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<論文>アメリカにおけるラジオ産業の発展と大衆文化 利用統計を見る

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全文

(1)

著者

山崎 清

著者別名

Yamazaki Kiyoshi

雑誌名

経営論集

25

ページ

109-126

発行年

1986-01-21

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00005788/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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ア メリカにおけ るラジ オ産業 の

発展 と大衆文化

山 崎 109 清 1912年4 月14 日の深更, イギ リスが誇 る当時 世 界最大 の豪華 客船 タ イタニ ッ ク号は 波を 蹴 立 てな がら, 全 速力 で, サ ウサ ンプ トン から ニa. ー ヨー クに 向 かうそ の処女 航海を 続け てい た。 ち ょうど ニ ューフ アウソ ドラン ドの沖合 い に差し かかっ ていた ころ であ る。 突 然船は に ぶい 衝撃 音 と ともに 氷 山に ま と 釧こぶつ か った のであ る。 そ の2 時 間40 分後に は, 幸 運に も救命 ボートに 乗 り移 るこ とので きた700 余人を 別 とす れば,4 万6,000 トンを 超え る巨体 が,1,913 人 の生 命 もろ とも大 西洋 の荒波に, そ の姿を 没す る とい う空前 絶 後 の 大 陰事 が発生し た。 犠牲者 のなか には ニュー ヨー クの メ イシ ー・デ パー ト の経 営 者 イシ ドール ・スト ラウスや , 毛皮 で巨 富をつ くったジa ン ・ ジェ イコブ・ ア スターの曾 孫 で, ウ ォルド ーフ ・ アスト リア・ ホテルの オー ナーの3 代 目 ア スターなど 著 名の土 がふ く まれ てい た。し かし , 同時に700 余人 の 命が 救われ た のは, たt た ま タ イタエ ッ ク号が発 す るかす かな無 電を は るか ニューヨ ー クで 傍受 し た一 青 年の機 敏 な処置 と不 腕不 屈の努力 があ ったた め であ る。 こ の青年は デ パート, ジ ョン ・ ワナ メー カー社 の無電 室に夜 勤で 詰 めてい た のだが, タ ラ ト大 統領は 彼 の受 信がさ またげら れ ない よ うに, すべ て の無電 局に対し 通 信 停止 の緊 急 命 令を 下し た。 こ うし て青年は三 日三晩不 眠 不休で イヤホンに かじりつ き, 救助 船 から 発 信さ れる生 存者 の名 前をつ ぎつ ぎに 伝達す るこ と が できた。 この青年 の名は デ一 ヴ ィッド・ サー ノフ とい うア メリ カ・ マル コ一4 電 信 会社の21 歳 にな るオペレ ー ターであ った。 彼こそ は 今日 ア メリ カで も ハ イテ クノロジー 分野 では ト ップ クラ ス の 会 社RCA

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(RadioCorporationofAme-rica)の基礎を 築い た人であ る。 サ ー ノフは のち に タ イタ ニ ック号 遭 難 の 事 故を 回顧し て, それは ( ラジ オを , そし て偶然 に も私 を も有 名にし た1)」 と 静 かに 語っ てい る。 たし かに た また ま近 くを 航 行中 の船 が無電 装置を 備え て い たから よかった といえ る が, 同時に ア メリ カ人 の誰に も, もっ と多 くの船 が この 装置を 備え てい たら, 多 分 犠牲 者はず っ と少なか った にち がい ない と い う後悔 の 念がつ き まとった こ とは否 定 でき ない 。 ア メ リカ の 議 会 は 早 速 「 ラジ オ法」 を 成立 させ,50 人 以上 の人員 を乗 せ る船に無 電 装置 の備 え つ け を 義務づけ た のであ る。 誰 も知 ってい る よ うに, イタ リア青 年 の グリェ ルモ・ マ ルコー ニがはじ め て無 線通信に 成 功し た のは1895 年 のこ とであった。2 年 後 イギ リスに 渡った マル コー ニは, 地 点間お よび 船 舶と陸地 間 の無 線通 信に 成 功し , マル コーニ 電 信 会社を 設 立し た。 この会社 は1899 年 には アメ リカに 進 出し て, ア メリカ ・マ ル コー ニ電 信会社を 設け た。 デ ー ヴ ィッド・ サ ー ノフ青年 がこ の会社0 オペレ ーター であ った こ とは 前 述 のとお りであ る。 当 時はや や下 り坂に 入 ってい た とはい え 世 界は大 英帝 国 の支配す る時 代で あ っ た。海 軍力 ばか りでな く, 海 底電 線 から そ の支 配は 空中 の無 線に まで及 んでい た。 マル コー ニ電 信 会社は 無 線技術 の 特許を 独占し , ア メリカを ふく め て 外国 の追随を 許さ なか った。1917 年 第一次 大戦 への 参戦 と同時に アメ リ カ海 軍は 軍事機密 保持 の必要 から アノ リカ・ マル コー ニ社を接 収し た が, 戦 争は ア メリカ政府に 無 線電信 がい かに 重要 であ るかを 教え た。 フ ォーチ ュン 誌は1930 年 の創 刊号 のなかで マ ル コー ニ社 の技術 独占に つい てつ ぎ の ように 書い てい る2)。 … … ア メリカの会 社 の間では ( 無線技 術 の) 特許 は分 散さ れ てい た ので, 効率 の高い 送受信機を 作ろ うに 亀十 分な必 要分を 集め るこ とは ほ とん ど不 可 能であ った。 イギ リスが コ ミ ュニケーシ ョンを 支配し てい る結 果, アメ リカ の会社は, 外国 の契 約に 応札し よう とし て も, また海 外に 出航中 の船 長に 命令をし よ うとし て 乱 事実上 イギ リスの手 有線 で も 無 線 で も を通じ てその メッセージを 送 るこ とを 余儀な くさ れ, イギ リスの競争 相 手に は有 利 なお くれ, もし くは不 正な 使用を 許す 危 険 があ った のであ る ●●●●●尋 このようななかで, アーネスト・F・w. アン ダーソン博士 が開発し た高周

