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明治期における日本の公的医療制度とエルトゥールル号 : 明治23年のコレラ禍における外国人感染対応事例 利用統計を見る

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ル号 : 明治23年のコレラ禍における外国人感染対

応事例

著者名(日)

三沢 伸生

雑誌名

東洋大学社会学部紀要

43

2

ページ

149-171

発行年

2006-02

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003015/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

明治期における日本の公的医療制度とエルトゥールル号

:明治 23 年のコレラ禍における外国人感染対応事例

Japanese official medical care system in the Meiji Era

and the Ottoman Battleship Ertuğrul

: The case study about the medical cares to the

foreigners infected with cholera (1890)

三 沢 伸 生

Nobuo MISAWA

はじめに

 1890(明治23)年9月に勃発した「エルトゥールル号事件」は、約500名の外国人死者を出した、 日本における初めての大規模外国船海難であった。(1)しかしながら日本においてはトルコ共和国と の外交史においてわずかに言及されるだけで、国内各所に保管される関係史料の探索・整理もされ ることなく長らく放置されてきた。そこで筆者は管見の及ぶ限り、日本とトルコ共和国の双方にお いて関係史料の発掘を行い、外交史あるいは災害史研究の見地から、「エルトゥールル号事件」の解 明に当たっている。 (2)  災害史研究の見地からすれば、「エルトゥールル号事件」において日本の公的医療制度として設立 されて間もない日本赤十字社が、生存者救済にどのような活動を展開して、それ以後の外国人罹災 者救済においていかなる教訓を得てきたのか重要な研究課題となっている。一方、明治時代に設立 されたばかりの近代的な公的医療制度とエルトゥールル号との関係は、上述のような事件発生後に おける日本赤十字社の活動だけにとどまるものではない。実はエルトゥールル号がまだ日本に停留 していた際にも日本の公的医療制度との接点が存在するのである。それは当時の日本に蔓延してい たコレラ禍にかかわるものである。エルトゥールル号は1890(明治23)年5月の下旬に長崎に入り, 神戸を経て6月の初旬に横浜に到着した。エルトゥールル号に1 ヶ月遅れて6月下旬に長崎県に発生 したコレラ禍は短日のうちに日本中に拡大していった。そして7月中旬、横浜停泊中のエルトゥール ル号においてもコレラ感染者が発生したのである。こうして外国船のコレラ感染に対して、 日本の 公的医療制度が急対応を迫られることとなったのだった。

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 エルトゥールル号乗組員のコレラ感染については、発生の事実は今までも知られてはいたが、そ の詳細については不詳であった。本稿は、宮内庁所蔵の旧宮内省文書ならびに当時の新聞や医療関 係逐次刊行物を主たる史料として分析しながら、エルトゥールル号におけるコレラ禍の発生から収 束に至るまでの過程を、日本の公的医療制度との関係の枠組みから明らかにしようと試みるもので ある。

1.史料とその性格

 エルトゥールル号において発生したコレラ問題に関する基本史料は、文書史料と叙述史料とに大 きく2分される。  文書史料としては、宮内庁書陵部に保管される旧宮内省外事課文書である、『外賓接待録(式部職)』 (明治23年)が筆頭に上がる。従来の「エルトゥールル号事件」研究において活用されることがなかっ た同文書は、日本に現存する関係公文書史料の中で最も重要なものである。それは外交史料館・国 立公文書館・防衛庁防衛研究所に保管される公文書を裏付ける公文書が収蔵されるばかりか、同文 書にしか収蔵が確認されていない公文書を多数含むからである。本稿が扱うコレラ問題についての 公文書も同文書にしか所蔵が確認されないものであり、エルトゥールル号におけるコレラ問題に関 する第一級の史料である。  具体的には、同文書の、第八號「土耳格國軍艦ニ乕列拉病発生ニ付慰問竝答辨報告等」である。 これには7月26日付けおよび10月30日付けで宮内省に宛てられた神奈川県知事浅田徳則の報告書をは じめとする神奈川県庁から宮内省に充てられた報告書・電報の写し、宮内省から長浦消毒所に留め 置かれた日本特派使節たるオスマン・パシャに宛てられた電報の写しなどが含まれている。なかでも 10月30日付けの神奈川県知事の報告書は事態の推移を詳細に記したもので極めて重要である(図1-1 ∼4)。後述する新聞においてもコレラ患者の推移をある程度把握することが可能であるが、同報告書 には下痢患者表及び不健康兵停留所出入表も付せられ、2ヶ月間弱も留め置かれた状況をよく理解 することができる。  叙述史料としては、何より当時の日本社会の動向を示す基本史料である新聞が最も重要である。 筆者は従前より当時に刊行されていて、現在図書館などの公共機関において原紙が保存されている 当時の主要新聞15紙を分析してきた。すなわち、東京で刊行されていた『郵便報知新聞』・『東京朝 日新聞』・『やまと新聞』・『読売新聞』・『改進新聞』・『朝野新聞』・『日本』・『時事新報』・『毎日新聞』・『東 京日日新聞』・『東京中新聞』・『国民新聞』、大阪で刊行されていた『大阪朝日新聞』・『大阪毎日新聞』・ 『東雲新聞』である(東京・大阪ともに1890(明治23)年当時の発行部数が多い順に列記)。 (3)今まで はエルトゥールル号事件発生後の分析を行っていたが、本稿では後述するように、エルトゥールル 号においてコレラが発生した7月18日からエルトゥールル号事件が勃発の報道が現れる前日にあた る9月18日までの2ヶ月を対象とする。

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 さらに叙述史料として重要なのが、医療関係の専門逐次刊行物類である。新聞を筆頭に大きな賑 わいを見せていた当時のメディア状況において、一般に向けた大衆誌と並んで様々な分野で専門誌 が刊行されていた。明治10年代以降、なかでも西洋の最新医療制度を精力的に吸収していた日本の 医療関係者たちが情報を交換すべく様々な医療専門誌を刊行していた。その中でも以下の5誌にエ ルトゥールル号関係の記述を見出すことができる。  ① 『中外医事新報』1880(明治13)年創刊  ② 『大日本私立衛生会雑誌』1883(明治16)年創刊  ③ 『東京医事新誌』1877(明治10)年創刊  ④ 『医事新論』1880(明治13)年創刊  ⑤ 『衛生新誌』1889(明治22)年創刊  これらのなかでもコレラがかかわる公衆衛生に関係してくるのが、『大日本私立衛生会雑誌』と『衛 生新誌』とである。  大日本私立衛生会は明治初期のコレラ流行を契機として政府の衛生促進政策に即しながら1883(明 治16)年に設立された半官半民の団体である。初代会頭の佐野常民は日本赤十字社の設立者でもあり、 日本における近代的な公的医療制度に深く結びついている。1931(昭和6)年に財団法人日本衛生会、 戦後に財団法人日本公衆衛生協会へと受け継がれて今日へ至る。後述するように、エルトゥールル 号に発生したコレラ問題の解決を関しても大きな役割を果たす。  かたや『衛生新誌』は、ともにドイツに留学して衛生学を吸収してきた、文豪の森鴎外こと森林 太郎、ジョン万次郎こと中濱万次郎の長男の中濱東一郎らが創刊した同誌は、森を中心にして日本 に公衆衛生を確立することを使命としていた。 (4)

