① 本 稿 は17C初 め に ド イ ツ で 活 動 し て い た Cluverius の Introdvctionis in vniversam geographiam, tam veterem, quam novam の第 1 巻および第 2 巻の第 1 章∼第 7 章の本文と,同第 8 章以下の章題を訳したものである(本 文244ページのうち訳出箇所は53ページになる)。
② 翻訳に利用したのは Internet Archive(https://archive.org/) で提供されている,philippicluverii00clve_4.pdf で ある。適宜 philippicluverii00clve_2.pdf も参照した。philippicluverii00clve_4.pdf(その第 6 巻)は 1629年の刊 行であり philippicluverii00clve_2.pdf(その第 6 巻)は1641年の刊行である。Cluverius のこの著作は彼の死後 に増補されつつ刊行されているが,この両版は(翻訳箇所の本文については)ほぼ同一内容である。 ③ Cluverius はたとえば Martin (2005)でも言及されるなど,現在でも全く忘却された地理学者ではない。しか し本書は,管見の限りでは Kish(1978)が第 1 巻第 1 章および第 6 巻第12章を(おそらく仏語版から)訳出 しているにすぎない。訳者は本書を,ヨーロッパに地理学が導入された最初期の作品の一つとして取り上げた い。この点は別稿を準備中である。 ④()は原書中で かに使用されている。訳者は訳文の都合上,原書にない場合でも使用した。 ⑤ []は訳注である。原語を示したり簡単な説明を加えたほか,Cluverius の記事で先行文献が明示的に言及さ れている場合に当該文献の関係位置を示すのに用いた。これは以下の文献である(()内は訳者が参照した版。 ただし日本語訳書の訳文はオウィディウス・ヨセフスを除いて利用しなかった): ・Diodorus: Bibliotheke(Loeb および飯尾都人訳(1999)『ディオドロス「神代地誌」』龍渓書舎,9 ∼ 469) ・Mela: Chorograpie(Bude および飯尾都人訳(1999)『ディオドロス「神代地誌」』龍渓書舎,471 ∼ 570) ・Plinius: Naturalis historia(Loeb および中野定雄(1986)『プリニウス博物誌Ⅰ』雄山閣)
・Silius: Punika(Loeb) ・Strabon: Geographika(Vandenhoeck および飯尾都人訳(1994)『ギリシア・ローマ世界地誌』龍渓書舎) ・Tacitus: Germania(Loeb および泉井久之助訳(1979)『ゲルマニア』岩波書店) ・アリストテレス「気象論」(泉治典訳(1969)『アリストテレス全集 5 』岩波書店, 1 ∼ 227) ・オウィディウス「黒海からの手紙」(木村健治訳(1998)『悲しみの歌/黒海からの手紙』京都大学学術出版会) ・トログス・ユスティヌス(合阪學訳(1998)『地中海世界史』京都大学学術出版会) ・プトレマイオス(中務哲郎訳(1986)『プトレマイオス地理学』東海大学出版会) ・ヨセフス(秦剛平訳(1999)『ユダヤ古代誌』筑摩書房) ・ヘロドトス(松平千秋訳(1971)『歴史』岩波書店) ・ウェレイユス(西田卓生・高橋宏幸訳(2012)『ローマ世界の歴史』京都大学学術出版会) ⑥ Cluverius の文章には Plinius・Mela・Tacitus のものと(ほぼ)同一のものが見られる。その場合には,下線 を引いてその箇所を示し,また典拠の該当箇所を示した。指示方法は,訳者が利用した版でのページ番号では なく,各文献固有の巻・章・節などを小数点で繋いで表示した(Plinius では Loeb 版の節番号を用いた)。 ⑦ 固有名詞(地名・人名)は原書(すなわちラテン語化表記)のままとし,原則としてカナ表記の煩を避けてロー マ字のままとした。ただしノアの子孫については,Cluverius の文章からは主格を知ることができなかったの で日本聖書協会(2018)の表記によってカタカナ書きとした。その他にも一部の固有名詞をカタカナで表記した。 ⑧ 第 2 巻第 5 章に記されたイベリア諸王国の歴史には事実認識において現在(たとえば立石(2000))と相違す る点が少なくない。それも含めて事実的な内容については本訳稿の主たる関心ではないため検討していない。 ⑨ 原書所載の図・表には番号がなく,また本稿で第 6 図としたもの以外には題名がない。便宜のために訳者が仮 に付した。
Cluverius の Introductionis in universam geographiam, tam veterem quam novam
―― 第 巻および第 巻 ∼ 章の翻訳 ――
立 岡 裕 士
(キーワード:Cluverius,地理学史,ヨーロッパ, C)
古典的であるとともに新しい,全地理学への導入
第 1 巻
第 1 章 Geographia
1 )とは何か および地球すなわち地−球
2 )とは何か
Geographia とは,我々に知られている限りでの全地の記述である。この名称はギリシア語である。すなわち, ȖĮĮ ないしは ȖĮȘ(合成の場合はそれに代わって ȖĮ が用いられる)つまり地と,ȖȡijȦ つまり記述と,から合 成され,かくして īİȦȖȡĮijĮ つまり地の記述,となる。そして Geographia は Cosmographia とは全体に対する 部分として,Chorographia とは部分に対する全体として,相違する。というのも Cosmographia は,țંıȝȠȢ す なわち世界と ȖȡijȦ とからなり世界−記述と呼ばれるものであり,宇宙すなわち世界の,諸要素ならびにアイ テルの,記述である。Chorographia は,その名称は ȤȡȠȢ ないしは ȤȫȡĮ すなわち地方と ȖȡijȦ とから合成され たもので,ある地方の個別の記述である。たとえば Hispania・Italia・Germania などである。さらにその部分が Topographia である。これは IJંʌȠȢ すなわち場所と ȖȡijȦ とから名づけられたもので,ある場所の個別の記述で ある。要するに領地すなわち領域,ある町すなわち管区,の記述であり,耕地・牧場・森林・街路・建物までも 書かれる。一方,Geographia は単一の地の状況を記述する。ただし地とは,Geographia における言葉としては, 自然学でのような分化された第四元素として理解しているのではない。そうではなくて複合的な地,唯一の,水 で満たされた,全宇宙の中心にあるもの,として理解している。それは形状によって,地−球すなわち地球,と 呼ばれる。地球とは,固体で,完全に球状をなし単一の表面は張りつめているものである。その内部には中心す なわち中心点があり,そこから表面に引かれた全ての線は長さが等しい。要するに単一の地球は二つの元素によっ て構成され,唯一にして同一のどちらの方向にも凸なる表面をなしている。この地球を Geographia はさまざま に諸円・諸部分に分けた。それについて一つずつ順に論じていかねばならない。第 2 章 地球の諸部分・諸円について
まず軸が地球に設定される。すなわち,地の中心を通って引かれた直線であり,これは全世界の直径である。 ギリシア語の前置詞 įȚ すなわち per[通って]と動詞 ȝİIJȡȑȦ すなわち測る,から名づけられた。いわば内部を 計測することである。直径の回りを世界は転がり回されている。 軸の端は世界極 [polimundi] と呼ばれる。動詞 ʌȠȜȑȦ すなわち回転する,そこからラテン語の頂点・軸が出て くる。それを って,全世界という装置が回転されるからである。その一方の Arcticus すなわち Ursinus[熊座] は,ਕʌઁIJોȢਙȡțIJȠȣ すなわち熊の近くに存在するものである。もう一方は Antarcticus 南極と名付けられ,直径に おいて北極と対極にある。北極は,Borealis すなわち Boreus,また Aquilonaris すなわち Aquilonius(これらはこの地方から吹き出す Borea すなわち Aquiloneventus による),また Septemtrionalis と呼ばれる(これは,Triones[熊座]と呼ばれ,我々 が生活するこの場所でいつでも見える,7 星による)。
Antarcticus は,Australis,また Austrinus,また Notius(Austro すなわち Noto の風による),また Meridionalis (Mundus の一撃による)と呼ばれる。我々の半球からは決して見られない。水平線の下に隠れているからである。 つぎに,地球に特別に設けられた八つの円はまず二つに,それぞれ同数の大円と小円とに,分けられる。大円 と呼ばれるものは地球と同じ中心をもち,地球を等しい部分に二分する。等夜線(すなわち赤道)3 )・黄道・地平線・ 子午線である。小円と呼ばれるものは地球の中心から外れた中心をもち地球を不均等な二つの部分に分割する。 二つの回帰線そして同数の極圏である。 また,全体の中の五つの円は,直線もしくは平行圏,すなわち等距離線と呼ばれ,全体と同一の極をもち,一 様の幅で互いに隔たる。赤道,二つの回帰線,それと同数の極圏である。残りの三つは斜線と言われる。それら は世界極とは異なったそれ自身の極をもつ。 ―210―
第 3 章 四つの大円について
