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結び直す内部

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Academic year: 2021

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これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋です。無断

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多摩美術大学大学院

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目次

第1章 物語の開かれとしての崇高―テクスト外を開く身体性 ・・・・・・・・1 第2章 主体の後に誰が来るのか 記号論の主体内部における非―記号的主体の探究・・・・・15 第3 章 砂漠の熱風あるいは再び海へ 主体の後に誰がくるのか・内部とその持続、作品を契機として・・32 結び なぜ「劇場」にとどまるのか ―生起する場所と共同体コ ル プ ス・・・・・48

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第一章 ―バーネット・ニューマン、大野一雄における

物語の開かれとしての崇高―テクストー外を開く身体性

そのときわたしは出発点を忘れ、《私》が存在している世界からずれた、二次的な世界に運ば れる。−歓喜と喪失。知覚と言葉の手前ではなく、いつもそれらとともにあって、しかもそれ を突き抜けてゆく崇高なものは、われわれを拡大、超過し、われわれをしてここに投げ出され たものとすると同時に、彼方にあって他者であり、輝けるものとする、過剰である。隔たり、 不可能な閉域、挫折した<全体>、喜悦、つまりは魅惑である。 クリステヴァ 身体の思考において、身体は思考を常により遠くへ、常に余りにも遠くへと強制する。思 考がなおも思考であるには余りにも遠く、だが思考が身体であるには決して十分ではなく。 それゆえ、あたかも身体と思考のいずれもが、それぞれにとっての何らかの存続性を持つ かのように、思考と身体を別々に切り離して論ずるのは意味がない。両者は、紛れもなく それら相互の接触、一方による他方の、一方の他方のうちへの、相互的な不法侵入である。 この接触は脱自性の限界であり空間化である。しかしながら、それにはひとつの名がある、 それは「歓喜」と「苦痛」もしくは「痛み」だ。 ジャン・リュック・ナンシー

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物語の開かれとしての崇高―テクストー外を開く身体性

バーネット・ニューマン、大野一雄

テクストとテクストー外、読まれうるものの外部

たった一つの、わたしのものではない 言葉 J・デリダ 作品が一つの意味性に還元されるならば1、ヘーゲルの言葉―芸術の終焉―を待つまでも なく、芸術活動は弁証法的な言語活動の内の過程へと、あるいは言語主体の限りない差異 化の運動の中へと、押しやられてしまうだろう2。今日読者中心のテクスト理論が拡大させ 続けるパロールの場は、「我々のテクスト」3を共有し、多価的であるはずの芸術活動の舞台エ ク リ チ ュ ー ルを、

1 ここで念頭にあるのは、例えばヒリス・ミラー「主としての批評家」(1977) である。批評家と、批 評家が解釈するテクストは、どちらがより寄生的であるということはない、どちらも意味テクスト―「主」 上に棲みつき、共生関係を保っている。このように、作品=テクストが、批評によって読みとかれるため の意味の織物となるとき、その自立性は認められない。 2芸術活動は、 言語活動がその内の 1 部として完全に吸収しうるということになる。 3通時的なひとつの歴史を共有し、そのテクストの内に語り始めるということ、その主体とは、みずから中 心なる共同体を自認し、作品をそのなかに位置付けうる。作品、「かれらは、自分で自分を代表できず、誰 かに代表してもらわなければならない。」(カール・マルクス) 東 洋オリエントが本質的に符合する現実をもたず、

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単一の意味の場所へと閉じ込めてしまいかねない。記号という限定性に基づいて無限定な フィールドと運動性を手に入れた、本来その度ごとに定立される主体にとっては、「テクス ト外というものは存在しない」(デリダ)4のであるから、私(=主体)はここで、作者や作 品中心の読みにもどろうというのではない。これは、テクストの内部にいると自らを自認 する主体が行う、主体=記号、作品=テクストの構図5の側からは決して満足させることの できない、ひとつの根源的欲求、芸術活動に伴うある至高性に言及しようとする試みであ る。その至高性とは、ここではテクスト−外の立ち現れをさす6 ドゥルーズが「ひとつの生(une vie)」7といい、「一気に身を置く」8仕方で、ある超越的 な運動体へその言説の場を移行させる時、作品の記号世界から、ある「本質」9の誕生を見届 けるものとしての、芸術批評の 行 為ランガージュが成り立つ。混沌にみちたことばランガージュを、「唯一の表意構 造の主体」10へと収斂させること、「絶対内在性」11とドゥルーズが言ったような地平で自己 を展開してゆくこと、そのことが私たちにゆるすのは、もはや真理でも解釈でもなく、ひ とつの根源的な体験にほかならない。 解明とは還元ではなく情熱である。論理的には、『神曲』の読者はダンテである。つまり、誰 でもないひと〔personne〕ということだ。彼はまた《愛》の内にある。そしてここでは、知は いっそう根源的な体験のひとつの隠喩に他ならない。文字の体験、生と死、意味と非=意味が 不可分なものとなる体験の。愛とは意味であり非=意味であり、そしておそらく、非=意味か ら意味が生じることを可能にし、非=意味を明白で読解可能なものとするのである。(中略) 西 洋 オクシデント に垣間見られ、位置付けられたものであるにかかわらず(E・サイード)、地理的に現実のものとして ある東洋は、 東 洋オリエントに近づき始めるだろう。(おみやげ物やの、観光スポットの。)作品は、単一の意味と、 似てくる、あたかもその中へしか存在できないように。(『オリエンタリズム』エドワード・W・サイード 著 板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳 平凡社) 4 人間経験に関する限り、一切は「テクスト」であり、「テクスト」内の事態であるという立場。 この文章の中で筆者は批判的にこの位置に立つ。(『読みのポリフォ二―』岩本一著 雄山閣出版「デリダ」 参考) 5 主体=記号 ここで私の言う記号とは、同一性に成り立つ体系内で保持される言語の記号をさす。それ は、形而上学のロゴス(レゲイン、取りまとめる、集めて目の前に置く、を語源としている)であり、フロイ トのいう自我であり、構造主義の構造である。何らかの統合を可能にする、意味の固定、主体というひと つの意味的統合を可能にするのは、記号性である。 テクスト=作品 は、より大きなテクストの内にあり、読まれうる。この立場に立てば、作品には、ど んな外部性も含まれておらず、意味のテクストのうちに解体できる。 6 テクスト上に現れた作品の持つ物質性を指す。ここでは、ポロック,ニューマン、ウイリアム・フォーサ イス、大野一雄をめぐって,その身体性から、崇高を読み解く。 7 前田英樹『在るものの魅惑』現代思潮社p76−83「ドゥル−ズの哲学遺書」 『フィロゾフィ』誌に 掲載されたドゥル−ズ最後の論文を論じる前田英樹の引用による。p76 8同箇所 p77 9p80 10J・クリステヴァ『ポリローグ』足立和浩他訳 白水社p14 11前田英樹『在るものの魅惑』p77

