はじめに §1. 伝承分類、津波モニュメントと先行 研究 §2. 岩手県大船渡の津波と伝承、観光利用 §3. 奥尻島と江差の津波と伝承、観光利用 おわりに 梗概 日本は「災害列島」であり、歴史的に津 波被害が多く、関連する伝承も多い。津波 に関する伝承をみると、「津波常襲地帯」 の三陸・大船渡で明治時代以降に津波モ ニュメントが増加かつ多様化し、現在は風 化しつつあるが、祭礼と物語性のある伝承 において観光利用の意義と可能性がみられ る。道南・奥尻島と江差では異なる型の津 波であり、過去一度の被害に基づく津波モ ニュメントは風化の危機にあり、観光の場 でわずかに利用されている。伝承自体に多 くの問題を抱えるものの、津波災害の経験 知を定期的に更新し、後世に継承するため、 観光文化は有用性が高いといえる。 キーワード:伝承,津波モニュメント,津 波碑,観光利用
はじめに
日本は地震、台風、火山の噴火、長雨や 干ばつ、津波・高潮、河川の氾濫など多様 な災害が生じる、いわば「災害列島」であ る。とりわけ地震に関して地理的にも列島 で過去から多発しており、沿岸部ではおも に地震による津波被害が深刻である。沿岸 部の「津波常襲地帯」では、石碑や教訓的 格言など伝承が多数みられる。それらの中 には地域内の伝承としてだけでなく、観光 の場における伝承活動へと展開しているも のもある。 本論の目的は津波に関する伝承、すなわ ち津波にまつわる石碑や遺構、格言や無形 文化などを対象に現状と問題を分析し、津 波に関する伝承が観光の場において意義と 可能性のあることを、課題とともに俯瞰す る。 これは観光人類学の研究であり、津波工 学、防災学、災害社会情報学などと異なり、 文化人類学からみた災害(津波)と観光文 化に関する考察である。地域としては北海 道南部(奥尻島と江差)および三陸(岩手 県大船渡)に絞り、事例分析する。 研究にあたり 2017 年に奥尻島をプレ調津波モニュメント等にみる伝承と観光利用の状況分析
-道南および三陸を中心に-
中村 純子
査、2018 年には奥尻島・江差、大船渡を 調査した。本論の一次資料はこうした調査 に基づく。
第1章 伝承分類、津波モニュメン
トと先行研究
1-1 津波の意味と要因 伝承の分類の前に、津波の意味と要因に ついて多少触れておきたい。津とはもとも と舟着き場、港、人の多く集まる場所、湧 き出るものなどを意味した。よって津波と は港に入り込む波を表す。かつては海嘯と もよばれた。海嘯とは元来、海鳴り、ある いは満潮時に河口で潮波が壁状にせり上 がって入り込む現象をさす。銭塘江やアマ ゾンのポロロッカが該当し、転じて海鳴り を伴いつつも海岸に波が押し寄せる現象を 意味するようになった。他にも津浪、海立 など過去に様々な表記がなされたが、いず れも「つなみ」とよみ、三陸等ではかつて 「 ヨ ダ 」「 よ た 」 と も よ ば れ た。 な お TSUNAMI は国際語となっており1、英語、 仏語など様々な国で使われる学術用語でも ある。 津波は海底変動により生じた長波の巨大 な波(海面変動)であり、その要因に地震 や海底火山、地すべりが挙げられる。この 他に沿岸部や島の噴火に基づく山体崩壊お よび海底地すべり、隕石落下まで含まれる。 日本では地震による津波が大半であり、太 平洋プレート、フィリピン海プレート、北 米プレート、ユーラシアプレートの4つが ひしめいており、海底変動が生じやすい「災 害列島」といえる。とくに太平洋側では千 島カムチャツカ海溝、日本海溝、相模トラ フ、南海トラフといった海溝および海溝に 近い海底構造が多く存在し、プレート境界 型地震(海溝型地震を含む)が起きやすく、 地震による津波が各地で発生する要因であ る。「津波常襲地帯」として北海道東部、 三陸、土佐湾沿岸、熊野灘・紀伊水道沿岸 などが挙げられる(河田 2010:78、86-95)。 1-2 伝承の分類 ここで伝承の定義をみると、伝承とは古 くからの信仰、風習、物語、詩歌、言い伝 え等を受け継ぎ伝えていくことである。民 間伝承や民俗伝承といった言葉のように、 文化人類学では重要な研究対象でもある。 とくに語り継ぐ行為である口頭伝承ないし は口述伝承は文字をもたなかった民族の文 化(慣習)を記録したり、人々の語りとし ての「内なる意味」を把握したりする際の 言説分析の対象とされてきた。フォークロ ア(民俗学)においても同様であり、伝承 は民話・伝説から儀礼・祭礼、民具や生業 にまつわる知識など様々な生活様式まで重 要な概念である。 伝承に関して、川田順造は「後世へのメッ セージの託し方」による分類を行った。1 つ目は「滅びにくい媒体に託す」方法であ り、ピラミッドなどが当てはまる。2つ目 は「滅びやすい媒体に託す」方法であり、 ここに口頭伝承が含まれる。なお、後者は 滅びやすく、つまり永続性がないゆえに、 更新しつつ継承されねばならない(川田 2004:9-10)。 また「メッセージの伝達方法」による伝承分類もしており、口頭伝承や太鼓など音 によるメッセージを伝達する聴覚伝承、記 念像や図像資料といった視覚伝承、儀礼や パフォーマンスを含む身体伝承(儀礼伝承) の3つに分けられる(Ibid.:11)。この分 類で伝承は文献資料である文字媒体とは別 にされており、無形文化から物質文化まで 広いものを範疇としていることがわかる。 本論でも川田による伝承分類に従い、津 波の伝承に関して分析を行うことにする。 1-3 津波モニュメント 津波にまつわる伝承として、地域に伝わ る神話、民話、伝説、歌、標語のような文 言や個人にまつわる物語といった言い伝え、 石碑、造形物、建物といった遺構など、多 様な対象が挙げられる。 とりわけ石碑は津波碑ともよばれ、記念 碑や慰霊碑、供養塔などの形で沿岸部に多 くみられる。これは川田の分類では「滅び にくい媒体」に該当し、木や紙などと比し て永続性のある媒体としての石を利用し て、地蔵や如来などの仏像として造形物に したり、物故者名や津波襲来前後の集落の 様子を記したり、石版に碑文を施したもの である。 