著者
斎藤 弘行
著者別名
Saito hiroyuki
雑誌名
経営論集
号
59
ページ
1-14
発行年
2003-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00004931/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja経営学における人間像
斎 藤 弘 行 はじめに 1.経営学の認識 2.人間もしくは人間像の理解 3.経営学における人間像 終りに はじめに 経営学では人間をどのようにみるか、どのように扱うかという問題を統一的見解として提出して いないように思われる。経営学がより自然科学性を帯びればそれだけ人間の問題はそれに沿った扱 いを受けることになる。しかしこの小稿では経営学を純粋に科学性をもつものとしないとする認識 に立って人間を見る。そのときどのような人間が考えられるか、あるいは人間像が形成されるかと いうことに我々の関心がある。そのような人間像が仮に形成されるとしても、それが正しいかたち だと我々は主張しない。経営学の基本的立場をある方向に設定すると、人間がどのような対象とし て現われるかを知る試みをするまでのことである。 しかしこれは大きな仕事である。先ず経営学をどのように規定するかとする課題から出発しなけ ればならない。今どきそんなことをする余裕はないとする意見が多数であろう。眼前に直ちに解決 すべき仕事の処理に迫まられていて、経営学の方向を求めるような、一種の方法論的思考を操るこ とは遊びの分野なのかもしれない。経営学が広義のテクノロジーと協力してそれを取入れることに 集中するとき確かに、どんな学問かを求めるのはナンセンスである。現実の問題を解決しさえすれ ばよいことになる。そのような情況のなかで、経営学のある立場を求め、そこに人間像の発見をし ようとするドンキホーテの試みをあえてやろうとする。 経営学として我々はこの際に英語圏におけるマネジメンおよび組織論と、ドイツ語圏における経 営経済学を認識する。そのとき何故そうした学科が経営学として我々が受取っているのか明白な標 識を知らない。一般に、経営学らしい学問様式を備えているというた根拠不明な説明のしかたしか 得られないのは反省すべきであろう。1.経営学の認識 経営学というときどのように考えたらよいのかが出発点であるが、単純にしてしまえば英語圏と ドイツ語圏におけるある学科をとりあげて示すか、その混合形を考えれば済むことである。経営と は何かをいくら考えても明快な説明もないし、そういうことから単純化から始めるのが楽である。 また上記の文化圏は言語を中心にした文化圏を基本としていて、そのことを考慮に入れるならば、 (人類学的)文化概念を無意識に採用していることになる。1)その節には、それぞれの文化圏には それ特有の経営学があってもよいと考えてよいかもしれない(といっても経営学それ自体の定義を していないのだが)。もう一度、これらの考え方をまとめると、経営学を知る前に、経営学が存在 する文化圏を設定してしまっていて、その領域(地理的限定にこだわらないで)における経営学と 称される学問領域を我々は研究の対象にする。それ故に、わが国にも固有の経営学があってよいこ とになる。あるとすれば「日本経営学」であろうが、そういう名称はわが国の範囲では聞かない (ジャパニーズ・マネジメントという名づけは別にして)2)。 このことは経営学が種々なかたちと内容をもって存在することを意味する。自然科学が万国共通 に同一方式および思考で存在するのとは意味が異なる。そういうことは経営学が広く文化科学であ るということなのかもしれないが、そのような科学領域を設定する作業をするところまでいま物語 りを進行させない3)。どちらにしても経営学はどうもグローバル化への努力はしているけれども、 その努力は未だ実らないといっておいたほうが経営学者を喜ばせるかもしれない。しかし我々の立 場は明確に文化圏を想定した経営学を支持するのであって、それに従えば日本の経営学がある筈な のに、そういう名称の経営学を主張するものは少ない。むしろ日本および他の文化圏とのハイブ リッドの経営学があるように見える。このことは日本の経営学が未成立なのか未成熟なのかよくわ からない。あるいは日本人の器用さのために上手に各文化圏の特色をとり入れているのかもしれな い。 我々がしばしば誤解するのは、経営学という名称のもとに、各個別の学科を特定して、それが経 営学であるとすることである。例えば我々の専攻領域としての経営組織論は経営学のなかの部分学 科であり、経営学そのものではない。それにも拘らず、当該組織論を経営学そのものとしてしまう ことがよく行われる。この手の方法は、例えば経営学というからよく見ると、戦略論であったり、 企業文化論(または倫理学)であったり、人間資源マネジメントであったりする。それは経営学の 部分領域(範囲がどれほどカバーされるかは差し置くとして)であって、経営学そのものではない。 このような見方の意味は、経営学という名称は一般性、全般性、総合性などを特色とすることで ある4)。例えば経営学の特色は、こうであったということと、経営組織論の本質(特色)はどうか ということと、説明様式がかなり異なるのである。今日、企業活動の現場で企業側からの成果もし
