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広西における土司制度の一齣-とくに忻城県土司衙門を通して- 利用統計を見る

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(1)

広西における土司制度の一齣-とくに忻城県土司衙

門を通して-著者

谷口 房男

著者別名

TANIGUCHI Fusao

雑誌名

アジア・アフリカ文化研究所研究年報

26

ページ

13-32

発行年

1991

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00010125/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

広西における土司制度の

ーーとくに析城県土司街門を通して│││

は じ め に 一九九一年八月一六日から二九日までの一四日間、中国南境の広西地方 を旅した。この間、主として広西壮族自治区の区都・南寧市郊外にある広 酉民族学院に滞在し、壮(チュアン)族の土司制度と土地所有制に関する 文献資料の収集に努めた。なおこの聞の八月二三日から二六日までの四日 問、肝城県へ出かけて析城県土司街門(今日では析城県土司博物館となっ ている)と八案(明代中期に農民叛乱の舞台となった壮族の八つの村落) を見学した。とくに折城県士司街門は、かつて中国の西北から西南にかけ ての広い地域において実施されていた土司制度の名残を今日に伝える数少 ない貴重な史蹟の一つである。土司街門(官署)が今日なお往時の遺構の ままほぼ完全な形で残されているのは、この析城県土司衛門のみとさえい わ れ て い る 。 ここに肝城県土司衛門を紹介し、あわせて明清時代の広西における土司 制度の一端をみていくこととしたい。 広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 働

一 房

一、折城県の沿革と現況 (イ) 位置 広西壮族自治区の中央部に位置する析城県は、山間の一小県である。(地 国 I 参照) 析城県の南部には、紅水河(下流は柳江と合流して斡江に注ぐ)と呼ば れる大きな川が西から東へと流れている。県には鉄道がなく、主な交通機 関としては、水路あるいは陸路が利用され、東には柳州市へ、北には宜山 県へ、南には上林県から賓陽県を経て、さらに南寧市へと至る道路が整備 さ れ て い る 。 南寧市から析城県までは、北へおよそこ五

0

キロメートルであり、私が 乗った車は南寧から肝城まで約五時間を要した。 (ロ) 沿 革 肝城県は唐代に初めて設けられた県である。﹃目唐書﹄巻四一・地理志・ 嶺南道・安南部督府の条に、

(3)

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地図

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南寧

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肝城へ

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(4)

芝 州 、 下 、 土 地 与 交 州 問 、 唐 置 芝 州 、 失 起 置 年 月 、 天 宝 一 瓦 年 、 改 為 折 城 郡、乾元元年、復為芝州、領県一、肝城、州所治、無戸口及両京道理・ 四 至 州 府 、 最 遠 悪 処 、 と あ り 、 ﹃ 唐 童 日 ﹂ 巻 四 三 ・ 地 理 士 山 ・ 嶺 南 道 ・ 安 南 部 護 府 の 条 に 、 芝 州 肝 城 郡 、 下 、 唐 置 、 戸 千 二 百 、 口 五 千 三 百 、 県 七 、 肝 城 、 下 、 富 川 、 下、平西、下、楽光、下、楽輔、下、多雲、下、思竜、下、 と あ り 、 ﹃ 読 史 方 輿 紀 要 ﹄ 巻 一

O

九 ・ 広 西 ・ 慶 遠 府 の 条 に 、 肝城県、府南百四十里、東南至柳州府賓州百六十里、西南至那地州百 里、本蛮地、唐貞観中、開置芝州、治析城県、天宝初、日肝城郡、乾 一元初、復日芝州、宋為輯際地、慶歴三年、廃芝州、以肝城県隷宜州、 元 属 慶 遠 路 、 明 初 属 慶 遠 府 、 とある。唐の貞観中に芝州が設置され、その治所として折城県が設けられ た。やがて天宝元(七四二)年に芝州は、 一時廃されて肝城郡と改め嶺南 ¥ 、 道に属したが、乾元一元(七五八)年に再度復活した。宋の慶暦三(一

O

四 二 一 ) 年 に 芝 州 を 廃 し 、 肝 城 県 は 宜 州 に 隷 属 し た 。 一 克 代 に 析 城 県 は 慶 遠 路 の 統県として、明代には慶遠府に属し、清代に至った。 )

ノ ( 現 況 肝城県は、今日では柳州地区に属しており、その面積が、二、四五一平 方キロメートルであり、人口が三七二八一九人で、そのうち非農人口が 一八、二一五人となっている。また析城県は、八郷(寧江・馬酒・欧洞・ 安東・果遂・北更・遂意・新庁)と五鎮(城関・大塘・思練・紅渡・古蓬) とからなっており、県庁が城関鎮におかれている。 県の主要な産業は農業であり、耕地面積が四五・九七万畝となってい 広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 駒 る。主な史蹟としては、ここに紹介する肝城県土司街円と土司嗣堂をはじ ( 2 ) めとして、清代の永吉橋などがある。 ニ、広西の民族分布と土司分布 (イ) 民族分布 今日広西壮族自治区は、漢民族と二の少数民族とからなる多民族居住 ( 3 ) 地域である。広西における民族別の人口は、表 I に示されているが、広西 の総人口のおよそ三分の二を漢民族が占め、約三分の一が一一の少数民族 と な っ て い る 。 二の少数民族のうちでは、壮族が圧倒的多数を占めてい る の で あ る 。 広西における漢民族と少数民族との分布状況を示した表 H によれば、そ の分布状況に大きな特徴が見出されるようである。いま﹃中国人口・広西 分冊﹂によって、広西に居住する民族で最も代表的な漢民族・壮族・落 族・苗族について、その分布状況をみてみよう。 漢民族は自治区全域に分布しているが、とくに桂林・梧州・玉林・欽州 地区および南寧・柳州・桂林・梧州・北海の各都市に集中しており、その 数が八三・二パーセントに及んでいる。このことは、漢民族が広西の東部 地区と主要な都市に集中していることを示しているといえよう。 少数民族についてみれば、まず広西で圧倒的多数を占める壮(チュアン) 族は、広西の西部、とりわけ右江・左江・紅水河流域の諸県と南寧・柳 州・百色・河池の四地区に集中しており、広西に居住する八八・二四パ l セ ン ト に 達 し て い る 。

T

富 族は比較的に広い地域に分布しているが、 柳川・桂林・梧 ( ヤ オ ) 五

(5)