こうした石碑は過去からみられるもの の、津波碑は近年に多く、しかも多様化す る傾向がみられる。目時和哉は川島秀一に よる記念碑、供養碑という津波記念碑分類 に対して、弔意や記憶継承など一括できな い多様性があり、設置主体の動機により異 なる石碑が建立されることを示しつつ、近 代に生じた現象であるとして「近代津波モ ニュメント」とした。 単なる「記念」に留まらない、多様 な意義を内包するモニュメントを一括 して「津波記念碑」と呼称することは 誤解を招くおそれがあるため、本稿で はこれを「近代津波モニュメント」と 定義したい。 (目時 2013:33) 目時の議論をふまえて、本論において石 碑、標識、建物や造形物、石などの津波遺 構を津波モニュメントとよぶことにする。 1-4 津波とモニュメントに関する先行 研究 ここで津波およびモニュメントに関する 先行研究をみると津波史、博物館学、民俗 学の分野に散見される。「津波常襲地帯」 である東南海、三陸が事例となっており、 三陸の津波史では山下文男による一連の研 究成果が挙げられる(山下 2002・2008)。 彼は後述のように「津波てんでんこ」を普 及させた人物でもある。 北原糸子等が宮城県の津波碑を調査し、 昭和三陸地震で義捐金によって災害記念碑 が増加したことを明らかにした(北原・卯 花・大邑 2012)。また津波碑文を調査で は判読性に問題があり、回復手段として案 内板や再建などの分析が挙げられる(秋本・ 桜井 2013、秋本・桜井 2015)。目時は 明治 29 年と昭和 8 年の三陸地震津波につ いて丹念に調査し、明治三陸地震により「近 代津波モニュメント」が建立され、これは 近代的マスメディアの勃興と相まって「近 代人の津波認識」に多大な影響を与えた「極
めて近代的な津波被害の受容の在り方のひ とつ」(目時 2013:34)と述べた。そし て昭和三陸地震で津波モニュメントは増加 かつ多様化し、モニュメント建立は三陸の 人々が津波をいかに受け止めてきたかの反 映と結論した(Ibid.:41)。 津波碑のデータベースとしては、国立民族 学博物館の「津波の記憶を刻む文化遺産 寺社・石碑データベース」、国土交通省「津 波被害・津波石碑情報アーカイブ」等があ り、伝承に関しては総務省消防庁による「全 国災害伝承情報/防災に関わる(言い伝 え)」が全国を網羅する形でアーカイブ化 されている。
第2章 岩手県大船渡の津波と伝承、
観光利用
2-1 大船渡の津波モニュメント 三陸はリアス式海岸ゆえに日本でも有数 の「津波常襲地帯」であり、明治三陸地震 津波では約 22,000 人が死亡した。それ以 前にも、貞観地震(869 年)、慶長の三陸 津波(1611 年)、延宝三陸沖地震(1677 年)、 宝暦の三陸津波(1763 年)、寛政五年の津 波(1793 年)、安政三陸地震(1856 年)に よる津波被害があり、近代では明治三陸地 震津波(1896 年)、昭和三陸沖地震(1933 年)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震 災/ 2011 年)が津波を伴う地震として挙 げられる。こうした近地津波に対して遠地 津波であるチリ地震津波が何度も三陸沿岸 に押し寄せており、1960 年のチリ地震津 波の被害が記憶に新しい。 国土交通省の津波碑調査(青森・岩手・ 宮城の 3 県)によれば、約 300 基の石碑の うち、明治三陸地震のものが 120 基、昭和 三陸地震が 152 基で最も多く、両地震合わ せた石碑が 14 基、チリ地震が 14 基である (資料1参照)。県別にみると岩手県が 225 基と3分の2以上を占めており、三陸で最 も多いことがわかる。岩手県では明治三陸 地震の津波碑が最も多く、死者数とも一致 する。 また、国土交通省のアーカイブより岩手 県の津波碑を市町村別に計上したところ、 大船渡市が 65 基で最多、宮古市が 52 基、 釜石市が 39 基であった(資料2)。このよ うに大船渡市に多くの津波碑があるため、 三陸では大船渡での調査に至った。 国土交通省の先の調査における碑文分類 では、予兆、避難方法、居住地の戒めなど 資料 1 津波石碑の東北3県分布 資料2 岩手県・津波碑のおもな地域分布の教訓型が全体の 61%で最多、被害記録 が 38%、救護や復興などの美談が 1%と なっている。また同省の津波石碑情報アー カイブから三陸の津波碑の碑文(文言)を みたところ、以下のような文言が顕著で あった。 ・地震があったら高いところへ集まれ ・大地震の後には津波が来る ・地震があったら津波の用心 ・津波に襲われたらこのくらいの高いとこ ろへ逃げろ ・ここより低い所に家を建てるな ・波が異常に引いたら津波が来る ・外国地震でも津波は来る 背景として三陸沿岸はリアス式海岸であ り、津波の被害を受けやすいうえ、沖に日 本海溝があり、プレート境界に接する地理 的条件をもつ。また、遠地津波として、チ リ地震のように南アメリカ大陸沿岸の地震 津波を受けやすく、大船渡は構造上津波の 威力が増幅されやすい地形といえる。以上 のことから近地津波では海溝型(プレート 境界型)の地震津波、さらに遠地津波の危 険がある場所として大船渡市界隈があらゆ る意味で「津波常襲地域」であり、津波碑 も最多である。 大船渡の津波モニュメントは明治三陸地 震津波の碑が多い。国土交通省のアーカイ ブで立地をみると、道路沿いか寺社に置か れている。これらは津波最大到達点(津波 遡上限界ライン)を示すものが大半である。 それは先人の戒めであり、子孫への防災(減 災)への指標を示したものといえよう。ゆ えに碑文で「地震が来たらここに集まれ」 や「ここより下に家を建てるな」といった 安全な高さを示した碑が散見される。 明治三陸地震は揺れが比較的少なかった と石碑に記されている。1896 年6月 15 日 (旧暦5月節句日)、集落各家では祝いが行 われており、雨の降る夜に地震があった。 揺れは少なかったが長く続き、後に大津波 が来たため、多くは津波による犠牲者であ り、当時の綾里村(現大船渡市)だけで 1,269 人が死亡した。明治三陸地震は海溝型逆断 層 で 推 定 M8.2、 死 者 不 明 者 は 総 計 約 22,000 人である。なお、震度の割に大規模 な津波がともなうことを津波地震という (山賀 2016:127-130、吉浜教えの里プロ ジェクト 2015:42)。津波碑はこうした 被害地の遡上限界付近に設けられ、檀家制 度のもとで寺にて死者名が記されたもの、 海嘯横死者と記したもの(資料3)、そし て津波の悲惨さを伝えた碑文などがある。 資料3 明治三陸地震の津波碑