くは結果を請求されて経営学は困惑しているけれど、そうした表現方法は的を得ない。経営学はそ うした個別の事象にいちいち対応できないようになっていて、対応できるのは各部分学科の責任で あるかまたは役目なのである。経営学以外の領域で、社会学や心理学、もしくは経済学が対応しな いということは余り聞かないけれど、経営学への対応への要求は厳しくつきつけられている(この 問題は認識対象のこととして別のところで論じられるべきだが現象面だけを伝えているに過ぎな い)。現実に工学は役に立たないとは言はないが、経営学は役に立たないとはよく耳にすることで ある。 この視点に立ってみると、英語圏において経営学(というわが国の独特の表現方式に従うと)と 呼ばれるものは、マネジメント論であるか、マネジメントおよび組織論(という合名)であるかも しれない。ドイツ語圏においては、経営経済学であり、その前に一般的もしくは全般的という形容 詞を付けて、個別の事項のこととは区別している。英語圏では経営という言葉を使っていないが、 ドイツ語圏では使っているから(わが国への経営学の移入のことは別にして)、経営の誤解をする ことはない。 さて、具体的に、どのような文献(と資料)をあげれば、一般性を示すものといえるかが難問で ある。最初に英語圏のマネジメント論文献をあげるとすれば、基準がなくてはならない。ここでは 「マネジメント」という表題のあるものをあげる。またどの年代のものからかということがあるが、 このところ20年間くらいの文献であろう(その論理的根拠はない)。またマネジメント論とオーガ ニゼーション論(とくにビジネス領域における)との区別が明快ではないので、文献によってはど ちらをあげても構わないことも多い。 これに対してドイツ語圏の文献では、経営経済学や、一般経営経済学の表題を目当てにとりあげ ることができる。これにより我々の負担は軽減される。残る課題はどのくらいの期間のものかとい うことであって、マネジメント論と同じく、20年くらいでよいかもしれない。そうはいってもここ にも問題点がふくまれる。それは、経営経済学のほかに、英米流のマネジメント論の考えを強く出 す、マネジメント論が別に存在する。それを一般経営経済学と同一視してよいかどうかということ は決められない。もうひとつ、近時、ドイツ語圏においては一般経営経済学の出版はほとんどなさ れていないということである(ということはわが国も同じであるが)。この事情はどうして発生す るのか知るのも大きな関心事であるが、ここではこれ以上のことは語らない。 上記において我々は経営学の名称をめぐって考えられことを示してみた。経営学というレッテル がいかに不統一に使用されているか、その名称が誤解されているかを知る。特に英語圏には経営学 に相当する語がないことも理由である(というのはわが国では経営学は英語圏の学問が大勢を占め ているから、経営学はマネジメントのことと同一視されることもある)。しかし我々の課題はこれ
までの説明経過を経て、経営学のなかで人間がどのような姿をして登場するのか(かなり比喩的表 現であるが)、どのような取扱いがなされるかを探すことである。マネジメント論(および組織 論)と経営経済学(もしくは一般経営経済学)のなかに人間という言葉そのものをはじめ、それを めぐっての考え方がどのようなものかを理解することである。そのためのテキスト選択がなされな ければならない。そのとき既に若干触れたが、選択基準があるようで、本当はないのだと言わざる をえない5)。 2.人間もしくは人間像の理解 人間もしくは人間像の知識はどのようにして入手できるかを若干考えることが必要である。結論 的にはその知識は容易には(我々の知識範囲では)獲得できないし、まして人間像の形成などとい うことは不可能だということである。従って我々は人間を扱うものと思われる、経営学以外の学問 領域のなかで、人間について触れた部分を探し、またそれを解釈することから始める。 社会学において使用される社会学的想像力がないと、人間の理解ができないかどうか我々にはよ くわからないが、個人の生活事情と歴史的経過と組立とを結合させる能力が必要なことは、この言 葉の使用者であるミードの言う通りかもしれない6)。そのなかで特に我々との関連で必要な事柄は、 どんな特定の社会構造があるのか、この社会は人間の歴史のなかでどのような地位にあり、どのよ うな変化をするのか、どのような人間の多様性があるのか、どのような種類の人間の特性が行動か その性質のなかに現われるのかといった質問にたいする対応(解答といわないまでも)を可能にし てくれるのが社会学的想像力ということである。我々に特に関連する事柄は最後の質問であり、推 測するに最終的にはこの解答をもって人間の知識が得られるということである。これによってひと つの狭い視点から他の領域へと人の関心領域を移行させることができるようになる。それは最も没 人格的で、現実離れの操作から、人間の自我の内心的特色にまで恒る能力のことであり、さらに、 この間の関係を知ることを可能にする能力が含められているという。そうすると古典的に人間を定 義することで人間を理解するのでなく、(例えば哲学のするように)人間の個人的問題と、社会的 情況もしくは環境とに関連づけて人間を解釈しなければならない。社会学らしい考え方が形成され ているということができる。 我々はしかし社会学的視点に拘っていない。他の学問領域からも受入れる用意がある。人間その ものではなく人間の性質という言葉に当ってみる7)。すると、あらゆる人間および人間だけに属す る質的なものもしくはその集合したものであり、現在我々が人間としてあるすがたのことである。 人間の性質を考えとき、他にも生物があって、それにもそれをかたち作っている特質(エッセン ス)があることを主張できる。それで人間の性質を無数にあげる操作がよく行われる(利己心、嫉
