,大幅に 見なおされることになっていく10 l ツアーリの時代・二月革命(臨時政府)の時代の地方制度及び地方自治 については,別途,検討しなければならない,と考えている。検討は, 農村・農業・農民の歴史性を認識する際にも, 二月革命・十月革命の過

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二月革命を契機に,民衆の自発的な判断によってソヴィエ卜が積極 的に組織されていくことになる。この時期のソヴィエトの組織過程及 びそれらの組織形態については,既に別稿で検討しているので,ここ では割愛するが,簡潔に特徴的なことをいくつか指摘すれば,およそ, 以下のようになる: i )ソヴィエト (COBeT) について 本稿に関係する範囲に限定 したうえで,露語のソヴィエ卜には,一般的な会議(協議会,評 議会等)と

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年革命以来使用されている 「合議体+権力機関」 とに分けることができる。 u)

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年二月革命のなかで蘇生した民衆の組織したソヴィエト は,民衆の自発的・自主的・自律的機関であった。規模が大きく なると,当該ソヴィエトの代表を選出する必要が当然に生じたし, 又は複数のソヴィエ卜が合議する会議に特定の組織を代表する代 議員を選出した。代議員ソヴィエ卜とは,代議員が参集し,ソヴィ エ卜に共通する特定の問題について審議する機関であった。 出)ソヴィエ卜は,階級的な組織であった。ごく一般的な言い方を すれば,労働者は労働者のソヴィエトを,兵士は兵士のソヴィエ トを組織した。より具体的な例として, 軍のなかには,兵士ソヴィ エトと将校ソヴィエトが組織される例が少なからずあった。また, 少数民族が自らの 「ソヴィエト」を組織することもあった。いず れのソヴィエトにも,旧支配階級に属した市民の参加は認められ なかった。この観点から言えば,ソヴィエ卜は,階級的な文は階 層的な,ときには民族的な規準を持つ排他的な組織であった。 iv)二月革命を契機に,ぺトログラード労働者・兵士代議員ソヴィ 程におけるソヴィエトの果たした役割を特定していくうえでも,地方制 度・地方自治の問題の検証は不可欠である,との視点で行われるはずで ある。とりわけ.

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月以降,ソヴィエトに対抗するために地方自 治制度の民主化が積極的にすすめられたことに留意したい。

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) エ卜の活動が目につくようになるが,これは, 首都という領域に 組織された各種ソヴィエ卜が,この領域で統一ソヴィエ卜を組織 することに合意の上で,組織されたものである。モスクワ労働者・ 兵士代議員ソヴィエ卜等のように都市名や州,県などの名前を 「冠」につけているのは, この例である。この観点から言えば, ソヴィエトは,領域的な組織であった。 v) ソヴィエ卜は,自らが管轄する 「集団」及び領域では権力機関 であった。他の公的な機関との関係もあり,一概には言えないが, 社会的秩序の維持や民生部門(食糧の配分,住宅の管理,労働人 口の管理,等)では,大きな力を発揮した。この観点から言えば, ソヴィエトは,権力的な組織であった。 vi)時の経過や他の組織との対抗関係のなかで,性格の異なるソヴィ エ卜が統一戦線を組織し,更に進んで 「統合ソヴィエト」を組織 した。これがさらに進展すれば,領域的なソヴィエ卜が組織され ることになった。基礎的な領域 〔町文は地区や集落文は村〕が, 合意の上で,より規模の大きい領域 〔市や県〕へ発展していった。 vu)全ロシア労働者・兵士代議員ソヴィエトは,ロシアの領域に組 織された権力機関としての各種のソヴィエ卜が統合され,積み上 げられる形で組織された全ロシア的規模のソヴィエ卜を意味する。 行論のなかで触れることになるが,全ロシア農民代議員ソヴィエ トは,独自のソヴィエトであり,双方の合意に基づきはじめて, 全ロシア労働者・兵士・農民代議員ソヴィエト大会が組織される ことになる(この問題は, 1917年 11月から実質1月ほどの時聞 をかけて検討された。)。 四)なお,全ロシア労働者・農民・兵士・カッザク代議員ソヴィエ ト大会によって,全一的なソヴィエト国家が樹立された, と通常 は宣言されるが,この国家は,ブルジョア革命によって成立した 近代国家とは異なり,その領域の全ての住民を平等な国民として

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認めた訳ではない。労働者・農民・兵士と旧支配階級の属したも のとは,通常の市民的権利や政治的権利において,厳しい差別が 設けられていたし,労働者と農民との聞にも政治的権利では差別 が設けられていた。ソ連邦の国籍に有する全ての住民の聞の差別 が解消されるのは, 1950年代になってからのことである。 1917年の二月革命以降,臨時政府は,中央政府の弱体化を補うた めにも,地方自治充実の措置を講じたが, しかし,崩壊をくい止める 防壁にすることはできなかった。 兵士には,臨時政府がツアーリのはじめた戦争を止める措置を取ら ないどころか,七月攻勢で戦線を拡大し,結果として大きな犠牲を強 いられたこと,

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耕作しているものに地主の土地を与えよ」との農民 の要求を 「全ロシア憲法制定会議の決定まで待て!

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と先延ばしして 解決の見通しを示さなかったこと,臨時政府がロシア軍の将軍のクー デターを自力では解決できなかったこと。こうした状況の具体的な社 会現象として,物価の高騰・インフレ,労働者の失業の増大,農村の 荒廃,都市部の食糧の枯渇,治安の悪化が進んだ。 第I会期全ロシア労働者・兵士代議員ソヴィエト中央執行委員会は, 独自に権力として民衆を組織すると同時に,四月危機ののち,フ、、ルジョ ア・地主臨時政府と連立内閣組織することに同意し,いわゆる, 二重 権力状態を醸し出すことに成功する。しかし,七月事件によって,ソ ヴィエ卜の権力と権威は崩落し,ブルジョア ・地主権力が政府権力を 実質的に掌握することになる。これ以降,エスエル及びメンシェヴィ キが主導する全ロシア ・ソヴィエ卜中央執行委員会は,フ守ルジョア ・ 地主が絶対的な権力を有する臨時政府において自らの政策を提言でき る立場を喪失していった。 臨時政府が民衆から見放されたときにも,全ロシア中央執行委員会 は,自らの立場を政府内で回復することができず,存在意義さえ問わ れかねない状況に陥っていった。

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) この事態の当然の帰結であるが,モスクワ国家協議会の開催,コル ニーロフ将軍の軍事クーデターの失敗などが続く

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月末頃から,各地 の労働者・兵士代議員ソヴィエトの執行委員会で,それまで主導的地 位を占めていたエスエル・メンシェヴィキに替わって,ボリシェヴィ キがその地位を獲得していった。都市における政党聞の力関係が劇的 に 変 化 し た。い わ ゆ る ソ ヴ ィ エ ト の ボ リ シ ェ ヴ ィ ザ ッ ツ ィ ア ー (60JIb凹eBliI3au耳目)であるら 10月25日3には,ボリシェヴィキの主導する軍事革命委員会によっ て,臨時政府が打倒されたと同時に,全ロシア・ソヴィエト大会によっ て第 I会期全ロシア中央執行委員会が放逐され日でもある。この中央 執行委員会は,それ以前に,実質的な権力も権威も喪失していたので ある。 この時期, Y.I1.レーニンは,改めて,新生ロシアの統治形態は, 「ソヴィエ卜共和国」とすべきであり,臨時政府から権力を移譲され るのではなく,自らの力で奪取すべきだ,と繰り返し主張することに なる。10月に入ると, Y.I1.レーニンは,全ロシア憲法制定会議を待 たずに 「全権力をソヴィエトへ!