昭和三陸地震は 1933 年3月3日の節句日 に起きた。37 年前の明治三陸地震が記憶 にあったため、避難した住民も多く、岩手 県全体で死者数は 2,713 人、綾里村では 184 人と明治三陸地震と比して被害が減じ た。この地震は海溝型正断層で M8.1、死 者 数 は 3,064 人 で あ っ た( 山 賀 2016: 156、 吉 浜 教 え の 里 プ ロ ジ ェ ク ト 2015: 42)。 岩手県での昭和三陸地震による被害は明 治三陸地震と比して少なかったとはいえ、 多くの犠牲者がでており、流失家屋も多く、 朝日新聞の義捐金により宮城県と同様に多 くの津波記念碑が建立された(北原・卯花・ 大邑 2012:28、目時 2013:37、41)。 そのほかに 1960 年のチリ地震の津波被 害が大船渡でみられ、石碑および標識・看 板が遡上地点として残されている。これは 遠地津波の犠牲者が出た地域に限られてお り、宮城県の一部地域と大船渡市に石碑が 認められる。さらに 2011 年 3 月東日本大 震災による津波碑が加わり、現在では明治 以降2~3件の地震の慰霊・教訓などを示 した碑が並置されている。 津波モニュメントは目時が指摘するよう に、近代になるにつれて多様化し、現在は 石碑だけでなく、建物、電柱、木、自然石 などが大船渡にみられる。綾里では電柱に 明治三陸津波の遡上高が記録されており (資料4)、東日本大震災以前は最大津波遡 上高の 38.2m であった。また、越喜来では 明治三陸津波・昭和三陸津波・東日本大震 災の津波を越えた大ケヤキ、東日本大震災 を耐えた「ど根性ポプラ」が生きた樹木と して津波モニュメントになっている。同地 区では東日本大震災の瓦礫、廃材を用いた 建物「潮目」がかつて資料館として公開さ れた2。 また、吉浜では津波石が津波モニュメン トとなっている。津波石とは大津波により 運ばれた岩であり、吉浜の津波石は昭和三 陸津波によって約 200m 内陸へ押し流され た岩である。こうした自然石は南西諸島か ら東北まで各地に存在し、吉浜では「津波 記念石」と彫り込まれている。他にチリ地 震の遡上高は道路沿いの建物に看板として 掲示されており、大船渡市中心部では道路 や建物内、標識などにも多くの津波モニュ メントがみられる。 津波モニュメントの現状と問題は広域に 散らばっており、碑文が読みにくい、ある いは読み取れないものが多い点である。明 治三陸地震だけでなく、昭和三陸地震の津 波碑まで風化・劣化が激しく、なかには文 字が欠損したり、彫りが曖昧になったりし ており、判読不能である。この点では津波 碑文の調査結果と同様である(秋本・桜井 2013:612、秋本・桜井 2015:34-35)。 また、石碑の下方が苔に覆われており、ま たは汚れが激しく、文字として機能してい 資料4 津波到達を示す電柱(綾里)
ない津波碑も多々見られた。さらに漢文や 長文で難解な文章も多く、現代において若 年層はおろか、住民においても気軽に読め るものとはいえない。つまり津波モニュメ ントのなかで津波碑は当時の津波遡上限界 と慰霊の意味はあるものの、記載された戒 めの詳細はほとんど機能していない。 2-2 聴覚伝承としての「津波てんでんこ」 「滅びにくい媒体」(視覚伝承を含む)と しての津波碑でも上記のような現状と問題 が指摘されるが、次に聴覚伝承としての口 頭伝承をみると、三陸では「津波てんでん こ」が有名である。これは綾里出身の津波 災害史研究家である故・山下文男が提示し た言葉である。彼は 1990 年に田老町で開 催された「第一回全国沿岸市町村津波サ ミット」で自身と家族の昭和三陸津波体験 から示した言葉で、ここから広まり標語化 されていった。もとは「命てんでんこ」な どで「津波常襲地帯」である三陸では各自 ばらばらにという意味で「てんでんこ」が 用いられた。これは「釜石の奇跡」で知ら れるように、学校の防災教育にも利用され ている。 「津波てんでんこ」は誤解されやすい言 葉で、家族を捨てて逃げる行為として批判 されることもあった。しかし防災教育学専 門の矢守克也は、「津波てんでんこ」には 以下の4点の意味があると説いている。そ れは「自助原則(自分の命は自分で守る)」、 「他者避難の促進(我がためのみにあらず)」 「相互信頼の事前醸成」、「生存者の自責感 の低減(亡くなった人からのメッセージ)」 である(矢守 2012:37-43)。 総じて「津波てんでんこ」は日頃から災 害の対処を心がけることから始まる防災意 識であり、とりわけ「津波常襲地帯」では 常に家族や近隣者、所属組織において避難 場所や方法などを話し合い、それぞれ個別 に内面化するべき姿勢であろう。これは一 部地域の伝承にとどまるべきではなく、普 遍的な防災意識として4つの意味を含みお く必要がある。 2-3 物語性のある伝承 2-3-1 奇跡の集落吉浜 次に物語性のある聴覚伝承をみると、「奇 跡の集落吉浜」が筆頭に挙げられる。これ は集落が津波の被害に遭うたびに高台移転 し、2011 年の津波で被害をほぼ受けなかっ たケースである。吉浜は明治三陸地震で人 口の 20% 近い 204 人が死亡した(吉浜教え の里プロジェクト 2015:42)。初代村長で あった新沼武右衛門がこれにより全戸を高 台移転すると決意した。沿岸集落でおもな 生業は漁業であるため、高台居住は利便性 が低い。しかし全戸が移転したため、昭和 三陸地震の津波では 17 名が死亡したにと どまった。なお、犠牲者の大多数は新規居 住者であり、高台ではない仮住まいに住ん でいたため犠牲となった(Ibid.:32,42)。 これにより八代目村長、柏崎丑太郎がさ らに全戸高台移転させた。前回できなかっ た県道、役場、郵便局なども高台に移動し た。漁業従事者は港の番屋(漁師小屋)に 行くため、重い漁具を上げ下ろししなくて はならない苦労があった。しかし低地に再 移転する住民はいなかった。ここで低い土 地は田畑などに利用されるようになった。