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アメリカにおけるラジオ産業 の発展と大衆文化Ill 波 交流 機 がGE に よっ て マ ル コ ー ニ 電 信 会 社 に500 万 ド ル で 売 渡 さ れ よ う と し てい た 。 こ の 交 流 機 の 開 発 は き わ め て 革 新 的 な も の で, ラ ジ オ ・ コ ミュ ニ ケー シ ョン の 将 来 の成 否 の鍵 を 握 る も の と み ら れ てい た だ け に , イギ リス の マ ル コ ー 二本 社 も の ど か ら 手 が 出 る 思 い に 駆 ら れ てい た 。 戦 前 か ら マ ル コー ニ 自身 が 交 渉 に 乗 り出し て,GE の当 時 の 若 い 副 社 長 オ ウェ ソ ・ ヤ ン グ(1922 年 に 会 長 ) に,500 万 ドル とい う 思い 切 っ た 言い 値 ま で 示 し た 。 ヤ ン グは も う一 度 検 討 す る とい う 口 実 で , や っ と の 思い で 返 答 を 保 留し た も の の, 内 心 のお どろ き ぱ か く せ な か っ た 。 そ の 後 戦 争 で こ の 商 談 は 途 切 れ てい た が, 戦 争 が終 る や マ ル コ ― ニ 社は そ の 再 開 をGE に 迫 っ て き た 。GE 自身 は 商 売 とし て こ の よい 話 に 大 い に 乗 り気 だ っ た の だ が, 政 府 が 待 ったを かけ た 。 当 時 の海 軍 次 官 補 だ っ た フ ラ ン ク リン ・D ・p 一 ス ヴ ェ ル ト がGE の ヤ ン グに 対し , 海 軍 に 前 も っ て 相 談 せ ず に 交 流 機 の 商 談 を 成 立 さ せ ては な ら な い と クギ を さ し て い た か ら であ る。 そ の 知 ら せ に 海 軍 通 信 部長 の ウ ィ リ ア ム・H ・G ・ ビ ュ ラ ー ド 少 将 が , 折 か ら ヴ ェ ル サ イユ 平 和 会 議 に 出 席 中 の ウ ィル ソ ン 大 統 領 の も とに , 急 派 さ れ た 。 こ の と き ウ ィル ソ ン は 帝 国 主 義諸 列 強 の 巨 頭 た ち を 相 手に , せ まい 国 家 主 義 を 捨 て て 国 際 主 義 , な か ん ず く国 際 連 盟 の成 立 を 主 張 し て , 熱 弁 を ふ る っ て い た 最 中 で あ っ た が, 少 将 の話に は 大 い に 「国 家 主 義 」 的 決 断 を 下し た の で あ る 。 こ の よ うな 大 統 領 の お 墨 付 き が あ っ ては ,GE も 商 談 を 思い 切 ら ざ るを え な かっ た 。 し かし,GE に と っ て は こ の こ と は500 万 ド ル を み す み す 失 うこ とであ り, 少 な く と も 交 流 機 開 発 に 要し た150 万 ドル は 政 府 に 何 とかし て も ら わね ば な ら な か っ た 。 こ れ に 対 し 海 軍 側は 逆 提 案 し てGE の イ ニ タ アテ ィ ヴで マ ル コ ー ニ社 に 対 抗 で き る ア メ リ カ の 無 線 通 信 会 社 を 設 立し た ら ど うか と 答え た の で あ る。 ち な み に い え ば , ア メ リ カ 海 軍0 無 線 通 信 の ア メ リ カ化 に 対 す る 思 い 入 れ は 相 当 な も の で, 当 時 の 海 軍 長 官 ジ ョ ゼ フ ァ ス ・ ダ ユエ ル スは 議 会 に 国 営 会 社 案 ま で 持 出し た が , こ れ は も ち ろ ん 実 現し な か っ た。 そ れは 別 とし て,GE の オ ウこT,ン 副 社 長 が こ の 政 府 の 提 案 を 受け て, 同 社 主 導権 の もとに, 無 線技 術に関 す る特 許を 持つ 有力 会社 スティン グ ハウス, ユ ナ イテ ッド・フ ル ー ツ AT &T ,ウェ を 糾合し て生 れた のが, ほ かならぬRCA 社であった。 ユナイテッド・フルーツ社が加わってい るのが 不思議に思えるかもし れないが,同社はその広大な「バナナ帝国」における

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迅 速な コ ミュニ ケーシ ョン の必要 た とえば バ ナナ ・ ボー ト間の 情報交換 から 無線 技術を 開 発し , か なり の特許を 所 有し てい た から であ る。 こ のよ うにし て ( イギV スの巨人 ゴリ アテは おそ るべ き ア メリ カの ダビ デ に 立ち向 か うこ とに な った3)」。し か も, このRCA 社成 立 のい きさつ から み て も分 るとお り, サ ー ノフが早 くから 主 張し た よ うな “ラジ オ・ ミュージ ッ ク・ ボッ クス には なら ない で, ラジ オは きわ めて国 家 色の強い ものに なっ

た。RCA

社の荒茶込は役員はすべてアノV カ人であること・ 外国人は20%

以上の株式を保有す ることができないばかりか,役員には海軍の代表が加わ ることが明記された。海軍からは前記のビュラード少将 が代表で役員となっ た。のちにフ ォーチュン誌は「当時 ラジオの音楽的特質は一般には認められ なかったとはいえ, ミュージ ック・ ボックスの最初0 ミュージ ックは国歌で あった4)」 と皮肉まじ りで回想し ている。 ニ こうし て,1919年10 月にRCA がアメリカ・マルコーニ社の資産を継承し て, きわめて国家色,そし て軍事色の強い,純粋のアメリカの会社とし て, また アメリカ企業史上もユ二一クな独占会社とし て発足し たことは,のちの ア メリカにおけ るラジオ産業の異なった発展を 考えればきわめて興味深い と いえ よう。同時に注目されるのは パテント競争を避け て,AT&T,GE ,ウ ェスティン グハウス(WH ),それにユナ イテッド・フ ルーツ社までも加え, これら巨大資本が,国家の要請とはいえ, また同床異夢ながら も,将来無限 に発展が期待されるエレ クトロニ クス市場の独占のためにRCA に特許をプ ールし て手を握 り合ったことであ る。RCA におけ るこれ ら4 社の株式の持 分はGE が25.7%,WH20.6%,AT&T4.1%, コ ナ イテ ッド・フルーツ3.7% となった。 もとのマルコーニ社は一応残ったものの, 少数株主 に と ど まり, 完全に支配権を 失ったのであ る。 ユナ イテ ッド・フルーツを除 く4 社の間では特許技 術を プールし ながら,GE とWH は ラジ オ受信機の製造に,AT &T は 送 信 機 の製造,販売ま たは リースに,RCA は本来の無線通信業務のぽかに,GE とWH が 供 給 するラジオ受信機の販売に,一応それぞれ役割を分け ることに合意し た。こ れが1920年の4 社間協定であった。 このことは, 別の面からみれば,群小の アウトサ イダーの参入を困難にする強固な城砦が巨大資 本に よって構築され たことを意味し た。し かし , アウトサ イダーに。とって幸運なことに, この新

