移 行 経 済 の 研 究
理 論 と 戦 略
-福 田 敏 浩 著
移 行 経 済 の 研 究
一 理 論 と 戦 略
-福 田 敏 浩 著
序 第
1
章社会主義の生き残り戦略…・…・…・・ 一追い立てられた実験一 I 受け身の実験...・H ・..…………...・H ・...・H ・..…・ 11 市場社会主義の実験....・H ・....・H ・-………H ・H ・....…H・H ・...・H ・...・H ・...・H ・.4 1.ハンガリーの実験 2.ソ連とポーランドの実験 皿 市場社会主義の失敗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7I
V
市場社会主義の教訓・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
0
V 社会主義から資本主義へ………...・H ・...・H ・..……….12 1.東欧革命とソ連の消滅2
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資本主義への移行V
I
比較経済体制研究の課題.
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1
7
第2章反故になった市場社会主義...・H・H ・H ・..…...・H ・...・H ・..………29 一東ドイツ最後の経済戦略一 I 実験場としてのドイツ・H ・H ・H ・H ・...・H ・...・H ・..………・…………・・29 11 三つのピック。パン…………・・………...・H ・...・H・...・H ・..….30 凹 ドラスティックな戦略転換…...・H ・...・H ・H ・H ・...・H ・..…………...・H ・..…33 W 市場社会主義プラン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36 1.所有方式2
.
相互調整方式3
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上下調整方式4
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ハンガリーモデ ル5
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適度のラデイカル戦略V
社会主義の敗北…...・H ・...・H ・H ・H ・...・H ・...……...・H ・...・H ・...・H ・..….
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4
1
第3章 体制移行の一般論・・H ・H ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49 一形態論的アプローチー I 事実動向・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49I
I
I
形態論的アプローチ...・H・...・H ・..…...・H・..………...・H ・..…...・H・.
.
5
6
1.筆者の体制学説 2.並進・接近・移行I
V
体制移行の原因・H・H・....…...・H・....・H・・H・H・..………...・H・...・H・6
1
1.経済的原因 2.政治的原因V
改革から移行へ・H・H・...・H・...………...・H・...・H・...・H・..……...・H・'
6
6
第4
章体制移行の経済戦略…...・H・...・H ・-…・...・H・....・H・...・H・-…・…H・H・-…7
5
グラデュアリズム対ラディカリズムI
二つの戦略論…...・H・..…………...・H ・-…...・H・...・H・...・H・H・H・-一…・・…・7
5
II グラデュアリズムの戦略論...・H・..………...・H ・...・H・..77 1.コルナイ説 2.マーレル説とチャパ説 3.その他の説 凹 ラディカリズムの戦略論………...・H・..…...・H・..…...・H・..…...・H・...82 1.パルツェロヴ、ィチの登場 2.経済体制の分類 3ラデイカルな移行戦 略 4 . そ の 他 の 説W
私見…...・H・...・H・..…...・H・-…H・H ・...…-…...・H・-……・…...・H・-…H・H・.
9
1
第5
章 最 適 私 有 化 戦 略 ・ … ….
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1
0
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ラディカリズムの提言一I
私有化戦略・….
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II 二つの私有化案.
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0
1.急進案2
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漸進案 皿 中欧の私有化政策...・H ・..…………...・H ・...・H・...・H ・H・H・-………1
1
3
I
V
私有化実践の教訓…・………...・H・..…………...・H・..…………...・H・..….
.
1
1
7
1.売却方式 2.パウチャ一方式 3.コーポレート・ガパナンス 4. 下からの私有化 V 私有化戦略の提言………...・H ・-…・…・………...・H ・..…………・・122 第6章 経済体制研究再考 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・133 ワンセット思考の提唱一II ワンセット思考の系譜…...・H・..………...・H・...・H・H・H・..135 1.ゾンバルト説
2
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新自由主義者の説3
.
コルナイ説 田組み立て主義の系譜...・H ・..……...・H・...・H・...・H・H ・H ・..………1
4
2
1.最適経済体制論と市場社会主義プラン2
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シク説3
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分析的マルク ス主義者の説I
V
私見・・H・H・....・H・....・H・.
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1
4
9
序
本書は、ポスト社会主義諸国における体制移行について数年来考えてきたこと をまとめたものである。現在目の前で展開されている社会主義から資本主義への 移行は、四分の一世紀以上も経済体制研究に携わってきた筆者にとって興奮を禁 じえないテーマである。複数の国において同時に、しかも急激に、体制が転換す るというようなことは滅多にあるものではない。まきに千載一遇の好機到来で、あ る。筆者は、1
9
8
9
年の東欧革命からこのかた、このテーマ一本に絞ってわき目も ふらずに考察を重ねてきた。その中間報告書として1
9
9
6
年の年初に『体制転換の 経済政策社会主義から資本主義へ j (晃洋書房)を世に送り出した。本書はそ の続編であるが、単なる補遣ではなく、その後に得た知見を加えて編んだもので ある。 本書のストーリーをあらかじめ述べておこう。第1
章と第2
