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Summa Theologiae Ⅰ,q. 15 と De Veritate q. 3におけるイデア論の基本的構造 -Thomas Aquinasのイデア論研究Ⅱ-

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Summa

T・加ologiaeT。7- 15とDe

Veritate・7. 3

におけるイデア論の基本的構造

   -一一ThomasAquinas

のイデア論研究n-         岡  崎  文  明

      (人文学部哲学教室)

A Fundamental Structure of Theory of Ideas in Swrnma

    Theolo^iael, 17. 15 and £le Verμate q. 3

Thomas Aquinas' Theory of Ideas H  ̄       Fumiaki Okazaki (Dりiiarttnent of Philoso夕hy・ Faculり0/ Humanttes) I.序-・問題提起 Ⅱ.イデアとは何か(1)-・イデアの基本的 規定 1.イデアの二つの条件  i)認識の根原としての形相  ii)範型としての形相 概 〔1〕 〔2〕∼〔13〕    〔2〕    〔3〕 イ)それは何か;事物から離れていると  は何を意味するか         〔4〕 ロ)範型の形相が有しうる二つの存在 〔5〕 ハ)自然本性的存在を有する範型   〔6〕  1)事物から離れているとは言えない〔7〕  2)この形相はイデアとは言えない 〔8〕    ニ)可知的存在を有する範型   iii)〔2〕∼〔9〕の結論  2,イデアの第三の条件一神の精神におけ   る形相  3.範型のイデアの優位  4. n章の結論 .イデアとは何か(2)一一イデアの本質的 〔 9 . 〕 〔 1 0 〕 〔 1 1 〕 〔 1 2 〕 〔 1 3 〕 〔14〕∼〔24〕  である 2.神の認識  i)神自身と神以外のものを認識する  ii)その認識の仕方 3.イデアは神によって知性認識された神の  本質である 4.神の自己認識  i)人間の認識  ii)神の自己認識 5.神の他者認識 6.イデアは、神の一種の反省知・自覚知で  ある 7.イデアは観念的に区別された神の本質で  ある.それゆえ多数のイデアか在る 8.神の被造物への関係は観念的であるか被  造物の神への関係は実在的である  9.Ⅲ章のまとめ Ⅳ.イデアとは何か(3)一神の認識との関 係において 〔 1 4 〕 〔 1 5 〕 〔 1 6 〕 〔 1 7 〕 〔 1 8 〕 〔 1 9 〕 〔 2 0 〕 〔 2 1 〕 〔 2 2 〕 〔 2 3 〕 〔 2 4 〕 〔25〕∼〔34〕 容 1.認識の種類  i)実践的認識と思弁的認識  ii)実践的認識の二種類  iii)思弁的認識の二種類 2.神の認識の種類  i)神の実践的認識の二種類  ii)神の思弁的認識の二種類 3.神の四種類の認識にイデアは対応するか 4.実践的イデアと思弁的イデアの関係  i)実践的イデアは思弁的イデアに実践的   秩序を付加したものである  ii)実践的イデアの諸対象は思弁的イデア   の諸対象に包含される 5.「範型」について,「真理論」と「神学 〔 2 5 〕 〔 2 6 〕 〔 2 7 〕 〔 2 8 〕 〔 2 9 〕 〔 3 0 〕 〔31〕 〔32〕 大全」では,主張に若干の相違か見られる〔33〕  6.Ⅳ章のまとめ V.「何の」イデアか存在するか  1.悪のイデア  2,第一質料のイデア   i)範型のイデア   ii)観念のイデア    〔34〕 〔35〕∼〔47〕    〔35〕    〔36〕    〔37〕 3。「存在せず、存在しないであろうし、存  在しなかったもの」のイデア  i)それは何か  ii)「真理論」と「神学大全」では主張に   若干の相違が見られる 4.基体と偶有のイデア  i)トマスのプラトン解釈 〔 3 8 〕 〔 3 9 〕 〔 4 0 〕 ii)基体に不可分に伴う偶有のイデア  〔41〕 iii)基体に外から付加された偶有のイデア〔42〕  5.個物、種、類のイデア   ロ トマスのプラトン解釈   ii)個物の範型のイデア   iiD種と類の範型のイデア   iv)三者の観念のイデア  6.V章のまとめ Ⅵ.全体〔2〕∼〔47〕のま・とめと残された問  題 ⅥI.使用文献 VⅢ.註 〔 4 3 〕 〔 4 4 〕 〔 4 5 〕 〔 4 6 〕 〔 4 7 〕 〔 4 8 〕 〔 4 9 〕 〔 5 0 〕

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210  高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学 一一- 〔1〕イデア論はプラトンに始まる.トマスによるとプラトンはイデアを事物の「認識の根原」 であると共に事物の「生成の根原」と措定した.トマスはこれをイデアの一般規定として受け入れ る.だがプラトンは更にイデアをそれ自体独立に存在するものとした.アリストテレスはイデアの この自存説を斥けるばかりかイデアそのものを否定し去った.ところでトマスは,アリストテレス の見解の一部を受け入れてイデアが自存することを斥けるか,イデアそのもの迄も否定せず,却っ てイデアは神の精神に存在するとした.これは直接にはアウグスティヌスの『八十三問題集』第四 十六問に依拠している.  ところで,トマスにおいて「イデア」(ideae)は「神の知」(scientia Dei),「御言」(Verbum) と大略次のような関係下にある.第一原因である神は純粋現実態である.それゆえ神は完全な認識 を有する.すなわち「自己」と「自己によって原因づけられるもの」すべてを完全に認識する.と ころで神は自己を認識することによって自己の概念(conceptus)を有する.これか「御言」であ る.更に神は「自己」を認識することによって「自己によって原因づけられるもの」すべてを認識 する.すなわち自己の本質のうちに自己以外のものの「観念」(ratio)を有する.これが「イデア」 となるものである.かかるイデアを範型にしてこの世界か造られるにただしこの時には,この事物 を造ろうという神の意志の働きか加わらねばならない.  さて本稿で問題とするのは,「神の知における御言とイデアの関係」ではない. それを考察する 前に,「トマスにおけるイデアとは何か」を,先ず知って.おかねばならないと思われる.それゆ え,「トマスにおけるイデア論の基本的な構造」を,『真理論』第三間と『神学大全』第一部第十五 問を中心にして,明らかにすることか本稿のテーマである.・  〔2〕トマスはアウグスティヌスに従って,イデアを形相と規定する(1)しかし形相ではある が,質料と共に複合物を形成する形相ではない(2Jイデアと言われる形相は「事物から離れて存在 する」その事物の形相である(3)これかイデアの第一の条件である.  では事物から離れた形相は事物からどのように離れているのであろうか.事物から離れていると 言っても事物と無関係にあるのではない.事物から離れた形相は事物に対して或る一定の関係を有 する.それは何であろうか.それは二つある.  一つは,「範型」として事物に対し,他は,「認識印根原」として事物に対する.これかイデア の第二の条件である.       ●  〔3〕そこで第二の条件を検討してみよう.まず「認識の根原」として事物に対する形相から見 ていこう.   「認識の根原」として事物に対する形相とは,認識者が事物を認識するための形相である.お よそ認識か成立するためには認識されたもの(cognitum)が認識者において存在しなければならな い(4’,「認識されたもの」とは「認識対象(事物)の形相」であると言うことかできよう.例えば人 間の認識は抽象された可知的形象によって知性か形成されて(formari)成立する. この時知性は 自らのうちに認識対象の形相を概念として有する.かかる形相を「認識の根原」と言う.  では認識の根原たる形相はいかなる仕方で存在するのであろうか.一般に,認識されたもの(co-gnitum)が認識者のうちに存在するのは認識者の様態に即してである(5)それゆえ認識の根原であ る形相は,認識者の様態に即して存在する.認識者は知性である.従って,認識の根原である形相 は「可知的存在」(esse intelligibilis)に即して存在せねばならない,.つまりこの形相は認識対象 である事物の存在様態(modus essendi)を離れ, ̄認識者の存在様態を有する.  さて事物と認識の根原である形相は存在様態を異にすると云う意味で「事物から離れた形相」 (第一条件)と言われる.そしてかかる形相をイデアと言うことができる.

