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ジョン・デューイの中国論(続)

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ジ ョン ・デ ューイの中国論 (続)

I は じめに 筆者 は前稿 において,ジ ョン ・デューイの中国論 について,特 に彼の問題観 1 ) 点 とそれに基づ く中国社会の伝統的特質への理解の仕方 について検討 した。小 稿 はそれを承 けて1 9 2 0 年代初頭の中国の国内情勢 に対す る彼 の認識 とそれに基 づ く中国の再生の方向についての見方 を検討 してみたい。それを通 じて従来の 研究史 におけるデューイの中国論 についての消極的な評価 を相対化す る視点 を 考 えてみたい と思 う。 デューイの中国論 に言及 した研究文献はそれほ ど多 くはな く, しか も当時の 中国の国内情勢 についての彼の把握 を具体的に検討 した ものはほとんどない と 言 つて よぱ告 なぜ こうなるのかの理 由を考 えてみれば, 消 極的な評価が先行 し ているか らであ り,さ らにその根底 には1920年代の混沌 とした状況か ら国民党 政権 による国内統一,国 共合作 と抗 日戦争そ して国共内戦 を経てやがて共産党 の指導 による中華人民共和国の樹立 に至 るとい う既成の事実 を絶対視する立場 か ら歴史 を認識 しようとする見方があると言 える。だか ら,デ ューイの情勢認 識 とそれに基づ く構想 は歴史 において実現 されなかつた, し たが ってそれは有 効でなかつた し,検 討する価値 を持 たない とい うわけである。 なるほ ど,デ ューイの構想が歴史の中でひとたびは挫折 したかに見 えるのは た しかであ り,そ の限界 を指摘する消極的な評価が前面 に出て くるの も当然の ことであるが, しか し,そ れは当時の中国において社会の変革 と再生 を目指す 1)「デューイの中国論」F彦根論叢』第142号 (平成13年3月 )。なお小稿は,前 稿 と同様 に,平 成11年度滋賀大学経済学部学術後援基金の助成を受けた研究の成果の一部である。 〓 → 中 西 /1ヽ

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現 実 の動 向 を基礎 に してお り, したが って国民党 や共産党 とは異 なる方 向の選 択肢 を示 す意味 を持 っていた ように思 われ る。だ とす れば,そ れが持 ちえたか も しれ ない意味 を検討 してみ ることは十分 に価値 のあることではないだろ うか。 近年 ,中 国近代 史 の研 究 で は,国 民党 や共産党が採 った路線 に沿 う形 での従来 の歴史像 を見 直す動 きが 出て きてい る ようであ ると それはおそ ら く歴史 におい て存在 したそれ らの路線 とは異 なる立場へ の再評価 を伴 うこ とになるのであろ

う。小稿はそのような中国史研究の動向を念頭におき,そ れに依拠 しながら,

デューイの中国論を再評価する視点を探ろうとするものである。

連省自治」論

デユーイが滞在 した1919年か ら1921年にかけての中国では,1911年の辛亥革 命 による清王朝 の崩壊以降,全 国的な統治 を担 う中央政府が確立 されない状態 が存在 していた。すなわち,北 京政府 と広東政府の並立が繰 り返 され,ま た中 央政府や各省の実権 を争奪 しなが ら四分五裂する軍閥間の抗争,混 戦が続いて いたのである。デューイは中国の政治情勢が絶えず変化 し,そ れを理解するこ との困難 を認めなが らも,錯 綜する状況 と対抗関係の中に彼が考える中国再生 の方向を担 う動 きを探 ろうとした。では彼 はそれをどこに見いだ したのであろ うか。彼 によれば,当 時の中国で三つの対抗関係が存在するように見えた。 まず,北 方政府 と南方政府の対立である。清朝崩壊後 も,形 式上は北京の中 央政府が存在 し,諸 外 国の承認 を受けて きた。だが,デ ューイによれば,そ れ ヤま 「その支配がほ とん ど北京の城壁 を越 えることのない虚 ろな殻」であった ( ②1 8 の。そ して各省 に居座 る諸軍閥によって支配 されてお り,民 衆の信頼や 支持 を欠如 していた。 これに対 して,広 東 には別の政府が存在 し,北 京政府 よ りは 「好 ましくまた進歩的」 と見 なされることもあったが,諸 列強 によって承 2 ) デューイの中国論に言及した研究として次のような文献がある。Ou Tsuin―c h e n , H O w ―

lett,pp. 47--57, Bullert,pp,91-108, Westbrook,pp.249--59, Ryan,pp.220--25, Sun Youz hong,鶴 見和子。 これ らの中で,Bullertが連省 自治 に言及 しているlp.95)。

3)小 島朋之 ・家近亮子編(1999),中央大学人文科学研 究所(1989),横山英編著(1985),藤井 ・

横 山編(1992),塚本(1994),横山宏章(1996,1997)

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ジョン・デューイの中国論 (続) 25 認 されず,ま たその実質的支配は広東 と広西の二省 を越 えるものではなかった。 しか し,中 国情勢 を見 るときに,こ の南北両政府の対立 を軸 に して考 え,そ れ をもって中国の混乱 と内戦の苦境の主たる原因 とする傾向は根強かった。これ に対 してデューイはその見方が 「無知 に基づ くフイクシ ョン」であ り,対 立の 意味 を過大視す るものであると考 えた(②183)。さらに,南 北間の対立 を 「南方 派の共和主義 と北方派の軍閥支配の対立 と理解することはで きない」 とした。 なぜ な ら,そ の ような理解 は事実 と反する,つ ま り南方政府 もまた軍閥によっ て勢力 を維持,拡 大する部分 を持 ってお り,単 純 に共和主義的だ と見 ることは で きないか らである。か くして南方政府 に中国再生の担い手 を期待することは 困難である とデューイは見 たのである。 次 に,各 省 に割拠する諸軍閥間の対立 と抗争が南北 を問わず中国全上で繰 り 返 されていたが,そ れが中国の再生 にとって何の意味 も持たず,む しろそれを 妨害す る ものであることは明 らかであった。彼 らは個人的な権力 と富 を求めて 内戦 を引 き起 こ し,そ のために莫大 な軍隊の費用 を不生産的に支出 した。その 結果,行 政の非効率が もた らされ,商 業や産業の正常 な発展 も絶えず阻害 され て きた(⑥153)。彼 らの存在 こそは中国民衆の苦難 を存続 させ,克 服の方向を閉 ざす ものだったのである。 しか しデューイの見 るところでは,1920年 半ば頃か らそれまでの対立や抗争 とは異な り中国の再生 にとって希望 を抱かせ られるような対抗関係の様相が現 れて きた(②183)。これは既存の政府 に対抗 して,省 を支配する軍閥 (「督軍」) を打倒 し,「地方の 自治や省 の 自立」 を創 出 しようとする先進的な目覚めた民 衆の運動であ り,当 時の中国では 「連省 自治」 と呼ばれた。1920年7月 に湖南 省 で 「湖南省人のための湖南省 を」のスローガンの下で北京政府派遣の都督が 追放 され,湖 南省独立 自治宣言が行 われたが,デ ューイはその10月に長沙 を訪 れてその運動 を見聞 した。 さらに彼 は翌1921年5月 に広東省 を訪れ,そ こでの 運動 もつぶ さに目撃 した。彼 はそれ らの見聞によって中国の情勢認識 に転換 を 追 られた として,運 動 を支 える民衆の様子や熱気 を印象深 く伝 えている(③29; ⑤129)。彼 は連省 自治の運動 に中国再生の担 い手 を見いだ し,そ れに期待 しよ