広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 腕 ーよ-ノ¥ 広 西 の 民 族 別 人 口

工、当

人口調査年次別人口 百 分 比 ( % ) 1953年 1964年 1982年 1953年 1964年 1982年 広 西 総 人 口 19,560,822 23,198,330 36,42,1421 100 100 100 漢 民 族 12, 145,967 14,451,340 22,487,418 62,09 62.29 61.74 少 数 民 族 7,414,855 8,746,990 13,934,003 37.91 37.71 38.26 壮(チ ニエ ア ン)族 6,496,885 7,748,565 12,330,765 33.21 33.40 33.86 瑠(ヤ オ)族 471,244 536,822 863,809 2_41 2.31 2.37 苗(ミ ヤ オ)族 203,547 217,348 337,444 1.04 O. 94 O. 93 伺(ト ン)族 149,869 139,444 229,593 O. 77 0.60 0.63 {:Ä j~ (ム フ オ)族 43, 167 52,575 88,840 O. 22 O. 23 O. 24 毛南(マ オ ナ ン)族 18,404 22,337 37,933 0.09 0.09 0.10 回(か い)族 9,894 13,465 19,374 0.05 0.06 0.05 京(キ ン)族 6,596 4, 155 9,864 0.03 0.02 0.03 舞 ( イ )族 4,681 4,245 4,717 0.02 0.02 0.01 水(ス イ)族 2,647 4,063 0.01 0.01 !i:{老(ケ フ オ)族 507 980 O. 002 0.003 其 の 他 10,568 4,880 6,621 0.05 0.02 0.018 州・百色・河池・欽州の六地区に、広西に居住する蕗族人口の九二・六 パーセントがおり、とりわけ都安・巴馬・金秀・富川の瑠族自治県に集中 し て い る 。 苗(ミャオ)族は主に柳州・桂林・百色・河池の四地区に集中しており、 とりわけ融水・一ニ江・竜勝・隆林の四つの民族自治県と資源・西林・南丹 等の県に、広西に住む苗族の九二一・九六パーセントの人が居住しており、 融 水 苗 族 自 治 県 に は 、 一 四 万 人 以 上 が い る 。 以上のように今日の広西における民族分布状況を知ることができる。こ れを漢民族と少数民族との分布で比較していえば、広西の東部には、漢民 族が圧倒的に多数を占め、広西の西部およぶ中央部には、少数民族が比較 的に多く居住しているといえよう。 ところで、明清時代における広西の民族別人口分布を具体的な数字を もって示す史料を見出すことは困難なようである。なお参考までに、明代 の官僚が広西省全域の民族分布状況として、次のように把握していたよう 表 I であることを知る。﹁明実録﹄世宗嘉靖二五年六月丁亥の条に、 章 下 兵 部 以 為 広 西 嶺 徹 荒 服 、 大 率 一 省 狼 人 半 之 、 濡 謹 一 二 之 、 居 民 二 之 、 とあり、きわめて概略的な把握であるが、明代の広西省における民族別人 口構成を知る手懸りとなるであろう。すなわち、明代半ばの嘉靖年間、広 西では全省の五割が恨人であり、三割が培・憧であり、二割が漢人であっ たという。なおここでいう恨人とは、後述するような士司支配地区に居住 する億(壮族) であって、非土司(流官)支配地区に居住する憧と区別し て用いられたものと解することができよう。 (ロ) 土司分布

(6)

け│ 容 1 (ヨ河君主ElJト十&1-=+投下 T 国日 表 II 1982 年広西の民族別人口分布 (単位:人〕

じで

漢民族 壮族 T 名族 苗族 伺族 イ玄佑族 毛南族 回族 京族 葬族 水族 {之催族 其の他 i 仁 k コ 言十 22 , 487 , 418 12 , 330 , 765 863 , 809 337 , 444 229 , 593 88 , 840 37 , 933 19 , 374 9 , 864 4 , 717 4 , 063 980 6 , 621 南寧市 606 , 600 251 , 125 1 , 640 365 356 237 116 1, 503 96 26 42 626 柳州市 505 , 897 72 , 808 949 636 847 910 152 2 , 509 15 14 24 l 607 桂林市 635 , 572 36 , 807 2 , 857 306 378 70 39 8 , 463 25 14 13 507 梧州市 249 , 158 1 , 586 207 17 18 4 4 87 2 69 南寧地区 1 , 663 , 949 4 , 176 , 739 52 , 146 1, 122 271 130 41 198 227 33 78 533 柳州地区 1 , 374 , 807 2 , 094 , 947 84 , 353 192 , 714 186 , 528 5 , 661 131 1 , 030 111 35 707 342 桂林地区 2 , 922 , 126 114 , 200 175 , 212 37 , 497 38 , 756 82 27 4 , 029 11 18 6 286 梧州地区 3 , 28 1, 743 60 , 800 13 1, 713 132 53 25 17 180 6 169 玉林地区 6 , 886 , 464 442 , 826 6 , 517 404 180 267 128 275 6 20 24 401 百色地区 398 , 847 2 , 487 , 940 100 , 463 87 ,.7 92 105 69 31 380 46 4 , 397 4 971 951 河池地区 547 , 358 2 , 120 , 554 286 , 036 15 , 921 1 , 721 81 , 307 37 , 232 679 6 141 3 , 130 4 638 欽州地区 3 , 414 , 903 472 , 425 12 , 716 538 380 78 15 41 9 , 321 11 34 1 , 492

(7)

表 E 明 清 時 代 に お け る 広 西 土 司 の 設 置 ・ 改 流 一 覧 表 番 号 土 司 名 初任士宮名 設 置 年 省廃改流年 備 考 東 蘭 :ト卜│ 章 銭 保 洪 武 12 羅 正 7 意富擦を初任土官とする 2 南 丹 州 莫 金 /ノ 7 洪武28 l時廃止復置 3 週日 地 州 羅 黄 貌 /ノ 4 析 城 県 莫 敬 誠 宣 徳 間 (民国17年改流) 5 永 順 長 官 司 都 文 茂 弘 治 問 6 永 安 長 官 司 主主

4

鬼 11 7 恩 恩 府 ( 州 ) 本 永 昌 弘治末改 8 t 林 県 黄 嵩 洪 武 2 9 白 山 土 巡 検 司 王 愛 嘉 靖 7 10 興隆 // // 11 那馬 ノノ // 同治9 12 定羅 1/ 11 13 │日城 // 11 14 ド旺 ノノ 意 良 保 // 15 安定 /ノ 潜 応 壁 11 16 都陽 // // 17 古 零 ノノ 軍 11 18 田 ナト│ (府) 本 伯 顔 洪 武 2 19 帰 11頃 州 苓 永 興 永 楽 問 羅正8改 弘治9年嗣から州へ 20 恩 城 1'1'1 芦r之 弘治問廃 21 上 隆 州 若 手 永 通 成 化3廃 22 者