大円は固定的または可動的ということで区別される。固定的すなわち不変的と言われるものは,球で同じ位置 を永続的に保持しており,それゆえ球面に描かれるものである。赤道および黄道である。可動的すなわち可変的 と言われるものは,地球で常に同じ位置を保持しているのではなく,さまざまな地方・位置の変化に応じて多様 に変えられるものであり,したがって地球表面の外に表示される。地平線と子午線とである。一つずつ論じてい かねばならない。地平線について
ȡȗȦȞ 地平線(ラテン語では terminator[境界を示す]・finitor[区切る者]・finiens[区切ること])は可変的 な大円であり,世界の可視的な部分を不可視な部分から区切るものである。すなわち,より下側の半球を上側の 半球から区切るものである。地球儀の箱すなわち腕輪に描かれる。それの上側である表面は,地球を二つの等し い部分に分けるという地平線の任務を果たす。地平線は二重の性格をもつ。一方は理性と判断力とによって把握 され,他方は知覚される。判断力によって把えられるものは,固定された星々の球に達し,世界の全球を二つの 等しい部分に分かつ。一方の半球が大地の上に現れ,他方が大地の下に置かれる,という具合に。もう一組の対 がある。すなわち直線と斜線である。直線は,世界極を通って横切り極すなわち天頂を赤道の下にもち,赤道と 直角に交わるものである。斜線と言われるものは,その天頂は赤道の彼方または此方にあり,赤道とは斜めの角 度で交わるため,世界極の一方は高く上げられ他方は下に沈むことになる。このようにして,地平線に対して, 太陽その他の星が斜めに昇降する。地平線とは,我々が感覚で捉えるもの,我々の目によって区画され,視力が 運ばれうるかぎりに広げられるもの,として地球を,我々に知覚される部分と明らかではない部分とに区分する。 その直径は,長さ180スタディアすなわち22.5千歩4 ) ,5 と 5/8GM,を超えると思われない。視野の先端はそれ 自身を超えて広がらないからである。地平線が可動的で多数ありうると言われるのは,場所が変えうるからでは ない。どれほど かにそれを変えただけでも一つの地方および点に応じて地平線は全く変わる。この故に,無限 の地平線が設定されうるのである。さらに,地平線には二つの極がある。その一つはアラビア語で semith,訛っ た俗語で天頂と言われ,我々の頭上に垂直にのしかかる点である。もう一つの,俗に nadir と呼ばれ,正確には nathir と言われるのは,直径の対極から高く,対蹠人のうなじにのしかかる。等夜線について
等夜,または等日(ギリシア語の ੁıȘȝİȡȚȞંȢ),すなわち赤道は,5 本の緯線のうちで最も大きく,地球を南北 二つに等分する。どちらの極からも等しい距離だけ離れている。太陽がそれに達するとき地球全体で昼夜の間隔 が等しくなる。そこでこの名前を得た。年に 2 度,次のようにして等夜(それを古代人は等日と呼んだ)となる: まず牡羊座の初め,春,そしてもう一度は天 座の初め,秋のときと呼ばれる。もっとも,船乗りは赤道を俗語 で中間線ないしは単に țĮIJ¶ȟȠȤȘȞ[主要な]線,と呼ぶ。黄道について
ǽȦįȚĮțંȢ 黄道は,世界極の間に傾いて位置する大円である。一方で夏の回帰線を蟹座の初めに,他方で冬の 回帰線を山羊座の初めに把える。間には赤道と交わる。すなわちおよそ牡羊座と天 座との初めに,一方は赤道 から北極へ向かう中間で,他方は南極に向かう中間で,それぞれ赤道と交差する。12の部分に区分され,それら は星座と呼ばれる。その首星は,ギリシア語では ǽȦįȚĮțંȢ で,ਕʌઁIJȞȗȦįȚȞ すなわち動物によってラテン語 の名前を得ている。それは以下に図示したとおりである[図 1 ]。Italia 人によって表現された名前も 2 行目に示 している。これらの列のうち,前者は北の,後者 は南の,星座を構成する。これらの星座の一つ一 つには30度が割り当てられている。それは合計し て全体で360となる。その中に,地球の全てが配 当される。 図 1 黄道の12星座 ―211―子午線について
子午線はギリシア語では ȝİıȘȝȕȡȚȞંȢ で,可変的な大円である。それは世界極を通り,任意の所与の場所の天 頂を経て,等夜線に横から交わる。そして地球全体を二つに分かつ。一方の半分は日出側に,他方は日没側にあ る。というのは,太陽が,我々の半球においてこの線に達したとき,我々および北または南に向かって引かれて いるこの子午線の下にある全てのところで,正午となるからである。逆に,下側の半球でこの線に達したときに は真夜中となる。したがって,正午および真夜中を知らせることがその最大の役割である。ある場所の天頂すな わち天上の点とは,その場所の直上に置かれた,あるいは想定された頂点からあらゆる人に垂直にのしかかって くるものである。子午線が可変的であると言われるのは,たとえ かでも日出もしくは日没に向かって動くなら ば,停止する場所または地域に応じて我々とともにいつでも変わるような仕方で他のものが引き続き子午線とな るからである。この故に,無限の子午線が設定されうる。天頂の数ほどに子午線が与えられるからである。第 4 章 四つの小円について
回帰線
回帰線は 2 本あり,赤道から等距離に離れている。その一つは我々により近い,蟹座回帰線であり,もう一つ は南に沈んでいて,山羊座回帰線と呼ばれる。そこにおいて夏至になるので Latin 人は solstitiales と呼ぶ。太陽 がこの線を超えることは決してない。その一つに達した時には自身を逆向きに反転するからである。そこから, ਕʌઁIJોȢIJȡȠʌોȢ すなわち反転点という名前を受けた。夏の回帰線と呼ばれる蟹座回帰線は,太陽が描く全ての円 のなかで最も北にあるもので,太陽がそこにあっても,それを超えて進むことはないものである。夏至には,太 陽は世界のもう一つの部分の方へ向けて南へ反転する。我々の半球において一年の全てのなかで最も長い昼,最 も短い夜の時である。蟹座回帰線と言われるのは,黄道のこの星座の初めに太陽が反転させられるからである。 冬であり冬至である山羊座回帰線は世界の回転によって太陽が描く全ての円のなかで最も南にあり,太陽はそこ に達した時,それ以上南に向かって進まず,冬すなわち冬至にはもう一つの世界の部分に向かって北に反転する。 我々の半球においては一年のなかで最も夜が長くなり昼が短くなる。山羊座回帰線とは,太陽がその初めを通過 することによって言われる。北極圏
極圏は,最遠の,極に近い,それぞれの極から等距離にある二つの円である。そのうち,常に我々に観察され ているものが arcticus と呼ばれる。その極は,ਕʌઁIJોȢਙȡțIJȠȣ(熊によって),すなわち熊座の前足によって指示 されるからである。同様に,それが属する世界にしたがって,septemtrionalis・Borealis・Aquilonaris と呼ばれる。南極圏
北極圏に対称かつ平行なもう一つは南極圏と言われ,北極圏とは直径によって対峙する。地の下にある全 てのものは隠されており,その対象物は我々には決して識別されえない。これもまた,austrinus・australis・ meridionalis とも呼ばれる。第 5 章 帯について
4 本の小円は全地の表面を五つの区域ないしは地帯に区分する。地理学ではそれを帯と呼ぶ。 ȗȦȞȘ すなわちラテン語の帯とは地球上の二つの小円の間,もしくは小円と極との間につつまれた区域である。 これらの帯は状態すなわち性質によって,熱帯,二つの寒帯,それと同数の温帯,と呼ばれる。他の 2 者の中間 に位置するものは,太陽の進路にさらされており,不断に炎熱を受けるので熱帯と呼ばれる。このために,最古 の人々には居住不能と見なされていた。二つの回帰線の間に挟まれた区域である。幅 47°の間とぎれず,中間で 赤道と交わる。 ―212―世界極の周辺の二つの最遠地,一方は北極周辺の北方,他方は南極周辺の南方,は寒帯と呼ばれる。太陽の進 路から最も遠く切り離されており,その著しい寒さのゆえに同じように居住不能と古代人に考えられていた。北 極圏・南極圏が,それぞれの極点に向かうものとしてそれを区分する。極の故に polares と呼ばれる。これらの それぞれが 23.5°を被う。 寒帯と熱帯との中間に置かれている残りの二つは,温帯と呼ばれ,居住可能である。そのうちの一つ,北極と 蟹座回帰線とに区切られるものは,北の温帯であり,もう一つの,南極と山羊座回帰線とに区切られるものは, 南(australis・meridionalis とも)の温帯と言われる。それぞれ 43°に亘る。
第 6 章 平行圏およびクリマについて