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言 語 ランガージュ は全体性の場、無限の通路として現れる。みずからの言語を知らぬものは偶像を用い、 自らの言語を見るものは、自らの神を見るであろう。 フィリップ・ソレルス「ダンテ、あるいはエクリチュールの横断」(『ロジッ ク』)12 言 語ランガージュとの一体化、いかなる実体もなく絶対内在的に展開されてゆく、運動性に満ちた主 体の場所。その、《愛》の場の誘惑、「完全な力ピ ュ イ サ ン ス、至福」13からあえて離れて、ここで私がお こなうのは 言 語ランガージュとしての主体の外部に<ある>と、自らをみなす主体の、むしろ「偶像を用 い」る方を選んだ、その仕方にひそむ根源性の探索である。 作品がある延長、物質性を持って空間にあらわれ,(時には自律した宇宙さえ感じさせて)、 それが記号的領野において主体に受容される時、そこにある不可能性が露呈する。その不 可能性とは超越的領野に還元しえない作品の延長、物質性であり、体験の一回性、非同一性 に対して同一性を保持するかにみえる、不動の客体としての立ちあらわれである。事物の, 「言語によって指し示される以前から、みずから言語ならぬ言語を発してさえいるよう」14な、 物質としての他者性の現前。それは、空間に作品の身体と並び立つ、自己の身体の発する 要請であったはずだ。 この異質的なものは、それがひとつのテクストであるゆえに、ひとつの身体である。私がテ クストというこの胡散臭いことばを使うのは、テクストの中にみずからを見ようとする者 にとって、テクストが危険なもの、自己同一的でないもの、真正でないもの、不可能なもの、 破壊的なものを持っているということを、是が非でも理解してもらいたいからである。(中 略)それは母の領土である。つまりこの異質的身体、この危険なテクストが、意味、自己同一 性、あるいは快楽を与えるものであるとしても、それは《父=の=名》とはまったく別の仕 方で与えるのだ、ということである。 J・クリステヴァ『ポリローグ』15 人が発語パロールの時間的な快楽にあきたらず、作品という特殊な書き言葉エ ク リ チ ュ ー ルを空間に発生させた 時、つまり自己の身体に対峙した等価な客体を空間に生み出したとき、偶像をつくりなすあ の営みがすでにはじまっていたといえる。透明な言語運動の展開を幾分停止させ、(多分そ 12『ポリローグ』第4章 ポリローグ p133クリステヴァの引用による 13前田英樹『在るものの魅惑』p78 14東京都現代美術館『河原温 全体と部分 1964−1995』平出隆「瞬間の革命―言語としての河原 温」p408 15 J・クリステヴァ『ポリローグ』足立和浩他訳 白水社p14

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れは自己の隠喩として)、完全にその客体に 言 語ランガージュが吸収されてある、主体の沈黙を願って 偶像を置く。飛躍すれば、外界を他者として躊躇なく操作し、システムを作り出した主体 は、それによって操作されることを眼底にみていたはずで、たとえば、「声なきものの声を 聞く」といったような、事物を前に操作をおよぼす主体の手を内に退行させていった東洋の 感覚が、ここで、客体というものをつくりなしていった西洋の主体文化に、近似するしぐさ をみることができるのだ。 身体を、主体の隠喩として、偶像としておくならそれは、《父=の=名》が与えるような、 《自らの神》に基く絶対性ではなく、物質の他者性に成り立ち、まず<向き合い、抱く>母の 心性においてなりたつ、別種の絶対性を提示するものとなる。物質に染み込み、見えるもの となった身体化された意味は、統一体としての主体からは、異質な、相対的な、輝きを発しな がら、しかし、そこに別種の絶対性をはなつのだ。作品は、その身体は、(その本質からして 素材如何にかかわらず)解体を待つ、有機物である。つまり、そこに死を刻印されてある。不 死の言語運動の、永遠の白夜、あるいはひきのばされた白昼の歩行から、またあるいは創 造と破壊を繰り返す回帰運動の輪から、私たちはほかならぬ偶像の物質性によって、一瞬解 放され、それは恋人の身体のように救出の閃光を、共時的な絶対性を素描するのだ。

物語の開かれとしての崇高

ジャクソン・ポロックー有機的な身体という触媒 ジャクソン・ポロックの作品に発見するのは、身体のスケール、わたし達自身の持つ筆 の大きさ、描く曲線を規制し、その動きに基準を付け限界付ける、有機的な身体の、空間に 対置された大きさである。時に壁いっぱいに展開される抽象のリズム、それは、文明の発 展の中で、その創りなす大小様々な空間的建築の中で、中心にあるはずであったが無防備 で、ほぼ裸のままかわらぬものとしてある、身体を強く意識させられる体験である。それ は、あくまで有機的な線で、時に拡大し,時に縮小しながら、しかしダンスのような確実 さをもって身体の大きさを空間に流し(ポアー),垂らし(ドリップ)提示し続ける。内向き、 、 、 、 の飛び散る曲線(スパッター)。その反復は、ほとんど内向きの、自殺、進歩西洋史観に彩 られた一方向の歩みに抗して、歴史を円還させようと、始原へと解体させようと16するかの ようだ。 バーネット・ニューマン 巨大なるものル ・ コ ロ ッ サ ルの崇高 「だれかが私の絵画について言ったうちの最良のものは、私の絵画の前に立ったとき、自分 自身のスケールを自覚するということだった。・・・つまり、私の絵の前の観客は、彼〔観 16 実際、ポロックは、インディアンの芸術と風土に深く感銘を受けていた。(『アメリカ抽象表現主義の名 作展』p34高橋幸次)

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客〕がどこにいるかを知るのである。17 巨大なるものル ・ コ ロ ッ サ ル18。私たちは、身体へ連れ戻される。作品の純粋な物質性がひきおこす逆照 射、物質としての自らの身体性の喚起。 表象の場に現れた意味にならない意味、すなわち、テクスト外のテクスト。それが現れ るのに、ここでは、作品のスケールが、作品の身体が、空間にひとつの意味を作用させ、 閉じられた物語の開かれを担う。 「私はサイズを超えること、もっとうまく言うと、サイズを克服することが問題だと考えて います。我々の世代から始まって、巨大な絵を描いてきた画家はたくさんいます。しかし サイズは充分ではありません。・・・どんなに大きくても、基本的にスケールの小さい絵が あります。・・絵画の本当の問題は、画家のスケールのセンスです。(略)環境から絵画を分 離することに成功するなら、それだけでいいことです。」 カントのテクスト、「崇高の理念にとって必要な、自然における事物の量的判定について」(第 26節)に、デリダの加える考察19をここで引くなら、 崇高の事例は「技術的所産」の領域に求められるべきものではない。それらの所産は事実、そう いってよければ、その形態と寸法とを規定する人間の尺度によってつくられている。そこには、 人間である芸術家の操作が、一つの目的を目指して働いているのであり、それは規定し、定義 し、形を与えるのである。輪郭を定め、形態と大きさを縁取ることによって、それは測定し、 支配する。しかるに、崇高なるものは、そのようなものがあるとすれば、それは境界をはみ出 ることによってしか存在しない。 (略)それゆえ、人間の技術の所産の内には、崇高についてのよい事例、「適切な」事例はない。 〔Ⅰ〕 もちろん自然の事物は、それがすでに規定された目的を内包しているなら、それもまた我々 をして崇高へ開かしめることはできない。崇高はたんに高いもの、高められたものではなく、 非常に高められたものでさえない。(略)あらゆる比較可能な高さよりも高く、比較を絶する、 高さにおいて測定不可能な大きさである崇高は、それの高さ自体を超えた、過度にー高くなる ことであるのだ。(略) 〔Ⅱ〕 「さらに高くなること」が、ただ、ある種の自然の光景においてのみ、感知され、その理念を誘 発し、それを動機づけし、惹起するのはたしかであるが20(略)しかしそれは、「大きさ」を、そ れでもなお尺度に挑戦し、手や目の支配を超え、いかなる有限な操作にも委ねられない大きさ