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3におけるイデア論の基本的構造(岡崎) 211  〔4〕次に「範型」として事物に対する形相を見てみよう.  「範型」として事物に対する形相とは,それに向けて(ad)事物が形相づけられるところの形相 を言う.事物はこの形相を類似するように構成される.従って範型の形相は事物か模倣する手本と しての形相と言えよう(6’.この場合,形相と事物を媒介する働きは「認識」ではなくて何らかの意 味の「形成或は制作」と言うことができるであろう.  きて,範型の形相に向けて形成された事物は形相と質料の複合物(compositum)である. 複合 物の部分としての形相は範型への類似(similitudo)ではあっても,範型そのものではない. それ ゆえ事物の形相は,範型の存在様態に即して存在するのではなくて,事物の存在様態に即して存在 する.このように範型の存在様態と事物の存在様態とは異なるという点で,範型の形相は「事物か ら離れた」(praeter ipsas res)形相と言われる.’

 〔5〕しかしこのような範型の形相を直ちにイデアと言うことは出来ない.ではいかなる範型の 形相がイデアと言われるのであろうか.それを明らかにするために、範型の形相がいかなる存在様 態を有するかを検討してみなければならない.範型の形相が有しうる存在(esse)に二種類ある. 一9は自然本性的存在(esse naturale)であり、いま一つは可知的存在(esse、intelligibile)であ る.そこで範型の形相は自然本性的存在を有するか否かから見ていこう.  〔6〕自然本性的存在を有する’範型の形相は或る意味で存在する.それは「自然本性によって働 く者」(eaquae agunt per naturam)すなわち「自然本性的能動者」のうちに存在する.自然本 性的能動者の有する存在は「自然本性的存在」である.そしてこの存在(esse)が,自然本性的能 動者をして働かしめる(agere).そして「存在」(esse)と「働き」(actio)はかかる能動者の形相 に由来する(7)この形相は自らの形相を自分以外のものに伝えようとして働く.すなわち自分に似 たものを生ずるのである.例えば火は自らの有する形相によって他を熱し遂には発火さす.つまり 火は火を生ず.同様に人間は人間を生む.かかる形相は,「働きの根原」であり,新たに生じたもの の形相の「原型」である.そして能動者のうちに,自然本性的存在に即して先在している(praee-xistere)"'.以上の意味で,この形相は,範型の形相と呼ぶことかできると思われる.とすれば, かかる形相が自然本性的存在を有する範型の形相であると言えよう.  〔7〕では次にかかる範型は「事物から離れている」であろうか.もし離れているとすれば,い かなる意味で離れているのかを検討しなければならない.  かかる範型は或る意味で,事物から離れている.なぜなら能動者と生成したもの(事物)は「こ の存在」(esse hoc)という点で異なるからである.例えば「この火はあの火を生じた」と言う場 合,明らかに個物として,元の火と新しく生じた火は「この存在」(esse hoc)という点で異って いるからである.そこから当然,能動者のうちに在る範型も生じた事物と「この存在」(esse hoc) という点で異なる.かかる意味で範型は事物から離れていると言えよう.  しかしまた別の意味で,かかる範型は「事物から離れている」とは言えない.その理由は以下の 通りである. 自然本性によって働く能動者は自らの形相から働く(operare).その働きは必然づけ られている.しかも一つの結果(形相)しか生まない.例えば人間は人間を生み,馬を生むことは ないようにである.この場合,能動者のうちに在る形相(範型)と生じたものの形相とはいづれも 同じ自然本性的な存在(esse naturale)を有する.なぜなら能動者の形相の類似か生じたものの形 相であるから,である.ものは形相によって存在を与えられるのであるから,生じたもの(事物)も 自然本性的な存在を有する.かかる自然本性的な存在という点からすれば,範型は事物から離れて

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212 高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学

いないことになる.例えば,人間の場合,親も子も,人間の実体的形相を有するという点で共通 し,いづれもその意味で自然本性的な存在を有するからである.,かかる意味の範型は「事物から離

れている」とは言えない.

 〔8〕さてこのような形相は範型のイデアと言うことは出来ない.なぜなら,第一に,かかる形

相は「この存在」(esse hoc)と云う点で事物から離れていても「自然本性的存在」(esse naturale)

という点では事物と共通し,事物から離れていないからであ乱それゆえイデアの第一条件を満た さない.第二に,かかる場合,結果は必ずしも能動者の形相の完全な観念(ratio)に達しないから である.トマスはこのような形相を範型の形相とは言わず?1「それから何らかのものが形成される

形相」(forma a qua formatur aliquid)と言う(9)

 〔9〕次に可知的存在(esse intelligibile)を有する形相を見てみよう.かかる形相を範型とし

て有する者は「知性によって働く者」(ea quae agunt per intellectum)すなわち「知性的能動

者」である.それはその存在すなわち可知的な存在から働く(agere).その働き方は,自らのうち に先在させている(praeexistere)範型に似せて何らかのものを作る. 例えば建築家は建てるべき 家の類似(形相)を自らの精神のうちに先在させている.そしてこの形相に似せようとして家を作 る.かかる形相か範型である(10)         ▽  ではこの形相はイデアの第一条件たる「事物から離れている」を満たすであろうか.結論から言 えば満たす.理由は以下の通りである.範型の形相は,たとえば建築家の精神のうちに存在するの に対して,製作物たる家は質料のうちに存在する.それゆえ,範型の形相は可知的存在を有するの に対して,家は質料的存在(esse materiale)を有する.したがって両者は存在様態を異にする. それゆえ,範型の形相は事物から離れている.  これから知性的能動者のうちに存在している範型の形相はイデアと言うことかできる.  〔10〕Jぶ1上をまとめてみよう.イデアと言われ得る形相は,「認識の根原」と「範型」として働 く(第二条).そしてその形相は精神或は知性において存在する.そこからその形相は可知的存在 を有する.従ってその形相は必然的に,質料的存在(esse materiale) を有する事物と離れている  (第一条件)ことか帰結する.  〔11〕しかしながら,かかる形相がイデアであるためにはg上の条件だけでは十分と言えない. もう一つの条件を要する.トマスによるとイデアと言穆れる形相は,神の精神のうちに存在してい る形相のみを指す.トマスは「世界は…知性によって働く神によって作られたのだから,世界かそ れに似せて作られた形相か神の精神において存在せねばなら力い.そしてここにイデアの性格か成 り立つ」(I> 15 , 1,c)と言う.つまり神は世界を造った.従って神の精神において世界の範型の形 相か存在していなければならない.そしてこの形相か本来の意味でイデアと言われる.かくしてイ デアは神の精神において存在している形相であるという第三の条件が加えられる.  ではかかるイデアはどのような存在様態を有するのであろうか.それは神の精神において存在す るのであるから,神的存在(esse divinum)を有する.それゆえ,石のようなそれ自身においては 生きていない質料的事物であっても,そのイデアは,神の精神においては,神と同じく可知的であ り,非質料的であり,そして生命等である(11) 〔12〕以上から明らかとなることは神の精神に存在している形相は何よりも世界の範型としての