5 ) 地表は,他の原則に従っても区分される。すなわち昼の長さの変化にしたがうものである。まさに赤道に留まっ ている者は,常に昼を夜と同じ12時間として有する。一方,ある地方が,赤道から二つの極のいずれかに向かっ てより大きく傾くほど,夏に昼は最長になり,逆に冬には夜の時間が増大する。それゆえ地理学者たちは,さま ざまな昼の長さにしたがって,地のさまざまな区域を多様に区分し,それを平行圏ないしはクリマと呼ぶ。 平行圏は,全体が同じ間隔で互いに離れた,西から東に引かれた円である。多様なこれらは地球上に任意に描 くことができる。実際,他の多くの地理学者が追随した Ptolemaeus は,21の北平行圏を設定した[プトレマイ オス 1.23]。それらの間では,一つの平行圏の最長の昼は,先行する平行圏の最長昼時間より 1/4 時間長い,と いうことが認められる。クリマは二つの平行圏によって包含される地の空間である。そこでは最長の昼は 1/2 時 間ずつ変わる,すなわち増大する。クリマおよび平行圏という名称は,ある場合には円を,ある場合には二つの 円に挟まれる空間を,意味する。 さらに,北南の半球にクリマが識別される。双方ともそれぞれの極点に向かって赤道に起線が引かれる。そし て赤道から何番目かのクリマは,その場所の最長の昼が,その数の分の半時間だけ,夜と等しい昼を超える,と いうことになる。逆に,任意の場所がいかなる平行圏ないしクリマの下に置かれているか知ることができるため には,その場所の最も長い昼が正確な半球での昼(それは常に12時間である)を凌駕する時間数を考えるがよい。 その数は,クリマの数の 2 倍,平行圏の数の 4 倍を示す。 古代人は七つのクリマを数えた。7 番目のクリマを超えた場所は彼らには知られえず,ほとんど居住不能で あると考えられた。 これらのクリマは,より明白な場所(それらを介して中間のクリマは引かれる)により, 名前が付けられた。第一は Meroe(Africa の,Nilus によって環流される島であり都市である),次に S ママ yrenen (Aegyptus の都市),三番目は Alexandria(同じく Aegyptus の都市),四番目は Rhodus 島を経,五番目に Roma を通り,六番目は Euxinum 海,七番目は Borysthenis 河口である。後世,さらに遠くで地が居住されることを 経験した人々は,47°まで引き上げて,24のクリマタを設けた。第一は Meroe を通り,第二は夏の回帰線下の Syrenen を通り,第三は Alexandria を通り,第四は Rhodus 島を通り,第五は Roma および Hellespontus を通 り,第六は Mediolanum および Venetiae を通り,Euxinum 海,七番目は Podolia と小 Tartaria とを通り,第八は Wittebergam を通り,第九は Rostochium を通り,第十は Hibernia を通り,第十一は Norvegia の要塞 Bohus を通り, 第十二は Gutiam を通り,第十三は Norvegia の街 Bergos を通り,第十四は Finna の街 Viburgium を通り,第 十五は Svedia の Arotiam を通り,第十六は Dalenkaulius 河口を通り,残りのものは,同様の空伱に,その他の Norvegia・Svedia・Russia およびその近傍の島を通して設定すればよい。そして等夜線から,最長の昼が24時間 と定められている場所まで,24クリマが横たわっていることは確かである。極点に向かってクリマの差異は次第 に明瞭でなくなる。半時間ではなく,まずは一日全て,次に週単位,遂には月単位で昼は長くなり,一方の半球 の極そのものでは 6 ヶ月間の永続的な光で消滅させられるほどであり,他方では最も濃密な闇に沈むほどだから である。そして,クリマのその比率は,等夜線から北極点に向かうものと同じ等夜線から南極に向かうものとで 同じであり,同じ数である。これらのクリマは提唱者たちのもとでは固有の名称がなく,対向することによって 名付けられた。ギリシア語の ਕȞIJ という付加的な接頭詞で ਕȞIJįȚȂİȡȠોȢ,すなわちメロエの反対,以下同じ。 それ自身の場所によって名づけられるだけのこともありえた。すなわち,第一のクリマは Luna 山および Nilus 川源泉を通り,第二は冬回帰線の下の,俗に Cabo de Corientes と言われる岬を通り,以下同じ。ここに,各クリ マ・平行圏の等夜線からの隔たり,それら相互の間隔,最大の昼の長さ(それはより容易に推定される)を,表 として供する[表 1]。 ―213―表 1 各クリマ・平行圏の最長昼間時間・緯度 クリマ 平行圏 最長昼間時間 時間 分 緯度 度 分 クリマ間の間隔 時間 分 0 0 1 12 0 12 15 0 4 4 18 4 18 1 2 3 12 30 12 45 8 34 12 43 8 25 2 4 5 13 0 13 15 16 43 20 33 7 50 3 6 7 13 30 13 45 23 10 27 36 7 3 4 8 9 14 0 14 15 30 47 33 45 6 9 5 10 11 14 30 14 45 36 30 39 2 5 17 6 12 13 15 0 15 15 41 22 43 32 4 30 7 14 15 15 30 15 45 45 29 47 20 3 48 8 16 17 16 0 16 15 49 1 50 33 3 13 9 18 19 16 30 16 45 52 58 53 17 2 44 10 20 21 17 0 17 15 54 29 55 34 2 17 11 22 23 17 30 17 45 56 37 57 34 2 0 12 24 25 18 0 18 15 58 26 59 14 1 40 13 26 27 18 30 18 45 59 59 60 40 1 26 14 28 29 19 0 19 15 61 18 61 53 1 13 15 30 31 19 30 19 45 62 25 62 54 1 1 16 32 33 20 0 20 15 63 22 63 46 0 52 17 34 35 20 30 20 45 64 6 64 30 0 44 18 36 37 21 0 21 15 65 49 65 6 0 36 19 38 39 21 30 21 45 65 21 65 35 0 29 20 40 41 22 0 22 15 65 47 65 57 0 22 21 42 43 22 30 22 45 66 5 66 14 0 17 22 44 45 23 0 23 15 66 20 66 25 0 11 23 46 47 23 30 23 45 66 28 66 30 0 5 24 48 24 0 66 31 0 0 月 1 2 3 4 5 6 67 15 69 30 73 20 78 20 84 0 90 0 ―214―
第 7 章 360の部分に分割された地球,およびその長さと幅とについて
全円は幾何学者によって360に区分される。この区分は天球・地球にも認められる。要するに地は天球と同じく360の部分(これは度と言われる)に分割される。1 度は60分に分けられる。これ は Roma の1000歩すなわち Italia M. と同じである。4Italia M. は 1GMC にあたる。したがって 1 度は15GMC を 被う。この見積りにより,全体では 5400GMC となる。これが地球全体の周長である。かくして,その直径は 1718.2GMC である。その半分すなわち半径,地表から中心までの里程は,859.1M. である。
地球を表現する度数として,他に経度・緯度がある。経度は子午線の円によって,緯度は平行圏によって,区 分される。子午線は,地球に36割り当てられ,ぞれぞれが10度を被う。この数が乗ぜられて360度となる。そし て Ptolemaeus は本初子午線を Fortuna 島(今は Canarias 島と呼ばれている)に置いた[プトレマイオス 1.11]。 その後 Hispania の船乗りは Assorus 島に置き,さらに別な人々は Hispania 中央に置いている。赤道からそれぞ れの極に向かう平行圏は,同じようにそれぞれが 10 度を被うものが 9 本記される。4 倍にすることで平行圏は, 経線の場合と同じく,全体として 36 になる。かくしてある地方の経度とは,2 本の子午線(一つは起線が引か れる Assorus 島のもの,もう一つはその地方ないし場所のもの)によって把握される赤道の距離である。緯度とは, ある場所すなわち地方が赤道からいずれかの極点に向かって後退することである。したがって,その極の高さが その地方の緯度である。そして緯度は一対であり,一つは赤道から南 マ マ 極に向かう我々の北半球のものであり,も う一つは赤道から南極に向かう下側の南半球のものである。
第 8 章 四つの世界地方について および風について
世界・天空という名が付けられている全体は単一のものであり,一つであるものがそれ自身で全てを包みつつ 包まれ,諸部分に分化する。これらの世界地方は cardo と呼ばれる。日の昇る方向が日出方すなわち東,没する 方が日入方すなわち西,日の通る方向が南,逆に離れた部分が北,と言われる [Mela 1.3]。この 4 者の間に,他 の地方が挿入される。北と等夜の日出方との間に夏の日出方(これは夏の太陽の東とも言われる),等夜の日出 方と南との間は冬すなわち冬至の日出方(これは冬すなわち冬至の太陽の東とも言われる),北と等夜の日没方 との間に夏の日没方(すなわち夏の太陽の西),等夜の日没方と南との間は冬すなわち冬至の日没方(これは, 冬すなわち冬至の太陽の西),である。 四つの世界地方すなわち cardo に,四つの主要な風が割り当てられ,それが吹いてくる cardo によって名付け られている。それらの風と地方との名前は Ovidius の「悲しみの歌」1.2 で述べられている。 というのも,今し方東風が真紅の東方から力を得たかと思うと, 今度は西風が夕暮れの西方から送られてやってくるし, 今度は冷たき北風が乾いた大熊座・小熊座から荒れ狂って吹きつけ, かと思うと今度は南風が真っ向から戦いを挑んでくるからだ[1.2.27 ∼ 30] こ れ ら は ギ リ シ ア 語 の 名 詞 で あ り, 北 か ら 吹 く も の は Latin 人 に よ っ て Aquilo と 呼 ば れ る。 東 か ら は Subsolanus,南からは Auster,西からは Favonius,である。これらは図によってより適切に理解される[図 2・3]。 この風の名称にはさまざまな古人も最近の著者たちもさまざまのものを勝手に与えてきた。あまりに多様で全 体の認識から確実な一枚の図を構成することができないほどである。少なくとも,Europa・Asia・Africa のあい だに分散されている内海を航海する Itaria 人は風をこのように16部分に配当している[図 4 ]。 外海すなわち海洋を航海する全ての Europa 人は,自分自身の言葉を曲げてでも,Germania 人に使われてい る名詞を用いる。Germania 人はこのように 32 の名称を配している[図 5]。 ―215―図 3 8 方位と風 図 2 8 方位