章は社会主義の崩 壊過程をテーマにしている。今から振り返って見ると、ソ連・東欧における社会 主義の実験は、効率という冷厳な経済原則に追い立てられた受け身の実験であっ た。そのプロセスをフォローしたのが第1
章である。第2
章は東ドイツに例をとっ て受け身の戦略を論じたものである。我が国ではほとんど知られていないドイツ 社会主義統一党の最後の生き残り戦略にスポットをあててみた。第3章から第5 章までは体制移行過程が対象になっている。第3章は筆者の「所有、相互・上下 調整の三元論J
の立場から体制移行に関する一般論を論じている。社会主義の体 制変動の軌跡、社会主義の崩壊の原因、体制移行の方向などについて筆者の考え を述べておいた。第4
章は体制移行の戦略論を扱っている。これにはグラデュア リズムとラディカリズムがあるが、筆者は後者の立場に立って、資本主義へのラ ディカルな移行を主張した。第5
章は私有化戦略を取り上げている。いわば移行 戦略の各論である。筆者は、ラディカリズムの立場から、パウチャーによる固有 企業の大量私有化が最適であることを論じた。以上の考察を踏まえて今後の経済体制研究のあり方を筆者なりに考えてみたのが第6章である。体制認識や体制の 設計にきいしてはワンセット,思考が必要かっ有効であるというのが筆者の結論で ある。ワンセット思考というのは、経済体制の構成諸要素を機能および意味の両 面からセットで把握しようとするものである。 本書の各章は、書きおろした第1章を除いて、この2年間に書いた論文を基礎 にしている。もっとも本書では旧稿をそのまま再録することは避け、テーマに即 して加筆と修正を行い、装いを新たにした。念のために旧稿との対応関係を示し ておこう。併読していただければ幸いで、ある。 第2章 :
r
反故になった市場社会主義J
、『彦根論叢J
、第308号、 1997年。 第3章 :r
経済体制移行論の構築に向けて」、『比較経済体制研究』、第3号、1996 年。 「体制移行の経済学」、『彦根論叢』、第305号、 1997年。 第4
章 :r
経済体制の移行に閣する戦略論」、『滋賀大学経済学部研究年報j、第 3巻、 1996年。 第5章 :r
私有化に関する政策提言」、『彦根論叢』、第299号、 1996年。 第6章 :r
経済体制研究再考」、『滋賀大学経済学部研究年報』、第4巻、 1997年。 本書を編むにあたっては、事実の観察をもとにして自説を打ち出すことを心が けた。そのさいできるだけ関連の文献に目を通すようにした。独りよがりを恐れ たからである。とはいえ筆者の力不足のために思わぬミスを犯しているかもしれ ない。諸賢の叱正を賜れば幸いである。 最後になったが、執筆の機会を与えてくださった滋賀大学経済学部と同僚諸兄 姉に深甚なる謝意を表しておきたい。 1997年9月11日 福 田 敏 浩追 い 立 て ら れ た 実 験
I
受 け 身 の 実 験 ソ連・東欧の社会主義の実験は短命に終わった。ソ連の実験が7
4
年、東欧の実 験わずかに40年であった。ソ連・東欧の実験を特色づけているのは期聞の短きだ けではない。受け身の実験という特色もあった。ソ連・東欧における社会主義の 実験は、人類史の最終にして最高の段階に位置する共産主義をめざした前向きの 能動的な実験などではなく、目先の問題処理に追われた場当たり的かっ近視眼的 な、この意味で受動的な性質をもつものであった。受け身の実験を強いられたの は管理社会主義という経済体制が制度化されたからであった。ソ連・東欧では共 産党が政権を取ると、どの国でも生産手段の固有制、中央管理経済(物財バランス と固定価格を軸とする需給の調整方式)および指令方式(いわゆるノルマ制)を柱とす る管理社会主義の制度化が行われた。制度化の戦略はピック。パンであった。各国 政府とも最短のタイムスパンで既存の経済体制をスクラップしつつ管理社会主義 を建設するという急進的な道を選んだ。 ビッグパン戦略を可能にしたのは、戦争と革命であった。ソ連のビッグ会パンの 背景には第1
次世界大戦とロシア革命があったし、東欧のピックゃパンの背後にも 第2次世界大戦とソ連支援による共産革命があった。戦争と革命は異常事態であ る。異常事態は大胆な体制改造を容易にする。事実、ソ連・東欧では比較的短期 間に現存経済体制のスクラップと管理社会主義の制度化が行われたのである1)。 管理社会主義の致命的欠陥は低効率にあった。それが顕在化したのは1960年代 初頭であった。具体的には経済成長率の低下の形で表面化した。東ドイツやチェ コスロヴァキアのように、国民経済が相対的に小規模で工業が比較的発達した国 ほど効率の壁にぶつかるのが早〈、降下率も大きかった。ソ連の場合は事情が異 なる。この国に管理社会主義が定着したのは1930年代半ばであり、経済成長率が 目に見えて降下するまでにおよそ1/4
世紀の時聞が経過している。なぜか。ソ連が人口大国・資源大国であり、豊富な労働力および物的資源の重工業部門・軍 需産業への集中投入によって
GNP
の 量 的 拡 大 を 図 る と い う 外 延 的 発 展 戦 略 (extensive development)で管理社会主義の低効率をカノfーで、きたからである2)。 東欧諸国でも外延的発展戦略が採られたのだが、ソ連ほど人的・物的資源に恵ま れていなかったためにこの戦略は10年も経たないうちに壁にぶつかり、成長率の 低下を招いてしまった。 経済実績の急激な悪化によりソ連・東欧諸国は経済改革を余儀なくきれた。ユー ゴスラヴィアとアルパニアを除〈各国政府は、1963年の東ドイツを皮切りにして、 1960年代後半に一斉に管理社会主義の改革に乗り出した。各国政府が選択した改 革のスタイルには二つのものがあった。部分的改革と全面的改革である。部分的 改革は管理社会主義の基本を保持したままでその部分を修正することをめぎし た。これに対し、全面的改革は市場社会主義への転換をめぎした。部分的改革を 選択したのはソ連、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアであり、全 面的改革を採用したのはチェコスロヴァキアとハンガリーであった。 部分的改革は効率改善にほとんど貢献しなかった。改革は指令方式のマイナー チェンジ一一中間管理機関の権限強化、義務的指標数の削減、利潤指標の導入などーー に終始し、固有、中央管理経済および指令方式という管理社会主義の基本構造は 手つかずのままに終わったからである。 全面的改革は管理社会主義から市場社会主義への転換をめざすものであるが、 その先鞭をつけたのはユーゴスラヴィアであった。この国はすでに 1950年代初頭 から、社会有(労働者自主管理)、市場経済および誘導方式(政府が個別経済を取り巻 〈環境条件を操作することによって個別経済の行動を間接的に誘導する方式)の組み合 わせから成る独特の市場社会主義の制度化に乗り出していた。ユーゴスラヴィア が市場社会主義に方向転換したのは政治的理由による。ソ連の内政干渉に対する 反発からこの国は1948年にソ連圏を離脱し、自主独立路線を選択した。その一環 として市場社会主義の制度化が行われたのである。 これに対し、チェコスロヴァキアとハンガリーは経済的理由から市場社会主義 を選択した。その背後には、管理社会主義の低効率から脱却するには市場を活用 するほかない、という政策判断があった。効率という冷厳な経済原則に追い立てられた挙げ句の窮余の策とでもいうべき決断であった。教条的な守旧派マルクス 主義者からの攻撃をかわすために両国の改革派マルキストは市場をメカニズムと して、つまり効率的な資源配分を可能にする機械として位置づけることに多大の エネルギーを費やした。市場は資本主義の体制原則ではなく、社会主義において も活用しうるイデオロギー中立的な道具であると規定されたのである。改革派の 理論的説得が奏功したこともあって両国では1968年1月 1日を期して市場社会主 義の実験が開始された。 チェコスロヴァキアの実験は「人聞の顔をした社会主義」のキャッチフレーズ のもとに開始されたが、わずか