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D うとしたのである。では,運 省 自治 とはいかなるものであったのか。彼 によれ ば,そ れは北京政府 に代表 される 「軍事的中央集権化の原理」 に対抗 して,辛 亥革命 によって もた らされた名 目だけの共和国を真 に実現 しようとする原理で あ り,中 国におけるナシ ヨナリズムの確立の一つの方法であると理解 された。 つ ま り,そ れは 「政府の連邦的形態 を目指す運動」 とその原理であった。連邦 政府の樹立 に一気 に向か うとい うことは現状か ら遊離 して しまう。そこでまず, 各省の独立 と地方の 自治が実現 され,そ の後で独立 した諸省 による 「中華合州 国」への再結合が将来的に目指 されるのである。換言すれば,そ れは三つの段 階 を経過すると考 えられている。「第一 に,現 在の分離的傾向の完成,第 二 に, 北 と南 におけるそれぞれの連合の形成,そ して第三に,単 一の国家への再統一」 とい うことである(⑥150)。 デュェーイにとって南部諸省 における連省 自治運動 との道遇はきわめて印象的 な ものであった。それは中国再生 についての彼の構想 に通 じるところが多い と 理解 されたか らである。中国は列強諸国の侵略 に抗すべ く,国 内統一 と確固た る中央政府の樹立 とい う課題 に直面 していたが,従 来の武力 による方法が軍閥 の害J拠と混戦 を繰 り返す ことに終わって きたことに鑑み,連 省 自治はそれ とは 異 なる解決の方法の可能性 を示す ものであるように見 えた。その運動は,軍 閥 間の単 なる権力の移動 をもた らす にす ぎない武力統一 とい う従来のコースに対 抗 して,民 衆の視点 に立 ったいわば下か らの民主的で平和的な改革のコースの 台頭 を意味す る もの として理解 されたのである。そ して,そ れは前稿で検討 し た ような中国の改革 と再生のあ り方 についてのデューイの基本的な見方―一伝 統 の再発見 とその組み替 えを通 じての社会改革の方向の模索一― に合致 し,そ の具体化 を示す もの と思われたのである。 連省 自治が軍閥混戦の政治ゲームに見 られるような単 なる権力の移動ではな く,中 国の改革の方向 として リアリテイを持 ちうると考 えられたのは,そ れが 「中国人の気質,伝 統,環 境 に一致 している」 と見なされたか らである(⑥152)。 5)連 省 自治 については,SchOppa,pp.503-227,味岡, ジ,笹 川,171-215ベ ージ,塚 本,108-111ペ ージ, 3 3 9 - 8 5 ベージ, 横 山英、1 0 - 1 1 ペー 横 山宏章( 1 9 9 7 ) , 7 6 - 8 7 ページ。

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ジョン ・デューイの中国論 (続) 27 中国の歴 史 にお い て帝 国 は存在 したが , そ れ も 「非 干渉 と宗教 的雰 囲気 に よっ て」であ り,中 央の王朝 による統治は徴税機能 を除いて民衆の生活 には及ばな かった。領上の広大 さと地域的多様性,人 口の膨大 さや人種民族の多様性,多 数の言語 とコミュニケーシ ョンの欠如,家 族制度や祖先崇拝 によって正当化 さ れる強い地縁的愛着 といったことが 「単一の遠い中心か らの管理」 を困難に し, 地方の自治 を中国政治の伝統 に したのである。換言すれば,中 国は中央集権的 な政府 による統治の伝統 を持たなかった。中国社会はその根底 に 「贋習で結合 された地縁的 また 自発 的集団」,つ ま り村落 とギル ドを持 ち,そ れ らが 自治の 担 い手 とな り,「政治的混乱状態の下で さえ比類のない安定性 と進歩への力」 を与 えて きた。デューイは連省 自治の思想 と運動が この ような伝統 に依拠 しな が ら中国社会の再生 をはかろうとする方向を持 っていると見たわけである。 デューイは,ア メ リカ人が連省 自治 とい う中国のコースを理解するのに適 し ている と語 つている。なぜ ならアメリカも 「政治への軽蔑 と自助的 または地方 的な組織への 自発的依拠 とい う伝統」 を持 っていたか らである。換言すれば, アメリカ社会は元来 タウンシップとい う地方的な共同体的組織 を基盤 として形 成 され,中 央集権的な政府への依存の伝統 を欠如 して きたために中国の事情 を 理解 しやすい とい うわけである。デューイは中国に着いてまもな く 「アメリカ におけるデモ クラシーの発展」 と題す る講演 を行い,民 主主義政治における地 方 自治の重要性 を説いたが,そ れが連省 自治 を主張する中国の人たちに影響 を 6 ) 与 えた とも指摘 されている。 さらに,デ ューイは社会の改革 を支 え,そ れの動向を規定するもの として, 政府の ような政治的集団 自体 よりも,経 済や文化の非政治的領域での様 々の集 団の活動 こそが重要である と考 え,次 の ように語 つていた。「中国において達 成 される進歩が何であれ,そ れは北京や広東か らではな くて,多 様 な地方的な セ ンターか ら生 じるであろう。それは政治的形態 を帯びるにして も基本的には 政治的性格 を持たない集団や組織 によつて実現 されるであろう」 (④159。デュー 6)味 岡、383ペー ジ。 この講演が当時の若い知識人,特 に陳独秀 に与 えた影響 について,野 村 、246-56ベ ージが検討 している。

