分類学者:河野本道のアイヌ民族否定論(上)
著者
ウィンチェスター マーク
雑誌名
神田外語大学日本研究所紀要
号
10
ページ
59-89
発行年
2018-03-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1092/00001445/
《論 文》
分
タ ク ソ ノ ミ ス ト類学者
:河野本道のアイヌ民族否定論(上)
マーク・ウィンチェスター
一つの歴史的な経験を他の歴史的な経験から分離する完 全な障壁はけっしてなかったにもかかわらず、古典的帝 国主義の全時代をわたって存続していた黒と白、あるい は帝国の権威と原住民とのあいだの原点的、そして私に 言わせれば、 エ 抵抗をも含めてすべてを可能にした ネイブリングな 断絶を無視するのは間違 いだ。問題は、いずれの力を弱めることなく、多くの点 では相反するこの二つの着想を同時に念頭に置くことが 必要である。一方では、帝国の断絶の事実があり、他方 では、からまりあう経験があるのだ。―
エドワード・W・サイー ド )( ( はじめに―
河野本道と「行動する保守」 セ ン タ ー の 三 階 講 義 室 に、 「『 ア イ ヌ 民 族 は も う い な い 』 発言の真実 ― 金子やすゆき市議応援セミナー」と題した集会 があった。 「日本のため行動する会」 (「日行 会 )( ( 」)という札幌 の「行動する保 守 )( ( 」であり、日本会議北海道本部の実行部隊 を 自 認 す る 団 体 の 主 催 で あ っ た。 当 日 か ら 一 三 日 前 に、 ツ イッターで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよ ね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行 使 し ま く っ て い る こ の 不 合 理。 納 税 者 に 説 明 で き ま せ ん。 」 と呟き、後に大きく社会問題化し た )( ( この発言を行なった札幌 市議会自由民主党・市民会議所属議員(当時)の金子快之を 支 援 す る た め の も の だ っ た。 集 会 の 講 師 と し て 呼 ば れ た の は、旭川ペインクリニック理事長の医師・的場光昭(一九五 四 ~) 、 帯 広 選 出 の 北 海 道 議 会 議 員( 当 時 ) の 小 野 寺 秀( 一 九 六 三 ~) 、 そ し て、 文 化 人 類 学 者 の 河 野 本 道( 一 九 三 九 ~ 二〇一五)であった。 的場は、日行会代表の沢田英一(歯科医師)と同じく、西部邁責任編集『北の発言』または『正論』などの保守系言論 誌の定期寄稿者だったのであり、南京大虐殺否定論やナチス 賛美に立った著作を多数出版している展転社という出版社か ら『アイヌ先住民族その真実 ― 疑問だらけの国会決議と歴史 の 捏 造 』( 二 〇 〇 九 年 ) や『 ア イ ヌ 先 住 民 族、 そ の 不 都 合 な 真 実 11』( 二 〇 一 二 年、 改 訂 増 補 版 二 〇 一 四 年 ) と い っ た 歴 史改ざん主義本の著者であ る )( ( 。同本は集会では販売もされて おり、集会からたった三ヶ月後にはまた彼は重複する内容の 新 刊『 ア イ ヌ 民 族 っ て 本 当 に い る の? 金 子 札 幌 市 議、 『 ア イ ヌ、いない』発言の真実』を同じ展転社から出し た )( ( 。小野寺 は、二〇〇九年より道議会予算委員会などでアイヌ施策につ いての質問を重ねる中、所属する自民党をはじめ日本政府の ア イ ヌ 政 策 推 進 へ の 取 り 組 み の 意 に 根 幹 か ら 反 す る よ う な、 アイヌへの差別煽動表現や先住民族としての地位を否定する 内容の発言をネット上で発信し続けている。 そして、当時七四歳になっていた河野本道。大学紛争期に 彼 は 東 京 大 学 の「 文 化 人 類 学 コ ー ス 闘 争 委 員 会 」( 文 人 闘 争 委)メンバーで、 「『全闘連』の一員として、白いヘルメット をかぶってデモや集会に、安田講堂の封鎖維持に参加し、ま た 文 化 人 類 学 研 究 室 を 封 鎖 し て 一 年 以 上 も 立 て 籠 も り 」、 文 化 人 類 学 研 究 室 の「 無 期 限 ス ト ラ イ キ 」 に 参 加 し、 「 随 時 開 かれる闘争委員会」でいつも「最後に重々しく発言」をした と同級生が回想す る )( ( 。なお、彼は日本の人類学や民族誌的記 述 と 帝 国 主 義 や 植 民 地 支 配 と の 関 係 を 初 め て 批 判 的 に 検 討 し、研究倫理などに関する議論に敏感な世代の文化人類学者 の一人だったはず だ )( ( 。その河野本道が、このような保守勢力 や 差 別 主 義 一 色 に 染 め ら れ た 場 )( ( に た ど り 着 い た こ と に は、 いったい何があったのだろうか。否、河野本道こそが、この 集会までには、 少なくとも二〇年間をかけては積極的に 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 近年 ( そ し て、 特 に 二 〇 〇 八 年 の「 ア イ ヌ 民 族 を 先 住 民 族 と す る ことを求める国会決議」可決以来)に見られたアイヌ民族否 定言説の下敷きを地道に作り上げた当の人物ではないか。 彼 は そ の 生 涯 を 通 じ て ア イ ヌ を「 民 族 」 と 認 め な か っ た。 「 民 族 」 か 否 か。 そ れ 自 体 の 学 者 に よ る( し ば し ば 勝 手 な ) 判断やラベリングや承認には、それほど大きな損害はないと 思 わ れ る か も し れ な い。 実 際、 国 際 法 上 に 先 住 民 族 ( indigenous peoples )であるアイヌに関して重要なのは、彼 らが他のすべての「ピープルズ」と同じように、自己決定権 を有していることだ。しかし、河野がかつて登場していた本 の も う 一 人 の 分 担 執 筆 者 で あ っ た 冨 山 一 郎 が 言 う よ う に、 「 民 族 や そ の 文 化 を 語 る 作 業 は、 乱 暴 に 言 っ て し ま え ば、 自 分で自分の名前をつけるということも含めて、誰かが誰かを 名づけるという営みにほかならない」の だ )(1 ( 。このことの意味 を 河 野 は 軽 視 し す ぎ た と 思 う。 「 こ う し た 名 づ け る と い う 営
みは、その名前が表明される場のさまざまな権力的な力関係 や社会関係と無縁には、決して成立しえな い )(( ( 」のであり、そ れもしばしば人に 生き方まで強いることになる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。先ほどから 言 及 し て い る 集 会 で は、 河 野 自 身 が 言 っ た。 「 民 族 」 と は 「 デ タ ラ メ な ん で す ね、 生 き 方 と し て は 」 と 言 っ た の だ )(1 ( 。 一 方で、そしてこれも冨山が指摘している通りだが、こうした 「 さ ま ざ ま な 権 力 的 な 力 関 係 や 社 会 関 係 」 と、 例 え ば「 研 究 者 」 が 無 縁 に な り え な い か ら こ そ、 「 客 観 的 に 文 化 を 分 類 し たり定義したりすることではなく、誰がどのような場におい て、文化や民族を表明するのか、その主張される起点を具体 的 に 考 え る 」 と い う 行 為 は、 同 時 に、 「 今 あ る 人 と 人 の つ な がりを新たに組み直していく営 み )(1 ( 」のきっかけともなれるこ とを、河野はまったく理解できていなかったと思う。 八 月 二 四 日 の 集 会。 「 的 場 先 生 が 基 本 的 な こ と を 実 に 論 理 的にご説明してくださった」と自分が登壇する前の発言者を 褒めてみせた後に、河野が発表した内容はその数年間の著作 物やインタビューに書かれたことの繋ぎ合わせのようなもの だった。マスコミや、特に北海道新聞のアイヌに関する「偏 向 報 道 」。 社 団 法 人 北 海 道 ウ タ リ( 二 〇 〇 八 年 に ウ タ リ を ア イ ヌ と 改 称 し た ) 協 会 の 行 政 と の「 利 権 的 」 な 関 係。 「 御 用 研究者」の同協会への知的バックアップ。彼が一〇年間にも 関わった同協会のアイヌ史編集事業での経験。そこに自分が 編 集 員 と し て「 中 に い な が ら 」「 ア イ ヌ っ て 何 な ん だ 」 を 問 いかけ続けたこと。 