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3におけるイデア論の基本的構造(岡崎) 215 性格を有する・ことである.それゆえイデアの性格の第一は,認識の根原ではなくて,範型であると 言わねばならない.それは,神がこの世界に対して,単に世界を思弁する者として在るばかりでは なくて,世界を創造する者として在るからである.つまりトマスにおける神は創造主(Creator) なのである. これはトマズが聖書はじめ教父達等から学んだことであるが(12;とりわけ創造主な る神が世界を造る原理としてイデアを措定することは,直接的にはアウグスティヌスの『八十三問 題集』第四十六問に依拠している(13Jそれ故イデアの範型としての性格が第一に強調されるので ある.従ってイデア論は創造論の基礎となっていると言えよう.  だが神はまた世界を単に思弁的にも認識する.それを世界の範型の形相によってなす.したがっ てこの形相は同時に認識の根原でもある.このように,イデアは神においては範型七ある限りま.た 認識の根原でもある.これらのイデアの二つの性格については後(〔25〕∼〔33〕)に詳しく見ること にする.  〔13〕以上より我々はイデアの三つの条件をまとめて次の様に規定し直すことができるであろ う.「イデアとは,神の精神における形相である.そして,万物の範型として,かつ認識の根原と して働く.」  〔14〕以上はイデアの基本的規定を事物との関係において見て来た.次に問題となるのはイデア の神自身との関係である.以下これについて見ていこう.  既述の如くイデアは事物と関係する.イデアと関係する事物とは,神以外の一切の存在するもの  (entiaomnia)を指す.すなわち神によって造られるものである・  かかる事物のイデアは神の精神における形相であるが,それは「知性認識されるもの」(quod intelligitur)として在る.すなわち神の知性の認識の対象として在る・

 だが知性を現実態にもたらすところ「それによって知性認識される形象」(species qua

intelli-gitur)として在るのではない.なぜなら神はかかる形象によって形相づけられるという仕方では 認識しないからである.もし神がこのような形象によって認識するとするならAという事物を認識 するのにAの形象によって,Bという事物を認識するのにBの形象によって・云々とそれぞれ別々に 神の知性が形相づけられることになる.とすれば神は別々のものを別々の知性認識によって知るこ とになる.これは神の単純性に反することになるCH)事物のイデアは,かかる形象ではなくて神 の精神において「知性認識されたもの」(intellectum)として在る形相であるC15Jしたがってまた これは神の精神における事物の「観念」(ratio)である(18)すなわち神の認識内容である.  〔15〕次に,神の知性における事物のイデアか「知性認識されたもの」(intellectum)として在 るのはいかなる仕方によるのかを見なければならない.そのためにまず神がいかに認識するかを検 討していこう.神は存在の純粋現実態である.従って最高度に完全である.それゆえそこにすべて の完全性を含む. そこから神はその存在(esse)自体,その知性認識(intelligere)自体,その生  (vivere)自体である(17)そしていづれも純粋現実態として神の本質そのものである.それゆえ 神は完全に自己を認識する.すなわち神の認識の第一の対象は神自身である.  ところで何かが完全に認識されるには,その能力も又完全に認識されなければならない.更にそ の能力か完全に認識されるためには,その能力の及ぶものか認識されなければならない(18)それ ゆえ神は第一に自己を認識するばかりではなくて,第二に神によって造られる或は造られうるすべ てのものをも認識する.

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 214        高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学  〔16〕次に問題となるのは神は自己と他のものをいかにして認識するのかということである.何 かが認識されるのに二つの仕方かおる.  一つは,「それ自身において」認識される場合である.それは,ものか,その可知的なもの自体 に相応した固有の形象によって認識される場合である.例えば目は,人間を人間の形象によって見 るように.  今一つの仕方は「他者において」認識される場合である.これは,ものが,それをつつむ形象に よって見られる場合である.例えば,部分が全体の形象によって全体において見られるように,ま た人間か鏡の形象によって鏡において見られるように(181である.  さて以上を神の認識にあてはめてみる.神が自らを認嘩するのは自己においてである.なぜなら

神は自己を自己の本質によって(per essentiam suam)見るからである.これに対し神は自己以

外のものをそれら自体において見るのではなく,神自身において見る.それも神の本質が神以外の ものの類似を含んでいるという仕方で,見るのであび19Jこの類似かイデアと言われる.しかし

この場合も神は「自己の本質によって」(per suam essentiam)神以外のものを認識する(20)

 それゆえ神は,自己と自己以外のものを,認識するのは,「自己において」(in seipso),「自己

の本質によって」(per essentiam suam)であると言えよう.

 〔17〕次に,神の本質における神以外のものの類似かイデアとなる仕方を見てみなければならな い.神以外のものとは,神によって,「造られるもの」と「造られうるもの」を指す.前者はいつ かこの世界に現実に(actu)作り出されるものである.後者は決していかなる時にも,現実にこの 世界に作り出されることはないが,それにもかかわらず作り出ざれうるもの,その意味で,能力態  (virtus)或は所有態(habitus)において存在するものである.こ,れらを一括して被造物と呼ぶこ とにしよう.  前節,において神がなす自己と他のものの認識を見Zこ. これを,神の本質の認識と云う側面から見 直してみよう.  神は自己の本質を完全に認識する.それは神が自己の本質を,およそそれか認識されうるあらゆ る可能な仕方で認識することである.既述の如くその認識は対象にようて二大別される.  第一に神は自己の本質をそれ自体において在る限りにおいて認識することかできる.これが神の 自己認識である.そればかりではない.        /  次に神は,自己の本質を,或る仕方の類似に従って諸被造物によって分有され得るもの(parti − cipabilis)である限りにおいて認識することもできる.すなわち神は被造物を単に認識するだけ ではない.自己の本質を,被造物によって一定の仕方で分有されうるものとしても認識することも できるのである(21)  ところで被造物は固有の形象を持っている.その固有の形象は,一定の仕方で分有された神の本 質の類似(similitudo)である.一定の仕方とは,被造物が神の本質の類似を分有する比(propor-tio)である.この仕方,比か各被造物によって異なり,その結果各被造物はそれ固有の形象を有 する(22)  それゆえ神は,自己の本質を,この被造物によって模倣されうるもの,或は分有されうるものと して認識する限りにおいて,自己の本質をこの被造物の固有の観念(ratio)或はイデアとして認 識する‘23)つまり,イデアとは神の本質である.しかし本質である限りの本質ではなくて,この  ● ●● ● ● ●●  ● ●● ● ● ●  ●●  ●● ● ●● ●  ● ● ●●● ● ●●●● ● 被造物によって「分有されうる」或は「模倣されうる」と神によって認識された(intellecta)神の 本質である(24)それゆえイデアは分有・模倣つまり創造という観点から見られた神の本質であ り,したがって範型としての性格の方か認識の根原としての性格に優位する根拠をここに見ること