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のスローガンとその具体的な戦略・ 戦術についてなんとも,執劫に機会あるごとに触れている。彼のこの 考え方の基礎には, <臨時政府は事実上崩壊しており・その言質に信 頼を置くことはできな L、。臨時政府の追放が一日遅れれば,ロシアの 民衆の苦しみは一日伸びるだけではなく,より深まる>, <全ロシア・ 2 コルニーロフ将軍の軍事クーデター反対闘争の過程で,ボリシェヴィザッ ツィアーの波は,主要都市(ぺトログラード,モスクワ,サマーラ,ハ リコフ,キーエフ等)ではじまり,カーストロマ県,ウラル州,西シベ リアにまでいっきに拡がった。9月半ばになると, 主要な都市のソヴィエ トはボリシェヴィキを支持するソヴィエトへと変化し,さらに,ソヴィ エトの再選挙運動の過程で「全権力をソヴィエトへ」のスローガンを支 持するソヴィエトが増えていった。このスローガンは, 国家権力の中枢 に位置していた臨時政府の退陣又は打倒を意味していた。

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ソヴィエト大会第 I会 期 中 央 執 行 委員 会は,第 H回 全 ロ 労 兵 代 ソ 大 会 を 招 集 す る と の 約 束 を 履 行 し て い な い し3, こ の 状 況 の 下 で は 招 集 は しない>, と の 認 識 が あ っ た。そうであれば,臨時政府を打倒し,こ れにとって替わる・真に民衆に依拠したソヴィエト政権を樹立すべき だ

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, と の 認 識 が あ っ た40 ② 第H回全ロシア労 兵 代 ソ ヴ ィ エ ト 大 会 i) 10月25日,ぺ卜ログラード軍 事 革命 委員 会の 指 揮 の も と 武 装 蜂 起 が 組 織 さ れ , 臨 時 政 府 は 打 倒 さ れ た 。 一 部 閣 僚 は 拘 束 さ れ ぺ トロパウロフスク要 塞に 拘 留 さ れ , ケ ー レ ン ス キ ー を含む一部 は 遁 走 し た。この事 実に基づ き , 第 H回全ロ労 兵 代 ソ ヴ ィ エ ト 大 会 は,

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全 権 力 は ソ ヴ ィ エ ト に 移 行 し た」と宣 言し,所定の議事に 入ったのである。 3 第I会期全ロ労兵代ソ大会中央執行委員会は,第I回全ロシア労働者・ 兵士代議員ソヴィエト大会の 11917年9月までに, 第E回全ロシア・ソ ヴィエト大会を招集する」との決定を履行していなかった。第I会期中 執は,9月23日,ポリシェヴィキ中央執行委員フラクションの強い要求 に基つeき, 110月20日に, 第E回全ロシア・ソヴィエト大会を開催する」 との決定を採択し・公表した。大会開催が公表されたのち,各ソヴィエ トにおいて,大会代議員選出の激しい闘L、が行われたが,ボリシェヴィ キの優位はほぼ動かない状況になっていた。第I会期中執は,この状況 を踏まえて,再度,大会招集日を10月25に変更した。 4 このような認識を示す文献は,数多くある。例えば, 1労働者,農民,兵 士へJ

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レーニン全集』第4版,第26巻, 131頁以下。なお,以後, Y .11.レーニンの著作の引用は,邦文のこの 「大月書底版」を利用する。翻 訳を論者の判断で変更するときには,その旨を記す。また,第4版に収 録されていない著作を引用するときには,ロシア語版の 「第5版」を利 用するので, Y..I1. J1eHHH,皿1C.113且5-oe Tー.ペ C.料と表示する),

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中 央委員会,モスクワ市党委員会,ぺトログラード市党委員会, ピーテル とモスクワのソヴィエトのポリシェヴィキ派への手紙JC向上,134頁以 下), 1一局外者への手紙JC同上, 177頁以下。 「権力をソヴィエトに移す ということは,いまでは実際上,武装蜂起を意味するということだJ177 頁),1ロシア社会民主労働党中央委員会の会議での発言。 1917.1O.16J (同上, 192頁), 1ボリシェヴィキ党員への手紙JC同上, 219頁),1ロシ ア社会民主労働党中央委員会への手紙JC同上,227頁),等である。

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) u)第E回全ロシア・ソヴィエ卜大会を招集できるのは,エスエル 及びメンシェヴィキが多数派を占めていた第I会期全ロシア労働 者 ・兵士代議員ソヴィエ卜・全ロシア中央執行委員会(以下,第

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会期

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であった。第

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は,招集を何度か変 更したのち,第E回大会を 10月25日には,招集するとしていた。 第I会期

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は,ボリシェヴィキ主導で開催された第H回全 ロシア労兵代ソヴィエト大会が定則数に達していないと抗弁し, 大会そのものの無効を主張したものの認められず,大会の運営に も事実上,係ることができなかった。10月25日夕刻遅くに行わ れた大会運営に責任を持つ大会幹部団の選出において,ボリシェ ヴィキから 14名,エスエル左派から 7名及びウクライナ社会主 義党から

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名が選出されたからである。 温)大会の主要な問題は,

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つであった。ひとつは,第E回全ロシ ア労兵代ソヴィエト大会がロシア国家の全権力を掌握し・国家権 能を体現できる,との正当性の問題,

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つ目は,全ロシア労兵代 ソヴィエト大会の基本政策の確定, 3つ目は,統治機構全体の構 造及びソヴィエ卜政府を発足させることであった。 イ)第1の問題は,歴史上いずれの地域でも国でも,

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多数者」革 命によって,敵対的な勢力が 「国家権力」を掌握したとする天変 地変の状況の下では,生ずる問題である。しかも,それらは,通 常,相当の長期に

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る抗争を経て,正当性が証明された,とする ことになる。ましてや,正統性の立証は,極めて,困難な事例が 少なくない。 ロシア十月革命の場合,臨時政府が権力を放損

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し・遁走文は政 府権力の構成員が,新権力を自称する人々・ソヴィエトによって 完全に無力化されたことによって,最初の問題は,処理され得る。 しかし,問題は,国家権力を掌握したとするボリシェヴィキ・ソ ヴィエ卜権力が, 二月革命で組織されたソヴィエトの指導的機関

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から,正規の手続きを踏まえて権力を掌握していないと糾弾され ることによって,複雑になっていることである。 ここで,第2・第 3の問題が浮上する。 ロ)ボリシェヴィキ・ソヴィエ卜権力は,ソヴィエトを国の圧倒的 多数の労働者及び農民が支持している,と主張することによって, この問題は解決された, としている。

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月に入ると,国 がカオスの状態になり,権力が機能しなくなる状態が生ずる。労 働者中心のソヴィエ卜について言えば,多くの都市で,確かに, ホ、リシェヴィキが多数派になり,それぞれの都市の市ドゥーマと 競合し合いながら,実権を確立していった。しかし,これを以て, ロシアの広大な領域でボリシェヴィキ ・ソヴィエトが全一的な支 持を得ている,と言うことはできなかった。農民は,形式的には, 全ロシア農民代議員ソヴィエ卜に組織されていたし,ソヴィエト に組織されていない場合でも,種々さまざまな農民組織に組織さ れ,自らの統治を確立していた筈である。ボリシェヴィキ権力が 浸透していたわけではなL、。何よりも証左は,

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月に施 行された 「全ロシア憲法制定会議」選挙の結果である。繰り返し 指摘してきたことであるが,この選挙制度は,この時点では,世 界のL、かなる民主的な国の選挙制度よりも,はるかに,民主的な ものであった。一定の年齢に達した国民すべてのものに何らの制 限を設けることなく選挙権・被選挙権を与え, 一票の価値を可能 な限り平等なものにするために大選挙区比例代表制を採りいれ, 有権者の直接投票制を用い・投票の秘密は厳守されるというもの であった。ボリシェヴィキが,ボリシェヴィキ・ソヴィエト権力 は人民の圧倒的多数の支持を得ているから正当であると主張して いたにもかかわらず, 自らが主宰した選挙で, 22.5%の票しか得 られなかったのである50 支持されているとするための前提として,革命に大義が求めら

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) れる。それまでのし、かなる政府も成しえなかった決定をボリシェ ヴィキ・ソヴィエト政権は,採択している。別の機会に改めて, 触れることになるが,