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イが 中国再生 の方 向 として軍 閥の権力争奪 の政治 ゲーム を もた らす武力 に よる 改革 の方法 を退 け, ま た後述す る ように, そ れ にコ ミッ トす る孫文 の立場 に批 判 的で あ つたの もその よ うな理 由か らで あ った と言 え よう。 デューイは連省 自治の方向の現実的可能性を1 9 2 0 年以降に顕在化 してきた南 部諸省の具体的な運動の中に見いだそうとした。その点を以下に見てみよう。 皿 陳 畑明 と連省 自治 1920年代初頭 に南部諸省で展開 された連省 自治運動 は軍閥間の抗争 と対抗 し なが ら, しか も一部の軍閥に主導 されるとい う複雑 な様相 を帯びていた。それ は二つの相容れない動機か ら出発 していた と言われる。その一つは,「軍閥が, 自己の地盤 を守 り,あ るいは拡大 しようとする要求 に根 ざす ものであ り」,他 の一つは,「軍閥政権 の専制的支配下で,あ るいは軍閥混戦の惨禍 を受けて困 難 に直面 している地方住民生活 を護 り,か つは平和 と国家的統一の実現 をめざ そ うとした革新的な知識人たちの,省 内の民主主義的政治実現の要求である」。 こうして,運 省 自治運動は革新的でナシヨナルな知識人たちと軍閥の両者によっ て推進 されたのであるが,そ のめざましい例 として,湖 南省 と浙江省の運動が 有名である。湖南省では,1920年 7月 に湖南省独立 自治宣言が行 われ,22年 1 月には 「湖南省憲法」力ざ公布 された。 また,浙 江省では,20年 6月 北京か らの 省 自治が宣言 され, 9月 には 「浙江省憲法」が公布 された。進歩的な知識人た ちはこれ らの運動 を通 じて 「軍閥や保身的郷紳の協賛 を得 なが らも,そ れを利 用 しつつ 「軍紳政権」の下で現実的な問題解決 をはかろう」 としたのである。 デューイは湖南省での運動 を実際 に見聞 しているが,彼 が特 に注 目したのは 陳畑明 によって推進 された広東省 における連省 自治の運動であった。広東省で は1920年9月 に広東軍閥の陳畑明が 「広束 を広東人に」 をスローガンに北京軍 閥政権系 の督軍 を打破 し,広 州 を奪 回 し,孫 文 による広東護法政府の樹立 に協 力す るとともに,省 議会 を中心 に省 自治運動 を進めた。デューイは陳畑明のこ の活動 をシンパ シーを持 って紹介 した。陳畑明については近年の研究において 7 ) 横 山英 , 1 0 - 1 1 ペ ー ジ。

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真 r l l l l l l l l l l l l l l ジョン ・デューイの中国論 (続) 29 次 の よ うな紹介 が な されてい る。 「陳畑 明 は特 異 な存在 であ る。科挙試験 に合 格 した才人 であ り,ア ナキズ ム を唱 えた時期 もあ った。 中国同盟会 の メ ンバ ー と して活躍 し,一 貫 して革命派 の軍人であ った告。 しか し,路 線の対立か ら1922

年に孫文に反旗を翻して彼を上海に追放した。そのために,孫文および国民党

の立場か ら批判 され, そ れ以後は 「革命 を裏切った叛徒」 という否定的な評価 が定着 して きた。 しか し, そ れ とは反対 にデューイは陳畑明を人物的に評価す る とともに, 中 国再生の方向を示す もの として彼 の構想 を高 く評価 したのであ 9 ) る 。 会見 などを通 じてデューイの見 るところでは,陳 畑明は 「疑いようもない誠 実 さを示 し,ま たほ とん どスパル タ流の生活 を持する軍人」である(⑤133)。そ れは当時の中国では珍 しく彼が決 して妾 を持 たなかったこと,ま たそれを持つ すべ ての人 に選挙権 を与 えないことを議会 に提案 したこと,あ るいは,彼 が公 認の賭博 を禁止 し,そ れによる省の収入 を断念 したことか ら窺われると言 うの である。そ して,陳 畑明はデューイが中国で会ったすべての公的人物の中で抜 群の印象深い人であ り, もし将来 において国家的人物 にな りそ うな人を選ぶ と すれば,そ れは躊躇なく陳火同明だろうとまで言って高 く評価するのである。デュー イは陳畑明の連省 自治の構想 を次の ように要約 して伝 えている。 「中国の最重要課題 は真の統一 とい うことである。産業や教育 は政府の安定の欠如のゆ えに遅れた状態 になってお り,ま た社会の よ り優れた人たちは公的な仕事か ら離れている。 問題 は この統一がいかに して達成 されるべ きか とい うことである。過去 においてそれは実 力者 の武力 によって試み られて きた。衰世凱,福 国韓,段 棋瑞 はいずれ もそれを試み失敗 した。その方法 は放棄 されるべ きである。中国は武力ではな くて通常の政治発展 の方法 を 採用す る人民 自身によってのみ統一 され うる。人民 をその仕事 に参加 させ る唯一の方法 は 統治 を分権化す ることである。中央集権化 とい う不毛 な方法は放棄 されなければならない。 北京 と広東の政府 はいずれ も各省 に最大の 自治 を認めるべ きであ り,省 政府 は県 に,県 は 8 ) 横 山宏章( 1 9 9 6 ) , 1 5 6 ベージ。陳畑明の生い立ちについては,波 多野323-324ベージ。 9 ) 陳 畑明へのデューイの評価 には胡適の示唆があった ように思われる。胡適 は陳独秀 とと もに当時の代表的な若い進歩的な知識人であ り, デ ューイを中国に招いた中心的人物の一 人であ った。彼の連省 自治論 と陳畑明への支持 について,横 山宏章 (1997),78-9ページ が角虫れている。