1
年で中止に追い込まれた。「人聞の顔をした社会 主義」は、経済面の改革に止まらず、政治面でのブルーラリズムの容認と情報面 の規制援和(たとえば検閲の廃止)をも射程に入れていたからである。この実験は ペレストロイカを先取りするものであったといえるが、やり方次第では共産党独 裁の崩壊を招〈可能性があった。「感染の恐怖J3>に囚われたブレジネフ(L.Brezh -nev)はソ連軍を動かし、「人聞の顔をした社会主義J
の実験を力ずくで封じこめて しまった。 ハンガリーにおける市場社会主義の実験は1968年から1989年の東欧革命までの2
2
年間にわたって繰り広げられた。この実験を指導したハンガリ一社会主義労働 者党は、 1956年の「ハンガリー動乱」の教訓を生かし、ソ速を刺激しないように 細心の注意を払いながら実験を経済面に限定し、一党独裁を堅持する姿勢を示し た。ソ連の軍事介入を招かなかったゆえんである。 ハンガリーの実験の意義は二つある。ひとつは固有制のもとに市場メカニズム を導入したことである。固有から社会有に切り替えたユーゴスラヴ、ィアの実験と 決定的に異なる点である。史上初のユニークな実験であったといえる。もうひと つは他の社会主義諸国の手本となったことである。ユーゴスラヴィア型市場社会 主義が一国社会主義に止まったのに対し、ハンガリー型市場社会主義は国境を越 えて広がり、他の国々の実験のモデルとして採用された。 1980年代前半のポーラ ンドと中国へ 1980年代後半のソ連がハンガリーをモデルにして市場社会主義の 実験を行っている。東欧革命の洗礼を受けた東ドイツの社会主義統一党も生き残 りをかけてハンガリー・モデルに倣った市場社会主義プランを構想した。もっとも、社会主義統一党のプランはドイツ統ーの世論の前には無力であり、実践に付 されることはなかった。このことについては第
2
章で論じることにしよう。 上記の国々がハンガリー・モデルを受け入れたのは、経済危機から抜け出すに はハンガリー・モデルしかないという判断からであった。管理社会主義よりもハ ンガリー型市場社会主義の方が効率面で優れているようにみえたのである。上記 の国々の共産党にとってハンガリー・モデルは生き残りのための最後の砦であっ た。以下、ハンガリーをはじめとする各国の市場社会主義の実験を簡単に振り返っ ておくことにしよう。 11 市場社会主義の実験 1.ハンガリーの実験2
2
年にわたるハンガリーの市場社会主義の実験は大きく二つの時期に区別され る。 1968年から 1980年代前半までと 1980年代後半である。 第1
の時期には所有方式の改革は日程にはのぽらず、固有原則が堅持された。 改革の対象になったのは相E
調整方式(つまり需給の調整方式)と上下調整方式(つ まり国家の個別経済への干渉方式)であった。 相互調整方式については中央管理経済から市場経済への転換が行われた。ただ し、市場メカニズムが導入されたのは財(生産財と消費財)についてだけであって、 労働力とマネーについてはイデオロギー的理由で一一骨働市場は人聞の商品化・物 象化を招き、マネー市場(金融市場と資本市場)は不労所得を将来するという理由で 一一完全な市場メカニズムは導入されなかった。財市場の整備の一環として価格 システムの改革が実施され、固定価格制から(固定価格、最高価格、ゾーン価格およ び自由価格から成る)混合価格制への切り替えが行われた。また、高度集中の産業 構造を解消し、競争市場を創設することをめざした競争政策も展開された。 上下調整方式については指令方式が廃止され、誘導方式の制度化が行われた。 その一環として政府の経済計画が改革され、従来の短期計画・ミクロ計画・指令 的計画から中長期計画・マクロ計画・指示的計画への転換がめざされた。政府の 経済計画の実行手段としては義務的指標に代わって、経済的規制用具 (economic regulator)が採用された。財政政策的手段、価格政策的手段および信用政策的手段などである。これらの手段によって企業行動を一定方向へ誘導し、計画目的を達 成することが試みられた。誘導方式の導入に伴って固有企業の自立化の措置が講 じられ、固有企業に対してその投入・産出・販売に関する決定権が与えられた。 第
2
の時期になると、市場社会主義の実験は質的に変化し、マネー市場の整備、 所有改革および企業管理の民主化が実施きれるようになった。 マネー面では1
9
8
7
年に国有企業の株式発行が認められた。固有企業は株式の発 行で資金を調達できるようになった。当初認められたのは企業株主だけであった が、1
9
8
9
年初めには個人株主も容認された。株式のほか社債や公債も発行きれる ようになり、徐々に資本市場の整備が進められた。それとともに金融市場の整備 も行われ、1
9
8
7
年には従来のモノバンキング・システムから二層バンキング・シ ステムへの転換が実施された。これは基本において欧米のバンキング・システム と同様のものであり、発券業務や金融政策などの中央銀行業務はハンガリ一国立 銀行が担当し、金融仲介や貸し付けなどの業務は商業銀行が担当するようになっ た。商業銀行としてはハンガリ一信用銀行、ハン方、リー商業銀行、ブダペスト銀 行など2
0
ばかりの銀行が新たに設立された。 このように第2
の時期には欧米に倣ったマネ一面の市場化が進行するが、その 背後にはマネーおよびマネー市場に対する社会主義労働者党のスタンスの変化が あった。イデオロギー的・形市上学的な解釈から機能的・経済学的な解釈への変 化である。マネーおよびマネー市場に対するイデオロギ一的呪縛から解放きれ、 それらを合理的資源配分のための道具として捉えようとするプラグマテイズムが 支配するようになった。なし崩し的にマルクス主義の形骸化が進行したのである。 効率改善の一環として所有改革も行われた。1
9
8
2
年に従業員3
0
人以下の私企業 が公認きれたのを皮切りにして、1
9
8
8
年には固有企業の自発的私有化 (spontane -ous privatization)が実施きれ、1
9
8
9
年初めには従業員5
0
0
人以下の私企業の設立が 認められた。1
9
8
0
年代後半には西側資本主義諸国との合弁企業の設立が本格化し、1
9
8
9
年の初めには100%
外資企業も公認され、西側の資本と技術の誘致が推進され た。ハンガリーに進出した西側の合弁企業および100%
外資企業は、1
9
8
9
年末で約1
8
0
0
社にのぼった。1
9
8
0
年代後半になると固有企業の民主化が開始され、従業員5
0
0
人以下の固有企業に労働者自主管理が導入された。従業員
5
0
0
人以上の固有企業については労働者 側が企業協議会に代表を送り、経営者側との話し合いを通して企業を運営してい く一種の共同決定方式が導入された。このような民主化は主として企業効率の改 善を狙ったものであった。労働者に経営参加の機会を与えることで労働意欲や士 気を高め、生産性を向上させるという狙いがあった。 ハンガリーにおける市場社会主義の実験の概要は以上の通りであるが、今から 振り返ってみると、ハンガリーはプラク*マテイズムの政策運営のゆえに徐々に資 本主義への接近を余儀なくされていったことが分かる。このことは、第1
に市場 経済の導入は当初、財分野に限定されていたのが、時間とともにマネーおよび労 働力の分野にも拡大せざるをえなくなったこと、第2
に当初固有原則が堅持され ていたのが、市場経済の拡大とともに固有企業の株式会社化と私企業設立を実施 せざるをえなくなったこと、に端的に示されている。筆者はかねてよりこれらを 根拠にしてハンガリー市場社会主義の資本主義への接近を主張してきたへ2
.
