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反故になった市場社会主義

ドキュメント内 移行経済の研究 : 理論と戦略 (ページ 35-55)

東 ド イ ツ 最 後 の 経 済 戦 略 一 一

I 実 験 場 と し て の ド イ ツ

20世紀のドイツは経済体制の実験場であった。実験の多様性と可変性において ドイツは他の国々をはるかに上回っている。第1次大戦の戦時統制経済の実験、

1933年以降の国家社会主義の実験、 1945年以降の東ドイツにおけるソ連型管理社 会主義の実験と西ドイツにおける社会的市場経済 (SozialeMarktwirtschaft)の実 験、1990年以降の東ドイツにおける管理社会主義から社会的市場経済への転換が、

100年にも満たない聞に次々と展開されたのである。

ことに第2次大戦後の実験は劇的でルあった。管理社会主義と社会的市場経済の 実験が同時並行的に展開きれ、双方の体制的優劣が試された。体制レースは管理 社会主義の定敗に終わった。それは19905月に東西ドイツ聞で締結された「通 貨・経済・社会同盟」条約に如実に示されている。この条約の第1条3項で西ド イツの社会的市場経済が両国共通の経済体制と規定されたからである。

1989年の東欧革命の波は東ドイツにも押し寄せ、この年の10月以降ドイツ社会 主義統一党 (SED)の威信は急速に低下し、社会主義は崩壊の危機に見舞われた。

体制危機に直面した SEDは121日に憲法から党の指導的役割の条項を削除 して一党独裁制を放棄し、他政党との連立で政権の維持を工作するかたわら、 12 月7日には「もう一つの民主主義的社会主義のために」という政策文書を公表し て社会主義体制の存続を図ろうとした。政治の民主化と市場経済の導入で難局を 乗り切ろうとしたのである。

社会主義の生き残りと政権の延命のために SEDが採択した経済戦略は、社会 主義的市場経済川sozialistischeMarktwirtschaft)、つまり市場社会主義の道であっ た。ソ連型管理社会主義から市場社会主義への転換がめざされたのであるが、こ の戦略は周到な準備のもとにあらかじめ構想されていたものではなかった。ポー ランドを震源とする東欧革命のドミノ衝撃波の直撃を食らって大味てに立てられ

た策であった。それが証拠に SEDは1989年10月の「穏やかな革命」までソ連型 管理社会主義の路線を放棄する素振りをまったく見せていなかった。経済界の指 導者たちは次のように豪語しさえしていた。「これまで中央計画・指導を否定的に 評価する意見はなかった。それを官僚主義と同一視するのは帝国主義イデオロ ギーの仕業であった。中央指導・計画・民主集中制は我が国では評判がよい。こ れらは、我々のもっとも重要な歴史的成果の一つである

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。それだけに、シュル ツ(W.Schulz)の指摘するようにへ 1989年秋まで市場経済の導入に関する政策プ ランは用意されていなかったのである。

今から振り返って見ると、管理社会主義の実験に行き詰まった国は最後の拠り 所として市場社会主義に活路を求め、追いつめられてはいたが曲がりなりにも主 体性をもってその実験に乗り出した。 1960年代末のハンガリーしかり、 1980年代 前半のポーランドしかり、 1980年代後半にペレストロイカに乗り出したソ連しか りであるべ東ドイツの場合は事情が異なる。この国の管理社会主義が行き詰って いたのは確かだが、そのゆえに SEDは主体性をもって市場社会主義をめざした のではない。むしろソ連・東欧の民主化と市場化の波に追い立てられる形で一一直 接には1989年の10月初旬に東ベルリンへやってきたコやルパチョフ (M.Gorbachev)に強 要きれて一一市場社会主義の選択を余儀なくされたのである。 SEDの存亡をかけ

た背水の選択であった。

SEDの市場社会主義プランは、具体性に乏しい面もあるが、その大枠のところ で、は一つの際立つた特徴が見られる。自前のプランではなく、他国のモデルの輸 入という特徴である。輸入先はどこか。ハンヌゲリーであるというのが筆者の答え である。本章でこのことを論証してみよう。