2.エルトゥールル号におけるコレラ発生から長浦消毒所への回航まで

 明治維新以降、日本は何度となく大きなコレラ禍に見舞われている。(5)1890(明治23)年のコレ ラ禍は6月27日に長崎県下において発生したコレラ患者を端緒とする。長崎に派遣された東京衛生試 験所所長の中濱東一郎によれば感染源は特定に至らないものの、初の患者が香港から米を搭載して 長崎に入港したドイツ船の人足として従事していることから外国からの感染が疑われるものの確証 に至ってはいない。(6)コレラ禍は長崎県に止まることなく、九州、本州へと拡散し首都東京に迫る 勢いであった。  以下、『外賓接待録(式部職)』(明治23年)に収蔵される神奈川県庁から宮内省に宛てられた「土 耳格軍艦虎列刺病消毒處分概要」の記録に基づいてエルトゥールル号におけるコレラ発生から長浦 消毒所への回航までの事態の推移を整理する。 (7)

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 日本社会全体がコレラ禍に悩まされている最中の7月18日に、エルトゥールル号乗組員であるアブ ドゥッラー(Abdullah)という水兵が、横浜市内を日中に散策して午後4時頃に帰艦した後、にわ かに容態が悪化してコレラを発症し、午後11時に死亡した。ほぼ同時期に横浜市内において日本人 コレラ患者の発症例が確認されるが、この水兵の感染経路は特定されていない。  19日朝になって、エルトゥールル号乗組員の士官1名が横浜外国人居留地警察署に出頭して、昨日 の顛末を報告した。宮内省の山内外事課次長に宛てられた横浜発の差出人日高(海軍の日高壮之丞 か?)名義でもってコレラ発生を知らせる電報が10時35分発であることから、この時間までに日本 側はエルトゥールル号におけるコレラ発生の事実を把握していた(図2-1を参照)。  外国人居留地警察署から神奈川県庁へと連絡がなされ、三橋書記官をはじめとする吏員たちと神 奈川県庁御雇外国人医で山手海軍病院医士・検疫委員のドクトル・ウィラーがエルトゥールル号へ と急派された。彼らが死体を検分したが、石炭酸水で消毒されていた。県庁側は、日本の法に基づ いて死体を火葬することと、エルトゥールル号を長浦消毒所に回航して消毒法を施すことを勧告し たものの、エルトゥールル号側はイスラーム教の教義に基づき死体の火葬を拒絶して水葬を希望し、 エルトゥールル号の長浦回航も本国オスマン朝の訓令にないこととして拒絶した。この回答に対し て、神奈川県庁はウィラーの意見に基づき、死体を充分に消毒した上で厳重に包んで観音崎灯台か ら約8マイル離れた地点に水葬することを認めた。コレラ患者の死体とは別に赤痢で死亡した乗組 員1名の死体もあり、両死体を県庁所属のボートに乗せ、検疫官とエルトゥールル号の士官2名・ 水兵15名でもって水葬に赴き、長浦消毒所において充分に消毒法を施して帰還した。この行動が後 に、日本社会において水葬の是非をめぐる混乱を招くこととなる。長浦への回航が拒絶されたため に、県庁側は横浜港において消毒法を施した上で、午後になって患者発生した場合にのみ連絡のた め士官数名が上陸することを例外として、乗組員の上陸を禁じた。後述のように横浜港に停留して いた外国船の何隻かはコレラ感染を恐れて、この日の午後に出港していることから、エルトゥール ル号におけるコレラ発生は即日、横浜港ならびに外国人居留地に知れ渡ったものと判断される。  翌20日、午前中は何もなかったものの、午後3時になって士官が上陸してきて2名の軽症コレラ 患者の発生の事実を急報し、検疫官の出張を要請してきた。県庁側は三橋書記官とウィラー、さら に横浜十全病院の廣瀬佐太郎医学士を派遣して検分させた。この結果、コレラ感染の疑いのある患 者は5名に及び、もはやエルトゥールル号艦内におけるコレラ蔓延は紛れもなく、特使オスマン・パ シャ(Osman Paşa)に対して長浦消毒所へ回航して消毒法を施すことが強く勧告された。事態こ こに至り、オスマン・パシャは明21日にエルトゥールル号を長浦へ回航することに同意した。  21日にエルトゥールル号が長浦に到着すると、昨日のうちに1名が死亡していた。この死者も以前 と同じく水葬された。この死者とは別に既に10名のコレラ患者が確認された。  こうして長浦消毒所において、日本の公的医療制度に基づきながら、エルトゥールル号に発生し たコレラへの対応策が講じられていくこととなる。

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3.長浦消毒所における対応措置

①第1回消毒法(7月 21 日∼ 22 日)