「意地悪ですから、アイヌなら証明しろ」 な ど と 言 っ た こ と。 そ れ か ら、 「 人 種 」 や「 民 族 」 に 関 す る 話へと彼は進んでいった。 「 そ れ ま で 民 族 だ と か 人 種 だ と か こ だ わ っ て い た 時 代 か ら 脱 し ま し て 」、 河 野 は 人 類 学 者 の 帝 国 主 義 と の 協 力、 あ る い はホロコーストに対する戦後における反省から、ユネスコに よ る 一 連 の「 人 種 」 に 関 す る 声 明 を 言 及 し た )(1 ( 。 人 類 学 者 が 「 仮 に 設 定 し た 枠 で し か 」 な い 分 類 法 に は よ っ て「 人 種 と い う の は 遺 伝 的 に 決 め ら れ る わ け で す よ 」 と し て お き な が ら、 「 民 族 の 概 念 は ね、 こ れ は も っ と い い 加 減 だ 」 と も 言 い 切 っ た。なぜなら、日本の帝国議会において、 「民族」が「国民」 を 上 回 る「 精 神 的 な 意 味 合 い を つ け て 」 国 民 統 合 の た め の 「 さ ら に か っ こ つ け る 」 言 葉 と し て 使 わ れ た 歴 史 を も つ か ら だ )(1 ( 。 そ う し て 彼 は、 「 地 域 と 時 間 設 定 を し な い と 民 族 と い う のははっきりして来ない」ものとして、政治的な目標達成の ためには「民族という言葉はですね、便利なんですよ」と結 論づけた。 それに続き、金子快之の発言に関して、河野は「アイヌ民 族 存 在 す る 」 と い う 北 海 道 新 聞 の 記 事 の 括 弧 つ き の 見 出 し を会場に見せつけた。これがまるで 「 STAP 細胞は存在しま す」を言っているようなことだと言い、会場から大きな笑い
を取っ た )(1 ( 。金子自身に関しては、彼が単に政策の「是正しよ うとした正義感のある方ですよ」とアピールもした。そして 最後に、河野は二〇〇八年の「アイヌ民族を先住民族とする ことを求める国会決議」を審議なしに両院を通過したものだ と 批 判 し、 日 本 史 で 言 う 縄 文 時 代 か ら 本 州 と の 海 の「 交 通 路」を通した交流がずっとあったため、アイヌには「先住民 族という言い方は絶対にできないです」 、「人類学者として言 う、アイヌと和人の間には先住民関係はないです」とこの日 の発表を締めくくったのであ る )(1 ( 。この集会から、一ヶ月後の 九月二〇日に、同じ日行会主催のイベントに河野本道がまた 参加した。金子の所属する会派から離脱勧告が出され、自民 党札幌支部連合会から除名処分も受けて、そして議員辞職勧 告決議案が二日後に定例市議会に提出される見込みだった中 で、 そ の 金 子 を 応 援 す る「 金 子 市 議 応 援 セ ミ ナ ー『 絶 対 絶 命・ 金 子 市 議、 ア イ ヌ 利 権 の 闇 を 語 る 』 と い う も の だ っ た )(1 ( 。 ここにはまた、小野寺秀と金子本人が河野とともに発表台に 上がった。 見込み通り、八月二二日に、札幌市議会にて「金子やすゆ き議員に対する議員辞職を求める決議」は可決された。撤回 と謝罪のみにとどまった自民党・市民会議が提出した「金子 やすゆき議員に対し一連のアイヌ民族に対する発言の撤回・ 謝罪と猛省を求める決議」は否決とされた。議員辞職勧告決 議の提案理由について、当時民主党の札幌市議だった大嶋薫 議員は「差別の再生産をやめようと言いながら、アイヌ民族 に対する憎悪や差別を煽動しているのは、金子議員自身」で あると説明した。国際条約上で「ヘイトスピーチ」が差別煽 動表現と訳される通 り )(1 ( 、これは公人であった金子の発言が実 質的にヘイトスピーチであると指摘しているものだった。民 族的属性そのものの否定にとどまらず、アイヌ民族であれば 不正を働くものであるとの解釈を許容する内容で、さらにそ れが単に発言者の中にある偏見から生み出されたものにもか かわらず、その責任を「納税者」に押し付けるものだったの であ る )11 ( 。金子は法的拘束力を欠ける辞職勧告には応じず、無 所属議員として活動を続けた。しかし、二〇一五年四月の札 幌市議選では、金子は得票を半滅させて落選した。他に日行 会 を 母 体 と す る「 保 守 党 北 海 道 」 二 名、 自 民 党 の 川 田 匡 桐 ( 一 九 六 九 年 ~ )1( ( ) と、 ア イ ヌ 民 族 否 定 論 を 公 言 と す る 候 補 者 が 次 々 と 落 選 し た の で あ る。 同 時 期 の 北 海 道 議 会 選 挙 に は、 小野寺秀は出馬せず、後継候補者が落選した。河野本道は選 挙を待たずして三月に死去した。 しかし、河野本道の保守系団体との関わりは、金子発言が きっかけに始まったものではなかった。二〇〇八年の「アイ ヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」の可決を受 けて、彼は北海道の月刊誌『北方ジャーナル』七月号より七
回にわたって「緊急提言!」の連載を寄稿した。同時期に国 会決議の可決に喚起されて、アイヌの特集を準備していた漫 画家の小林よしのりの目に、この連載がとまった。河野は小 林の取材に応じて、後に漫画においても登場し、漫画の全体 の内容にも大きく影響を及ぼしたのであ る )11 ( 。一方で、河野は その後、小林の取材の他のインフォーマントであった(そし て、おそらく河野自身が小林に紹介した)彫刻家、砂澤ビッ キの二度目の結婚の長男である砂澤陣(一九六三年 ~ )11 ( )や前 記の的場や小野寺と一緒に、定期的に集会や保守系メディア の出演を繰り返した。 二〇一一年九月四日、保守ジャーナリストの有本香主催の セミナー「アイヌとは何か」に小野寺秀と砂澤陣と三名で講 師。 二 〇 一 二 年 二 月 四 日、 「 日 本 文 化 チ ャ ン ネ ル 桜 」 の 番 組 「 報 道 ス ペ シ ャ ル ― ア イ ヌ 問 題 の 真 実 」 に 小 野 寺 秀 と 砂 澤 陣 と 高 清 水 有 子 と 水 島 総 と 出 演 )11 ( 。 二 〇 一 二 年 五 月 一 二 日、 「 あ さひかわ保守政策研究会」主催の「第一回アイヌ問題を考え る研究会」講師を川田匡桐と一緒に務め た )11 ( 。二〇一二年八月 二 六 日、 札 幌 護 国 神 社 で「 自 主 憲 法 を 願 う 道 民 会 議 」( 日 行 会 の 前 身 団 体 ) 主 催「 『 ア イ ヌ 民 族 』 問 題 学 習 会 」 講 師 を 的 場光昭、川田匡桐、小野寺秀、砂澤陣とともに務めた(この 会には、アイヌ文化振興・研究推進機構が刊行するアイヌの 歴史と文化に関する小中学生の「副読本」が日本を多民族社 会として描いていることに違和感を覚えて国会で質問をした 義 家 弘 介 参 議 院 議 員 か ら の 応 援 メ ッ セ ー ジ が 送 ら れ た )11 ( )。 そ して、この二回に渡る金子快之の応援セミナー。二〇〇八年 以降、河野本道は、国会決議をきっかけとした反動的なバッ クラッシュでもあるアイヌの社会的地位を貶める保守系団体 の政治的なネガティヴ・キャンペーンの中心人物の一人だっ た。 河 野 理 論 の 復 権 の 危 険 性