妬、言語使用、笑うことができること、非道徳性など)。性質を知るための方法について意見が分 れている。永遠のかたちを求めての形而上学的洞察をしたりすることもあるし、他方で、生物学や 行動(学)の観察から知ることもある。哲学者は最初から人間の性質を、神との関連で示したがっ たり、道徳と結びつけて示そうとする傾向にある。(例えば道徳的思考は生活を成り立たせないな ら無意味だということもありうる)。また人間の性質がいろいろの方法で形づくられるのだとする ものもある(社会学や心理学の影響を受けているように見えるが)。 こうした考えをまとめて次のように示すことができるという8)。(a)完全論者の考えとして人間 の性質は適応性がある(から鍛えることができる)、制約的考えにおいて、適応性がないとする。 (b)人間の性質は社会的影響力に対する生物学なものの結果であるという考えが一方にあるが、こ の両者の間のどかに性質を設定するかにつき議論が分れる。(c)人は自分自身の条件により左右さ れるのか、それとも自分と他人の条件との比較によって決るのかという考えのどちらかもしくはそ の間のどこかに置かれた位置かに関する議論がある。(d)人間の性質を決めるのは哲学的思考から 切離すのがよいとする考え方がある。我々はこれらのどの傾向に向うのではなくて、さらに人間の 説明を聞くと、人間性(質)の概念の哲学的重要性は哲学的人間学と人間学的歴史哲学の成立が あって、それと同時にとりあげられるようになっているという指摘に注目する9)。それらについて の説明を引用するのだが、我々の立場をどのようにするかは、その後のことである10)。またこの段 階においては資料の年度には無関係である。 ドイツ語圏でよく見られる、哲学的人間学という領域がある。哲学の歴史のなかで、認識の規定、 世界の存在構造、倫理の基礎づけ、人間集合(社会)の基礎づけなどの解明に当って異なる立場が あったが、常に人間学的仮定の中心はなにかということが意味をもって来たということは哲学の初 歩として知られる。そういう意味で哲学は哲学的人間学ということができるかもしれない。人間を ミクロコスモスとして理解する認識が早くから出来上っていた。それが、他の生物にたいする人間 の特別な役割ないしは立場を考える土台として考えさせるように展開して行く(例えば人間だけが 思考するといったことなど)11)。こうしたテーマによってかなりの程度、人間の本質がわかるけれ ども、現在、我々にたいして示される、哲学的人間学の名前をあげることが、人間の理解の源泉を 教えてくれる。例えばシェーラー、プレスナー、ゲーレンなどである。これらは20世紀の20年代に 西欧におけるひとつの哲学類型をつくったものとして著名である。その目的は人間に関連するあら ゆる学問の統合により人間の本質の基礎づけをしようとすることである。その際には生物学、心理 学、社会学などの成果に頼ることになっている。 このうち特にゲーレンが、人間―生物的構造をもつ人間をテーマにしていたことも知られている12)。 あらゆる生物と同じく人間は欲求充足にかんして自己の外界に依存すが、他の生物とは異なって、
動物の生存を保証するような本能の装備なしでやっていけるとする。その場合、人間は自己の外界 を目的に合わせてまた同じように自己の散らばった欲求を再構成する必要に迫られている。本能が 狭められることは外界にすっかりさらされることになってしまうことである。その結果人間は無期 限にある役目を負うことになる。自己規律や態度設定は自分本来のもの(かどうかわからないとし ても)に逆って生み出さねばならない仕事のことを意味するようになった。道徳というものは、制 限された欲求充足であって、それは自分の本質に反対するものを含むと捉えてよいかもしれない。 反対するとは、どこか他のところから由来するのでなくて、人間と外界のあり方として、そうした 事象も自然より与えられたもののひとつと解される。かくて人間は本能の欠落と狭まりに直面して 制度を創り出すことになったのだが、制度は自己安全を本能に代って確保するものである。だから といって人間の理性の上位性質に代って制度があるということにはならない。 またヘッシュに従って哲学における人間像として4つをあげることができる13)(a)多くの学問領 域では人間とは何かの質問に熱心ではないが、どのような視点で考えたらよいかを示してくれる。 生きものというのが最も重要な特色であるとしても、とくに自分自身についての立場をとることが できるものとする。自分の知覚をし、利用した動因と特性についての考えをもつこと、他人につい ても自己の立場を明白にして、人が自分にたいしてどうみなすか、自分が自分自身をどうみなすか について考えることができるとする。(b)人間像とは人間が自分および他にたいし、さらに相互的 な関係についてもつすべての考え方である。これはこれらすべての人たちの社会的実践活動を映し 出している。この社会的活動は人間と共に変化する。(c)人間像を人間と像に分けて考える試があ る。像は、似姿とかコピーなどといった二次的なすがたを示すモメントと、同時に一次的、本質的 なすがたをもつモメントを含む。これは指導像を意味することもある。こうすると一方では理論的 研究においてモデルを作ろうとするときに人間像を持つことが必要であるのだが、人間像が重要な 概念となる。他方で、指導的な世界観をもつ人間として、政治、教育、社会形成には欠くべからざ るものとする考えが出てくる。多分経営学においてこの後者の考えが重要性を持つに違いない。 (d)人間には固有の生活様式があるが、その共通の特色から読みとり、規範化した結果として、多 様な知性ある人間を理念型的に大まかにまとめて示したものとする。 このような説明においてさらに要点のみをあげると、人間は自己の立場と他人の立場とを確認で きる生きものであること、自己確認のできるものであること、人間は社会的活動のなかで変化する もの、人間は人間の指導像をもつこと、つまり世界観により導かれること、指導像を決めると研究 しやすくなること、人間像は結局は理念型であり、人間(像)の短縮化であることということがで きる。それらは生物学や心理学との直接的な関連なしに述べられているが、我々もおおよそこの考 えに従う。