E

康 州 b馬 斌 洪 武 32 23 1四 城 州 ( 府 ) 民寸 主口主 品中、 // 5 羅正5 24 程 県 宣徳初改 25 安 降 長 官 司 界 子 得 永 楽 l 26 上 林 長 官 司 左 手 子 成 グ 初 康 照5改 27 向 武 州 黄 世 鉄 洪 武 2 洪武28改 28 富 労 県 黄 建 文 中 永楽初省 武林県へ省入 29 奉 議 州 黄 志 威 洪 武 7 洪武28改 30 鎮 安 府 与 添 保 /ノ 羅 正10 31 上映洞土巡検司 許 尚 爵 32 j掠溜案 // 33 遷隆洞 // 黄 威 雪 量 洪 武 4 34 武 靖 州 若 手 邦 佐 嘉 靖 8 広西における土可制度の 腕 1¥

(8)

広西における土司制度の 番 号 土 司 名 初任士宮名 設 置 年 省廃改流年 備 考 35 帰 徳 少

H

黄 陸 城 洪 武 2 36 呆 化 チ

H

越 栄 /ノ 37 下 雷 ナ

H

許 永 通 万歴18年桐から州へ 38 上 思、 チ

H

黄 中 栄 洪 武 初 弘治18改 39 太 平 府 黄 英 桁 (( 2 40 太 平 州 李 以 忠 (( 41 鎮 遠 、州

i

趨 勝 昌 グ 初 42 若 盈 ナト│ 李 鉄 釘 (( 43 平 安 列f 李 郭 佑 (( (民国 17年改流) 44 万 承 介│ 許 郭 安 (( (民国 18年改流) 45 全 著 州イ 李 添 慶 (( 46 結 安 '11'1 張 土 栄 (( 47 音量 英

1

'1'1 李 世 賢 (( 48 結 倫 州 鴻 万 傑 (( 2 49 都 結 州 農 武 高 ノノ 初 50 上 下 凍 州 趨 貼 従 (( 51 思、 城 州 越 雄 傑 (( 52 羅 陽 県 黄 出EL ノノ 初 53 思 陵 州 章 延 寿 か 21 54 思 同 州 黄 克 嗣 (( 万歴28省 永康州へ省入 55 養 利 j十

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趨 日 泰 グ 初 か 3改 56 永 康 介! 楊 栄 賢 成 化8改 万歴28年桐から州へ 57 左 介

i

黄 勝 爵 洪 武 初 か 13改 58 F註才f雪L之 善 県 越 還 宣徳間改 59 息 明 府 黄 忽 都 洪 武 2 (民国初改流) 60 思 明 :ト卜│ 黄 君 寿 H 初 康照58改 61 下 石 西 州 閥 賢 ノ/ 2 62 上 石 西 州 越 崇禎間省 土官趨・何・黄氏交替 63 音量 チト│ 越 帖 堅 洪 武 2 羅正7改 清代上龍土巡検司となる 64 忠 介

i

黄 中 謹 N 初 (民国 5年改流) 65 葱 祥 州、│ 李 昇 (( 66 江 1ト│ 黄 威 慶 (( 67 羅 白 県 梁 敬 賓 (( 68 手JI 州 広-,之 (( 嘉靖2省 澗城州へ省入 蹴 九

(9)

広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 齢 中国西南の非漢民族地域を統治するために設けられたいわゆる土司制度 は、周知の如く唐宋時代の購腰州体制をうけつぐものであり、一元代に始ま ( 7 ) 一 般 的 に い わ れ て い る 。 り、明代に整えられ、清代に確立したと、 広西における土司の設置・改流について、﹁明史﹂巻コ二七

i

九・広西土 司伝および﹁清史稿﹄巻五一六・広西土司伝などによって、明清時代の状 ( 8 ) 況を整理したものが、表直である。 表直を参考にして、明清時代の広西における土司の設置・改流状況をみ ていくと、次のようなことが指摘できる。 広西に設置されている土司の殆どが文職系の土司(土知府・土知州・土 知県)であり、武職系の土可(宣慰司・官一撫司・安撫司・長官司)として ( 9 ) は、僅かに四つの長官司が設けられているにすぎないことである。こうし た状況は、土司制度が実施された他の中国西南地域(四川・湖南・貴州・ 雲南など)と、大きく相異するものであり、広西土司の一つの特徴となっ ている。このような相異が、いかなる理由によって生じたものであるかは、 今後他の地域との比較をふまえて、充分に検討していく必要のある課題と いえよう。さし当って、次の点が指摘できると思われる。すなわち、当該 地域への漢民族の進出と密接にかかわることであるが、

ω

非漢民族の漢化 程度の差異、川非漢民族の生業形態の差異などによるものであろう。 次に明清時代の広西における士司について、とくにその分布状況を検討 し て み よ う 。 まず万暦二七年序、蘇溶纂修﹁広西通士山﹂(以下では万暦版 ﹃広西通志﹄と略す)巻二二・外夷志・土司の条には、明代の広西に設けら れた諸土司を右江土官と左江土官とに二分して列挙している。いまこれに 従って、その分布を整理してみよう。(便宜上士司名は表 E 中の番号を用い る ) ︿右江士宮﹀ 0 慶遠府轄 。 布 政 司 直 隷 ︿左江士官﹀ 。 薄 州 府 轄 。 南 寧 府 轄 。 太 平 府 轄 0 布政司直隷

1 i ヮ “ q ο A 斗 品 目 り に U ) , ハ U 1 ワ 臼 q d 4 り Q U 7 Q U Q d 品 川 ス リ 29d ハ 勾 戸 り 白 U 月 i Q U Q d 什 い 8 9 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 0 向 い 2 2 向 い 2 2 2 2 2 n u -つ臼品訓可 q o

円 。 円 。

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iA 生 h M V q t u n d p o 品 切 れ u n u -ワ 臼 q G A 斗 よ り に U ウ i o o n u A U -q L n d A よ 句 A W 品 切 n u h M v q U A せ A t A 4 4 ム A 4 A 4 4 A A 生 4 4 4 A F h U F O R U F D F h u 向 V 向 刊 以 v n b 右の状況は、あくまでも万暦年間のものであり、この時点ですでに改廃 つ d Q d 1 ょ っ “ つ d F h u n b 円 i o o n h U F h u p o n h u n h u p o n h u p o n h u されたものなどは、けを付して区別した。 このようにみてくると、右江土官に配された諸土司は、今日の右江と紅 る こ と が 判 明 す る 。 水河(明代の都泥江)およびその支流の諸河川流域に設置された土司であ 一方、左江土官に列挙された諸士可は、今日の左江とその支流の諸河川 の流域に設けられた土司であることがわかる。 以上の如く、広西における土司の設置された地域は、広西西部(桂西) と中央北部、すなわち、広西西部の左江と右江および中央北部の紅水河流 域に限られており、広西東部(桂東)に殆ど土司が設けられていない。こ のことは、広西における漢民族と非漢民族との居住・分布と密接にかかわ るものであろう。すなわち、広西西部(桂西)と中央北部には、今日でこ そ漢民族も多く分布しているが、明清時代までは極めて僅少であったと思

(10)