2011 年の東日本大震災では集落で津波に より死亡した住民は 1 名であった。なお、 越喜来の老人ホームに入所していた吉浜出 身者 11 名が亡くなっており、吉浜の堤防 は破壊したが、被災家屋は4戸であった (Ibid.:32,34,42)。 こうしたことが同年「アエラ」に記載さ れ、「奇跡の集落吉浜」として紹介され、 後に JAPANTIMES にて海外にも知られ るようになった。 三陸では他にも明治三陸地震、昭和三陸 地震後に高台移転した集落は存在した。し かし多くの集落では漁業に従事する住民等 が再び低地に住む、津波の危険を知らない 新たな住民が低地にその後居住するなどし て、犠牲者が後をたたない状況であった3。 そうした中で吉浜は「奇跡の集落」として 注目された。こうした移転の物語は 2014 年地元吉浜中学校で演劇となった。2014 年に文化祭で上演され、防災学習としても 注目された(Ibid.:47,49)。 吉浜の事例は住民の日頃の防災意識の高 さを示すもので、防災モデル地区としての 役割を果たしている。 2-3-2 吉浜の津波石 津波石については2-1で述べたように、 津波によって流されてきた岩をさす4。吉 浜の津波石は昭和三陸地震の津波によって 湾の奥に流されてきた岩で、縦 3.7m、横 3.1m、高さ 2.1m、約 30 トンの規模の岩で ある。岩には以下の文章が彫り込まれた。 「津波記念石 前方約二百米突吉浜 川河口ニアリタル石ナルガ昭和八年三 月三日ノ津波ニ際シ打上ゲラレタルモ ノナリ重量八千貫」(資料5) 津波石はかつて集落の子供たちの遊び場 になっていたが、昭和 35 年頃に漁港整備 のための道路工事に伴い、埋められた。そ して約 50 年間地中に埋もれて、住民から も次第に忘れ去られていった。 しかし 2011 年東日本大震災による未曾 有の大津波によって、堤防や道路が破壊さ れ津波石上の表土の一部がはぎとられた。 幼少時石の上で遊んでいた住民数名が少し 地表に出た津波石を「発見」し、一部の文 字から埋もれた津波石であるとわかった。 その後、重機で掘り起こしたところ、津波 石が再び表出し、保存されることになった (Ibid.:4-29)。 こうした津波石「再発見」の物語は、震 災学習テキスト『吉浜のつなみ石』と題し た絵本になり(Ibid.)、観光スポットとし て「てくてくマップ」やホームページに掲 載されている。 2-4 身体伝承としての「権現様」 ここでは身体伝承としての儀礼・祭礼を 資料5 吉浜の津波石
扱う。 通常、権現は本地垂迹説における仏の化 身であり、神仏習合の一例である。しかし 東北地方では「権現様」は獅子舞の一種で あり、獅子による祓いの儀礼である。また、 大船渡近辺では後述のように「権現舞」と 同義でもある。「権現様」は岩手を含む東 北各地に継承される無形文化であり、郷土 芸能として注目されている。 綾里の大権現もこの一つであり、綾里駅 前の看板には人類は歴史上災害に悩まされ ており、百獣の王である獅子に厄災を祓っ てもらう儀礼とある。また「荒ぶる海の魔 (津波、嵐)を鎮め祓い、漁業と航海安全 を祈る郷土芸能5」として、津波が海の魔 物であると観光用のサイトに説明されてい る。これら魔物を祓う儀礼として獅子舞が 披露されており、綾里の大権現は獅子頭を かぶった「権現舞」で、悪魔祓い、無病息 災、五穀豊穣を祈願するものである。 1991 年に地域の活性化を目指して、「日 本一の大権現」を製作し、1996 年に日本 一大きな、動く大権現として「踊る日本一 の綾里大権現」を創作した。後者は巨大な ため、ショベルカーにより頭部がアーム操 作されるもので、五年祭や各種イベントな どで舞が披露されている。 津波を魔物とするように「津波常襲地帯」 において、天地に厄神悪魔がいて、人知を 超えた存在のため、獅子に鎮め祓うことを 託すという世界観をみることができよう。 綾里駅での説明版によれば、権現の起源は 伊勢神宮にみられ、山伏等によりこの地方 にも伝えられたとのことである。また、大 船渡市郷土芸能協会のサイトでは、山伏神 楽の演目である「権現舞」が起源であると 記されている。 とりわけ甫嶺の獅子舞は「安政年間に三 陸地方に大津波が発生し或いは凶作が相次 いだ折、山形羽黒山に住む山伏達が祈祷師 として立ち入り、荒神魂(獅子頭)を御神 体として御祭箱(御神官)に捧持してこれ を背負いこの地に持ち入れた(大船渡市郷 土芸能協会)6」と、儀礼の嚆矢が記されて おり、江戸時代の大津波と凶作の祓いが起 源であることがわかる。 無形文化に津波が悪、厄の一つとして登 場することは地元民の浄化対象として儀礼 の必要性につながる。つまり儀礼・祭礼の ような身体伝承にも津波に関する要素が包 含されるケースといえよう。 綾里の大権現の背景として、先述の明治 三陸津波地震で津波遡上高 38.2m(過去日 本一)を記録した地区もあり、綾里で津波 による犠牲者が多かったこともうかがえる。 2-5 観光利用の意義と可能性 近年、こうした津波と津波モニュメント を観光で伝承する活動が各地で盛んであ る。三陸でも各地で津波震災ガイド、語り 部ガイドが実践されており、東日本大震災 から 8 年経過した 2019 年において復興ガ イドツアーや防災学習へとシフトしてい る。 大船渡市では一般社団法人大船渡津波伝 承館が津波学習ウォークガイドを実施して いる。これは地元企業であるさいとう製菓 ㈱が主宰する津波の伝承組織である。ポリ シーは「あなたに助かってほしいから」で あり、東日本大震災後 2013 年 3 月に開館