3.経営学における人間像 我々の人間像の理解は哲学領域より借入れたものであり、不十分なことは承知している。これに ついてあらゆる分野の説明を列挙する余裕はない。ここでは、哲学的人間理解を含めて、実際に経 営学に現われる考え方を見る。もちろんそれぞれの、とりあげた文献が人間および人間像を明確に 規定しているのではなくて、我々がテキストにおけるコンテクストより推定することが多くなるで あろう。 (A)英語圏におけるマネジメント論のなかに現われる人間を見ることから出発する。それはどの ような人間像を設定するかについて明言しないのが普通である。従ってマネジメントそのものの説 明もしくは定義のなかでの、人間への言及を観察する以外に知る方法はない。標準的なテキストと して知られている、バイリックとクーンツのマネジメントにおいて次のように定義される。「マネ ジメントとは、個人が集団となって協力して活動し、選択された目標を効果的に達成しようとする 環境を設計しかつ維持するプロセスである」と。これに合わせて、(a)マネジャーがいて、それが マネジメント機能を果す、(b)マネジメントはあらゆる種類の組識にあてはまる、(c)あらゆる組識 レベルのマネジャーにあてはまる、(d)あらゆるマネジャーの目標は同じ、(e)マネジメントの実践 は生産性と関連するというコメントが付いている14)。 もちろんこの短い引用から人間像を知ることはできない。しかし先ずもって人間の存在を前提と していることは確かである。また少なくとも人間が何らかの行動をとっているか、ある行動をとる ようにもって行くことを試みるようにするのを特色とする。各機能のなかで、極めて人間が人間ら しい活動をするとすれば、プランニングにおける、意思決定の役目である。そこで人間がマネ ジャーとして機械と同じように意思決定を下していないことが明示される。またこれと関連して創 造性と革新がテーマとされるようになるが、それについての説明を人間を除外しては不可能である。 また、マネジメント機能としての組織(および配置、並びに指揮・指導)を語るとすれば、ほとん ど人間のことに触れなくてはならない。 こうした初歩的知識をもとにしてその場面に登場する人間についての知識の由来を問うことによ り、どの人間または人間像があるかを知ることができる。すると心理学と社会心理学の扱う人間が 中心となっていることがわかる。ということはそうした学問に接近しなければならないということ になる。このことはさし当って、この小稿におけるスペースでは処理しきれない。従って、マネジ メント機能のなかで、ある機能をとり出して、心理学および社会心理学の大きな影響を受ける課題 は何かを見るのが(単純化であるが)、人間像を獲得する手掛りを与えるとする方向に進む。 マネジメント機能はどれをとっても、ほとんど人間の取扱い、表現が良くなければ人間の問題に 直面しての解決を主題とすることがわかる。例えば指揮・指導の機能のなかで最初にあげられるこ
とは、マネジメント活動における人間的ファクターである15)。それは、マネジメントのプランにお ける、単なる生産要素以上のことであると人間をみている。各個人は欲求と目標を持つこと、また マネジャーはこの欲求を満し、また、そのフォロワー(人間)の潜在能力を有効に活用し、組織 (企業)目標を達成するようにすることが出発点である。こういうことは最先端の機器があれば可 能というのではない。この場合、人間のどのあたりに注目すればよいかという点が様々な論者によ り伝えられるが、(a)人間は多くの組織の社会的システムのメンバーであること、(b)それぞれの人 間は自分自身が異なったものであること、つまり平均的個人は存在しないこと、(c)各人はそれぞ れ尊厳をもつこと、(d)人間は全体的人間であることがひとつの人間像の形成の基準である。 これら各項目は既に多くの経営学以外の分野で論じられていることであるからこれ以上の叙述は しないが、我々はここで人間が個人(インデビデュアル)もしくはパースンという表現で示される ことに関心がある。パースンは哲学的領域に現われるものとする考えが一方にある。その場合人間 を人間たらしめての人間の性質をあげる。合理性、言語使用、自己意識、事象の区別感覚、道徳価 値もしくは資格と権利などを示すことがよくある。また、個人とパースンの区別をして、個人は悪 い意味で用いられる(利己的、価値観の欠如、いかがわしきもの)がパースンは生くべき価値と他 人との関係をつくり出すものとする(パースナリズムの考え方)16)。このように引用したとしても マネジメント論において、こうした人格主義を採用しないように見える。そこでは、心理学や社会 学および社会心理学の知識が基礎となっている。そのことはそこに引用される文献を通して知られ る。その主題として例えば動機づけ、リーダーシップ、集団意思決定、コミュニケーションなどが しばしば登場する。それ故に、場合によっては各専門分野の知識をそのままあてはめれば済むこと になる。但し、リーダーシップをあげるとするとして、そこに引用される文献は心理学そのもので はなく、心理学(および他の学科)を使用した同類の文献および資料があげられるのは興味あるこ とである17)。 組織論においては、一般には組織行動(論)もしくはマネジメントおよび組織行動(論)などと いう名称が多く使われていて、このなかでランダムに1つをあげてみる(といっても改版の度数の 多いものをとる)。この種のテキストの構成は他の同種テキストにおいてもほとんど類似している。 その基本的標識が人間についてどのように付されているかを見ると、知覚と個人的意思決定、価値 および態度、動機づけである。それが集団と組織システムへと拡大されて行くように構成される。 そこでの標識は明らかに心理学の知識を拠り所としている18)。また、パワーと政治学の叙述におい ては、文字通り政治学そのものからの引用が多くあるというのではない。社会学の引用もあるし、 特にどの分野からのものが多いかを決めることはできない。しかし内容からすると、政治的人間像 が背後にある。例えば、「組織における政治的行動とは、組織における人間の公式的役割の一部分