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3におけるイデア論の基本的構造(岡崎) 215 ができる.このように認識された神の本質はまた広くその被造物の類似(similitudo)或は観念  (ratio)とも言われる(25)そしてイデアは神によって「知性認識されたもの」(intellectum)と言 われた〔14〕根拠もここに存する(15)  〔18〕以上明らかになった事柄は,イデアとはこの被造物によって分有されうる或は模倣されう ると神によって知性認識された神の本質であるということである.さて,我々はこれが何を意味す るのかを調べてみなければならない/そのために再度神の認識から検討することにしよう.  既に見られた様に〔15〕〔16〕,神は自己以外のもの(被造物)を認識する.  我々人間の認識が成立するためには,知性(intellectus)という認識能力(vis cognoscitiva)を 有する実体(substantia)を前提とする.我々の知性は,それ自体としては可能態にあるが,抽象 によって取り込まれた可知的形象(species intelligibilis)によって(per)現実態にもたらされ る. その結果知性は対象を認識する.この対象は知性における「知性認識されたもの」(intellec − turn)と言われる概念(conceptus)である.ここに,「知性の実体」と,それによって(per quam ; qua)可能態にある知性を現実能にもたらす「可知的形象」と,可知的形象を受け取ることによ って結果した概念(conceptus)つまり「知性認識されたもの」の三つが区別される.  〔19〕ところが神の認識においてはこれらの三つは全く同一である.その理由は次のとうりであ る.神は純粋現実態である.それゆえ,神の知性は,人間知性のように可知的形象を欠いて可能態 にあるという場合は存在せず,常に可知的形象を有し現実態にある.そして更に神の知性は,人間 知性のようにたとえ現実態にあってもその知性と可知的形象は別であるといった場合は存在せず, 可知的形象そのものか神の知性そのものである.つまり神の「知性」はあらゆる意味で「知性認識 されたもの」と同一である(28)ここから,神の認識の主体である神の「知性の実体」は,それに

よって(per quam ; qua)認識されるところの認識の媒介(medium)である「可知的形象」と認識

対象である「知性認識されるもの」と全く同一ものとなる.  それゆえ,神(認識主体)は自分自身によって(認識の媒介)自分自身を(認識の対象)知性認 識するンつまり認識の主体も媒介も対象も同じ一つの「知性認識の働き」(intelligere)である(27) したがって神の自己認識は,直接的かつ無媒介の認識であると言えよう.これは神が本来このよう な在り方をした存在であるからにほかならない.これがすなわち神が純粋現実態と規定される所以 である.  以上明らかにされたことは,神の自己認識においては,認識の主体(intellectus),対象(quod

intelligitur),媒介(species intelligibilis).作用(ipsum intelligere)は全く同一(omnino unum

et idem)であるということであった.そこから神は「自己」を「自己において」「自己の本質に よって」(per essentiam suam)認識すると言われる(28)

 〔20〕これに対して既述のごとく〔16〕神は,神以外のもの(被造物)をも認識する.その仕方

は,神は「神以外めもの」を「自己において」(in seipso)「自己の本質によって」(per essentiam

suam)認識するというものであった.しかし,神以外のものの認識は,神の自己認識と全く別の 認識作用ではない.神の自己認識を前提としている.なぜなら,神の「神以外のもの」の認識は, 既述のように〔16〕「他者における認識」であった.例えば,部分(対象)か,全体の形象によっ て(per speciem 媒介),全体において見られるように,また,人間(対象)が,鏡の形象によっ て(媒介),鏡において見られるような認識であった(29)すなわち対象である神以外のものが,神 の本質を媒介として,神において認識されるのである.この場合認識対象は,神の本質に含まれた

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216 高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学 神以外のものの類似(similitudo)である(SO)「神の本質によって」と言われる神の本質は,神の 自己認識における可知的形象と同一である.神のこの可知的形象即ち本質によって,神の本質その ものが認識されると同時に,その本質に含まれている被造物の類似も認識されるのである.それゆ え,神の神以外のものの認識は自己認識を前提とする.と言うよりむしろ自己認識において,同時 に神以外のものも認識されるのである.       ‥  〔21〕さて,神の本質に含まれる類似(similitudo)は本来的な意味ではなくて,一般的に広い 意味で,イデアと言われる.本来的な意味でのイデアは,既に見られたように〔17〕,被造物を創造 に秩序づける実践的認識にかかわる. ところが今の場合の類似は必ずしも実践的認識にかかわらな い.後に見られるように〔30〕純粋に思弁的認識にかかわるもの一単に認識の根原を意味するー− にも,広い意味でイデアと言う名称か及ぼされる.目下の「類似」はかかる広い意味でイデアと言 われるものであろう.  それゆえ,かかる類似は,神の本質によって,単に思弁的に,それとして在る限りにおいて認識 されているに過ぎない.       ●●●●● かかる類似が本来的な意味でイデアとなるためには,既述のように〔17〕,       ●●●●● ● ● ● ● ●● ●●● ● ● ● 神の本質が,この被造物によって分有されうるものとして,神によって言わば自覚され反省されな ければならない.かかる一種の自覚反省作用を経た神の知が.「知性認識されたもの」(intellecta) として,本来の意味でイデアと言われる(SI)それゆえイデアとはこの被造物のイデアであって,現 実態において或は能力態において作り出されるもの(effectum)一‐被造物一一への関連(respe-tus)を含意する.  このように神の本質に含まれている類似が本来的な意味でイデアとなるのは,実践的認識に秩序 づけられる場合である.      い  〔22〕イデアとは,この被造物によって分有されうる或は模倣されうるものとして神によって知 性認識された神の本質であるという規定〔17〕は,更に,イデアとは単なる被造物の知ではなくて, この被造物が被造界に造り出されうるという実践的認識を伴った知であり,この意味で,被造物へ の関連を有するものとして自覚された一種の反省知であるととを意味していた.  次にイデアとは,知性認識されたものとしての神の本質であ,るということの意味を更に見てみよ う.既述のように,神は自己の本質をこの被造物によって分有されうる或は模倣されうるものとし て知性認識する.かかる仕方で知性認識された神の本質が,この被造物のイデアとなる.しかしま た神はあの被造物によっても自己の本質が分有されうくるものとして認識することもできる.この限 りにおいて神の本質はあの被造物のイデアとなる.このようにして,神の本質は一つでありながら 多数のイデアとなる(32)      ダ  この事態を更に検討してみよう.既述の如く〔17〕神は自己の本質を,それか認識されうるあらゆ る可能な仕方によって認識する.言い換れば,神は全く自由に,自己の本質をさまざまな事物に分 有されうるものとして知性認識することかできる.(事物か現実にこの世界に存在するか否かは神 の意志による.)このことは神が自己の本質を自由に,知性によって識別しているのである.知 性による識別は観念的な(secundum rationem)区別であって・実在的な(realis)区別を伴わな い.すなわち神は一つの自己の本質をただ知性によって,自由にどのようなものとして観念的に識 別しても,その本質に実在的な区別が生じるわけではない.したがって一つの神の本質がさまざま な被造物によって分有されうるものとして知性によって識別されでも,認識対象であるその本質の 単一性は失なわれることはない. ここに,神の一つの本質が多数のイデアとなる根拠か存する(33)  それゆえイデアとは本質である限りでの神の本質ではなくて,神によって観念的に識別された神