した。被災しなかった工場にて展示と語り を実践し、延べ 3 万人が訪れた。2018 年 6 月以降は大船渡市旧駅前に開館した大船渡 市防災観光交流センター2階を利用して、 説明、展示、研修活動をしている。 津波語り部によるウォークガイドは「大 船渡つなみ学習マップ」として4コースが あり、大船渡市内、越喜来、吉浜、綾里で ある。各コース出発は駅周辺で津波や震災 に関わる場所をガイドの解説を聞きつつ数 時間かけて歩くものである。 大船渡津波伝承館によれば、語り部ガイ ドは地元および県外出身者も含めて数名で ある。2018 年 8 月末に筆者が参加した際 はゲストハウスを主宰し、語り部ガイドと して活躍する O 氏が語り部を務めた。大 船渡市ウォークガイドは午前中小雨の中、 筆者を含む3名が参加した。防災観光交流 センターにて津波到来の動画と展示解説を 受けた後、約十か所を歩いた(資料6)。 参加者は防災に関心の高い親子で「夏休み の自由研究」で数年前に訪問し、それ以降 の経過を調べるため参加した。 大船渡市には東日本大震災だけでなく、 1960 年のチリ地震津波、昭和三陸地震など の遺構もあり、数時間かけて廻った。午後 には吉浜、越喜来、綾里の津波モニュメン トを中心に O 氏の解説で巡った。国土交通 省アーカイブでは大船渡周辺に津波碑が 65 基あり、広範囲に散在するが、明治三 陸地震で被害の大きかったこの地域は寺社 を中心に多くの津波碑が認められた。 観光では奇跡の集落吉浜、大船渡市へ修 学旅行から個人客まで多くの人々が来る。 大船渡津波伝承館によると年間約 2,000 人 が研修や語り部ガイドツアーを利用すると のことである。この伝承館には地震工学専 門の研究者も協力しており、語り部に体験 だけでなく、津波や歴史、防災の知識があ り、結果的に質の高い語りとなっている。 こうした観光での伝承が地方公共団体や公 的機関でなく、地元企業の運営組織によっ て継承されていることは注目に値する。 観光での津波伝承の意義は、おもに外部 から訪問する参加者に津波の脅威と防災の 重要性、避難方法などを体感してもらう狙 いがあり、各自の居住地においても応用で きるものである。 このような観光利用は「災害列島」にお いて津波や災害から身を守るためにも、被 災地域の過去の教訓に学ぶことを目的とし て、大勢の人々に忘却させない効果と防災 意識を高める可能性をもつといえよう。 資料6 大船渡市のウォークガイド
第3章 奥尻島と江差の津波と伝
承、観光利用
3-1 奥尻島の津波モニュメント 奥尻島は北海道南部の渡島地方に属する 島である。主産業は漁業であり、イカやホッ ケ、ウニなど良質な海産物を産する。夏場 には海水浴や釣りなど観光で人々が訪問 し、奥尻と函館間に航空機が、奥尻港と江 差間にフェリーが運航している。歴史的に は縄文時代から人が居住し、擦文時代には オホーツク文化も交錯する文化圏であった ことが発掘からわかっている。松前藩の高 祖が漂流の末、一時的に居住していたこと もあり、アイヌが季節限定で交易のために 漁をしていた。江戸時代に硫黄鉱山で賑い、 以降居住者が増加し、漁業などで昭和初期 に活性化したが、現在は過疎化と高齢化が 進んだ島となっている(奥尻町編さん委員 会編 1969)。 奥尻島は 1983 年の日本海中部地震によ る津波で死者2名であったが、1993 年北海 道南西沖地震では島の死者・行方不明者が 198 人にのぼった。これらは日本海側で生 じたものゆえに、陸プレートどうしの衝突 による逆断層地震と津波である。したがっ て三陸や東南海のような海溝型のプレート 境界型地震と異なり、日本海における陸プ レート境界が近年まで明確でなかったた め、どこで生じるか予測しにくかった。現 在は海底調査の成果もあり、断層が解明さ れつつあるが、当時はあまり地震経験のな い地域であったといってよい。 1993 年に生じた地震は Mw7.78、夜半に 強い揺れ(推定震度69)があった。島民の 記憶には日本海中部地震があったため、津 波が来ると感じた人は多く、すぐに避難を 開始した。しかし青苗岬では地震後わずか 3分程度で津波の第一波が到達し、反対側 から回り込んだ第二波、北海道本土と反射 した波など 10m 以上の津波が何度も洗う 形となった。 青苗地区では高台へ向けての道が避難す る車で渋滞し、犠牲が多く出た。岬の突端 である青苗5区だけで住民の 67%にあた る 72 人の死者が出た。なお、西海岸の藻内 では 30m を越える津波が記録されている。 防災無線などでの避難指示は 5 分程度で発 動されたものの、津波の到達が早すぎたた め、間に合わなかった。 日本海側の地震は震源からの距離が近い ため、太平洋岸の海溝型と比して、津波到 達の時間が数分とかなり短い。そのため避 難が難しく、犠牲者が多くなった。 奥尻島は津波被害が、2004 年のインド 洋大津波(スマトラ沖地震)、2011 年の東 日本大震災の津波被害に先行した形となっ たため、義捐金や救援物資も比較的多く、 復興も早かった。このため震災復興モデル 地として研究や公的機関等の視察が多かっ た。2018 年調査時は津波被害から 25 年も たったこともあり、閑散とした状況であっ た。 ここでの津波モニュメントとして、青苗 地区にある奥尻島津波館、時空翔(資料7)、 そして稲穂・初松前地区にある慰霊碑、無 縁島や青苗、稲穂にある津波到達を示す標 識が挙げられる。 奥尻島津波館は 2001 年に青苗地区に開 館した。南西沖地震の記憶を忘れないため、教訓を残すために建てられたものである。 「津波常襲地帯」と異なり、ここは1つの 津波の施設として設置され、犠牲となった 198 人を悼む「198 のひかり」や当時の写真、 ジオラマなどの展示、災害関連の映像、島 の歴史的文化遺産等を展示する。 時空翔は慰霊碑であり、歌碑、犠牲者氏 名を彫り込んだ側壁、黒曜石製の石が中央 にある。この石は震源地となった南西沖を 向いており、地震が発生した7月 12 日に 上部凹みに陽が沈むように設計されている。 