ソ連とポーランドの実験1
9
8
0
年代になると、ソ連とポーランドにおいても市場社会主義への動きが生じ た。ソ連では1
9
8
5
年に最高権力者となったコ9ルパチョフ(
M
.G
o
r
b
a
c
h
e
v
)
によっ てペレストロイカが発動された。ペレストロイカは制度疲労をきたしたソ連社会 全体の立て直しをめざした急進的な体制改革であり、政治改革(政治の民主化)、グ ラスノスチ(情報の自由化)および経済改革を柱にしていた。経済改革は1
9
8
7
年後 半に本格化するが、ゴルバチョフがめざしたのは固有制の原則を保持したままで 市場経済を活用する市場社会主義であった。筆者の解釈によればこの市場社会主 義はハンガリーを手本にしたものであった叱この意味でゴルバチョフ改革はハ ンガリーの後追いだったといえる。ハンガリーとの相違は、コ守ルパチョフが政治 の民主化(共産党独裁の放棄、複数政党制の導入など)と情報の自由化(情報公開、報 道の自由化、検閲の廃止など)を断行したところにある。政治の民主化と情報の自由 化という限りでは、ペレストロイカはチェコスロヴ、ァキアの「人聞の顔をした社 会主義」に通ずるものがある。しかし、ペレストロイカはソ連社会の再建どころ か、経済のいっそうの悪化、共産党の威信の低下、治安の悪化、民族紛争などを誘発し、いわば意図せざる結果としてソ連邦の解体を招いてしまった。 ポーランドでは
1
9
8
2
年からヤルゼルスキ(
W
.J
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u
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l
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k
i
)
統一労働者党第1
書記 の指導のもとに管理社会主義の全面的改革が実施された。ポーランド政府が設計 したのは市場社会主義であったが、それはハンガリー型市場社会主義をモデルに したものであった。固有企業体制(固有企業への労働者自主管理の導入)、市場経済 および誘導的マクロ経済政策を柱としていたからである。しかし、市場社会主義 の制度化は予想以上に難航し、政府は局面打開のため1
9
8
8
年に経済改革のセカン ド・ステージを実施したが、事態を改善するには至らず、経済情勢は悪化の一途 をたどった。1
9
8
8
年にはショーティジフレーション(極度のモノ不足とハイパーイン フレーションの同時発生)という深刻な事態が発生し、市場社会主義の実験は頓挫 するに至った。ポーランドが1
9
8
9
年の東欧革命の震源地となった原因の一つであ る。 ソ連とポーランドにおける市場社会主義の実験は、ハンガリー以上に経清危機 に追い立てられ、追いつめられた上での背水の実験であった。それが証拠に、両 国の政府は市場社会主義の設計や制度変更に伴う法律の改正などに十分時間をか けることなしに実験に走っているのである。状況に流された場当たり的な実験で あった。党の中央委員会主導で1
9
6
4
年からほぼ3
年もかけて市場社会主義を設計 し、反対派を説得し、法律を改正し、諸事万端整えた上で実験に臨んだハンガリー とはあまりにも対称的であった九ソ連とポーランドにおける市場社会主義の実 験が事態をいっそう悪化させただけに終わったのは当然といわねばならない。 岡 市場社会主義の失敗 ポーランドとソ連はいうまでもなく、両国がモデルとしたハンガリーにおいて も市場社会主義の実験は結果的には失敗した。ハンガリーの市場社会主義の最後 の1
0
年間(
1
9
7
0
年代末一1
9
8
0
年代末)に国民所得の成長率は3%
を越えたことがな く、1
9
8
0
年代後半はゼロ成長になり、加えて東欧革命の前年の1
9
8
8
年にはインフ レーション率15%
、対外債務残高1
6
0
億ドルを記録した。市場社会主義は本来、管 理社会主義の低効率の克服をめざしたものであってみれば、このようなおもわし くない結果は致命的であった。極端にいえば市場社会主義の存在理由がなくなってしまったのである。 なぜハンガリーの実験は失敗したのか。この間に対する筆者の解答を一言で述 べると、ハンガリーの実験が失敗した究極の原因は固有方式に市場経済を組み合 わせたところにあった、ということになる叱改革の父と呼ばれたニエルシュ(R.