11  三つのビッグパン

第2次大戦後のドイツでは半世紀にも満たない聞に経済体制の転換が三度も行 われた。西ドイツにおける国家社会主義から社会的市場経済への転換、東ドイツ における国家社会主義から管理社会主義への転換、東ドイツにおける管理社会主 義から社会的市場経済への転換で込ある。

これらの体制転換に共通するのは、第1に敗戦または政治革命という異常事態

のもとでの体制転換であったこと、第2に体制転換は急進的かっ短期間に行われ たこと、つまりビッグパンであったこと、である。

2次大戦の敗北は両ドイツに大胆な体制転換の機会を与えた。ソ連に占領さ れた東ドイツでは19455月の敗戦以降にソ連をモデルにして管理社会主義への 転換政策が展開きれた。1945年の年央以降に100ヘクタール以上の地主所有の土地 の無償国家収用、独占企業・戦争犯罪者・ナチ活動分子の財産没収などが矢継ぎ 早に行われ、 1948年半ばには固有制度の建設が基本的に完了した。資源配分シス テムの面でも19482月に計画機関たるドイツ経済委員会が設置され、物財バラ ンスによる需給の調整方式(中央管理経済)と計画課題の義務的指標による実施と いう指令方式が制度化された。固有、中央管理経済、指令方式という管理社会主 義の骨格は1948年末には出来あがっていたと見てよい。

アメリカ、イギリスおよびフランスに占領された西ドイツでは、 19466月の 通貨改革を皮切りにして、 ドラスティックな体制転換政策が展開きれた。これを 指導したのはエアハルト(L.Erhard)であったが、かれは周囲の反対を押し切っ て経済の自由化を断行した。通貨改革に引き続き、 1948年中に物価・賃金統制や 物資の割り当て制が廃止され、財政面や金融面での統制経済方式が撤廃きれ、国 家社会主義の痕跡はほとんど一掃された。「西ドイツにおける1948年の通貨改革・

経済改革は、国家社会主義の戦争経済をラデイカルに破壊した」めというシュナイ ダー(J.Schneider)の指摘は誇張ではない。国家社会主義のスクラップと同時に 社会的市場経済(私有+市場経済+誘導+社会政策)の制度化が急ピッチで行われ た。「革命的変化J6)(revolutionarer Wandel)と呼ぶにふさわしい劇的な体制転換 であった。

革命的転換は1990年にも訪れた。この年の3月18日に東ドイツで実施された総 選挙でキリスト教民主同盟を中核とする連立政権が誕生すると、この国の経済体 制は予想、をはるかに超えるスピードで変化した。新政権は5月18日に西ドイツ政 府との聞に「通貨・経済・社会同盟」条約を締結し、社会的市場経済への移行を 決めた。この条約は7月1日に発効し、東ドイツ経済の西ドイツ化が開始された が、この動きは103日のドイツ統一(つまり東ドイツの消滅)によって加速され た。管理社会主義の柱を成した中央管理経済と指令方式は直ちにスクラップきれ、

もう一つの柱である固有企業体制も信託公社 (Treuhandanstalt)主導の私有化政 策によって1994年末にはほぼ解体された九管理社会主義のスクラップは1994年 末には事実上完了したと見てよい。

三つの体制転換の聞には違いもある。ここでは主要なものを二つ指摘しておき たい。ひとつは国家社会主義との連続と非連続である。東ドイツはソ速をモデル にして管理社会主義を制度化した。タールハイム(K.C.Thalheim)とリュッゲ(F. Lutge)は、この事実をもって、東ドイツの管理社会主義とナチの時代の国家社会 主義との聞には連続するものがないと見た九これに対しシュナイダーやヴ、イン ケル (H.Winkel)は、東ドイ、ソがソ速に倣ったのは事実だとしても、その中央管 理経済システムの形成にさいしては国家社会主義時代の経済管理方式を手本にし たと見るへ筆者は連続説の方が事実適合的であると考える。国家社会主義時代の 価格・賃金統制、物資の割り当て、国家指令などの中央管理的手法は東ドイツに 引き継がれたのである。これに対し西ドイツでは、上述のように、国家社会主義 の破壊が行われた。国家社会主義と社会的市場経済の聞に連続性はないと見るべ きである。