   エルトゥールル号が長浦消毒所に到着するや否や直ちに第1回消毒法が実施された。  神奈川県の記録によれば、乗組員のうち無慮すなわち非コレラ患者は565名である。この数字が全 く正しいものとするならば、21日の時点でコレラ患者は10 ∼ 12名である(報告書本文には患者は死 亡1名を含んで11名と記されるが、付表では21日付けで旧患者11名と新患者1名で12名を数える)こ とから、21日現在のエルトゥールル号乗組員総数は575 ∼ 577名という計算になる。(8) 「エルトゥー ルル号事件」において、常に問題とされるのが事件の犠牲者の人数である。確たるは事件の生存者 69名のみで、犠牲者数については確定できない。小松が指摘するように、イスタンブル出航時にお ける乗組員数も確定できないし、1年以上の航海途上において乗組員の変動があったか否かを確定す る史料がないからである。 (9)しかしながら神奈川県の記録は検疫にあたっての公的な記録であるだけ に、信用度は高いものと思われる。それでも、22日に視察に訪れた中濱東一郎は、エルトゥールル 号の乗組員はイスタンブル出航時は580人、現在は560人と記しており、上記の数字とはかみ合わな い。 (10)  まず医員立会いの下に診察が施され、患者は隔離室(避病院)に、疾病者および衰弱もしくは下 痢を発している乗組員38名が消毒所の停留室(停留所)に隔離された。無慮の乗組員たちは何度か に分けて上陸させて入浴させ、消毒が終わった者を上甲板に移した。艦内は複数個所に区分の上、 徹底的に消毒された(消毒の具体的方法については巻末の図1-1∼4を参照)。  こうして22日午後4時まで、第1回消毒法が展開された。  同じく22日、東京より中濱東一郎が横浜・横須賀にエルトゥールル号のコレラ検分のために東京 から派遣された。新橋を午後2時20分発の汽車に乗った中濱はまず横浜に向かい、十全病院に赴いて 院長ならびにエルトゥールル号検分にあたった廣瀬医学士と面会し、廣瀬の作成したプレパラート からコレラ菌を確認した。続いて中濱は廣瀬医学士と十全病院の吉益医師を伴い、午後7時40分発の 汽車で横浜をたち、午後9時に横須賀に到着して9時半には長浜消毒所に到着した。本人の弁では楽 隊某と面談して事情聴取し、停留所および隔離室を視察している。  翌23日には、エルトゥールル号から上陸してきた特使オスマン・パシャならびに1等医のフス ニー・ベイ(Hussuni Bey)の求めに応じて停留所の事務所内休息室でフランス語でもって情報交 換と消毒法について議論している。また午後2時には中濱はエルトゥールル号に乗艦して視察を行っ ている。  24日も中濱は朝7時半から精力的に視察を行い、隔離室の患者8名、停留所の57名を調査している。 午前中にオスマン・パシャに再度面会して、横浜経由で午後に帰京し、直ちに内務省に赴いて衛生局 長と面談し、東京衛生試験所に立ち寄っている。  中濱はこののち7月25日夜に開催された大日本私立衛生会の臨時常会において、この際の視察につ

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いて報告し、後述する水葬問題の沈静化などに功をあげることとなる。

②第2回消毒法(7 月 29 日)

 第1回消毒法を実施してからも新たに患者が発生することから、2回目の消毒法が実施された。規 模としては、第1回消毒法に準ずるものであるが、それでも患者数の軽減に効果をもたらすものでは なかった。  ここにおいて全乗組員を全て陸地に上陸させて、艦内の徹底的な消毒を行うことが企画された。 しかしながら、過去に例のない大規模消毒法となって莫大な費用がかかるために、中濱を動かして 内務省に働きかけ、政府に稟議を依頼し、政府から中央衛生会に審議を委託する手順をとった。そ の結果、8月2日午後1時から中央衛生会の臨時会が開催され、2時間半に及ぶ審議の末に、大消 毒法の実行が決定された。実施に先立って、佐々木東洋、エルドリッチ、高木兼寛、長與専斎、石 黒忠悳の5名からなる調査委員が選定され、調査の上、中濱東一郎を監督して実施に移される手順 が決められた。

③第3回消毒法(8 月 11 ∼ 19 日)

 日本で過去に例を見ない大規模消毒法の実施のために、準備と実施にも日数を要した。先の中央 衛生会における議決どおりに事前調査がなされて具体的方針が定められていった。  この大事業は医学界からも注目を集めて『大日本私立衛生会雑誌』にも中外彙報欄にその方針が 以下のように要領よくまとめられている(具体的手順と詳細については図1-1∼4を参照のこと)。(11) 一.艦内は総て石炭酸水(二十倍)を灌注すること 一.前法の如く石炭酸水を慨きて二十四時間の後尚を熱湯を以て艦内を洗浄すること   尚熱湯を灌くは艦内火災の節使用する水管を用ゆ 一.敷物、衣嚢、釣床は陸揚の上熱気消毒を行ひたる後艦内健康者をして之を日光、大気に曝 露し充分乾燥せしむること 一.食器は総て煮沸すること 一.兵器、木具類は総て石炭酸水(二十倍)を以て洗浄すること 一.大砲は石炭酸水にて拭ふこと 一.船底の溜留水には昇汞水(二十倍)を灌注し善く混合し二十四時間放置したる後舊水を汲 出し更に海水を加へて汲出し八九回反覆すること 一.艦内水槽は之に熱蒸気を通して数回沸騰するに至らしむこと

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一.庖厨は熱湯を以て消毒すること 一.前法に随て消毒したる各器具は停留所に留め置き本艦消毒済の上充分乾燥せる後之を艦内 に移すこと 一.便所は特別に消毒法を行ふこと  大方針が定まると、中濱と神奈川県の曽根衛生課長を監督として一大消毒法が実施に移された。 しかし約600名の乗組員を一度に陸上にあげることは不可能であり、甲乙丙に三分割して漸次陸にあ げる方策がとられた。  実施期間中にも新患者が出て、消毒法を揶揄するむきもあらわれたが、日本の公的医療制度の中 で初の大規模消毒法は粛々と実行されていった。  エルトゥールル号の長浦での隔離・消毒には莫大な費用がかかった。神奈川県庁の報告書によれば、 7月21日から8月20日までの1 ヶ月間の消毒に要した費用は2,500円に達した。この膨大な費用をエル トゥールル号側に請求する否かについては様々に議論がなされた上で、最終的には天皇への勲章奉 呈のため来航したのだから国賓の礼をもって取り扱うべきとして、日本政府が負担することが第3 回消毒法の実施中に決せられた。 (12)  第3回消毒法の完了にともない、8月20日にはエルトゥールル号に航海交通の許可が与えられた。 それでもエルトゥールル号はそのまま長浦に停泊を続ける。それは大規模消毒法の実施にともなっ て艦内に充満した炭酸気を換気する必要があったことと、患者・不健康者の全治を待つためであっ た。コレラ患者は8月25日までに完治し、下痢を起していた者も9月10日には退院し、停留所に隔離 された不健康者の残る38名も9月14日には退院することとなった。一方、消毒完了後も停泊を続ける エルトゥールル号に関して、船体を破損したために出発が遅れているなどの風聞もたったが、 (13)現 存する史料からでは出発の遅れを確証するまでには至っていない。  ついに9月15日午前11時50分、エルトゥールル号は長浦消毒所から抜錨して、横浜港に戻ることな くそのまま次なる停泊地の神戸港を目指して帰国の途についた。(14)神奈川県庁はその旨を午後2時50 分発の電報でもって宮内省に打電した(図2-2を参照のこと)。