図 5 32方位 図 4 8 方位と風
第 9 章 場所の大きさについて
Roma 人は場所の隔たりを千歩(milliaria と表記される)を単位として測った。千歩は標石すなわち石柱に よって印され,それゆえそれ自体が milliaria 標石と言われる。標石10本がすなわち 10M. というように。4 千歩 は 1GMC になる。ここから地球の 1 度は千歩で60,GMC で15,となる。Graecia 人は自分たちの距離をスタ ディアで測った。1 スタディアは125歩であり,したがって 8 スタディアが 1 Roma M.(= 1 千歩),32スタディ アが 1GMC となる。Persae 人は,距離を測るのに彼ら自身のパラサングを持っていた。1 パラサングが30スタ ディアになる。Aegyptus にはスコエノスがあって,相互の距離を測る。1 スコエノスはある場合は60スタディ ア,ある場合には 40 スタディア,ある場合には20スタディア,に当たる。今日,milliaria という名称は主とし て Germania・Dania・Norvegia・Suedia・Anglia・Scotia で用いられている。それは meile および mile である。 Polonia・Bojohaemia でも同じである。さらに Slavicae 諸国では mila・mile である。同じく Italia では miglio である。 Hispania および Gallia では leuga すなわち leuca によって距離を測る。Hispania では leguas,Gallia では lieu と 呼び習わしている。Italia・Anglia では Germania・Slavo・Hispania・Gallia の距離について測り,leugas で表示し, Italia では leghe,Anglia では leagues と言う。Russia すなわち Moscovia は彼らの場所の距離の計測を,その言葉 で vorest と呼ぶもので行う。これら全ての尺度・比較は図によってできる限り容易に認識される[図 6 ]。 いかなる国でも等しく普遍的に距離を測っていないことは注意されるべきである。実際 Germania では,さま ざまな地方に応じて地球の 1 度にあたるものを15とする単位 [ = 1GMC] を,あるいは大 milliaria,あるいは小 milliaria,あるいは共通 milliaria[ = GMC],と言う。そして Hispania と Gallia とでは leucae は等しくない。同 様に他の国々では milliaria が等しくない。Anglia の大多数の数学者の 60M. は ItaliaM. と同じく 1 度に宛たる。図 6 さまざまな国における距離の測度
第10章 海洋およびその諸部分について
地は世界の中央で中心に置かれているので全体が完全に海に取り囲まれている。海全体は,至るところで地 から川に流れ込まれつつ,世界全体を取り囲み,Oceanus という単一の名前で呼ばれる。それから,場所が異 なるのによって,さまざまな海・湾でさまざまに名前に宛てられる。先ず四つの世界地方によって四つの名前 を受け取る。東によって Eous と呼ばれ,これは東方のことである。西によって Occiduus すなわち西方,南に よって Notius すなわち南方,北から北方。さらに,諸地方のそれぞれを浸すことに応じて,その岸によって多 様な名称を受ける。Sarmatia の岸が洗われている北洋では,Lappia と Obius 川との間が Sarmaticus 洋である。 Scythia の岸が洗われるところでは,Scythicus 洋と呼ばれる。全くの北では,最遠のこの北の岸にいる民族によっ て Hyperboreus と呼ばれる。同じく Cronium 海は,Saturnus がここから寒さの気候を支配すると言われている。 同じ理由から,Concretum とも Amalchium(かつてその民族の言葉で氷結を意味した)とも言い,Morimarsa とも言う。これは恒久的な闇の故に mortuum 海といい,視野はよそよそしく貧弱な,霜の白けた光のもとにある, と Plinius は言う [Plinius 4.94 ∼ 95, 2.172]。Tacitus には,無気力にしてほとんど動かない海がある [Tacitus 45]。 東へは Serica 地方に向けて Sericus と言われる。Serica は今は Kitaia である。そして Sina 地方(Hispania 俗語 で China と呼ばれる。Germanicus の記録者にならば Tschina と書くところ)に向けて Sinensis である。そこか ら,Hippadis 海が続く。俗に Archipelagus S. Lazari である。そこに島が多いゆえ,Europa の Archipelagus すな わち Aegaeum 海と比較の上でこのように呼ぶ。ついで南に大洋は Indicus である。すなわち,India・Persia・ Arabas・Aethiopes を東から洗う。その一部,India の川である Gange が流入するところを Gangeticus と言う。 India の街 Bengala に近く,今は俗に Bengalensis 湾である。Persis に触れるものが Persicus 海である。次は Arabicus 海で,Arabia を南から打つ。そこから Cernen すなわち Minuthiam 島(俗に Madagascar)に向けては, 狭小でそれを埋める砂州のゆえに Asperum 海である。しかし,Gangeticum・Persicum・Arabicum・Asperum という名称で区別されているものの,この海は全体としては Indicum 海であり,別の名としてはラテン語で Rubrum 海,ギリシア語で Erythraeum と言われる。ある者は太陽によって打たれる際に海岸・地からこの色を 反射すると,ある者はそれ自身の性質であると,考えている。 さらに他の人々(その見解はより正しいと見え る)は,この海の Ogyri 島に墓所があった Erythra 王にちなむとする [Plinius 6.107 ∼ 108]。さらに Erythraeum 海と Bona Spes 岬とまで南洋のもう一つの部分が西に向かって始まる。Nigri 河口まで Aethiopia を洗うかぎ り Aethiopicus 洋すなわち Aethiopicum 海である。そしていまや Atlanticus 洋(Mauritania の山すなわちその岬 Atlas によって呼ぶ)すなわち Atlanticum 海がある。Hispania の Artabrum 岬(俗に Cabo de Roca)までである。 ここから Gallia の Celticae(俗に le Four)までが Gallicus 洋である。それは,Hispania の Cantabricus 地方を洗 うかぎり,Cantabricus 洋と呼ばれる。Gallia の Aquitania 州のかぎり Aquitanicus 洋である。ついで Britannia と Galia の間が Britanicus 洋である。Hibernia・Britannia 間が Hibernicus 洋,Scotia(かつて Caledonia と呼ばれた) の北が Caledonicus 洋(Ptolemaeus は誤って Deucaledonius 洋とした)である。Britannia を超えて Cimbros す なわち Dania の Iutiam 地方まで,Germanicus 洋が Germania を洗う。これらの名称は,古人によって大洋全体が区分されたものであり,今日でも大家は一部を維持している。し かしより遠い世界部分に後になって航行されるので,近年目についた大洋に最近の何らかの名称が負わされた。 勿論,大洋全体を四つの部分に分かつことによってである。Asia・America・Magellanica すなわち Australis の 地の間に流れ込んでいる水域は全て Hispania 語で Mar del Zur すなわち南の海であり,他の名称では波の穏やか さのゆえに Pacificum 海と名づけられている。ここから等夜線までの America・Europa・Africa の間に Mar del Nort すなわち北の海が広がる。等夜線を超えて America・Africa・Australis の地の間は Mar d’Ethiopia すなわち Aethiopicum 海である。Africa・Asia・Australis の間が Mar d’India すなわち Indicum 海である。最遠の地の岸ま で大洋のうちのこれらが囲んでいる。
第11章 大洋の大きな湾について
一方,Europa・Asia・Africa に分けられている我々の大陸について,古人は五つの大きな湾入を陸地のなかに 描いている。第一に Plinius[4.96] の Codanus の巨湾で,かつて Sueui が近くにいたので Tacitus は Sueuicum 海 と呼んだ [Tacitus 45]。今は俗に Balticum 海と言い,Germanicus の言葉では die Ost Zee すなわち東海であり, Pomerania・Dania・Suedia・Livonia・Prussia の 間 に あ る。 第 二 は Europa・Africa・Asia に 介 在 し,Maeotis