17 『Interview with David Sylvester』1965 ,BNp257

18 ジャック・デリダ『絵画における真理(上)』(高橋充昭/阿部宏慈)法政大学出版局6章、巨大なるものル ・ コ ロ ッ サ ル への考察を踏まえている。 19 同著 同箇所 p197−200 20 ニューマンが語るツンドラの風景の感動、「彼が観客に要求するのは、彼がツンドラについてもっていた ような4つの水平線を含んだ空間の新しい感情を絵画から受け取ってほしいということである。」(『神話 なき世界の芸術家』多木浩二、p172)

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を、有しなければならないであろう。〔Ⅲ〕21 (注、記号は筆者) すなわち、テクストー内において、私たちは崇高を目にすることはできない、それは、境 界をはみ出ることによってしか存在しない。(この論文で基礎的な構図となる、テクストー 外、物語の開かれ、である。)〔Ⅰ〕自然が、自然を超えた崇高を提示することはできない、 〔Ⅱ〕それは、自然の「大きさ」といったものを超えた、発見され、創出された「大きさ」でな ければならない〔Ⅲ〕。 ニューマンの作品のスケールによって照射される身体のスケールとは、それが自然的な意 味での大きさを意味しない。垂直に立つ ZIP に隠喩される、立つもの(立ち、歩き、踊り、 飛翔するもの、ニーチェのいった人間像)、としての、身体、それはしかし、意味が約束す る隠喩の世界を超越して、「手を加えないそのままの」22自然を、崇高の感情が指差すものを 明らかに分有するものとして、立ち現れるだろう。すなわち、「崇高は、自然の中にはなく、 ただ我々の内部にのみ存在するのであり、そこから立ち上がる巨大なるものは、我々から しか発しない」のであるが、我々は自然によってその感情を喚起される、そのとき、自然の 分有たる身体は、その境界でその分裂を統合する。巨大をそのうちに発生させた小さな身 体、人は自ら自身に恐怖する、有機の、死を刻印された、無限の体現者に。 始まりに刻印された暴力性―崇高さの裏打ち 「アトモスフェア」という言葉は、ニューマンにとっては否定的な意味を持っていた。23 面に均質におかれる色は、ロスコのように滲まず、互いの浸透を許さず、有機性をほとん ど寄せ付けない。発生する細かい意味の殺害、アトモスフェアは払拭される。 「眼が見えず言葉もないフェティッシュや装飾は、<自己>の恐怖を見つめることのできない 人々にしか印象を与えない。」24(ニューマン)恐怖。「現在の画家は、彼自身の感情や、彼自 身の個性の神秘に関わるのでなく、世界の神秘の洞察に関わっている。彼の想像力は形而 上学的な秘密を探求することを試みつつある。その限りで彼はサブライムに関わる。象徴 をとおして、その悲劇的な意味である生の根底的な真実を捉えるのは宗教芸術である」25 サブライム、崇高の感情に伴うのは、恐怖と魅惑である。J・クリステヴァは、おぞましきものア ブ ジ ェ ク ト 21 ジャック・デリダ『絵画における真理(上)』デリダは、これに続けて、これがすなわち、大きーすぎる こと、巨大であること、が実現するものであること、巨大なるものの法外さが付与する崇高について論を 進める。それは、パレルゴン、過剰なものが現出させる崇高である。

22 ジャック・デリダ『絵画における真理(上)』p200〔an der rohen Natur〕手を加えないそのままの

自然。「さらに高くなること」は、手を加えないそのままの自然において予示されるだろう。

23 『神話なき世界の芸術家』多木浩二p4

24 『Exhibition ob United States ob America』1965、BN・pp・186−187 25 『The Plasumic Image』1947,BN p140

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26からの離脱によって、あらゆる記号の発生する場所が許されたこと、そのおぞましきものア ブ ジ ェ ク ト は主体を、分離以前の状態へと魅惑し続け、そのことによる主体の恐怖をする。記号の下 地。原抑圧。27おぞましきものア ブ ジ ェ ク トはこうして、始原の暴力によって対象化され、昇華される。 「そのときアブジェクトは崇高さに縁取りされる。」28 芸術だけが、生存の恐怖、 、あるいは不条理についてのあの嘔吐の思い、 、 、 、 、 を、生きることならしめる表象に変え ることができる。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御としての崇高なものと、不条理なものの嘔 吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽なものと、である。

ニーチェ「悲劇の誕生」(傍点筆者) ニューマンの、作品は、まさに前者、制御によって暴力的ともいえる仕方で、均質な画 面を獲得する。ニューマンの生きた第2次世界大戦のアウシュビッツ、広島、さらに東 西冷戦の危機的状況のなかで、それは多木浩二氏がいうように、29「暴力の無化として のサブライム」であったともいえるし、しかしそれは芸術の言語でなされたゆえに、も っともかけはなれてはいても、それと同じ不気味な暴力性に彩られているともいえるだ ろう30。意味の殺害と、ある全体性の開示。いずれにせよそれは、言語をもつ人間の根 源的な暴力を記述している。 アブジェクトと崇高さは行程の同一時期を指すのではないが、その存在は同一の主体、同一の 言説に依存している。というのは、崇高もまた対象をもたぬからである。星をちりばめた空が、 空の沖合いや菫色の光の縞を放つステンドグラスのように私の心を魅するとき、不意に姿を現 わし、私を包み込み、私が見聞きし、考える事物の彼方に私を連れさり、追いやるのは、織り合 わされた感覚、色彩、言葉、愛撫、または微かな触れ合い、香り、溜息、律動といったものであ る。崇高な《対象》は底なしの記憶の激情の渦に溶解する。〔Ⅰ〕 26 J・クリステヴァ『恐怖の権力』でなされた考察。おぞましきものとは、母子融合期の母の身体であり(主 体はそこから離脱してゆく、これはプルーストのテクスト分析のなかでなされた)、また、サルトルの『嘔 吐』で、吐き気を催させる対象であり、(『クリステヴァ』で西川直子氏が言うように、意味のはりめぐら された世界の中に突如むきだしにされた醜怪なモノに直面したロカンタンが反射的にもたらした吐き気屋、 日常生活の様々な場面でおぼえる吐き気ほど、おぞましきものの棄却の機能を分かりやすくかたったもの はないだろう。p256参照)セリーヌのテクストにはいりこむ死体や、腐敗のイメージにつながってゆ く。 27 フロイトの用語。クリステヴァの概念も、これに基礎をおいている。オブジェクションの概念も、バタ イユに基礎をおいている。 28 J・クリステヴァ『恐怖の権力』 29『神話なき世界の芸術家』p139−147、多木浩二氏 30 広島をつつんだ、白い死の閃光と、あまりにかけはなれ、対照となすがゆえに思い起こされる『アンナ の光』(図2−2)の、カドミューム・レッドの、過剰な光。「過剰な光は・・すべてのものを消してしま う」(ローレンス・アロウェイ、『神話なき世界の芸術家』多木氏の引用によるp169、)

