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小泉郁子の北京時代

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小泉郁子の北京時代

A Study about Ikuko Koizumi in Beijing

榑松 かほる

KUREMATSU Kaoru

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キーワード: 崇貞学園、小泉郁子、北京、男女共学論、日支親善 はじめに    本稿は、小泉郁子(1892.10.2~ 1964.6.24)の北京時代、すなわち、1935年から46年の中 国滞在中の小泉郁子の行動を崇貞学園紙『支那之友』を中心資料として考察することを目 的としている。もっとも、『支那之友』は欠号、刊行の期間などの資料的な限界があり、今 回は主として郁子の1936年から40年頃までの間の活動を整理した。  筆者は、2000年拙書『小泉郁子の研究』を表し、小泉の評伝研究を試みた。拙書は評伝 であるので、むろん小泉の北京を中心とした中国での活躍も若干とりあげた。しかし、執 筆当時、郁子の中国時代の活動を知る上で有力な資料となる『支那之友』はわずかに2部し か入手できなかった。一部はメソジスト教会から中国に派遣され、その後上海YMCAで活 躍された池田鮮(文中すべて敬称を略す)が、自身の一文が掲載されていた31号(1938.4.25) を保持しており、聞き取りの際コピーの提供を受けた。もう一部は、当時の外交史料館(現 在のアジア歴史資料センター)に保管されていた28号(1938.1.15)であった。入手できた のはわずか2号であったが、当時の崇貞学園の教育の状況、清水安三、郁子の言説が紙面を 埋め尽くしており、4頁程のタブロイド版の『支那之友』が崇貞学園の歴史を知る上で貴 重な資料であることに疑義を挟む余地はなかった1。幸いにして、その後、崇貞学園で教員 をしていた門田昌子よりの提供、大阪岸和田の山岡春文庫、北京档案館、同志社大学、日本 女子大学、法政大学大原社会問題研究所、ハワイマキキ教会などに所蔵されていることが 判明し、現在刊行されたと推測される号数のおよそ50%にあたる号数を桜美林大学清水安 三記念プロジェクトにおいて収集することができた。  更に、本学教授太田哲男は『支那之友』の書誌的な整理を中心とした論文「『支那之友』 と『愛隣』―戦時下の清水安三の活動を伝える史料」を『淸水安三・郁子研究』第5号(2013 年)に寄稿され、同紙を対象とした研究も本格的に進展しつつある。  本稿は、拙書執筆の後に新たに収集された資料『支那之友』を中心に、当時明らかにでき なかった北京時代の小泉郁子の活動を補填する作業である。  ところで、活動に即して小泉郁子の半生を時期区分して、北京時代を相観してみる。  第1期(1916~ 21年)は、女子高等師範学校を卒業して、中等教員として教員生活をす る一方、婦人問題、男女共学思想に関心を持ち、その後の生き方と思想基盤を構築した時 期である。  第2期(1922~ 34年)は、オーバリン大学、ミシガン大学大学院で学び、帰国後青山女子 専門学校教授として籍を置く一方、婦人問題、男女共学問題のオピニオン・リーダーとし ての名声を博し、汎太平洋婦人会議代表として国際的に活躍した時期である。  第3期(1935~ 45年)は清水安三と結婚し、北京の崇貞学園、愛隣館の経営に参画する

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 とともに、広く日中交流に務めた時期である。  第4期(1946~ 64年)は、日本に引き上げ、清水安三とともに桜美林学園の設立、経営に たずさわった時期である。  郁子の第1期、第2期は思想形成・思想家として活動期であるが、第3期、第4期は実践家 としての活動期と位置づけられるであろう。とりわけ、第3期の北京時代は、郁子にとって、 それまで主張してきた婦人論や共学論の理論をはじめて自らの手で実践化していった時代 にあたる。思想の実現化が可能となった北京の地にあって、郁子はどのような活動を展開 していったのであろうか。中国での郁子の足跡を『支那之友』の紙面を手がかりに明らか にしてみたい。   1.『支那之友』に掲載された郁子の署名記事  崇貞学園紙『支那之友』の創刊は、李紅衛の調査によれば、1934年12月である2。小泉郁 子が清水安三と結婚(入籍1936年2月13日、挙式1936年6月1日天津教会)して崇貞学園 の経営に参画するようになるのは、1935年7月以降である。すなわち、郁子が崇貞に参加 する以前に『支那之友』は発刊されていたことになる。しかし、現在のところ、創刊号から 11号までが不詳であるので、発刊の経緯や意図は十分明らかではない。しかしながら、発 見されているすべての号には、「寄付者名簿」が掲載されており、1円以上の寄付者に『支 那之友』を送付する旨が記されている。『支那之友』は支援者に崇貞学園の状況、清水安三 の思想や活動を伝え、より広く支持を仰ぐ目的で発刊された学園紙であったと推定される。  すでに触れたように、今日収集できた『支那之友』の号数は限られている。発見されて いる最も若い号は12号である。1936年に発行されているので、郁子が中国に移り住んで すでに1年近く経過した時期に刊行された『支那之友』である。『支那之友』は1944年まで 刊行が続けられていた。1937年、38年では月刊誌として発行されていたと推定されるが、 39年、40年では隔月刊行であったと推測される。収集されている範囲内ではあるが、郁子 はほぼ毎号に署名記事を寄せている。郁子の署名記事及び郁子と推定しうる記事を〔表1〕 にまとめた。〔表1〕を一瞥してみると、郁子が崇貞学園と中国での体験、見聞の記事を『支 那之友』に寄稿していたことがわかる。収集された範囲内に限っていえば、『支那之友』で の署名記事数は安三より郁子のほうが多い。郁子がシリーズとして寄稿している記事欄は 「崇貞学園だより」、「学園点描」、「北京だより」、「北平社会点描」等である。「崇貞学園だよ り」、「学園日記」、「学園点描」、「学園のこのごろ」の記事欄を〔表2〕に纏めた。〔表2〕から 明らかなように、全25号中11号に掲載記事が見られる。「北京だより」、「北平社会点描」の 記事欄を纏め、〔表3〕とした。全25号中17号に同記事欄に執筆していることがわかる。郁 子にとって、学園のことに次いで、北京での見聞に関心を持ち、観察したことを日本の支 援者たちに伝えていたと推測される。すなわち、このような紙面傾向は郁子が崇貞学園を 北京という社会のなかにある学校との認識を明確にもっていたと想像される。郁子は少な