の湿地帯まで広がっている。そこで俗に地中諸海という名を帯びた。Latin 人はかつて内海と呼んだ。第三は Persicus と呼ばれる。Persia を右脇で洗う。第四は右岸が Arabia をひたす Arabicus である。これは聖書におい て Rubrum 海と呼ばれている。この湾は Erythraeum 海すなわち Rubrum 海だからである。今日俗に Mare Rosso と言われる。それはまた,讃えられている Mahumetis の生まれた街にちなんで Mar di Mecca ともいう。第五 は Caspius すなわち Hyrcanus と考えられた。その名称は一対として近在の人々によって探求された。それは初 め湾と名付けられた。Indicus 洋が Arabicum 海と Persicum 海とを南から受けるように,Scythicus 洋が北から それを受け入れていると信じられた。最古の記録者である Herodous や Aristoteles・Diodorus はそれとは意見 を異にし,大洋とは繋らずそれ自体の海であると論じた[ヘロドトス 1.204・アリストテレス 2.1.10]。そこで Ptolemaeus[7.5.4] はこの海をむしろ,足で回ることのできる湖と呼ぶことを好んだ。最近の著者たちもまたこ れに組している。Caspium 海・Hyrcanum 海は,いまや俗な名称で呼ばれてさえいる。近くにある街にちなんで 俗に Mar de Sala であり,近在のロシア語では Chuuaensk 海である。
第12章 内海について
海洋とその部分と,主要な湾入とについて語った。この後は,全ての中で最も有名であるから,さらに重要な 内海について語らねばならない。Atlanticus 洋は,西から Gadies 海峡を経て入り込み,両岸において Hispania からは Calpe で,Africa からは Abyla 山で切り離し(と古人は信じた。そしてこれは Hercules の柱と,あた かも彼の最果てでの功業であるかのように言われる),Europa・Africa・Asia の間に散らされる。そこから, Mediterraneus という俗名が,この海に付せられた。海峡自体,その入り口のようなものであるから,それの 前に位置する有名な Gades 島にちなんで Gaditanum という異名が付けられた。そして他の Herculeum とい う名称は,Hercules が Africa から Hispania に渡ったという伝説による。海自体が入り込んでいくと,左手に は Europa,右手には Africa が控え,両者の間,最奥に Asia がある。この海は,それが洗う各地方の岸に応じ てさまざまな名称のなかに散っている。Iberia すなわち Hispania では Ibericum 海すなわち Hispanicum 海と呼 ば れ る。Baleares 島 周 辺 で は Balearicum 海,Narbonensis で は Gallia 州 湾, つ づ い て Liguria で は Ligusticus 湾,そこから Sicilia へは Tuscum 海(これをギリシア人が Tyrrhenum と呼び,Latin 人は下の海と呼んでい た),Corsica 島周辺では Corsicum 海である。Sicilia から Creta までは Siculum 海,Creta から Cyprus までは Cyprium 海,そして Asia 大陸までが Cyprium 海である。Sicilia・Italia・Graecia の間は Ionium 海と呼ばれる。 そのうち Italia・Illyricum の間の部分は Adriaticus 湾である。Adia という街にちなんでかつてそう呼ばれた。そ れはまた上の海とも言われる。Tyrrhenum が下の海だからである。Adriaticus 海のさらに一部が Illyricum 海で あり,それがまた二つの部分になる。Dalmatiam に面して Dalmaticum 海,Liburniam に面して Liburnicum 海 である。Sicilia と Adriaticum 湾との間が Ausonium 海と呼ばれる。Italia のこの部分がかつて Ausonia と呼ばれ ていたためである。そして Italia・Illyricum・Graecia・Sicilia の間は全体として Ionium 海であり Siculum 海と もいう。Peloponnesus・Achaia の間に Corinthiacus 湾がある。Graecia・Creta 島・Asia の間に Aegeum 海があ る。無数の島に満ちて,今は Archipelagus である。それが洗う島々によって,さまざまな名称を受けている。 Myrton 島で Myrtoum 海と言い,Icaria 島で Icrium 海,Carpathum 島で Carpathium 海,他の場所では他のよう に,といった次第である。ここから,広大な海は Europa・Asia 間に局限され,地の間の水路に再び突入し,そ して巨大な湾に れ出る。最初の海峡を Hellespontum という。Persa 王 Xerxes は Graecia と戦争するためにこ こに舟橋を広げて進軍した。それから細い海峡が延びる。ついで水面は広がり,再び隘路に遭遇する。Laxitas Propontis と呼ばれる。あたかも Pontus の玄関のようである。Thracia の Bosphorus 海峡である。水路を牛が渡 ることに由来する。Xerxes の父 Darius が橋で軍を渡らせたところである。ここから海は再び広くなり Pontus Euxinus となる。近隣の人々の美風によってそう呼ばれている。かつては Axenus であり,隠伿者が長くこの地 を占めている。岸の大きな屈曲によって,Maeoticus 湖の出口に繋る。それは Cimmerius が Bosphorus と呼ぶ。 この Maeotis 湖自体,Europa・Asia の最奥端において Tanais 川を受け入れている。ここまで,内海が Europa を洗う諸部分について語った。Aegaeum 海の先の Asia では,Caria を洗うところを Carium 海と呼ぶ。Rhodum 島周辺は Rhodium 海,Pamphylia では Pamphylium 海,Cilicia では Cilicium 海である。さらに Syria あたりは Syrium ないしは Syriacum 海,Cyprum 島は Cyprium 海,Cilicia の有名な街である Issus 沖は Issicus 湾,とい う。Phoenicen で は Phoenicium 海,Palaestina で は Palaestinum 海,Iudaea で は Iudaicum 海,Aegyptus で は Aegyptium ないしは Aegyptiacum 海,Cyrenaica 地方では Cyrenaicum 海,ここから Libya すなわち Africa では
Libycum すなわち Africum 海,Numidia では Numidicum 海,Mauritania では Mauritanicum 海,である。
第13章 大洋の航行について
Europa・Africa・America の間にある Atlanticum 洋を初めて渡り始めた古人は,死を免れないと言われたに違 いない。Aegyptus 人・Graecia 人が America の地を知っていたこと,および Carthago 人が航行したことは,後 に該当箇所で示すことにする。我々および我らの祖先の記録によれば,全地球は今や何度か周航されている。 中世には,Graecia 人・Roma 人によって,Europa・Africa・Asia という名前で区分する一つの大陸だけが知ら れていた。Plinius の第 2 巻第67章は,この大陸の周航について述べている。Gades および Herculus の柱から Hispania および Gallia を巡るには,彼の時代,すべて西に航行されたこと,そして,神君 Augustus の権威のも とで,広大な海を展望し Scythicam 方面および水分がはなはだ凝結するところまで少なくとも伝聞で知るために, 艦隊に Germania を Cimbri 岬まで巡回させ,北の方へ大洋が部分的に航海されたこと,である [Plinius 2.167]。 Tiberius の命令でなされた事績については Velleius の第 2 巻によって知られる6 )。さらに Plinius は,Alexander 大王の勝利によって東洋・南洋の主要部分が Arabicum 湾まで踏査されたことを書いている。そこではその後, August の子 C.Caesar が Hispania の難破船から船章を見分けたということが起きた。Carthago の勢威が盛んな ときには Hanno が Gadeis から Arabia の奥まで回航しその航海を記録した。Europa の外を知ろうとするため に同時期に派遣された Hemilco のように [Plinius 2.168 ∼ 169]。同じ Plinius の書中では Nepos Cornelius の著 書にも拠る。すなわち Nepos の同時代人 Eudoxus は Aegyptus 王 Lathyrum を逃れるために,Arabia 湾から出 帆し Gadeis まで航海した。それよりも相当前に Caelius Antipater は同じ点について,商売上の交際のために Hispania から Aethioia まで航海したと称する者を彼自身が見た,と断言する。さらに Plinius の同じ箇所によれば, Nepos は,北方回航についても語っている。Gallia の proconsul である Q. Metello Celeri は Suevi の王から India 人を贈り物として贈られた,その India 人は商取引のために India から運ばれた者で,嵐のために Germania で 救われたのだという [Plinius 2.169 ∼ 170]。とは言え今日,この航海はより頻繁に,Hollandia・Anglia から試み られているが,恒常的な氷とうち続く暗闇とに妨げられて成就されえたことはかつてない。Plinius の語ってい ることが真実であるならば,我々の球は周航可能であった。