標識や看板は防潮堤や道路沿いの山側に 設けられたもので、いずれも遡上高を示し ている(資料8)。津波到達ラインとして は大船渡と同様であるが、車中からは一見 してわかりにくいものもある。 奥尻島は津波の常習性がみられないた め、三陸のような津波の言い伝えがない。 南西沖地震以降に教訓や体験談が語られる ようになったが、奥尻町史および過去に関 する記録をみても地震と津波の記録がみら れない。このことから大津波の言い伝えが ないため、何も地震津波が生じていなかっ た地域なのか、あるいは記録にない過去の 大津波で全員死亡しているのか、不明であ る。 ただし地震考古学(津波考古学)の研究 による津波堆積物調査から、13 世紀に南 西沖地震を上回る規模の津波があったこと が明らかになった(北海道立総合研究機 構)。この時代の文字記録がなく、無人か 小屋掛けして少数の人が居住していたの か、推測に過ぎない。つまり日本海側島嶼 で約 800 年前の津波の場合、伝承は皆無で ある。このことから記録や伝承がなければ 津波はなかったと結論できないことがわか る。 現状と問題として震災から四半世紀が 経った地域では、津波モニュメントも人々 の記憶も風化しつつあり、防災教育や津波 被害の語りの需要も少ない。標識は夏に草 で覆われがちになり、こうした標識や看板 に足を止める人は筆者の参与観察でみられ なかった。 3-2 奥尻島での観光利用 ここでは津波館と時空翔が観光で利用さ れている。南西沖地震後に青苗岬は非居住 地として、全戸高台移転された。そこに防 災学習施設としての津波館、慰霊のための 時空翔が建てられた。ツアーでも見学でき 資料8 奥尻・青苗の津波モニュメント 資料7 時空翔
るように駐車場が設けられ、両施設は津波 に関する慰霊とスタディツアーの拠点と なっている。 津波館では現在も館内にて職員が津波体 験を語っている。体験者が高齢化、島を離 れるなどの中、長年経過した現在も職員が ツアーや個人訪問者のリクエストによって 語る。当時島外に居住していたが、地震発 生日に親戚を訪ねて滞在していた職員が筆 者に「地震ですぐに高台に避難した。そこ で最も怖かったのはプロパンガスか何かが 爆発したり、燃えたりしたこと。音がすご くて、煙で息苦しかった。一晩中、いつ死 ぬのかという恐怖があった」と語った。ま た、一旦、高台に避難した島民が近親者を 探しに戻ったところ、津波で死亡したとい う悲劇も語られた。災害から 25 年以上が 経過した地域だが、体験者の生の声が聞か れる施設となっている。こうした防災教育、 慰霊、語り部による活動こそが訪問者に津 波の威力を改めて考えさせる場となる。 この他に奥尻島では観光協会主催で、震 災津波語り部による防災フットパスガイド を実施しており、予約で個人から団体まで を案内している。1~3時間、後述のフッ トパス B コースを利用し、ガイドととも に震災当時の状況、復興について、防災な どを学習する。ここでは津波館、時空翔だ けでなく、津波避難施設「望海橋」なども 見学する。 なお、フットパスは「青苗岬めぐりコー ス」と「奥尻の森と街コース」「芸術と温 泉の癒しコース」の3つがあり、リーフレッ トに掲載されている。「青苗岬めぐりコー ス」は 3.5km のコースで震災学習コース(A とB)は遺跡や風景も楽しめるように組ま れている。 復興が早かった奥尻島は、津波被害地と して全国から注目され、視察や見学が相次 いだ。そのなかで津波の恐ろしさを体験し た島民が語り部や紙芝居を実践した。しか し一方で忘れたい、語りたくないといった 体験者や遺族の感情もあり、住民と語り部 との軋轢があったことは否めない。これは 辛い記憶を観光で披露することへの体験者 と遺族の反発、それでも伝承しようとする 住民の温度差となった。 現在の状況は、多くの津波語り部がいる とはいえないものの、津波を伝承するため の装置とソフトが細々と持続している。一 方、観光名所自体が津波被害を受けたまま 未修復の場所が諸所にみられ、住民の記憶 も薄れつつあるうえ、高齢化しており、観 光での利用においてマイナス・イメージと なる津波は「負の観光資源」となっており、 「楽しみのため」に訪れた観光者を集客し にくい。施設も記憶も風化していくため、 今後観光においてどのように持続させるか が問題となる。 3-3 江差の津波モニュメントと観光利用 江差は渡島半島西部に位置し、江戸期に 松前藩として開拓民が入るとともに、ニシ ン漁で栄えた。ここでも常習性のない津波 が過去にみられ、津波モニュメントとして の津波碑が複数存在する。 1741 年の寛保津波とよばれるもので、 沖に浮かぶ無人島渡島大島が噴火して山が 崩れたことで生じた津波である。こうした 津波を火山噴火による山体崩壊の津波とい
い、沿岸部の火山および島火山で生じる。 事例として 1792 年の「島原大変肥後迷惑」、 1640 年の北海道駒ケ岳、1883 年・2019 年 インドネシア・クラカタウ火山などが挙げ られる。寛保津波は噴火による山体崩壊と 海底地すべりが要因と考えられ、津波が松 前から熊石沿岸を襲った。松前藩のもと、 多くの居住者がいて絵画や文字記録もある。 これによれば 1741 年8月(旧暦寛保元年 7月)に渡島大島の西山が噴火した。しか し津波は数日後に沿岸部に押し寄せた10。 死者は 1,467 人となっており、他に 2,000 人以上とする記録もある。700 軒以上の家 が破壊され、1,500 隻以上の被害があった。 現在熊石(現八雲町)から松前までに計 5基の津波碑や石仏がみられる。江差では 法華寺と正覚寺に津波碑があり(資料9)、 当時の寺の位置はいずれも下方であった が、現在は高台に移転している。いずれも 境内に置かれ、江差町教育委員会による説 明の立て札が併設されている。法華寺には 屋内に過去帳としての檀家犠牲者の戒名を 記した掛軸が展示公開されている。法華寺 の関係者による談話では、戒名からして女 性と子供の犠牲者が多いのは、おそらく男 性が当時漁に出ていたのでは、そして噴火 当日は警戒した人々も数日後で安心してい たのではとのことであった。 なお、菅江真澄が津波から約半世紀後に 渡島半島、江差界隈を旅しており、老女が 塔婆を建て泣いているところに出会い、こ の老女の父が寛保津波で亡くなった顛末を 聞き、日記に記した(菅江著、内田・宮本 編訳 1966:175-176)。 調査において江差での津波の言い伝えは みられず、津波に関する伝承が希薄なのは 1回の大津波のためと考えられる。ただし 観光では江差観光協会をはじめ、観光ス ポットとしてホームページや冊子に記載さ れており、正覚院、法華寺ともに「寛保津 波の碑」は北海道指定の有形文化財に登録 されている。そのため個人的に歴史や災害 に興味をもつ人々がわずかに訪問してネッ ト等に記録するにとどまっている。 未曾有の死者と災害であったにもかかわ らず、江差も忘れられた津波として、記憶 およびモニュメントの風化が危ぶまれる。