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15とZ:)・Veritate 3 に お け る イ デ ア 論 の 基 本 的 構 造 ( 岡 崎 ) 2 1 7         ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ㎜ ㎜ ㎜ ■ ■ ■ ■ ・ ■ ■ ■ ■ ㎜ ㎜ ㎜ ■ ㎜ ■ ■ ■ ■ ㎜ ■ ㎜ ㎜ ㎜ ㎜ ㎜ ■ ㎜ ■ ■ ■ ㎜ ㎜ ■ ㎜ ■ ㎜ ■ ■ ■ ・ ■ ㎜ ㎜ ㎜ ㎜ ■ ■ ■ の本質であり,その結果その本質はあれやこれの事物の類似ないし観念と言われる(34)  結論として,イデアとは神によって観念的に識別された神の本質であると言えよう.  〔23〕さて尼4上を創造という観点から見直してみよう.創造は一種の関係(relatio)を示す.関 係には二項(extrema)を要する.今の場合は「造る者(神)」と「造られるもの(被造物)」であ る.この関係は二つの観点から見られる.即ち一つは神が被造物を造るという,神の「被造物への 関係」である. これは上述のことから明らかであるように,神の本質における観念的関係を示す. いまーつの関係は被造物か神に向かって秩序づけられているという,被造物の「神への関係」であ る.これは,実在的関係(relatio realis)である(35)  イデアは前者の関係において成立する.神によって多数の関係か認識されているのであるから, イデアは多数あることになる(36)  〔24〕さて以上〔14〕∼〔23〕をまとめてみよう. 1)イデアとは神によって「知性認識されるもの」(quod intelligitur)である.しかし知性を形相

 づけ知性を現実態にもたらす形象(species qua intelligitur)ではない.つまりイデアは神の知

 性認識の対象である.それゆえ「知性認識されたもの」(intellectum)とも言われる. 2)神の知性認識の対象は神自らの本質(essentia)である.それゆえイデアは神の本質である.  しかし本質である限りでの本質ではなくて,神によって知性認識されたもの(intellecta)として  の本質である・ 3)では一体どのように知性認識された神の本質かイデアとなるのだろうか,それは,「この被造  物によって分有,模倣されうるもの」として知性認識された神の本質である.これをこの被造物  のイデアと言う.このようにイデアとは第一に創造という観点から見られた神の本質である.し  たかってイデアの第一の性格は「範型」であって「認識の根原」ではない・ 4)イデアは,神によって単に思弁的に認識された被造物の知(scientia)或は単なる類似,観念  ではない.更にこの被造物に分有されうるものとして認識された知,乃至この被造物を造る或は  造りうるとして実践的に認識され直した知である.この意味で,被造物に対する関連を含意する  神の自覚知ないし反省知である.        ● ● ● ● ● ・ 二 一 習 5)イデアは神によって観念的に区別されて知性認識された神の本質である.なぜなら一つの神の  本質が,この被造物によって,またあの被造物によって分有されうるものとして知性認識され,  その結果それはこの被造物のイデア或はあの被造物のイデアとなるからである.このようにして  神の本質は一つでありながら,それは多数のイデアとなる.すなわち,神の本質は実在的にはた  だ一つであるが,観念的には(secundum rationem)多数となる(33) 6)神と被造物との間には一種の関係,関連か存在する.それは創造である.神の被造物への関係  は,神の本質において観念的(secundum rationem)である.(この観念的関係・関連か神によ  って多数認識されているところから多数のイデアか存在する.)これに対して被造物の神への関  係は,実在的(realis)である. なぜなら被造物は実在的に神に向かって秩序づけられているか  らである.  〔25〕次に神の認識の種類とイデアの関係からイデアを見直してみよう.それは「何の」イデア が存在するかを問うための準備の意味を有する.そこで思弁的認識(cognitio speculativa)と実 践的認識(cognitio practica)から考察していこう.

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practi-218 高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学 cus)とに分けられる.思弁知性は真理を考察することを目的とし,実践知性は働くことを目的と する(S7)それゆえ実践的認識は作品に対する実践的秩序を有するのに対して思弁的認識はいかな る意味でも作品に対する実践的秩序を有せず,ただ在るものを在るがままに考察する認識である. これらの二つの認識は各々更に二つに分かたれる(38'.これを以下見七いこう.  〔26〕まず実践的認識は働きが目指す目的への秩序づけられ方から二種類に分かたれる.  第一は,認識が作品に「現実的に」(actu)秩序づけられる場合である.例えば建築家か予め心 に抱いている(praeconcepta)形相によって質料において家を造る場合である.この場合は建築家 の知性には,「現実的に」(actu)実践的認識と認識の形相が存在する(39J  第二は,認識か「現実態に向かって」(ad actum)秩序づけられうる(ordinabilis)が,しかし 現実的には(actu)秩序づけられない場合である.かかる認識は「現実態における」(actu)実践的 認識とは言わないで「能力態的に」(virtute)ないレ「所有態的に」(habitu)実践的認識であると 言う.例えば,建築家か家の形相を考え出し(excogitare),作り方も知っているか,しかし現実に は造ることを意図しない場合がこれに相当する(*0)  〔27〕次に思弁的認識は認識対象によって二種類峰分かれる・  第三に,認識対象が本性上,認識者の知(scientia)によって産出されない場合の認識である.

例えば,人間が,自然的なもの(res naturales)や神的事柄(res divinae)を認識する場合であ

る. 自然的なものや神的事柄は知られるものであるか,これらは知る者たる人間によって造られる ものではないからである(41)  第四に,認識対象か認識者の知によって造られうるもの(operabilia)である場合の認識である. これは二つの観点から見られる.      い  一つは,目的に関してである.造られうるものを造ることを目的としてではなくて,ただ認識す ることを目的として考察する場合がそれである.すなわち,造られうるものを存在(esse)に向か って,現実態においても能力態においても,造られうるものとしては考察しないで,・ただ純粋に認 識することを目的とする考察である.例えば建築家が象をどのようにしてそれか成り立ちうるかと いうことを,働きの目的に秩序づけることなしにただ認識するためにのみ考察する場合がそれであ る(■(2)  もうーつの観点は知り方に関してである.知性によって造られうる事物を,存在に即しては

 (secundum esse)区別できないが,知性に即して(secundum intellectum)相互に区別すること

によって考察する場合である.例えば,建築家が家を定義し,分類し,家について述べられるその 普遍的性格,類や種を考察する場合かそれである.これらのものは存在に即しては事物そのものに おいて区別されないけれども,知性に即しては区別されて認識される(43)  これらの第三と第四の認識は現実態においても能力態乃至所有態においても決して実践的ではな く,純粋に思弁的である.  以上のように,認識の目的に関して実践的認識と思弁的認識に二大分し,更に働きが目指す目的 に対する秩序づけられ方と認識対象によってそれらの各々をニつに分け,結局四種類の認識かある ことを見い出した.  〔28〕さてこれらの四つの認識に応じて神もまた諸事物を認識する.神の知は諸事物の原因であ るからである(44Jそれらを上の四つの順序に従って見ていこう.  第一に,現実態における実践的認識である.神は或る諸事物についてこの認識を有する.なぜな