第14章 全球区分の大要
水すなわち海洋とその諸部分とについては,これまで簡単に語ったことで十分であろう。今や地について語ら ねばならない。地球全体はまず三つの部分,すなわち大洋に環流される三つの大島に分かれている。そのうち の第一は我々が住んでいるものである。第二は America,第三は Magalanica で,これは Australis かつ Incognita の地とも呼ばれる。というのも,海岸をのぞいては我々に何も知られていないからである。この三つの島(も しくは大陸と呼ぶことが許されるべきである)のうち,我々の居住するところを第一番に説明していく。それが 我々にとって父祖の地だからであり,それを最も重要な点について近年部分的に知るようになったからである。 それがどのような海の名前によって囲まれているかは,先に述べた。その他の点ではまず,それが初めから三つ の部分に分かれている。その名前は Europa・Asia・Africa である。Asia をセムに,Africa をハムに,Europa を ヤペトに割り当てるという,この分割は Noachi の息子の数によっていると考えられる。とは言え,最初のそれ らの境界は,出現した帝国の,さらには地理学者たちの,主張のために都合のよいように変化した。ハム・ヤペ トの若干部分がセムの部分に加わったのである。確かに後世,中世の人々は一つの同じ方式でそれを分割した。 別の者はその二つのみを設置した。二分法である。Asia・Europa で一つ,Africa はその名前のもとで,Calpe 山・Abyla 山において双方に分けられ(と信じられていた)海峡が裂けたと理解されている部分,である。他 の者も同様に二分し,Gaditanum 海峡から Tanais 川まで,まず Europa,ついで Asia で,Africa は Asia のもと に考えた。また他の者は四つの部分に区別した。Europa・Asia・Aegyptus・Africa である。そこから,後に別 の者は Europa・Asia・Africa の三つの部分を設定し,Nilus を Asia・Africa 間の境界に据えることが,一方には Aegyptus・Africa の部分,他方は Asia の部分,を受け入れることよりも適当でも正当でもなくても,Aegyptus を Asia に配した。最近の者は Arabicum 湾を Asia・Africa の端に置き,Aegyptus を Africa に加えた。実のところ, 全球の区分と境界とは古代の著作者の間でこのようにさまざまなものが,明らかに雑然と認められる。そして Europa と Asia との間の境界については,伝統はより曖昧で確実さが乏しい。Tanais 川について,その水源を完全に誤って Sarmaticus 洋(かの Petzora 川がそこに分け入る)に遠からぬ Riphae 山とした者がある。他の者は, Ponticum 海・Caspium 海の間にある地峡を,境界として設定した。彼らは Caspium 海は北洋の湾で,Obius 川 の巨大な河口の地方が湾入したものだと確信していた。しかし実は北の方で西から東の方 Obius 河口までにわた る全ての岸は Sarmatiam まで延びる。そして Sarmatia は Europa の部分である。したがって,真実かつ確実な Europa・Asa の間の境界を設けるためには次のようにせねばならない。Aegaeum・Hellespontum・Propntidem・ Bosphorum Thracium・Pontum Euxinum・Bosphorum Cimmerium・Maeotis 湖 の あ と, ま ず Tanais の 流 れ を 境として Tuia の街の近くの屈曲点まで川を る。次いで Obius 川の岸近くに向かって線を引く。ここから同じ Obius 川を大洋まで用いるのである。
第 2 巻
第 1 章 Europa 誌伷概
ではまず,武徳とさらに学問の栄光とをもち,それらによって昔から球の残りの部分に対して先に立った [Strabon 2.5.26] 故に,地のうちで久しく最も有名である,Europa について語ることにする。Asia とつながる 東の境界については前章で述べた。南は内海・Herculum 海峡・Atlanticum 海,西は同じ Atlanticum 海,北 は Hyperboreum 海すなわち北洋である。その最大長は,Hispania の Sacrum 岬(いまは俗に Cabo de Vincente と 言 わ れ る ) と Obius 河 口 間 で, 約900GM で あ る。 最 大 幅 は Peloponnesus の Taenaro 岬 か ら Rutubas の Scitofinniae 岬(いまは俗に Noortkyn と言われる)まで 550GM である。昔はさまざまな民族・地方に分かれて いた。今でも著名なそれらの名称は次の通りである:Hispania・Gallia・Germania・Vindelicia・Rhaetia・Italia・ Noricum・Pannonia・Ilyricum・Epirus・Graecia・Macedonia・Thracia・Moesia・Dacia・Sarmatia。 洋 中 の 大 島には Britannia・Hibernia・Thule があり,内海には両 Baleares・Scilia・Sardinia・Corsica・Creta・Euboea, その他無数のより小さい島々がある。今日では多くの王国・principes 国に分けられている。主要な王国は, Hispania・Gallia・Anglia・Scotia・Hibernia・Norvagia・Svedia・Dania・Germania( い ま は Roma 帝 国 と 呼 ば れる)・Polonia・Bojohaemia・Ungaria・Slavonia・Croatia・Dalmatia・Bosnia・Servia・Bulgaria・小 Tattaria すなわち Precopensis,さらに Neapolitanum・Sicilia 王国である。archidux 国は 1,すなわち Austriae である。 magnus dux 国は 3,Moscovia・Lituania・Tuscia である。公国および principes 国は無数にある。Europa の姿 を Strabo は龍になぞらえた。その頭が Hispania,頸は Gallia,胴体は Germania,右左の上膊が Italia・Cimbrica の半島である。現代では,婦人の座像が宛てられている。頭が Hispania,頸は Pyreaeis の山の下にある Gallia の末端部,胸は Gallia 自体・Brachia Italia・Britannia,腹は Germania,臍が Bojohaemia である。胴体の残り は椅子の周りに大きく広げられた衣服の下で Norvagia・Dania・Svedia・Finnia・Livonia・Lituania・Prussia・ Polonia・Ungaria・Slavonia・Croatia・Dalmatia・Graecia・Thracia・Servia・Bulgaria・Transilvania・Ualachia・ Moldavia・Tattaria Precopensis・Moscovia にあたる。諸部分に分けられた Europa の概要を述べた後は,その地 方を一つずつ検討する。
第 2 章 Hispania について
第一の地は Hispania である。Mars 種族の王家にとって常に母国であり,見栄っ張りの代価であれ使用が不可 欠なものであれあらゆる物資が豊かである7 ) 。人・馬が豊富で,金・銀・銅・鉄・黒鉛・白鉛などの金属につい ては全てがほとんど満ちあふれている。小麦,特に葡萄,そしてオリーブは非常に豊富で,水が足らないために 荒れて本来とは異なっているところでも亜麻・スパルトゥムを育てるほどである [Mela 2.86]。Hispania の肥沃 さについては古代の地理学者はほぼ全員が一致している。彼らは誤ったと私には思える。それはギリシア語で は ȈʌĮȞȚĮȞ であり,住民の少なさと土地の粗さ・不毛さとを言うものと思わせるからである。それにもかかわら ず,現代,その肥沃さを他の地と比較してあらかじめ言うことはできない。Iustianus は Hispania 王にちなむと 考えている8 ) 。私は,全ての地方が首都にちなんだように,Hispalis の街によって呼ばれるのだろうと考えた。 Graecia 人はその最も有名な Iberiam 川にちなんで初めから Iberia と呼んだ [Plinius 3.21]。Asia の人民たる Iberi が Hispania に来往したことを Varro は伝えている [Plinius 3.8] が,彼らにちなんだのではない。Graecia 人には この地は Hesperia でもあった。自分たちにとって西の方に位置していたからである。境界は東および南は内海,Gaditanum 海峡,Atlanticum 洋,西には同じ大洋,北は Cantabricum 洋・Pyrene 山脈(これによって Gallia か ら切り離されている),である。その最大の長さは聖なる岬(俗にいわゆる Cabo de S. Vincente)から内海近く の Gallia 境内の Salsulae 泉(俗に Salsas)まで約 190GM である。幅は Celtico 岬(俗に Cabo Finis terra)から Saturni 岬(いまは俗に Cabo de Palos)まで 150M. である。内洋と海とに包まれた半−島をなす。Pyrene 山脈が 横たわって海から守っている。Strabo はこれを広げた牛皮に喩えた [2.5.27, 3.1.3]。