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くとも1937年ごろから『支那之友』の編集を担っていたと推測される。すなわち、『支那之 友』は、郁子の認識にたった崇貞学園や北京の状況が描写されている機関紙という一面が ある。  なお、郁子は1936年2月すでに入籍していたにも関わらず、紙面では小泉の姓を37年ま で用いている。38年郁子が校長に就任してから呼称を替え、清水郁子と署名するように なったのではないかと想像される。 〔表1〕 『支那之友』における小泉郁子の署名(推定も含む)入りの記事一覧 発行年月日 号 記事内容 1936年 6月 10日 12 郁子「北平だより」 1937年 1月 1日 18 小泉郁子「支那と天災」、「支那の映画を覗く」、小泉郁子「北平婦人界最近の動き」、郁子「北平だより」 1937年 2月 1日 19 小泉郁子「怎麼したら支那が好きになれるか」、小泉郁子「北平社会点描」、郁子「崇貞学園だより」 1937年 3月 1日 20 小泉郁子「日本人とリーダーシップ」、小泉郁子「胡適博士に聴く」、小泉郁子「北平社会点描」、郁子「崇貞学園だより」 1937年 4月 1日 21 小泉郁子「蒋介石夫人宋美齢女史訪問記」、小泉郁子「賽金花ものがたり」、「南開大学総長張伯苓氏を迎う」、郁子「崇貞学園だ より」 1938年 1月 15日 28 清水郁子「崇貞学園の現在及将来」、清水郁子「五ヶ月振りに帰郷して」 1938年 4月 25日 31 郁子「支那人の順応性」、「学園日記」、郁子「北京だより」 1938年 10月 25日 34 清水郁子「新天新地の建設」、(郁子)子「公私こもごも」 「崇貞キャンパス点描」、郁 1938年 12月 5日 35 清水郁子「北京に於ける社会矯風事業の発足」、郁子「北京だより」 1939年 1月 20日 36 清水郁子「受くる喜び 与ふる喜び」、ト」、郁子「北京だより」、清水郁子「愛隣館の開業」「矯風会レコードコンサー 1939年 3月 5日 37 清水郁子「伸び行く日本 伸びゆく学園」、「崇貞学園日本女子中学部案内」、「牡丹寮の開設」、「第二次留学生の派遣」、清水郁 子「愛隣館と矯風会」、郁子「北京だより」 1939年 5月 15日 38 清水郁子「新装成らむとする学園」、清水郁子「北京だより」 1939年 7月 5日 39 清水郁子「二つの感激」、郁子「北京だより」 1939年 9月 15日 40 清水郁子「北支前線の旅」、清水郁子「北京だより」 1939年 11月 15日 41 清水郁子「学園のこのごろ」、清水郁子「崇貞小品」、編輯子「お詫び」、清水郁子「北京だより」 1939年 12月 15日 42 清水郁子「神国を来らせ給へ」、貞小品」、清水郁子「北京だより」「踊る日華の青春」、清水郁子「崇 1940年 1月 15日 43 清水郁子「悲しむ者は幸なり」、清水郁子「北京だより」

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1940年 3月 20日 44 清水郁子「平和を語る春」、「キャムパス点描」、清水郁子「北京だより」 1940年 5月 22日 45 清水郁子「懺悔しつつ」、脚日程」、「学園ニュース」、「揃うた崇貞教職員」、清水郁子「北「献げられし麺粉」、「清水安三 大陸行 京だより」 1941年 8月 20日 49 清水郁子「学園点描」、清水郁子「北京だより」 1941年 10月 5日 50 清水郁子「学園点描」、清水郁子「北京だより」 1941年 12月 5日 51 清水郁子「北京だより」 1942年 5月 10日 53 清水郁子「学園点描」、清水郁子「北京だより」 1942年 7月 10日 54 清水郁子「北京だより」 1942年 9月 15日 55 清水郁子「実の秋」、「牧野先生を迎ふ」 1943年 4月 20日 57 清水郁子「北京だより」 1944年 4月 20日 60 郁子「学園だより」 〔表2〕 「学園だより」、「学園日記」、「学園点描」、「学園日記」、「学園のこのごろ」の記事掲載号数 号 発行年月日 19 1937年 2月 1日 20 1937年 3月 1日 21 1937年 4月 1日 31 1938年 4月 25日 34 1938年 10月 25日 41 1939年 11月 15日 44 1940年 3月 20日 45 1940年 5月 22日 49 1941年 8月 20日 50 1941年 10月 5日 53 1942年 5月 10日 60 1944年 4月 20日 〔表3〕 「北京だより」、「北平社会描写」の掲載記事号数 号 発行年月日 12 1936年 6月 10日 18 1937年 1月 1日 19 1937年 2月 1日 20 1937年 3月 1日 31 1938年 4月 25日 35 1938年 12月 5日 36 1939年 1月 20日

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37 1939年 3月 5日 38 1939年 5月 15日 39 1939年 7月 5日 40 1939年 9月 15日 41 1939年 11月 15日 42 1939年 12月 15日 43 1940年 1月 15日 44 1940年 3月 20日 45 1940年 5月 22日 49 1941年 8月 20日 50 1941年 10月 5日 51 1941年 12月 5日 53 1942年 5月 10日 54 1942年 7月 10日 57 1943年 4月 20日   2.崇貞学園への参画  郁子は北京に移り住んだ早々の1935年7月から、崇貞学園の事業に参画した。郁子にとっ て、特に学校経営は多年の夢であった。  郁子はオーバリン大学宗教学部を一番で卒業した時の奨学金でミシガン大学大学院へ進 学を果たし、教育学を学んだ。ミシガン大学大学院の入学に際して、同大学教育学部長ロ イド(A.H.Llyd)に宛てた書簡に、自分の将来の抱負と学習計画を記している。

 “I would like to start a new Christian school of college standard when I have gone back to Japan, though I might start from secondary school according to circumstances. So, I want to specialize in school administration at the University of Michigan and I have special interest in the investigation of the American system of co-education which has not ever been tried regularly in Japan.” と、帰国後にはキリスト教の学校を設立したいので教育行政学を学びたい、特に日本では これまでまれである共学制度に関心をもっていると記している3。志をたてた8年後の1935 年、郁子は北京崇貞学園においてその夢を掌中のものとした。  ところで、参画した頃の崇貞学園の教育は郁子の眼にどのよう映ったであろうか。郁子 は1935年8月日本で開催された汎太平洋新教育会議において、次のように語っている。崇 貞学園は「支那に於ける、邦人の手による、支那婦女子のために設けられた唯一の教育機 関」であり、現在「六年制の小学校と三年生の初級中学校にまで成長し、現在では約百五十 名の女子を収容している」が、「崇貞学園の教育は工読主義に依っている。工はレーバー

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(Labour)、読はラーニング(Learning)、労工と学習との合体せるものが工読主義であり、 この工読主義こそは社会の必需性から産まれ出された」と、貞操を売ることでしかパンを 得られなかった女性に道徳的向上と経済的独立の道を開いたと、崇貞学園の工読主義を紹 介している4。郁子は女性の自立を唱導していた自説の立場から、崇貞学園の労作教育を評 価しているのである。  郁子は1935年7月崇貞女学園長に就任したが、「最初の1年は、自分の考えを実行するな。 どんなに気に入らないことがあってもじっと傍観しておれ。支那人の生活を観察して支那 語を勉強する、そのこと以外のことはなにもするな。」と安三から忠告を受けていた5。多分、 郁子は安三の忠告を守ったと想像されるが、郁子は1年経つか否かの頃から学園の改革に 着手していたと推測される。例えば、37年1月号の『女性展望』では「支那を語る」という インタビュー記事が掲載されているが、その中で記者の「清水郁子さんの崇貞女学校はご 覧でしたか?」との質問に対して、林芙美子は「あれは金鶏勲章ね。私は本当に感心しまし た。私は一体キリスト教つて偽善的のやうで嫌いなんですが、あの方のはお仕事を見て感 心しました。」と、回答している。また、ガントレット・恒子は「私が感心したのはね。ミス ターは、形が小さくとも生きた仕事がしたいのにミセスが学者だから理想的に理想的にと 拡張して困ると仰有るんですけど、ああして講堂も出来、小さいけど自分の目にうつる必 要を感じて、着々拡張なさるのはえらいと思いました。」と、述べている6。園長として着任 約1年半の間に、すでに講堂を建設したという行動力を郁子はもっていたのである。  『支那之友』の紙面を整理した〔表1〕、〔表2〕、〔表3〕を手がかりに、崇貞学園での教育事 業を整理してみてみる。崇貞学園は、1936年ごろから①学校制度、②学校施設、③教育活 動の改善、④留学生派遣・日中学生交流、⑤教員組織の充実などの面で発展していったこ とがわかる。日中戦争勃発後、国策に乗じて発展していった面も否めないが、発展の背後 にはかなりの郁子の手腕があってのことと想像される。郁子が取り組んだ教育改革として、 ここでは学校制度と学校施設を取り上げてみたい。  学校制度の面に関して最初に取り組んだのは、男女共学の実施である。1938年崇貞学園 小学部は教育制度を変更して、男女共学制度を実施している7。郁子が将来男女共学を実施 するため、すでに1936年「崇貞女学校」を「崇貞学園」と改称している8。38年、小学部へ の男子児童7歳から9歳児が31名入学した。郁子は「今や、支那国民教育改造の秋、特にか の国民党政府によってなされた排日教育を排除し、これに代わる親善敦睦の理想を以てせ んとするに際して、我々の関心はどうしても男児に及ばざるを得ない」と共学を実施する 理由を説明している9  郁子の男女共学論は性差によらず、個性の差異による教育の平等、共学により男女が互 いに理解する教育機会により、男女が協力して建設する理想社会の実現を主張していると ころに特徴がある10。しかし、郁子は女子より男子が社会の中心的な存在であり、男子に門 戸を開くことによって、「日中親善」教育の理想を貫徹できるとしているのである。上記の 一文のみを以て、郁子の共学思想と実施との関係を断定的に云々することは適切とはいえ