として必要とされるだけではなく、組織内における良いところおよび悪いところの配分に影響する かもしくは影響する試みのある行動である」という叙述にそのことが知られる。政治は組織におい て否定されるべきことではなく事実である。正当か否かを決定できない事実が多くあるとき政治が 作用することは誰もが知っているがそのことをきちんと採り上げるし、政治人間を認めるのが組織 論である。 これと同時に経営組織論において、組織文化を考察するのが常識化している(これはマネジメン ト論でも行われるが)19)。組織論が文化概念を受入れたのは文化人類学の影響であり、その知識を 多用することも明白である。これは人間および事物に係わるところの、とくに目に見えない部分を 考察するときに重要である。しかし目に見える、誰もが知っている事柄の背後に何かあるかを見出 すことにも関連する。これまでの純粋な科学思考だけでは観察できなかった姿を観察し、原因(と 対策)を知ろうとすることが求められてきた。ここでは文化そのものの定義をしないが、組織文化 を主題としたときに考えられる人間像を獲得することであるから、そうした組織の隠れた次元から 生成される人間像は果してあるのかどうかと質問されるであろう。 組織においては政治的人間像と、いま述べた文化的背景をもつ文化的人間像も存在するとして、 その人間像を文化の類型を通して形成する試みをする20)。(a)とくに若年者を受入れて特別の訓練 により、たくさんの専門職務を習得させるかたちをとる。アカデミー型とする。(b)年齢と経験を 大切にする。コミットメントや忠誠心に価値を置く。クラブ型という。(c)年齢や経験を問わず、 成果にたいする報酬を与えることが中心であって、とくに才能ある人を求める。企業家的な活動で 革新を進める狙いがある。ベースボール型と呼ばれる。(d)様々な学習や体験のなかで辛い時期に 突き当るとき、その下方の運命を逆転させたいと人は願うものである。その行為はいわば自己の存 続を求めるようなものである。これを要塞型と呼ぶ。 現実にはこれらの型が明白に出現することはなく、混合または組合わせのなかに見られる。また 部門によって異なる型をもつかもしれない。さらに一方の型から他方の型へと変化することもある。 そのことを考慮したとして我々の想像する文化的人間像は上記に示されをタイプの組合わせを特色 とするとする。こうした人間像のなかに異なるパーソナリティが存在することがわかる(といって も心理学そのものを示唆していないが)。文化的人間像はここではあるパターンをあげたに過ぎな いが、やり方によってはいくらでもパターン化をすること、また組合わせをつくることを特色とす る。これまでの人間像に促われない人間像を知ることになる。 (B)ドイツ語圏における経営経済学(およびその関連領域)のなかの人間像に触れることが次の 大きな課題である。これに関して先にあげたヘツシュのテキストを利用する21)。このなかで人間像 の明示があるものと、そうでないものの区分がなされる。心理学における人間像の捉え方をもとに
しての区分方法とされている。すると心理学の理解の方法として、行動の科学もしくは行動科学と して単純化され、示されることが多い。但し行動の概念のなかに暗々のうちに体験と意識が含めら れるとするという。このようにして結論的には、哲学的領域で用いられる定義の方法としての顕在 的定義と暗黙的定義があげられ22)、このどちらかのなかで、人間像がとりあげられているとする。 これらを我々のコンテクストに組入れると、暗黙的人間像は、その定義をきちんとすることなく、 人間について考えかつ説明していくうちに自然と人間のことがわかるといった仕組をとる。この際 我々の側のかなりの判断力を必要とすることもあるかもしれない。多分人間の本質について前提に されている事柄が相当な役割と果しているであろう。それは隠れた人間像ということになる。これ に対して顕在的(もしくは明示的)人間像は、人間像のモデル形成と同じとみられる。学問構成は およそこの形式をとることは常識である。ここでは生物心理学的モデル、精神力学的モデル、行動 学的モデル、人間性心理学的モデル、認知心理学的モデルなどがあるとする。要するに心理学(お よび社会学と、その関連する学問領域)においてしばしば観察されるモデル思考ということができ る。 このように述べると我々があたかも心理学の分野に入り込むかもしれないが、今はそうしない。 また人間像を考察するためのメタ人間像の形成にも関係しない23)。我々は人間像の形成と叙述の基 礎となるべきあらゆる前提条件を超えて、直接的に経営経済学の文献における人間像にあたること にする(その場合、経営経済学の名称の文献のみならず、マネジメント論や経営経済的組織論など も対象となることもある)。その際に、経営経済学が人間像に触れるいきさつを語らなくてはなら ないが、またそうしなければ論旨が深化されないが、ここでは次のことを示すにとどまる。