第 3 章 古代 Hispania の区分
かつて Roma 人によって三つの属州に分けられた。Baetica・Lusitania・Tarracnensis である。Baetica は北・ 西を Anas 川に囲まれ,南は Murgim(いまは俗に Almeria)の街まで大洋および内海,東は Tarraconensis に隣 する。Tarraconensis とは,Murgi から俗に Ciudad Real と呼ばれている街および Ana 川に引かれた線で分けら れる。Baetica とは,中央を貫流する Baetius 川にちなんでいる。豊かに守られていることおよびその肥沃さと 特異な名声とにおいて他州に抜きんでている [Plinius 3.7]。Baetius 川・Ana 川に挟まれ Baeturia と呼ばれる部 分では,東には Turduli 族が,西には Celtici 族が Lusitania まで,長く延びて占居していた。今日,Baetica は Hispania の二つの王国 Granata・Andalusia と,Castilia Nova・Estremandura の一部を含む。Lusitania は,北は Durius 川,西は大洋,南は Ana 川によって限られ,東は Civitate Regali から Durius 川近くの街 Samora まで引 いた線によって Tarraconensis 州と分けられる。Lusitania というのは伝説上の Bacchus の伴 Lusus と Lysa とに よって名づけられたと古人は主張する [Plinius 3.8]。Tagus 河口の Olyssipo の街は Ulixes によって創られたと言 われた9 )。今日では,Portugallia 王国のほぼ全域と Castilia Veter・Castilia Nova の一部にあたる。Hispania の残 りの部分を Tarraconensis 州が占める。その首邑である Tarracone によって名づけられた。ここには,かつて有 名であった Celtiberi 族が Iberus 川の右岸に広く住んでいた。その首邑 Segobriga は,いま俗に Segorbe という。 Roma に攻略された有名な Numantia はまさに Celtiberia 地方の今の Almasan である。ここから Uascones であ る。Pyrenaeis 山地に付着している今日の Navarra 地方の大部分がここである。その首邑の Pompelon すなわち Pompeiopolis はいま俗に Pompelona という。Varduli は今の Guipuscoa で,その首邑 Flaviobriga は今の Bilbao である。Cantabricus 海に名前を譲った Cantabri は今の Biscaja であり首邑は Iuliobriga,今の Val de Viece で ある。Astures は今の Asturias で,その首邑 Asturica は今の Astorga で,かつては大都市であった。Gallaeci は Minus・Durius 両川の間にあり,その Brigantia は今の Bragonca で,現在は Portugallia の一部である。Vaccaei の Pallantia は今は Palencia,Carpetani の Tolecum は今の Toledo,そして Complutum は今の Alcala de Henares である。この下,南に向かって,Oretani が存在した。全 Tarraconensis 州は現在の次の諸地方を含む:Murcia・ Valentia・Catalonia・Arragonia・Navarra・Biscaia・Asturia・Gallaecia・Legionem・Castilia Veteres・Castilia Nova ほぼ全域。とは言え,Hispania は,Roma の二つの属州 Citeriore・Ulteriore のために,今でも目立つ。そ してこの地は多くの人々によって極めてしばしば Hispania と呼ばれている。Citerior Hispania は Tarraconensis 州そのものである。Ulterior は,Baetica・Lusitania を含む。Citerior・Ulterior は Roma 市によって,両 Gallia と 同様に,最後の頼みと呼ばれた。
第 4 章 Hispania のより著名な川およびかつての有名な都市について
大河で令名高きものは,Tarraconensis では Iberus 川(いまは俗に Ebro 川)で,商船で満ちている [Plinius 3.21]。Baetica では Baetis 川(いまは俗に Guadalquivir 川),Baetica・Lusitania 間に Ana 川(いまは Guadiana 川),全て Medeliana の街まで地下水路を満たす [Plinius 3.6]。約 8GM をすぎてから再び地上に現れる。Tagus 川(川沿いでは俗に Tajo)は Tarraconensis 州に源を発し大洋に貫入する。Lusitania 中央を通り抜け,かつて砂 金で有名であった [Plinius 4.115]。Lusitania・Tarracnensis 両州間の Durius 川(俗に Duero 川)は Celtiberis の Numantia 北方に源を発し同じ大洋に流れ込む。かなた Gallaecia には Minius 川(いまは俗に Minio 川)がある。 Pyrenaeus の麓には Sicoris 川(俗に Segre 川)が,Ilerdum の街を流れ下って Iberus 川に入る。全 Hispania で かつて有名であった都市は,Baetica では Astigi(いまは俗に Ecya)・Hispalis(いまは Sivillia)・Corduba(いま は俗に Cordova)である。Lusitania では Augusta Emerita(いまは Merida),Tarraconensis では Pallantia と先述 の Numantia,同じく Tarraco(俗に Tarragona)である。Scipio の事績は,かつてこの場所で行われた海戦のう ちで最も力強いものである。Caesar-augusta すなわち Caesarea Augusta(俗に Caragoca)は今日でも Hispania
全都市のなかで最も華麗である。Asturica は前述した。一方,Carthago Noua(俗に Carthagena)は Poenii 人の 創建で有名である。Saguntus(いまは Morviedro)は信頼と苦悩との令名を残している [Mela 2.92; Plinius 3.20]。
第 5 章 Hispania の住民,ならびに近年の区分について
洪水の後に諸種族が分散したときにノアの孫トバルが最初に Hispania に来着した,と現代の著作家たちは Iosephus を根拠として断言する。Iosephus は Tubalem を Ponticum 海・Caspium 海の間の Asia の Iberia にいた とした10)。 かな誤りもなく,Iberii 人が Asia・Persia を出て全 Hispania についたことは,M. Terentius Varro が伝えている [Plinius 3.8]。アスケナゼから増えた Celtae 族がすべて洪水の後に Hispania・Gallia・Britanica 島・ Germania・Illyricum を占居したことを,一族の作者について作品を見抜くことができるように,私は見抜くこ とができる。それらの名前が Hispania の多くの場所に固着されていることはギリシア・ローマの著者たちが報 告してさえいる。Baetica・Lusitania の一部,Celticum 岬(いま俗に Cabo finis terra)までの Tarraconensis 州 の一部,に住んだ Celtici の名前と同じことである。Iberus 川のほとりに住む Celtiberi 族の名前も同様である。 Plinius は Tarraconensis 州の人民である Oretani に Germani と名前を付ける [Plinius 3.25]。その根拠を私は知 らない。知られているかぎりで,外国人のなかでは Phoenices が最初に Hispania の Celtas に至った。Tyro から 内海を経てここまでやってきて,Gadeis に着いた。Baetica の一部,後に Turditania と呼ばれるところを占居し た。Diodorus・Strabo11)