5.日本社会の反応

 1890(明治23)年に長崎に端を発して北上しつつ全国的に拡散の様相を呈していたコレラ禍に対 して、日本社会は官民あげて拡散防止のために心を砕いていた。  政府による一連の防止作業と並行して、民間においては新聞各紙が連日コレラ禍の拡散状況を詳 細に伝えながら社会全体への啓蒙・警告活動の中心的役割を担っていた。このため前述のように新 聞記事を分析することによってエルトゥールル号におけるコレラ発生に対する日本社会の反応の一 端をうかがい知ることが可能となる。

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 新聞各紙を分析すれば、エルトゥールル号におけるコレラ発生の報道は、7月20日から22日にかけ て報じられていることが確認される。早いものは、当時の東京における最大発行部数を誇る『郵便 報知新聞』、高級紙を自認して他紙との弁別を図る慶應義塾系の『時事新報』とである。 15 両紙とも 発生過程、死者の水葬、乗組員の上陸差止めとほぼ同じ内容の報道である。前述のように神奈川県 庁および宮内省が発生の事実を掌握したのが19日であり、官庁からの連絡に基づきながら各新聞社 が20日以降に報道を展開したことは、コレラ禍拡散報道に対する官民双方の即応体制が出来上がっ ていたことを物語る。また21日付の『読売新聞』は独自に掌握した情報に基づきながら、横浜港に 停泊中であったドイツ軍艦ユレセス号が早くも19日午後1時に横浜を解纜して出港した旨を報じてい る。 (16)第一報を受けた横浜居留地の警察ないしは神奈川県庁によって横浜港停泊船舶ならびに居留 地に対して何らかの警告が行われたものと推察される。  前述のように、エルトゥールル号において発生したコレラは、停泊地である横浜におけるコレラ 発症の最初期に属するものである。首都である東京へのコレラ禍拡大を恐れていた当時の日本社会 にとって横浜でのコレラ発祥事例は大いなる脅威をもって注視されることとなったのである。  『時事新報』は、20日の第一報を受けて、翌21日には以下のような、「水葬を恐る」と題する病死 体が火葬されずに水葬されたことに対する不安を記す、杞憂生なる人物からの寄書(=投書)を掲 載している。 (17) 水葬を恐る  コレラ病の長崎縣下に發したるより我等は日夜戰々競々其侵入を恐れて止まず然る處今二十日 の時事新報を閲するに昨日横濱碇泊土國軍艦エルトグロール號乗組水夫の眞症コレラ病に罹りし 死體を湾内三里以外の海中に水葬せし由記載あり神奈川縣衛生委員及び警察官等立合ひの上の事 なれば豫防には抜目なかるべしとは存ずるものの我々少しく心配の廉あり右の死體魚類の腹中に 葬らると共に病毒も魚に宿換へ致し魚類人間腹中に葬らるると共に病毒亦人身に入込む如きこと なきや如何漁獵の小舟死體の沈み居る邊を通行することもあらん其邊に錨を下して静に釣を垂る ることもあらん暑しとして水を掬して顔を洗ふこともあらん斯る時病毒波に漂ひ居りて人に傳染す るなどの處なきや如何、水葬は軍艦の規律なるべしと雖も若し以上の如き恐れあるに於ては臨機に 相當の處置ありて然るべきなり若し又斯る恐れなしことならば吾輩は早く其理由を聞て安心せんこ とを訴るものなり敢て時事新報の紙尾を借りて其道の人に尋ぬ 二十三年七月二十日杞憂生  同時期の他紙においてはこのような投書は掲載されていないが、ここに示される記述は当時の日 本社会におけるコレラ禍蔓延を危惧する不安状況をよく示したものと思われる。感染源不明のまま に東京に近い横浜において発生したコレラ事例は、天皇の賓客であるエルトゥールル号の乗組員た ちの安否を案ずるものではなく、何よりも日本へのコレラ禍拡大に対する危惧となって現れている ことが注目される。  『時事新報』は自社の社説ではなく、投書の形でもってこうした当時の日本社会の漫然たる不安を

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代弁したが、早くも翌22日には、これに呼応して社会全体に不安が蔓延するのことを未然に防ぐた めに、不憂生なる人物の次のような投書が掲載されている。 (18) 杞憂生に答ふ       不憂生  昨廿一日の時事新報寄書欄内に杞憂生の投書ありて此程土耳古軍艦乗組の水夫一人か虎列刺病 に罹りて死したるとき其屍體を水葬せしことありしを心配せられ或は魚類の腹中又は海水より病 毒を傳ふることあるべしとて其道の人に尋ぬとの一篇見えしか右は多少事實に相違したることも あれば一寸左に辨明いたすべし  右屍體を水葬せしは横濱の港内にあらず相州観音崎を距ること海上三里の洋中にて屍體は十分 消毒の上帆木綿の大袋に入れ口をしつかりと締め大なる重錘をつけて水葬したれば深く水中に沈 み決して海面又は海岸近く漂ひたよることなく又た虎列刺パチルゝスは死體中には發育増殖する を得さるのみならず水中の低き温度にては長く生存するを得ず又た屍體の腐敗を起すときは腐敗 パチルゝスの為めに滅亡せらるゝものなり加之ならず海水の如き多量の鹽類を含有する水中にて はコンマパチルゝスは迅速に死亡するを以て即ち消毒の効あるものとす去れば洋中に水葬するも 毫末も恐るゝに足らず殊に屍は強き袋の内にあれば其袋の腐敗して破損するにあらざれば屍の魚 腹に葬らるゝ様のことは萬々あるべからず又袋の敗損するには多くの時日を要すれば其間には虎 列刺パチルゝスは一疋も生存することなきは確實のみこととなり故に此度のことは少しも意に介 するに足らず生は衛生學を學ぶものなれば記して以て杞憂生に答ふ  このように詳細なる事実内容でもってコレラ禍拡散に対する民間の恐怖を抑制する内容となって いる。衛生学を学んでいるという自称と、記述内容によって水葬に許可を与えた神奈川県庁に関係 する衛生学関係者からの投書と想像される。  またこれと呼応するように同日の『郵便報知新聞』には、「魚類と猿、鼠にはコレラ無し」と題して、 某医師の話として、 …魚類は猿若しくは鼠と均しく其の活きたる間はコレラ病毒に感染せず故に縦ひ其海より捕獲せ る魚類を食するも傳染の惧れなし況んや鹹き潮水の中に沈む黴菌の発生する憂ひなし世人の心配 は無用なりと と伝えている。 (19)あまり科学的とは思えない話であるが、それでもこのような話を掲載されるほど 社会不安の情勢が危惧されていたものと思われる  しかし、『時事新報』上の投書のやり取りや『郵便報知新聞』の記事でもって、当時の日本社会に 対してコレラ死者の水葬問題に対する脅威を沈静させることができたかどうかは不明である。その ことを裏付けるように、翌23日付の『読売新聞』は続報を報じながら、「…死亡して水葬するに至ら ば其の結果に如何あるべき」と締めくくり、依然として死者の水葬に関わる危惧を表明している。 20