おわりに
―生きのびるために語り継ぐ―
津波に関する伝承行為は日本が「災害列 島」ゆえに重要である。これらは各地域で 受け継いでいくべきものであろう。しかし 津波を含めた災害は年月とともに忘却され ていく。多くの人は「同時代」の記憶にと どまり、とりわけ近い過去の津波体験に倣 う傾向がある。伝承は「津波常襲地帯」に おいて短い周期で到来する津波に有効であ るが、「常襲地帯」でない地域や長い周期、 資料9 江差・正覚院「寛保津波の碑」たとえば 1,000 年、1,500 年に一度といった 大津波には該当しない。さらに津波後に新 たな移住者が増加すると、津波の恐ろしさ を知らず、伝承が継承されにくいといった 問題が挙げられる。つまり言い伝えも津波 モニュメントであっても、継承されにくい のである。 岩手県の釜石には以下のような津波碑文 がみられる。 「およそ人類には健忘性がある。…… 忘却せぬように余の切に願うところで ある」11 ここで有効なのが大阪市大正橋の石碑保 存の事例である。大阪市では 1707 年の宝 永地震および 1854 年の安政南海地震によ る津波被害があった。こうした被害を二度 と起こさないようにと碑文に「いつでも読 めるように、毎年石碑の文字に墨を入れよ」 と記されており、毎年盆供養の際にこれを 実践している(河田 2010:46-47)。 こうした大阪市大正橋の事例は風化、劣 化した津波碑の修復にもなり、川田の述べ る「滅びにくい媒体」であっても定期的な 更新が必要であることを示している。永続 性のある媒体であっても、その教訓を含む 内容が判読できないようでは、訪問者およ び後世への伝承にならない。人は石碑を建 てた折には注目するが、年月とともに風化 したものは刷新されることはほとんどな い。津波碑文調査で述べられたように、近 隣に案内板を置くことで風化を回復する方 法が取られることが多い。石であっても手 入れすることは後世への「活きたメッセー ジ」となる行為である。 また、河田が論じるように「人が住んで いなければ災害にならず、歴史に残らない」 という問題がある(Ibid.:86)。これは奥 尻島での津波考古学結果が示すように、13 世紀に大津波が生じており、当時人口が希 少だったと思われる島で 700 年以上たつと 伝承は全くないという問題である。よって 記録のない地域に災害がなかった、今後も 津波がないなどとはいえないことを、伝承 の埒外であるが認識しておく必要がある。 そして被災者、地元住民の心情と「震災 遺構」「津波モニュメント」など伝承との 関係である。とくに「震災遺構」に関して 保存か解体か、住民内部で温度差があり、 問題とされる。「震災遺構」を残すことは「負 の遺産」同様に災害の恐ろしさを伝え、防 災意識を高め、後世に残す意義があり、ス タディツアーの役割となる。しかしこの一 方で地元の被災者や遺族は災害と悲しみを 忘れたい、語りたくないといった心境が当 然ながらあり、観光で伝承を取り上げる際 にアンビヴァレントな状況が生じてしまう。 大船渡の観光案内所ではイラストで紙芝 居風にした画像を流していた。これはこの 施設(防災観光交流センター)の1階に出 入りする住民を配慮したものだと観光案内 所の職員が語った。この他にも絵本やバー チャル復元画像を利用、大船渡津波伝承館 のつなみ学習マップにおける QR コードの ように当時をたどれるように端末操作する などの工夫が有効である。 また、伝承に関して問題となるのは誤っ た言い伝えの普及と誤解である。津波研究 者が危惧するように「津波は引き波からは
じまる」は海溝型正断層の場合であり、逆 断層は一見引いてみえる張力が働くことが あっても、通常押し波からはじまる。また、 三陸でかつて「青葉の頃に津波なし」とい う言い伝えがあったが、その後「青葉」の 季節に津波が来て多大な被害が出た。要す るに誤った伝承により安堵して津波の犠牲 が増えることは避けねばならない。言い伝 えは「先人の知恵、経験」であっても絶対 的正確さはもたないこともある。地域やそ の場の状況によって地震と津波の質は異な るうえ、伝承の内容にも問題があることは 把握しておく必要がある。 「津波てんでんこ」も既に論じたように 誤解が流布した経緯がある。本来の意味、 提唱者の真意を理解することが必要であ り、その点で2-2でみた4つの意味が指 標となる。 時代性に関しても現代にはわかりにくい 伝承が多くなっている。たとえば井戸や旧 暦記載などの文言は現代に住む一般の人に はわかりにくい。また、津波モニュメント の漢文や難解な文章も石碑離れの原因であ る。そして近年は車で避難し、犠牲となる ケースも多く、車で渋滞といった問題も新 たな伝承としてハザードで示す必要もあろ う。つまり伝承にも時代的刷新が必要とい える。 さらに地元への心無い行為が問題になる ケースもある。2016 年宮城県にて津波で 壊れた旧小学校にサバイバルゲームで侵入 し逮捕された事件が挙げられるが12、こう した廃墟や「震災遺構」へのマナーも今後 考察しなければならない。 「滅びやすい媒体」の更新も難しい側面 がある。越喜来の大ケヤキや「ど根性ポプ ラ」の代替不可能性である。