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土地について」の布告で,地主の土地を 没収し,土地委員会にこれを引き渡すとの決定,及び 「平和につ いて」の布告で,現在進行中の帝国主義戦争は即時停戦・和平 交 渉の開始,その際の原則は無賠償・無併合である,との決定を採 択していた。この時点で,これ等の決定を採択できるのは,ボリ シェヴィキ主導の権力の他にはなかったと言える。なぜなら,こ れら 2つの諸課題は, 二月革命以来常に最大級のものであったに もかかわらず,いずれの政権も手を付けることなく,憲法制定会 議での審議を待つ,としか答えていなかったのである60 ハ)大会に課せられていたもっとも主要な課題は,権力機構を確定 することであった。 臨時赤色労農政府・ソヴィエト政府を組織することについての ボリシェヴィキ案に対して,エスエル左派などから 「社会主義を 志向するすべての政府による連合政府」構想案が提出されるが, 両案を審議のち,多数決でボリシェヴィキ案が採択された。しか し,エスエル左派は,これに得心したわけではなく,こののち, 5

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憲法制定会議論J,資料1 憲法制定会議選挙結果 (401-407頁)参照。 〔新美治一 著,法律文化社刊〕 6 "1土地について」の布告と 「平和について」の布告は,ロシアの民衆の期 待に応える内容のものであった。前者は,地主制lを廃止し・農民に耕作 地等を分与する法令である。後者は,時間の経過につれて,戦線が加速 度的に泥沼と化し,兵士及び兵士を送り出している農民の厭戦気分はつ のるばかりであり,犠牲者が増え続ける戦争を終結させるための具体的 な提案であった。 「土地について」の布告は,ポリシェヴィキとエスエル左派が連立政権 を組織するときに大きな意味を持つことになったし, "1平和について」の 布告は,両者が快を分かつことになるブレスト ・リトーフスク和平交渉 の過程で決定的な意味を持つことになった。両布告の歴史的な意味につ いては,それぞれの問題を論ずる際に触れさるを得ないので,ここでは 割愛する。

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しばらく,全ロシア中央執行委員 会,ヴィクジェリ,ボリシェヴィ キ 党 , エ ス エ ル 党 , メ ン シ ェ ヴ ィ キ 党 な ど 主 な 政 党 を 巻 き 込 ん だ 激 し い , 論 争 が 展 開 さ れ る こ と に な る 。 こ の 論 争 の 過 程 で , 全 ロ シア中央執行委員会のソヴィエト権 力 構 造 の な か で の 意 味 が 問 わ れ , ヴ ィ ク ジ ェ リ の 階 級 的 立 ち 位 置 が 問 わ れ , ボ リ シ ェ ヴ ィ キ 党 内 , エ ス エ ル 党 内 及 び メ ン シ ェ ヴ ィ キ 党 内 で は , そ れ ぞ れ が 多 数 派 と 少 数 派 に 分 か れ て 厳 し い 論 争 が 展 開 さ れ る こ と に な っ た。こ の 各 党 間 相 互 の 闘 い や 各 党 内 で の 論 争 と そ の 結 末 は , 最 も 初 期 段 階の 「ソ ヴ ィ エ 卜 権 力 と ボ リ シ ェ ヴ ィ キ と の 関 係」を 浮 き 彫 り に もしている。こ の 問 題 が 本 稿 の 主 題 で あ る。行 論 で 明 ら か に な る ように,ボリシェヴィキのこの問題の処理方法と処理の内容が, そ の 後 の ボ リ シ ェ ヴ ィ キ ・ ソ ヴ ィ エ ト 権 力 の 筋 道 を つ け た と 思 わ れ る か ら で あ る。 補足1.第E回全ロシア労兵代ソヴィエト大会に関する基本資料をここに掲載 しておく. ム 大会に派遣したソヴィエト総数:195の統合ソヴィエト, 119の労働者・ 兵士代議員ソヴィエト, 46の労働者代議員ソヴィエ,ト 22の兵士・水兵 代議員ソヴィエト, 9の農民代議員ソヴィエト及び1のカザック代議員ソ ヴィエト。 ム 10月25日夕刻・大会開催時の登録代議員数649名。党派別代議員数: ボリシェヴィキ・390名,エスエル・160名,メンシェヴィキ・72名,統 合社会民主党=国際派・14名,ウクライナ社会主義者・7名。 ム 大会開催中に行われた 「これからの権力のあり方」についてのアンケート.

全権力をソヴィエトへ 506名

民主主義権力へ,連合権力へ,等々 165名

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大会開会後も,大会代議員の登録を認めていたので,開会時の代議員 数649名が670名になっている。 ム第E全ロシア労兵代ソヴィエト大会の議事日程について (概要) i) 10月25-26日,第l回全体会議:大会の権能についての審議のさなか に,エスエル右派とメンシェヴィキが大会会場から退出。彼らに同調し

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 退出した 「少数の代議員」がいた。深夜,ぺトログラード軍 事 革命委員 会が主導する武装した労働者が冬宮を占拠。臨時政府崩壊の報。その直 後に第2回全体会議を開催。ソヴィエトによる国家権力の掌握宣言。 u) 10月 26日夕刻,第2回全体会議の再開・ 「土地について」の布告及び 「平和について」の布告を採択。 温)10月26日の夕刻,ポリシェヴィキ提案の 「臨時赤色労農政府を組織す ることについて」を審議。メンシェヴィキ国際派,エスエル左派,ヴィ クジェリ (8目的五E刀b)の代表団が共同で, 1"社会主義諸政党連合政府」 (OnHOPO且HoeCO日目O耳目CTH4eCKoe npaBHTenbcTBo)案を提出す る。両案を審議ののち採決に付され,ポリシェヴィキ案が多数決で採択 される。 iv) 大会の事実上最後の議題として,全ロシア・ソヴィエト大会第E会期 全ロシア中央執行委員会を選出。全ロシア中執は, 102名で構成:ポリシェ ヴィキ・62名,エスエル左 派・29名,社会民主 主 義 者 =国際主 義 者・6 名,ウクライナ社会主義者・3名,マクシマリストl名。全ロシア中央執 行 委 員 会 は , 議 長 に , カ ー メ ネ フ (当時,ボリシェヴィキ党中央委員会 中央委員)を選出。 v) 10月27日早朝5時,いくつかの大会決定を採択し,閉幕。 補 足2 第I回全ロシア農民代議員ソヴィエ卜大会・1917年5月 4日-28 日に,ペトログラードで開催。農民同盟中央委員会と金ロシア協同組合大 会が共同で招集した。1353名の代表が大会に参加する意向で参集したもの の,資格審査委員会は, 1167名を正規の代議員として認めた。そのうち, 戦場から直接参加した代議員が558名,州、│又は県などの地域から参加した ものが609名であった。 ② 帰属する党派を明らかにしたもの:1115名。このうち,エスエル=557 名,メンシェヴィキ=103名,人民社会主義者=4名, トゥルダヴィーク= 6名,特定の党に所属しないもの 〔無党派)=136名,所属党派を表明し なかったもの=329名,ボリシェヴィキ=9名。 補 足3の1 第I回全ロシア労働者・兵士代議員ソヴィエ卜大会 ・1917年6 月3日-24日に,ぺトログラー ドで開催。822名の代議員と268名の評議 員が出席。305の統合ソヴィエト(労働者・兵士・農民代議員ソヴィエト) が代議員を派遣。53の州,県又は地区代議員ソヴィエトが参加。作戦行動 に参加している陸軍の部隊で代議員を派遣した代議員ソヴィエト数は2,1 艦隊代議員ソヴィエ数は5,後方支援部隊代議員ソヴィエ卜数は8。

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② 自らの所属する党を記載した代議員数は, 777名。エスエル=285名, メンシェヴィキ=248名,ボリシェヴィキ=105名,メンシェヴィキ国際 派=32名,メンシェヴィキ統合派=10名,その他の党派 (代議員数が2 桁未満)=97名 ③ 大会の議事日程:0 革命的民主主主義と政府権力, 0 戦争に対す る我々の態度,