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排 除 と 統 合 の 力 学 の 隠 蔽 二 〇 一 六 年 三 月、 『 無 言 の 背 中 ― 河 野 本 道 さ ん 追 悼 文 集 』 と 題 し た 冊 子 が 発 行 さ れ た )11 ( 。「 ( 一 ) 一 周 忌 ま で に『 追 悼 文 集 』、 ( 二 ) 三 ~ 五 年 を 目 処 に『 遺 稿 集 』『 追 悼 論 文 集 』 な ど を公刊す る )11 ( 」ために立ち上げられた友人と生徒たちからなる 「 河 野 本 道 先 生 追 悼 文 集 刊 行 会 」 に よ る も の で あ る。 河 野 本 道が長年関わった北海道出版企画センターから出された。文 集 は、 河 野 の 遺 稿 と な っ た「 『 銀 の 滴 降 る 降 る ま は り に 』 再 考」を巻頭に収め、弔辞に加えて三一本の追悼文、年譜、著 作 目 録 な ど か ら 構 成 さ れ て い る。 文 化 人 類 学 者 の 井 上 鉱 一、 百瀬響、清水昭俊、大塚和義、佐々木史郎。考古学者の宇田 川洋。言語学者の村崎恭子。歴史学者の谷本昇久。河野が生 涯にわたって親しくしてきた多くのアイヌ関連研究者の名前が目立つ冊子となっている。内容のほとんどが河野にまつわ る私的な回想やエピソード、彼の生徒たちによる大学の先生 としての思い出など、追悼文集らしいつくりになっている。 「 憂 慮 す る 人 類 学 者 )11 ( 」、 「 反 骨 精 神 」 溢 れ た「 情 理 を 重 ね 備 え、冷徹な人類学者であるとともに、正義感と闘争心に溢れ た 情 熱 の 人 )11 ( 」。 こ う し た 言 葉 の 傍 に、 彼 が 研 究 者 と し て 直 面 し た 困 難 に つ い て の 言 及 も あ る。 「 批 判・ 非 難 と 排 斥 に と り 囲まれる苦しい状況(中略)河野さんのアイヌ認識は、一部 のアイヌ系の人々や研究者と対立し、批判されることを予め 含み込んでい た )1( ( 」。 「いろんな分野の研究者が特論を展開して いますが、必ずといって良いほど河野本道批判を繰り返しま す。アイヌが歴史を語ったり、文化を語る時は、その研究者 たちの論文を引用します。アイヌがアイヌによるアイヌの為 の歴史や文化を語ることを誰よりも望んでいた人でした。本 道さんが望めば望むだけアイヌは違う方向に進みます。残念 で す )11 ( 」。 差 別 主 義 団 体 の 集 会 で 民 族 否 定 論 を 繰 り 広 げ、 笑 い を取る同一人物か、目を疑う時がある。いったい何が起きて いるのか。文集の中には、河野の晩年の活動についての言及 は著作目録にある前記の連載やインタビューなどの記載以外 には、跡がない。 し か し、 そ れ 以 上 に 驚 く こ と が あ る。 河 野 本 道 は、 「 ア イ ヌと和人の間には先住民関係はない」と言い張り、 「『先住民 族』としての『アイヌ民族』は虚像の利権集団」などと活字 に お い て も 繰 り 返 し 発 言 を し て い た。 に も か か わ ら ず、 「 河 野さんのアイヌ認識の概要を反芻し、それが国際連合先住民 権利宣言と並行する論理構成で組み立てられていることを指 摘」しようとしている論者がこの冊子に登場しているのであ る。同じ東京大学文化人類学課程で「文人闘争委」メンバー 時代からの親友であった国立民族学博物館名誉教授・総合研 究 大 学 院 大 学 名 誉 教 授 の 清 水 昭 俊 の 文 章 で あ る )11 ( 。「 河 野 さ ん はアイヌ系の人々から訴訟を起こされたり、学説をアイヌ研 究者から批判されて、批判・非難と排斥ととり囲まれる苦し い 状 況 が 強 ま り、 遠 方 に い る 私 に も 気 が か り だ っ た 」 た め、 清水は河野の「追悼の手むけとしたい」想いからこの文章を 書 い た と 言 う。 「 河 野 さ ん の 広 い 包 括 的 な 視 野 で の 公 平 か つ 論理的な論説は、部分的立場の主張や運動をアイヌ系全体に 位置づけるものであり、部分的立場で全体を代表しようとす る運動にとっては、迷惑だったに違いない」ものだと、清水 はそれをきわめて高く評価しているようであ る )11 ( 。また、ここ で清水が集中して取り上げている河野の文章は、清水自身が 国立民族博物館でコーディネーターを勤めた一九九二年より 三年間にわたって行われた共同研究「世界の周辺諸民族の現 在」の成果である清水編著『周辺民族の現在』 (世界思想社、 一 九 九 八 年 ) に 収 め ら れ て い る「 現 代 の『 ア イ ヌ 民 族 』」 で
あ る )11 ( 。 清 水 は ま ず、 こ の 論 文 に お い て 浮 き 彫 り に さ れ る 河 野 の 「 ア イ ヌ 認 識 」 た る も の が 日 本 社 会 を「 多 エ ス ニ ッ ク 」 な も のとして捉え直す視点からなっている、ということを主張し ている。 河野さんは、考察する人々の現状を、旧カラフト千島の 人 々 を 含 め た 広 い 視 野 で、 「 ア イ ヌ 系 の 人 々」 な い し 「 ア イ ヌ 系 日 本 国 民 」 と 捉 え る。 思 考 を さ ま ざ ま に 喚 起 す る こ の 捉 え 方 が、 私 に は 魅 力 的 だ っ た。 「 日 本 国 民 」 の概念を「アイヌ系」に開くことは、同時に、それを所 謂「日本民族、大和民族」に開くことでもある。河野説 を 敷 衍 し て い え ば、 「 和 人 」 は「 日 本 系 日 本 国 民 」 で あ り、日本国民の現状は、アイヌ系、日系、沖縄系(ある い は『 ウ チ ナ ー 系 』 と 呼 ぶ べ き か )、 コ リ ア 系、 華 人 系 などからなる多エスニックな(あるいはマルチ・ナショ ナルな)国民であ る )11 ( 。 しばし待つべし。 「『日本国民』の概念」はいったい、いつ の 時 代 に お い て「 所 謂『 日 本 民 族、 大 和 民 族 』」 あ る い は 「 和 人 」 に 開 か れ て い な か っ た 4 4 4 4 4 の だ ろ う か。 こ の「 所 謂 」 と い う 語 に こ そ 問 題 の す べ て が 物 語 ら れ て い る の で は な い か。 「 人 が 国 民 的 同 一 性 を 持 つ と い う こ と は、 あ る 個 人 が、 例 え ば『 日 本 人 で
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即 時 的 に―
あ る 』 と い う こ と で は な く、 『日本人になる』ことであるのはこのためなの」だか ら )11 ( 。「日 本民族、大和民族」あるいは「和人」が「所謂」と言えてし ま う の は、 「 個 人 の な か に あ る 非 本 来 的 な も の か ら 本 来 的 な ものへの絶えず投企すること、本来的な日本人へと自己画定 し非本来的なものをどうにか排除しようとすること、そのこ とこそが人が『日本人である』ことの内実なの」だからであ る )11 ( 。それゆえに、そうした非本来的な要素を徹底して排除す ると本来的な国民になることができなくなるから、非本来的 な要素を絶えず統合もしなければならないのである。ここで 言われているアイヌ系、沖縄系、コリア系、華系などの差異 がこのように最初に見出されたのもまさに多様な人口を国民 に 統 合 す る 日 本 帝 国 主 義 の 時 代 だ っ た の で あ る。 近 代 以 降、 「 ア イ ヌ 」 な る 者 自 身 が 絶 え ず こ の 非 本 来 性 と 本 来 性 の 狭 間 にさらされた。 歴史家の小川正人はアイヌに対して「未だに自らの民族呼 称 を 定 め き れ な い で い る 現 状 は、 〈 日 本 人 〉 の 主 体 的 な 姿 勢 が 依 然 と し て 脆 弱 で あ る こ と の 反 映 」 で あ る と 述 べ て い る )11 ( が、それはまさに自らの本来性が疑問にさらさず、あるいは その本来性が保たれるために非本来的で異質な他者をまずそ のような異質なものとして識別して、それゆえに国民的同一性の整合性を守るために排除と統合の可能性を確保するため で も あ る。 「 日 系 日 本 国 民 」 で あ る と い う こ と は、 す で に 中 性的かつ規範的であり、無印で不透明かつ中心的な存在とし てあるということを意味してきたのだ。徳川幕府による東蝦 夷 地 直 轄 の 開 始( 一 七 九 九 年 ) か ら 初 出 が あ る と 見 ら れ る 「和人」という用語はまた、 「南下するロジア帝国に対して蝦 夷地を確保する一手段としてアイヌの人たちの『同化』政策 的発想が政策レベルに登場する時点で使用され、その到達目 標として和人が位置づけられてい」 た )11 ( 。ここにも動的な力学 が見られる。近世においては、幕藩制国家固有の風俗や習慣 を具備し構成員になるぐらいの意味をしていたようだが、そ れも後に「アイヌではない日本の多数者・多数民族」と意味 するようになったのだ。 この力学を無視した上で「日系日本国民」をただただ多様 な国民の中の一つに過ぎないと宣言するだけでは、暗黙のヒ エ ラ ル キ ー を 保 つ そ の 力 学 に 抵 抗 し 是 正 す る こ と な ど に は、 何も貢献をしない。私がこれまで研究を重ねて注目した著者 の 佐 々 木 昌 雄 が か つ て「 こ の〈 日 本 〉 に お い て、 『 ア イ ヌ 』 と は『 ア イ ヌ 』 で あ る 」 と い う「 奇 妙 な 決 定 法 」 に つ い て、 「もっとも手が込んでくると、 『アイヌ』は『アイヌ』である が『アイヌ』ではない、 『アイヌ系日本人』なのだ。 (アイヌ 系 日 本 人 …… !?や っ ぱ り 日 本 人 系 日 本 人 と は 違 う ら し い )」 と 書 い た の も、 こ の た め に ほ か な ら な か っ た )1( ( 。〈 ア イ ヌ 〉 が 最初から〈アイヌ〉であるというのは、それが国民的同一性 にとっての非本来的な差異となる都合の良いものでもあるか ら だ。 「 日 本 国 民 」 の 概 念 が「 所 謂『 日 本 民 族、 大 和 民 族 』」 あるいは「和人」に開かれていなかった時がなかった事実を 無視すればするほど、問題が反復されてしまう。なお、アイ ヌに関して最後まで「民族」という語を斥けた河野本道の分 類 法 に お い て、 こ こ で 言 わ れ て い る「 エ ス ニ ッ ク 」 や「 ナ シ ョ ナ ル 」 と い う 語 は ど の よ う な 位 置 づ け に な る の だ ろ う か。 こ れ ら は、 果 た し て 彼 が 検 討 し て い た カ テ ゴ リ ー な の か。 清水はこうつづく、 明治以前の「蝦夷地」住人は、幕府と松前藩をはじめと する外来勢力によって「蝦夷」と総称され、この他称は 後にアイヌ語の「アイヌ」に置き換えられて、アイヌ系 の人々に自称として受容された。河野さんの歴史認識で は、幕藩期の蝦夷地住人は、習俗慣習でも政治的結合で も 地 域 差 と 相 互 対 立 が あ り、 「 地 域 ご と に お お よ そ 自 立 的 な 民 族 的 集 団 に 別 れ て い た 」( 162 ペ ー ジ )。 明 治 以 降 の 同 化 政 策 は、 ア イ ヌ 系 の 人 々 を 共 通 の 名 称( 「 ア イ ヌ 」) な い し「 ウ タ リ 」、 法 律 用 語「 旧 土 人 」) で 一 つ
に 束 ね て 把 捉 し た。 強 制 的 な 同 化 政 策 は、 ア イ ヌ 系 の 人々とその文化に対する根強い差別意識を醸成し、アイ ヌ系の文化を変容させるとともに、アイヌ系と和人(日 系)との境界を低め、人的に多くを流出させた。この長 期に及ぶアイヌ系と和人との関係史の中の、近年の位相 として、和人化した「脱アイヌ」の人々を
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とりわけ 次に述べる「アイヌ民族」の自覚を強めようとする運動 との対比で「一般国民として自らの力で自立的に生きよ う と す る 人 々」 ( 165 ペ ー ジ ) を―
河 野 さ ん は「 ポ スト・アイヌ」と捉え る )11 ( 。 前 近 代 に お け る ア イ ヌ の こ の 河 野 の 言 う「 地 域 ご と 」 の 「 民 族 的 集 団 」 に お い て 何 が 4 4 「 民 族 的 」 だ っ た の か。 そ の 他 の「民族」という言葉の使用を批判した時の言う「民族」と の違いなどの明確な説明を、彼は一回もしなかっ た )11 ( 。「民族」 という言葉の意味内容が「曖昧」だと言いながら、河野自身 の こ の 言 葉 の 使 用 に も 一 貫 性 は な か っ た。 ま た、 「 蝦 夷 」 が 他称として「アイヌ」に置き換えられて自称として受容され た具体的な 歴史的 4 4 4 根拠も示さなかったのだ。河野自身も同論 文中、 「『アイヌ』という語は、今日往々にして自称としての 起源や、この語を共通の事象として用いていた人々の範囲に つ い て は 明 ら か で な い 4 4 4 4 4 4 」 と し て い る )11 ( 。「 他 称 と し て の『 ア イ ヌ』という言葉が用いられるようになった」と言える根拠も こ の 論 文 に は 示 さ ず に、 「 今 日 の よ う に 自 称 で も 他 称 で も あ る民族呼称として使用されるようになったと 考えられる 4 4 4 4 4 」こ とに文章が留められてい る )11 ( 。明治以前の記述だと、江戸後期 の探検家、最上徳内(一七五四年~一八三六年)の『渡島筆 記 』( 一 八 〇 八 年 ) に は「 夷 人 」 は「 自 稱 4 4 し て ア ヰ ノ 」 と 言 い「これを呼んでゑぞといへば喜ばず」というのもあり、ド イツ医師G・H・ラングスドルフも『世界周航期、一八一二 年』に「アイヌ」という語が一八〇五年に使われていたこと を 記 録 し て い る )11 ( 。「 起 源 」 と「 用 い ら れ て い た 範 囲 」 は 確 か に「明らかでない」が、他称から単に置き換えられたという のも「明らかでない」のである。 一方で、ここでやはり「和人化」するアイヌが登場してい る。 「 ア イ ヌ 系 日 本 国 民 」 に は、 二 種 類 の 人 た ち が い る、 と いうことである。しかし、この「和人化」した「一般国民と して自らの力で自立的に生きようとする」人々は未だに「ア イ ヌ 系 日 本 国 民 」 な の で あ る。 「 ア イ ヌ 」 は「 ア イ ヌ 」 で あ る が「 ア イ ヌ 」 で は な い。 い つ ま で 経 っ て い れ ば、 「 和 人 化 し た『 脱 ア イ ヌ 』」 は「 ア イ ヌ 系 日 本 国 民 」 な の だ ろ う か。 「和人化」したならば、 「和人」ではないのか。それとも、こ の人たちは「旧土人」と同じように、いつまでも「ポスト・ ア イ ヌ 」 に と ど ま る 運 命 な の か。 や は り「 日 本 国 民 」「 一 般国 民 」 へ の 道 は そ う 簡 単 に 開 か れ て い な か っ た の で は な い か。 な お、 「 脱 ア イ ヌ 」 と い う 今 で も 口 上 で よ く 耳 に す る 言 葉は、実際に「和人」になり切るという意味よりも、むしろ 誰 か の た め に「 ア イ ヌ 」 に な ら な い よ う に す る こ と、 「 ア イ ヌ」として振舞わないというようなフレーズとして、はるか に複雑な意味合いを含んでいるはずである。 他方で、強制的な同化政策とそれによる文化変容は、ア イ ヌ 系 の 人 々 に 自 省 を 促 し、 ア イ ヌ 政 策、 ア イ ヌ 研 究、 アイヌの現状などに対する批判と、アイヌ復興に向けた 運動と生み出した。とりわけ一九八〇年代以降、 『工芸、 縫 製 お よ び 刺 繍、 芸 能( 歌 舞 )、 儀 礼、 言 語 』 な ど の 分 野で『アイヌ文化』の『復興・再現活動』が活発になっ た( 155 ペ ー ジ )。 河 野 さ ん は、 ア イ ヌ 新 法 の 推 進、 『 祖 先 供 養 祭、 慰 霊 祭 』 な ど 儀 礼 の 復 活 実 施、 国 際 先 住 民 運 動 へ の 参 加、 ア イ ヌ 文 化 振 興 法 の 影 響 な ど、 ( 当 時 の)北海道ウタリ協会はじめ様々な組織による復興運動 を跡づけ、こうした運動によって『強い民族意識を表明 する人々』を『ニュー・アイヌ』と名づけた。この復興 運 動 の 高 ま り を 指 し て、 『 今 日、 新 し い『 ア イ ヌ 民 族 』 が 形 成 さ れ つ つ あ る よ う に 見 え る 』( 165 ペ ー ジ ) と も述べ る )11 ( 。 な る ほ ど、 「 民 族 意 識 」 は、 特 に 近 代 以 降 の 社 会 に お け る 資源や権力をめぐる競争などに左右され、歴史的に形成され るものであることに疑いはないだろう。しかし、それを同じ 歴史的条件のもとで復興運動に関わらずに生きていく者とあ えて区別する理由が定かではない。歴史上、アイヌとしての 同 一 性 へ の 自 覚 を 戦 後 に 強 め た の は、 「 北 海 道 ウ タ リ 協 会 を は じ め 」 と い う よ り も、 む し ろ 協 会 外 の 様 々 な 動 き で は な か っ た の だ ろ う か )11 ( 。「 シ ャ ク シ ャ イ ン 祭 」、 「 ノ ッ カ マ ッ プ = イチャルパ」 、「クーチンコロ顕彰祭」 、「アシリチェップ=ノ ミ 」 な ど と 河 野 が こ の 論 文 で 挙 げ て い る「 『 ア イ ヌ 文 化 』 復 興活動」例のほとんどが北海道ウタリ協会によってはじまっ たものではない。 ア イ ヌ 系 の 人 々 全 体 の 現 状 は、 『 ポ ス ト 』 と『 ニ ュ ー』 の二大動向、さらにエンチュウ(カラフト=アイヌ)と クリル=アイヌを含めて、多様であり、対立と分離を内 包している。河野さんの認識では、幕藩時代から『現代 も 含 め た ア イ ヌ 史 の 全 歴 史 的 過 程 に お い て、 『 ア イ ヌ 』 ( 系 の 人 々) が 全 体 と し て 単 一 の「 民 族 」 的 ま と ま り を 示 し た と い う 事 実 は な い 』( 161 ペ ー ジ )。 政 治 と ジャーナリズムの関心はニュー・アイヌの文化運動にハ