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Summa TheologiaeI, 15と£)・Veritate a. 3におけるイデア論の基本的構造(岡崎) 219

ら神は或る諸事物を,或る時にこの世界に存在するとして秩序づけて認識するからである(AS)  第二に,現実態ではなくて,所有態乃至能力態における実践的認識である.神は或る諸事物につ いてこの認識を有する.この認識の対象は「存在しなかったし,存在しないし,存在しないだろう

もの」(eaquae nee fuerunt. nee sunt, nee erunt)である.すなわちこれらのものは神によっ

て造られうるものでありながら,現実的には,いかなる時にもこの世界に存在することのないもの である.神はかかるものについて現実態において知(思弁知)を有するが,実践知としては能力態 乃至所有態においてのみ有する(46)  〔29〕第三に,知る者が本性上造ることができないものの認識である.神はこの認識を有する・ 全能の神が本性上造ることができないものとは何であろうか.そもそもそのようなものは存在する のであろうか.それは諸々9悪(mala)である.悪それ自体は存在(esse)を有しない.存在の欠 如だからである.それゆえ悪それ自体は神によって存在を与えられ,造られるものではない.しか しそれにもかかわらず悪は神によって認識される. それは善の欠如としてである(47)なぜなら悪 は存在を有しないが善の欠如たる観念を有するからである.  それゆえ,神による悪の認識は純粋に思弁的である.悪は神によって造られるものではないゆえ, この意味で神は悪についての実践的認識を有しないからである(■18)  しかしながら神は悪を許し或は妨げ或はより大きな善に秩序づける. この意味に限り神は悪を実 践的に認識すると言える(49;  第四に,造られうるもの(operabile)を,造ることを目的とせず,ただ純粋に思弁的に考察する ことを目的とする認識である.神はかかる認識を有する.なぜなら神は現実に造るもの或は能力態 において造ることかできるものを造るという働きに秩序づけずに,ただそれらが固有の存在(esse) においてあるかままに,純粋に思弁的に認識することができる.そればかりではない.神は人間知 性が諸事物において分解して把えることができる諸概念一類や種,定義や区分等-一一の全体をは るかに完全に思弁的に認識する(s(”.  この認識の諸対象は,第一,第二の実践的認識の諸対象を含みなお余る. このように神は実践的 認識と思弁的認識を有する.  〔30〕さて以上の神の四つの認識に対応してイデアは存在するかどうかを検討してみなけれぱな らない.  イデアは二つの意味で語られる.一つは「本来的な意味」(proprie)で語られ,範型と言われ る(51)今一つは「共通的に」(communiter)語られて,類似(similitudo)或は観念(ratio)と言 われる(52)  本来的な意味でイデアと言われる形相は,形相づけられて成立するものの原因である.つまりイ デアと事物の間に,原因と結果の関係(liabitudo)が存在する.従って本来的に語られるイデア は,神の実践的認識の対象である.この場合の実践的認識は単に現実態におけるばかりではなく て,所有態乃至能力態におけるものも含む(53)なぜなら本来イデアは創造という目的に秩序づけ られた形相を指すものであるからである.この世界に事物として出現する,しないにかかわらず, 造られうるものとして認識された神の本質がイデアに外ならなかったからである〔17〕.それゆえ, 〔28〕における,第一と第二の実践的認識に関してはイデアは存在する.  共通的な仕方でイデアと語られる類似或は観念は事物の存在の原因としての関係(habitudo ca-usae)を有しない.類似乃至観念と呼ばれるイデアは,純粋に思弁的認識の対象である.それゆえ  「認識の根原」である〔3〕. しかし実践的認識の対象も純粋に思弁的に認識されうる.すなわち,

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 220        高知大学学術研究報告 第29巻.人文科学 神の精神における一つの形相が実践的認識の対象となると同時に思弁的認識の対象となることがで きるのである.この意味で,類似乃至観念は,実践的認識と思弁的認識に同時に共通的に(cmmu-niter)かかわる.それゆえ〔30〕における第四の認識に関しては,この意味での「類似」乃至「観 念」としてのイデアが存在するか,本来的な意味でのイデアは存在しない(54)第三の悪の認識に 関しては,悪のイデアは本来的な意味でも,共通的な仕方で呼ばれる意味でも,存在しない. これ については後に〔35〕言及される.  〔31〕「本来的な意味のイデア」は「範型」或は「実践的イデア」(idea practica)或は「存在 の根原」(principia essendi)等とも呼ばれる.それに対して「共通的に語られるイデア」は「類 似」乃至「観念」或は「思弁的イデア」(idea speculativa)或は「認識の根原」(principia cognoscendi)等とも呼ばれる.  ところで前者と後者の関係を検討しよう.実践的イデすと思弁的イデアは神において二つのイデ アとして区別されるのではない.両者共,神の精神における一つの形相である.―つの形相を観念 的に(secundum rationom)区別するところから二種類のイデアとなる.或る形相が,神によっ て純粋に思弁的に認識される場合それは思弁的イデアとなる.・神が事物をただ在るかままに認識し て,事物の思弁知を有する場合は,この思弁的イデアを認識しているのである.  ところがこの思弁的イデアの上に「現実態に向かう秩序」を付加するときには,同じ形相は今度 は実践的イデアとなる.すなわち,実践的イデアは思弁的イデアの上に「現実態への秩序」を付加 したものである.それは丁度,人間は「動物」という観念の上に「理性的」という観念を付加する のと同じである(55)       .  それゆえ既述のように〔21〕実践的イデアは思弁的イデアを実践に秩序づけて捉え直した言わば自 覚知乃至反省知と言うことかできる.  〔32〕前節において明らかにされたことは,一つの形相か,思弁的イデアにもまた実践的イデア にもなるということであった.次に問題となるのは実践的イデアの諸対象と思弁的イデアの諸対象 の範囲である.これらは互いに重なり合うのか,それとも一方か他方を含々のであろうか.認識の 根原である思弁的イデアの対象は,存在の根原である実践的イデアの対象を含む.つまり,認識の 諸根原の外延は存在の諸根原の外延より大きい.なぜなら神においては実践に秩序づけられない で,ただ思弁にのみ秩序づけられる形相が存在するからである.それゆえ,神の思弁知性における あらゆる形相は認識の諸根原であると言うことができるがしかし,必ずしも,それは存在の諸根原 であると言うことはできない.         ..  これに対して,存在の諸根原は「観念の上では」(secundum rationem)認識の諸根原と異る 〔31〕が,しかし存在の諸根原はすべて「ものとしては」(secundum rem)認識の諸根原でもある. なぜなら,結果は原因を認識する根原となるからである.それゆえ,実践知性におけるすべての形 相は存在の諸根原であると同時に認識の諸根原でもある(56)  結論としては,存在の諸根原は,同時に認識の諸根原であるが,逆に,認識の諸根原は必ずしも 存在の諸根原ではない.  〔33〕以上C25〕∼〔32〕は主として『真理論』第三間第三項において展開されたトマスの主張で あるか,しかしこれは『神学大全』第一部第十五問第三項における主張と若干の相違か見られる.  『真理論』においては,本来的にイデアとは,現実態におけると能力態におけるとを問わず,実 践的認識(第一と第二の認識)にかかわる形相であればそのずべてを指していた(53;のに対して,