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全ロシア憲法制定会議の準備,

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民族問題,

0

土地問題, 0 食糧問題, 0 地方自治 O その他 ④ 選出された 〔第I会期〕全ロシア中央執行委員会:定員300名,エス エル・メンシェヴィキ=242名,ポリシェヴィキ=58名 (注)8月のコルニーロフの反乱によって,ケーレンスキーが執政府(ジレク トーリア)を組織せさるを得ず,次いで,民主主義協議会を組織し・さら にロシア共和国臨時評議会(予備議会)を組織するなどの統治機関の 「改 良」策は,臨時政府の崩壊を止めることはできなかった。なお,この崩壊 過程については,新美 治ー『全ロシア憲法制定会議論lJ(法律文化社), 第6章ないし第8章に詳しく論じられている。 補足

3の 2 第I回全ロシア労兵代ソヴィエト大会の概要は以下の通り・ 開催日は 6月 3日ないし24日。大会に代議員を派遣したソヴィエト総 数 :305労働者・兵士・農民の統合ソヴィエト, 53の州・県または地域 の代議員ソヴィエト, 21の実戦部隊のソヴィエト, 5の艦隊ソヴィエト, 8の後方部隊ソヴィエト。

大会参加者・822名(代議員)+286名(評議員),党派別代議員数は, 以下の通りである (所属党派を明確に表明した777名の代議員の内訳) ポリシェヴィキ・105名,エスエル・285名,メンシェヴィキ・248名, メンシェヴィキ=国際派・32名,メンシェヴィキ=統合派・10名。 第

2

章 ソ ヴ ィ エ ト の 政 府 ・ 人 民 委 員 会 議

(CHK)

1 ) ソ ヴ ィ エ 卜 に と っ て の 政 府 国を統治する上で,政府は,時代を問わず,いずれの国においても, 決定的な・中枢的な役割を果たす。 ロシ ア に お い て は , と り わ け こ の 特 徴 が 顕 著 で あ っ た 。 臣 民 の 代 表 制 機 関 の ドゥーマが 国 政 を 左 右 す る 機 能 を 果 た す こ と が 事 実 上 で き な か っ た ・ツアーリの 支 配 下 のロシア

(15)

「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) における政府も,また,国家権力の所在が混とんとしていた二月革命 直後に組織された臨時政府も,国を統治する役割をほぼ全面的に担わ ざるを得なかったのである。こうした事情を考えれば,地主・ブルジョ ア政府(最後の首班はケーレンスキー)の崩壊後に構築されるべき政 府権力については,革命の主体であったボリシェヴィキのみならず, すべての社会主義政党や労働者・農民・一般の民衆が大きな関心をもっ たのは,当然であった。 既存の国家秩序を根底から破壊したロシア十月革命では,いかなる 機関が,どのような手続きで,政府を組織できるのか?民衆にとって も,革命政権にとっても,最大の関心事であり,解決しなければなら ない焦眉の課題であった。 ところで,臨時労農政府の設置を決定した・10月25日に招集され た第E回全ロシア労働者・兵士代議員ソヴィエ卜大会は,ロシアの全 権力を掌握し,代表するものではなかった。 主な理由は,以下の二つである。 ひとつは,ソヴィエトに限定しても,ロシアにはいま一つ大きなソ ヴィエ卜が存在していた。全ロシア農民代議員ソヴィエト大会であるO 周知のように,ロシアは農民が人口の

8

0

%

以上を占める国であった。 農民代議員ソヴィエトがいかほどの農民を組織していたかというこ とよりも,ボリシェヴィキが,都市住民と軍人の組織化に力点をおい ていたために,農民層をほとんど組織できていなったということが, ここでは問題にならざるを得なかった。農民代議員ソヴィエ卜を抜き にした 「ロシアの統治」は,あり得ないことであった。のちに,ボリ シェヴィキがエスエル左派との連立政権の構築と,全ロシア労働者・ 兵士代議員ソヴィエ卜と全ロシア農民代議員ソヴィエトとの統合に全 力をあげたのは, 当然であった。 2つめは, ソヴィエ卜は,優れて階級的・階層的組織であった。地 域又は職場に組織される労働者代議員ソヴィエ卜の構成員たり得る資

(16)

格は,当該地域文は職場に属していることであった。兵士代議員ソヴィ エトにおいても, 資格要件は同様に厳格であった。別の言葉で言えば, ソヴィエ卜は,排他性が強い組織であった。1918年7月に制定され る最初の 「ロシア社会主義連邦ソヴィエ卜共和国憲法」第E編「総則」 にこの考え方は,集約的に定められており,第W編 「選挙権及び被選 挙権」第

6

5

条には,一定の住民からこれらの諸権利をはく奪すると 定め,より具体的に「差別」を定めている。このように,全ロシア・ ソヴィエト大会は,形式的にも,ロシア領域に生活するすべての住民 の意思を総体として体現する組織ではなかったのである。 第E回全ロシア・ソヴィエ卜大会の正当性と正統性について,ボリ シェヴィキの指導者は繰返し述べている。正当性については,圧倒的 な民衆,すなわち労働者,農民,兵士,水兵などの支持を得ているこ とによって証明され,正統性については,第E回全ロシア・ソヴィエ ト大会は,第I回全ロシア・ソヴィエ卜大会と同様に,職場,地域, 兵営,艦隊等から,多くの代議員が参加したことによって証明されて いる,としていた。 しかし,先に触れたように,第I会期全ロシア中央執行委員会が第 E回全ロシア労兵代ソヴィエ卜大会の開催手続及び大会開催に責任を 持っていた訳ではなかったし,後者については,第E回全ロシア労兵 代ソヴィエ卜大会は,第I回全ロシア労兵代ソヴィエト大会の出席代 議員数,すなわち,大会に代議員を派遣したソヴィエト数を上回るこ とはできなかった。しかし,ボリシェヴィキには,ソヴィエ卜という 形で全国家権力を掌握した,と宣言し,国を統治する政府・人民委員 会議を組織する以外に革命を成就させる方途はなかったのである。

2

)ソヴィエ卜政府・人民委員会議 第E回全ロシア労兵代ソヴィエ卜大会で組織された政府は,人民委 員会議であり,閣僚は人民委員と呼称された。旧臨時政府の大臣会議

(17)

「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 〔閣僚会議〕の編成とほぼ同じものであり,職務分担にも相違はなかっ fこ70 人民委員会議は,全行政権力を掌握し,指揮監督するだけではなく, 布 告 を 公 布 す る 権 限 を 有 し て い た 。 布 告 は , 法 令 の う ち 最 高 法 規 範 に 位 置 づ け ら れ て い た は ず で あ る。ソ ヴ ィ エ 卜 大 会 は , 当 然 の こ と と し て 布 告 の 制 定 ・ 公 布 ・ 施 行 手 続 を と る こ と が で き た し , 大 会 休 会 中 の 国 の 最 高 国 家 権 力 機 関 で あ る 全ロシア中央 執 行 委 員 会 が 布 告 を 制 定 で きるのは至極当然のことであった。しかし,人民委員 会 議の布告制定・ 施 行 に つ い て は 状 況 が 異 な っ て い た。 大 会終 了 後 の 早 い 時 期 に , エ ス エ ル 左 派 か ら , 人員 委 員 会 議 が 布 告 を 制 定 し ・施行することに対し疑 義 を 提 起 さ れ , ボ リ シ ェ ヴ ィ キ と の 間 で 意 見 交 換 が 行 わ れ て い る80 7