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ない。しかし、少なくとも上記の文面からは、従来の主張である人格的平等の思想からで はなく、国策に荷担しての学校の経営的戦略を優先する考えに基づいての共学実施であっ たとも読み取れるのである。  なお、1941年6月30日の卒業式においては高小学二年(尋常六年)23名中男子2名、初 小四年(尋常四年)36名中男子10名であった。1942年の小学校卒業生80名の中に14名の 男子が含まれていた11  次に取り組んだ学校制度改革は、1939年の日本女子中学部の設置である。郁子は、日本 女子中学部開設の抱負を次のように記している。「日本人部の開設は事実上、我が校の理想 たる日支親善、中日合作の文化運動を強調せんがために、事業の一端を延長せんとするに 過ぎない。しかし、ここに日鮮満漢の四族の共和教育を本格的に開始することは、学園の 歴史を新らしき頁を加えることである。且つ、我々は、来るべき百年五百年千年後の教育 的効果を想って期待やまざるものがある」12「日本女子中学部」はそれまでの中国の子女 を対象としていた学園から多民族共学という国際的な学園へと発展を期しての設立であっ たのである。  「崇貞学園日本女子中学部案内」には、学校の「教育目的」を「現地に於ける日本子女の ため、現代家庭婦人としての必須なる教養を授くると共に、支那語及び支那事情に通じし め且つ中国子女との共学により相互の理解を高め、以て文化的中日合作のために有為なる 女性たらしめむことを期す」と掲げている。「学科課程」は、「修身聖書」、「日本語」、「算術(珠 算ヲ含ム)」、「実用英語」、「支那語」、「支那事情」、「家庭科学衣食住」、「洗濯染色」、「和洋支 那料理」、「和洋裁手芸図案」、「音楽」、「体育」、「家庭医学」、「特別作業(土曜午後)」で構成 している13。一目して、日中文化交流を意識したカリキュラムであったことがわかる。  日中戦争後、日本人の数は北京において急速に増加していった。1939年4月より日本人 の中学校、女学校が開設されることになり、中学校募集人数70名、女学校110名を当初予 定したが、それぞれ倍の人数の志願者があるような情勢だと郁子は紙面に記している。こ うした新設された日本人学校に対して、「父兄の中には、なお日本の上級学校へといふこと だけを、目がけている方等の多くは、結局学校の形式も内容も、日本のそれと余り変わら ないものであるかも知れません。」と、郁子は推察している14「日本人女子中学部」は、北 京の学校建設ラッシュのなかでの開設であったが、日本国内と同様の教育内容の学校でし かなかった多くの北京の日本人中等学校に比して、「日本女子中学部」は異色の目的と教育 内容を持した民族共学を志向した国際的な学校として設置された。  郁子は学校施設の充実にも熱心であった。前述したように、1937年にすでに講堂を建設 している。その次には家政館の建築計画があった。地下室に洗濯及び乾燥室、一階は炊事 の準備、食堂、桜上には洋裁室と作法練習のために客室を備える計画であった。この家政 館の建築費は原田積善会からの3,000円の寄附が充てられる予定であった15。原田積善会 は、1920年原田二郎が1,020万円を寄附して設立した民間の団体であった。「大正から昭和 の社会文化事業の発展に大きな役割を果たした」団体であったようであるが、崇貞学園が

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寄附を受けたと推定される1937年の原田積善会の助成件数は309件、助成総額は1,617,577 円である16。一件あたりの平均助成金額は5,200円余りとなる。崇貞への3,000円という額は、 原田積善会の各件に対する助成金額から推測して決して多額の助成金ではなかったといえ る。なお、家政館は当時の建築機材の急騰のため建築を中止したようであり、その後も建 築予定とはなっていたものの実際には建築されなかった。又、同時期、郁子と安三は学校 農園の設置に関しても奔走している。郁子は在北京のかなり早い時期から教育的環境とし て学園の施設建設に積極的に取り組んでいたと推測される。  ところで、1939年5月発行『支那之友』の紙面に、38年から40年にかけて寄宿舎、体育館、 図書館、校舎が次々建築されていった様子が伝えられている。崇貞学園は、「校舎、寄宿舎、 ギムナジュウムを建設して時代の要求に順応しうる教育機関」をと38年4月、建築資金目 標を掲げて100,000円の寄附を募った。しかし、10月末ようやく約10,000円程度の寄付が 見込まれるに過ぎないということになって、安三は大いに失望したという。  それにもかかわらず、先ず1938年夏から寄宿舎の建設に取りかかった。新築とはいかな かったが、校地の近接した民屋を土地とともに2,200円で購入、3,000円をかけて改修して 9月から開設、25名が止宿することができるようになった17  次に取り組んだのは体育館の建設である。郁子は、「女性の体育に就いてまだ正しい教育 的認識をもたない支那に在って、我々は其道に先鞭をつけたいという願望をもっている」、 「寒暑共に激しく、且つ、春先に、蒙古風の来襲をうける北支では戸外での体操は殆ど一年 に数える程しかできない」、「体育館は単に体育用としてのみならず、集会場としても悠に 五百余人を収容できるのであるから、今後学園の特別なプログラム実行の場合にも役立つ」 との考えで施設を構想している。郁子が構想した体育館施設とは、バスケットコートなど の施設や映画上映も可能な講堂としても使用できる屋内体操場、観覧席が設けられた本格 的なトラック競技ができる野外運動場、運動用具収納場所や更衣室、シャワー室などを完 備した施設であった18。郁子はかって、アメリカ留学時代にみたアメリカの中等学校の体 育施設をモデルに北京の地で実現していったのである。体育館は外務省が全額を援助する ことになったが、全工事を三期に分けて支払われることになったので、工事も三期に分け て建設されることになった。  38年には第一期計画として12,000円を下付されることになった。なお、学園から外務省 に宛てた報告には、「昨年中ニ取掛リ度希望アルタルトモ之カ契約ニ当タリ種々ノ情勢ヲ 考慮シ旧正月(二月十九日)前ニ請負者ノ資金ノ必要ナル時期ニ契約ヲナルトキハ非常ニ 安価ニ契約シ得ラレ支那人間ニハ契約ノ際全額支払フ習慣アリテ新学期迄ニ落成ノ見込 ミ」と、説明されている19『支那之友』の紙面によれば、体育館は39年4月に完成を予定し ていた。  続く第二期,三期の工事分であろうと推測されるが、体育館建築のために「昭和一四年度 分」として、23,000円の助成を授受している20。外務省対支文化事業部長に宛てた「体育館 建築見積書」中には、建築物として30,000円、その他5,000円分として「教壇,助木、バスケッ