イライトを当てるが、河野さんは、その背後で静かに進 ん で い る ポ ス ト・ ア イ ヌ の 動 向 も 重 要 で あ る と 指 摘 す る )11 ( 。 こ の「 『 ポ ス ト 』 と『 ニ ュ ー』 の 二 大 動 向 」 の 問 題 に つ い てはまた後述するが、たとえ自分もアイヌであることを隠 そ 4 うとする 4 4 4 4 ことができるにもかかわらず、文化活動をするだけ で「ニュー」としてカウントされる者の気持ちを想像するだ けで、ここでは十分に問題が明らかだろう。分類には行為遂 行的な力が伴っている。それはまた、人の内面を捏ねり回す 力である。人が「和人として生きるにしても、アイヌ民族と いうアイデンティティを選択するにしても、アイヌ民族へと つながる歴史を意識しながら、その事実への対処のしかたを 自 分 な り に 見 つ け る 必 要 が あ る と い う 点 で、 既 に そ の 他 の 人々とは異なる出発点に立ってい る )11 ( 」のだ。こうした自分が 選びもしていない属性への対処の仕方を勝手に外から二択に 強いることはまた、レイシャル・ハラスメントに相当するき わめて暴力的な行為になり得るのである。かつて清水自身も このことに関連する注意をされたことがある。文化人類学者 の太田好信と歴史家の冨山一郎との一九九八年の対談で、清 水は明確な「脱植民地化」の構想ゆえに展開されていたとさ れる「ハワイの先住民運動」とは対照的に、河野本道とは似 たようなアイヌに対する認識を繰り広げた。 たとえば、アイヌの人たちの先住民運動では、その主張 は時代的に変化がありましたが、最近の運動ではアイヌ 新法を要求して、それが国会で可決されました。その流 れ の な か で、 ア イ ヌ 文 化 を エ ッ セ ン シ ャ ラ イ ズ し て い る。しかも和人からの影響が及ぶ以前の文化にアイデン ティファイする。たとえば採集狩猟と漁労の生業によっ て自然環境と共生関係にあった我々の生き方、というふ うに。これは歴史の観点からいえば容易に批判できるよ うな文化認識です。しかし、それは現代の微妙なコンテ クストの中で民族としての『我々』のアイデンティティ を構成する一つの選択だったでしょ う )1( ( 。 この発言に対して、太田好信は次のように述べた。 アイヌのある人が語るアイヌ文化を本質主義と呼べるの でしょうか。なぜなら、すでに語りだすと言う行為は創 造的行為なはずですから、本質として非歴史的に文化を 構築しても、それは本質化された文化を共有していると いう主張ではなく、そのような文化を自分たちが主張す ることを決めたと言う選択の結果を主張しているように
も思えます。だから、何が問題かというと、その本質的 な 語 り に よ っ て い っ た い 何 を 達 成 し よ う と し て い る の か、ということでしょう。たとえば、ハーレム・ルネサ ンスの語りだす文化は、特殊な社会状況との反応から創 造され、それは事故を共同体へと結びつける意味の掛け 橋のようなものです。ひとりでは無力であったが、それ をとおして、圧力とか差別に対抗することがはじめて可 能になるんです。そういうような社会的プロセスの結果 と し て、 あ る 文 化 を 選 び と っ て い く わ け で す。 だ か ら、 黒人文化が本質的に先行して存在しているのではないと 思います。アイヌの場合も、この場合と似ているのでは ないでしょうか。それが人類学者と同じ語り口だという の は、 そ れ は 発 話 の ポ ジ シ ョ ン を 無 視 し た も の で し ょ う。だから人類学者も本質主義で、彼らも本質主義だと いうようにスライドする必要なまったくないです ね )11 ( 。 ここで清水が「似たような本質主義パラダイムで、文化を 描いていると言ったのは、パラダイムの話であって……」と アピールするが、太田はまたきっぱり言う。 しかし、パラダイムだけを切り離して語るのは、非歴史 的 な 立 場 で あ っ て、 そ れ は や め よ う と い う こ と で は な かったのでしょうか。世俗性の無視ですよね。人類学の もっともいい部分を忘れてはいけないと思います が )11 ( 。 「〈 歴 史 〉 の 構 成 上、 〈 歴 史 観 〉 こ そ が も っ と も 重 視 し な け ればならない」と述べたにもかかわらず、戦後のアイヌの在 り よ う を「 『 ポ ス ト 』 と『 ニ ュ ー』 の 二 大 動 向 」 に あ る と 決 めつける一方で、アイヌの活動家によるアイヌを「弱者」と しての「被差別集団」だと主張し、その「排他的エスノセン ト リ ズ ム( 自 民 族 中 心 主 義 )」 に 多 く の「 〈 ア イ ヌ 研 究 者 〉」 が「理解を示すことにより、自己の立場を巧みにカモフラー ジュするという姿勢を示 す )11 ( 」ことを糾弾した河野本道に対し ても、この「非歴史的な立場」に立つ人類学者への批判は大 いに応用できるだろう。興味深いことに、前記に言及した河 野本道と同じ本の分担執筆者だった冨山一郎は、この清水と の対談にでも同じことを言っている。 次にでてくる問題は、現場と記述するアンソロポロジス トとの関係ということです。そのような力学的な暴力や 権力の作動している場所から離れたところに人類学者が いるのか、いないのか。むしろいないとたれれば、観察 者として立つわけですが、それができなくなる。できな くなるとすれば、記述するという作業がもう少し、批判
というかたちでもなく神話暴きでもなく、高見から暴く ことではない記述、たぶんそれは批判というよりは記述 の力というか、そういう可能性というものがあるんでは ないでしょう か )11 ( 。 河野本道はここで言われている「観察者」の立場から出た こ と が あ っ た の だ ろ う か。 追 悼 文 集 に お け る 清 水 の 文 章 で もっとも驚くのは、次の点である。それはつまり、これまで 見 て き た 河 野 本 道 の「 『 ポ ス ト 』 と『 ニ ュ ー』 の 二 大 動 向 」 の分類法を「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に無理 やり照らし合わせているところである。やや長いが、きわめ てアクロバティックなこの論理展開を十分に鑑賞できるため に、そのままに引用しておく。 こ の 河 野 さ ん の ア イ ヌ 認 識 を よ り 深 く 理 解 す る た め に、 国連総会が二〇〇七年に採択した先住民権利宣言と照ら し 合 せ て み た い。 こ の 宣 言 は 先 住 民 の 権 利 を、 風 俗 慣 習、 儀 礼、 宗 教、 工 芸・ 芸 術、 言 語、 知 識( 知 的 財 産 権 )、 固 有 名、 土 地・ 領 土 と 資 源・ 環 境 の 総 体、 生 業 と 経済、政治的自己決定、等々と、実に多岐にわたって網 羅する。一見して、それは先住民の 特権 4 4 を述べているよ う に 見 え る。 し か し、 宣 言 の 列 拳 す る こ れ ら の 諸 権 利 は、 国 際 法 が す べ て の 民 peoples に 保 証 し て い る 普 遍 的 な権利であり、決してその枠を超えた特列的な権利(特 権)ではない。宣言は周到な条文の構成によって、先住 民 の 権 利 を 民 の 普 遍 的 な 権 利 に 節 合 す る。 宣 言 の 言 う 『 先 住 民 』 と は『 先 住 indigenous の 民 peoples 』 で あ り、 宣 言 は 先 住 民 が 他 の す べ て の 民 ピープルズ と 平 等 だ と 述 べ る ( 第 1条 )。 日 本 で は、 『 ア イ ヌ 民 族 』 を 含 め て 先 住 民 が 話 題 に な る 時、 peoples に 日 本 語 の『 民 族 』 を 当 て、 indigenous peoples を『 先 住 民 族 』 と 訳 し て い る。 し か し、 国 際 法 の 用 語 で は、 peoples が『 民 族 』 を 意 味 す る と は 限 ら な い。 国 際 法 の い う『 民 ピープルズ 』 と は『 自 己 決 定 権』 (あるいは「自決権」 )を持つ(あるいはこの権利を 主張し要求する)人々の集合であり、この権利によって 民 ピープルズ は(それゆえ『先住の民、先住民』も) 『政治的地 位を自由に決定し、経済的・社会的・文化的発展を自由 に追求する』 (第 1条) 。宣言が列記する具体的な権利の 数々は、国際法が全ての 民 ピープルズ に保証する普遍的な権利、 とりわけこの自己決定権に含まれる。宣言がそれを『先 住民の権利』として網羅的に列拳するのは、先住民が暴 力的ジェノサイドと文化的ジェノサイド(文化破壊)の 歴史を通して、普遍的な権利の多くを否定されてきたか らだ。 『先住の 民 ピープルズ その 独自の 4 4 4 政治的・法的・経済的・