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 こうした社会の雰囲気のなかにあって、24日付でもって、『東京朝日新聞』は第1面の1段から2 段にかけて「虎列刺屍体海葬事件」と題して、水葬を非難する次のような長文の社説を掲げた(図 3を参照)。 (21)エルトゥールル号においてコレラ発生以来、新聞各紙のあいだで社説として取り上げ て世論に訴えたものはこれが最初である。 虎列刺屍体海葬事件  土耳其軍艦エルトグロル號に虎列刺患者發生して其屍体を水葬し爾後尚患者続發するの状況あ るより東京湾近邊の人民に一種の恐慌を來したり右虎列刺患者の屍体を國教の許さざる所なりと て火葬にせず水葬にしたる其場所は鴨居沖なり始め聞く所にては横濱港より三英里の沖なりとの ことにて人々の心配を致さしめしが後更に詳聞する所によれば即ち相州三浦郡鴨居を距事八英里 の沖合なりといふ横濱港外三英里と云に比すれば心配の度を減ずべきが如くなれども鴨居といへ るは即ち観音崎燈薹と浦賀との間にして其手前に即ち横須賀それより本牧岬となり横濱となり以 て東京に到る又其先きは松輪にして而して對岸は房州の山々富津等なり此間の海中に虎列刺患者 の死体を水葬す豈心配なき能さらんや横濱市民の如きは殊に之を憂ひ中には一切魚類を口にする ことを廃せるもあり市長并に紳商等の如きも私立衛生会員の資格を以て縣廳に質疑難問する等一 種の物議を生せりといふ蓋し無理ならぬとなり學説によれば海水中にはヨード、コロール等の鹽 類あるが故に充分パチルスを撲滅するを以て之を海中に投ずるも傳染の憂なしとのことなれども 學説に明かならざるもの多きは世の常なり安からぬ感情を起すも決して無理ならざるなり殊に先 年も學説上心配なしとて汚物を東京湾に投棄したることあり折柄時の大臣某伯爵は用事ありて横 須賀邊に赴きしに海岸の水上に異様の者の浮び居る故にこは何物なるぞと問しに是ぞ即ち虎列刺 患者の汚物なりと聞えしより大臣は以の外に憤り早速其筋の者に厳命して右汚物投棄の事を廃止 せしめたることありき彼は汚物を其儘に投棄せるなり此は重陲を附し夫々の方法を以て深く海中 に沈るなり或は同日の談にあらざらんかなれと安んぞ安からぬ感情を與へざるを得んや且又右は 神奈川縣廳の小蒸気船に係員乗組み屍体を端艇に乗せ鴨居より八英里の沖合にき始めて之を水葬 せりとのことなれと逓信省の成規によれば小蒸気船は東京湾外に出ることを得ざるなり然るに鴨 居より八英里の沖合に行たりといふは成規に違に非れば即ち辨明甚だ矛盾の嫌なき能はず一種の 物議を誘起するも謂れなきに非ざるなり況んや土耳其軍艦内尚続々として患者死者を生ずるをや 吾人は右様の學説に明かならずして果して心配なきものならんかなれども此際充分の調査を請は ざるを得ず充分調査の上に於て若し害ありと判明しなば假令土耳其國教の許さざる所なればとて 爾後は断然として之を寛假せず尚死者あらば普通の取扱法を以て之を火葬すべし若し又愈々害な しと判明なしば其旨尚人民に公示して以て其心を安からしむ可し假令學説上決して心配なしとす るも學説を知りて疑はざるもは十中一もある可らず人々の感情に於て豈或は杞憂なき能はざらん や人心をして恐々安堵する能はざらしむるは事宜を得たるもに非ざるなり況んや若し害あるに於 てをや   

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 いわば当局者に対して水葬の安全性の是非を確認してその結果を公表せよと求める論調である。  こうした風潮のなかでエルトゥールル号ばかりでなく、市内においてもコレラが蔓延し始めた横 浜の人々のなかには水葬に対して直接的な非難行動に打って出る者たちも現れてきた。上記の『東 京朝日新聞』にも神奈川県庁に人が押しかけている様が報告されているが、26日付の『やまと新聞』 によれば、前日の24日に、富裕階層の社交団体である神奈川県倶楽部員の原島、野村、武藤の3氏 が神奈川県庁に出向いて、早い段階からエルトゥールル号のコレラ問題に関与してきた三橋書記官 に面会して尋問したという。 (22)  また26日付けの『時事新報』において、局外生なる人物から不憂生を批判する「水葬の不可を訴ふ」 という次のような投書が掲載された。 (23) 水葬の不可を訴ふ         横濱 局外生  先頃杞憂生なる人あり書を貴新聞寄書欄内に投じて土耳其軍艦水兵水葬の不可を訴へたり然る に爾後不憂生なる人は之を駁して其無害の理由を陳述せりと雖も生を以て之を見れば我田へ水を 引くの僻論にして容易に信を措く能はざる者あり其言に拠れば死體は相州観音崎を距ること海上 三里の洋中に(中略)重錘を附けて水葬したれば深く水中に沈み決して海面又は海岸近く漂着す ることなし(中略)海水の如き多量の鹽分を含有する水中にてはコンマパチルゝスは迅速に死亡 するを以て即ち消毒の効あるものとす(下略)との事なれども生は毫も事實に於て之を信ぜずか つ鹽分為めにコレラ病菌の消滅する學理の存するを聞かざるなり而して該死體を三里云々の海上 に於て水葬せしが如くなれども這は果して然るや否を信ずる能はざるなり好し事實なりと假定す るも死體は或る偶然の事より重錘を離脱し海上に浮出し魚腹に入るに至らば彼の恐るべき病毒は 忽ち各處に散布して無毫を殺すの不幸を招くに至るべし而して該病菌コンマパチルゝスが鹽分の 為めに能く撲滅せらるゝとは之れ自家捏造の學説にして未だ各人の容易に知らざる處なるに斯る 事實に惑溺して続々水葬を許すに至ては實に海岸人民の為めに之を訴へざるを得ず且つ水兵の屍 體は水葬し火葬せざるは土耳其宗教の許さざる處なりと雖も斯る場合に際しては臨時特別法を用 ひ之をして火葬を行はしめ病毒を死體のみにて撲滅するよう彼我兩國の一大幸福なるべし然るに 彼れに放任して死亡者を悉く水中に葬りなば日ならずして臍を噛むも及はざるの不幸を招くが如 き事なかる可きか故に當局者は少しく顧慮して今後の死亡者をして水葬せしめず火葬の止むを得 ざるを勧誘し彼れをして之れに應せしめ禍を未發に防き沿海人民をして高架安眠に就かしむるは 是れ當局者の義務ならんと思はるゝなりされど生は該水葬者をして単に一名のみなりせば敢て 呶々せざるべきも初發より十五名の患者中慢性病死者を合せて五名の死亡者を水葬し今後同艦増 生する死亡者をして悉く水葬を許し之を不問に置く場合に於ては實に痛嘆に堪えへざるなり  投書者は不明であるが、内容から判断して、杞憂生のような一般人ではなく、不憂生と同じく衛 生学関係者と思われる。イスラーム教の戒律が火葬を忌み嫌うことを承知の上で、コレラ禍蔓延を 防ぐために冷静かつ合理的に水葬の危険性を説いている。