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村落に可能な限 りの権限を与えるべ きである。官職者は地方の県によってかつそこから選 ばれ,す べてのことが地方のイエシアティヴを助長するようになされるべ きである。広東 省 にこれ らの制度が導入 されれば,他 の省 もそれに従 うであろう。そ して全国的な統一が 地方的な台盤の上に築かれたピラミッド型の組織 となるであろう」 (⑤133-134)。 1 0 ) これ に対 して,陳 畑 明 自身 は次 の よ うに語 つ た と伝 え られ て い る。 「今 日,中 国を君主政体や武力専制で統一せんとすることは断固不可能であると確信する。 衰世凱は帝制精神で共和国を治めようとしたか ら不可能 とな り,… …・段棋瑞や張動 もそ の轍 を踏んだ。孫逸仙博士 も一時は武力で中国を統一せんと欲 したが,い まだ成功 してい ない。」 「今 日,中 国が平和 を回復せんと欲すれば,そ の方法はただ一つ。一切の権力を人民に返 還することである。……・県知事およびその他の地方官から省議会議員に至るまですべて 人民の公選 とする。……・広東でこの試みが成功すれば,他 の省の人民 もその方法をまね て,こ の運動が全中国に行 き渡ると確信する。もし一,二 の省が (運動に)加 入すれば, そこと連合で き,つ いには徐々に他の各省にも拡大され,最 後には中国を一大運省政府に することとなる」。 「中国の各村は,古 来から共和制を実行 し,各 村は自治を宗旨としている。今 日,中 国の 自治はまず村落から実行 し,順 次全県,全 省,全 国へ と発展 させるべ きである」。 上 の 引 用 に見 られ る陳女同明 の主 張 とデ ュー イの紹 介 とは内容 的 にほ ぼ 同 じで あ る と言 っ て よい 。 た だ し, 陳 畑 明 は孫 文 も武 力 に よる統一 を試 み よ うと して 失 敗 して い る と述 べ て , 孫 文 に対 す る批 判 的 なス タ ンス を示 して い る。 これ は 両 者 の対 立 を引 き起 こす 考 え方 の違 い を示 す もの で あ った 。 以上に見たように,国 家の統一を軍閥ではなくて民衆のレヴェルで考えると, もはや伝統的な武力の方法は適当ではない。それを放棄 して,中 国を各省が独 立 した地方分権の連邦制に組み替え,中 央集権的統一ではなく,連 邦制的統一 国家の樹立をめざすこと,こ れが陳畑明の連省 自治の考え方であった。そして, デューイによれば,彼 はさらに経済について次のような考え方を持っていた。 行政的には自治を最大限追求 しなが ら,「経済的には集権的な統制の政策」 10)横 山宏章 (1996),157-8ペ ージ。

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ジョン・デューイの中国論 (続) 31 を実現 す る ( ③3 2 ) 。なぜ な ら西 欧諸 国家 で はそれ とは逆 に政治 の統制 と経 済 の 無秩 序 が展 開 し, そ の結果 「資本 主義 的支配 と階級 闘争」 が生 じたが , 中 国で はその ような帰結 を避 けることが望 ましいか らである。そのために,「すべて の基礎 的な天然資源 と鉱山,鉄 鋼,輸 送などのあ らゆる基幹産業 に対する政府 の統制」 を行 う。それによって,省 政府は省の均等的な産業の発展 をもたらし, 同時 に過大 な課税 に頼 ることな く十分 な収入の確保 を期待 したのである。 しか し,他 の多 くの省では支配者たちが国内国外の搾取的資本 と結 びついて省の資 源 を彼 らの私的利益 のために独 占 していたので,陳 畑明の考 え方 は既存 の特権 集団に対す る脅威 と見 なされ,彼 は 「熱心 なボルシェヴイキ」だ と非難 された。 だが,デ ューイによれば,陳 畑明は一孫文 もそうであるが一 「私的所有の下で 自然的独 占とな りがちな」天然資源や基幹産業の政府所有 を考 えた とい う意味 で社会主義的だ と言 えるが,そ こには 「それ らの ものを民衆のために保全する ことと,政 府の収入 を確保する」 とい う二重の 目的があつた。だか ら,彼 はそ れが アメ リカのT.ロ ーズ ヴェル ト大統領 の 自然保護政策 に も通 じる考 え方 だ として陳畑明を擁護 している。 さらに,陳 畑明によれば,省 の発展 における外 国資本 の必要が認め られ,政 治的意図を何 ら持 たず,道 理 にかなった利潤 に基 づいて誠実 に協力 しようとする外国資本家は歓迎 されるのである。 デューイは陳畑明の改革政策の内容 として次の事柄 を挙げて,そ れ らの実現 が省や地方の当局 によつて試み られつつある と指摘 している(③32)。つ ま り, 労働者保護立法,都 市 の近代化 と輸送施設の改善,訓 練 された行政官 を持つ近 代 的な方向での一 アメ リカの委員会制のような一都市 自治政府の創出,個 人投 票 による選出 とギル ド選出か らなる地方政治への民衆参加の実行可能なプラン, 省首長制の改革,公 衆衛生制度,学 校制度の整備,な どである。 デューイは上 に見て きた陳畑明の連省 自治の考 え方や政策 を高 く評価 した。 中国再生の方向についての彼 の見方 と合致 し,ま た陳畑明の活動 はその現実的 可能性 を示 しているように思 えたか らである。中国が強力で安定 した中央政府 や効率的な行政制度 を持 たない ことが様 々の問題 を生みだ していることはた し かである。 しか し,そ れを持つ ことがすべての問題 を直ちに解決することには