文 化 的 諸 制 度 を 維 持 し 強 化 す る 権 利 を も つ 』( 第 1条 前 段) 。この権利は、 民 ピープルズ の自己決定権に基づいた『政治 的地位を自由に決定し、経済的・社会的・文化的発展を 自由に追求する』権利に該当し、ニュー・アイヌの運動 も 含 め て、 政 治 的 復 権 と 文 化 振 興 を 求 め る 先 住 民 運 動 に、法的保証を与える。それと同時に、宣言は別の選択 肢 を も 保 証 す る。 先 住 民 は『 彼 ら が そ う 選 択 す る な ら ば、国家の政治的・経済的・社会的・文化的生活に十全 に参加する権利を保持する』 (第 1条後段) 。同化を強制 する『旧土人』政策は、文化的ジェノサイドの典型だっ た。しかし、外的な圧力(差別もその一つである)によ らず、自由に自己決定するならば、国家の生活への同化 も、つまり『脱アイヌ』も、先住民に開かれた権利であ る。 『 脱 ア イ ヌ 』 す る 彼 ら は、 そ れ に よ っ て 河 野 さ ん の 視野から消え去るのではない。 『脱アイヌ』した人々は、 『ポスト・アイヌ』というアイヌ系の人々であり続ける。 彼らがそう選択した経緯とその後をも含めて、ポスト・ アイヌの人々について河野さんが注意を喚起した背景が 了解されよう。 「先住民族」がこうした政治概念にもかかわらず、 「アイヌ と和人の間には先住民関係はない」と河野は言った。アイヌ を「 先 住 民 族 」 と す る こ と が、 河 野 の 自 ら 定 義 す る「 ポ ス ト・ ア イ ヌ 」 た る「 他 の〈 ア イ ヌ 系 日 本 国 民 〉 の う ち に は、 そ れ を 大 迷 惑 と 考 え る 人 々 が 少 な く な い と 思 わ れ る 」 と も 言 っ た )11 ( 。「 や っ ぱ り こ れ も、 お 金 が 取 れ る か ら 」 と い う 理 由 からアイヌが「カナダの先住民族運動を真似ようという動き もあるんですよ」というような発言を河野本道は繰り返した の で あ る )11 ( 。 先 住 民 族 の 権 利 を 主 張 す る 者 の「 ニ ュ ー・ ア イ ヌ 」 は、 「 日 本 国 政 府 に『 ア イ ヌ 民 族 』 と し て の 特 権 4 4 を 認 め させようとする方向性」を代表しているとも、清水の言及す る当の論文において彼が論じ た )11 ( 。 清 水 は ま た こ こ で、 「 そ れ は 特 権 で は な い 」、 「 ア イ ヌ 」 と して在ることを公表しないことも「ピープルズにはある当然 の権利である」などと主張して、河野の「二大動向」に訂正 を加えているわけでもないようである。まるで河野が「注意 を 喚 起 し た 背 景 」 と い う の が、 「 ポ ス ト・ ア イ ヌ 」 と 呼 ば れ る人々の権利も先住民族権利宣言に保障されているのだ、と いう論調である。しかし、ピープルズという言葉も河野本道 の仕事にはいっさい登場しない。彼は「ニュー・アイヌ」と 自 身 が 決 め つ け た 者 の 在 り よ う を け っ し て 許 し は し な か っ た。 私が学生のことにびっくりしたことですが、今はこの世
におられない七〇歳くらいの古老たちは皆アイヌも大和 民族だと教育を受けていた。だから、お爺さんから俺ら も大和民族だと言われて、 「えっ」と驚いた。ところが、 若 い 人 た ち は そ う で は な く て、 「 ア イ ヌ 」 と し て の 運 動 をやる。しかし、文化的とか社会的に見ると、さっぱり アイヌらしくないという現実がある。何故そうしたアイ ヌ意識が出てくるかといえば、 社会にうまく適応できな 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 い面がある 4 4 4 4 4 からでしょう。何か藁をもつかむ思いで、何 かしら理由を探してくる。そうした動きが社会の矛盾を 反映していることは事実ですよ。それに対応策がとられ る必要はあるが、アイヌは特に「民族」でなくたってい い。 個 々 人 は 対 等 な 一 人 ひ と り の 人 間 で い い で し ょ う。 と こ ろ が、 「 ア イ ヌ 」 を 主 張 す る 人 に と っ て は、 自 分 が アイヌでなければだめなんですよ。だからアイヌの着物 を着て見せたりいろいろしますね。しかし、自宅へ帰っ たらそういう着物を脱いで、普通の衣類に着替えるわけ です。それはおかしいと本人は気づかないのかなと思う けども、社会的な意識は現実の社会的矛盾によってつく られていくわけで、今の「アイヌ」はそのようにしてつ く ら れ た ア イ ヌ だ と 思 う。 「 つ く ら れ た 」 と い う の は 受 け 身 的 な 表 現 だ が、 自 分 た ち が つ く っ て も い る わ け で す )11 ( 。 この現実の 社会の中でなかなかうまく適応できない 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 人た ちがいるわけで、これも現実です。そこのところの対象 法があればアイヌでなくたっていいし、特別な衣装を着 るようなこともなくなると思う。現に、アイヌであるこ とにこだわりなく一個人として生活しているアイヌ系の 人 は た く さ ん い る わ け で す。 私 が 接 し た 人 た ち の 中 に も、おそらくさまざまな葛藤を経た人がいました。しか しその中に「アイヌ」ではなく、一人の人間として学ぶ ところのある立派な人たちがいました。そうした方々に 共通して感じるのは、アイヌだからどうということでは なく、自立した人間としての生活を営んでいるというこ と で す。 マ ス コ ミ は 差 別 や 権 利 ば か り 取 り 上 げ る け ど、 そうした人たちのことは意図的に見ていない。そうした 自立した人々まで「アイヌ」の人権運動などに利用しよ うとするけど、自立した個人に「アイヌ」や「和人」の 区別は基本的にないですよ。また、古来からの社会生活 を守っている少数民は、あえて民族意識など問題にしな い )11 ( 。 二〇〇八年『北方ジャーナル』の白井暢明の「北海道独立 論」対談シリーズに登場した時の河野のこの発言は彼の『ポ
スト・アイヌ』と『ニュー・アイヌ』に関する認識の内実な のではないだろうか。アイヌらしくあるとは何か。民族であ れば人として対等にはなれないのか。自宅で視覚的差異とな る 着 物 を 脱 ぐ と い う 行 為 は 何 が お か し い の か。 「 現 実 の 社 会 的矛盾」とは何か。 「一人の人間」は「アイヌ」と違うのか。 「 あ え て 民 族 意 識 な ど 問 題 に し な い 」 こ と を 評 価 す る〈 シ ャ モ 〉 な る 者 の 立 場 と は い か な る 行 為 か。 「 自 立 し た 個 人 に 『 ア イ ヌ 』 や『 和 人 』 の 区 別 は 基 本 的 に な い 」 か も し れ な い が、 この区別 4 4 4 4 とはいったい何か。 お そ ら く 次 の よ う な「 社 会 的 矛 盾 」 の 現 れ な の で あ ろ う。 「 文 化 的 ジ ェ ノ サ イ ド の 典 型 」 だ と 清 水 が 言 っ た「 旧 土 人 」 政 策 だ が、 「 旧 」 く に「 土 人 」 と し て 在 る と い う こ と は、 ま さしく河野の「ポスト・アイヌ」という呼び名の力学でもあ るのだ。 「アイヌ」と名乗らない者、 「アイヌ」と名乗れるこ とさえ知らない者が、 そうであるゆえに 4 4 4 4 4 4 4 4 、この日本における 〈 ア イ ヌ 〉 と の 関 係 に お い て は け っ し て「 ポ ス ト 」 あ る い は 「 脱 し て い る 」 と は 言 え な い。 や は り こ れ が 国 民 的 同 一 性 に おける非本来的なものの排除と統合にかかわる、この「アイ ヌ」は「アイヌ」であるが「アイヌ」ではないロジックの恐 ろしさである。 