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トボール、アレーボール、ピンポン、跳箱、バック、平均台,マット,踏切板、体操用腰掛、 縄梯子、薙刀鏡(姿勢写シ)暖房設備、椅子(折タタミ用)、シャワー、洗面所、脱衣戸棚、椅子, 事務室用机」を挙げている。1939年11月の『支那之友』の紙面では、体育館が第二期の工 事にかかっており、11月15日には終了して350人を容する煉瓦作りのスタンド、それにバ スケットボール、テニスコート、ランニングトラックを含んだ運動場が完成すると記して いる。さらに来年の春には、第三期工事として、ステージ、体育道具置場、更衣静養室、映 画上映の施設まで完備する予定と報じている21。外務省からの助成金が支給された時期と 建築計画案とにズレはあるが、最終的には外務省に示したほぼすべての計画を遂行して、 体育施設を完成したと推測される。  更に、1938年末に、中国人篤志家から図書館寄贈の申し出があった。地下室に書庫、1 階の大閲覧室、中2階の特別室等々を備えた図書館を建築出来たが、建築費22,000円を費 やした。郁子は図書館を「学園のというよりむしろ朝暘門外の図書館といった意味の教化 機関であらしめたいと我々は思っている」。と、その活用の抱負を語っている22。図書館の 一隅には「崇貞ミュージアム」を設け、「紀元前四千年前の土器から始まって、ともかく有 史以来、支那の各時代を踏んだ土器、石器、玉、骨、亀甲、銅、銭、更に唐代から現代に至る まで一つ二つ並べた。」と説明している。安三が展示物の一つ一つにキャプションを書きピ ンで留めたという。展示品でいわゆる骨董品として価値のあるものはないが、「生徒にはこ れで時代の観念を与えやうとする貴重な直観材料なのである。将来はせめて北京人の頭蓋 骨の一つ位は並べたい物だと思ふ。」と述べ、「将来これを朝陽門外の博物館として高い文 化の薫りを発散」させたいと記している23  39年に入ると、校舎の建設にも取り組んだ。50名定員の6教室、35名定員の2教室の二 階建て校舎の建築費は24,000円の契約となったが、なお8,000円が不足であった。「一夕我々 両人は算盤玉をはじき乍ら、今我々の家にある金といふ金は全部注ぎ込んでみた。清水の 原稿料は勿論畏三が何年か前に預けた零細な貯金、それにメンソレータムのボーナス、又 小学部の基金を一時流用することにして計算したが、なほ五千何百円といふ不足である。 (中略)やっぱり能ふ限りは自力でといふので、清水は原稿かきを決意するに至ったのであ る。」と、子ども(畏三)の貯金までも投入しても足らず、安三の原稿料で埋める算段をし ているのである24。安三は39年に『姑娘の父母』と『朝陽門外』の2著を出版している。『朝 陽門外』の「自序」において、「目下崇貞学園は図書館、体育館、教室を建築中である。」、「已 に起工されているものの、五千六百円の建築費が足らないのである。」、「何か、わたしの持 物にして、売物はないかと、夜中目の醒むるまにまに考へ、想いついたのが『姑娘の父母』と、 この『朝暘門外』である。こんなものを書くのは、実にかんばしことでもなんでもない。し かし、女が黒髪を売り、身を沈めてお金を得る如く、わたしは決然これらの書物を上梓す るのである。」と、安三は執筆の動機を記している25『朝暘門外』は周知のように大ベスト セラーとなったが、安三の他の著作より誤記が多い。安三が校舎の資金繰りのため性急な 執筆活動を進めたため誤記が多発したと想像される。

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 一方、郁子は39年11月の紙面「学園のこのごろ」において、既に校舎は完成して「中央 のキャムパスを隔てて、講堂に南北に対して向かい合った二階建八教室の新校舎、同じく 東西に相向かった体育館と図書館。体育館は米人建築師が、支那で初めて試みたといふ最 新式独逸式の建築。二階建教室はギリシャ建築をおもはせるようなそそり立つ円柱。それ にあくまでも瀟洒な、八角窓を有する図書館、前面には子負ひ獅子がやさしく看門してい る。」と、新校舎の様子を語っている。  当初1万なにがしかの募金しか得られなかったにも拘わらず、38年から40年かけて取り 組んだ施設の整備にかかった総額は、当初の募金目標の10万円にほぼ匹敵する金額を投じ ての建設費ではなかったかと想像される。校舎は建ったものの、それでも小・中学部の150 客余りの机と椅子を調達出来ず、郁子は思案に暮れていた。その時、安三に「『そんなこと は祈らなければ与えられない』といわれ、私は冗談交じりに、「『まさか、机や椅子が天から 降ってくるものでもないし』と答へた。が不思議に二日計りたつと、知り合いの支那人の 校長から電話がかかってきて、」廃校になった学校に椅子と机の売り物があるとの情報が 入り、必要とする数の椅子と机を揃えることができたという26  郁子の目的は、立派な校舎を整えることではなかった。「私は女性体育と新興亜建設と切 離して考えることはできない。」と郁子は記している。郁子は、中国女性の体育的向上とと もに、体育向上を日本の興亜政策を推し進める有効な方法と見ていたのである。又、郁子 は「図書館の中二階の閲覧室には、朝陽門外の貧家に生まれた姑娘たち、もしも彼等が崇 貞を知らなかったら、恐らく夢にも思ひ至らなかったであろう、学生は喜びと幸福とを満 喫し乍ら、読書に専念している。」と、記している。事実、当時の在籍していた中国人は、図 書館のお陰で本を読む習慣がついたと語っている。また、ある卒業生は、家が貧しくお弁 当をもって学校に通うことができなかったので、昼休み図書館で本を読んですごしたが、 夏はとても涼しくしのぎやすい場所であったと、語っている。郁子は、図書館のなかに設 置した「崇貞ミュウジアム」を将来地域の博物館に発展したいとも述べている。郁子の理 想は、学校の地域貢献にまで射程に入れた構想だったのである。むろん、郁子の考え方の 根底にはかって学んだアメリカの教育科学の思想である学校と社会との関係、生徒の自発 的・活動的な教育活動を支援する教育のための学校施設の充実という考えが色濃く反映さ れていた。   3.愛隣館への関わり  1939年、セツルメント愛隣館は北京天橋に日本基督教婦人矯風会及び日本基督教聯盟の 支援によって建設された。安三は館長として事実上中心になって運営していたことは広く 知られている。郁子も、現地委員長として運営に参画していたのであるが、郁子は具体的 にどのような関わりをしていたのかを郁子の思想との関係に着目して明らかにしてみた い。