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ならない。重要なことは 「地方の利益や力 を利用することによってのみ,中 国 の建設的な再建が可能 となる」 とい うことである。 しか し現状 において,省 や 地方の利益 は軍閥の割拠 と抗争 によって害 され,侵 されている。陳畑明の連省 自治の政策はその ような省や地方の利益 と力 を回復 し,充 実 させ,も って中国 再生 の基盤 を創出するい う意味 を持つ とデューイは見たのである。 日本 は強力 で安定 した中央政府 を樹立 し,そ れを起点 として近代化の発展 を遂げている。 だが,彼 によれば,「中国において動 きは 日本のそれ とは反対の方向 を辿 る。 それは周辺か ら中央へ と向か うのである」 (⑥153)。 だが,連 省 自治 による中国の再生の方向が長い時間を必要 とすることは容易 に予測で きる。 したがって列強諸国はそれを評価 しなかった。省や地方の自治 を強める動 きは中央政府 を弱体化 させ,外 交関係 を責任 を持 って処理する機関 を見いだ しがた くするとい うのである。 さらに,追 省 自治の分離的傾向が国際 関係 に及ぼす影響は 「諸列強にとって不都合であるだけでな く,中 国自身にとっ て も危険である」 ことをデューイは理解 していた。「それが中国の内政問題 に 干渉す る諸外 国の欲求や能力 を刺激す るだろう」 と考 えられたか らである。 し か し,運 省 自治の運動 を抑制することによって諸列強による内政干渉の危険が な くなるとも思われなかった。彼の見 るところでは,中 国の状況全体 にとって 「その本質は時間である」 (⑥155)。すなわち,「中国の民衆 は時間を与 えられ るならば,彼 らの苦難 を切 り抜 けるだろう」 とい うのである。か くして列強諸 国の採 るべ き態度 は 「中国に干渉 しない こと」,中 国の人々に彼 ら自身の運命 を決定することを任せ ること」,「中国に機会 と時間を与 えること」である。こ れは中国をめ く`る国際関係 のあ り方 についてのデューイの基本的な視点のひと つであった。 ところで,連 省 自治に対 しては広東の南方派政府の総帥である孫文の きび し い批判があることは有名である。そ してこれが陳畑明 との対立の背景 になった こともよく知 られている。陳畑明 との違いは孫文の次の ような主張か ら窺 うこ とがで きる。 「(連省自治は)中 国を分裂させるだけであり,小 軍閥が各省を占領し,自 分の利益をは

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ジ ョン ・デューイの中国論 (続) 33 か って中央政府 を擁す る大軍閥 と互いにあい安 ん じさせ るだけの ことである。 どうして自 治 な どといえ ようか。そ もそ も真 の 自治 は,ま ことに至当な ものである し,ま たわが民族 の要求 と精神 にまさしく適合す るものである。 しか し,こ の ような真の 自治は,必 ずや中 国全体 が独 立 したのちにおいてのみ達成 で きる ものである。中国全体が まだ 自由を獲得で きないの に,一 部が先 に自由を獲得 しようとす ることなどどうして可能であろう。ゆえに, 自治奪 回の運動 は決 して民族独立奪 回の運動 と異 なった道 を歩 む ことはで きない。 自由な 中国の中にこそ,は じめて 自由な省があ りうる。一省 のなかのあ らゆる経済問題,政 治問 題 ,社 会問題 は全 中国的な規模 においては じめて解決 しうる。だ とすると各省 における真 の 自治の実現 は,必 ず全 国における国民革命 の勝利 の後 にあることも,も はやあ きらかで 1 1 ) あ る」。 かかる考 えに基づいて,孫 文 は武力 によって中央政府の権力 を掌握 し,全 国 を統一する方向を考 えた。そ して,1922年 北伐戦争 による全国統一 を先行 させ ようとした。だが,陳 畑明は,そ れが衰世凱 を初め とする北方軍閥のや り方 と 同 じであ り,不 可能であると考えた。そこで,孫 文の北伐作戦に反対 して,1922 年 6月 に反乱 を起 こし,孫 文 を広東か ら上海へ追放 したのである。 これに対 し て,孫 文 は,そ の ような陳畑明は広東省 と広西省 を我が もの とし,「革命軍 を つぶす」 ことによって,最 終的には皇帝 になることを夢見ていた軍閥にす ぎな 1 2 ) い と非難 した。 これ以降,陳 畑明は 「孫文の革命 を裏切 つた反革命の叛徒であ 1 3 ) る との レッテル」力淑占られ続 けて きたのである。だが,す でに見たように,こ れはデューイの評価 と異 なっている。その意味 を探 るために,孫 文 についての デューイの見方 を考 えてみ よう。 デューイは中国に到着 してまもな く孫文 と会見 しているが,こ の時は 「行 う は易 く,知 るは難 し」 とい う行為 と認識の関係 についての孫文の考 え方が話題 1 4 ) となった ようである ( ①5 8 - 9 ; ③1 6 6 ) 。陳畑明や連省 自治 との関連 では, 次 の よ 1 1 ) F 孫 文選集』第三巻, 7 2 ペ ージ。 1 2 ) F 孫 文選集』第一巻, 1 4 9 ペ ージ。孫文 と陳畑 明の関係 については波多野が詳 しく検討 してい る ( 3 2 3 ページ以下) 。 1 3 ) 横山宏章 ( 1 9 9 6 ) , 1 5 6 ページ。 1 4 ) 『孫文選集』第二巻, 7 5 ペ ージ。孫文 とデューイの会話の内容 については, O u T s u i n ― C h e n , p p 。3 5 2 - 4 が検討 している。