「 旧 土 人 」 は、 近 代 に お い て「 土 人 」 と 名 指 さ れ た 者 を す でに「土人」を乗り越えた者としてさらに示唆されたが、同 時に、それはあくまでも「旧土人」として封印されている限 り に お い て で あ っ た。 同 じ よ う に、 「 ポ ス ト・ ア イ ヌ 」 は 「 ア イ ヌ 」 を す で に 乗 り 越 え た 者 と し て 名 指 さ れ て い る が、 それもあくまでも「ポスト・アイヌ」として封印されている 限りにおいてなのだ。河野の分類法は、明治以降、 〈アイヌ〉 なる者に課された非本来的国民の排除と統合の力学の具現化 に ほ か な ら な い。 〈 ア イ ヌ 〉 な る 者 を ほ ぼ 同 化 し た 者 た ち で あると言いながら、一方で〈シャモ〉との差異を強調し、同 化しきれない姿を描き出し、それをアイヌ自身の責任である ( 例 え ば 現 在 だ と「 利 権 が 欲 し い 」、 「 社 会 に う ま く 適 応 で き ない面がある」等々)とする昔ながらの先住民族に対する差 別の構造でもあるの だ )1( ( 。アイヌ民族否定論は、このようにし て(北方における入植植民地主義にルーツを持つ)差別を前 提にしている。 「断絶の事実」と歴史学者の批判 河野本道の論述に対するこれほどの研究者の死角が生じる というのは、なぜなのだろうか。先ほどの引用で述べられた 研究者によって「必ずといって良いほど河野本道批判」が行 われたということは、少なくとも活字においてはそれほどな かった。しかし、活字の批判で目立つのは、近世および近現
代の歴史家たちである。ここで最後に、その理由を探ってみ たい。 たとえば、河野本道がインフォーマントになった小林よし のりのアイヌをテーマにした漫画が出版された直後に、榎森 進 は い ち 早 く そ れ を 批 判 し た の で あ る。 「 河 野 本 道 氏 の 見 解 は、あくまでも氏個人の独自の見解にすぎず、学会の定説に な っ て い る 見 解 で は な い 」 の と、 「 氏 の、 ア イ ヌ の 墓 標 の 特 徴 を 根 拠 に し た『 ア イ ヌ 文 化 』 の 地 域 的 相 違 の 存 在 の 指 摘 ( 本 来 は 河 野 広 道 に よ る も の
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筆 者 )11 ( ) 以 外 の 問 題、 特 に 『 ア イ ヌ 民 族 否 定 論 』 は、 学 会 で は 受 け 入 れ ら れ て い な い 」 という具合であっ た )11 ( 。 近代史家の小川正人と山田伸一からも、河野による史料批 判の欠如を指摘するいくつかの点に関する実証レベルでの検 討もある。たとえば、的場光昭の本においても繰り返されて いる「アイヌは北海道旧土人保護法の制定を歓迎した」とい う、アイヌ民族否定論の定番の話の元となった河野本道の歴 史記述に関する次の指摘である。河野は、第八帝国議会の際 に議員のはからいで上京した「アイヌの有力者」を例に「旧 土 法 の 制 定 に 前 向 き に 関 わ っ た 者 が い た と い う こ と が わ か り、必ずしもアイヌが旧土法を政府や帝国議会によって一方 的 に あ て が わ れ た と い う わ け で は な い と 言 う こ と が で き る 」 と し た )11 ( 。 こ れ に 対 し て、 小 川 正 人 は、 「 こ の ア イ ヌ が 求 め た のは制定された『旧土人保護法』のようなものだったのかど うかの検討を欠いている点で前段の部分には留保を示してお き た い し、 後 段 に つ い て も、 検 討 に 値 す る 論 点 で は あ る が、 こうしたアイヌの存在から結論づけるには立論に飛躍があり すぎる」という留保を加えたのであ る )11 ( 。 同類の話として、山田伸一は一九三七年の北海道旧土人保 護法改正に関する河野の記述に疑問を投げかけている。河野 は、日本史とは別の、アイヌ史のために自分が考えた独自の 時代区分では「近現代近時期」の「後期」に当たる一九三七 年~一九四五年の「この時期のアイヌ系の者の生き方をよく 物 語 っ て い る 」 と し て、 「 同 法 改 正 案 の 国 会 通 過 に 伴 い、 そ の促進運動に担った北海道各地のアイヌ系の者一三名の一行 が、 伊 勢 神 宮 に 参 拝 し た 際、 帯 広 の 伏 根 シ ン[ 子 ]( 一 〇 代 後半)が、参拝者らの述懐を聞いて詠んだとされている」詩 を取り上げてい る )11 ( 。戦前北海(道)アイヌ協会のシャモだっ た 初 代 理 事 長・ 道 庁 学 務 部 社 会 課 の 役 員 だ っ た 喜 多 章 明 の 『アイヌ沿革史』 (一九八七年)収録の文章に基づく記述であ る )11 ( 。 山 田 に よ る と、 喜 多 の 記 述 に は、 し ば し ば 虚 偽 が あ り、 主観による話も多いため、史料として扱うのには慎重さが必 要であ る )11 ( 。たとえば、詩を詠んだとされる伏根弘三の長女で あった伏根シン子は、すでに一九二九年に病死しているとい う事実を喜多自身が別の媒体で報じている事実であ る )11 ( 。このことについて河野は気づいてはいる が )11 ( 、それにもかか わらず、 「この詩からは、多くのアイヌ系の者が、 『北海道旧 土人保護法』の第二回目の改正を歓迎し、その改正をきっか けに『アイヌ文化』へのこだわりを捨てて、それを過去のも のとし、同化に浴したことを喜び、さらには、自らを大日本 帝国を担う巨民として位置づけるようになっていたことを伺 うことができる」と主張してい る )1( ( 。それゆえ、河野はこの詩 を「この時点までに、多くのアイヌ系の者は、社会的、文化 的に『和人』に同化もしくは『和人』と融合したこと」を証 明 し て い る も の と し て 挙 げ て い る の で あ る )11 ( 。「 喜 多 の 記 述 が 事実に反することを示す材料が多い」として、山田は「この 詩から直接に当時のアイヌ民族の意識を論じているのは明ら か に 不 適 切 で あ る 」 と 河 野 の 解 釈 を 批 判 し て い る )11 ( 。 そ し て、 「 何 よ り こ の 詩 は 内 容 的 に 見 て も、 当 時 の ア イ ヌ 民 族 の 文 章 が帯びていた『翳り』や『揺れ』を完全に欠いており、喜多 自身の作になるものと推測して間違いあるまい」とまで述べ ているのであ る )11 ( 。 山田によるこの河野の記述に対する疑問は、彼の近代史家 としての研究に対する全体の問題意識とは無縁ではないよう に思える。二〇一一年に刊行された『近代北海道とアイヌ民 族 ― 狩 猟 規 則 と 土 地 問 題 』( 北 海 道 大 学 出 版 会 ) の 冒 頭 に、 山 田 は 小 川 の『 近 代 ア イ ヌ 教 育 制 度 史 研 究 』( 北 海 道 大 学 出 版会、一九九七年)に喚起された思いを次のように伝えてい る。 同書は、アイヌ民族の歴史についてしばしばなされてき た〈同化〉対〈抵抗〉という二項対立な構図を乗り越え ることを重要な課題とし、学校建設に積極的だったり日 本語を積極的に学びアイヌ語の継承を断念したりすると いったアイヌ民族の動向に注目し、そこにアイヌ民族の 主 体 的 な あ り 方 を 読 み 取 り、 さ ら に 一 見 相 互 に 同 調 し 合っているかのように見えるアイヌ民族と官庁側との間 にずれや対立を読み取っていく。私が、例えば狩猟方法 としての毒矢の禁止と銃の導入という開拓使の政策につ いて、伝統的狩猟方法の否定という側面だけを論じて終 わ る の で は な く、 ア イ ヌ 民 族 が 銃 を い か に 受 容 し た の か、それが鳥獣にどう影響を与えアイヌ民族をどう跳ね 返 っ た の か ま で を 問 お う と し、 「 北 海 道 旧 土 人 保 護 法 」 による農耕に目的を限定した土地下付について一方的な 農民化政策として断罪して終わるのではなく、アイヌ民 族のなかに見られる農業に積極的に取り組もうとする動 きやより良好な農地を得ようとする動きにも注目し、そ れらと北海道庁による実際の法の運用との関係までを問 おうとする背景には、こうした問題意識がある。このよ