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やチコーシュ・ナジ(B.C
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に代表される社会主義労働者党の デザイナーたちは、固有方式の堅持で社会主義の一線を確保しておいて市場経済 を導入すれば資源配分が合理的になり、効率が改善されると考えた。市場経済を 導入しさえすれば「固有企業があたかも市場アクターとして行動すると確信して きた」川(1.コルナイ)のである。ところが、現実は期待通りにはならなかった。 実際には固有方式が市場経済の足かせとなり、市場メカニズムを阻害した。筆者 はこのような固有方式のマイナス作用を固有のブレーキ効果と呼んできた1九 も う少し具体的に説明しておこう。 市場経済は国家からの解放という意味での個別経済の自由を前提とする。ハン ガリーの実験においてもこの前提条件は考慮きれ、指令方式の廃止、誘導方式の 導入、固有企業の自立化の措置が取られた。にもかかわらず固有企業は国家から 自立できなかった。国家が依然として企業の所有権を保有していたからである。 固有である限り、企業の経常活動に対する監督官庁の影響力を排除することはで きない。事実、コルナイ(].K
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が指摘するょっに、固有企業の行動を規定 する投資や価格や信用や補助金に関して「間接の官僚的調整」が行われた12)。この ことのゆえに宿弊であった監督省と国有企業とのバターナリズムおよび固有企業 の予算制約のソフト化の問題も解決されなかった。 市場経済は企業に対し自己責任を要求する。ハンガリーでは企業の自立化の措 置によって形式的には自己責任体制が整えられた。しかし、実際には固有企業は その活動の結果について責任を回避するような行動をとった。それは予算制約の ソフト化が残存したことに端的に示きれている。つまり、監督省が固有企業の赤 字を、借り入れ資金の償還の繰り延べや利子の減免や税の減免などによって、カ ノ〈ーしたのである。このよ7なバターナリズムが市場経済の望む合理的企業行動 (収益最大化・費用最小化の行動)を阻んだといえる。 市場経済の機能条件として欠かせないのは参入の自由である。ハンガリーでは大半の生産手段の所有権が国家に帰属していたために、国民が自由に企業を設立 したり営業したりする余地は、一一地下経済の場合を除いて一一ほとんどなかった。 市場への参入は監督省の官僚によって実質的に決定きれ、規制きれていた。市場 に登場したのはほとんどの場合固有企業であり、その企業長であった。社会主義 労働者党のデザイナーたちは企業長に企業家的行動を期待したが、それはない物 ねだりに等しいことが分かった。企業長は官僚的行動をとったからである。参入 の自由が国民に保証されると、冒険心や企業心に富んだ人物が企業家として市場 に登場し、イノベーションを通して市場経済のダイナミズムと繁栄に貢献するこ とは先進資本主義諸国の経験が示す通りである。このような参入の自由のメリッ トを生かせなかったところにハンガリー市場社会主義の限界があった。 市場からの退出の手続きを制度化することも市場経済にとって不可欠で、ある。 ハンガリーでこのことが自覚されて破産法が制定されたのは、市場社会主義の実 験が終幕を迎えようとしていた
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年のことであった。ところが、破産法は国有 企業および監督省の抵抗にあって適用を阻まれ、その効力を発揮しえないままに 終わってしまった。ノーヴ (A.Nove) の表現を借りれば「省帝国J13)の抵抗は予 想以上に強力であった。ここにも固有方式の壁があった。破産法が与えられ、そ の適用が保証きれると、市場経済は「悪貨を駆逐する」。つまり、高費用・低収益 の企業を駆逐し、資源の浪費を抑える。そうした市場経済の機能は固有方式によっ てブレーキをかけられたのである。 市場経済の機能にとって望ましい市場形態が競争市場であることは、教科書の 教える通りである。ハンガリ一政府もこのことを認識して競争政策を推進した。 市場社会主義の実験が開始された当時の産業構造は高度集中の様相を呈してい た。1
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年代初頭に大規模な企業合併が行われたためである。政府は各種の競争 促進策を講じて高度集中の解消に努めたが、思うように捗らず、独占支配が続い た。そこで1
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年代に固有企業の分割という思い切った措置をとったが、それも 固有企業と監督省の抵抗にあってほとんど効果を発揮できなかった。競争政策は 省帝国の既得権益の壁に阻まれた。ハンガリーの経験は固有方式が省帝国を生み、 省帝国が競争市場の形成を阻むということを教えている。W
市場社会主義の教訓 ハンガリーの市場社会主義の実験は、経済体制の研究者にとって多くの貴重な 教訓を残してくれた。まとめをかねてそのいくつかをここで指摘しておこう。 第1
は、固有方式を国民経済的規模で制度化すると、市場経済の機能が損なわ れるということが分かったことである。固有は市場のブレーキとなることが判明 したことの意義は大きい。固有中心の経済体制で市場経済を利用しでも高効率は 実現できないのである。このことは、私有と市場の組み合わせを軸とする資本主 義と比較すると、いっそうはっきりする。「西欧の経済発展は技術進歩ではなく、 私有のお陰であったJ
1
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というワトリン(c.Watrin)の指摘は的を射ているo 技術 進歩も私有によって促進される。効率の観点からすると、固有と市場の組み合わ せは、私有と市場の組み合わせに太刀打ちできないのである。 第2は、第1の点から出てくる系であるが、効率の面からすると国有と市場は 両立しえないということが分かったことである。この点に気づいている論者は比 較的多い。たとえば、コミッソ(E.Comisso) やホッホ(R.Hoch) やクニルシュ (P.Knirsch) やサミュエリ(L.Samuely) は、ハンガリーの経験をもとに国有と 市場は両立できないのだから市場社会主義は存続しえない、だから市場社会主義 の名辞はいわば「木でできた鉄の輪J
1S)(iron hoop made of wood) の類いの形容
矛盾である、と述べた1へまた、コルナイはハンガリーの経験を踏まえて固有と市 場のセットを凝集性の低い「弱い結合
J
(weak linkage) と捉え、固有と市場は両 立しえないことを主張した17)。 第3は、ハンガリーの実験が失敗に終わったのは結局のところデザイナーたち の立論方法に起因することが分かったことである。デザイナーたちは、所有の問 題と相互調整の問題をワンセットの形で考察するのではなく、両者を別々に扱い、 その結果を組み合わせるという論法をとった。まず、所有の問題はもっぱら社会 主義的価値(平等、連帯、公正など)に関係づけて論じられ、この価値の実現に与 かる最適の所有方式として固有が選定される。次に、相互調整の問題はもっぱら 効率に関係づけて論じられ、高効率を保証する相互調整方式として市場経済が選 定される。最後に、国有と市場経済が機械的に組み合わされて市場社会主義が組み立てられる。市場社会主義は一方で社会主義的価値を実現し、他方で高効率を 実現するのだから、人間学的にも経済学的にも最適の経済体制であるというので ある。筆者はこのような立論方法を組み立て主義と呼んできた18)。この方法の難点 は効率の観点から所有の問題と調整の問題をワンセットの形で考察しなかったと ころにある。固有に市場をセットすれば資源配分の効率はどうなるかという問い かけはなかった。市場への過度の期待からそれらを無造作に組み合わせてしまっ たのである。 第4は、第3の点から派生してくることだが、所有の問題と調整の問題は効率 の面からセットの形で考察すべきことが分かったことである。ハンガリーの実験 は固有と市場の組み合わせから出発したが、時聞が経つにつれて固有のブレーキ 効果が顕在化したために政府は結局、固有企業の株式会社化・自発的私有化およ び私企業の設立を余儀なくされた。このことは効率改善をめざして市場を導入す ると、市場は固有を排除し、私有を呼ぶということを示している。筆者はこのよ うなハンガリーの経験をもとにワンセット思考の必要性を主張してきた19)。ワン セット思考という言葉そのものは筆者のものであるが、考え方そのものはすでに 第2次大戦以前からある。ミーゼス(L.v.Mises) は社会主義における経済計算可 能論を論駁する中で合理的経済計算は市場と私有のセットでなければ不可能でbあ ると主張していたし刷、オイケン (w.Eucken)は戦間期におけるドイツ経済の国 家統制化およびソ連の社会主義建設の経験を踏まえて所有と調整の相