(a)経 営経済学が1960年代の終り頃に、社会科学的並びに行動科学的余地を与えたこと、(b)そのために 経済行為する人間の行為が明白に対象とされるようになった。(c)それに従って、多くの経営経済 学の専門家や学問並びに研究の中心的位置に人間を置くのがふさわしいと考えるようになったと24)。 実際に経営経済学のテキスト(その名称のまま)をランダムに見る。すると特に人間像という用 語を使用しないことがわかる。それだけで人間について触れないと判断しない。どのようにして人 間の存在が記述されるかを知ることができるかということについて一般的見解はないが、例えば経 営経済学の学問傾向の区分のなかで、特に人間が出現する可能性のある領域を知るのがひとつの手 段である25)経営経済学は、(a)要素理論的方法、(b)意思決定論的方法、(c)システム論的方法に区 分されることがよくある。(a)について、研究は没価値的特色をもつこと、純粋理論の開発をする こと、研究は経験―現実的認識プログムによりなされること、ノモセティックの学問とみなされる こと、仮設的・演鐸的方法がとられることを特色とする。(b)について、これは主としてグーテン ベルクのシステムとニックリッシュの規範―価値的経営経済学の統合したものとみなされている。
その中心にあるのは、個別経済における、経済行為をする個人の意思決定である。(c)について、 さらに(b)を展開させたものであり、未来の現実のための形成モデルの開発を試みる。これは同時 に心理学的、経済学的およびテクノロジー的次元を同時的にとり入れて観察および形成を行うのだ が、それはシステムがよく機能するような努力を含むことになる。 上記の学問傾向のなかでどのような人間が存在し、どのような姿(人間像)をするかを知るのが 我々の課題である。それは(b)における、意思決定指向の経営経済学において中心的立場に立つ、 意思決定をする人間が主役になっているという発見のなかに見られる。この人間はシステムを主体 的に機能させる人間として我々は認識する。しかるにシステム指向の経営経済学においては意思決 定する人間の自由度がシステムのなかに制限されるように思われる。システムの理解のしかにもよ るが、観察のための土台が他の学問領域の成果をもつとしても、システムから逸脱しない人間がシ ステム指向のなかに前提とされている。むしろエンジニアリングの考えが強くなる傾向を示すかも しれない。 だからといって我々は意思決定指向の経営経済学における人間像をそのまま受入れようとするつ もりはない。そのためにここで再び、人間像そのものの概念把握をすることになる26)。これはとく に社会(諸)科学を追及するに当っての、先科学的要件なのである。いわば経営学のための目標指 向である(ここでの目標は企業目標ということは異なる)。経営学を開始する前に決定しておくべ き選択決定ということをそれは意味する。人間像のほかに社会についての考え方(イメージ)およ び学問指向(現実と学問的言明との関係を扱うこと)があげられるが、ここでは人間像に触れるこ とが先決問題である。「人間像について、人間とはどんなものか、人間はどのような欲求を持つか、 どのような目標を追及するか、この世の中でどんな地位にあるのか、他の人間とどのような関係に あるのか、思考と行為を決定するものは何か、また人間の限界はどこにあるのか、ということにつ いての前定27)が重要である」と引用することができる。 さらに、ヘッシュはいくつかの人間像を引用するが、それを示すと次のようになる28)。(a)人間 像は人間の本質についての、単純化された経験的および/もしくは規範的言明である、(b)マネジ メントの具体化方策の効果についてのあらゆる言明は、明示的もしくは暗示的に、経営的職務負担 者としての人間についての一定の前提から出発する、(c)社会的システムのエレメントとしての人 間の行為が、人間の外界における全体としての社会的システムの行為を規定する。組織はこのシス テムの形象構造と過程構造のための方策の合計なのだが、それは常に、システムメンバーの行為に ついての一定の前提から出発せねばならない。この前提の合計が組織(創立)者の人間像をつくり 上げる」と。 このような人間像が経営経済学のなかで明白に定義されてから、学問が始まるというのではない。
従って繰返しになるが我々は、当該学問のなかでコンテクストのなかから、またそれを通して判断 するより他に手段はない。いかに人間像区分をしたところで、それがそのまま妥当するかどうか確 信はない。従って我々はここでは、この3つのタイプの統合としての人間像を想定するに過ぎない。 それは余りに恣意的であり、これまでの区分努力を無駄にする恐れがある。従ってそうならないた めに、人間像についての基本的標識をあげることにする29)。(a)人間像は、学者並びに実務家によ る主観的認識過程の結果である、(b)人間像は構成されるのであり、それ故に人間像を生み出す人 間に依存してはじめて、十分に解釈されまた評価されることができる、(c)人間像はただ、像(イ メージ)にすぎない。従って人間像は現実の人間と同じにされてはならないと。 こうして我々は経営経済学において人間像が意識的にか無意識的にか形成され、存在しているこ とを知るのだが、それを頼りに、扱うべき、追及さるべき経営経済学のスタイルが決ってくるとい うことができる。特に経営経済学のなかにしばしば見られる人間象は、パーソナリティ理論を通し て(明白か暗々かは別にして)存在することがわかる。さらに、マネジャーのタイプ化やリーダー シップ(リーダー)の解明によってわかってくることが多いようだが、このことは経営経済学が純 粋にその学問的立場を主張できないことを意味するということができる30)。 