われる。それに反して、広西東部(桂東)には、早くから漢民族が居住し、 時代が降るに従って平野部、とりわけ都市が漢民族の集中居住地域とな り、非漢民族の多くが山岳地域に居住するようになっていったのである。 、折城県土司街門 (イ) 析城土司の設置・改流 折城県がいつから土官知県によって統治される、いわゆる土知県となっ たか。すなわち、肝城土司がいつ成立したであろうか、史料によってその 時 期 を 検 討 し て み よ う 。 まず﹁明史﹄巻コ二七・広西土司伝・慶遠府の条に、 折城、宋慶暦間置県、隷宜州、元以土官莫保為八仙屯千戸、洪武初、 設流官知県、罷管兵官、籍其屯兵為民、莫氏遂徒居折城界、宣・正後、 璃・億狂倖、知県蘇寛不任職、培老章公泰等、挙莫保之孫誠敬為土官、 寛為請於土官、具奏、得世襲知県、由是邑有二令、権不相統、流官握 空印、倣居府城而己、弘治問、総督郵廷理奏革流官、土人毒保為内宮、 陰 主 之 、 始 独 土 官 、 と あ り 、 嘉 靖 一

O

年序、林富修・黄佐纂﹃広西通志﹄(以下では嘉靖版﹁広 西通志﹄と略す)巻五一・外志・土官属流沿革・慶遠府の条に、 肝 城 県 、 建 置 沿 革 、 県 治 在 府 城 南 二 百 一 十 里 、 古 百 耐 四 奇 襲 摩 地 、 唐 置 芝 州、治之、天宝初、併綜・帰・思・肝・芝五州、改肝城郡、属嶺南道、 後復為芝州、宋慶暦問、廃芝州、置折城県、改隷宜州、元何旧、明興 因 之 、 治 以 流 官 、 轄 三 郷 十 有 六 里 、 永 楽 後 、 務 ・ 撞 屡 叛 、 官 一 徳 三 年 、 討平之、尋周知県蘇寛井撞老章公泰等議、乃以土官兼治、俗猶梗化如 広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 蹴 故、弘治十年、始独治以土官、今戸僅一里、 と あ り 、 さ ら に 同 条 に 、 土官知県莫姓、其先居宜山端簡里、元至一五問、有莫保者、以撞民授八 仙屯土宮壬戸、這国朝洪武初、罷各屯管兵官、籍其屯兵為民、莫氏遂 徒居析城界土、永楽問、肝城謡・撞作乱、宣徳三年、詔討平之、撞老 章公泰等、挙莫保之玄孫敬誠為士宮、時流官知県世襲蘇寛、為申監司、 薮実具奏、詔授敬誠析城士官知県世襲、正統十年任、成化一五年、随征 断藤峡、二年、子魯襲、弘治十年、奏革流官知県、以印付魯掌之、魯 死、子継清保襲、末授官死、正徳三年、子廷臣保襲、 とあり、万暦版﹃広西通志﹄巻三一・外夷志・士官・右江土宮・慶遠府の 条 に 、 析 城 県 、 在 府 南 一 百 四 十 盟 、 ( 略 ) 古 百 奥 地 、 唐 置 芝 州 、 天 宝 初 、 併 綜 ・ 帰・思・析・芝五州、改為析城郡、属嶺南道、後復為芝州、宋慶暦問、 廃州置析城県、改隷宜州、元町旧、以士宮莫保、為八仙屯千戸、洪武 初、設流官知県、罷管兵官、籍其屯兵為民、莫氏遂徒居析城界、宣-正以後、強・撞屡乱、知県蘇寛不事事、而撞老章公泰等、挙莫保之玄 孫 敬 誠 為 士 官 、 蘇 寛 為 申 監 司 、 呈 ( 奏 、 授 敬 誠 世 襲 知 懸 、 時 一 邑 二 令 、 権不相統、流官徒擁虚名耳、継寛者益不能振、猿夷為梗、諸銭穀甲兵 尽入土官、掌握流官知県、恒嗣印、倣居府城、而土官長子孫世有其地、 敬誠死、孫魯襲、弘治問、総督郵廷噴与士宮為市、奏革流宮知県、市 土人章、滑為内監官、用事陰主之、始独任土官、以印授之、魯死、子継 清末授官死、子廷臣襲、廷臣死、子応朝襲、応朝死、子鎮威襲、鎮威 告 老 、 子 志 明 襲 、

(11)

広 西 に お け る 土 可 制 度 の 一 蹴 とある。これらの史料には若干の相異がみられるが、いずれも析城土司の 成立の経緯をよく示しているといえよう。 析城県は、明の洪武初め、流官知県によって統治されていたが、宣徳三 ( 印 ) 三四二八)年に肝城の曙・憧の反乱を平定した折、偉(壮、チュアン)族 の章公泰らの推挙によって、莫保の玄孫に当る莫敬誠が土官知県となっ た。これによって肝城県には、流官の知県蘇寛と士宮の知県莫敬誠とが並 存することとなり、しばらく二人の知県が存在したものの、その実権は土 官が掌握していた。やがて弘治九(一四九六)年に、総督都御史郵廷墳の 上奏により、その年一

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月に析城県の流官知県が廃され、土官知県莫魯の みが析城県を統治することとなり、ここに名実ともに折城土司が成立した の で あ る 。 肝城県が流官支配から土官支配へと移り変った、いわゆる﹁改流易士 L について、当時の識者の注目すべき意見がみえる。すなわち、﹃殿卑要纂﹂ 巻 一 一 ・ 慶 遠 府 の 条 に 、 折城県図説、肝城、故流県、後改為士、以百年冠裳之地、論青於夷、 識 者 有 遺 憾 罵 、 とあり、また﹃明史﹄巻一一二七・広西土司伝・慶遠府の条に、 議者以肝城自唐・宋内属己二百余年、 一 日 一 挙 市 棄 之 於 蛮 、 為 失 策 一 五 、 とある。肝城県は唐・宋以来、王朝支配体制(流官統治)の枠内にあり、 漢人支配が進んでいたが、土官支配すなわち士司体制に陥ったことは、誠 に残念であり失策であるというのである。ここには当時の漢人官僚の見解 が表明されており、当時の漢人識者が土司支配に対してもっていた考え方 の一端を伺い知ることができるであろう。 この後、莫氏一族が肝城県の土官知県を世襲して清末に至り、光緒三二 ( 一 八 九 七 ) 年 一

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月に莫縄武が士官知県の職を失ったが、莫氏による土官 支配は莫増瑞が代理土官となって継続した。やがて民国に入って、その一 七(一九二八)年に改土帰流が行われ、 ついに析城県の五