0

新美治一,~全ロシア憲法制定会議論J (法律文化社,) 133頁 に <臨時 政府の閣僚会議の構成及び閣僚名簿>の一覧があるので参照されたい。 0なお, 10月26日,全ロシア・ソヴィエト大会の布告によって組織され た臨時労農政府の構成及び人民委員名簿は,議長:Y.VIレーニン, 内務人 民委員 :A.VI.Jレイコフ, 内務人民委員補佐:B.日ミリューチン,労働人 民委員:A. r.シリャープニコフ,陸海軍人民委員:(人民委員内部に委員 会を設置する。委員会の構成員は以下の通り): B.A.オフセンコ(アントー ノフ), H.B.クルィレンコ及びII.Eドィペンス通商工業人民委員 :B Hノーギン,教育人民委員:A.B.ルナチャルスキー,財務人民委員 :VI M スクヴオールッオフ (ステパーノフ),外務人民委員:刀江ブロンシュ テイン (トロッツキー),司法人民委員 :r.VIオッポーコフ (ローモフ), 食糧人民委員:VI.A.チィオドローヴイッチ,通信人民委員:H.IIアヴィー ロフ,民族問題議長:VI.Bジュガシヴィーリ (スターリン。) 鉄道人民委 員は空席とする (江eKpeTbI COBeTcKo白 BJIacTfl,rOCI13且. IIoJI 耳目TepaTypbI. T.1, c. c.20-21.以下, <~ソヴィエ ト権力布告集J,第 l巻, 20-21頁>と記す。)。 0人民委員の名簿は, "1社主義を志向するすべての政党による連合政府」 構想の論争の過程で変更されているし,更に, 12月12日に, 左翼エスエ ル党との連立政権発足に伴い, "IBUI/IKの決定」によって,人民委員のポ ストが 2つ増え(地方自治人民委員とロシア共和国資産担当人民委員) それと同時に人民委員の交替が行われた。したがって, 10月26日の人民 委員会議の構成及び人民委員の名簿は,参考に挙げたものである。 8 ①10月 29日以前に (原本通り),ロシア共和国の名において,人民委員 会議議長 Y.VIレーニンが, 1"法律(3aKOH)の制定及び公布の手続きに ついて」の布告を公布している。それに基づけば,関係省庁で承認され

(18)

Y.I1.レーニンのソヴィエト共和国 構 想、の 中心 には,~国家と革命」 で 高 く 評価 し ていた 「パリ・コ ミューン」での 立 法し・執 行し・監査 す る 経 験 が あ ったと思 わ れ る90 人 民 委 員 会 議 の 全 人 民 委 員 がボリ シェヴィキで 占 め ら れ,こ の 政 府 は,文字通り,ボリシ ェ ヴ ィ キ ・ソヴィエ卜権 力であった。 「労 農 政 府 の 組 織 に つ いて」の 全ロシア ・ソヴィエト大 会 の 布 告10で は,

I

人 民 委 員 会 議 は , 国 を 管 理 す る」た め に , 組 織 さ れ , そ のため に,人 民 委 員 会 議 が 必 要 な 措 置 をとることは, 何ら制限されていなかっ た法案は,人民委員会議の審議に付されたのち,制定されたものとする 手続きと,各人民委員会議で承認された原案を人民委員会議議長の決済 を以て制定されたもの, とする場合があると, している。しかし,いず れの手続きで制定された法令でも,

B

LlV1

K

は,執行の一時停止,内容の 変更および取消す権限を有する, との規定がある(~ソヴィエト権力布告 集j,第1巻, 30頁。 布告の第7項)。 ②1917年 11月4日のBUI1Kの 会議で,エスエル左派から,本来大会又はBUI1Kの権限である,と考え られてきた布告を, I人民委員会 議 (以下, CHK Cエスエヌカー〕とする)J が公布・施行することについて疑義が出された。これに対して, Y.I1.レー ニンは,およそ,次のように回答している:ブルジョア社会の観点から, 種々の欠陥があっても問題があったとして,こだわることなL、。権力は, 必要な修正を加えることできるソヴィエトにある。新政権は,広範な民 衆の願いと期待に依拠し,法律を公布し,新しい生活形態の道筋を立て ている。民衆の良きいきいきした創造力こそ,新しい社会の基本的要因 である。 (~レーニン全集』 第 4 版,第 26 巻, 293-294頁)。 BUI1Kは11月4円の会議で,このY.11レーニンの発言に基っき, Iエ スエル左派のC日tが布告を公布することについての質問に係る決議」を 採択している(~ソヴィエト権力布告集j,第1巻, 44-45頁)。③ 11月4 日までにC日fの公布した重要な布告のなかに, C日fの 「出版について」 の布告,同 「地方自治体の食糧問題について権限の強化について」の布 告,等がある。 9 二月革命以降, 10月までの期間, ドゥーマが事実上機能定位停止してい たため,さまざまな 「立法機関」が創設されては消えている。その間, 旧臨時政府が実質的には,立法し・執行して国を統治していた。この経 験が人民委員会議の立法し ・執行する態様にどのように影響を与えたか は,興味あるところである。 10 ~ソヴィエト権力布告集j,第l巻, 20 -21頁。 人民委員は,当該人民委員会議が管理する国政の個々の分野を首尾よ く管理 (3aBenOBaTb)するために委員会 (KOMIlCCllll)を設けるとし ている。 全ロシア労兵代ソヴィエ卜大会及びBlll1Kは,人民委員会議を組織す

(19)

「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) ..f...ll a、』。 第

3

章 全 ロ シ ア ・ ソ ヴ ィ エ 卜 大 会 の 時 期 の 諸 政 治 勢 力 の 攻 防

1

) 全 般 的 な 状 況 第E回 全ロシ ア 労 兵 代 ソ ヴィエ卜大 会 の 開 催 を 契 機 に , 一 方 は <ボ リシェヴィキ・ ソヴィエ卜権 力 及 びこれ を 支 持 す る側>と,他方 は < 旧 臨 時 政 府・旧ロシア軍等反ボリ シェヴィキ ・ソヴィエ卜権 力側>と の内戦に突 入した。 全ロシア労兵代ソヴィエト大 会 で 国 家 権力の 移 行 が宣 言されたもの の , 権 力 を め ぐ る状況 はカオスであった。 そ の 理由の1つは,ソヴィエト権 力 の 樹 立 は 首 都・ぺ トログラード と い く つ か の 都 市 にすきなかった120 い ま 一 つ の 首 都・モスクワでは ること及び個々の人民委員の任免権を有し, CHKは,大会及びBUI1Kに 責任を負うとしていた。これは, ソヴィエト権力構造の体系から当然の ことである。しかし,人民委員会議は,非常時という状況を勘案し < 大会やBUI1Kにのみ認められていた・CHKの組織に係る権能を除けば>, 実質的には同等の権限を有し,最高の国家権力機関として機能していた。 「ロシア労農政府の組織について」の布告で注目すべき内容の一つは, 「臨時」労農政府という文言である。布告では, I憲法制定会議が招集さ れるまで」の時限的な措置であることが明言されていた。このことを明 確に確認しているのは, I定められた期日 (11月12日〕に憲法制定会議 選挙を施行することについて」のY.11レーニン人民委員会議議長の名に おいて公表された政府決定である(注11)。のちに検討することになる 「社会主義諸政党連合政府」構想問題を審議する過程で, I臨時」の意味 は,大きな意味を持つことになったのである。 11 ~ソヴィエト権力布告集J,第l巻, 25-26頁。 12 ロシアの領域は広大である。この領域のほぼ全域でソヴィエト権力が樹 立されるのには,数か月を要した。しかも,ほとんどの都市で,首都と 同様に, ポリシェヴィキに指導された 「ソヴィエトの軍事革命委員会」 の指導の下・武装蜂起で権力の奪取が行われた。例えば, 比較的早く, ポリシェヴィキが激しい市街戦ののち勝利したモスクワでの 「ソヴィエ ト権力の樹立宣言」 の宣言は11月2日, シベリアの中心都市・イルクー ツクでは11月19日,極東ハパーロフスクでは12月12日,ヴラジオヴァ ストークでは11月29日,ウクライナのハリコフで12月10日,キーエ