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Summa TheologiaeI, q. 15とDe Veritate 3におけるイデア論の基本的構造(岡崎) 221 共通的に語られるイデア,認識の根原としてのイデアは,実践に秩序づけられる以前の,純粋に思 弁的認識(第四の認識)にかかわる形相を指していた.  しかし,『神学大全』の同箇所においては存在の根原としてのイデアを,何らかの時に神によ って現実に(actu)造られるものすべてのに限定する.そしてこれを「範型」という.それに対 して,所有態乃至能力態において造られるものの形相は現実にこの世界に存在しない限り,「観念」 (ratio),「認識の根原」としてのイデアではあっても,「範型」と言うことはできないとする.そ れゆえ,〔28〕における第一の,現実態における実践的認識の対象のみが「範型」としてのイデアで あるとし,第二の能力態における実践的認識と第四の純粋に思弁的認識の対象を「観念」のイデア に入れる(57’.何故,『真理論』とその後の著作である『神学大全』とでは若干主張か違っているの であろうか.とにかく,目下は,若干の違いがあることを言及するのみにする.,  〔34〕Jぷ上をまとめよう. 1)認識は目的(finis)によって二つに分けられる.真理をただ考察する認識は思弁的であり,働  きに秩序づけられた認識は実践的である. 2)実践的認識に二種類ある.  0何らかの時に現実態に秩序づけられる実践的認識である.  Ⅱ)現実態に向かって秩序づけられうる認識ではあるが,しかしいかなる時にも現実態に秩序づ   けられることはなく,ただ所有態的乃至能力態的にのみ在る実践的認識である. 3)思弁的認識に二種類ある.  Ⅲ)知る者の知が本性上造ることができないものの認識である/  IV)造られうるものではあるが,造られうるものとして実践的認識に秩序づけられることを全く   せず,ただ思弁的にそれを考察する認識である. 5)神は上記四種類の認識を持つ.  口神は或る時に「現実に」(actu)この世界に存在する諸事物について認識する.現実態にお   ける実践的認識である.  H)神は,いかなる時にも現実には存在しないかしかし存在しうるものである諸事物を認識する.   これは所有態乃至能力態における実践的認識である.  Ⅲ)神は自分が造ったものでないもの,例えば諸悪を認識する.これは純粋に思弁的認識であ   る.  Ⅳ)神は造られうるものを,造るという目的に秩序づけずに,純粋に思弁的に認識する.また人   間知性が諸事物において分解して把える諸概念の全体をはるかに完全に思弁的に認識する. 5)実践的認識の対象となる神の精神における形相を,「本来的な意味でイデア」と言う.これは   「範型」「存在の根原」「実践的イデア」等とも言われる.これに対して思弁的認識の対象となる  神の精神における形相を,「共通的にイデア」と言う.これは,「類似」「観念」或は「認識の根  原」「.思弁的イデア」等と言われる. 6)神の第一と第二の認識に関しては本来的な意味でイデアは存在する.しかし第三の認識に関し  ては,イデアは「存在の根原」としても,「認識の根原」としても存在しない.第四の認識に関  しては,「認識の根原」としてのイデアは存在するか,「存在の根原」としてのイデアは存在し  ない. 7)神の精神における一つの形相が思弁的イデアにも実践的イデアにもなる.実践的イデアは,思  弁的イデアの観念(ratio)の上に「現実態への秩序」を付加したものである/つまり一つの形  相を単に思弁的に認識するばかりではなくて,その上に実践的秩序を付加して認識し直すときに

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 222        高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学  実践的イデアとなる.この意味で,本来的意味のイ‘デアは反省知・自覚知の一種と言えよう. 8)実践的諸イデアの対象は思弁的諸イデアの対象に含まれる.それ故思弁的イデアは必ずしも実  践的イデアであるとは言えないが,実践的イデアはすべて思弁的イデアでもある. 9)『真理論』では実践的認識に秩序づけられるものであればすべて,それらが現実態におけると  能力態におけるとを問わず,実践的イデア,範型という名で呼ばれているが,『神学大全』で  は,現実に実践的認識に秩序づけられるもののみを「範型」と,言い,他はすべて認識の根原であ  る「観念」とする.この点で両書の見解に若干の相違か見られる.  〔35〕さて次に「何の」イデアか存在するかを具体的に見でいこう.既述のことから明らかであ るように,この考察においては,イデアが実践的認識にかかわるか,それとも思弁的認識にかかわ るかを基準にせねばならない.以下順に1)悪,2)第一質料,3)存在せず,存在しないであろ う,存在しなかったもの,4)基体と偶有,5)類,種,個物の各イデアについて見ていこう.  第一に「悪」Cmalum)のイデアは存在するか.結論からすれば,いかなる意味でも存在しない. その理由は以下の通りである.悪は神によって実践的に認識されたものではない.つまり神によっ て造られたものではない.それゆえ範型のイデアを有しない.また悪は存在(esse)の欠如であっ た〔28〕.それゆえ悪は形相を持たない.したがって悪は,神によって思弁的に認識されるとして も,観念としてのイデアも有しない‘59)なぜなら悪が唇弁的に認識されるのは善の観念,即ち形 相の欠如によるのだからである(59)  しかし罰という悪は神において範型のイデアを有する.なぜなら罰は正義の秩序の下に神から存 在するものであり,その意味で罰は善であるのだからである(eo)  〔36〕第二に,「第一質料」のイデアは存在するであろうか.結論からすれば存在する.ではい かなる意味で存在するのかを見なければならない.トマスによれば,ヽプラトンは,第一質料のイデ アを措定しなかった.なぜなら,第一質料はイデアによって原因づけられたものではなくて,イデ アと共に事物の原因であると考えていたからである(61) .  しかしそれに対してトマスはこう主張する.第一質料は神によって原因づけられた(創造され た)のであるから,何らかの意味でそのイデアは存在していなくてはならない(62)ではいかなる 意味においてであろうか.  神か直接創造するものは個物である.個物は形相と質料から成る「複合された物」(compos iturn) である.それゆえ神の精神において存在する範型のイデアは「個物」つまり「複合された物」のイ デアである.したがって範型のイデアは質料だけにも又形相だけにも対応しないで,それらから複 合された全体に対応する.それゆえ第一質料のみの範型のイデアが単独に存在することはない.だ が「複合された物」の一つの範型のイデアにおいて,その構成要素として存在する(63)  〔37〕では第一質料のF観念」としてのイデアは存在するであろうか.これについては『真理 論』(第三間第五項)と『神学大全』(第一部第十五問第三項第三異論解答)では主張が若干異な る.『真理論』では第一質料の「観念」のイデアは存在すると主張されている.なぜなら第一質料 は,それ単独で,複合されたものから分離して存在することかできないとしても,知性によって分 離されて考察されうる.知性によって考察される限り,それは「観念」としてのイデアを持たねば ならない.それゆえ第一質料の観念としてのイデアは単独に存在する(64)  しかし『神学大全』の主張はこれとは若干異なる.質料はそれ自体で単独に存在することができ ないと言う.ここ迄は『真理論』と同じ主張であ’る.・ところか,「質料はそれ自体としては認識さ

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22ろ

れうるもの(cognoscibilis)ではない」と主張する(゜5).とすれば,ここから当然第一質料の「観 念」としてのイデアは存在しないことが帰結する.