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年の長期に わたる士官支配は完全に消滅したのである。 (ロ) 土司衛門の創建 宣徳年間に壮族の章公泰らの推挙によって士宮知県となった莫敬誠は、 流官知県の蘇寛とともに析城県の統治を行ったが、実質的には莫敬誠が権 力を握って、蘇寛はただ府城に倣一居するのみであったという。この時期の 肝城県の衛門については、嘉靖版﹁広西通士山﹂巻五一・外夷志・士宮属流 沿革・慶遠府肝城県の条に、 公署、肝城県、洪武三年、知県危安創建、正統問、楊敬重修、今独以 士官莫魯子孫治之、僅建正庁・門楼、以草苫覆之、 とあり、洪武三年に創建された肝城県流官街門は、嘉靖年間には士官莫氏 が引続き使用していた。その街門の規模は、僅かに正庁と門楼のみであり、 草ぶきのきわめて簡単なものであった。なおその位置については、明らか にしていない。またこの街円がいつまで使用されたか定かでない。 ところが、万暦一

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一五八二)年に士宮知県の莫鎮威は、土司街門を 修文里に新たに造営した。ここが今日の土司街門の位置であり、翠騨山の 北麓に、この山を背にして建てられ、当時の建物の一部が今日まで伝わっ ているという。莫鎮威が造営した街門は、やがて清代に入り、乾隆一一一(一 六八二)年と道光一

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一 八 三

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)

年に増改築が重ねられた。 一方、同じ敷地内には、乾隆九(一七四四)年に土司嗣堂が建立され、

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広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 腕 ( 日 ) 道光二七(一八四七)年に重修されて今日に伝えられている。 (ハ) 土司衛門の現状 析城県土司街門と嗣堂の現在の敷地は、その広さが九、四九八平方メl トルであり、建物の総面積が四、

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二八平方メートルである。現在の敷地 の広さは、藍承思館長によれば、往時のおよそ三分の一ほどであり、かっ ての衛門の敷地の一部が、析城県の人民法院(写真 7 ) などに利用されて い る と い う 。 現在の土司街門と土司嗣堂の配置については、立体図と簡介(後掲の参 考資料一)を参照していただきたい。 衛門の正面の大きな門(②、写真 2 ) をくぐって中に入ると、まず左右 に装を新にした兵房(④、写真 5 ) と牢房(⑤、写真 4 ) が 配 さ れ て い る 。 とくに正面の大門・ぃ一居・兵一居・牢房は今回修復工事が終り、かつての建 物とほぼ同様に復元されている。この兵房は士司を警護するために土兵を 常駐させていたところである。 一方、卒房は二つの部分からなっており、 まず軽い罪の者を収容する部屋があり、続いてその奥に重罪人を囚める部 屋がある。その中は丸太木(写真 3 ) で仕切られている。兵房と牢房は、 とくに土民たちに土司の権威を誇示するための建物といえよう。 このような兵房と牢一聞を過ぎて中へ進んでいくと一堂(⑥、写真 6 ) お よびその左右に東西花庁(⑦⑨)が並び、土官が日常の業務を執務すると ﹂ろである。次いで二堂(⑩) -三堂(⑪)といった、士宮の寝所や家族 の 居 所 な ど の 建 物 が 続 く 。 衛門の左側に士司嗣堂(⑬⑭⑮⑮)が配され、正殿(⑮)には、折城県 土官莫氏の累世の神位が収められている。 四 現在の土司街門と土司嗣堂は、開放後の一九六三一年に広西壮族自治区の 重点文物保護単位(重要文化財の意)に指定され、その折に自治区の予算 が計上されて修復をほどこした。しかし、 一 九 六

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年代半ばから約一

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年 間続いた文化大革命のとき、建物は破壊されたが、 一 九 八

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年代後半に自 治区の援助によって修復工事がおこなわれ、その竣工を祝って一九九一年 三月には肝城県土司街門開館記念祝賀会が盛大に催された。 この間、析城県土司街門の建物は、 一九六三年に析城県文物管理所とな り そ の 後 、 一九八七年には肝城県土司博物館として利用され、 今日に 至 っ て い る 。 このような肝城県土司街門の敷地と建物の規模の壮大さは、山聞の一小 県としての肝城に君臨した士官の権威を象徴するものであるとともに、ま さにこのような士宮が﹁土皇帝﹂と呼ばれる所以である。今日なおこのよ うな史蹟が広西の一隅に残存していることは、誠に感慨深いことであると い え よ う 。 四、析城土官莫氏 (イ) 莫氏の始選祖 肝城県土官莫氏に関する族譜としては、乾隆九年編纂の石印本﹃肝城莫 族総譜﹄と、民国二三年に莫宣巌編﹃重新続修莫氏族譜﹂の二種が伝わっ ているという。これらの族譜は、いずれも析城県土司博物館が所蔵してい るとのことであった。しかし、誠に残念ながら今回この二種の族譜を閲覧 することができなかった。 そこで、藍承恩氏および車桂清氏の著作を参考として、莫氏の祖につい

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て 言 及 し て み た い 。 族譜によれば、莫氏の始遷祖は、江蘇省太倉州出身の漢族であるという。 ところが、藍承思氏は、川唐代の広西においてすでに莫氏が大きな勢力を 有していたことが文献にみえること、川宋代の析城周辺においても莫氏が 多く居住していたことを一不す摩崖碑(後掲の参考資料二

a )

が近くで発見 されていることなどから、析城士官莫氏が徒選の漢人ではく、広西土着の 壮族であり、肝城土官莫氏と南丹土官莫氏とが密接な関係にあることなど ( 凶 ︺ を 指 摘 し て い る 。 我が国においても戦前に河原正博氏は、広西蛮酋の始遷祖をとりあげて 検討し、左江・右江流域における蛮酋の始遷祖の多くが、宋代の仁宗皇祐 年聞に発生した健智高の反乱を平定するために派遣された将軍扶青の部下 として活躍した漢人であり、 その討伐の功によって当地の知州・知県と なった人々であると彼らの族譜などに記されているが、彼らの多くが明初 に実在した人々であることなどから、こうした始遷祖の伝聞が作為で信恵 ( 凶 ) 性のないものであると論じられた。 ( 幻 ) 一万、中国においても粟冠昌氏らによって、この間題が検討されており、 肝城県土官莫氏の始遷祖に関する族譜の記述は、藍承恩氏が指摘するよう に誤りとするのが妥当と思われる。 次に肝城県士官莫氏の祖についてみると、﹃明史﹄巻二二七・広西土司伝 などには、莫保からとしている。それによれば、莫保は元の至一克年間(一 三三五

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一 三 四

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年)に、宜山八千屯千戸所の土官壬戸であったが、明の 洪武初め、八千屯千戸所が廃されて彼の率いる屯兵も民となり、初めて析 城県に徒り住むようになったのである。 広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 樹 やがて宣徳年間に莫保の玄孫莫敬誠が士官知県となり、以後莫氏が土官 を世襲するようになった。莫氏の世系について、 版・万暦版・嘉慶版﹁広西通志﹄の析城土司の条によって整理し、 思・桂清氏の論著により、これを補ってみよう。 ﹃ 土 官 底 簿 ﹄ および嘉靖 藍 承 莫氏世系 川 ① ② 川 ③ 川 ④ 川 ⑤ 例 ⑥ 同 ⑦ 仰 ⑧ 川 ⑨ 莫保