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ア メリ カにおけ る ラジ オ産業 の発展 と大 衆文 化113 し い ラジ オ産業 の王国に は 思い 設げ ぬ鬼 子 ヅロ-ドキャスティソダ放 送 事 業- が 生 ま れ て , 前 記の よ うに もと もと同床 異夢 の4 社間 の結 束は たち まち そ の本 性を 現わし て ,足 並 みを 乱すに 至 った のであ る。 周知 のよ うに, 単 な る信号 でな く, 人 間 の音声を 無 線で 送 る研究は アメリ カ海 軍と アメ リカ・ マル コー ニ社 の間 で互い にはげし く争 わ れてい た が, 送 イ言装置に おけ る最初 の成 功は1906 年には, 科学 者のレ ジ ナル ド・A ・ フェ ッ セソデソ と りー・ デ ィ・ フ ォレ ス トに よって実 現し てい た。 そ の実 験 は1910 年1 月 ニ ー ■―J クの メトロ ポ リタン 歌 劇場に おい て往 年 の名 テナ ー, エン リコ・ カル一 ソ一に よって 行わ れ,一 部 の人び とに知 ら れ てい た。 し かし, 実際 のラジ オ放送はWH が先鞭を つけ た。 す なわち1919 年 に 同 社 のフ ラン ク・ コン ラ ッド博士 はピ ッツバ ー グの 自宅 から レ コー ド音楽を 流 し , ハ ム仲間の友人 た ち がこれを 聴 くこ と がで きた。 こ の ことを デ パートが 宣 伝し た ので,WH 社 副社長H ・P ・ デー ウTイスにひ とつ の ア イデ アが生 ま れ た。1920 年11 月に は共 和党 の ハ.―デ ィン グ対 民主 党 の コ ックスの大 統領選 が 行われ るのを 機会に, 同社は 前 もっ て ラジ オ受 信機を 売 り 出す と と もに, 新 設 のKDKA 局 の放送 開始 目を そ の選挙 当 日にあ わ せ た のであ る。 これが 大 成功を 収めた こ とはい うまで もない が, こ れを 契機 にし て 争 うよ うにし て 民間放送 局 が生 まれ た。1921 年 には 商務 省 の認可 放送 局は32 局だ っ た の が1922 年には254 局へ と急 増し た。 同時に ラジ オ受 信機 が 売れに 売れ た ことは い うまで もない。 ア メリカ・ マ ル コー ニのデ ー ヴ ィッド・サ ー ノフはRCA 設立 と と もに 同 社 に 営業 部長 とし て迎え られ た が,1921 年, 彼 が30 歳 のとき ジ ェネ ラル・ マ ネジ ャーに 昇 進し,1924 年に は 副社長 に抜 擢さ れてい る。 こ の急速 な昇進はRCA 社 の ラジ オ受 信機 の売上げ 高の増 加 と まさに 一致し てい た。 サ ー ノフ ■it,前述の よ うに 早 くから ラジ オは 「 ミュージ ッ ク・ ボ ッ クス」 に な ると予 言し てい た が, よ うや くそ の方 向に 向きはじ めた のであ る。 事 実RCA の売 上 げは1921 年 の150 万 ドルから1924 年に。は5,000 万 ドルヘ と急 上昇し た のであ る。 この間に 鉱 石 ラジ オの値段 は著し く低下し て24 ドノレとなっ てい る。 こ うし た ラジ オ・ ブ ー ムはたし かに 前述 のとお り大 統 領選挙 とい う国民的 ビ ッグ・ イヴェン トを き っかけ とし た が, そ れをさら に 盛 上げ だ のは プ9 ボ クシン グとか野球 な どの スポ ー ツ娯 楽番 組であ った。 これに 最初に 目をつけ

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だの がサ ー ノフであ った。 彼は当 時人気 絶頂 の世 界 プロ ボ クシン グ選手権保こ 持者 ジ ャッ ク・デン プシ ーが1921 年7 月に フラン スの強 剛ジ ョルジ ュ・シ ャ・ ル゛ ソテ ィエ の挑戦を 受け る試合 の実況 放送に 賭け た の であ る。 こ れには当 時 とし ては 空 前の20 万 人 とい う人 びと が ラジ オ の実況に 聴 き入 り, 試合 の熱 気に 酔 った。 ロ イター通 信は直 ちに 「世界最初 の実況 放送」 とい うニュース を ヨ ーロ ヅパ中 に 流し た が, ロン ドン 出張中 のRCA 社 長 エ ド ワード・J ・ ナ リーも, デン プシ ーの ノッ クアウ ト勝 ちの 興奮 さめや ら ぬ リン グサ イドに い たサ 一 ノフに 「君は歴 史をつ くった」 とい う賞 讃の電 報を 届け た5)。 この よ うに ラジ オ放送 が大 衆の人 気を 獲得す るに と もない,4 社間 と りわ けRCA とAT &T との間の対 立 が激化す る よ うに な ってきた。 まず ラジ オ放 送が拡大 す るにっ れ て1920 年に おけ る前 記の4 社間取 決めO 境界 線が相 互に 侵され はじ め た。AT &T 社は 他の3 社 が ラジ オ受 信機で 儲け てい る のが, 自分 も放送 局の 激増で 送信機 で 儲け て い たに もか かわらず。 気 に 喰わな くな ってい た。 他方GE ・WH ・RCA の3 社 は 自社用に と 送 信 機を 製作し は じ めてい た。し かし,1920 年 協定 では 触れ られ てい なか った 放 送事業 に各 社 が乗 り出し てきた から厄 介に な ってきた。 前 述の よ うに ラジオ 放送に。先鞭を つけ たWH 社はRCA と組 んで ニュー ア ー ク( ニュージャージ ー州)にWJZ 局を,GE もこ れを 追 って工 場 のあ るシ ェ クネ クタデ ィ( ニュ ーヨーク州)にWGY 局を それ ぞれ 開設し た。 し かし , これら3 社を お どろ かし たのは電 話 会社 のAT &T が1922 年8 月に 単 独に 世界 ではじ め ての商業 放送 局WEAF を 開設し た こ とであ る。 同 時 に 自社 の長 距 離電 話線 網を 利用し て, カンザ スに まで 至 る26 局の ネ ットフレ ー クを 張 りめ ぐらし た のであ る。し か も,AT&T は 電話 会社 が放送業を 兼営 す ること の正当 性を つ ぎ の よ うに 公 然 と主 張し た6)。 ノ … …明ら かな こ とは 放送 が電 話会社 の仕 事であ り,し かもわ れわれは電 話 屋 であ って, ほ かの誰 もがや る より, わ れわ れ のほ う がこれを うま くや る こ とがで き る とい う点 であ る。し た が って, 到達 す るにぢ がい ない 明白で 筋 の通 った 結 論は, おそ かれは や かれ,い ろ んな形 で, わ れわ れが この仕 事を やら ねば なら ない とい うこ とであ る……。RCA やGE やWH に とっては ラジ オ受 信機を 売 る のがあ くまで 目 的 で あ って, 放送 事業 はそ の販売 拡大 の手段に す ぎな か った 。 これに対し,AT

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アメリカにおけるラジオ産業の発展と大衆文化115&T は 放 送 事業 が 電 話 と同 様 公 益 事 業 で あ り, 電 話 と 同 様 に そ の 受 益 者 に 対し 料 金を と る権 利 があ る と い う立 場 を と っだ 。 ラ ジ オ 放 送 へ の大 衆 の関 心 が つ よ ま る に つ れ て 放 送 事 業 の重 要 性 が増 し は じ め た 。 同 時 に 放 送 の 内 容 も 充 実し , そ の コ ス ト も 著し く増 大し た の で, ラ ジ オ ・ メ ー カ 一 の 資 金 だけ で は これ を 維 持 す る こ とは で き な くな っ て き た 。 そ うな る とRCA の 焦 りは つ よ くな っ て き た 。AT &T は 独 占 的 に 料・金 を 放 送 受 益 者 か ら 徴 収 す る こ とが で き た ば か り で な く, 前 述 の よ うに 自社 の 電 話 線 絹 の上 に 強 力 な ネ ッ ト ワ ー ク 聚つ く って ,RCA の ネ ッ ト ワ ー クに は こ の 電 話 線 を 利 用 さ せ な か っ た 。RCA は や む な く ウ ェ ス タ ン ・ ユ ニ オン や ポ ス タ ル ・ テレ グ ラ フ の 電 信 線 を 使 用 せ ざ るを え な かっ た が, こ れ は も と も と電 報 用 の 信 号 送 信 用 の 回 線 だ け に 音 声 の 送 信に ぱ 不向 き で あ った 。 そ の上 にAT &T は 独 占 色 を ます ま す つ よめ て 受 信 機 や 真空 管 の生 産 に も乗 り 出 そ うとし た か ら た まら な い 。RCA はAT &T を 契 約違 反 とし て 告 訴 し , 仲 裁 裁 判 に 持 ち こ ん だ が , そ の 結 果 はRCA に 有 利 と な っ た 。 他方AT &T も や は り 反 ト ラ ス ト法 が こ わ か っ た こ とは 明ら か で, 社 内 か ら も 慎重 論 が 出 て き た 。 同 社 は あ く ま で 電 話 会 社 で あ り, 電 話 事業 と こ れ 忙 関 連し た 電 子 部品 の製 造 に と ど ま るべ き で あ る とい う の で あ る 。 放 送 局に 対 し て は RCA を ふくめて一 長距離電話回線を リースすれ ば, 新しい 産業からは リスクをともなわずに,大きな利益に。あ りつ くことができるわけ である7)。 この結果1926年に,WEAF 局のレッド・ ラインと呼ばれたネット ワ ー ク はRCA 社に100万ドルで売られ,AT &T は放送事業 から手を引くことに な った。他方RCA 社は,GE とWH の資本協力をえ て, 新たに ラ ジ オ 放 送 会社とし てNBC(NationalBroadcastingCompany )を設立し た。NBC に, はAT &T から買ったWEAF のレ ッド・ ネ ッ ト ワ ー ク,WJZ の ブ ル ー・ネ ットワークの2 系統,それに太平洋岸のオレンジとゴールドの二つの ネットワークが加えられた。こ うし てRCA は受信機 と真空管などの関連部 品 の販売から放送事業とその全国ネットワークー 電子工業のハードから ソ フトー をふくむ独占的 企業に脱皮し たのである。 前述のように アメリカの無線通信産業はきわめて強力 な国家主導型の産業