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 しかしながら、こうした水葬を問題視する主張は、国家を代表する公衆衛生の推進者たちの正面 切っての反論により世論の広範な支持を得るまでに大きくならずに収束していくこととなる。『東京 朝日新聞』の社説が当局者たちに求めた安全性の説明が公にされたのである。すなわち、25日に行 われた大日本私立衛生会主催のコレラ病予防演説会における中濱東一郎の演説がその役割を担った。 その演説内容の概要は、27,28日の両日にわたって『時事新報』において次のように掲載された。 24  「…又右軍艦の死亡者を水葬したることに就ては昨今世間に杞憂を抱くものある由なれども是 れは差迄心配するに足らず先づ其手續の概略お言うわんに死體に充分なる消毒法を行ふは勿論妄 りに海面に浮出でざる用心の為め頭より足に至る長さの鐵棒二本を體に結付けて其上を白木綿に て幾重ともなく覆ひ尚ほ之を堅固巨大なる袋に入れて其口を堅く閉ぢ外に脱する心配もなく又浮 出る氣遣もなくして観音崎を距る十哩餘の沖合にて五十尋の海底に葬りたれば更に又魚腹に葬ら るゝが如きことは恐くは之れあるまじく然かのみならずコレラ黴菌は死體に於て永く共生を保つ ものにあらず時を経るに従がふて死滅するものなり殊に海水は鹽分を始めとして様々の混合物あ るがゆえ是等の力も亦幾分か消毒の効用あるものとす左れば右は決して憂ふるに足らざることゝ 知るべし」  中濱の発言内容は、上記の不憂生の投書とほぼ同じ内容でさらに詳細なものである。東京試験衛 生所所長として長浦消毒所に赴いて神奈川県庁派遣の要員とともにエルトゥールル号のコレラ患者 の検分を行った中濱自身の発言であるだけに、内容がほとんど同じとはいえ、匿名の不憂生の投書 以上に日本社会に対する説得力ははるかに大きかったものと思われる。そのことを裏付けるように、 局外生の投書を掲載した『時事新報』をはじめ各紙も、局外生の主張を後押しするような世論形成 を目指すための紙面づくりを行わなくなる。社説を掲げた『東京朝日新聞』は26日付の紙面にわず か数行でもって、当局者が水葬を控えて火葬にする旨発言したと記して、以後水葬問題を論じなく なる(しかしながらエルトゥールル号乗組員がイスラーム教において忌み嫌われる火葬を容認した とは到底思われず、前述の神奈川県庁の記録をみても8月以降も水葬が行われている)。 (25)このよう に27日もしくは28日時点でもって水葬問題は一応の決着を見たのである。30日付の『東京中新聞』 の記事の中に婉曲的に依然として水葬を危ぶむ記述が見られるが、発行部数の少ない同紙では再び 世論を沸かすには至らなかった。 (27)わずかに9月9日付け『読売新聞』において、神奈川県下の金沢地 区が水葬現場に近いことから漁業が禁じられて「當今は大いに衰微の模様なりといふ」と報じられ ており、実際にはその後においても地元社会に水葬による影響が継続していたことが確認される。 (27)  水葬問題で興味深いのは、政府の政策を批判する姿勢をもって知られていた『朝野新聞』において、 水葬問題を大きく取り上げることがないことである。同様に『改進新聞』にも事実報道はあっても 非難の論調はうかがえない。また大阪で刊行されていた『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』にお いては、エルトゥールル号にコレラ患者が発生したことを簡単に伝えるだけで、続報もほとんど掲 載されず、水葬の是非を問うような記述自体存在しない。いかに発行部数で東京の新聞を凌駕して

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いるとはいえ、大阪では横浜におけるコレラ騒動に関心がなかったものと思われる。  水葬問題が一応の解決を見ると、わずかながらエルトゥールル号の長浦消毒所への隔離が長期化 に対する同情論が形成されてきた。30日付けの『東京朝日新聞』には「土耳其軍艦を慰めんとす」 と題する記事が第1面に掲載された。 (28) 土耳其軍艦を慰めんとす  彼我の親交を修めん為万里の波濤を凌ぎて一年有餘の長日月を閲し漸く來客したる同軍艦に不 幸にも艦内より悪疫を生じ長浦に退去して此炎暑の快からざる日月を消するは如何にも氣の毒千 萬なり殊に財政頗る困難にしてオスマンパシヤを始め艦長等の心配一方ならずとの評判もあり如 何にも聞捨て置くに忍びずとて横濱市民有志者は昨今市長佐藤喜左衛門氏を惣代として同艦を慰 問せんとて協議中なりと云ふ昨日一二新聞に横濱市民が同艦を長浦より退去せしめんとて神奈川 縣廳に迫らんとすとの事を掲げしが右は甚だしき誤聞にて決して去る事實なく同艦の虎列刺病が 我國人へ傳染する様の事ありては危険此上なしとは獨り横濱市民に止まらず一般に懸念する處な れ共去りとて無情にも退去を促がさんとするが如き事ある筈なく却て慰問せんとする者すらある 程なりと聞く  ここに記された横浜市長の慰問が実現したかどうか続報が見られず判然としないが、先に水葬問 題に関して厳しい社説を掲げた『東京朝日新聞』が、このようにヒューマニズムに基づく同情論の 記事を掲載したことは興味深い。しかしこうした記事は例外的である。多くの新聞は国内のコレラ 問題に汲々として、8月以降にエルトゥールル号におけるコレラ問題に関する続報の扱いは小さく なり、報道される機会も減じてくるのが一般的である。新聞各紙を分析する限りにおいて、当時の 日本社会において、エルトゥールル号にかんする関心、エルトゥールル号を介してのオスマン朝と 外国関係樹立を模索しようということはほとんどなかったのである。既に筆者が明らかにしてきた ように、エルトゥールル号やオスマン朝に対して日本社会の関心が一時的に高揚するのは、「エル トゥールル号事件」という悲劇の後のことである。