 〔38〕第三に「存在せず,存在しないであろうし,存在しなかったもの」(ea quae nee sunt nee

erunt nee fuerunt)のイデアは存在するであろうか.『存在せず,存在しないであろうし,存在し なかったもの』とは何であろうか.これは現実には(actu)決してこの世界において造られること はないけれども,しかし造られうるものとして,神の精神に存在しているものを指す.それに対し

て「存在する或は存在するであろう或は存在したもの」(ea quae sunt, vel erunt, vel fuerunt)

がある.これは何らかの時に,この世界に現実に(actu)存在するものを指す.  神は前者を能力的に(in virtute)のみ実践的に認識する(U)これに対して後者を現実的に(actu) 実践的に認識する.しかし神はいづれにしても実践的に認識をする.  既述の如く〔33〕範型のイデアの範囲に関して『真理論』と『神学大全』ではその主張に若干の 相異が見られた.『真理論』では,現実的であれ能力的であれ実践的認識がかかわる限り,それに 範型のイデアが属すると主張されていたのに対し,『神学大全』では現実的に実践的認識がかかわ るものでなければ範型のイデアは存在しない. ただ観念のイデアのみが存在すると主張されてい た.      ,  〔39〕それゆえ『真理論』においては「存在せず,存在しないであろうし,存在しなかったも の」の範型のイデ’アは存在すると主張される(67)ではそれは「存在する或は存在するであろう或は 存在したもの」の範型のイデアとどの点で異るのであろうか.事物.が現実にこの世界に存在するた めには範型のイデアのほかに神の意志による規定を必要とする.したがって前者のイデアは神の意 志によって規定されていない.つまりある意味での「未規定のイデア」(indeterminatae ideae)で ある(68)これに対し後者のイデアは神の意志によって規定されたイデアと言うことができよう.  これに対して『神学大全』では「存在せず,存在しないであろうし,存在しなかったもの」は神 によって能力態においてのほかは実践的に認識されないのであるから,それらの範型のイ.デアは存 在せず,ただ観念のイデアのみが存在すると主張されている(69)  〔40〕第四に,「基体」と「偶有」のイデアは存在するであろうか.トマスは,プラトン’は実体 (基体)のイデアを措定したが,偶有のイデアを措定しなかったと解釈する.以下トマスのプラト ン解釈を見ていこう.  プラトンか以上のように考えた理由はこうである.イデアは事物の最近接因(causa proxima) である.イデアのほかに最近接因を持つものは,イデアを持たない. ところで,偶有は実体(基 体)によって直接原因Tづけられる.つまり偶有は実体(基体)を最近接因として持つ. したがって 偶有はイデアを持たない.ここからプラトンは偶有のイデアを措定しなかったのである(70)  トマスは,このプラトンの見解に対して,基体ばかりではなくて,偶有のイデアも存在すると結 論する.その理由は以下の如くである.基体は神によって直接創造されるのであるからその範型の イデアは存在する.問題は偶有である/イ両有は基体を最近接因とするとしても,基体という第二原 因を通じて神によって造られる.それゆえイ両有は神の予めの規定(praedefinitio)から由来する・ この限り神は偶有の直接因(causa immediata)である. それゆえ偶有の範型のイデアは存在せね ばならない(7”. 〔41〕ではどのような仕方で偶有の範型のイデアは存在するであろうか.

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224 高知大学学術研究報告 第29巻 人文科学  偶有には二種類か認められる.一つは基体の諸根原から原因づけられた「固有の諸偶有」(acci-dentia propria)である.これは存在(esse)に即しては決して基体から分離されえない.そして, 一つの働きによって基本と共に生じる.それゆえ,基体とそれに不可分に伴う諸偶有にはーつの範 型のイデアが属する.基体と諸偶有にそれぞれ別々の範型のイデアがあるわけではない.一つの範 型のイデアの言わば構成要素として,基体とそれに不可分に伴なう諸偶有のイデアか存在している と考えられる.例えば建築家か家の範型を精神に有する場合,一つの形相のうちに家の基体に不可 分に伴う諸偶有の形相も含まれている.それらは家が四角であるとか,柱や棟の配置等である(72)  では観念のイデアは存在するであろうか.勿論存在する.観念のイデアは,存在に即して不可分 のものも,観念に即して分離されるものであればぞのすべてに対して存在するのであるから,基体 と,諸偶有の一つ一つに別々のイデアが対応している.それらは神によって区別されて思弁的に認 識されるからである(73).  〔42〕もう一つの種類の偶有は,基体の諸根原に依存するのでも,基体に不可分に伴うのでもな く,基体の外から附加されるものである.これらは基体が産出される働きとは別個の働きによって 産出される.それゆえ,かかる偶有には基体から区別された範型のイデアが属する.例えば,建築 家が家の形相のほかに,絵画や家具等の形相を持つようにである(74)  また当然,これらの諸偶有には観念のイデアもそれぞれ別個に,神の精神において存在する,"'.  〔43〕最後に,「個物」「種」「類」のイデアについて見よう; トマスは,これについてのプラ トンの説を次のように解釈する.  プラトンは個物と類のイデアを措定せず,ただ種のイデアのみを措定した.その理由は二つあ る.  一つは,イデアは個物の形相だけに対応するという点である.個物は形相と質料より成るとして も,イデアか生じさせるのは質料でではなく,ただ形相だけである.質料はものを個体化させるに すぎない.ところで各個物は形相によって一つの種におかれる.それゆえイデアは個物である限り の個物に対応するのではなくて,種の観念(ratio)即ち形相によって個物に対応する.したがって 種のイデアは措定できるが,個物のイデアは措定できない(75)  もう一つの理由は「本性の意図」(intentio naturae)による.イデアはそもそも自体的に意図さ れたもののみに属し,偶々生ずるものには属さない.ところで,生成かたとえ個物としての「この 人間」に終極するとしても,本性の意図は「種としての人間」を生むことである.それゆえ,個物 のイデアは存在せず,ただ種のイデアかあるのみである.同様に,本性の意図は類の形相に終極す るのではなくて,種の形相に終極するのであるから,類のイデアも存在せず,ただ種のイデアが存 在するのみである(76)  〔44〕この見解に対してトマスは次のように主張する.神は,質料に対しても形相に対しても個 物の原因である.そしてすべての個物は神の摂理によって規定されている.それゆえ個物のイデア を措定しなければならない(71)      −  この短い主張の意味するところは極めて深長である.トマスはプラトンと違って個物の形相ばか りではなくてその質料も神によって造られると主張する,それゆえまた質料と形相とから成る個物 も神によって造られる.個物は,神によって造られた後は,放置されるのではない. 神によって 造られた個物は,造られた時から消滅する迄の全期間に亘って,神の摂理によって導かれ統御され る.それゆえ一つの個物に,その全期間を通じて変化する一切のもののイデアが属していなければ

参照

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