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とし て 発足し た のであ るが, 放送 事業 とい う予 想し な か った方 向に発 展し た‥ のは まった く民 間 のビ ジ ネス 。パ ワーに よる もの とい うこ とがで きる。商 務 \ 省 が放 送局 の認 可や 電波 の配分に つい て主 管し た もの の,共 和党 政府は 傍観 者の立 場に とど まった。 よ うや く直 接の 監督 機関 とし て連 邦 ラ ジ オ 委 員 会 (FederalRadioCommission ) が発足し だ のは1927 年であ った。 同時 に, ア メリカのラジ オ放送 が家 庭娯 楽 産業 とし て, そ の模索 の 第一段 階を よ うや く脱し て, 本 格的発 展 の第二 段階に 入 った のは1926 年 であ り8) 前 述 の よ うに独 占的大 企業 とし て のRCA の再発足 と期を 同じ くし た ことは 銘記 さ れねば なら ない。 また こ のこ とが 自動 車と ともに ア メリカ人 の生活様 式を 大 き く変 え たこ とを 忘れ ては なら ない。 ラジ オの普 及は 家庭用 ピ ア ノo 売 上げを 著し く引下げ た ば かりで な く, 家 庭娯 楽産業 とし て一 足先に ブ ー ム とな ってい た蓄 音機 とレ コー ドの業 界に 打撃を 与え た。 し た がって, 蓄音 機 メー カーと これに 結びつ くレ コー ド会社は 自ら ラジ オ 会社に 転身 す るか,既 存 のラジ オ会社に 身を 売 るかし て, こ の危機を 乗 り切 るし か道は な かった。1927 年に コ1==1ソビ ア蓄 音機 会社 が 自ら ラジ オ放送業 界 に 進 出し て, 先発 のNBC に対 抗 す るCBS (ColumbiaBroadcastingSystem ) を 創設し た の もそ のため であ った。 こ れにつづ い て1929 年に は ヴ ィ ク タ ー 蓄 音機 会社はRCA の軍門に 降 った のであ る。 他 方, 急成 長 のラジ オ業界 も他 の娯 楽産業 に 関心を 抱 き, レ コー ド業 界ば か りでな く, 映 画へ の進 出をは か った。1928 年にNBC がハ リウ ッドの映 画 会 社RKO に。投 資し た のに 対し ,1929 年にCBS が パ ラマ ウント と手を 握っ た の もそ うし た動 きを反 映す るも のであ った。 こ とに, 前 述の よ うに 『ジ ャ ズ・ツソ ガ ー』 に よっ て1927 年 ト ーキ ー時代に 入 ってい た映 画界 の ス ターや タレ ン トは ラジ オ業 界に とっては 魅 力で あったし , 映画 界で もラジ オに 広く 人 材を 求めてい た。 こ うし た 映 画 との密接 な共 存関 係に より,1930 年 代以降, 映 画 と同様に ラジ オ業 界 も黄 金時 代を 迎 えた のであ る。 た とえば, わ れわれ に もお なじ みのビソ ダ・ クロ スビ 一は1929 年に ラジオに 登場し て, のちに ハ リ ウッド の大 スター とな った。 映 画と ともに, ラジ オは 伝 統的 なシ ョー・ビ ジ ネスを 衰 退さ せてし まった が。 エデ ィー ・キ ャソ ターや ボブ・ ホープ とい った 人気 者は ラジ オや 映 画のほ うで活躍 す る ように たっ た。 こ の よ うにし て ラジ オは 黄金時 代を 迎 えた が, 世 の中 は 暗 くな る一方 であ