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敬誠│圏│魯

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継清│廷臣│応朝

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は軍桂清氏による世代数を示す。¥ 五

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広西における土司制度の一蹴 (ハ) 莫氏の直系 析城土県は、光緒三二年に莫縄武が革裁の後、莫増瑞が代理土官を務め たのである。ところが、肝城土県は民国一七(一九二八)年に改土帰流と なり、その時点での代理士官を誰が掌っていたか不明である。恐らく莫増 瑞氏の子ではなかったかと思われる。なぜならば、今日肝城莫氏の直系が、 土司衛門から徒歩五分ほどのところに在住されており、 その人が第二三代 目とのことである。 記川城莫氏第二三代目の莫祖庚氏(写真⑧)は、 いま五

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歳であり、夫人 と子供三人の五人家族で、 建築業に従事して生計を営んでおられる。 住 所・肝城県芝州一路

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六五号) お わ り に 広西壮族自治区の中央部に位置する折城県は、山間の一小県である。こ の僻遠の地を士官莫氏が、五

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年間もの長きにわたって統治してきたの であり、その象徴としての析城県土司街門が、区の重要文化財の一つとし て、今日なお大切に保存されているのである。壮大な規模をもっ析城県士 司衛門は、往時の強大な土司権力を訪梯させる。ところで、折城莫氏は、 いかなる背景のもとに強大な権力をもつに至ったのであろうか。とりわけ 山聞のチュアン族の農村地域において、どのような経済的基盤のもとに強 大な土司権力を形成したのであろうか。これらはいずれも今後に残された 検討すべき重要な課題である。 ム ノ¥ 注 ( 1 ) 広 西 通 志 館 編 ﹁ 広 西 手 冊 ﹄ ( 広 西 人 民 出 版 社 、 一 九 八 八 年 一 月 ) 、 広 西 壮 族 自 治区地名委員会・広西壮族自治区民政庁編﹃広西壮族自治区城鎮郷村名手 冊﹄(広商科学技術出版社、一九九

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年 一 月 ) 。 ( 2 ) 前 掲 ﹃ 広 西 手 冊 ﹄ 一 五 六 頁 。 ( 3 ) 黄賢林・莫大同主編﹃中国人口・広西分冊﹄(中国財政経済出版社、一九八 八 年 九 月 ) 一 二

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八頁の表ロ l ﹁ 広 西 三 次 人 口 普 査 各 民 族 的 数 量 及 比 重 変 化 ﹂ に よ る 。 ( 4 ) 前掲﹃中国人口・広西分冊﹄二二四頁の表ロ2﹁一九八二年広西各民族 人 口 的 地 区 分 布 ﹂ に よ る 。 ( 5 ) 前掲﹃中国人口・広西分冊﹄三一一

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一 一 頁 。 ( 6 ) 俄 人 に つ い て は 、 羅 香 林 氏 ﹁ 狼 兵 狼 田 考 ﹂ ( ﹃ 広 州 学 報 ﹄ 第 一 巻 第 二 期 、 一 九 三 七 年 四 月 、 同 著 ﹃ 百 越 源 流 与 文 化 ﹄ 所 収 、 国 立 編 訳 館 中 華 叢 書 一 編 審 委 員 会 、 一九七八年二月)、白耀天氏つ狼 μ 考 ﹂ ( ﹃ 広 西 民 族 研 究 ﹄ 一 九 八 八 年 第 四 期 ) 参 照 。 ( 7 ) 岡 野 昌 子 氏 ﹁ 明 代 土 司 制 度 考 ﹂ ( ﹃ 待 兼 山 論 叢 ﹄ 創 刊 号 、 一 九 六 七 年 一 二 月 ) 。 ( 8 ) 表中の省廃・改流年は、明清時代のものに限定した。広西土司の多くは、 民国に入って改土帰流が行われた。ここにとりあげる肝城県土司も後述する 如く、民国一七(一九二八)年に改士帰流が行われたのである。 ( 9 ) 表 E に列挙されていないが、慶遠南丹安撫司は、洪武二年に設置し翌年に 廃されている。これは広西に武職系の安撫司が設置された唯一の事例であ り、明初の混乱期におけるきわめて特殊な事例といえよう。またこの表の中 には、土巡検司として思恩府の九土巡検司(尚

9l

口)と上映嗣・湖潤案・ 遷際洞の三士巡検司(恥幻

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お)および清代の上龍土巡検司(恥臼)が含まれ ている。これらは﹃明史﹄・﹃清史稿﹄の広西土司伝にかかげられているもの である。明清時代の広西には、多くの土巡検司(正士巡検あるいは副土巡検 が任命された巡検司のこと)が設置されており、明代のみをとりあげてみて もその数は超大であり、なに故にこの一一二の士巡検司のみが列挙されたので あろうか、その理由を明らかにしえない。ただ注目されるのは、これらの一 三の土巡検司がいずれも広西西部に設置されているものであるということで ある。いいかえれば、広西東部に設置された多くの土巡検司は、土司伝に全 く列挙されていないのである。なお明代広西における土巡検司については、 拙稿﹁明代広西の土巡検司について﹂(﹃中国大陸古文化研究﹄第九・一

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併 号 、 一 九 八

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年 一 二 月 ) 参 照 。 ( 印 ) ﹁ 明 実 録 ﹄ 宣 宗 宣 徳 三 年 間 四 月 平 卯 の 条 に 、 広 西 総 兵 官 都 督 余 事 山 雲 奏 、 折 城 県 蛮 窓 護 団 等 一 千 余 人 出 鋭 、 臣 親 督 軍 追 至 横 州 永 淳 県 、 斬 賊 首 二 百 九 十 余 級 、 収 回 被 掠 人 口 、 と あ り 、 ま た 同 室 田 宣 徳 三 年 一 二 月 庚 子 の 条 に 、 広 西 総 兵 官 都 督 余 事 山 雲 奏 、 率 兵 於 慶 遠 府 析 城 等 県 山 桐 檎 獲 賊 首 語 団 等 斬 首 一 千 五 百 余 級 、 帰 所 掠 軍 民 男 婦 三 一 百 八 十 五 人 、 馬 一 十 七 匹 、 と あ る 。 な お ﹃ 明 史 ﹄ 巻 九 ・ 宣 宗 紀 ・ 官 一 徳 三 年 一 二 月 庚 子 の 条 、 同 書 巻 一 六 六 ・ 山 雲 伝 参 照 。 ( 日 ) ﹃ 明 実 録 ﹄ 孝 宗 弘 治 九 年 八 月 壬 寅 の 条 に 郵 廷 驚 の 上 奏 が み え る 。 ( ロ ﹀ ﹁ 明 実 録 ﹄ 孝 宗 弘 治 九 年 一