終りに 経営学ばかりでなく一般に社会科学を追及するためにはそこにどのような人間が前提とされるか を知ることがひとつのテーマとなるかもしれないという問題設定のもとに作成されたのがこの小稿 である。そうすることにより経営学の基本的立場を知ると共に、どのような経営学であるかを認識 することができると考えられる。こうした課題はとかく哲学的知識のもとに接近されることが多い が、それだけに限らず、より一般的に人間像の存在を得ようと努力した。しかし、人間と人間像の 違い、人間像が分類されるとどうなるか、人間像を得たとしても、それが経営の実践にどうかかわ るかなどといった質問に答えることから遥かに離れたところにあることは確かである。また人間像 への接近が企業倫理や企業文化との関係について語られるべき余地があるのに怠っているのは十分 とは言えない。 1)経営学を考察するに当り、文化というコンセプトを最初から提示することの是非が語られるべきであるが、 我々はそのことに触れない。但し文化の考え方として次のことを引用する。レイモンド・ウイリアムズ、 (小池民男訳)、『文化とは』晶文社、1985年、11頁。「(a)生産様式全体を〈構成する精神〉に重点をおく。 社会活動全般に表われるが、とりわけ明白なのは、〈文化固有の〉活動―言語、芸術の様式、ある種の知 的作品―において。(b)〈社会秩序全体〉に重点をおく。そこでは、芸術の様式やある種の知的作品とし て区別されうる文化も他の社会活動によってつくられた秩序の直接、間接的な産物と考えられる。」この
引用のなかで我々はとくに言語活動としての文化を念頭においていて、どのような言語活動がなされてい るか、その領域はどこかを定めることにより、その言語を使う人間を囲む、他の文化要素をも捉えるでき るものと考える。 2)経営学を言語圏を中心に区別することは一般になされているが、そのこととグローバル化とをどのように 組合わせて考えるかはっきりしない。しかし言語を中心にすることはそれによりひとつの区別をすること である(従って我々は世界言語といったことを前提にしない。例えば、「言語学は方法論的にも研究内容 から言ってもカテゴリー化と深く関わっている……〈もし言語学について何か述べる事ができるとするな らば、それはカテゴリーの研究であるということができる」と。これについて、ジョン・R・テイラー (辻幸夫訳)、『認知言語学のための14章』紀伊国屋書店、1996年、1頁。 3)科学と単に言うと自然科学を含めた学問のすべてを示すこともあり、自然科学およびその傾向を特定する こともあってはっきりしない。ドイツ語圏における Wissenschaft は科学と訳すこともあり、学問と訳すほ うがよいこともある。これについて、Pietschmann, B. P. / Vahs, D., Einführung in die Betriebswirtscheftslehre, Stuttgart, Schäffer-Poeschel, 1997, S.1-2に次の陳述を見出す。「ビッセンシヤフトは次の3つの次元を含むと する。(a)専門方向の発展のためにこの学科のための活動、体系的習得、討議および再現、(b)学問研究の 成果、例えば、研究論文およびその他の出版物における成果、(c)学問に従事するあらゆる施設および人 間の全体という意味における制度」。 また文化科学について、学問分類のなかで自然科学(物理学、化学、生物学など)にたいするものとして あげられ、例えば、社会学、社会心理学、経済学、政治学が文化科学であるとする。この場合には社会科 学 と い う 我 々 に よ く 知 ら れ た 名 称 は使 わ れ て い な い 。 こ れ に つ い て 、Specht, G., Einfuhrung in die Betriebswirtschaftslehre, Ⅱ Auflage, Stuttgart, Schäffer-Poeschel, 1997, S.17.
4)Prechtl, P. / Burkard, F.-P., Metzler Philosophie Lexikon, Stuttgart / Weimar, J. B. Metzler, 1999, S.17-18. 一般性は 個々のものもしくは特性の総合にとって共通するものの表示として役立つ。一般性は、もの、特性などの クラスによって与えられる。……類概念のこと……個別のものの集合の重要な特色を普遍化したもの、例 えば、人間とは自然に手を加えざるをえない動物、理性を備えた動物など……直観―概念といった哲学的 な概念セットにかんして、判断力ある悟性概念が一般性を表わす……」
5)英語圏においてはmanagement もしくは management and organization あるいは organization を単独に用いる 傾向にあるのは示した通りだが、ドイツ語圏においては経営経済学のほかに、経営経済学とマネジメント 論 が セ ッ ト に 用 い ら れ る こ と も あ る 。 例 え ば Hopfenbeck, W., Allgemeine Betriebswirtschafts-and Managementlehre, Landesberg, am Lech, Verl. Moderne Industrie, 1990, S.5 経営経済学が社会的制度としての学 際的なマネジメント学へと展開しているのかという問題があると。
6)Giddens, A., (ed.), Sociology, Cambridge, Polity Press, 1997, pp.9-12.