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アメリカにおけるラジオ産業 の発展と大衆文化117 つた。1929 年 に 端 を 発し た 金 融 恐 慌 は1932 年 に は 大 恐 慌 に ま で 発 展し , 戦争 が これ を 救 う ま で 人 び と の生 活 は 貧し く, き びし か った が , ラ ジ オだ け がそ の 生 活 の潤 い と な り , 一 家 団梁 の 中 心 と な っ た 。 ま 紅 農 産 物 価 格 の長 期 下 落 に あ え ぐ僻 地 の農 民 に と っ て も ラ ジ オだけ が 救 い と な っ た こ とは い う まで も な い。 と りわ け ラ ジ オ の 娯 楽 番 組 は , 生 活 苦 のな か で こ うし た 人 び とに , ひ と とき のな ぐ さ め とや す ら ぎ を 与 え た の で あ る。1929 年 に は1,000 万 に。達し てい た ラ ジ オ受 信 機 所 有 世 帯 は , さ ら に 恐 慌 の 最 中に も 伸 び つ づ げ て1939 年 に。は2,750 万 世 帯 に 達し た 。 こ うな る と よほ ど 極 貧 の 人 び と か , あ るい は 金 持 のへ そ ま が り文 化 人 で な い か ぎ り, ア メ リ カ 人は ほ とん ど が ラ ジ オ の 恩 恵 に 浴し て い た と い うこ と が で き よ う。 また ラジ オ ・ セ ッ トそ の も の も 最 初 は ピ ア ノや 蓄 音 機 の よ うに 上 中 流 家 庭 向け の デ ラ ッ クス な コン ソ ー ル 型 で, い わ ば 「地 位 の 象 徴 」 で あ っ た も の が , 急 速 に 小 型 化し , 値 段 も 大 幅に 下 が っ て, 一 層 大 衆 化 し た の で あ る。 こ の 間 に 受 信 機 の 売 上 げ 高 も, ラジ オ ・ ブ ー ムの き っ か け と な っ た1922 年 の6,000 万 ド ル か ら ,1929 年 に は8 億4,300 万 ド ルヘ と,1927 年 を の ぞ き , 上 昇 の一 途 を た ど っ た 。 こ の こ とは ラジ オ 産 業 が もは や 無 線 通 信 事 業 の 附 属物 で は な く, さ ら に はAT &T やGE やWH な ど の 電 話 や 電 気 機 械 の 独占 的 大企 業 の 排 他 的 所 有 物 で も な くな っ た こ と を 意 味し た 。 こ と に1930 年 の反 ト ラス ト法 違 反 の 判 決 で , こ れ ら の 企業 がRCA 社 の 持 株を 手 放 す に 至 って , 広 大な 大 衆 娯 楽 市 場 を 背 景 に。し て, ラ ジ オ 産業 は 自 立 の 道 を 歩 みぱ じ め た の で あ る。 こ のこ と を 象 徴 す る よ うに,「 サ ー ノフ の 馬 鹿 」 と い わ れ るほ ど ラ ジ オ・ ミ ュー ジ ッ ク・ ボ ッ ク スに 打 ち こ ん だ デ ー ヴ ィ ッ ド ・ サ ー ノ フ が,1930 年 は じ め39 歳 に な る や な ら ず で, ア メ リ カ最 大 の ラジ オ 独 占 企 業RCA の社 長 に 昇 進し た の で あ る。 し かし , そ れ ま で の 道 は 彼 に と っ て け っし て平 坦 で は な か った 。 そ れ ど こ ろ か , 頂 上 が 見 え て きた 最 後 の 胸 突 き 八 丁 で は , 自 ら の運 命 を 賭け た 大 ば く ちを 打 た ねば な ら な か っ た 。 す で に 述 べ た よ う に,RCA は も と も と ラ ジ オに 関 す る パ テ ン トを 集 め て 成 立し た 会 社 で あ り, また 独 占 を は か っ たAT &T 社 か ら 放 送 事 業 を 買 収 す るこ とに 成 功し た に も か か わ ら ず,GE とWH に 従 属し , 実 質 的 に は い ぜ ん とし てGE の 子 会 社 に す ぎ な か った 。 前 述 の よ うに ラ ジ オ・ セ ッ ト は こ め2 社 に よ っ て 製 造 さ れ,RCA

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はその販売子会社の地位におかれてい たからだ。したがって, ラジオ・ブー ムになっても2 社からの供給にしばられたのである。GE もWH も 総 合電 機 メーカーだから大型発電機から電気洗濯機や掃除機に いたるまで生産し て いたし, どの商品もよく売れていた。 ラジオだけに注意を払っていたわけで はない。同時に ラジオ・ブームになればな るほど, 独立 メーカー- フ ィル コ タ ジ ー ニス, ストロン パー ク・ カ ール ソン など 諸 社 の追い 上げ が激し くな ってきた。 こ うし た なか で製造 機 能を もたないRCA はい わ ば 両 腕 をGE とWH の2 社 のなす が ままに されて 育 った巨 大 な赤 ん坊 であ っ た。製 造 と販売 の統合なし に この激しい 競争に, 独占 会社 とい え ど も, たえ うるも の では な かった こ とはい う まで もない。 早 くから製 販 統合を 主 張し てい たサ ー ノフの見解 が よ うや く認 められ るよ うにな った のはGE 会長 オウェ ソ・ ヤン グが同社 社長 ジ ェ ラ ー ト・ スウ ォ ー プやWH 社長 の アン ドル ー・W ・ ロバー ト ソン の反 対を お さえ て,1927 年に, 製 販統合 の間題を 検討 す る委 員 会が でき たためで あ る。し かし, い ぜ ん とし て両社 は気 乗 り薄 で, や っ と翌 年に 至っ て, 統合 の原則は認 めら れた も のの, 売上げ 年間2,500 万 ドル まで とい う制 限つ き であ った。 もちろ ん, これは サ ー ノフ の満足 す ると ころ では なか った。 ち ょ うどそ の とき当 時 「主 人 の声 に聴 き耳を 立 て る犬」 の マー クで よ く知ら れ てい た蓄 音 機 レ コー ド業 界最大 の ヴ ィ クター蓄 音 機会社 が 営業 不振 で銀 行管 理の もとに あ った。 銀 行家た ちは ヴ ィクター 自身 が ラジ オ業界に 進 出す るか,RCA と合 併す るか, どち ら かにし か道 がない こ とを 知 っ てい た。 他方, サ ー ノフのほ うは かねて から ヴ ィ クター の ニュージ ャー9 − 州 カ ムデソにあ る巨 大な工 場 に 目をつ け てい た。 これが 手に入 れば 映 画 のRKO 社を す でに 握 っ て い たRCA が ア メリカは もちろ ん世界 で も第一 の娯楽 産業 企業に のし 上 がるにち がい ない。 そ れぽ か りで な く, カ ムデソエ 場 で ラジ オ・ セ ットの製 造 もでき るわけ であ る。 サ ー ノフに とっては熟 柿は お 誂え向 きの ところ に落 ちて きた よ うに 思われた。 ところ がその ようにお 誂え 向 きには い かな かった。 オ ウ:x,ソ ・ ヤン グが政 府 の委嘱を 受け て対 独賠 償委員 会 の委員長 に 任ぜら れ, 急に パ リの国際会 議 に 出席す ることに な った から であ る。第一次 大戦 後敗戦 国 ド イ ツに 対す る「 ド ウズ案」 とし て知ら れ る賠 償 がこじ れ て, 再び ヨーP ッ パに 暗雲 が立ぢ こめ,