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 郁子は北京に移り住むようになってから日本人婦人の集まりである北平婦人会に参加す るようになった。会に参加した頃、郁子は「どうしてもここの婦人たちが時勢を解する人々 とは思われない。」、「月一回の例会の時でも、苟くも時局の事など話題に上った例がない。 所謂官員的な日常生活の下にいつも天下泰平の有閑夫人のお仲間入りは、つくづくご免だ とこの間も思った。」と、社会の現実に関心を示さない婦人たちを批判している27「日支親 善」の実行を掲げて北京入りした郁子の目からすれば、ひどく生ぬるいと感じたのも当然 であったであろう。  1937年の同会の例会で、郁子は日本の社会情勢から北平に於ける日本婦人の責務を3点 あげている。第1に、日本婦人は自己の立場の重大性を自覚すること、第2に、婦人は婦人 として母として大衆的愛の実行者たるべきこと、第3に、国際地帯に在っては、須く国際 地帯に即した婦人運動を興すべきであると、主張している。こうした郁子の考えもあって と想像されるが、婦人会では支那貧民救済義捐の運動を興すことなどを企画している。古 着を回収したり、中日救済演奏会を開催して切符の売上金を寄附したりしている。売上金 470円余りの内200円と古着約千点を北平市社会局長に届け、北平市社会局から支那貧民 に手渡したという。国際婦人会の催しにも参加するなどして、郁子は現地の日本人婦人の 婦人会活動に早くから関心を持ち関わっていた28  後述する宋美齢との会見直前の頃と推定される1937年3月の紙面において、郁子は次の ように述べる。「『排日から親日へと』とふ時局の転回が、容易ならぬ難問題であることを、 日頃彌々深刻に認識させられるのにつけても『なんとか女性の力を以て日支関係を緩和す る手段はあるまいか』と、いふのが明けても暮れても、私の念頭を離れぬ問題であります」。 と、記している29。そして、郁子は「日支婦人懇談茶話会」を自宅で開催、日本、中国の婦人 25名が集まり、中国人劉婦人の話を聞き各自が感慨を述べあったという。「相容れぬ両国 間の楔となって、云うに云はれぬ苦心を嘗めて来られた人々の心境を如実に読む事が出来 て、転々同情の念を禁じえませんでした。」と、婦人として「日支親善」のために積極的に 働きたいと願っている郁子の様子が伝わってくる。  こうした郁子の心境を実現化していく機会が訪れた。日本基督教婦人矯風会が資金を投 じて愛隣館を建設することになったのである。会長林歌子が北京を訪れ1938年10月17日 「新天地の建設と婦人の使命」を題して講演した。林は「新天地建設の要諦として、禁酒、 純潔、平和の三条を提唱した。林の第三の目標は平和である。この理想の実現の一端とし て、北京天橋に愛隣館の事業を興すことになったのである。」と、郁子は紙面で説明してい る。続いて「愛隣館の事業は、在日本クリスチャン女性の抱懐する隣人愛の結晶である。故 国は今や一瞬も宴如たりえざる国難危急の際である。而もこの秋になつてなほ、我々国民 の心情は隣人への愛に燃えつつあるのである。否燃えざるを得ないのである。何となれば、 日支一如の一大帝国、日支一如の一大文化建設こそが、今次の事変の究極の目的だからで ある。林女史の言に共鳴して立ち上った在留同胞女性はここに雙手を広げて、この意義あ る故国の贈り物を相うけ、相捧げてこれをはぐくみ育て、花咲かせ、ついに実を結ばしむ

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までの努力を払はねばならぬ。」と、決意を述べているのである30  林の来遊を機会に、郁子が中心的に関わり「北京基督教婦人矯風会」は結成されたと推 測される。林の講演の前日北京日本人基督教会に集合した50名余りの女性によって同会の 設立を決めた。さらに、林の講演を聞いた女性たちも加わり、会は結成された。郁子は、会 の名称が「北京基督教婦人矯風会」に落ち着いた経緯を次のように説明している。  「日本基督教婦人矯風会北京支部」という案があったが、北京には基督教婦人矯風会支部 なるものはないし、今後は日本人、支那人、外国人なども含んだ国際的な団体事業に発展 していくべき国体として北京にその基礎を築いたなら、全中国に組織化すべき性格のもの であるし、また、日本の支部として活動していくには不便もあると予想されるので、会員 の国民性によって区別するような文言をいれずにおいたと、述べているのである。総会を 開催して、会則の承認と事業活動を討議している。「北京基督教婦人矯風会」の「目的」は「基 督者女性ノ立場ヨリ、特ニ現地及現状ニフサハシキ社会矯風事業並ニ国際親善ノ工作ニ参 与スルヲ以テ目的トナス」としている。会の運営の中心となる「総務」には、郁子と大島千 恵子が就任し、北京基督教会の会員であった小澤さくら、崇貞の教員であった長尾貞子、 愛隣館医師の池永英子などが幹事を務めた31「事業」は「随時研究会、講演会、懇談会、見 学ナドヲ催シ、且ツ各種社会矯風事業ヲ企画シ、コレガ遂行ヲ期ス」とあるが、当面は愛隣 館の事業を援助することを目標に活動していくことになった。翌年の1月には例会を開催 して、「人事相談部」を北京基督教会内に設置すること、レコードコンサートの開催、2月 には同会顧問である方政英が中国の行儀作法についての講演をするなどの企画を決めてい る。  郁子は、婦人が家庭に閉じ籠ることなく社会の動静に関心を持ち、積極的に社会参加、 社会奉仕をすることを婦人の覚醒と捉えていた。女性の積極的な社会的活動を奨励するが ゆえに、婦人の積極的な社会参加が「新文化建設」という国策への加担、国への奉仕と「日 本女性の善意をこの戦争のさ中にあって、直接支那人に伝えよう」との思いがあいまって、 愛隣館を支える婦人運動の展開となっていったのであろうか。 4.中国人との交流  郁子の北京時代を概観してみて、ひとつの特記すべき事項は著名な中国人との交流が あったことである。郁子は、殷汝耕(1885~ 1947)の連れ合いである殷民恵、胡適(1891 ~ 1962)、宋美齢(1897~ 2003)、張伯苓(1876~ 1951)といった中国近現代史上重要な人 物との交流があった。  郁子は、北京に移住した年の1935年11月24日殷民恵に面会している。面会の翌日にあ たる11月25日、殷汝耕は「冀東防共自治委員会」の成立と自治を宣言したが、これにより 国民政府は殷に対して逮捕状を発している。しかし、翌月の12月委員会は冀東防共自治政 府に改組され、殷汝耕は政務長官に就任している32。こうした緊迫している最中、殷汝耕の