7)Audi, R. (ed.), The Cambridge Dietionary of Philosophy, Cambridge University Press, 1995, p.341. 8)Concise Routledge Encyclopedia of Philosophy, London / New York, Routledge, 2000., p.364. 9)Prechtl / Baukand, a. a. O., S. 359.
10)以下について、Hesch, G., Das Menschenbild neuer Organisationsformen, Wiesbaden, Deutscher Universitäts Verlag, 1996, S.5-11.
11)Prechtl / Burkard, a. a. O., S.30-32.ここには我々の必要とする哲学的人間学の文献が示されているが、それに ついて我々は疎かにしている。
ついて未見である。ここでは次を参照する。Gehlen, A., Anthropologische Forschung, Reinbek bei Hamburg, Rowohlt, 1961, S. 17 u.37.
13)Hesch, a. a. O., S. 10-11. もともとこの種の接近方法は伝統的に著名な哲学者からの引用をなすべきだが、 我々はそれを怠る。その他に例えば、Schischkoff, G., Philosophisches Wörterbuch, Stuttgart, Kröner, 1978, S.434-436.において、人間を人間たらしめているのはあらゆる生活にたいして置かれる原則があって、それ はものごとそれ自体の最高の存在理由となっているものだとする。これが精神だという(M. Scheler)。 14)Weihrich, H. / Koontz, H., Management, International Edition, Mcgraw-Hill, 1994, p.4.
15)ibid., pp.460-462.
16)Blackburn, S. The Oxforal Dictionary of Philosophy, Oxforcl / New York, Oxford University Press, 1994, p. 283 Mawtner, T. (ed.), A Dictionary of Philosophy, Cambridgo (Mass.), Blackwell, 1996, p.207.
17)例えば、Schermerhorn, J. R. Jr., Management, New York. et al., John Wiley & Sons, 1996, notes, N-11-12における 引用文献および資料において特に心理学とするものはあまりないことがわかる。
18)Robbins, S. P., Organizational Behavior, Englewood Cliffs, Prentice Hall, 1996, pp.80-288.
19)ibid., pp.678-713. とくに p.681において、「組織文化とはその成員の抱く共有した意味のシステムのことで ある。そのシステムによって一方の組織と他の組織の区別をする。このシステムは組織が価値を置いてい る主要な特性の組合わせである」と。 20)ibid., pp.683-684 21)Hesch, a. a. O., S.25-35. ここではドイツ語圏の経営経済学に現われる人間像を整理し、説明している。 22)廣松渉他編『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年。1104頁。 23)ヘッシュはこれについて、オートポイエーテッシュ人間像をあげている。それは、オートポイエーティッ シュ・システムとしての人間」である。このもとになる、Maturana / Varela (1987) の著書を参照にする。 24)我々の手許にある資料に限定すると、これについて、Raffée, H., Gegenstand, Methoden and Konzepte der
Betriebswirtschaftslehre, in : Bitz, M. et al., (Hrsg.), Vahrens Kompendium der Betriebswirtschaftslehre, Band 1, München, Vahren, 1993, S.26., Staehle, W. H., Die Stellung des Menschen in neueren betriebswirtschaftlichen Theorie-systemen, in : ZfB, Heft, 11, 1975, S.713-724.
25)Jung, H., Allgemeine Betriebswirtschaftslehre, München / Wien, Olden Bourg, 1997, S.48-51.とくに(a)において Gutenberg、(b)において Heinen、(c)において Ulrich の名前があげられる。
26)Werhahn, P., Menschenbild, Gesellschaftsbild and Wissenschaftsbegriff in der neueren Betriebswirtschaftslehre, Bern / Stuttgart, Paul Haupt, 1980, S.10-12.
27 ) 前 提 と 仮 定 の 厳 格 な 区 分 は し な い 。 こ れ に つ い て 、Chmielewicz, K., Forschungskonzeptionen der Wirtschaftswissenschaft, Stuttgart, Schaffer-Poeschel, 1994, S.119-120.
28)Hesch, a. a. O., S. 26. (a)について Wunderer / Grunwald (1980)、(b)について Thom (198)からの引用であるが、 (c)について我々の資料のなかにある。これにかんしてHill, W. / Fehlbaum, R. / Ulrich, P., Organisationslehre 1., Bern / Stuttgart, Paul Haupt, 1994, S.56.
29)Hesch, ebenda, S.25.
30)例えば次のものは人間像とは無関係のように見える。Gümbel, R., Betriebswirtschaftslehre und ökonomische Theorie, Stuttgart, Schaffer-Poeschel, 1996. ここでも経済と倫理に触れる、S.19-32