陸前高田の二 代目の「奇跡の一本松」のよう代替樹木は おそらくないと考えられ、限りある生命を 津波モニュメントとすることは持続性にお いて危うい側面もある。 2019 年 9 月に陸前高田で初の県営施設 「津波伝承館」が開館した。これまで三陸 では民間企業・NPO 等の組織が運営する 伝承や語り部活動に負うところが大きかっ たが、ここでは公的機関が運営しており、 今後様々な可能性をもつといえよう。 津波は悲惨な状況を地域にもたらす。ゆ えに人々がマイナス・イメージをもつもの で、本来観光資源には向かない。研修や防 災学習といったスタディツアーか「負の遺 産」としての慰霊・記憶継承の場にとどま りがちである。そうした中で儀礼、祭礼と いった無形文化や地元での演劇上演は「負 の観光資源」を観光者になじみ深い「楽し みのための観光」に昇華する力をもってい る。また、「奇跡の集落吉浜」や「津波石」 のように物語性のある津波伝承は、観光文 化における持続可能性が高いといえる。 災害は増加・多様化しており、多くの課 題が残る。津波は地域やその都度状況によ り異なるため、予測が精緻化された現在に おいても未解明要素が多い。こうした中で 伝承は人が災害から助かるためにも、広範 囲の人々に、そして後世に語り継ぐ意義が ある。観光文化はこうした伝承を広めるた めに役立つ要素といえよう。 総じて津波から命を守り、生きのびるた めにもこうした歴史的顛末を語り継ぎ、教 訓を何らかの媒体で残していき、「滅びや
すいもの」でも「滅びにくいもの」でも定 期的に更新しなければならない。人は限り ある生命であるからこそ、引き継いでいく 必要があり、次世代へ向けて、過去の記憶、 先人の経験、災害から得た教訓を正しく伝 え、減災を推進する必要がある。
謝 辞
本論執筆にあたり、2017 年度および 2018 年度に横浜商科大学学術研究会による特別 研究助成「観光における災害の言説分析― 東日本の地震と津波を中心に―」を受け、 2017 年度の文献資料調査、2018 年度の道南 調査、三陸調査を実施した。また 2018 年 度調査において大船渡津波伝承館、大船渡 観光案内所、奥尻島津波館、奥尻町新村町 長、奥尻観光協会制野会長、辻和博氏、上 野テイ子氏、トラベルハウス想い出、奥尻 町海洋研修センター・ワラシャード 21、江 差法華寺など多くの施設・機関・方々にお 世話になった。ここに記して謝辞としたい。追 記
2018 年道南調査中に北海道胆振東部地 震が発生した。奇しくも災害調査で台風・ 地震と停電を経験した。地震による犠牲者 に哀悼の意を表する。註
1) 1946 年のアリューシャン津波の際、ハワイ 日系人から普及したといわれる。これが 2004 年のインド洋大津波でさらに広まった。 2) 2018 年調査時には閉鎖されていた。 3) 「過去の津波で高台移転、、また被害 21 地区 標高不十分」asahi.com 2011 年 7 月 11 日 記事 4) 岩手県では田野畑村羅賀地区の「明治の津 波石」が有名である。 5) 綾里大権現 https://snr-sanriku.jimdo.com/ 6) 大船渡市郷土芸能協会 kyoudogeinou-ofunato.iwate.jp/dantai/shishimai 7) 現在は JR 大船渡線 BRT(バス)が運航し ているため、バス停前となっている。 8) モーメントマグニチュード。巨大地震の際 に使われるもので、地震を起こす力から規 模を表す。 9) 当時気象庁職員が震度を体感で測ったが、 島に気象庁職員が常駐しなかったため、推 定である。 10)噴火と津波襲来日は諸説あるが、1741 年(寛 保元年)8月 23 日頃噴火し、29 日(旧暦 7月 19 日)に大津波襲来が有力とされる。 11)国土交通省 「津波被害・津波石碑情報アー カイブ」www.thr.milt.go.jp/road/sekihijouhou/ 12)「震災 5 年の前日に…[不謹慎!] 保存検 討中の被災校舎でサバイバルゲーム、男性 9人を事情聴収」sankei.com 2016 年 3 月 13 日記事引用・参考文献
[1] 秋本悠喜・桜井慎一 (2013) 「市民認知を 継承する津波碑の保存展示に関する研究―東 南海地方5府県における現地調査結果に基 づく考察―」『日本大学理工学部学術講演会 論文集』pp.611-612. [2] 秋本悠喜・桜井慎一 (2015) 「教訓を後世 に伝承する津波碑の保存整備に関する研究」 『沿岸域学会誌 Vol.28,No3』pp.29-40. [3] 川田順造 (2004) 『アフリカの声』 青土社 [4] 河田恵昭 (2010) 『津波災害』 岩波書店 [5] 北原糸子・卯花政孝・大邑潤三 (2012) 「津 波碑は生き続けているか―宮城県津波碑調 査報告―」 関西学院大学 『災害復興研究(4)』 pp.25-42. [6] 目時和哉 (2013) 「石に刻まれた明治 29 年・昭和 8 年の三陸沖地震津波」 『岩手県 立博物館研究報告 第 30 号』 pp.33-45. [7] 奥尻町編さん委員会編 (1969) 『奥尻町史』 奥尻町 [8] 奥尻町 (1996) 『北海道南西沖地震奥尻町 記録書』奥尻町役場 [9] 災害教訓の継承に関する専門調査会 (2005) 「1896 明治三陸地震津波報告書」 内閣府中 央防災会議 [10]菅江真澄著、内田武志・宮本常一編訳 (1966) 『菅江真澄遊覧記2』平凡社 [11]山賀進 (2016) 『日本列島の地震・津波・ 噴火の歴史』 ベレ出版 [12]山下文男 (2002) 「明治三陸津波(1896) に関する(捏造津波石)問題始末」 『歴史 地震 18』 pp.177-180. [13]山下文男 (2008) 『津波てんでんこ』 新 日本出版社 [14]矢守克也 (2012) 「(津波てんでんこ)の 4つの意味」日本自然災害学会 『自然災害 科学 31-1』 pp.33-46. [15]吉浜教えの里プロジェクト (2015) 『吉浜 のつなみ石』 E-PIX