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3 4 彦 根論叢 第 3 3 1 号 うなコメ ン トを残 している。孫文の政治思想 は 「その本質 において民族主義的 であ り,共 和主義 は偶然的であるにす ぎない」。 自由や民主主義 にかかわる国 内の個別的な政治問題 よ りもとにか く外 国の支配か らの中国の解放 に一義的関 心 を持 っている。先の孫文か らの引用が示す ように,彼 は自治 よりも民族独立 奪 回の運動 を優先 させ, しか もそれは国内の民衆 によって とい うよりも,外 国 在住 の中国人 によって人的に,資 金的に,組 織的に,支 えられる傾向が強かっ た。だか ら,「若い中国人たちの精神 よ りもヨーロ ッパの国上 回復主義者の民 族主義の精神 に近い」 と見 られたのである。さらに,孫 文は軍閥 と提携 しなが ら他の軍閥に対抗するとい う政治的ゲームを通 じて中央政府の権力獲得 をめざ し,そ れによって中国の統一 と独立 をはかろうとしていた。彼が安徹派軍閥 と 妥協す るような動 きを示 したのはその現れ と見 えたのである。 しか し,デ ュー イの考 えでは,中 央政府の確立は中国の再生 にとって重要かつ不可欠ではある が,そ れですべ ての問題が解決 されるとい うことではない。その成否は究極的 には経済や文化 といった非政治的な社会の領域での様 々の変革 にかかっている とするのがデューイの立場である。かかる観点か らすれば,孫 文は政治主義 に 偏 向 しているように見 えた。 したが って,中 国の再生 と改革の方法 についての 考 え方が 自分や陳畑明 とは異 なる と思われたのである。 1 5 ) しか し,現 実の歴史の過程 はデューイの考 える方向には進 まなかった。1923 年11月,孫 文の指導の下 に国民党は改組 を宣言 し,翌 24年 1月 ,国 民党一全大 会が開かれて国共合作 によって国民革命の運動が進め られることになった。1925 年 3月 に孫文 は死去 したが,26年 7月 蒋介石 に率い られた革命軍 による北伐が 開始 され,28年 6月 に革命軍が北京 を占領 し,国 民党政権が成立 した。この北 伐 の過程 で連省 自治の運動 は消滅 し,武 力 による全国統一,中 央政府の樹立 と い うコースが実現することになった。これはやがて本格化する日本の侵略 に対 す る抗 日戦争 とその後の国共内戦 を経て中華人民共和国の誕生 まで続 くことに なった。毛沢東 も最初 は湖南省 における連省 自治の運動 を支持 したが,や がて 15)運省 自治運動の形成,展 開,消 滅 については,塚 本,103-143,215-221,234-237ペ ー ジ,味 岡,362-82ペ ージが検討 している。

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ジ ョン ・デ ュー イの 中国論 (続) 35 1 6 ) それを放棄 して共産党の路線に転換 していった。か くして運省 自治の運動の消 滅によって,デ ューイの構想は現実的基盤を喪失 し,中 国の再生は彼の考えと は異なる方向を辿ることになった,つ まり,ひ とたびは歴史の中で挫折するこ とになったわけである。そして,運 省 自治の思想 と運動は国民党や共産党のそ の後の路線の立場からは否定的評価の対象で しかなくなり,中 国史研究におい てもそのような評価が定着 してきたと言える。これが従来の研究史においてデュー イの中国論についての消極的評価 をもたらす原因になったと考えられるのであ る。では,1920年代初頭における彼の構想はまったく無意味 となったのであろ うか。これを検討すること難 しい問題であるが,以 下に私見をい くらか述べる ことで結びに代えることにしよう。 IV 国 民革命の進展 とデ ューイ 絶 え間ない戦争 と革命の激動で彩 られた二十世紀中国は第二次大戦後の中華 人民共和国の樹立 によって悲願の独立 と国内統一 を最終的に達成 した。国民党 か ら共産党へ と政権の中心的担い手は変化 しなが らも,武 力 による統一,中 央 集権 的政府 の樹立 とい うコースは一貫 していた。中国の民衆はデューイが考え た方向 とは異 なる再生の道 を辿 つたわけである。では彼 はその成 り行 きをどの ように見ていたのであろうか。 デューイは帰国後 ワシン トン会議 についてい くらかの評論 を発表 して以降, 中国のその後の情勢 について論 じることは少 な くなった。 しか し,そ の数少な い評論 において,一 貫 して見 られるのは中国のナシヨナリズムヘの支持である。 す なわち,国 民党 による国民革命の遂行 について,彼 の構想 とは異 なるコース を進 むことになったにもかかわらず,ま ず もってそれが担 うナシ ヨナ リズム確 立へ の意義 を評価するのである。だか ら,北 伐の進行 に伴 う国民革命軍 と列強 諸国 との申し礫や衝突,民 衆の排外主義的行動の頻発 などに対 して諸外国か らの 批判が高 まる中で,デ ューイは,そ れ らが近代 国家への中国の転換過程のクリ テ ィカルな局面 を表現す るものだ として,ア メリカ国民 による冷静な理解 と対 16)マ ク ドナル ド,94-7ベ ージ,横 山宏章 (1997),83-4ベ ージ,溝 口,110-3ベ ージ。

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36 彦 根論叢 第 331号 応 を求めてい る。 「中国は言葉の近代的な意味で国家になりつつある。……。そに見られる排外的な様相は 大きな内的変革の外に現れた側面にすぎない。大陸的規模の領土を持つ四億の民衆が中世 的な集合体を脱 して近代的国家へと転換 しうるには巨大な産みの苦 しみと混乱を避けがた い。これまでの十年余の準備期間を経てのこの転換は公然たる危機的な表現に到達 したの である。この事実を念頭に置かなければ,我 々アメリカ国民は中国で進行 しつつあること イを決して理解しえないであろう」(③201)。 しか し,デ ューイは 国 民党軍が勝利 して北京政権 を掌握 す るに至 って も, その こ とで 中国の転換 。再生 が完成 す る とは見 ない。近代 国家へ の作 り替 えを 通 じての 中国の転換 の完成 は 「何 世代 に も及が仕事」 であ る。 なぜ な ら,彼 は 武力 に よる政権 の獲得 とそれ に よる全 国統一 は中国の再生 の全過程 の一部 で し か な く,中 国の再生が真 に達成 され るか どうか は,政 治のみ な らず,む しろ経 済 や文化 とい った非 政治 的領域 で の変 革 の成否 にかか ってい る と考 えるか らで あ る。連省 自治 の思想 と運動 を支持 しようと した彼 の態度 の根底 にあ った考 え 方 は現 実 に進行 す る国民革命 の見方 において なお存続 していた と言 って よい。 デューイは 「ドラマテイックでクリテイカルなエピソー ド」を示 しながら進行 しつつある国民革命 を通 じて最終的に中国の再生が成功するとすれば,「その 結果は世界史の過程における明確な方向転換 を画することになるだろう。それ と比較 しうるような歴上の出来事は数少ない」 と述べている。そ して,「その ような言い方は48 狭な地方主義的習慣や俗物的な人種主義からすれば,賢 者に とってばかげていると見えるだろう」 としながら,次 のように自分の見方を説 明するのである。 「我々はアジアを我々の世界の外部にあるものとして考えている,だ から,そ こで 生 じているあ らゆる変化が大 きな意義 を持 っていることを我々が理解することは難 しい。だが,様 々な変化がその結果を生みだ し,歴 史的なパースペクテイヴにおい て理解 されるとき,ア ジアで最 も古いまた最 も多数の国民の生活を作 り替えること が少な くとも中世から近代的文化へのヨーロッパの転換 と同 じぐらいの意義を持つ もの として現れることはた しかである」 (①202)。