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依存関係 私有と市場、固有と中央管理の両立ーーを指摘していた21)。近くはコルナイもハ ンガリーの経験をもとに「強い結合」・「弱い結合」というタームを使って所有問 題と調整問題をセットの形で考察する必要を説いている問。私有と市場および固 有と官僚的調整のセットが円虫い結合」であり、固有と市場のセットが「弱い結 合jであるという。経済体制の比較研究に携わってきた筆者からすれば、これら の論者の主張は正鵠を射ているといわざるをえない。 第5
は、社会主義は公有をベースにするという考えに固執する限り、調整方式 に中央管理をもってこようと、市場をもってこようと、経済は停滞せざるをえな いことが分かったことである。ハンガリーは4
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年にわたる実験の聞に固有をベー スにして最初の2
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年間は中央管理経済を、次の2
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年間は市場経済を制度化したが、いずれの場合にも次第に経済が停滞した。固有と中央管理のセットも固有と市場 のセットも効率テストにパスできなかったといえる。ユーゴスラヴィアに制度化 きれた社会有と市場のセットも同様で、あった。固有であれ社会有であれ、公有は 効率的に難点があることが分かった。ポスト社会主義時代の今日、分析的マルク ス主義(AnalyticalMarxism)の立場に立つローマー(J.E.Roemer)やパーダン (P. K. Bardhan)やワイスコフ (T.E.Weisskopf)らは、マルクス主義の生き残りをか けて、公有と市場の組み合わせから成る市場社会主義を提唱しているが閉 そ の公有の内容はまったくもって唆昧だが一一公有にまつわる効率上の陥葬にほとん ど気づいていなし、。筆者は現存社会主義の経験から、市場社会主義を擁護する者 は、公有が少なくとも私有よりも効率上優れていることを論証しない限り、大方 の支持を得ることはないであろう、と主張してきた判。効率的に見て私有よりも優 れた公有形態を提示しえない限り、市場社会主義論は机上の空論に止まるであろ
つ
。
V 社会主義から資本主義へ 1.東欧革命とソ連の消滅1
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年は東欧革命の年であった。この年の6
月にポーランドで総選挙が行われ て共産党独裁に終止符が打たれたのを皮切りにして、 10月にはハンガリーと東ド イツで、1
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月にはブルガリアとチェコスロヴァキアで、1
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月にはルーマニアで次々 と共産党独裁が崩壊した。東欧革命を誘発した直接の原因はソ連の内政および外 政の変化であった。つまり、内政面でのペレストロイカ、外政面での緊張緩和の 外交戦略(ヤルタからマルタへ)、ペレストロイカの東欧への輸出、プレジネフ・ド クトリンの放棄が直接の原因である問。中でもペレストロイカは、政治の民主化を 含むものであっただけに、東欧諸国に及ぽしたインパクトは計り知れないほど大 きかった。宗主国ソ連での民主化は東欧各国の民主化に保証を与えたも同然だっ た。しかもコソレパチョフは、東ドイツが典型的にそうであったように、共産党独 裁に固執する東欧の首脳に対して、政治の民主化を迫った。コ*ルパチョフは、東 欧の主権を制限してきたブレジネフ・ドクトリンの放棄という手を打ちながら、 積極的にペレストロイカを輸出したのである。1
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年1
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月2
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日にはソ連邦が世界地図から姿を消した。国土面積2
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万平方キ ロメートル、人口2
億8
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万人の政治大国が建国からわずか7
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年で消滅したとい うのは人類史に例のない異常な事件であった。一体何がソ連を消滅に導いたのか。 直接の原因はペレストロイカであるというのが筆者の答えであるzへ ペ レ ス ト ロ イカは政治の民主化、情報面の規制緩和および経済改革を柱としていたが、ほか ならぬこのペレストロイカがソ連邦をひとつに括り上げていた統合要因を切り崩 してしまったのである。オートクラシ一、マルクス・レーニン主義、管理社会主 義が主要な統合要因であったが、民主化はオートクラシーを、情報面の規制緩和 はマルクス・レーニン主義を、市場経済導入を核とする経済改革は管理社会主義 を空洞化してしまった。その結果ゴルバチョフの意図せざる結果としてソ連邦が 消滅したのである。 東欧革命およびソ速の消滅を誘発した直接の原因は以上の通りであるが、もと より原因はこれに尽きているのではない。そのほかにより根本的な原因があった。 筆者の考えでは経済の停滞がそれにあたる。ソ連において制度化され、第2
次世 界大戦後に東欧諸国に波及した管理社会主義は低効率という致命的な欠陥を含ん でいた。筆者が別の機会に詳述したように27)、管理社会主義の根幹を成す固有・中 央管理経済・指令方式の組み合わせは効率テストにパスできなかった。それゆえ に東欧では管理社会主義の制度化から1
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年にも満たないうちに経済改革が実施さ れたので、ある。 コルナイは固有と官僚的調整のセットを凝集性の高い「強い結合」と捉え、ソ 連型経済体制を安定的なものと見ているが、果たしてそういえるだろうか。むし ろソ連・東欧は、へンゼル(K.P.Hensel) の言葉を借りれば、「実験へのシステム 強制J28)(Systemzwang zum Experiment)に従わされてきたというのが真実ではな いだろうか。ソ連・東欧の各国政府は、管理社会主義を制度化したばかりにその 機能不全と低効率に追い立てられ、頻繁に経済政策および経済制度の変更と修正 を余儀なくされ、この意味で次から次に政策および制度の実験を強要されてきた のである。1