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秘書役の金井という人物の夫人の仲介により面談の機会を得たという。郁子が面会を望ん だ理由を、「夫人が日本人であられる事は、一面国際結婚を主張する私にとって、特に昨今 の政治的社会的情勢にあっては少なからず興味を唆らるる事であった。」と、説明してい る33。国際結婚によって民族間の友好が進展するとする郁子の主張と日中親善による新文 化建設が一体視されている。「女性として、日本人として、かうした際に、夫人を訪ねてそ の心境を叩き、ねぎらいの言葉を呈することは当然の義務だとも考えられたので出かけて 行った。」とも、述べている。郁子は、殷民恵の謙虚でしかも堂々とした態度に敬服したと いう。「一切を支那のため、日本のために捧げられた健気な夫人の態度は、やはり大和撫子 なればこそと、嬉しくも誇らしくも感ぜられた。」とその印象を語っている。胸襟を開き、 夫人と時局のことを話題として語りあえたことは実に愉快であったと、記している34。郁 子は、女性同士で日中関係について語り合えることに意義を見出し、話合うことで互いの 理解を深め、親善につながると考えていたのである。  ところで、郁子は当時中国第一の文化人胡適とも交流があった。1936年1月3日に、郁 子は安三とともに胡適を訪問し、初対面を果たしている。  しかし、それ以前に郁子は胡適に関心をもっていたと推測される。胡適は1935年11月号 の『日本評論』に「日本国民に訴ふ」と題した「論文」を寄稿している。胡適はその中で、日 本国民は「中日親善」を口にすべきではない、この四年間の時局は中国人民に深刻な仇恨 の感情と思想をもたらしている、今日は如何に「中日仇恨」を解消するかであって、中日親 善の問題ではない、と述べている。「仇恨の心理が解除されない前に前に語る一切の親善の 言葉は、日本国民の口からでたものは対手に対して侮辱となり、中国国民の口からでたも のは対手に対して虚偽である。」、「日本国民に、四億の民族の仇恨の心理を軽視しないよう に望む。」、「侮辱の上に侮辱を加へると終ひには、挙国反抗の一日が来るであろう。」と、満 州事変以降の中国への日本の侵略を批判している35  郁子は、胡適の論文に反論して「日支親善の可能性」と題する一文を翌月にあたる同年 12月号の『教育女性』に寄稿している。郁子は、次のように言う。胡適が「日支親善」を口 にするなといい、「仇恨培養の責任は断然日本に在ると考えていることは疑うべくもない。」 と主張している。確かに北京の現在は戒厳令が施行され、不安に閉ざされている。日支親 善を標榜しているが、こうした機会に遭遇すると一抹の不安を感じる。しかし、崇貞学園 にあって、幼い子どもが郁子に寄ってきて盛んに中国語を教えてくれるといった経験から、 「私がそうした子どもの純真さ、天真爛漫なる性情を損なわずに育てて行くのであるなら ば、そこには必ずや国境を超へ、民族を絶した温かい感情の交流を実現し得るであろうこ とを信ずるものである。」と、日支親善の可能性を説いている。さらに、日曜学校で平素あ まり明瞭でないと感じていた少女が聖書を読み、讃美歌を歌い、子どもを指導している姿 に接して、感激の涙に咽んだという。そして、「口に親善をとく私の心の底になお幾何かの 不純分子―支那人を劣等視するが如き心理の動けるあるを感じて私は深く心に詫びたので ある。」と自らを反省している一方、「私は胡適氏の忠言に従って中日親善を口にすること

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を止めようとは思はない。否、むしろ、一層高く、強く、日支親善を叫びたいと思ふ。」と、 反論しているのである36。そこには、子どもたちとの教育的交流を通じて、真の「日支親善」 が可能であるとの郁子の思いが現れている。すなわち、教育を社会の機能と捉え、教育経 験によって社会を改造していくとするアメリカの教育科学の立場から、郁子は「日支親善」 の可能性を確信していたのではないだろうか。  すでに触れたが、翌月の1936年1月3日安三とともに胡適の自宅を訪ねた。安三は胡適 と20年来の朋友であった。この時の胡適訪問は、奉天中学校長寺田という人物が2日に訪 ねてきて、学園の話などを聞いたのち、胡適を紹介してくれるよう要請され、すぐに胡適 に電話をして翌日実現したのである。この時の胡適と寺田、安三とのやり取りの様子を郁 子は『新教育研究』の誌面に寄稿している。寺田校長が胡適に、日本と支那とはどうしても 戦争をしなければならないとするあなたの考えを聞きたいとの問いに対して、胡適はその 理由はあなたたちの方が知っているでしょう。この2,3カ月来の北支の情勢をみると戦争 は免れられないとの気持ちがする。支那が日本と戦った場合、文字どおり国土を焦土とし なければならない。支那の五百年、千年の文化は滅ばされてしまうであろう。それでもや むを得ない。吾々はこれほどの国家的侮辱をしのぶことはできないと、語ったという。安 三は日本の軍閥も、実業家も、自由主義者もみな支那に関心をもっている。吾々は真に貴 国と相提携することを願ってやまない。だから、そこをよく考えて、貴下の如き権威ある 思想的指導者は日本と手を握ることに努力すべきであると主張したのに対して、胡適は排 日と言わず排外思想は国民的自覚の第一歩である。日本でも攘夷があったではないか、こ のことを思って日本は支那を理解してほしいと述べるに留まった。胡適は安三らの言葉に 強く反発して、和平工作は不発に終わった37。胡適の『日記』には、当日の事を清水夫妻が 寺田氏とともに来訪されたと、一行のみ記されている38  郁子はそれから丁度1年後の1937年1月2日、胡適の家を再び訪問している。この時は、 郁子は督学官他数名の日本人の通訳として赴いた。郁子は、この会見の中で日支親善の問 題に触れている部分を紹介するとして『支那之友』の紙面に報告している。日本人側が排 日教科書の使用を禁止してほしいとの申し出に対して、胡適は、それは無用な事だ、現実 には排日教科書どころか、もっと厳しく排日感情を煽るような実物教育が日本人によって なされているではないかと、反論している。そのような事が日本人によってされていると は意外だとの意見に対して、胡適は親善教育の余裕があるとすれば、日本人にも良い日本 人と悪い日本人がいて、一概に悪いと思うことは誤りであると区別して教えることであろ うと、述べている。日支親善のために青年の共同研究をもっと盛んにしてはどうかという 提案に対して、胡適は全国の学生を一堂に集めることは無理だし、個人的な方が効果が期 待できると、応えている。胡適は自己のアメリカでの経験から、日本に留学している中国 人学生を日本の家庭に招いて滞在させるような学生優遇策を講じた方が効果的であると、 述べている。さらに、留学生たちの学業に対して監督指導を厳重にしてほしいと注文を付 けている。最後に、郁子は胡適について、「氏の態度はあくまで虚心坦懐で、文化人らしい

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礼儀もあり、個人的には十分親しめるたちの人である。」との感想を添えている39。前記の 文面から、話の内容は双方かなり平行線のままのであったと想像されるが、理不尽なこと を理不尽なことをして論理的に反論し、愛国への想いを崩すことのなかった胡適の態度に、 郁子は尊敬の念を抱いたのであろうか。  他方、胡適は1月2日の『日記』に次のように記している。「清水安三夫人が日本人を連れ て6名来訪された。2時間程度談話した。私は丁寧に彼らと対話したので、何人かは感激し た様子であった。私は談話をしながら、ある名刺の裏に『尊王攘夷』と鉛筆で書いた。彼ら が帰るとき、そのうちの一人がこの名刺を記念品として持ち帰った。談話中、清水夫人は 涙ぐみながら通訳をしているのを私は見た。昨年のこの日、清水夫妻は客を連れて訪問さ れた。その時、談話のひとつとして、日本の大学が中国の学生の学習に対して厳格である べきだと主張した。清水夫人はこの事を関係者に伝えて、今実行していると述べた。」と、 胡適は、その日の記述の約3分の2を費やして郁子たちの訪問を記し、郁子の涙ぐむ様子に 目を留めているのである40。なお、この時話題となった排日教科書は改訂されて、38年4 月から新教科書を使用するようになった。  続いて郁子が会見した人物は、宋美齢である。安三は、郁子が胡適を訪問した数十日後 に宋美齢との会見を思いついたと述べているが、安三とともに会見した1936年ではなく、 1937年の1月の胡適訪問後のことである41。最も、郁子は中国に在住するようになった頃 から、宋美齢への訪問を望んでいた42。郁子は、国家間は硬直した関係にあっても、女性同 士の対話を積極的に進めることによって和平をもたらすことができると考えていた。それ 故に、先の殷民恵訪問も実施したのである。  宋美齢との会見が実現するきっかけは、婦人公論社から取材の依頼が舞い込んだことに ある。当時宋美齢は西安事件を通じて国際的に注目の人物となっていたが、母校マウント・ ホリヨーク女子大学が宋美齢に名誉博士号を与えるという報道があった。この報道を知 り、東京聯合婦人会は宋美齢が渡米途中日本に立ち寄って日本女性と懇談をする企画を立 てた。そこで、東京聯合婦人会から郁子に宋美齢にその招待状を届けてほしいとの依頼が 3月3日にあった。郁子は雑誌社からの取材の依頼と招待状を届けるという目的で、南京に 向けて3月16日北京を出発、翌17日夕刻に南京に到着した。郁子はすぐに日本領事館に連 絡をとって宋美齢への紹介を依頼したが、逆に領事館から北京に何者であるかを問い合わ せる電報が打たれるといったありさまで、領事館は全く力にならなかった。そこで郁子は ミシガン大学の校友たちに援助を依頼した。ミシガン大学の校友でしかもハワイの汎太平 洋婦人会議で同席した友人である南京中央大学学長羅泉倫夫人とミシガン大学の先輩にあ たる南京金陵女子大学学長呉貽芳(1893~ 1985)の助力によって、宋美齢との会見が整え られた43。もっとも、郁子は1935年の「中国視察旅行」の際、この両名と南京ですでに交流 している44。郁子は、羅夫人と呉貽芳の案内で22日4時30分ごろから1時間ほど宋美齢に 会見することができた。  郁子は、会見中宋美齢が今日の世界の所論としてもっとも力づよく話されたのは以下の