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記憶こそが、階梯から階梯へ、思い出から思い出へ、愛から愛へと,この対象を目眩めく光言 に、そこに存在するには,自分の姿を私が見失ってしまうような光源に,転移するのである。 私がその対象を見分け、それを名付けるや、崇高なものが堰を切ったように数々の知覚や言葉 を呼び起こしー崇高なものは常にすでにこれらを呼びおこしていたのだがー、この知覚や言葉 が記憶を限りなく膨らませるのだ。〔Ⅱ〕そのときわたしは出発点を忘れ、《私》が存在してい る世界からずれた、二次的な世界に運ばれる。−歓喜と喪失。知覚と言葉の手前ではなく、い つもそれらとともにあって、しかもそれを突き抜けてゆく崇高なものは、われわれを拡大、超 過し、われわれをしてここに投げ出されたものとすると同時に、彼方にあって他者であり、輝 けるものとする、過剰である。隔たり、不可能な閉域、挫折した<全体>31、喜悦、つまりは魅 惑である。〔Ⅲ〕 崇高の体験。いわばニューマンの光は地となって、膨らむ記憶、意味の過剰を受け入れる 〔Ⅱ〕、場所である。(突き抜け、我々を拡大し、超過してゆく〔Ⅲ〕)対象を持つ、すなわ ち、意味の内部(テクストー内)において記号的意味を扱うものでなく、〔1〕崇高さは、 おぞましきものア ブ ジ ェ ク トのようにそれ自体が完結されたものとしてあり、テクストを発生させなが らそれを膨らませて行く。

不透明なものとしての身体

グロテスクな身体は太陽や星と直接につながり、黄道12宮を内に孕み、コズミックな秩序を映 し出す ミハイル・バフチン 「極度にテクスト化した身体」32―崇高の絶対的な不在 31 前に全体性の開示と述べたが、崇高が挫折した<全体>であるというクリステヴァの言は、考察する必要 がある。たとえばここで、アド・ラインハートの、『抽象絵画』(cat,,no,25)(図6)といった作品をニュ ーマンと比較してみよう。等身大よりやや大きいスケール、ほぼ単一の黒によって塗りつぶされたこの作 品は、このスケールで、黒である必要があった。すなわち、ZIP―垂直の線の、作品の崇高さに与える効果 は、改めて大きいといえる。 前出の多木氏の本の引用によれば、グリーンバーグは、ニューマンの直線はフレームのもじりであると いう。絵画の縁は内側に反復される。(p108)この効果は、限定性を取り払いより大きなものを提示す ると同時に、立つ身体の隠喩であり、さらに同一色の断続と、空間の不均衡を語っている。挫折した<全体 >(クリステヴァ)、「人は自ら自身に恐怖する、有機の、死を刻印された、無限の体現者に。」(前述) 32 フランシス・バーガー『振動する身体―私的ブルジョア主体の誕生』末寛幹訳 ありな書房p126

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「コスチュームも肉体もほとんど透き通るようにしたかった」33というウイリアム・フォ ーサイスの舞台『ザ・ロス・オブ・スモール・ディテイル』のエピグラムに、三島由紀 夫の『奔馬』からの引用がある。 時の流れは、崇高なものを、なしくずしに滑稽なものへ変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。 もしそれが外側から蝕まれて行くのだとすれば、もともと崇高は外側を覆い、滑稽が内奥の核を なしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積もった にすぎぬのだろうか。三島由紀夫「奔馬」 滑稽と崇高が、どちらがより根源的か、ではなくて、ここでは、崇高と滑稽が裏表をな していること、塵のように解体されたフラグメントが、舞台上に降る雪のように、実質を 欠いて、細部の描写を欠いて、圧倒的な強度をもって流れてゆく。「崇高の絶対的な不在」(小 林康夫)34。先に言ったクリステヴァの、崇高さの体験が、この作品を貫いていないことは ない。それは、実質を表象に無化してゆく、絶対の空間を形づくるのに寄与し、その表象 のうちにまぎれこむ。自然の分有として、テクストー外に感知されるものであった(ポロ ック、ニューマン)身体は、テクストの真っ只中へ置かれ、テクスト化される。 「主体が主体となるのは、もはや近代以前の<スぺクタクルとしての身体>の一部となること によってではなく、身体をテクスト化するような、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、ある表象様式を通じてしかない。肉体は姿形 を喪失し、表象はついに代理作用だけを帯びるようになり、有形の身体から距離をとって一連 の意味作用を支えるだけとなる。近代の意味作用の様式の下で、身体は、デリダの言葉をかり るならば、「「代補、 、」」となったのである。身体は、完全に現前するわけでもないし、完全に不在な わけでもない。身体は封じこめられ、無視され、言説から排除されながらも、目に見えるよう に周辺にとどまり、自分を排斥した空間をなおも悩ませている。」35(フランシス・バーガー『振 動する身体』傍点筆者) 身体を、表象によって光に中に、いわば「影の落ちない透明な花」(オクタビオ・パス)とし て消し去ってゆくこと。崇高は現代において、ほとんど場所と化した絶対性としてあらわ れる。崇高が基礎付けた全体であるところの、崇高の不在である。しかし、身体はその場 所に、代補された、表象の身体に完全に一体化することはできない。周辺に、外部として あり続ける不透明な身体の立ち現れ、それこそが、テクストを解体と創造の場所へ回帰さ せ、テクスト内部の透明な言語活動の終わることなき連鎖、白夜の歩行を休止させる現代 33『身体と空間』(筑摩書房)p34−49で小林康夫は、この作品を評論している。 34 同著 同箇所 35 フランシス・バーガー『振動する身体―私的ブルジョア主体の誕生』末寛幹訳 ありな書房p126

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の崇高を開示するのではないか。 「新しい身体のカノンの特徴は、それが、完全にできあがって完結、 、 した、 、 、厳格、 、 に、境界、 、を、 区切られた、 、 、 、 、、外、、から、 、観察、 、された、 、 、、混じりけ、 、 、 、が、無くて、 、 、ともかく、 、 、 、個性、 、を、よく、 、表現、 、する、 、身体、 、に基づい ているという点だ。そこではあらゆる突出したもの、目立つもの、鋭く造形されたすべての四 肢、すべての奇形、変形、つまり身体をその限界を超えて外へと駆り立てている一切のものが 遠ざけられ、削除され、覆われ、弱体化させられている。まったく同様に、身体の深みへと通 じるすべての開口もふたをされてしまっている。」(ミハイル・バフチン 傍点筆者)36 均質な、ディティールを喪失した、光に満たされた、その本質性を充分に感じさせる、 空間。ポストモダンが解体させた構造の、崩壊した跡地には、身体を消し去る磁場が働 いた。それは、神なき後の崇高や絶対を求めての、身体との取り組みであったのだろう。 それは、代補、記憶に満たされた身体を、無の上に成り立つ表象の上に置きなおす作業 であった。それは歴史につながる身体の死、深みという、崇高という、垂直性の否認で あった。が、しかし、身体はその空間を越えて、生き延びるだろう。生き延び、閉じら れた物語テクストを開くものとしての身体、わたしが問題にしているのはそれである。 バフチンは、グロテスクでない身体は「ただ一つの身体」だけから成り立っていて、その 「一つの生を打つ打撃は〔略〕新しい生を何も生まない」のにたいして、「グロテスクな 身体を見舞う出来事は常に身体と身体の境界で、いわば二つの身体の界面ででもあるか のように遂行される。一つの身体は死を与え,他の身体は誕生を与える。二つの身体か らなる形相においてそれらは融合している。」このグロテスクな身体こそが、「身体」を 「個性」や「性格」の係数と化して、いわばテクストへと透明化してしまうこと、すなわち 近代に特有の「代補の身体」の成立を妨げるという37 二側面の、グロテスクな身体 J・クリステヴァは、主体を二つの側面からなる複合体としてとらえる。主体=記号、す なわちテクストの内部に完結する主体<サンボリクス>と,身体性おぞましきものオ ブ ジ ェ ク ト に開かれ た<セミオティクス>である。主体=記号のモデルは、フッサール現象学の超越論的自我 や構造主義などに求められる。静態的に主体(=自我、構造)をとらえ、その主体が定立 にいたるまでの過程を外へ追いやるやり方である。ソシュールのアナグラムやフロイトの 無意識の発見を継承するものとして、クリステヴァは、主体の内部に、この外なるものを 引き入れる。定立以後、所与のものとみなされた記号=主体(サンボリクス)は、常に無