もう一つの違いは、体制転換にさいしての設計図の有無である。西ドイツには 社会的市場経済の設計図があった。しかも基本構想はすでに第2次大戦中に準備 されていた。その作成を担当したのは、反ナチズムの拠点であったフライブルク に結集した経済学者や法学者であった。フライブルク大学の「エルヴPイン・フォ ン・ベッケラート研究会

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(Arbeitsgemeinschaft Erwin von Beckerath)にはドイ ツ各地から反ナチズムの立場を取る学者か敬多〈参加し、 19433月から1944

9月にかけて戦後ドイツの新しい経済体制の見取り図を描いた。デザイナーには 戦後西ドイツの経済政策を理論面および実践面で指導したベッケラート、オイケ ン(W.Eucken)、ボェーム (F.Bδhm)らが名を連ねている10)。戦後になると、こ の見取り図をベースにしてさらに彫琢が加えられ、最終的に社会的市場経済とい う名の体制プランができあがった11)。このプランは経済相ェアハルトと彼の次官 を務めたミューラー・アルマック(A.Muller‑Armack)のリーダーシップのもと で制度化された。

東ドイツには西ドイツに匹敵するような独自の体制プランはなかった。敗戦当

時に体制転換の任にあたったドイツ共産党 (19464月に社会民主党と合同して SEDとなる)は、ソ連をモデルにし、国家社会主義の遺産を継承して管理社会主 義の建設に着手した。「東ドイツの経済政策的実験は理論の下支えなしに行われ たJl2)といわれるゆえんである。

東ドイツ史の最終局面にも独自の体制改革プランはなかった。そもそもこの国 には体制改革を許容するような政治風土も知的風土もなかった。社会主義統一党 はマルクス・レーニン主義に忠実な党であり、その内部にはいわゆる改革派は存 在せず、ほぽ一枚岩の結束を誇っていた。ハンガリーの社会主義労働者党のよう にプラグマテイズムを容認するような党ではなかった。経済学界は党から厳しい 言論統制を受け、経済学者は党の経済政策のプロパガンディストになることを強 いられ、それを批判することは許きれなかった。雪解けのフルシチョフ時代に、

ハンガリーやチェコスロヴァキアやポーランドのエコノミストは欧米の大学に短 期留学できたが、「東ドイツ人は自国よりもよりオープンな知的風土のあったソ連 に出かけたJl3)といわれる。 1969年には経済学研究科学会議が設立され、経済学研 究に対する党の統制・指導が強化された。経済学界は1989年10月の「穏やかな革 命」までマルクス教条主義一色であり、ソ連やチェコスロヴ、ァキアにあったシャ ドウ・エコノミックス (shadoweconomics)の世界14)すらこの国には存在しなかっ たといわれる。このような政治風土と知的風土の中では改革経済学が登場する余 地はなかった。「穏やかな革命」から1990年3月の総選挙で政権を失うまでSED は市場社会主義を提唱したが、それは借り物であったために国民の支持を得るに は至らなかった。SEDの後を襲ったキリスト教民主同盟政権はこのプランを継承 することなく、早々と西ドイツの社会的市場経済の導入に踏み切ったのである。

ドラスティックな戦略転換

東ドイツはソ連圏の優等生といわれた。ソ連に忠実であり、一党独裁の政治が 安定し、経済が好調で、あると見られていたからである。しかしその東ドイツでさ えも、実態のほどは経済面で深刻!な問題を抱えていた。東ドイツの科学アカデミー が出していた経済誌 防的ciftswissenschaft"の編集部は、 1980年代末当時の経済 的困難として不均衡、不十分な競争力、価値・価格関係の歪み、財政赤字、マネー・

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