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アメリカにおけるラジオ産業の発展と大衆文化119 ア メ リ カ が 仲 裁 役 に 乗 り出 さ ざ るを え な くな った の で あ る。 ア メ リ カ 代 表 と し てそ の 仲 裁 役 と な った ヤン グに は ぜ ひ と も 有 能 で よ く動 い て くれ る 補 佐 役 が 必 要 で あ っ た 。 そ こ で 白 羽 の 矢 が 当 た っ だ の が サ ヤ ノフ で あ っ た 。 ボ ス の 命 令 と あ っ て は , た とえ ど ん な 事 情 が あ る に せ よ, も ち ろ ん 断 る わけ に は い か なか っ た 。 そ の 結 果 は , 極 め 付 き 老 檜 な ド イ ツ代 表 の 国 立 銀 行 総 裁 ヒ ャル マ ール ・ シ ャハ ト 博 士 を 向 うに まむ し , こ れ と渡 り合 っ て ひけ を 取 ら な か っ た , 期 待 通 り の サ ー ノ フ の 活 躍 で, 歴 史 上 「 ヤン グ案 」 とし て 名 を 残 す 成 果 を あげ るこ と がで き た 。 こ れ に は シ ャ ハ ト も, 自 分 よ り20 歳 以 上 も 若 い ア メ リ カ 人 の 交 渉 相手 に 対 し , そ の ねば り と 手 腕 に シ ャ ッ ポを 脱 い だ の か , こ れ を 「 サ ー ノ フ 案」 とい っ て 賞 め そ や し た とい う9)。 最 初 は せい ぜ い1,2 週 間 ぐら い で 片 が つ く と 思 っ て パ リ の 国 際 会 議に 向 か っだ の が, 実 際 に は4 ヵ 月 以 上 も か か っ てし ま っ た 。 サ ー ノフ が 帰 国し て み ると, す で に。ヴ ィク タ ー と の 合 併 協 定 が 成 立 し てい た が, そ れは 彼 の 意 図 と まっ た く 相反 し て, 昔 な が ら の 製 販 分 離 の形 態 を た だ ヴ ィ クタ ーを 組入 れ て 拡大 し た に す ぎ な い も の で あ っ た 。GE とWH の2 社 は す でに 製 販 統 合 を 認め た は ず で は な か っ た か 。 ヴ ィ ク ク ーを 吸 収し て 規 模 が 拡 大し て も, ラ ジ オの 製 造 が 認 め ら れ な い か ぎ り, 追 い 上 げ る ラ イ バ ルに 比しRCA の競 争 力 は ガ タ 落 ち と な り, そ の 結 果 は 出 資 者 の2 社 に と っ て も 大 き な 打 撃 に な る こ とは 分 り 切 っ た こ とで あ っ た 。 そ れ を 読 ん で サ ー ノフ は 一 世 一 代 の 大 ば くち を 打 っ て 出 た 。 ヴ ィク タ ー と の 協定 を 改 定 し な い なら ば , 会 社 を 辞 め る と 申し 出 た の で あ る。 こ れ に は 威 圧 的態 度を と っ てい た ス ウ ォー プ も ロ バ ー ト ソン もた じ たじ と な っ た 。 もし 実 力 者 の サ ー ノ フ が 辞 め て, ラ イバ ル の 他 社に 移 っ た ら ど うな る か 。 一 方 , 新 し いRCA ・ ヴ ィク タ ー 社 も う ま く い っ て い な か っ た 。 出 資 会 社 間 の 抗 争 を 反 映し て, 内 部 対 立 が 激し く な っ た か ら で あ る。 結 局2 社 は 折 れ て, サ ー ノフのい う通 り, 協 定 を 改 訂 す る こ とに な っ た 。 そ0 結 果 新 設 のRCA ・ ヴ ィ クタ ー に お い て 出 資 比 率 こ そ2 社 とは 対 等 で あ っ た が, は じ め て 念 願 の 製 販 統合 が 実 現 す る こ とに な った 。 こ れ と 同 時 に ヤン グ がRCA 社 の 会 長 を 退 き ,前 述 の よ う犀 サ ー ノフ に 社 長 の 地 位 が 与 え ら れ た の で あ る。 こ の と き, は こ め て 彼 は 名 実 と もに 「 ラ ジ オ の 帝 王 」 に な っ た と い うこ と が で き よ う。

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し かし,このように「ラジオの帝王」 とい われるようになったサーノフに とって片時も忘れることができなかった のは生まれ故郷 のロシアであ る。今 アメリカ企業文明の最尖端に立っている彼も生まれたのは, ミンス クに近い。 おおよそ文明とはかけ 離れた荒涼たるユダヤ人部落, ウズリアソであった。 ここの住民は汽車も汽船も見たことはなかったし,多 くの家はあばら屋で床 もな く土間であった。 もちろ ん電灯も電話もなかった。彼ら の暮らし は手工 品と近隣の農村とのわずかな交易に よって支えられていた。 何世紀に もわた って極貧と人種差別 の上に,皇帝の迫害とコサック騎兵 の長い鞭の恐怖が加 えられてきたが, 彼らはこれらに耐えてこの土地に住み,神の選民とし て, また神の法律の番人 とし て,その伝統とルーツに対し 誇りを持ちつづけたの・ である10)。 し かし, サーノフ一家はい まやその民族の誇りさえ捨てて, 故郷を離れな け ればならなかった。 そのころ35 年にわたり苦難を逃れて200 万人近いpi シ ア・ユダヤ人がアメリカに渡っていたが,これはもはや「移民」とい うより 「脱出」であ った。 サーノフ一家も生活苦からこの運命を 免れ るこ と が で き なかった。 デーヴ ィッドが5 歳 のとき,父は単身でアメリカに渡っていった が,彼自身 口べらし のために里子に 出された。9 歳のとき実家に戻 ったが, それは一家をあげて父のい るアメリカに移るためであった。やっとの思いで ニューヨークに着いたものの, 頼みの父は定職を もっていたわけ ではなかっ た。マン ハッタンの南, イースト・サ イドのユダヤ人街におけ る暮らし は椙 変わらず貧乏だったが,それでも一家が一緒にい るだけ でも, ロシア時代よ りまし であった。 貧乏な少年が誰でもや るように, サーノフ少年も新聞配達やメッセンジャ ー・ボーイで家計を助け なけ ればならなかった。彼が働いていた近 くの新聞 街で,指先もあざやかに キイを叩 く電信手の姿がいつか彼の目に焼きつ くよ うになった。少年がわずかな貯金をはたいて,中古の電 信練習機とモールス 信号手引書を買ったのは,それから間もなくであった。 カーネギーや,シアーズや。 エデ ィソソたちが人生の門出においてそれぞ れの運命を切り開い たのが,いずれも少年時に電信手とし て スタートし てい たことが思い 出され よう。 イノヴェーショソが発明家や資本家ばかりでなく, アメリカにおいて貧乏な少年に夢を抱 かせ,立身出世のいと口を与え る社会

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アメリカにおけるラジオ産業の発展と大衆文化121 的役割を果 たし てい た こ とは 興味 深い が, サ ー ノフの 場 合 も無 線技 術 の発 道 が彼に 出世 の機 会を 与え, 彼の一生 の仕事を 決定づけ た の で あ る 。 し か し 「モールス 信号 仲間」 が彼 に ア メリカ・ マル コ 一 二 電 信 会社に 行 ってみろ と い って くれな か った ら, 彼 の運命は ど うな ってい た ご とか。 会社は 電 信手は 必要 がない が, 給仕の ロなら1 人あい てい る よとい っ て くれ た。 す こし も躊 躇する ことな く, 少年 がそ の申し 出に飛 びつい た こと はい うまで もない11)。 それから 四 半世 紀後, 前 述の よ うに アメリ カは空 前 と もい うべ き ラジオ黄 金時 代に 入っ ていた のだ が, そ の帝王 の座に 就い た の は, かつ て電 信手を 目 ざし , タ イタニ ッ ク号 の遭 難を 救け たそ の少年 であ った こ とは 重 ねて説明す るまで もない であろ う。 社長 室に古ぼけ た電 信練習 機 が飾ら れ てい た ことが 何 より もの証拠 であ る。し かし , ラジ オ業 界 の苛 烈な 競争 はRCA 新 社長に 長 くは感 傷 の ときを与 え て くれ なか った。 す でに 触れ た よ うに,1930 年お よ び32 年 の反 ト ラ スト法 の適 用に より,GE とWH の2 社はRCA の 支 配 か ら全面撤 退を 余 儀な くさ れ, クロス・ ラ イセン ス協定 もそ の排他的 規定 の適 用を 禁じら れ た が,RCA の地位には もはや さし た る影 響を 残 さな か った。 連邦 ラジ オ委員 会, さら に1934 年に 新設 された 連邦 通 信委員 会(FCC ) も ≫, ネット ワー クの拡大 には 制限をし な かった ので,恐 慌 下に もか かわら ずとい うより も, 前 述 の よ うにむし ろそ のために 聴取 者が増 大し た 結果, ネ ットワ ー クは膨 張を つづけ , そ の新規 参入 もみられ た。1927 年に は早 くもRCA に。 とって最 大 の強 敵CBS が参入し てきた。し か も, 発 足時 弱 体の 経営陣 のた め もた もたし てい たこ の会 社に, サ ー ノフに とって も それ 以後 ラ イバル とな った ウ ィリア ム・s ・ヘ イリーが登場し て, 経営に 活 を 入れた のであ る。 ペンシ ル ヴェ ニア大学を 卒業し て間 もな く, 父 の葉 巻会 社に 入 ったヘ イリ ーは, ラジ オの広 告 で葉 巻 の売上げ が倍増し たのを み て, ラジ オの将来性に 目をつけ た。45 万 ドルでCBS の株式 の半分を 買い 占 め る とと もに, 社長に 就任し た28 歳 の ペ イリ一は 早速 キ イ・ ステ ーシ ョン とし て ニ ュ ー ヨ ー ク のWABC 局(のちにWCBS )を買 い取 り, 赤 字会社を1 年 後に は黒 字を 出すほ どに立直し てし まった。 そ の後パ ラマ ウン トと提携し た り, ヴ ィクターと張 り合 って コ ロン ビ ア・レ コード会社をつ くった りし た 。 し かし , 何 とい っ て も激甚だ った のはNBC とCBS に よるネ ット ワー ク の拡大 競争 であ った。NBC のレ ッドとブ ル ーのネ ッ ト ワー ク は1926 年 の発万