によって私はそう理解する。Graecia 人はほどなく Massailia から入植者を Pireaeum・ Iberum・Rhodam・Emporia の間に移した。それらの街は,いまは俗に Rosa・Empullia と呼ばれている。奥 地に誰か Graecia 人が居住したことは(詩人 Silius[3.366∼367] が欲するように)Gravii から Graji に訛った Graecia の城砦 Tyde(いまは俗に Tuy)が,今日 Gallaecia の一部である,Tarraconensis にあることからわか る。その後,Carthaginiensis はそれのより大きな部分に住み着き,内海のほとりではかの Amilcare を占居した。 第二次 Poeni 戦争では Poeni が打破され放逐されたことは,全て Roma の事績である。その覇権のもとで諸州 の部族民は,Honorius 帝の騒乱まで差異を維持した。Germania の Gothi・Vandali 両族が AD400年頃これを侵 略し,所属していた属州を三つの王国に分配した。その後720年頃 Saraceni が Mauri とともに侵入したため,全 Hispania は掠奪され幾つかの王国がそこに樹てられた。キリスト教徒すなわち Gothi の遺民は天然の要害地た る Asturia・Legion に押し込められた。王国の数は遂に14となった。それらの名前は以下の通りである:Legio・ Gallaecia・Portugallia・Algarbia・Andalusia・Granata・Murcia・Valentia・Arragonia・Catalonia・Navarra・ Castilia Vetus・Castilia Nova。この Toletanus 王国および Baleares 諸島(俗に Majorca・Minorca と呼ばれる。 これらは Ebulo 島とともに,いまは俗に Yvica と言われる)は一つの王国を構成している。その後これらから我々 の時代に,3 王国が永続的・称号的に明確になった:Castilia・Arragonia・Portugallia。
Castilia 王国
Legio 王国(俗に Leon)は,Mauri によってこの場所に追い込められた Gohti の遺民が樹てたと言われている。 Legio の Ferdinandus 一世は,婚姻で結びつけられた Castilia によって,自己の王国を Castilia という一つの名称 で呼んだ。その後,Mauri が征服され駆逐されたため,Gallaecia・Andalusia・Granata・Murcia・Navarra を攻 撃した。一方 Navarra は960年頃,Bigorria(Gallia Aquitanica の一部)伯 Enecus が Pyrene を越え Mauri を排斥 して王国を樹てたものである。その後,Castilia 王 Henricus 四世は武力により Navarra 王国を占領し自己の王国 に併合した。
Arragonia 王国
Arragonia 王国は初め,Navarra 王 Sanctius Magnus の庶子 Ramirusが1016年に樹てた。この後名声によって Catalonia と Valentia とが合併された。Iacobus 王は1252年に Balares 島を自身の武力で占拠し,誓約によって Arragonia 王国を Christiana に併せた。最後に Castella・Navarra 王 Ferdinandus 六世(Carolus 五世の母方の祖父) は婚姻によって Castella と Arragonia とを結合した。その後,Ferdinandus 三世が Granatense 王国に押し込めて いた Mauri を Iudae 族とともに全 Hispania から1492年に追放した。
Portugallia 王国
Portuallia 王国は,次のような次第で始まった。Lotharingia 伯 Henricus が Hispania における Mauri に対抗 する巨大な国を樹てたので,その功績と労苦とに対する褒賞として,Castella 王 Alfonsus 六世は彼に庶出子の Tiresia を嫁がせ,いま Portugalia と呼ばれている Hispania の一部を婚資として与えた。その子は Mauri の王 5 人と一戦して潰走させ,1110年に初代 Portugallia 王と呼ばれた。その後は代々続いて,最後の Sebastianus 王が Africa で殺され,王国は Castella 王に帰するに至った。
このような次第で,全 Hispania 王国は一人の有に帰し,全 Hispania がこの一人を知っている。それは現 在(Castella の,という称号よりも Hispania の,という称号を好んでいる)Philippus 三世である。その事績 は,Hispania 王の称号によって,それぞれの領土を独占する表の中に見ることができる。Castella・Arragonia・ Portugallia の三重の称号により保有できるものを全て保有している。Castellia 王国のもとにあるのは以下の諸 国 で あ る: 両 Castella・Legio・Asturia・Galaecia・Extremadura・Andalusia・Granata・Murcia・Biscaia・ Navarra・Mediolanum・Belgica・Burgundia 伯領・Canaria 諸島・America・Philippina 諸島。Arragonia の もとにあるのは以下の諸国である:Arragonia 本土・Catalonia・Valentia・Baleares 諸島・Majorica・Minorca・ Napolitanum 王国・Sicilia・Sardinia。Portugallia 王国のもとにあるのは以下の諸国である:Portugallia 本土・ Algarbia・東 India・Brasilia・Molucca 諸島。その他については,Hispania 本土のなかで公爵位が24ある。世 界中の他者には容易になしえないことが実現されていることに驚嘆するがいい。もとより,Portugallia には Brigantinum と呼ばれる大公領があり,それが王国の第三の部分をなしている。Hispania 全体で大司教領は12, 司教領は55である。
第 6 章 都市・港湾・今日有名な学園について
Hispania において今日有名な都市は,Catalonia の首府の Barcino(俗に Barcelona)である。かつては小さな 街であったが今は有名な市場である。とは言え,港は便宜に見放されている。停泊している船はつねに嵐のた めに危うくなるからである。Arragonia の首府 Caesaraugusta(俗に Caragosa)は Hispania の都市なかで最も壮 麗である。Pompelon すなわち Pompeiopolis(俗に Pompelona)は Navarra の首府である。かつて王国の首府で あった Valentia はいまは Hispania のさまざまな功業のなかで最も優美である。王国の首都 Murcia は Hispania の公園と呼ばれている。Carthago Nova(俗に Carthagena)は内海に臨む Hispania 最上の港である。王国の首 都 Granata は華麗かつ有力な都市である。Andalusia の首府 Hispalis(俗に Sevilia)は Europa の市場のなかで 最も富裕なもののうちの最も壮大な都市である。S.Lucas は Hispania 居住者の船の泊地である。Corduba は非 常に有力な,それだけに庶民の少ない都市である。Marcena の街の農地は,Hispania 全土で最上の Asturia 馬 を産する。Toletum は Hispania のほぼ中央を占める。あらゆるもののなかで最も大きくかつ難攻不落である Madritium(俗に Madrid および Madril)は玉座の故に高貴な街である。ここから 5M. 離れて Escuriali にかの 豪壮な D. Laurentius 修道院がある。Philippus 二世の造作で,1557年に Picardia の S. Quintinum 付近で展開さ れた Gallus に対する勝利を記念して建てられた。Castella の旧首府である Burgi(俗に Burgos)はその古さと 偉大さのために有名である。Valliadolid は Europa の最も輝かしい都市の一つに数えられている。Gallaecia の首 府 Compostella(俗に S. Iago とも)は D. Iacobus Apostolus の前面にあり,その位置によって有名になったと信 じられている。Olyssipo(Hispania 語では Lisbona,Portugallia の住民には Lisboa)は Portugallicus 王国の首府 であり,大きく,人口が多く,商業で最も有名な都市である。Setubal・cuidad di Puerto・Corunia・Ribadeo・ Vierus・Bilbao は大洋に面した有名な港である。
より著名な学園としては,Castella 王国に Salmantica・Complutum,Portugallia 王国には Conimbrica がある。
第 7 章 Hispania 近くの島嶼について
Hispania に隣接している島のなかでより有名なものは両 Baleres・Ebusus・Gades である。
Baleares は Tarraconensis の岸に向かって位置し,相距たること幾許もない。 その距離のゆえに,複数形の Majores・Minores が異名として受容されるよりも,むしろ単数形の Major・Minor で呼ばれる [Mela 2.124]。 投石機12)のゆえにかつては好戦的で,それゆえ ਕʌઁIJȠ૨ȕȜȜİȚȞ(すなわち発射することにより)というよう