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年代の経済改革は、大がかりであったとはいえ、そうした実験の ひとつにすぎなかった。このように見れば、管理社会主義は安定性を欠いていた といえる。管理社会主義の代案として登場した市場社会主義も効率改善に与かることがで きなかった。ハンガリーでは、時聞が経つにつれて次々に新しい実験を強制きれ、 ついには欧米流のマネー市場の制度化や私有化を余儀なくされた。コルナイのい うように、固有と市場は凝集性の低い「弱い結合」であったからである。ユーゴ スラヴィアの社会有と市場の組み合わせも同様に「弱い結合」であった。市場社 会主義もまた、体制的安定性を欠いていたのである。 体制的不安定と低効率のゆえに管理社会主義の国も市場社会主義の国も経済の 停滞に悩まされた。これこそが東欧革命とソ連の消滅を招いた根本の原因であっ た。ペレストロイカはソ速の経済停滞によって余儀なくされたものであったし、 東欧革命の背後にも東欧各国の経済停滞があった。ソ連の内政・外政の変化はい わば東欧革命の触媒の働きをしたにすぎない。
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資本主義への移行1
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年代末にソ連・東欧の受け身の実験は行き詰まり、共産党独裁が崩壊した。 その後に登場した各国の新政権は一斉に資本主義への移行に乗り出した。移行の パターンには三つのものがあった。ひとつは管理社会主義から資本主義へのジャ ンプを試みようとしたものである。東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニア およびブルガリアがこの道を選択した。第2
は市場社会主義から資本主義への移 行をめざそうとしたものである。ハンガリ一、スロヴ、エニア、クロアチアが選ん だ道である。第3は市場社会主義の実験を途中で放棄して資本主義への転換を図 ろうとしたものである。ロシアとポーランドが選択した道である。 資本主義への移行戦略のアプローチには二つのものがあった。ラディカリズム(
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とグラデュアリズム(
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である。ラディカリズムは可及的 速やかに既存の経済体制をスクラップし、資本主義への移行を実現しようとする 戦略である。いわゆるピック。パンである。グラデ‘ュアリズムは時間をかけて徐々 に資本主義への移行を実現しようとする戦略である。ラデwイカリズムの戦略を選 択したのは東ドイツ、チェコスロヴnアキア、ポーランドおよびロシアであった。 その中でもっとも急進的な戦略を採用したのは西ドイツに吸収合併された東ドイ ツであった。グラデュアリズムの戦略を採ったのはハンガリ一、ルーマニアおよひやブルガリアであった。 ポスト社会主義諸国に共通する主要な体制移行政策は、私有化、市場化、競争 化である。私有化は二つの部分から成る。現存固有企業の所有権の民間への移転 と私企業の新設である。私有化は社会主義のスクラップと資本主義のビルディン グの双方にかかわっており、移行政策の中でもっとも重要な位置を占める政策で ある。ポスト社会主義諸国で採用きれた既存固有企業の所有権移転にかかわる主 要な施策は以下のごとくである問。 ①固有資産および固有企業の返還一一国家によって強制収用された資産(土地、 建物など)の旧所有者への返還。現物返還と金銭補償の方法がある。 ②固有資産および固有企業の売却 i.直売:私有化担当の政府機関による私的投資家・私的実業家への売却 ii.入札と競売 iii.インサイダーへの売却:固有企業の所有権を当該企業の従業員に優先的に 売却する方法 ③大規模私有化:固有大企業の私有化は二段構えで実施された。第
1
段階は固 有企業の株式会社への転換である。第2
段階はその株式の私的投資家(外国人 を含む)への売却または配分である。その具体的方法は次の二つである。 i.資本市場での売却:証券取引所への上場や庖頭市場での売却がある。 ii.国民への配分:一度に数百、数千の固有企業の株式を国民に配分する方法 である。パウチャーを国民に発給し、それと引き換えに株式を配分するとい う方法が採られてきた。通常、大量私有化(massprivatization)と呼ばれる方 法である。 市場化と競争化は市場経済の制度化にかかわる政策である。市場化については 市場経済の作動に必要な法的フレームワークおよび制度的条件(商業銀行、証券取 引所、会計制度、商業裁判所など)の整備が行われる一方で、、価格の自由化が実施さ れた。競争化は競争市場の創出を目的とする政策であり、各国政府は独占規制の 法律を制定して産業構造の非集中化に努めるかたわら、外国企業や外国資本の誘 致によって競争を促進しようとしてきた。そのほか各国政府が力を入れているの はマネー市場の整備である。どの国でも二層バンキングシステムや証券取引所・庖頭市場などの金融・資本市場の整備が推進されてきた3
へ
体制移行政策は現在進行中である。その進捗状況は国ごとに異なるが、全般に 遅れが目立つ。当初予想よりも移行障壁が高かったからである。もっとも、中に は社会主義のスクラップが完了し、すでに資本主義の制度的フレームワークがほ ぼ整備された国もある。東ドイツである。この国はポスト社会主義諸国の中では ユニークな地位を占めている。ロシア、 CIS諸国、チェコ、スロヴ、ァキア、スロ ヴェニア、クロアチアなどが国家の解体または分離独立という形をとって体制移 行に乗り出したのに対し、東ドイツは西ドイツとの国家統一の道を選んだからで ある3九国家統ーといってもそれは西ドイツによる東ドイツの吸収合併であった (東ドイツの正式国名ドイツ民主共和国は地図から姿を消した)ので、体制移行は西ド イツ政府主導で実施された。東ドイツ人から見ればアウトサイダー主導の体制移 行であった。このことも他のポスト社会主義諸国には見られないユニークな点で ある32)。東ドイツにとって幸いだったのは西ドイツが経済大国であったことであ る。西ドイツの先進的な市場経済制度を移転し、西ドイツの専門家の指導・支援 を受け、西ドイツから体制移行のための財政援助(国家統ーから 6年間で約7
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億ド ル)を受け取ることができたのである。私有化については信託公社(
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It)主導で固有資産および固有企業の返却・競売・直売が行われ、競売によって 約3万の小規模資産のほとんどすべてが民間人の手にわたり、鉱工業の固有企業8
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社のほとんどが国内外の投資家に直売された(売れ残りは1
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年末で6
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社)33)。 私有化は1
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年末に一応完了し、信託公社は解散した。農地および森林などの旧 所有者への返還業務がまだ残っているが34)、管理社会主義のスクラップは1
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年 末で完了したといってよいだろう。 東ドイツの体制移行政策は、ラデイカルであっただけに、いくつかの負の現象 をもたらした。東ドイツ地域の非工業化(d
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、大量失業(