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月 丁 亥 の 条 に 、 裁 革 広 西 慶 遠 府 折 城 県 流 官 知 県 一 員 、 止 留 士 官 知 県 、 掌 印 管 事 、 従 総 督 都 御 史 等 官 奏 也 、 ム ﹂ φ の ヲ h v

( 日 ) ﹃ 清 実 録 ﹄ 徳 宗 光 緒 三 二 年 夏 四 月 丙 寅 の 条 に 、 以 縦 匪 残 民 、 世 済 其 悪 、 革 広 西 析 城 県 士 知 県 莫 縄 武 職 、 追 取 原 領 紙 号 徽 鎖 、 と あ る 。 な お 藍 承 恩 氏 叫 ﹁ 情 城 莫 氏 土 司 五 百 年 L ( ﹃ 中 央 民 族 学 院 学 報 ﹄ 一 九 九

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年 第 五 期 ) 参 照 。 ( は ) 黄 開 華 氏 ﹁ 明 代 土 苛 制 度 設 施 与 西 南 開 発 ﹂ ( ﹃ 新 亜 学 報 ﹄ 第 六 巻 第 一 ・ 一 一 期 、 ﹃ 明 代 土 可 制 度 ﹄ 所 収 、 学 生 書 局 、 一 九 六 八 年 二 月 ) 、 軍 桂 清 氏 ﹃ 広 西 肝 城 土 司 史 話 ﹄ ( 広 西 民 族 出 版 社 、 一 九 九

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年 五 月 ) 0 ( 日 ) 叢 承 恩 氏 同 ﹁ 析 城 土 司 祭 紀 考 略 ﹂ ( ﹃ 広 西 民 族 研 究 ﹄ 一 九 九

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年 第 一 期 ) 0 ( 日 ) 前 掲 藍 承 恩 氏 凶 論 文 ・ 軍 桂 清 氏 の 著 書 。 ( げ ) 注 ( 日 ) 。 ( 問 ) 前 掲 藍 承 恩 氏 叫 論 文 。 (凶)河原正博氏﹁広西蛮酋の始遷祖に就いてi│左・右江流域を中心として │ │ ﹂ ( ﹃ 南 亜 細 亜 学 報 ﹄ 第 二 号 、 一 九 四 三 年 一 二 月 、 同 著 ﹃ 漢 民 族 華 南 発 展 史 研 究 ﹄ 所 収 、 吉 川 弘 文 館 、 一 九 八 四 年 七 月 ) 0 ( 初 ) 粟 冠 昌 氏 ﹁ 広 西 土 官 民 族 成 分 初 探 ﹂ ( ﹃ 民 族 団 結 ﹄ 一 九 六 三 年 第 二 ・ 三 期 ) 、 同 氏 ﹁ 広 西 士 官 民 族 成 分 再 探 ﹂ ( ﹃ 学 術 論 壇 ﹄ 一 九 八 一 年 第 二 期 ) 。 ( 幻 ) 謝 啓 昆 修 、 胡 度 纂 、 嘉 慶 五 年 刊 本 ﹃ 広 西 通 士 山 ﹄ 巻 五 九 ・ 職 官 表 、 土 司 ・ 肝 城 県 莫 氏 の 条 。 ( 幻 ) 注 ( 凶 ) 。 広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 蹴 ( お ) 前 掲 草 桂 清 氏 著 書 。 ︿ 参 考 資 料 ﹀ 一、析城県土司街門・澗堂古蹟簡介 この古蹟案内のプレートは、析城県土司街門の正門を入って、街門大門 の壁に墳込まれているものである。 析城県土司衛門・嗣堂古蹟簡介 ﹁肝城県土司街門・土司嗣堂、位於県城﹁翠開山﹂北麓。現有面積九四 九八平方米、拠慶遠府誌記載、街署旧在柱県、明万暦十年(一五八三年) 始 選 現 祉 拓 建 。 街門原建築規模宏大、布局厳整、其主体建築由大門・頭堂(又名暖閤)・ 長廊・二堂・三堂等部分組成。此外尚有東西花庁・兵舎・監獄・周一局分布 左右、大門正面為照壁、両側轟立八字跨街牌坊、日﹁東西輯門﹂。三堂後面 為後苑、周囲遍栽花木、花木叢中立一 ﹁伴雲亭﹂、亭後壁下有洞若室、日 ﹁隠仙巌﹂亦称﹁竜隠別壁﹂、為歴代致仕士司隠居養性之処。 除兵舎・監獄外、主建築全部碍木結構、硬山題背、穿斗式構架、構件均 系珍材製作、鐘空花窓、工芸精巧、頗具壮家風格、屋背両側浮離象徴福・ 禄・寿図案、古色古香、気勢軒昂豪華。 大門・頭堂・長廊均設朱漆活動扉風。平時由左右便門出入、第一道目、 ﹁ 儀 門 L 、其他日﹁便門﹂、如逢喜慶節目、或迎接達官顕貴、則大間中門(昇 風)、直通二堂、神秘幽深、気勢十分森厳粛穆。 七

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広 西 に お け る 土 司 制 度 の 一 腕 大門臨街、両側懸控陰刻師団朕一副日、﹁守斯士、斑斯民、十六量群翠誰非 赤子。闘其彊、利其賦、三百里区域尽隷王封﹂ o 東西﹁瞳門﹂横額浮堆﹁慶 南 要 地 ﹂ 、 ﹁ 卑 西 辺 隅 ﹂ 八 個 大 字 。 照壁後面為一広場、場北有万円数畝池沼、俗称官塘、塘中瑚石圏井、修 亭 樹 一 、 専供官族生活用水以及垂釣遊楽之用。 幾 経 変 故 、 数 百 年 末 、 堂 ﹂ -﹁ 東 花 庁 L -﹁韓門﹂己早年被段、僕幸大部分主建築還 -﹁ 後 苑 ﹂ 能保存下来、而且﹁頭堂﹂ -﹁ 二 堂 L 構架至今阿保留明代建築風格。 衛門右側為世襲土司莫氏嗣堂、系清代乾隆年間興建、分前・中・後三進、 前面亦立照壁、照壁左右為門坊、門椙浮堆﹁本支百世 L 、﹁列国一同﹂八個 大字。進入門坊即大院、第一進為正門、第二進為正庁、両側設客房、第三 進為安放莫氏歴代宗親牌位処。﹁嗣堂﹂整体造型布局与﹁衛門 L 協 調 相 称 。 ﹁土司衛門与土司悶堂﹂是我区保留得較完整的土司建築。一九六三年一井 定為区重点文物保護単位、同時接款維修、析城県僅存的両座古建築、主体 基本上恢復了原貌。不幸﹁文革 L 期間再遭破壊。体現古建築特点的麹背、 浮離全部被段、花窓部分柄欄。為了早日恢復古蹟原貌、近年区文化庁又陸 続 楼 款 維 修 、 井 重 建 了 ﹁ 東 花 庁 ﹂ 、 ﹁ 三 堂 ﹂ 及 ﹁ 後 苑 ﹂ o 看来﹁析城土司衛門 和桐堂﹂年内可望修復、不久、這一凝衆壮族労動人民智恵的古建築、在風 景秀麗的﹁翠扉山﹂下将会光華重視。 ニ、折城県西山隠巌摩崖碑 西山は、肝城県の県庁から車でおよそ二