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ことであると、誌面を通じて報告している45「今日の世界の至る処、誤解と紛争とに充ち た不幸な国際情勢にある。而して世界に平和がなく、国際間に正義のおこなはれざる事の ために一番苦労するのは、家庭を斎へ、子女を教育するの任にあたる婦人達である。故に 夫人は、母の立場に於いて相提携することに努めなければならぬ。今日の婦人等は、もっ ともっと国際平和の問題について関心を持たなければならぬ。而して国際間の諒解は、決 して巧妙なる策略や権謀術策によつて得らるるものでなく、ただ真実の一路を邁進するに 在る。我々は最も正直に、誠意を以て相手にぶつかつていかなければならぬ。そして又、お 互は、相手方の立場になつて、物を考へ、事を計り、相手の幸福のために努むる所がなけれ ばならぬ。さうした気持を以て、今後日支両国婦人は両国の親善恢復に努めて行きたい。 どうか、この事を十分、日本の婦人方に通じてくれるやうに」と、述べたという。また、宋 美齢は、今日の支那の婦人が「いつ何時でも、国家のために喜んで死ぬるといふこの精神 こそがやがて支那を復興せしめ、強大ならしむる厳選であると私は信じている。」とも語り、 互いの国の婦人の立場を語る合うことに留まったと思われる。なお、宋美齢は渡米するつ もりがないので、東京聯合婦人会からの招待に応ずることはありえないとの回答であった。 郁子にとって、話し合うことによって双方が歩み寄れるということはもはや幻想でしかな いということを確認する旅となったのではなかろうか。郁子は、3月25日北京の自宅に戻っ た。  ちなみに、1945年11月崇貞学園が北京市に接収されたが、郁子と安三は蒋介石と宋美 齢に12月15日付で嘆願書を出している46。その中に、郁子は1937年羅夫人と呉貽芳の案内 で宋美齢と南京で会見した旨を記している。  以上の殷民恵、胡適、宋美齢、3名は政治的、外交的な面での交流であったが、全くそう ではない関係において交流した人物もいた。そのもっとも大人物は張伯苓であろう。  郁子が張伯苓といつごろから交流するようになったかは不詳である。1935年4月から5 月にかけての「視察旅行」の際に、5月1日、2日に南開大学を訪問してミシガン大学時代 の校友や教員たちと交流しているが、張伯苓と出会ったという記述はない47。安三は1937 年当時「張伯苓先生」と題し、新島襄と比較して張伯苓を紹介した一文を書いている。草稿 は日中戦争の直前すでに脱稿を得ていたようである48。また、「支那事変の見透し」と題し た文中においても張伯苓にふれている個所がある49。こうした点から推測するに、安三は 張伯苓とすでに面識があったかと想像される。郁子は安三を通じて張伯苓を知ったとも想 像されるが、郁子の文章中に張伯苓が最初に登場するのは、『支那之友』21号である。張伯 苓は1937年3月26日、崇貞学園を訪れているが、「来訪は待望のことであった。」と、記さ れている。その時の様子を「南開大学総長張伯苓氏を迎ふ」と題して掲載している。その中 で、郁子は張伯苓が問答形式で子どもたちにわかりやすく中国の現状をいかに説明したか を具体的に記している50。また、張伯苓が崇貞学園の理事長に就任することを快諾したこ とや時間が取れたら日本に学園のために募金に行ってあげようといわれたことなどを記し ている51。郁子は、張伯苓について「こういう人物が支那に居る間は支那は決して亡びぬと

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思ふた。」と述べている。なお、講堂に掲げられていた扁額「学道愛人」は、講堂の献堂式に 張伯苓から寄贈されたものである。 むすび  これまでの崇貞学園に関する先行研究は、清水安三の人物や思想に引きつける形で論じ られてきた傾向がある。李紅衛『清水安三と北京崇貞学園―近代における日中教育文化交 流史の一断面』(2009年)、小林茂『東支那海を越えて -清水安三先生の前半生』(2011年)、 太田哲夫『清水安三と中国』(2011年)は、いずれも安三の視点からと崇貞学園の歴史を捉 えている。山崎朋子『朝陽門外の虹 -崇貞女学校の人びと』(2003年)も同様の視点に立っ ての著作である。  1921年に創立した崇貞学園は45年の戦争終結とともに接収という形で閉校となった。 24年間の学園の歴史のうち後半の10年間、郁子は崇貞学園の経営に参与していたことに なる。  本小論では、郁子が自己の思想をどのように実践していったかに焦点をあて、崇貞学園 の経営への参画、愛隣館への参与の面と殷民恵、胡適、宋美齢、張伯苓といった中国人たち との交流の面を照射して北京時代の小泉郁子を明らかにしようと試みた。  確かに郁子がかかわった時代は戦争という特殊な時代であり、国策により学園が発展し ていったという一面があったことは否めない。しかしながら、郁子の参画によって、男女 共学の実施、日本女子中学校の設置による民族融和教育、体育館をはじめとする教育施設 の整備などを実施して、それまでの学園の歴史に見られなかった発展に貢献していった事 実を明らかにできた。本稿においては十分展開できなかったが、35,000円という巨額な助 成をうけた体育館建設は、郁子の手腕や体育教員の長尾貞子の存在など崇貞学園側の状況 だけでなく、日中戦争後の日本の体育教育への方針、すなわち体と精神両面の鍛錬という 国家政策との関係からの考察も必要であろう。その点の分析は未発である。  なお、本稿の後半で中国人との交流を取り上げたが、事実的な確認にとどまった。交流 の実態を解明していくには、郁子の中国認識の検討が不可欠である。すでに紙幅は尽きて いるので、改めて別稿で論じたい。 注 1 『支那之友』の多くはタブロイド版であるが、発見されている18号から21号はB5の判型の形式で ある。また、学園の一覧も『支那之友』として発行されているので、いちがいに『支那之友』の判 型をタブロイド判と表記することは適切でない。 2 李紅衛『清水安三と北京崇貞学園 近代における日中教育文化交流史の一断面』2009年不二出版 170ppでは、創刊の確認は北京档案館「日人清水安三在崇貞女学校内発行支那之友請発証書一案」、 J2-3-394によっているとしている。