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年1
月現在で14%
の失業率)、財政赤字、東ドイツ人の「植民地化」意識(
2
等市民意 識)の高まりがその主なものである35)。 東ドイツ以外のポスト社会主義諸国の体制移行の進捗状況は東ドイツに後れを とっているが、チェコ、ポーランドおよびハンガリーの中欧3カ国の体制移行は 比較的順調であり、いわば第2
集団を形成している。これらの国では1
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年以降にGDPの降下が底を打ち、その成長率がプラスに転じている。これに対し、ロ シアや CIS諸国およびバルカンの旧社会主義国の体制移行は全般に遅れがちで ある。 ポスト社会主義諸国て"は体制移行に伴ってさまざまの難聞が生じた。GDP成長 率の急降下、大量失業、実質生活水準の下落、高インフレーション、対外債務の 増大などである。もっともこれらすべてが体制移行政策に起因するわけで、はない。 旧体制から出ているものもある。失業の一部は社会主義体制に固有の「隠された 失業
J
(hidden unemployment)が表に出てきたものであり、高インフレーションの ほとんどは旧体制時代の抑圧されたインフレーションが価格の自由化によって表 出してきたものであり、対外債務の多くも旧体制の所産になるものであった。ま た、これらのマイナス現象は体制移行の当初から各国政府によって予想されたと ころでもあった(ただ、それらの程度がしばしば予想を超えたのではあるが)。体制移 行が順調に進めばマイナス現象は徐々に消滅するであろう。 とはいえ、それらによって人々の生活が苦しくなり、政権に対する不満が高まっ たのは事実である。このため国によっては体制移行後の総選挙で旧共産勢力が政 権に復帰するという予想外の事態が生じた。 1993年のポーランドと1994年のハン ガリーがそうであるが、両国では、しかし、逆戻りは生じなかった。旧共産勢力 は、政治的スタンスを社会民主主義に変えたこともあって、政策の重点を失業者 救済や賃金引き上げや社会保障の整備などにシフトさせはしたものの、資本主義 への移行戦略を放棄するような行動には出なかった。むしろ、両国の新政権は前 政権以上に体制移行政策を積極的に推進する姿勢を見せている。 体制移行政策の進捗状況は国によってさまざまではあるが、ポスト社会主義諸 国の多くはすでに不可逆点(irreversiblepoint)を通過し、資本主義の引力圏に入っ ている。管理社会主義はいうまでもなく市場社会主義への後戻りは、余程の異常 事態でも発生しない限り、ありえないであろう。 VI 比較経済体制研究の課題 本章で筆者が主張したかったことは、ソ連・東欧諸国は管理社会主義を制度化 したばかりに目先の効率改善のための受け身の実験を強いられたが、その効果もなく結局は資本主義への移行を余儀なくきれた、ということであった。期待を担っ て登場した市場社会主義も低効率トラップを免れることはできなかった。管理社 会主義の根幹を成す固有・中央管理・指令のセットも、ハンガリー市場社会主義 の柱を成す固有・市場・誘導のセットも、ユーゴスラヴィア市場社会主義の基幹 を成す社会有・市場・誘導のセットも安定性を欠き、低効率をもたらした。固有 にせよ、社会有にせよ、公的所有は資源配分にプレーキをかけ、それゆえにたえ ず政策および制度の変更・修正を余儀なくさせてシステム全体を不安定にし、そ の結果低効率をもたらした、といえないだろうか。 ポスト社会主義諸国が現在めざしているのは、私有・市場・誘導の組み合わせ から成る資本主義である。いうまでもなく先進諸国に制度化きれている経済体制 であるが、筆者はこれを誘導資本主義と呼んできた。誘導資本主義は1930年代の 欧米て制!度化されたが、今日に至るまでその基本構造は変化していない。すぐれ て安定的なシステムである。加えて効率的である。世界経済をリードするアメリ カやドイツや日本が誘導資本主義の国であることを思えば、このことは容易に理 解されよう。誘導資本主義が現存社会主義よりも効率的であることはいうまでも ないが、念のためにここに東西ドイツの経済実績を示しておこう。東西ドイツは、 戦後に分離独立した同じドイツ人の固なので、体制比較には格好のフィールドで ある。両ドイツは1940年代後半にほぼ時を同じくして新しい経済体制の実験に乗 り出し、東ドイツは管理社会主義を、西ドイツは誘導資本主義を制度化した。以 来40年にわたって両国は体制レースを行い、その優劣を競った。レースの結果の 一端を示すと表
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のようになる。この表は管理社会主義が誘導資本主義とのレー スに敗れたことを物語っている。東ドイツが社会主義統一党独裁の崩壊後1
年も 経たたないうちに西ドイツに吸収合併されたゆえんである。 20世紀末の現時点で判断すると、安定性と効率性の面で誘導資本主義よりもす ぐれた経済体制は存在しない。ポスト社会主義諸国は、豊かな社会をめざすとす れば、誘導資本主義を制度化せざるをえないであろっ。発展途上諸国についても 同様のことがいえる。赤い途上国の中国もベトナムも誘導資本主義への道を歩み 始めた。今後は、とりわけ市場の国際化を通して、誘導資本主義が地球的規模で ネットワークきれるであろう。 21世紀は誘導資本主義の世紀となるだろう。表1 東西ドイツの経済実績 (1989年) 西ドイツ 東ドイツ 国民総生産1) 22,500億マルク 2,730億マルク 労働生産性2) 3 l (東西比) 一人あたり平 3 1 均実質賃金2) (東西比)
出所1) K.Lau, Deutschland auf dem Weg zur Einh氾it,Braunschweig, 1990, S.64. 2) W. Hamm, Eigentumspolitik IUr Ostdeuts -chland, in ORDO, Bd.46, 1995, S.255. 最後に、以上を踏まえて経済体制の比較研究について筆者の考えるところを述 べてみたい。ソ連・東欧諸国で社会主義が崩壊し、資本主義への移行が進展する ようになって、比較経済体制論 (comparativeeconomic systems) はもはや過去の ものになったとか、体制移行に即した新しいパラダイムの構築が急務であるとか いう声が、我が国の経済学界でも聞かれるようになった。果たしてそのようにい いきれるだろうか。 筆者はドイツに伝統的な形態論の立場に立つ。この立場から「所有、相互・上 下調整の三元論j を主張してきた。所有方式、相互調整方式および上下調整方式 が経済体制の主柱を成すという説である。これら三つのものは経済体制を分類し たり、特徴づけたり、変化の方向を確定したりするきいに、主要基準として活用 される。このような筆者の説は、近年のアメリカで台頭著しい新制度派経済学や 比較制度分析 (comparativeinstitutional analysis)の立場からすれば、古色蒼然た る説に見えることであろう。だが、古きもの必ずしも拙ならず、である。 筆者の考えでは経済体制の比較研究は二つに大別される3叱 歴 史 縦 断 的 比 較 (Langsschnittvergleich)と歴史横断的比較 (Querschnittvergleich)である。発生史 的に見れば前者の方が古い。 19世紀のドイツ歴史学派がその代表である。後者は
現存社会主義が定着した20世紀の半ばに盛んになった。歴史横断的比較はさらに 二つに区別される。静態的比較(staticcomparison)と動態的比較 (dynamiccompari -son)である。静態的比較は時聞を一定の時点または一定期間に固定しておいて複 数の経済体制を分類したり、各経済体制の特徴を明らかにしたり、各経済体制の パフォーマンスを計量的に比較したりしようとするものである。動態的比較は時 間の経過の中で複数の経済体制がどのように変化しているかを確定しようとする ものである。つまり、経済体制の変化の内容とその方向の確定がその任務となる。