36 Mihail Bachtin,Die groteske Gestalt des Leibes,In;Das Groteske in der Dichtung,Hrsg von Otto

F,Best,1980 Darmstadt p199

37小林康夫・松浦寿輝編 『身体』 東京大学出版会 「ヒステリー的身体の夢」石光泰夫p15の,バフチ

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意識や物質的外部からの運動(セミオティクス)に脅かされ、結びつき、貫かれているか らだ38 主体とはつねにセミオティックにしてかつサンボリックであるのだから、主体が産み出すどんな意味 体系も、「もっぱら」サンボリックであることも、「もっぱら」セミオティックであることも不可能であ って、相手への借りのしるしを免れることはどうしてもできない。 J・クリステヴァ『詩的言語の革命』39 両者の境目、欲動が記号を解体しながらつきあげる場所、いわばカオスモス( カオス/ コスモスー丸山圭三郎)の場所に、創造の主体がある。創造の場所たるセミオティクで,サ ンボリックな主体とは、バフチンのいう、二つ身体をもつ主体と 相関するものとして捉え られる。 死やおぞましさを禁止の対象としてそれを対象化し、それから離れようと一方向の展開 を見せるのでなく、死やおぞましさをそのうちに内包させた二重の身体、バフチンの代補 を妨げる身体とは、「死を与え,生を与えるもの」であった。たとえば、それは,「愛を運ぶ死 者の足どり」40、大野一雄の舞踏にみることができる。 死と生,男性と女性、化粧した裸、滑稽な崇高 大野一雄が、白塗りの化粧をし、女装して舞台に現れるとき、虚構に仕立てられた衣装 の滑稽は、その崇高にとってかわられる。文化は、化粧した自然であることを、化粧は(文 化は)、その滑稽さを自然性に譲り渡していることを、哀しみという、人間の存在形式を感 情で露呈させるのだ。その姿は、男性であって女性であり、老いた胎児であり、死した生 者であり、そのあらゆる両義性ゆえに,それはグロテスクな、美しさを放つ。 白塗りとは、光の受肉である。フォーサイスなど、コンテンポラリー・ダンスの空間に 満ちていた光は、皮膚表面に集まり、空間―外の闇は、舞台上に、空間内に浸入する。準 備された白い表象の皮膚は、グロテスクな滑稽さを刻印されながら、そうであるがゆえに 美しく闇―外部に映え、表象内部の身体は、オブジェクシオン、つまり対象化されること なしに、強いカオスを負ったまま、全体として外部にさらされる。踊りは、もっとも微弱 な力でなされる。ここで,アドルノの「客体の優位」41を使うなら、外―闇が優位に、うごめ いていて、主体はむしろ肩をおとし、弱いものとしてそれに懐かれようとする。父的神の いまだ影が落ちる西洋にはない、闇、神によって名指されることのない外部が、名指され ることなく、しかし、このように生きているのをみるとき、私たちは舞踏Butho について 語ろうとする。 38 J・クリステヴァ『詩的言語の革命』原田邦夫訳 第一部理論的前提 ギリシャ語のセメイオン=痕跡、 指標、予兆、証拠を踏襲した概念。サンボリクスに記載される意味にならない欲動、リズムや言い回しを セミオティクス、それの流入をうけたシンボル秩序をサンボックという。 39同著;p・13−14 40大野一雄 『舞踏譜』思潮社p46 41 細見和之『アドルノ』講談社 主体の優位の解体、p186

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大野一雄が踊るとき、そこに現れるのは、サンボリックを受難したものとして、肉体を 接着点にして出現したセミオティクな「魂」である42。大野一雄の舞踏において、「肉体のエ クリチュール」(マラルメ)は、セミオティクスにみたされたアナローグな線を保つ。そのデ ィティールこそが日本の発生させたジャンルとしての舞踏を成り立たせるものである。バ レエのようにサンボリックな振り付けがなされないため、ひとつの動きからひとつの動き へのあいだの時間的な間隙におこる意味性の殺害から免れるのだ。 異邦性によって保たれるセミオティクス 父なる一神教の歴史がロゴス中心の西洋の歴史を形づくったのに対し、父なる神の観念 がなく、閉じられた島国を舞台に単一の言語文化を発展させてきた日本は、サンボリック な主体の感覚が希薄である。セミオティックな主体は、「魂」や、「おもい」という実体性の 厚みをおびて、逆にサンボリックは定立の際のセミオティクの殺害を表象するだけの薄さ を保って展開せず、「こと」(出来事)を「ことの端は」として記述する、またセミオティクな身体 に刺青されるように受難される。共有された闇、自然とつながったセミオティクな情緒の 中に主体は沈潜し、サンボリクをかすめてまた沈潜する。能や歌舞伎が言語定立の際の否 定性をひきうけてみせるのは、セミオティクスと深く結びついたコーラ43、風景の現前を背 後に据えているからだ。世界最短の詩の形式である俳句、短歌は、セミオティクがほとん ど滅ぼしそうになっている、サンボリックしての言語に、逆にもの性を付与する。セミオ ティックに磨かれた沈黙の記号性の浮上、それはサンボリックが影に、セミオティクスが 光に反転し、またその逆も真であるような、言語の本質的場―無の充溢を開く瞬間なので ある。母語はひとつの身体テクスト、閉じられたサンボリクスのひしゃくが汲み、実体化 することのできたセミオティクスに他ならない。単一言語圏で、繰り返し身体化されたサ ンボリクス、その絶対化にともなうセミオティクスの活性化。 舞踏の表現するセミオティクスが自らの異邦性を標榜することによってその強度を保っ ている面は否めない。しかし、その現出させているものは異邦性をこえた何かである。 身体に含まれた死の崇高 名付けられえぬ、個の死 バタイユ 能の道行きが、彼岸からの通行を意味したように、舞台上の身体は死者の身体であった。 身体は異邦からの来訪者であり、その与える崇高は、死の崇高である。テクスト、歴史を 共有する一連のコンテンポラリーダンスとは違った仕方で、異邦的なセミオティクな主体 によって受肉された身体(思えば、ニューマン、ポロックも、ヨーロッパの歴史の重みか ら解放された、ヨーロッパのテクストにとって異邦の者たちであった)は、記号性にから めとられえない、記号的ではない物質性であった。それ自身が死を含む物質として、セミ 42 大野一雄に、「魂が肉体という宇宙を羽織って」という言葉がある。魂=セミオティクスは、身体をまず はじめに他者とみなし、その身体をはおって,サンボリクスの舞台へ現れる。 43 クリステヴァ,デリダによって使われる概念、テクストを成立させる場所、そこに働く力をさす。