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前稿 で見 たように,西 欧的な近代化のパ ターンとは異なる発展 コースを中国ジ ョン ・デューイの中国論 (続) 37 に期待 しようとするデューイの発想がここにも現れていると言える。そ して, その ような 「同時代 の出来事 についての長期的な視点」 を持つことがなければ, 中国において現 に生 じている内戦や民衆の排外的な行動の中に 「騒 ぎや狂暴, 混乱 した熱狂」 を見 ることしかで きず,そ の奥底 に潜むナショナリズムの確立 と国家再生への志向の意味 を理解 しえな くなると彼 は考えたのである。 1928年に薄介石 に率い られた国民革命軍が北京 を占領 し,北 方の軍閥の打倒 に成功 し,国 民政府 を樹立 して一応の全国統一 を達成 した。 しか し,1931年 の 満州事変 を経て1937年の鷹溝橋事件か ら全面的な日中戦争が始 まり,国 民政府 は徹底抗戦 を宣言 した。やがて抗 回戦争のために国共合作が成立 した。だが, 抗 日戦争の勝利の後で協調路線が破綻 し,国 共内戦が勃発 した。こうして,絶 え間ない戦争 と革命 とい う苦難の道 を辿 って, 中 国は1948年に共産党の主導 の下 に中華人民共和 国を樹立 し,悲 願の独立 と国内統一を達成 した。それはナ シ ヨナ リズムの確立 とい う20世紀 中国の課題 を解決するものであったが,同 時 に社会主義 中国の誕生で もあったのである。このような歴史的推移をデューィ は どの ように見 たのであろうか。彼 は1952年に死去 しているので,中 華人民共 和 国の樹立 を知 ったはずであるが,そ のことについて触れたものは管見の限 り では見あた らない。 しか し,彼 は30年以上音の中国滞在の頃に中国における社 会主義 とその可能性 についての見方を示 していた。それは次のようなものであっ た。 1920年8月 ,上 海,武 漢に中国共産党発起人会が成立 し,翌 21年 7月 23日に 中国共産党第一回全国代表者大会が上海で開催 された。同年 7月 11日にデュー イが中国を去 って間 もな くのことであった。 しか し,彼 はその出来事 に気づか なかったかの ように,1920年 12月に北京のアメリカ公使館駐在武官に送った手 紙 の中で,〔 汗国で共産主義 (Bdshe宙sT)の直接 的証拠 をまった く見 なかった」 と述べ ている。なぜ なら,産 業化が始 まったばか りで,革 命の主体 となるべ き 「プロ レタリアー ト」が存在 しない,要 するに,「継続的な実践活動体 として 17)こ の手紙 については,HOwlett,p.49.

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の共産主義 の社会 的経済 的背景が欠如 してい る」 とい うわけであ る (②,255)。 だが ,デ ューイは中国の共産化 の可能性 をまった く否定 したわけで はなか っ た。 中国 に到着 して間 もな くの1919年 5月 ,家 族 に書 き送 った手紙 の中で次 の よ うに述べ てい るのであ る。 「極東全体の状況はアメリカで理解されているよりもはるかに深刻であることがわかっ た。事態が 5年 から10年も流動すれば,世 界は日本によつて軍事的に支配された中国を 持つだろう。ただし,そ れとは異なる二つの場合が考えられる,つ まり,日 本がとかく するうちに緊張のために瓦解するか,そ れともアジアが完全に共産化されるか(Bolshvikized) ということである。後者の可能性は日本による中国の軍事的支配と五分五分だと思われ る」( 1 2 , 1 6 8 ) 。 この指摘 が どの ような根拠 で な され るに至 ったのか,明 らかではないが,そ の後 の歴 史 の推移 に照 ら して,デ ューイの洞察 に驚 か ざるをえない。実際 にや が て 日本 の軍事 的進 出が拡大 してい き, そ れ に対 す る中国の徹底抗戦 に よって 日本 が敗北 ,瓦 解 し,そ して社 会主義 中国が誕生 したか らであ る。 ただ し,西 欧 的 なパ ター ンと しての プロ レタ リア社会主義革命 としてで はな くて, ナ シ ヨ ナ リズ ム と結 びつ いた特殊 中国的 な労農革命 とい う形態 を通 じてであ り, こ の 点 はデ ュー イの考 え を越 えてい た と言 えるか も しれ ない。 しか し,共 産党 に指導 された革命戦争遂行の方法 にはデューイの考え方 と通 じる ものがあったようにも思われる。つ ま り,彼 は中国の再生が 「周辺か ら中 央へ 向か う」 と見 ていたのであるが,こ の見方が,農 民の土地革命 によって地 方 を解放 し,そ れを基礎 にして国内統一 と中央政府の樹立に向かうという共産 党のや り方の中に含 まれている。換言すれば,彼 が考 えた連省 自治の方向は形 を変 えて毛沢東 による解放区建設の根拠地理論へ と受け継がれたと見 ることが で きるのではないか とい うことである。デューイは違省 自治の考 え方がアメリ カ国民 には理解 されやすい と指摘 していた。それはタウンシップを基礎 に した 自律 的な社会生活 と地方 自治の形成 とい うアメ リカの伝統 に通 じる ものがある ように見 られたか らである。スノーやスメ ドレー といった1930年代のアメリカ のジヤーナ リス トたちが中国の奥深い解放区に入 り込み,共 産党 に指導 された