6.おわりに

 本稿で明らかにしてきたように、エルトゥールル号に発生したコレラへの対応は、日本における 近代的な公的医療制度、なかでも公衆衛生の発展に深く結びついている。エルトゥールル号は後に おこる悲劇である「エルトゥールル号事件」より前に、当時の日本におけるコレラ禍に巻き込まれ たのであり、それを救うために国家規模で展開された初の大消毒法の実施は、その後の日本におけ る検疫および公衆衛生の発展に大きく寄与するものであったのである。  その一方で、新聞を中心とする当時のメディアによって、エルトゥールル号におけるコレラ問題

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は様々な話題を提供することとなった。水葬問題を契機に、エルトゥールル号、さらには日本政府 および内務大臣管轄下にあった神奈川県庁が非難の対象になりかねない状況も生じたものの、当時 の日本社会のオスマン朝に対する興味関心の低さから危機は回避され、エルトゥールル号への言及 の度合いは減ずる一方であったことが確認された。  本稿では日本側史料の発掘・分析から、いわば「エルトゥールル号事件」の側面史を解明してきた。 日本側史料の発掘の余地はまだまだあるものと思われるが、本稿をもって日本到着以後におけるエ ルトゥールル号の顛末にかかわる大枠の整理に一応の完結をみた。今後はオスマン朝側の史料を発 掘・整理して、双方の史料を比較検討しながら研究を進めていきたい。 ※末筆ながら、平成13年以来の毎夏季休暇を利用してのトルコ共和国における調査・研究許可に 対して便宜を図って戴いております、駐日トルコ大使館(Japonya’daki Türkiye Cumhuriyeti

Büyükelçiliği)、トルコ共和国における研究機関でありますアタチュルク図書館(Atatürk

Kitaplığı)、総理府古文書総局オスマン文書館(Başbakanlık Devlet Arşivleri Genel Müdürlüğü Osmanlı Arşivi)、国民図書館(Milli Kütüphane)の皆様、内閣府中央防災会議「災害教訓の継 承に関する専門調査委員会」関係各位に感謝の意を表したく存じます。 ※本研究は、平成17年度文部科学省科学研究費基盤研究「東南アジア・中東地域の国家制定法と伝 統的秩序規範の協働関係に関する法文化的研究」(研究代表:後藤武秀・東洋大学法学部教授)の 研究成果の一部である。 註 (1) 事件の詳細については、内閣府中央防災会議(編)『1890エルトゥールル号事件』内閣府、2005年を参照のこと。 防災史の観点からの研究ではあるが、事件の全容を包括的に叙述するものである。またオスマン朝の軍艦で あるエルトゥールル号の日本訪問経緯については、小松香織「アブデュル・ハミト二世と19世紀末のオスマ ン帝国:「エルトゥールル号事件」を中心に」『史学雑誌』98-9, 1989年, 40-82頁。日本・トルコ両国において、 オスマン朝文書を渉猟しながら事件発生に至るまでの過程を克明かつ実証的に解明した研究は他に存在しな い。 (2) 拙稿「1890年におけるオスマン朝への日本軍艦比叡・金剛の派遣:エルトゥールル号遭難に対する日本社会 の反応」東洋大学社会学部紀要』39-2, 2001[2002]年, 55-78頁、同「1890年におけるオスマン朝に対する日本 の義捐金募集活動:「エルトゥールル号事件」の義捐金と日本社会」『東洋大学社会学部紀要』40-1, 2002年, 77-105頁, do, “Relations between Japan and the Ottoman Empire in the 19th Century : Japanese Public Opinion about the Disaster of the Ottoman Battleship Ertuğrul (1890)”, 『日本中東学会年報』18-2, 2003年, pp.9-19(以後、2003年-a), 同「明治時代にオスマン帝国へと渡った日本人:野田正太郎と山田寅次郎」『日 本-トルコ友好史展:アジアの西と東を結ぶ19世紀のロマン』東京:キュレイターズ, 2003年, 38-47頁(以後、 2003年-b), 同「1890∼92年におけるオスマン朝に対する日本の義捐金処理活動:日本社会にとっての「エル トゥールル号事件」の終結」『東洋大学社会学部紀要』41-1, 2003年, 57-91頁(以後、2003年-c)、同「1890 ∼