うな問いの設定には、一つ間違えば、それぞれの政策を アイヌ民族も肯定していた、歓迎していたという別の単 純な構図による理解につながる危険があり、それを避け るためにも、ある時期のある政策にだけ目を奪われるの ではなく、他の政策全般によってアイヌ民族の生活環境 がどのように変化していったのかにも目配りする視野の 広さと、史料の表面だけをなぞるのではない。細やかに 粘り強く読む態度が必要とな る )11 ( 。 二項対立を超えるということではあるが、史料に対する綿 密 な 注 意 に よ っ て 浮 き 上 が る の が、 安 易 に「 同 化 」 や「 抵 抗」に還元されない近代史の中のアイヌの置かれた状況にお ける主体的な思考と行動のあり方である、と。山田は誇って 実証主義史家と名乗るが、かかる意味で、こうした問題意識 は、本論の冒頭に挙げたエドワード・W・サイードの言う原 点 的 な「 帝 国 の 断 絶 の 事 実 」、 あ る い は よ り 広 く 言 っ て し ま えば、近代という時代の不可逆な性格を鋭く把握しているよ う に も 思 う。 確 か に、 「 一 九 九 〇 年 代 か ら 研 究 者 の 間 に お い て も、 『 支 配 』 と『 被 支 配 』 と い う 二 項 対 立 の 構 図 は 陳 腐 な も の と し、 グ レ ー ゾ ー ン 領 域 を ク ロ ー ズ ア ッ プ す る こ と に よって、相対的に対立構造を無化させていく傾向が出てき」 、 「 そ の よ う な 相 対 化 が 極 右 的 な 排 外 主 義 と 歴 史 の 歪 曲 を 加 速 さ せ た 」 側 面 は ア イ ヌ に 関 す る 歴 史 叙 述 に は あ る )11 ( 。 し か し、 それは河野本道の方であり、山田たちなのではない。河野本 道の「アイヌ民族は近代によってつくられた」 、「前近代のア イヌには近現代とは相対的に様々な多様性があった」などと いったような論調は、彼は自ら進んでまさしくそう加速させ たのだ。しかし、山田が河野の、言わば、政策を「歓迎して いたという別の単純な構図」に気づいたのは、河野が最終的 に歴史の不可逆的な断絶として存在する蝦夷地の入植植民地 化の 後の 4 4 世界においての「アイヌ民族の主体的なあり方」を 読み取れなかったからなのではないか。河野にとって、その 読み取りをずっと防いできたのは、体制側による区別の仕方 だったようだ。たとえば、次の発言で河野は近代以降のアイ ヌの行動や、特に現代における先住民族の政治をすべて「支 配者からの立場」の認識に汚染されてしまっているかのよう に見ている。サイードの言うような「からまりあう経験」だ けを見出そうとして、近代以降の「アイヌ民族の主体的なあ り 方 」 を も 可 能 に し た 断 絶 を、 河 野 は ま る で そ れ が〈 ア イ ヌ〉なる者にとって単なる 喪失 4 4 によってしか規定されていな いように述べている。 北海道島の一島民としての生き方を模索する必要がある でしょう。私はアイヌ研究などもそうした立場から考え
ています。人はどこで生まれようと平等に生きる権利を 持 っ て い る。 『 お 前 は 出 て 行 け 』 と い う の は お か し い で すよ。民族なんていう概念は曖昧なままで、時代によっ て変わるものですし、アイヌ系住民による先住民族運動 も、 私 は 基 本 的 に お か し い と 思 う。 日 本 列 島 に お い て は、津軽海峡をこえて縄文時代から文化の交流、人の交 流がありました。その変遷を見たときに、どこでアイヌ と和人を区切るのかという問題がある。明確にはとても 区きれませんよ。北海道という場は明治二年に体制側が 設けた領域でしかない。それ以前から北海道島民と本州 人は、社会的な底辺では常に、古くから通婚関係を含む 交流があった。支配者からの立場で区分けしようとする か ら、 ア イ ヌ が 和 人 に 分 類 さ れ、 『 旧 土 人 と 和 人 』 と い う言い方がどうしても出てくる。それは体制側によるも のです。底辺では決してそうではなくて、男と女ですか ら ど ん ど ん 混 交 し て い く の は 当 た り 前 で、 そ れ が 急 激 だったか、緩やかだったかというのが、時代的に変わる だけのことです。だからアイヌ史と日本史は、かなり重 なり合う共通の部分があります。その重なるところ本当 は分離できないと思う。しかしながら、国家と非国家の 関係で歴史を見ると違ってくる。先住民かどうかという 議論そのものが、本来的におかしいと私は思います。あ れは今日的で政治的な権利主張によるものでしょう。し かし、基本的な権利から見れば、人はどこ生まれつこう と平等に生きられなければならない。民族という概念は 近代社会で創られたものです。しかも言葉の意味すると ころを曖昧のままで来てしまっ た )11 ( 。 問 題 は 断 絶 の 事 実 に 全 面 的 な 強 制 力 を 帰 属 さ せ る か わ り に、 そ れ が 可 能 に し て き た も の に 注 目 す る こ と だ が、 そ れ は、河野の発想にはない。断絶の事実は、単なる抑圧ではな い。時には、それに従属する者には、それに抗おうとすると き に 使 え る 持 ち 駒 を 手 渡 し て し ま う 時 が あ る の だ。 し か し、 先住民族の政治に対する偏見まみれの論調で、河野にとって ア イ ヌ は、 た だ た だ 近 代 以 降 は「 ど こ 生 ま れ つ こ う と 平 等 」 でなければならないものとなった。また、この点こそが、非 対称性を無視した「平等を実現するために権限のない側を底 上げせよに主張するのではなく、権利のある側から権利を奪 い取る方向での主張」をする現在の普遍主義的レイシズムへ と流れ込んだ彼の論調なの だ )11 ( 。非対称性をつくった入植植民 地主義の軽視、ましてやその歴史の否定や抹消へとつながる 論調だ。 次回からは、河野がアイヌ民族否定論をいかにして表明す るようになったのか、その背景と方法をより体系的に検討し
ていく。冒頭で述べた晩年の活動とその社会への影響、加え てアイヌ研究界隈一部における河野の再評価が行われようと していることなどを考慮した上で、こうした作業はなおさら 必要のように思う。具体的には、四つの出来事を中心に据え て論じていく。①一九六八年九月に東京と京都で開催された 第八回国際人類学・民族学会議の前後に計画されていた北海 道白老町でのエクスカーションに対する彼の抗議、②一九七 〇年代初頭の北海道旧土人保護法をめぐる「存廃論争」にお ける河野の立ち位置、③一九八三年から河野が約十年間にか か わ っ た 北 海 道 ウ タ リ 協 会 の ア イ ヌ 史 編 集 事 業 と そ の 解 任 と、その後の彼が展開した現代の「アイヌ民族」分析、そし て、④二〇〇八年の「アイヌ民族を先住民族とすることを求 める国会決議」の可決以降の余波の中での河野の行動、であ る。 註 ( () Edward Said, ‘Always on Top ’ London Review of Books , Vol. 11 , No. 1, 11 March 1111 , pp. 1-1 . 邦訳は筆者 による。 ( 1)「 日 本 の た め 行 動 す る 会 」 は、 「 自 主 憲 法 を 願 う 道 民 会議」を前身とし、設立に関わった当時札幌市議会議員 の 川 田 匡 桐 の ブ ロ グ に よ る と、 「 日 本 の 手 で 新 し い 憲 法 を作ることをはじめ、日本のために様々な行動を起こす 会として」 、二〇一二年夏に設立された。 「自主憲法を願 う道民会議」は憲法記念日に集会を行う実行委員会の名 称として残ったようだが、後に日行会主催の「自主憲法 制 定 を 願 う 道 民 の 集 い 」 と な っ た( https://ameblo.jp/ kawata-tadahisa/entry-((1111111(1 .html )。 幹 事 長 の 坂 元倫孝は札幌市出身で北海学園大卒、豊平警察署協議会 会 長 な ど を 歴 任。 日 本 会 議 北 海 道 本 部 常 任 理 事 で も あ り、札幌護国神社総代も務めている。 ( 1)「行動する保守」と呼ばれる右派系市民運動は二〇〇 〇年代後半から起こってきていると言われ、思想的には 歴史修正主義を引き継ぎ、かつての右派系運動とは異な り、特にインターネットでの動員を主として、右傾化す る政治家や既成政党に共振しながら、その主張を超える 意図的な差別主義に満ちた激しい排外主義的デモや街宣 を行うという特徴を持つ。 ( 1) 詳 細 に つ い て は、 岡 和 田 晃、 マ ー ク・ ウ ィ ン チ ェ ス ター編『アイヌ民族否定論に抗する』河出書房新社、二 〇一五年を見よ。 ( 1) 的 場 光 昭『 ア イ ヌ 先 住 民 族 そ の 真 実 ― 疑 問 だ ら け の 国会決議と歴史の捏造』展転社、二〇〇九年/的場光昭