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足 当 時は19 局 であ った の が1 年後 には48 局へ, さら に10 年 後には138 局に,1946 年に はレ ッド・ ネット ワー クだけ で159 局 とな った。 これに対し,CBS は1927 年 には16 局,1 年以 内に28 局,1939 年に は113 局,1946 年には162 局に ー と拡大し て,NBC と競 り合った のであ る12)。NBC とCBS は この よ うに 拡 張競争を つ づけ たば か り で な く,2 社に よ って ラジ オ市場を 分 かち 合 った のであ る。1930 年代 終 りには 両社は50kW の 強 力 チ ャネル30 の うち28 チ ャ ネルに 関 連し , 地 方 局 の53.4% を 支 配し てい た13)。 両社 の支 配は タレ ン ト市場に も及 び,NBC は ア ーテ ィス ツ・サービ ス社,CBS は コロン ビ ア・ アー テ ィス ツ社に より タレ ン ト の 専属 制を 強化 し た。FCC の圧力 もあ って, こ うし たNBC とCBS の ラジ オ市場 の支配 がやや 緩 んだ のは1940 年 代に 入って から であ った。 タレン トの 専属契 約条件を 緩和 す るとと もに, 放 送局 の所 有は主 要 市場 地 域につい て1 局に, 全 体 で8 局に 制 限され た。 これ とと もに1943 年にRCA は ブル ー・ ネット ワー クを 手放し , こ の ネ ットワー クに ア メリカ放 送会社(ABC )が生 まれ るこ とに な った。 こ うし て, ア メリカのラジ オ放 送業に おい て はNBC,CBS ,ABC の3 大 ネ ットワー クが形成 され るこ とに な った が, 前述 の よ うに聴 取者 の数 も著し く伸 びた から, 全 国 ネ ットワー クの強 化を 通じ て, 巨 大 ラジ オ資 本の支配は, た だ ビ ッ グ2がビ ッ グ3に 変わ った とい うだけ で, むし ろ 強めら れた とい うこ と がで き よう。 全国 ネ ットワー クが持つ 意味 合い は, た だ 単に 遠隔地 の人び と が, ニ ュー ヨー クや ボ ストン から よい 音楽 の ナマ放送 が聴け るとい う利便 か ら だけ では ない。 全国 市場向け の有 名 ブ ラン ド名を もつ商 品(あるいはサー ビス)は1920 年 代から30 年代 に かけ て ます ます 増 大し た か ら, 全国 ネットワ ー クに よる広 告の 二− ズは一 層 高 ま った のであ る。 ラジ オとい う絶 好 の新し い メデ ィアに飛 びつい た広 告 代 理店は, 全国 ネ ッ ト ワー クでラジ オ・ アドを 流し は じ めた。 ラジ オの生 み の親 の りー・ デ ィ・ フ ォレ ス ト博士は 「直接 広 告の 貪慾は たち まち生 き血を 吸 う本 性を あら わし , ラジ オがもつ最大 の利便を ぶ ち こわす であ ろ う」 と述べ ,「エー テルの よ う な広 告 の下 劣さ」 を 非難し た。 し かし ,「ラジ オ・ ネ ッ トワー クは学 ぶこ と に , 儲け ることに 余 りに も忙し か った ので, こ うし た ア ドバ イスに 耳を 傾け る余 裕は なかった14)」。

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ア/■リカにおけるラジオ産業の発展と大衆文化123 広 告 代 理 店 は ス ポン サ ー の 要 望 に 応 え て , ま す ます 人 気 の 高い , 長 つ づ き の す る 番 組 の 制 作 に 努 力 を 傾け る よ うに な っ た 。 な か で も1929 年 に。は じ まっ たP &G 提 供 の家 庭 コ メ デ ィー ・ シ ョ ー 『エ イモ ス と アソ デ ィー』 は 大 当 た りを 取 り, ベ プ ソ デソ ト歯 磨 の 売 上 げ は 数 週 間 の う ち に3 倍 に な っ た。1930 年 代 の 不 況 の な か で,人 び とは 夜7 時 に な る と『 エ イモ ス と アン デ ィー』: を 聴 くた め に ラ ジ オ の前 に 集 ま っ た 。 ア メ リ カ人 の3 人 に1 人 は こ れ を 聴 い てい た とい う。 映 画 館 で は 客を 盗 ら れ な い よ うに ,1==・ビ ー で ラ ジ オを 聴 か せ た 。 水 道 局は こ の放 送 時 間 が 終 る と, い っ せ い に 人 び と が ト イレ に ゆ くた め 水 圧 が 下 が る と 報 告し て い る。 あ の 気 む ず か し い イギ リ ス の 劇 作 家 で そ の 鋭 い 皮 肉 と 文 明 批 評 で 有 名 な バ ー ナ ー ド・ シ ョ ウ で さえ 「 ア メ リ カに つ い て 忘 れ ら れ な い も の が 三 つ あ る」 とし , ロ ッ キ ー山 脈 , ナ イ ヤ ガ ラ湿 布, そ れに 『エ イ モ ス と アソ デ ィ ー』 を あげ て い る15)。 こ の人 気 はP&G や リ 一 ヴ ア・ ブ ラ ザ ー ズ な ど の 石 け ん 会 社 が ス ポ ン サ ー とな っ た の で 「 ソ ー プ ・ オ ペ ラ」 とい わ れ る 連 続 ラ ジ オ ド ラ マ の 大 流 行を 促 すこ とに な っ た 。 午 後 に な る と ど の家 庭 で も主 婦 が ドラ マを 聴 き な が ら 家 事 を す る とい う習 慣 さ え 生 まれ た 。 こ れ と と も に 聴 取 者 は 子 供 か ら 老 人 に 至 る まで 。 コ マ ー シ ャル ・ ソン グや メ ッ セ ー ジ を 覚 え こ ま さ れ , 石け ん で は キ ャ メ イや ラ ッ ク ス, ケ1ニ2ヅグ の コ ー ン フ レ ー ク, コ カ コ ー ラや ペ プ シ コ ー ラ,P &G の 歯 磨 や 歯 プ ラン , 煙 草 で は キ ャ メル や ラ ッキ ー ・ ス ト ラ イ ク とい った 具 合 に , 自 然 の うち に。「製 品 差 別化 」 を 押 し つ け ら れ る 結 果 に な った 。 また 自 動 車 や 家 庭 用 電 気 製品 の 耐 久 消 費 材 メ ー カ ー も 放 送 局 の も っ と も 有難 い 顧 客 と た っ た こ とは い う まで も な い 。 し た が っ て ラジ オ 放 送 局 が 収 入 の 大 部 分 を 広 告 に 依 存 す る よ うに な る と と もに, ス ポン サ ー と 広 告 代 理 店 が ラ ジ オ業 界 を 支 配 す る よ うに な っ た。1930 年 代 の 「 ラ ジ オ の 黄 金 時 代 」 も 実 際 に は こ れ ら のビ ヅ ダ ・ ビ ジ ネ スに よ る ラ ジ オの 支 配 を 意 味 す る に す ぎ な か った 。 た とえ ば ,1944 年 に はCBS は1 回=100 万 ドル 以 上 の 番 組を 買 っ て く れ る13 社 の 顧 客 に 頼 っ てい た が, こ の うち の3 社 は1 回400 万 ドル 以 上 を 払 っ て く れ る 大 ス ポ ン サ ー であ っ た。 同 じ よ うにNBC は100 万 ド ル 以 上 の 顧 客11 社,ABC も9 社 に 依 存 し て い た16)。 他方 広 告 代 理 店 と な る と, こ れ へ の 依 存 は も っ と 大 き か った 。 た と え ば,J ・ ウ ォル タ ー ・ ト ム プ ソン 社 , ヤン グ& ル ビ カ ム, ダ ン サ ー ・ フ ィ ッ ■7ジ