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オティクス/サンボリクスの接合点に身体が置かれるとき、そこにおこるのは内部に閉じ られた無限運動の開かれ、個の死を根拠として凝集するある絶対性が、相対性を本質とす る言語運動のテクスト内に空間的延長としてあらわれる、本質的なドラマなのである。 滑稽な美しさ。始原と先端。両義性と深く結びついた現代の崇高に、その俗なるがゆえ に、身体が聖性をおびて発見される。それがテクストにとって不透明であるゆえに、身体 はある崇高の立ち現れを担うのだ。ベンヤミンのいう作品のアウラは、複製技術の(テクス トとはまさに複製技術的だが)時代に、別の仕方で発見されなければならない44。それは、 身体に隠喩される、テクストー外の開かれしての崇高、記号性を免れ得ないところで展開 される、非―記号としてのアウラである。それは,有限であるゆえに無限を求める人間の、 崇高を求める祈り自身の立ち上がりである。崇高は感受される。しかしそこに、身体(= 死)がないことはできない。その意味によって、<挫折した全体>(前述,クリステヴァ) は、テクスト内部の擬似的に実現した不死、全体をはなれ、挫折すること自身の崇高を感 知し始めているのである。 崇高とは現代の避難所である。そそり立つ断崖、終わること,はじまることの出来る,垂直の意図、ひらかれ ることの出来る人間の営為の全体性、宗教のない時代に生き残った記憶の食べ物、言葉なき言葉、うむを いわせぬ恐怖が同族の恒常的な石礫、資本主義の砂にまで解体された価値を忘却の彼方へ押しやる、広島 の、ホロコーストの恐怖でない、それはひとつの言語による救済、力による救済、微分化された意味によ る白夜の歩行を休息させる、失った神の影、20世紀、神にとってかわった言語の太陽の非情な照りにお おきな木陰を提供する、すなわち女性的生産の限りない鎖から女性を解放する、快楽の死を与える男性性 の、崇高なる神の反復、記憶が許した避難の砦なのである。 −ニーチェに、バーネット・ニューマンによせて 44 ヴァルター・ベンヤミン『近代の意味』浅井健二郎編訳 ちくま学芸文庫p585-629

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2 章

主体の後に誰が来るのか

記号論のテクスト内部にある非―記号的主体の探求 《外国の》諸言語が、私の水源となり、私を揺り動かして、私の言語を形作っています。それらは、《外国 の》ものである異質さゆえに、よそから聞こえてくる音楽として、貴重な警告として、私のなかに入って くるのです。「すべてがここにあるわけではないことを忘れてはいけません」「あなたが一片の偶然、一粒の 偶然にすぎないことを喜びなさい」 『世界の』中心などないのです」「起き上がりなさい、数え切れないほ ど多くのものをみなさい、言い表せないものに耳を傾けなさい」 さまざまの言語は、私の言語へ以降してくると、愛情と恐れと悦楽に浸りながら、互いに理解しあい、 呼びかけあい、ふれあい、変質しあい、そしてもろもろの差異が沸騰するなかで、互いの人称代名詞を一 緒に混ぜてしまいます。 あらゆる言語の中に、私が話す、あるいはに話しかけてくる一つの言語があります。これは、詩人によ って話されるとき、どの国の言語のなかでも鳴り響いている、特異であると同時に普遍的な言語です。各 言語の中に、乳と蜜が流れているのです。 エ レーヌ・シクスー

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方法としての概念措定、記号論の主体内部にある主体 一切の事象を記号という見地から解体、再統合する、記号論の可能にした「唯一の表意構 造の主体」は、まさにその内部に、記号によっては回収され得ない何者かを原理的に抱えて いるのである。(以下、クリステヴァの主体概念にみる) ソシュール言語学が、フロイト以降の精神分析が可能にした主体の概念45に依拠してはい ても、読み解かれうるものとしての主体(その構造化された無意識や)の内部にあって、 読み解かれ得ないと自認する主体の姿を暴き、それが創造性に向かってゆく過程を記述す る。それには、その創造する主体を静態的な記号との対立によってあらわれる動的な運動 (記号を破壊し、主体を更新してゆく脱構築の)としてだけではなく、記号との関係をな しにしても成立してしまうような、それ自体にある実体性(それは、魂、想いセ ミ オ テ ィ ク スの純粋性であ りうるか)をもたせて語る方法がとられるだろう。つまり、記号(=主体)を外部として成 り立つ主体の、方法としての措定である。それは、進歩史観的に語られる芸術の歴史とは 離れて、しかし無視できない根源性をまとって、ひそかに生まれ消えてゆく作品群への敬 意であり、西洋のまなざしから垣間見られ翻訳されて位置付けられた、周縁の言語圏に住 む主体46の、自らの形象の告白でもある。 コーラ概念を中心にクリステヴァを読み直す 浅田彰は、『構造と力』において、等価交換によって成り立つスタティックな構造に、変動 をもたらす「生産」の概念を導入したクリステヴァの功績を認めると共に、セミオティク/ サンボリクの2項対立に基づく余りに「男性的な」原理の概念装置を批判する。デリダが、 初めから差異と同一性や共時態と通時態の双方向性を飛び越えた差延化の戯れを語ってみ せたのに対し、クリステヴァは差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千 言万語を費やしている、と。 ところが、その必要は確かにあったのである。「コーラ」概念を軸としてそれらの概念装 45 言語は、言語以前に実体として存在する事物を名付けるのではない。言語を離れていかなる実体も存 在しない、差異によって成り立つ言語のみが実体である。(『ことばとはなにか』丸山圭三郎) また、「精 神分析の手段とは、個人の諸機能に意味を与えるものとしての言葉の場である。精神分析の領域とは、主 体の超個人的現実としての具体的な言表の領域である。」(ラカン『Ibid:pp62-63』) 46 歴史―外にいるもの。 翻訳文献のうちに思考し、母語の響きはその思考に反映されない。クリステヴァ が、デリダが(「フランスーマグレブ人の」)異邦性を刻印されていたように。

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置を読み直すと、近代以降の主体が外部に追いやった身体―物質が、中心の課題として姿 を現す。デリダの実践、言説に通底して現れる「コーラ」、軽やかに引き継がれた「基底材」 は、その外部とどのような接着点を形成するのか、差延される内部の言説において、外部 的な「身体」がどのような位置を持ちうるのか。「脱自」的なエクリチュールの展開の中では 呼ばれえなかった身体―物質との関係から、より外部へー私たちは向かってゆくことが許 される。 クリステヴァの思想体系の中で、重要視されることなく見過ごされてきた「コーラ」とい う概念を中心に、主体概念を読み直す。ここで私は、記号論を批判的に継承するものとし て位置付けられ得るだろう。 運動性に満ちた主体の場所―創造の欲動 セミオティクス、サンボリクス 主体=記号のモデルは、フッサール現象学の超越論的自我や構造主義などに求められる。 静態的に主体(=自我、構造)をとらえ、その主体が定立にいたるまでの過程を外へ追い やるやり方である。ソシュールのアナグラムやフロイトの無意識の発見を継承するものと して、クリステヴァは、主体の内部に、この外なるものを引き入れる。定立以後、所与の ものとみなされた記号=主体(サンボリクス)は、常に無意識や物質的外部からの運動(セ ミオティクス)に脅かされ、結びつき、貫かれているからだ47。ここで可能となったのは、 例えば、「セミオティックな主体」という言い方である。近代の知がうち立ててきたような 理性的主体、「思惟する我」内部での自己展開では呼ばれえなかった狂人や子供が、分析の 対象になりえた、というより、語る主体であるとみなされえたのだ。ラカンのいう鏡像段 階以前の幼児の動性に満ちた発声や、失語症患者の沈黙、他に母国語を持った異邦人の、 語法としては充分ではありえない発話なども、語る主体の形態である。そしてもちろん、 セミオティクスの動性の只中にいるもの、「セミオティックな主体」とは、芸術活動の主体 である。詩や小説のテクスト解読者としてのクリステヴァが、フロイト、ラカンの精神分 析の理論に満足せず、出してきた理論の功績のひとつは、芸術の運動性に満ちた主体の場 所を名付けえたことではないだろうか。 動物と子供 自然という内部、外部 かつては自我は畜群のうちに隠れていた。そして現今では自我のうち になお畜群が隠れている。 ニーチェ 47 J・クリステヴァ『詩的言語の革命』原田邦夫訳 第一部理論的前提 ギリシャ語のセメイオン=痕跡、 指標、予兆、証拠を踏襲した概念。サンボリクスに記載される意味にならない欲動、リズムや言い回しを セミオティクス、それの流入をうけたシンボル秩序をサンボックという。