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分ほどのところにある小高い 石 灰 岩 の 山 で あ る 。 ( 写 真 9 ) ﹂ の 山 の 高 さ は 、 一 ニ

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メートル位であろう か 。 そ の 山 を 一

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メートルほど登ると竜隠厳があり、その中はタタミで一 二 八 五畳位の広さほどもあろうか、高さは最も高いところで七

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八メートル位 である。その壁面に三つの碑が(写真山)刻まれており、いずれも宋代の ものである。ここに掲載する三つの碑文は、藍承愚氏のご好意によるもの で あ る 。 一「

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、西山寺常住碑 ﹁ た て 六

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センチ、ょこ五

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セ ン チ 、 J F 標題文字六センチ、正文字二・五センチ﹂ 西山寺常住碑 西山之寺乃析邑之勝一境峰轡映帯蔚然可観巌柚峻口口口口口悦崖碑煙淡石悌 鳳坐達宮高人多歴於此自天聖開山口口口口二百齢年前後住持亦不知幾人失 其間累経愛故寺舎亦口口荒涼歳在甲子償法琳来請欲騎西山住持亦是美意口 今以準使職奉郡命揖此邑越一二年齢政通人和透方無事幸観盛美誠動於中謹抽 供給之銭童拾渠貫伍侶市賀到永康里楊伯光戸下士名香菜坂田参垣塘田柴垣 早 禾 田 楽 旺 共 視 鏡 捧 拾 伍 丈 入 西 山 寺 口 口 常 佳 闇 端 山 口 市 益 百 脚 震 補 之 口 口 口 威 淳 元年乙丑歳孟夏吉日口勇副尉特奉宜州準使権肝城蘇事宜山梁富字必能書 同 巻 掃 人 楊 氏 二 一 娘 勘繰秀土葛珍口撰 本山住持借法琳勤石 b 、西山功徳記 ﹁たて五五センチ、ょこ四四センチ、 J F 額築童百六センチ、正文字三センチ﹂ 西山功徳記 時紹聖丙子歳募誘衆練各施資一一絹省命工匠於此巌錆石悌聖像一一等接彩完就 勝利殊縁上願雷今聖書帝国泰年豊中願郡宰遷策法輪常鴨下願存亡獲利意識合

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盤皆蹄悌道己嘗年間孟秋月慶讃列其施財名者於石庶慶標題以停不朽 信善弟子徐多欧陽留摩誠呉天錫章蛸莫全整莫休徐最蒙惣蒙靖呉黄莫品開 丑葛語莫悶章氏二一娘城西何氏五娘臨泉寺比

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道達雲蹄悪珍恵且成道盈道雪化 首償恵宰同開山勧縁借守毒葱賓 桂州西門匠人臣偉鎗杷邑郷時書 c 、遊西山詩 (築書・正文字ともに九センチ) 遊西山詩 遊西山詩並序知宜州析城豚事臨賀林毅 余嘗病世人隠逸之嘩而仕官之拘欲雨容其遍使居山不擦慮宮不拘而不局偏蔽 一曲之士量不難会哉蓋嘗求其人而未得於是私矯慕藷故白少時宅深山倶木石 未嘗不得以文而約以謹一

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芝泥検至則必挟策掘起者非急進也蓋悪乎聾耳泊 国勉従仕廃敢告夢唯因公暇則必求山水佳趣以白娯逼者非綬公也蓋悪其拘耳 自余治来賓嘗得四巌日龍洞日白雲日林公日古典者皆相望於数十里之間毎一 務隙即命僚携秀贈収山相輿遊駕不之此則之彼蓋亦得乎廃官不拘之粗也既歪蕗 邑問民之飴及諸佳勝皆日西巌南巌東巌規制倶可避正持層到官之初未達遍賞一 日偶暇濁歩西巌始践借合既愛其清麗能登層閤復嘉其高明細而現之石室有龍 露背如在理而求之千拭蔦葉不可名者況距邑数里足以頻遺然則廃官而不拘今 復堪其土砂会顧雄貯左復失憾膏因成小詩及書其序以冠子篇首云 詩 到官公暇羅佳境 首得西巌数里絵 乍践借居神慮爽 旋登層閤俗塵桧 客遠山門鎮自虚 龍蔵石室誰能測 広西における土可制度の一蹴 問尺償乗民来隠 題迎障閣 西巌高閣勢昂昂 震背夕陽婦昧谷 猪欄似蓋影来照 不待翠頭弦直見 題龍隠洞 播龍頭角臆何年 天下蒼生方渇望 贈害賓二師山居 臨泉郭寺雄華麗 珍重二師能脱俗 乱峰清鹿足頻如 下撒群山景信光 故 逢 暗 明 日 出 扶 桑 淡白非庭燦未央 長安空恨隔雲郷 空把霊梶露此間 好興需雨津屡嚢 争奈鍾燈枕俗居 卜隣巌下有清徐 紹聖戊寅年春

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日居山信守害恵賓摩崖鐘記 門生西畠章烹書 門生賓陽章汝明家 桂林直畑刊 九

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広西における土可制度の 4歯包 1 街門照壁 3 牢房の内部 5 兵房の外面 2 街門大門 4 牢房の外面 6 一堂(暖閣)

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7 析 城 県 人 民 法 院 9 西山と竜隠巌 広西における土司制度の 働 8 莫祖庚氏ζ夫妻 10 竜隠巌の摩崖碑

表 E 明 清 時 代 に お け る 広 西 土 司 の 設 置 ・ 改 流 一 覧 表 番 号 土 司 名 初任士宮名 設 置 年 省廃改流年 備 考 東 蘭 : ト 卜 │ 章 銭 保 洪 武 1 2 羅 正 7 意富擦を初任土官とする 2  南 丹 州 莫 金 / ノ 7  洪武 2 8 改 l 時廃止復置 3  日 週 地 州 羅 黄 貌 / ノ 4  析 城 県 莫 敬 誠 宣 徳 間 (民国 1 7 年改流) 5  永 順 長 官 司 都 文 茂 弘 治 問 6  永 安 長 官 司 主 主

参照