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市 街 戦 が 続 い て い た し , 多 く の 地 方 都 市 で は , 依 然 と し て 市 ド ゥ ー マ や ゼ ー ム ス コ エ ・ ウ プ ラ ヴ ォ な ど の 地 方 自 治 権 力 が 支 配 を 継 続 し て い fこ。 2つ め は , 旧 臨 時 政 府 及 び そ れ を 支 持 す る軍が 首 都 に 向 け て 攻 勢 を 強 め , 状 況 は ボ リ シ ェ ヴ ィ キ ・ ソ ヴ ィ エ ト 権 力 側 に と っ て は 容 易 な ら ざ る 事 態 で あ っ た し , 追 放 さ れ た ケ ー レ ン ス キ ー 元 首 相 ・ ク ラ ス ノ ー フ 将 軍 の 陣 営 に と っ て は , 国 家 権 力 の 奪 還 が 可 能 で あ る と 見 通 せ る 状 況 に あ っ た の で あ る130 これに加えて言え ば , ロ シ ア の 将 軍 ・ カ レ ー ジンがドンでカッザクを組織し,ホ、リシェヴィキ権力に対抗していた。 さらに, 3つ め に は , 反ボリ シェヴィキ勢力が大同団結するために, 「祖 国 と 革 命 救 済 委員 会

J

1

4

を 組 織 し , こ れ が 活 発 な 行 動 を 展 開 し て い たことがある。 フでは18年1月26日になっている。ここでは,本稿の主要なテーマで はないので割愛するが,いずれの都市においても,両首都と同様に,軍 事衝突ののちソヴィエト権力が樹立されたのである。これらの都市のい くつかでは,国内戦のさなかにソヴィエト権力が崩壊している。加えて, 農業地帯・農村で,順調にソヴィエト権力が樹立されていったとは限ら ない。18年春,ソヴィエト政府は,農民代議員ソヴィエトに換えて,貧 農委員会を設置する措置をとるが,この措置自体が農村でのソヴィエト 権力の状況を端的に示している(I1CTOPI111K[[CCATJJac.ゆ 仰 ロpl1 日t悶1CC.M. ,1982, c. c. 26-27) 13 10月25日,ケーレンスキ は,ぺトログラード、から北部戦線参謀本部に 到着し,直ちに, 首都への進撃を命令した。帝政ロシア軍のクラスノー フ将軍は, 旧臨時政府に具体的な支援をしてきた数少ない軍の最高幹部 であった。10月26日,クラスノーフは,第3騎兵隊にぺトログラード、へ の進撃を命令し,ルーガ,ガッチナ,ツアーリスコエ・セローを制圧し, 一時,首都ぺトログラードの奪還も可能かと思われていたものの,カザッ ク部隊 〔騎兵隊の主力〕に動揺が広がり,同月 31日,赤衛隊とバルト艦 隊水兵の攻勢に敗北した。11月1日, クラスノーフは,ガッチナで拘束 され自宅監禁の処分を科せられた。11月 6日, "1再びソヴィエト権力に対 し兵士を用いることはなL、」との軍人の誓いに基づき,解放されている (XpOHI1Ka POCCI1I1I1XX BeK. M., CJJOBo,2002.C .223.) 14 "1祖国と革命救済委員会 (KOMflTeT CnaCeHI111POlll1Hbl11PeBOJJ即日 I1I1)Jはついては,次項で触れることになる。

(21)

「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 2) ボリシェヴィキ・ソヴィエト権力を放逐するために組織された祖 国と革命救済委員会 この委員会は,ぺ卜ログラード軍事革命委員会が組織した武装蜂起 の直後, 10月25日の夜半から 26日の未明にかけて,市ドゥーマの 建物で組織された。スコーベロフの開会の辞によって始まった創立集 会の構成員は,市ドゥーマの代表者,予備議会議員,第I会期B回配 中央執行委員,全ロシア農民代議員ソヴィエト中央執行委員会執行委 員,中央艦隊 (UeHTpoφJIOT)の代表,メンシェヴィキ中央委員会, エスエル中央委員会,<人民社会主義者党>の代表,カデッ卜(立憲 民主主義党)の代表,郵便=電報労働組合同盟中央執行委員,鉄道同 盟中央役員,第H回全ロシア労兵代ソヴィエト大会から退場してきた メンシェヴィキ・フラクションのメンバー及びエスエル・フラクショ ンのメンバー,その他であった。議長には,エスエル右派のA.II.ゴー ツが選任された150 祖国と革命救済委員会は,公務員のサボタージュを支持し,ケーレ ンスキー・クラスノーフのぺトログラード、へ向けての進軍を歓迎し, これらと協力体制を整えつつあった。加えて,ぺトログラードでの士 官学校生徒の武装蜂起を支持し, 第E回全ロシア労兵代ソヴィエ卜大 会を放棄し退場して来たメンシェヴィキやエスエルの 「大会代議員」 を激励した。 祖国と革命救済委員会は, 10月26日にはぺトログラードの街路に, <ボリシェヴィキ権力は非合法組織だ!>とのポスターを張り出し, この徒党集団の組織したボリシェヴィキ・ソヴィエ卜権力を認めない こと, <国を,憲法制定会議に導き,反革命と無政府状態から祖国と 革命を救う臨時政府の組織>を訴えていた。

15 MeHb凹eBHKH1917 ro且y,T.3 QacT b2.M, POCCII3H1997. c.256 -257

(22)

10月29日には,祖国と革命救済委員会は,武装蜂起をぺトログラー ドで組織した。ポリシェヴィキによって解任されていたぺトログラー ド軍管区司令官・f.I1.パルコーヴニクが自らを 「司令官」と宣言し, その中心にいた。彼は,ぺトログラードの各部隊に, 軍事革命委員会 の命令の執行を拒否するように命令していた。この蜂起の中心は,ニ コラーエフスキー技術兵学校の生徒(ユンケル)が主力部隊であった。 しかし,この武装反乱は,ぺトログラード守備隊や労働者の支持を得 られず, 10月30日の未明には,ほぼ鎮圧された。ニコラーエフスキー 技術兵学校に次いで,首都の他の士官学校も, 軍事革命委員会によっ て次々と解散させられていった。この壊滅作戦は,ときには,ヴラジー ミル士官学校のように頑強な抵抗に遭遇することもないわけではなかっ た。ボリシェヴィキが首都・ぺトログラードをほぼ完全に制圧したの は, 10月の末頃であった160 革命直後のこの状況は,ボリシェヴィキ主導のソヴィエト権力の基 盤を構築するための施策に強烈な負の影響を与え,ボリシェヴィキ・ ソヴィエト権力を支持するかどうか動揺していた部分には確かな影響 を与えずにはおかなかった。この複雑な状況が直接に現れるのは,

<

臨時労農政府を支持するか,

I

社会主義諸政党連合政府」の設立を目 指すか>,と言う問題である。この問題を巡り,政党や各種団体,政 治指導者個人を巻き込んだ織烈な 「権力闘争」が展開された。いわゆ る連合政府構想に係るほぼ10日間の抗争である。 16 祖国と革命救済委員会は, 1917年11月末に 「憲法制定会議擁護同盟」に 改組され,憲法制定会議がポリシェヴィキによって解散させられたのち, 18年1月,自主解散をしている。

(23)

「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 第

4

章 「 社 会 主 義 諸 政 党 連 合 政 府 」 構 想

1

.