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六本木ヒルズに今秋開館した森美術館「ハピネス」展においては、「動物」や「自然」などの 題材を要素が使われた作品が目立った。ジェフ・クーンズの『熊と警察官』は、自然の野 生を体現する大きくて陽気な熊が、彼よりも小さな警察官―法の暴力の肩を抱く。外へと 追いやったものが、楽園を回復するのだいう直観、「幸福」の使者としての自然性。 『Raj Paket』(勅使河原三郎)では、ウサギが囲い込まれたしきりの中で、舞台上に繰 り出される強い音と光を恐れ、群れになってかたまり、また単体で跳ね、逃げ出そうとし て、ダンサーのきっぱりとした動きとの対象をなした。何かに憑かれたような、ヒステリ ー性の激しい動きをする小柄なダンサー(子供)が死によって切断されるのは、「父」に捕 らわれた瞬間だ。 子供や動物といった要素が、舞台や作品に他者として織り込まれるとき、身体のそれら の要素への親和性はむしろ決別した淵の、不可逆な緊張、イロニーとして現れるか、笑い や弛緩などの効果をもたらす。記号としての動物や子供は、「幸福」や「不安」などの純粋性 を表象し外部に自己性を延長するものとして、作品自体が逃亡をはかる。 奈良美智の描く子供の眼差しは、まっすぐに、ひしゃいでいる。目つきの悪い子供。そ れは、かわいい子供、すなわちサンボリクスを違和なく受け入れ秩序に同化している、大 人側から語られる子供ではない。大人のようで子供であり、子供のようでどこか諦念を感 じさせるそれらは、サンボリクスに身近らの違和の所在を問い続ける。供される、きのこ 類の、子供たち。それは生えたのだろう、現代の構造の崩れたのきしたから、日陰の雨上 がりに、地下に分裂するリゾームのようにもあれないで、顔を出す、いまだ単一のサンボ リクス、太陽の余霊が浮かぶ、白昼の空に、瞳をひしゃげて。彼らの語りは、その目の傾 きによって、つまり視点を同じくしないのだという、最初の宣言によって示される。 しかし、呼び求められた神託は永遠に黙らなければならなかった。 ただ一人だけが、世界にその神秘を解き明かせるのだった。 泥の子供たちに魂を与えたもの。 ネルヴァル「幻想詩集」 ヨーゼフ・ボイスのパフォーマンス、《死んだ野ウサギに絵を説明する方法》では、金箔 を顔に塗った人(ヴォイス)が、死んだウサギを抱き、意味にならない言葉を話しかける。 黄金の仮面に表象されるサンボリクスー精神の、自然への暴力。 自然の側に積極的にあることによって、「自然/精神、歴史サ ン ボ リ ク ス」の狭間を際だたせ、両者の 境に風穴をあけようとするのは、近代以降の芸術がとってきた伝統的な一つの身振り48であ る。言語によって棄却されたものの側へ。否定的なものへの滞留。ヘーゲルを批判的に継 承するもの。 物質において、物質によって表現しようとする芸術の営みは、外部に面した破砕閃光49 48 ここで詳しく言及はしないが、アースワークやモノ派などにそれは顕著に現れると考える。 49 ジャン・リュック・ナンシー

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あり、認識や体制に伴う構造化を妨げるものとしての呪物を生み出しつづける。 死を避け、荒廃から身を保つ生命ではなく、死に耐え、死の中でおのれを維持する生命 こそが精神の命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定 的なものに目を背け、肯定のかたまりとなることで力を発揮するのではない。なにかを差し出されたとき、 それは無意味でまちがっている、といって、さっさとその、前を去り、安んじて別のものに向かうという のは精神の振る舞いではない。精神が力を発揮するのは、まさしく否定的なものを直視し、そのもとにと どまるからなのだ。そこにとどまるもののなかから、否定的なものを存在へと逆転させる魔力が生まれる のである。 ヘーゲル 『精神現象学』 記号の物質性が招くサンボリクスの優位性 セミオティクスーサンボリクスは、互いに押し合う双方向からの力のベクトルの狭間に 主体をささえる、一つの主体の二つの面である。 主体とはつねにセミオティックにしてかつサンボリックであるのだから、主体が産み出すどんな意 味体系も、「もっぱら」サンボリックであることも、「もっぱら」セミオティックであることも不可能で あって、相手への借りのしるしを免れることはどうしてもできない。 J・クリステヴァ『詩的言語の革命』50 両者の境目、欲動が記号を解体しながらつきあげる場所、いわばカオスモス( カオス/ コスモスー丸山圭三郎)の場所に、語る主体がある。パラグラマティクに成り立つ双方は、 離れても成り立つような実体ではない。言語は実体を名辞しているようでいて、言語のな かには差異しかない(ソシュール)、互いの関係の網目だけが実体であるという記号論を成 り立たしめた大前提は、その垂直構造、言語主体の発生時においても同じである。 両者のパラグラマティックな関係はよしとして、しかしここに、記号論の万能がまきお こした落とし穴があるようにおもわれる。記号は、非―記号をまとって現れ、逆に非―記 号は、記号をまとってあらわれる。両者は、互いを離れると霧消してしまう、実体性のな いものであるにかかわらず、記号は、それ自体が言語の物質性を持つのに対し、非−記号 は運動性としてそれに表されるだけだ。これでは、記号―主体(サンボリック)は物質性 に支えられたある実体性をもっていて、非―記号の主体(セミオティクス)はそうではな い、という錯覚に陥ってしまう。サンボリックの側から、そこに顕在するセミオティクス を扱うという仕方が、セミオティクスを構造化された無意識や、記号性からのずれという 形で語ることが出来ても、それ自体を二次的な、サンボリックへの「過程にある主体」51とし 50 同著;p13−14 51 西川直子著『クリステヴァ』セミオティクな動性に突き動かされて意味にならないうわ言をいう主体と

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ての位置付けを招いてしまう。そして、実体化されたサンボリクが「我々のテクスト」、パ ロールの場の意味の単一性を保証するものとなる。 サンボリクスにロゴスの原理が付与したと同程度の実体性を、セミオティクスにも与え て語ること、それは「本来想像的なものとしてある主体」52を理性の側に閉じ込めず、パラグ ラマティクに成り立つその本源性を取り戻すうえで大切である。セミオティクスに実体性 を付与するのためには、概念操作として、セミオティクスーサンボリクスの2項を成り立 たせる場所としての第3項が必要となる。 ここまでたどりついて、しかし第3項はクリ ステヴァによって、すでに準備されていた、それは、「コーラ」という概念である。 場所的主体 コーラ 母なる振動する容器 コーラという言葉は、プラトンの『ティマイオス』からとられたもので、生成するものを その中で生成させる、受容器をさす。生成の養い親であるコーラは、あらゆる形状、あら ゆる状態を身に受けることによって必然的にもたらされる不均衡状態のために、自分自身 が不規則にあらゆる方向へと動揺させられ、揺すぶられながら、同時に逆に中にあるもの をゆすぶり返す。そのなかにあるものは動かされ、絶え間なく選り分けられて、それぞれ が異なった場所へと運ばれていく。(西川直子『クリステヴァ』53 「エネルギー」の負荷であると同時に、「心的なもの」の標識でもある欲動は、コーラ、 、 、と呼 ばれるものを文節する。これはすなわち、激しく動揺しながらも規制されている運動態 のなかで、欲動とその鬱滞から形成される、表現的ではない全体性のことである。(クリ ステヴァ『詩的言語の革命』第1部54 セミオティックな欲動は、サンボリックの記号性に規制されながら、コーラを文節して ゆく。セミオティックから記載されたこの3項の関係は、コーラという全体性のなかで、 サンボリクではないもの、すなわち、非−記号的な主体を語ることを私達にゆるす。 母語 とその禁止 あなたは仔やぎを、その母の乳で煮てはならない (出エジプト記 23節19節) は、主体定立に至るまでの、プロセにある主体である。 52 西川直子著『クリステヴァ』p・300 53同著;p・126−129 54 同著;p14