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3 オーバリン大学アーカイヴズ所蔵、卒業生ファイル文書より。 4 小泉郁子「崇貞学園に於ける労作教育の実際と其の効果」新教育協会編『汎太平新教育会議報告書』 292―293頁、1936年、刀江書院。 5 前掲、李紅衛『清水安三と北京崇貞学園 近代における日中教育文化交流史の一断面』124頁。 6 ガントレット恒子、林芙美子、望月百合子参加インタビュー記事「支那を語る」『女性展望』11巻1 号、1937年1月。 7 「崇貞学園だより」『支那之友』第21号、1937年4月1日によれば、岩崎精七の援助により、学園に 男子部を設立する計画があったと思われる。最初夜学から出発して数年後数年後崇文学園として 崇貞学園と対にする予定で、敷地も多分崇貞学園と向かい合せのところに選定されると記されて いる。 8 『支那之友』第28号、1938年1月15日。 9 「崇貞キャンバス点描」『支那之友』第34号、1938年10月25日。 10 小泉郁子『男女共学論』1931年参照。 11 1941年度の卒業式は『支那之友』第49号「学園点描」による。1942年度は前掲の李紅衛『清水安 三と北京崇貞学園 近代における日中教育文化交流史の一断面』126頁。 12 「日本女子部の開設」『支那之友』第37号、1939年3月5日。 13 「崇貞学園日本人中学部案内」同上。 14 「北京だより」同上。 15 「北京だより」『支那之友』第18号、1937年1月1日。 16 山岡義典「第二章 原田二郎と原田積善会」川添登、山岡義典編『日本の企業家と社会文か事業』 東洋経済新報社、1987年の34~54頁参照。 17 「新装成らむとする学園」『支那之友』第38号、1939年5月15日。 18 「学園のこのごろ」『支那之友』第41号、1939年11月15日。 19 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015036400(第38画像目)、東方文化事業部関係人事雑 件第六巻(B-H-1-3-0-1-006)(外務省外交史料館)「2.渡辺嘱託北京出張ニ関スル件昭和十四年二 月」。 20 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015080700(第7画像目から)、予算関係雑集第十二巻 (B-H-02-01-00-02-00-12)(外務省外交史料館)「8.昭和十四年度(12)興亜院ニ移管セラルヘキ事 業ニ対スル昭和十四年度予算昭和十四年一月/分割1」。 21 「学園のこのごろ」『支那之友』第41号、1939年11月15日。 22 「新装成らむとする学園」『支那之友』第38号、1939年5月15日。 23 同上、「新装成らむとする学園」『支那之友』第38号、1939年5月15日。 24 同上、新装成らむとする学園」『支那之友』第38号、1939年5月15日。 25 清水安三著「自序」『朝陽門外』1939年、東京・大阪朝日新聞社(発売所)。 26 同上、清水安三著「自序」『朝陽門外』1939年、東京・大阪朝日新聞社(発売所)。 27 清水郁子「北支の女性を語る」『婦女新聞』1855号、1936年1月。 28 「北平婦人界最近の動き」『支那之友』第18号、1937年1月1日。 29 「崇貞学園だより」『支那之友』第20号、1937年3月1日。 30 「新天地の建設」『支那之友』第34号、1938年10月25日。 31 「北京に於ける社会矯風事業の発足」『支那之友』第35号、1938年12月5日。 32 殷汝耕の経歴に関しては、http://ja.wikipedia.org/wiki/殷汝耕を参照した。

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33 清水郁子「殷汝耕婦人と語る」『東京朝日新聞』1935年12月15日、4面。 34 同上、清水郁子「殷汝耕婦人と語る」『東京朝日新聞』1935年12月15日、4面。 35 胡適「日本国民に訴ふ」『日本評論』1935年11月に原載されているが、削除されている箇所がある。 削除されていない論文「敬告日本国民」を『独立評論』に掲載。以上の2点の資料に就いては、姜 成山氏よりご教示いただいた。 36 「日支親善の可能性」『教育女性』第11巻12号、1935年12月、6~9頁による。 37 清水郁子「胡適は斯く語る」『新教育研究』第6巻2号、1936年2月、56~63頁、清水安三『朝暘門外』 朝日新聞社、1939年、8~11頁参照。 38 『胡適全集』第32巻p.540『日記』1936年1月3日、安徽教育出版社、2003年。本資料は姜成山氏よ りご教示いただいた。 39 「胡適博士に聴く」『支那之友』20号、9~12頁による。 40 『胡適全集』p.602『日記』1937年1月2日。日本語への翻訳は姜成山氏による。 41 清水安三『朝暘門外』朝日新聞社、1939年、8~112頁に「胡適君の主戦論」と題する一文が掲載 されており、続いて「宋美齢を訪ふ」13頁以降があるが、その冒頭で胡適君を訪問してから数十 日程たって、妻の郁子は宋美齢夫人を訪問する計画を立てた。」とあり、あたかも、1936年1月の 訪問後のように受け取られるが、1937年の訪問後である。 42 「蒋介石氏夫人宋美齢女子訪問記」『支那之友』第21号、1937年4月1日。 43 南京中央大学学長の羅家倫は五四運動の指導者のひとりであり、安三とは旧知の仲。夫人はミシ ガン大学に留学、帰国後は金陵女子文理学院で教員、汎太平洋会議中国代表として参加、1938年 には「中国児童保育会」を設立、宋美齢が理事長に就任している。 呉貽芳は1922年ミシガン大学に留学、1927年同大学において生物学、哲学の博士号を取得、帰国 後南京金陵女子大学校長に就任している。 44 「本邦人満支視察旅行干係雑件 補助実施関係 昭和10年1巻 H6-0 3-2」外交資料館文書中に 旅行の報告書内に、5月4日「南京国立中央大学長羅家倫氏夫人ミシガン出身ノ教授数名ト来訪」、 「羅夫人主催午餐会、夫人問題討議」、5月5日「金陵女子大学ニテ講演及討議会」、5月6日「南京 中央大学来観」、「羅氏家ニテ午餐会」など羅夫人と交流の状況を示す記載がある。 45 宋美齢との会見に関する主な記事が掲載されている雑誌は以下のとおりである。「蒋介石氏夫人 宋美齢女子訪問記」『支那之友』第21号、1937年4月1日、清水郁子「西安事変後初めて蒋介石夫 人に会ふ」、宋美齢「今の心境御と信念を語って 日本の為に祈る」『婦人公論』1937年5月。清水 郁子「西京に蒋介石夫人宋美齢女史を訪ふ」「蒋宋美齢女史よりメツセージ」、「南京から清水夫人 第一・二信」『聯合婦人』89号、1937年4月。『婦女新聞』 46 李紅衛『清水安三と北京崇貞学園』2009年、不二出版、資料編38~42頁。 47 「本邦人満支視察旅行干係雑件 補助実施関係 昭和10年1巻 H6-0 3-2」外交資料館。 48 清水安三「張伯苓先生」『日曜学校』316号、1940年8月に掲載されているが、原稿は1937年に編 集者の依頼に応じて提出されていたが、日中戦争が没発してしまい、原稿の掲載は3年後になっ たとの編集部による添え書きがある。本資料は姜成山氏よりご教示いただいた。 49 清水安三「支那事変の見透し」『中央公論』52巻12号、1937年11月、本資料は姜成山氏よりご教 示いただいた。 50 「南開大学総長張伯苓氏を迎ふ」『支那之友』21号、1937年4月1日の他、張伯苓訪問に関しては同 号の「崇貞学園だより」にも掲載記事がある。 51 日中戦争により南開大学が焼失したため、張伯苓は南京に逃れ理事長を退いている。

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付記) 本論文作成にあたり、中国関係の文献の調査、翻訳などにおいて姜成山氏の協力を 得た。ここに記し、心から感謝する。

参照

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