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1893年における『時事新報』に掲載されたオスマン朝関連記事:日本初のイスラーム世界への派遣・駐在新 聞記者たる野田正太郎の業績」『東洋大学社会学部紀要』41-2, 2004年, 109-146頁(以後、2004年-a),同「明 治時代の日本における外国船海難事故処理:「エルトゥールル号事件」の場合」『消防防災』8, 28-32頁, 2004年(以 後、2004年-b)、同「1890年の「エルトゥールル号事件」発生現場における初期対応:明治期の日本における 外国船難破事故かかわる災害教訓史料としての『沖日記』の重要性」『東洋大学社会学部紀要』42-1, 2004年, 95-128頁(以後、2004年-c)、同「1890年の「エルトゥールル号事件」に対する行政の初期対応:明治期の日 本における外国船海難事故にかかわる公文書史料の諸問題」『東洋大学社会学部紀要』42-2,2004[2005]年, 121-164頁(以後、2004[2005]年)。また、前掲の『1890エルトゥールル号事件』に関しても内閣府中央防災会 議災害教訓の継承に関する専門委員会分会主査としてその執筆の全般に関わっている。 (3) 各紙の発行部数などについては、拙稿2001[2002]、57-8頁を参照のこと。 (4) 森と中濱については、とりあえず、浅利三平『八雲と鴎外』翰林書房、2002年。 (5) 日本におけるコレラ研究に関しては、山本俊一『日本コレラ史』東京大学出版会、1982年。近年、アナール 派社会学の影響を受けて国際的に災害史研究あるいは疾病史研究がさかんになってきている。日本では研究 はまだまだ途上であるが、新聞を史料としてコレラを題材としながら近代京都を対象とした都市問題研究と して、小林丈広『近代日本と公衆衛生』雄山閣出版、2002年のような研究も現れてきている。 (6) 「臨時常会紀事」『大日本私立衛生会雑誌』86号、1890年、1-22頁, 1890(明治23)年のコレラ禍一般については, 山本,前掲書,74-86頁。 (7) 消毒所とは、現在でいう検疫所である。横須賀に位置する長浦消毒所は1879(明治12)年に設立され、1895 (明治28)年に長浦から横浜の長浜へと移転し長浜検疫所と称された。その後、1938(昭和13)年に横浜検疫 所と改称され、1952(昭和27)年に横浜市中区へと移転し、現在に至る。内藤智秀は、著書の中でオスマン 朝海軍文書が誤記したがエルトゥールル号が回航されたのは長浦ではなく長浜であると考える旨を表明して いる(内藤智秀『日土交渉史』泉書院、1931年、151, 178頁)が、移転の経緯を踏まえていない全くの誤解で あり、長浦消毒所が正しい。 (8) 報告書本文には患者は死亡1名を含んで11名と記されるが、付表では21日付けで旧患者11名と新患者1名で12 名を数える。報告書本文の長浦到着前に死んだ1名を含んで11名という記述が付表に正しく反映されているか どうか不明である。また21日の新患者が、無慮560名に含まれているのかどうかも残念ながら確定し得ない。 いずれにせよ、報告書はコレラ患者に関して氏名の情報が記されるが、無慮者の氏名が記載されていないの で、正確な乗組員数を確定することは難しい。 (9) 小松、前掲書、51, 53頁。犠牲者数の概算バリエーションについては、森修(編著)『トルコ軍艦エルトゥー ルル号の遭難』日本トルコ協会、1990年、104-5頁。従来の犠牲者数の算出方法は、あくまでイスタンブル出 航時の推定乗組員数から生存者69名を引いた数に過ぎない。なお、神奈川県庁の記録が正しいと仮定するな らば、長浦消毒所での隔離中の死者が11名(うち1名はコレラではなく肺結核による死亡)であり、日本出航 時における乗組員数は564 ∼ 566名である。したがって生存者69名を引けば、犠牲者は495 ∼ 497名と推定す ることができる。『1890エルトゥールル号事件』執筆時には史料の読み込みが浅く、単純に出航時563名、犠 牲者494名とした(同書、31頁)が、訂正したい。このように特定には至らなかったが、従来まで様々に推定 されていた犠牲者数よりもだいぶ少なく500名を割る人数であることまでは特定することが可能であろう。 (10) 中濱東一郎「土耳格軍艦の虎列粒」『衛生新誌』27号、1890年、1頁。ただし580,560という切りのいい数字は 正確な数というより概数である可能性が高い。また中濱は同書の中で神奈川県庁の三橋書記官を土橋書記官 と記すなどの誤記も見られ、22 ∼ 24日の約3日間だけのあわただしい滞在に際して、どこまで正確な数字を 記録しえたかはやや疑問が残る。むしろ10月末にまとめられた神奈川県庁の数字のほうが信憑性があるもの ではないかと思われるが、残念ながら確証に至らない。 (11) 『大日本私立衛生会雑誌』87号、1890年、556-8頁。 (12) 『時事新報』2748号、1890(明治23)年8月16日。 (13) 『時事新報』2773号、1890(明治23)年9月10日には、船体修繕のため横須賀造船所に依頼したものの断られ て往生しているように記されたが、『時事新報』2776号、1890(明治23)年9月13日には、横須賀鎮守府造船 部からそのような申し入れはないとの指摘を受けて取り消している。エルトゥールル号の航海過程をみれば 船体破損はありそうな話であるが、新聞記事からだけでは風聞としか判断しようがない。 (14) 今まで、エルトゥールル号は横浜から帰途についたかのように語られてきたが、間違いである。神奈川県庁 の電報からも明らかなように横浜港に戻ることなく長浦から神戸港を目指している。

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(15) 『郵便報知新聞』5286号、1890(明治23)年7月20日、『時事新報』2721号、1890(明治23)年7月20日。 (16) 『読売新聞』4702号、1890(明治23)年7月21日。 (17) 『時事新報』2722号、1890(明治23)年7月21日。 (18) 同上、2723号、1890(明治23)年7月22日。 (19) 『郵便報知新聞』5288号、1890(明治23)年7月22日。 (20) 『読売新聞』4704号、1890(明治23)年7月23日。 (21) 『東京朝日新聞』1693号、1890(明治23)年7月26日。 (22) 『やまと新聞』1138号、1890(明治23)年7月26日。 (23) 『時事新報』2727号、1890(明治23)年7月26日。 (24) 同上、2728-9号、1890(明治23)年7月27-8日。やや簡略したものは、『東京日日新聞』5628号、1890(明治 23)年7月27日。なお中濱の報告の全内容は、「臨時常会紀事」『大日本私立衛生会雑誌』86号、1890年、1-22頁。 (25) 『東京朝日新聞』1695号、1890(明治23)年7月26日。また毎日新聞によれば、神奈川県庁は横浜市民の不満 に対して22日に某衛生委員と書記官が協議した旨を雑報として伝えているが、その結果を知せる続報はない。 『毎日新聞』5892号、1890(明治23)年7月24日。 (26) 『東京中新聞』2306号、1890(明治23)年7月30日。 (27) 『読売新聞』4752号、1890(明治23)年9月9日。 (28) 『東京朝日新聞』1698号、1890(明治23)年7月30日。

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図2-1 電報①

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【Abstract】

Japanese official medical care system in the Meiji Era

and the Ottoman Battleship Ertuğrul

: The case study about the medical care for

foreigners infected with cholera (1890)

Nobuo MISAWA

The tragic shipwreck of the Ottoman Battleship Ertuğrul on September 16, 1890 off

Oshima Island showed the functions of the Japanese official medical care system in

the Meiji Era. The Japanese Red Cross showed its ability to cope with the first

large-scale domestic disaster with many foreign victims. Before this tragedy, Ertuğrul had a

cholera breakout (18 July-20 August 1890) during her official visit to Japan.

The Kanagawa Prefecture Office and the Ministry of Home Affairs swiftly offered

official medical care. The officers and doctors invited the Ertuğrul to the nearest

quarantine center at Nagaura between Yokohama and Yokosuka. The crew members

infected with cholera were isolated in the quarantine center hospital and given

medical treatment. The quarantine officers decontaminated the ship and crew three

times. The third cleanup was such a large scale that it was the first case in Japan that

required special permission from the Ministry of Home Affairs. The medical treatment

and cleanup cost a great deal of money. Yet, the Japanese government did not make a

claim against the Ottoman Empire.

Many Japanese newspapers pointed out the risk of burial at sea of dead crew

members infected with cholera near Tokyo Bay. However, after the official report of

the respected Dr. Nakahama asserting there was no risk involved with burial at sea,

few newspapers and people persisted with their concern over the risk. Public opinion

indicated little sympathy and exhibited indifference toward the Ottoman Empire.

参照

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