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ハンナ・アレントは、ナチズムの手を逃れるためアメリカへ亡命し、英語圏での活動を 余儀なくされたが、その間つねに母国語への愛着と絶対的親近性を保ち続けた。(「何が残っ たか? 母語が残った」1964年放映された対談で、この宣言とともに有名である) J・ デリダは、この「つねに」あった母語、アレントをして「なにものもそれに代わることはでき ない」といわしめた母語について、そのしめされた単一性、代替不可能性を省察する。55 つねにそこに、という言語の時間、言語の場としての母(コーラ)、それは、あった、 、 、。す なわち、アレントにおいて発見されたのは、サンボリクスの別の体系が取って代わっても 代わることのできない仕方で創造性を与えつづける、ひとつの言語体系、母語という身体 化されたテクストであり、その代替不可能性と単一性に根拠が見いだせないところの、言 語とのひとつの狂気の関係である。 それはひとりの狂った母56、唯一無二なる我が家に住んで、しかし唯一無二の仕方で母で あることはかなわぬまま、自らがそれによって母であるところのものに狂っているような。 57(デリダ)つまり、定立にその根拠がなく、定立にその場所を与えつづける一者、サンボ リクスの禁止が働いているかぎりにおいて、母国、我が家という閉じられた場所であるか ぎりにおいて、主体と完全に一体化している場所的な主体、設定の不可能性を超えてそれ がある、と発見されるところの、狂気の母である。 人が自分の母語を忘れてしまうこともありえます。それは確かです。身近にいくつもその実例 がありますし、そのうえ、その人たちはさまざまな外国語を私よりずっと上手に話します。私 はあいかわらずとても強い訛りで話しますし、慣用語法で考えを表現できないこともしょっち ゅうです。反対に、あの人たちにはそれができるのですが、しかし、その際彼らが扱っている のは、そこにおいて一つの常套句が別の常套句を駆逐してしまうような言語です。なぜなら、 自分自身の言語においてなら発揮される生産力が、その言語が次第に忘れられていくにつれて、 はっきりと断たれてしまったからです。58 母語が可能にしていたのは、ひとつのセミオティクス=「自分自身の言語においてなら発 揮される生産力」である。外国語の置換は、母語の抑圧によってなされ、母語は忘却される。 しかし、多分、それは主体のどこかに潜行するのだ。コーラという全体性のなかへ、であ る。 単一言語圏で、繰り返し身体化されたサンボリクス、その絶対化にともなうセミオティ 55 J・デリダ『たった一つの私のものではない言葉』守中高明訳p・155―165 56 同箇所;「まさに彼女のためにしか唯一無二の場所はないという点において。

57 同箇所; 「場所〔place〕そのものの代替〔remplacement〕、場所の代わりに〔a` la place de la place〕。

すなわち、コーラ。代替の悲劇と法、それは、代替が唯一無二なるものにー置換可能な代用物としての唯 一無二なるものに代わるということである。息子であれ、娘であれ、そして息子であるか娘であるかによ ってそのつど異なる仕方で人はつねにひとりの母に狂っているのだ。」

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クスの活性化。母語とはひとつの身体テクスト、閉じられたサンボリクスのひしゃくが汲 み、実体化することのできたセミオティクスに他ならない。それを可能にするために常に はたらいていたコーラは、主体が単一のサンボリクスを離れて、別の体系からなるサンボ リクスを導入するときに顕在化する。別のサンボリクスが可能になる時に働くのは、異者 なる記号を受け入れ、位置付けていく、翻訳を可能にする水脈、コーラなのだ。 サンボリクスは、多言語の体系の中で相対化され、記号的単一性を破壊されて、コーラ という主体の場のなかで多数化される。単一のサンボリクスと結びつき、単一化され絶対 化されたセミオティクスも、崩されて更新される。コーラという同質性がとりまとめる異 質な多言語の存在によって、母語、 、 は禁止されているのだが、それが養った水底、ただ絶え 間なく文節されるコーラ、母なる場所だけが、ある狂気をもって主体に保持され、空間性 という物質化された実体性を持ってある、 、、ことができる。それは拡大され空間に飛散した 身体性、サンボリクスやセミオティクスをそのものが発生したところの母の乳で煮て(単一 性の保持)、それを自分と結託させ固定することのない、透明な物質的空間である。それは、 主体がそこに拠ることができる、私達に残されたひとつの母語なのだ。 記号の下地、ナルシシズムの集積庫としてのコーラ 私はおぞましい、すなわち死すべきものであり、かつ語るものである59 コーラの出自は、アブジェクション60に求められる。対象の棄却と、それに伴う記号の発生、 対象への恐怖と魅惑に宙吊りとなった、不確定な自己像が、自我を軸として対象との間を 揺り返し、欲動の鬱体を形成する。禁止された母の身体に代わって置かれた、透明な母の 身体61。そこでは物質性が禁止され、代補された物質、記号がとってかわる。 サンボリクスの内部においては、そこから由来したという以外においてコーラの成り立 つ根拠は見出せない、その点において、コーラは「狂った母」(デリダ)である。それは言 語による固有化―剥奪作用を受けていないわけでなく、むしろそれを最大限に働かせる主 体として、記号的ではない同一性を保ち、ひとつの統一を可能にする。言語の否定性を矮 小化することなく、それゆえに抑圧の位格、サンボリクスによるペルソナを生み出してし 59 J・クリステヴァ『恐怖の権力』p125 60J・クリステヴァ『恐怖の権力』でなされた考察で、バタイユの概念を受けている。 おぞましきものからの離脱ア ブ ジ ェ ク シ オ ン によってあらゆる記号の発生する下地、主体の場所が準備される。そのおぞま しきものとは、母子融合期の母の身体であり(主体はそこから離脱してゆく、これはプルーストのテクスト 分析のなかでなされた)、また、サルトルの『嘔吐』で、吐き気を催させる対象であり、(『クリステヴァ』 で西川直子氏が言うように、意味のはりめぐらされた世界の中に突如むきだしにされた醜怪なモノに直面 したロカンタンが反射的にもたらした吐き気屋、日常生活の様々な場面でおぼえる吐き気ほど、おぞまし きものの棄却の機能を分かりやすくかたったものはないだろう。p256参照)セリーヌのテクストには いりこむ死体や、腐敗のイメージにつながっていく。 61 「語らぬ」表象の場であると同時に「語るもの」であり、「おぞましい」と同時にそれから逃れ去る。普遍性 を刻印されているように見えるがそれは母という隠喩に託された個的な場所であるだろう。

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