ヴ ィ ク ジ ェ リ に よ る 口 火 ・ そ れ か ら この構想、は, エスエル 左 派 ・クチンスキーによって,第E回全ロシ ア 労 兵 代 ソ ヴィエ卜大 会で,

I

政府 を 組 織 す る 問 題」の 審 議 が 行 われ ていた時に,

I

臨 時 労 農人民 委 員 会 議

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(臨時赤色労農政府案)の対案 として , 具 体 的 に 提 起 さ れた九 このクチンスキーの提案に先立ち, ボリ シェヴィキ党中央委員会は, エスエル 左 派 の 主 な 指 導 者3名 ( カ ムコフ,カレーリ ン及びスピー ロ)18を 会 議に招き, エスエ ル左 派 か ら 「臨 時 労 農 政 府」の 閣 僚 (人 17 rB..I1.レーニン全集]J,第26巻所収の 「ロシア革命と内乱」には, "1ボ リシェヴィキとエスエル及びメンシェヴィキとの同盟だけが,全権力を ソヴィエトに直ちにうっすことだけが,ロシアにおける内乱を不可能に するということにほかならなL、」との文言がある (23頁)。 この文言は, 旧支 配 勢 力 (旧ロシア軍上層部の玉党派, 地主,ブルジョアジ一等)と 民主的諸勢力(自称 「社会主義」 政党)が,手段を選ばず,はげしく抗 争していた時期に執筆されたモノであり,この時点でクチンスキーが提 起していた内容とはまったく異なるものである。ただ, この文言は, ボ リシェヴィキが 「単独で権力を掌握するためには手段を選ばない」との 罵晋雑言に僅かではあれ,応えることができたかもしれなL、。また, ロシ ア語版・『大十月社会主義革命』のOllHopOllHoeCOUHanHCTHueCKoe npaBHTenbCTBOの項には,ほぼ同じころ, エスエルの指導者・チェル ノフが 「同質の政府」・「勤労者の政府」構想を打ち出していた, として いる。しかし,エスエル・ メンシェヴィキを中心に,共和国評議会や予 備議会構想が次々と出される時期の 「提案」であり,いかほどの政治的 意味を持っていたかは定かでない。 18 ム6.且カムコフ(本名, Kau) スピリドノーヴァと並びエスエル左派・ 左翼エスエル党の主要な指導的責任者。11月の 「ポリシェヴィキ党と左 翼ーエスエル党の連立政権」の構築に貢献し,全ロシア憲法制定会議にお いて左翼エスエル党がポリシェヴィキと共同歩調をとることに尽力して いる。同時に,彼は,左翼エスエル党が 「ブレスト・リ トーフスク講和 条約」の締結に反対する立場をとることを指導し,連立政権の解消を決 断した一人である。18年7月の ドイツ大使・ミルバッハ殺害計画を立案 している。事件後, ソヴィエト政権に協力。 ムB.Aカレーリン 左翼エスエル党の組織者の一人,中央委員。第E回

(24)

民 委員) 候 補 を 推薦して欲しい,と要請していた九 ボリシェヴィキ中央委員会に招かれたエスエル左派が「連立政権」 を拒否した理由は定かではない。何よりも,情勢を見極めたい,第 E 回全ロシア労兵代ソヴィエト大会が首尾よく終了するかについても不 安がなかったわけではない。とりわけ, エスエル左派にとっては,全 ロシア農民代議員ソヴィエトとの関係は無視できなかった。加えて, 予想される憲法制定会議選挙結果は,エスエルにとっては良好であっ ても,ボリシェヴィキにとっては厳しいものになる筈だ,との判断は できていた,と思われる。 しかし,これだけではなかった。既に触れたように,政府の設置の 討論のなかで,エスエルエル左派・ヴィクジェリのクチンスキーの発 言にみられるものが具体的な理由であったと思われる。全ロシア労兵 代ソヴィエ卜大会で立ち上げる政府は,臨時労農政府ではなく,種々 の政党が参加している 「ソヴィエ卜」を基礎にした<社 会主 義 諸政 党 連合政府>であったのである。そのクチンスキーは,ヴィクジェリ中 全ロシア・ソヴィエト大会で選出された B UI1Kの中央執行委員。 17年 12月ポリシェヴィキと左翼エスエルの連立政権が組織された際に 「ロシ ア共和国資産管理人民委員」 として入閣。ブレスト ・リトーフスク講和 条約締結のためのロシア共和国代表団の一員。 7月のミルバッハ殺害事件 後,外国に移住。 ムスピーロについては,左翼エスエル党が発足したのち,中央委員であっ たこと以外は, 詳細は不明。 19 ポリシェヴィキがエスエル左派に 「連立政府」の組閣を提案したことに つては."1社会主義諸政党連合政府」構想に係る討論の過程で.Y.11レー ニンが繰返し述べている。{1IJえば, ・エスエル左派に対する回答

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レー ニン全集』第4版,第26巻.293頁).・「戦線代表とぺトログラード労働 者・兵士代議員ソヴィエトとの合同会議における演説

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レーニン全集』 第 4版, 第26巻.302頁,・「ロシア社会民主労働党ポリシェヴィキ中央 委員会から全党員とロシアの全勤労者階級に訴えるJ

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レーニン全集』 第4版,第26巻.311頁:1"(・・・・エスエル左派の代表者を招き.)かれら に新政府に参加することを提案した。エスエル左派の同志たちは,これ を拒絶した。きわめて残念なことである。・・・・われわれは,エスエル左 派を政府の構成に入れる用意をいつでもしている。」。

(25)

「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 央 執 行 委員会 か ら 派 遣 さ れ た 大 会 代 議員と し て , お よ そ 次 の よ う な 発 言している。 第

1

に,全第 H回 ロ シ ア 労 兵 代 ソ ヴ ィ エ 卜 大 会 の 正 統 性 に つ い て 疑 義 が あ る こ と , ヴ ィ ク ジ ェ リ は , い ま な お , 第

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会 期

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を正当 な , 権 威 あ る 機 関 と 見 倣 し て い る。 第2に, 1つ の 政 党 に 国 家 権 力 が 掌 握 さ れ る こ と を 認 め る べ き で は な L、。全 て の 革 命 的 民 主 主 義 の 諸 国 体 は , 国 家 権 力 を 共 同 の 権 力 と し て,共同でソヴィエ卜を組織し, これに責任 を 負 わ な く て は な ら な O 却

L 第3に , 武 力 に よ っ て 追 放 さ れ た 旧 臨 時 政 府 は , 武 力 で 新 政 権 を 打 倒 し よ う と し て い る。ロシアにとって,悲劇的な状況を引き起こすこ とになる内戦は絶対にさけなければならない。そのためには,ボリシェ ヴ ィ キ の 単 独 政 権 は 絶 対 に 避 け る べ き で あ り , す べ て の 社 会主義 政 党 が 大 同 団 結 で き る 政 権 ・ 政 府 を 組 織 す べ き で あ る九 20全ロシア鉄道従業員組合連合設立のための全ロシア大会が1917年7月15 日から 8月 25日にかけて,モスクワで開催された。そこで選出されたの が

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刀h(ヴィクジェリ,全ロシア鉄道従業員労働組合中央執行委 員会)である。 役員選挙の結果,ヴィクジェリは, 14名のエスエル, 6名のメンシェ ヴィキ, 3名のボリシェヴィキ, 6名のその他の政党から推薦された者, 及び11名の無党派,で構成されていた。ヴィクジェリは,ポリシェヴイ キが独裁する政府権力には反対であるとの声明を発表した。それと同時 に, 革命直後の 「社会主義諸政党」構想を推進する立場を表明し,ソヴィ エト権力機関,各政党,社会団体に, この問題で審議することをH手びか け,10月29日に最初の会議を開催した (BeJl.OKTH6. COU. peBOJIIOU

IlH 3HUIlK刀one且IlH.M., COB. 3HUIlK., 1987., C .78.)0 (注)A.11

Pa3rOH, B印 依 COBeTOB B nepBhle MeCHUhl耳目KTaTypblnpoJle

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113且.HaYKa M ,1977.C .116. 21 Aφ ケーレンスキーは, 第IVゴス・ドウーマの代議員として活動し, ト ルダヴィキー・フラクション責任者であった。二月革命直後, 1917年3 月にエスエル党員として登録され,臨時ゴス・ドゥーマ委員会委員,ぺ トログラード市労働者代議員ソヴィエトの副議長の職に就いている。10 月 25日以降の,エスエル党のケーレンスキーについての評価は定かでは ないが,彼の党籍を剥奪した正式な決定は見当たらない。加えて,エス