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エラルドの3 大代理店は3 大 ネットワークの放送時間O4 分の1 を占めてい た。また1945年には広告主7 社と広告代理店6 社はCBS の売上高の 半分近 くを まかなっていた。同様に広告主12 社と代理店5 社はABC の売上高の40 %以上を握っていた17)。こ うい うわけ だから,放送局0 自主性は失われ,大 スポンサーと大広告代理店のい うままにならざるをえな くなったのであ る。 し かも,1930 年代にエージェントが放送局に かわって, スター, シナリオ, 監督, 音響効果など制作に かかおるすべてを担当し て, そのショウを スポン サーに売り渡すとい うシ ステムが定着し ,のちにテレビに も受け継 がれるこ, とになった。 このようにし て, ラジオは1930年代 から40年代にかけ て娯楽番組を中心と し て よくもおるくもアメリカにおけ る大衆文化の形成に大きな役割を演じた。 伺時に第二次世界大戦の足音が近づ くにつれて,別の意味でラジオはその重 要性を増し ていった。 ローズヴェル ト大統領はその就任早々から世論指導の

上でのラジオの役割を生かし,有名な 丁炉 辺 談 話」で大衆の人気を獲得

し た18)。 さら に。ヨー ロ ッ パや アジ アで の戦 局 が緊迫を 告げ る とと もに, 報道 番 組や 時 事解説 が重要 な役 割を 演ず る よ うに な り, 戦争 が始 まる ともは や必 需 品 となったこ とはい うまで も ない 。 し かし , ラジ オ放 送業 界は, ミシ ガン 州立 大学 のア メ リカ文化 史 研究 者の ラ ッセル・ ナ イもい うよ うに, もはや 爛熟期 に入っ てい た19)。 … …1935 年から50 年 まで の間に ラジ オは 富 と力を 手に 入 れ, 大衆に 迎えら れ, 最盛期にあ った のであ る。 実際 面 からい えば, 何ひ とつ とし て新し い もの が発明考 案され たわけ では なか った。 番組 の大 部 分は映 画, 舞 台, 小 説 な どから, 幾 世代に もわ たっ て大 衆芸術 の支え とな って きた同じ 素材を, ラジ オとい う新し い メデ ィアに 適合 す る よ うな形に 鋳 込んで, た くみに 利 用し , 転用し てい たに す ぎなか った。 ラジ オは古い も のを 新し い 方法 でや り直し てい るだけ でし かな か った‥‥‥・。 ラジ オは このころ に な る と,1 万を 越す 局 が年 間750 万 余 の番 組を 放送し てい た が, こ れを1 日にし て み ると2 万2,000 の異なっ た番 組が 流され てい た こ とに なる。し かし , 前に もあげ た ラジ オの父 と もい うべ きデ ィ・ フ ォレ スト博士 は一層 絶望 的な 調 子で 「文 化 と優れた 音楽 とア メリ カ大 衆 の知 的向 上 のため の有力な 媒介 とな りえ た と思わ れ る もの」 が, それ とは 反対 に 「一

(18)

アメリカに。おけるラジオ産業の発展と大衆文化125 般 の平 均 的知 性 を13 歳 の 水 準 に と ど め て お くた め の 嘲 罵 の 的 」 に な り下 が っ た こ とを 慨嘆 し た20)。 明 ら か に ラジ オに 凋 落 の 兆 し が 見 え だ のは1948 年 の こ とで あ った 。7,500 万 台 とい う ラジ オ の 所 有 台 数 に 対 し, テレ ビ は まだ100 万 台 に す ぎな か った が, あ る 著 名 な ラ ジ オ評 論 家 は 「こ の 言 葉 に 幾 分 か は 疑 わ し く思 っ て い る の だ が , こ れは 一 時 代 の 終 燎 と 別 な 一 時 代 の 始 ま りを し るす も の だ とい い た い 」 と 語 った21)。 そ れ 以 後 は 明 ら か に ラ ジ オ の衰 退 がは じ ま り , 新し く登 場 し た メ デAT の テレ ビ に そ の 王 座 を 譲 っ た の で あ る。 注n 幻 萄0 句 の EugeneLyons,DavidSarnoff,Harper&Row,1966,p.75. Fortune,Feb.1930. 前掲。Fortune,Sept.1932.EugeneLyons, 前 掲p.121.GeraldW.Brock ,TheTelecommunicationIndustry,HarvardUniv.Press,1981,p.169.

7)WilburSchramm (ed.),MassCommunications,(2nded. )Univ.ofIllinoisPress,1975,pp.45 ∼46・8 )Robertc.Toll,TheEntertainmentMachine:AmericanShoxvBusinessintheTwentiethCentury,O χfordUniv.Press,1982,p.51.9 )EugeneLyons, 前 掲p.183.10 ) 前掲pp.26 ∼27.11 ) 前掲pp.51 ∼53.12 )WilburSchramm, 前掲p.49.13 ) 前掲p.52.14 )EditorsofElectronics,AnA.geofInnovation:TheWorldofElectronics1930 一2000,McGraw-Hill,1981,p.22.15 )Robertc.Toll, 前掲pp.54-55.16 )WilburSchramm, 前掲p.63.17 ) 前掲。18 )DanielJ.Boorstin,TheAmericans :TheDemocraticExperience,RandomHouse,1973,pp.474 ∼476.19 )RusselB.Nye ,TheEmbarrassedMuse:ThePopularArtsmAmerica,DialPress,1970. (亀井・平田 ・吉田訳『 アメリカ大衆 芸術物 語』第3 巻,研 究 社,p.663 ).

(19)

20 )21 )

前 掲 .

参照

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