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ジョン ・デューイの中国論 (続) 39 農民 解放 運動 を共感 を持 って報道 しえたの もデ ュー イの指摘 に関連 す る ものが 1 8 ) あった ように思われるのである。 デューイが中華人民共和国の樹立 をどの ように見ていたのか明 らかではない が,社 会変革 についての彼の見方か らすれば,共 産党政権の成立が中国の再生, 転換 の完成 を意味す る ものでない ことはい うまで もないであろ う。革命 は 「何 世代 にも及ぶ仕事」であ り,ま た社会の様 々な領域での変革 を伴 わざるをえな いか らである。歴史的に振 り返 ってみて も,人 民 中国の建国によって悲願の独 立 と国内統一 を達成 したにもかかわ らず,中 国はその後の社会主義建設 におい て激動 と混乱が繰 り返 され,現 在 は 「改革 ・開放」路線の下で社会主義的市場 経済の建設 に向か うとい う新たな転換の過程 にある。 このことはデューイが1920 年代 の初頭 に見 た中国社会の転換 と再生 とい う課題がい まだ完全 な解決 を呆 た されてお らず,そ のための試行錯誤の努力がなお続行 中だ とい うことを示 して いる とも理解 されよう。 デューイはかつて中国の改革者たちに 「過去 と変革の直接的な結合 を保持す 1 9 ) る こ と」 を期待 した。つ ま り,過 去 の様 々 な伝統 や遺産 を全面 的 に否定す るの で は な く,徹 底 的 に分析検討 す る こ とによって,そ の中か ら現代 の必 要 に照 ら して適切 な要素 を発見 し,再 評価 す るこ との重要性 を強調 していたのである。 だ とす れ ば,従 来否定 的 に評価 されて きた彼 の 中国認識 とそれ にかかわる歴史 も改 め て省 み られ るべ き意味 を含 んでい る と考 え られ るか も しれ ない。あ る中 国史家 は連省 自治 に関連 して次 の よ うな指摘 を行 ってい る。 「地方分権か中央集権かは,清 末のいわゆる洋務派と変法派 ・革命派との間でも確執が続 いた,そ の意味ではかなり長期にわたつた論点で,こ れらの推移については今後,広 い視 野から解明される必要があろう。ただ,一 つ言えることとして,中 国は中央集権国家を成 立させたことにより,清 末以来の悲願であった民族の統一と国家の独立を達成 したという その反面,下 からの選挙による 「一般平民」の地方自治への参加,ひ いては国民の国政参 加への夢を不完全燃焼に終わらせ,逆 に共産党や国民党の一党独裁と官僚政治を長 く温存 2 0 ) して きた。・……その挫折 をいまどう総括 し,そ れ をどうこれか らに生かすか,で ある」。 1 8 ) スノー, F 中 国の赤い星』, ス メ ドレー, 『偉大 なる道』 19)Keenan,p.59.

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40 彦 根論叢 第 331号 かかる指摘 に呼応するかの ように,近 年,中 国近代史像の再構成の動 きの中 で,国 民革命軍 による北伐戦争の過程で消滅 した連省 自治の運動の再評価の気 運が見 られるようである。連省 自治は国民党 と共産党の政権がいずれ も担 った 中央集権的統一の路線 とは異 なる変革の コースを示す ものだったとい うのであ ると さらに,デ ューイが支持 した陳畑明について も孫文の革命 を裏切 つた軍閥 とい うイメージを相対化する試みがなされて きている。陳畑明は 「孫文革命ヘ の裏切 りであつた として も,中 国革命への裏切 りであった とはいい きれない。 ともに新 しい中国のあ り方 を模索 し,そ の方法が大 きく異なっていただけのこ 2 2 ) とである」 とい うわけである。 S u n Y o u z h o n g は 中国におけるデューイの評価 を振 り返 り,彼 が中国に滞 在 した時期 には彼の哲学が民主主義の思想 を表現するもの として受容 されたが, やがて1 9 2 0 年代末か らマルクス ・レーエ ン主義 にとつて代 わ られ,第 二次大戦 後 は冷戦状況下で全面的な否定 を受 けるに至 った と述べ ている。 しか し, 1 9 8 0 年代以降,政 府の改革 ・開放政策 に呼応するかの ように,中 国においてデュー 2 3 ) イヘ の関心の復活 と再評価が見 られると指摘 している。共産党政権が80年代 に おける沿岸部の経済特区の設置 と内陸部の経済改革,90年 代の国有工場の経営 改革 と村落 レヴェルの民主的改革 といった社会的実験 をを推進 してお り,そ れ がデューイ哲学の有意味性 に注 目を促 しているとい うのである。だが,Sunは 20年代 の中国のナシ ヨナ リズムの課題 に関 して 「不幸 にもデューイが この側面 で実効的な解決策 をほとんど提示 しえなかった」 としてデューイの中国認識 に 否定的な評価 を与 えてお り,連 省 自治 を含む彼の構想 に何の言及 もしていない。 しか し,そ れではデューイの再評価 と言 って も,一 般的ない し抽象的なレヴェ ルにとどま り,具 体的な手がか りや内容 を示す ことが難 しくなるのではないだ ろ うか。 2 0 ) 溝 口, 1 1 3 ペ ージ。 2 1 ) 横 山英編著, 1 0 - 1 1 ペ ージ, 味 岡, 3 4 3 - 8 ペ ージ。塚本, 1 0 8 - 1 1 0 ペ ージ。 2 2 ) 横 山宏章 ( 1 9 9 6 ) , 1 6 0 ページ。嵯峨、27 - 8 ペ ージ も, 反 動的軍閥 としての陳畑明 とい う イメージの相対化 を提起 している。 23)Sun,pp.82,84-5.

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願 ピ ー ト ー ー ー ー ー ー ジ ョン ・デューイの中国論 (続) 41 巨大な国土 と膨大かつ多様な人口とそ して最 も古い文明を持つ中国社会の転 換 と再生には長い長い時間がかかるだろうとデューイは見ていた。連省 自治を 含む構想はそのような中国の特質に沿うものと考えられ,そ の実現のために長 い時間的スパ ンを要請 していた。社会主義中国は社会の転換 と再生の課題に取 り組みつつ半世紀を越える紆余曲折の過程を経て現在新たな発展の局面を迎え つつあるように見える。中国民衆によるその課題の解決を期待 したデューイの 中国認識 とその改革構想は,ひ とたびは歴史の中で挫折 したかに見えるけれど も,今 日の状況に照 らしてなお省みられるべ き一定の意義を持っているように 2 4 ) 思われるのである。 2 4 ) 小稿 は, 日 本デューイ学会第4 3 回研究大会 ( 1 9 9 9 年1 0 月) に おける発表 「ジ ョン ・デュー イの中国認識」の一部 を拡充 した ものである。デューイの中国論 をよ り十全 に理解するに は, 彼 の 日本論や中国 をめ ぐる当時の国際関係 についての見方 を検討する必要があるが, それは他 日の機会 に稿 を改めて果たす もの としたい。

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