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ヴィクジェリは,以上3点以外に,いま一つ重要な事項を公表して いた。それは,ヴィクジェリが, 旧臨時政府・新臨時労農政府のいず れも支持しない,と公言したことであった。そのもっと端的な具体的 な事例は,臨時労農政府が,市街戦の行われているモスクワのボリシェ ヴィキ ・ソヴィエト権力支持者側に,鉄道で補充武装部隊及び武器弾 薬を輸送する措置を要請したのに対し,これを拒否したことである。 理由は,鉄道輸送は,常に正常さが保たれているべき公益的なもので ある。市民が双方に分かれ,戦闘中の一方に加担する行為は,鉄道事 業の趣旨に反するため,輸送はできない,というものであった。 ヴィクジェリが白ら明らかにしている ・その政治的な立ち位置は, 新臨時労農政府を正当な政府として認めることはしないが,打倒する 行為にも加担はしない,というものであった。ヴィクジェリが反新臨 時労農政府であることは,はっきりしていたが,

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祖国と革命救済委 員会」の創立団体としても,参加はしていなかった。 ヴィクジェリは, 29日の夕刻 19時から, ヴィクジェリ会館で, 「連合政府」問題について協議会を開催すると,

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すべての社会主義政 党

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祖国と革命救済委員会」の構成団体,及び

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に電信文書 で伝えていた。 その電信文書には,

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ケーレンスキーを首班とする臨時政府は, 自 らの手中に権力を維持する力を失っていた。ぺ卜ログラードに組織さ れた

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は, 一党にのみ依拠しており,全国的な規模で承認され・ 指示されることは不可能である。新しい政府を組織することが不可欠 である。この政府は,すべての民主主義勢力から信任され,信頼され エルが, 全ての社会主義政党を包含する 「連合政府」構想し,その新政 府の一義的な課題を,内戦は避けるべきだ,という提案をしたとき,ケー レンスキーを社会主義者として扱うかどうかの問題を検討したかどうか, 不明である。

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) ることによって,初めて,権力を行使することが可能になる。この基 盤によって立つ政府だけが,全ロシア憲法制定会議選挙を首尾よく組 織し,開催することができる。」としていた。電信文書は,ヴィクジェ リは,持てるあらゆる手段を用い,政府問題についての会議を成功さ せると述べ,また,出席される組織の多寡を問わず,定刻に協議会は 開催される,としていた。ヴィクジェリは,はじまっていた内乱の拡 大を阻止し,平和的に憲法制定会議選挙の施行し,同会議の開催を保 障できるのは,

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われわれを置いて他にはない」と宣言していたので ある。 ボリシェヴィキ単独の 「政府」を改組する問題についての電信文書 は,社会的に大きな反響を惹き起こした。ヴィクジェリの計画を事前 に当然に熟知していたエスエルをはじめ,ボリシェヴィキ 「単独政権」 の瓦解を画策していた多くの穏健な社会主義政党は言うに及ばず,ポ リシェヴィキにも,第

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会期

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にも, この 「招鴨状」を無視す ることは出来ない大きなインパク卜与えることになった。 2.

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社会主義諸政党連合政府」構想が発表された時点の諸政党の態度

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)ボリシェヴィキ 十月の蜂起を主導し・国家権力を掌握したポ リシェヴィキの中央委員会は,

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社会主義諸政党連合政府」構想案に 対する,中央委員全員の合意を得る対案をもっていなかった。大枠で 括ると, i

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ロシア社会の発展水準からみて,プロレタリアート独裁 を実現するボリシェヴィキ・ソヴィエ卜権力ではなく,社会主義諸政 党 「連合政府」構想が現実的であるとし,この構想、の実現に意欲を示 していたカーメネフやジノーヴィエフと,

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この機会に,ボリシェ ヴィキ・ソヴィエト権力の基盤を拡大する必要はある,と認めていた 大多数の中央委員と,出〕連合政府構想の 「意図はソヴィエ卜権力の 破壊である。したがって政府権力の基盤を拡大し・強化することが必 要である。組織的・政策的原則を抜きにした 「連合政府」構想に党と

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しては組みしない,

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とする Y.I1.レーニン・トローッキーの 3つの 立場があった。 10月 29日,ポリシェヴィキ中央委員会総会は,ヴィクジェリの主 宰する「社会主義諸政党連合政府」構想案を検討する協議会に党とし て参加することを決定した。 この中央委員会は,

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の会議及びヴィクジェリの主宰の協議 会に先立ち,開催された九 この日の唯一の議題は,提起されている 「連合政府」への対応と内容への対策であった。 中央委員会での議論は,ヴィクジェリの提案は,第E回全ロシア労 兵代ソヴィエト大会の諸決定を無効にするための陰謀である,との厳 しい意見が出されたものの, ① 会談には,ボリシェヴィキは参加す る。党の代表として,カーメネフとサコーリニコフを任命する, ② 政府基盤を拡大する可能性を容認する, ③ 第E回全ロシア労兵代 ソヴィエト大会から退場した政党が推薦する

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中央執行委員候 補を中央執行委員として補充することを認める。員数は,大会の全登 録者数に占める当該政党の登録者数の率に基づくものとする。 ④ ボリシェヴィキ中央委員会が会談に臨む基本方針として, (i

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I1Kが,政府を組織する。政府は,

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I1Kに責任を負う。

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I1K は,閣僚の任免権及び政府に対する監督権を有する, (u

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(新〕政府 は,第E回全ロシア労兵代ソヴィエト大会で採択された 「平和につい て」の布告及び 「土地について」の布告を承認し・履行する。〔新〕 政府は, 労働者統制案を前向きに推進する。⑤ メンシェヴィキ,右 22 lleHTeJlbHOCTb UK PCllPII(6) -PKII(6) B 1971-1918 ro且axB B.AHIlKee,B1113且.MbICJlb,M ,1974r. c. c.22-23. 10月29日ない し11月 6日までのボリシェヴィキ中央委員会の動向について,この 『資 料』に基づく。江eHTeJlbHOCTb UK PC江PII(6)・・・頁。 と記す。 なお, Y.l1.レーニンとトロッキーは,ケーレンスキー・クラスノーフ軍 との戦闘指揮のため現地に出向き,この会議には出席していなかった。

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「社会主義諸政党連合政府」構想の挫折 (新美) 派エスエル,人民社会主義者党の入閣は認めない。中央委員会は,こ れらの右翼的な社会主義政党との連合政府には,断固として反対す る。目 このボリシェヴィキ中央委員会の決定に基づき,ボリシェヴィキの 関係者は,

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日夕刻のヴィクジェリ主宰の協議会に臨む

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の 対策会議及びヴィクジェリ主宰の協議会に臨む筈であった。 2)エスエル(社会主義者〔頭文字・エス〕・革命者〔頭文字・エ ル〕の党)は, 10月 27日付の「党通報

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No.4に掲載された「エスエ ル党中央委員会と第 H回全ロシア・ソヴィエト大会代議員エスエル・ フラクションとの共同声明」で,第E回全ロシア労兵代ソヴィエ卜大 会から退場した理由を詳しく述べている。 ここでは,ポリシェヴィキの蛮行を厳しく非難し,大会そのモノを 認めない立場を強調していた。次いで, 10月28日付の中央機関紙 「ジェロ・ナローダ」で,ボリシェヴィキの蛮行によってもたらされ た惨状をこれ以上大きくしないための措置をとることを,中央委員会 の 「すべての市民及びエスエル党軍事組織へ」の回状のかたちで,国 民に呼びかけていた。 具体的には, <祖国と革命救済委員会>が掲げている,

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ボリシェヴィキの蛮行を壊滅させるために闘っている軍事組織 及び 〔旧〕臨時政府のコミサールに全面的に協力すること。」

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土地を土地委員会の管轄に即時引き渡すとの綱領の実施。」

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戦争をしている国々に全般的な民主的な講和を直ちに提案する 23 ⑤の決定に際して,中央委員のうち,この立場をとったのは,ブブーノ フ,ベjレジン, ジェ/レジンスキー,イヨッフェ, コロンタイ,スヴェjレ ドローフ及びウリッツキー。これに反対する立場をとったのは,カーメ ネフ,ルイコフ, ミリューチン,サコーリニコフ。7対4と意見は分かれ, ポリンェヴィキ中央委員会の立場は,明確になった。

参照

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