井伏鱒二「岬の風景」私注稿
、 i川丸と大阪商強
削 田 日 昭 1、はじめに 井伏鱒二「岬の風景」は、ある小都会に近い岬を舞台にした小説である。 「ある小都会に近い岬」 と記したが、その岬が(島)の一部であるかのような理解がある(注l)。 しかし、その小都会(= 「町」)に「私」が着いたところは次のように描かれている。 (なお、井伏 作品からの引用は新版『井伏鱒二全集』 (筑摩書房、 1996年12月20日 -2000年3月25日)に拠り、引用 末尾に同全集の巻・頁を引用末尾に記したが、同全集第1巻所収の「岬の風景」は掲載頁のみを示し た。) 町に着いた。停車場構内にある電灯の傘の上には燕が巣をつくってゐて、巣の中の幼鳥は可憐 な禿頭を空気の中に振りあげて、塀を明けたり悲鳴をあげたりした。親鳥は私の肩をかすめて海 の方へ一と飛びにとび去った。 全くこの小鳥達はうまく生活を営んでゐるのである (63頁) その地に着いて最初に目にした「うまく生活を営んでゐる」燕の姿が、主人公の不安な心境と対\比さ れる場面だが、ここで確認しておきたいのは、 「停車場構内」とあるように「私」は「停車場」すな わち「電車又は汽車の進行を一時とゞめて、乗客又は貨物をあげおろしする所」 (中形版『辞林』三 省堂、大正13 白924〕年9月25日第14版〔刷〕 801頁、 「停車場」の項)に降り立ったとされているこ とである。東京駅を出た列車の中で、表紙のデザインから三本松の時刻表として広く親しまれたと伝 えられる月刊時刻表『公認汽車汽船旅行案内』 (注2)を手にした「私」は、その時刻表から「町」の位 置や旅館について次のような情報を得る。 私はバスケットの中から公認汽車汽船旅行案内といふ書物をとり出した。 口絵の縮尺三十万分 の-の地図によると、私の目的地はその地図ではごまかして描いてある豆つぶ大の岬の南端に位 ゐする小都会である。書物の終りの方には旅館広告の頁があって、それによると私の目的地であ る小都会には、風景絶佳茶代不要、対山館、といふのが在ることが知れた。対山館には電話もと ってある (62頁∼63頁) もし、ここに記された「対山館」が輯(大正年間は沼隈郡鞭町。現、福山市斯町)に実在する対山館 を指示しているならば、 「私」が着いた「停車場」は、それと明示されているわけではないが、斯軽 便鉄道株式会社(大正15 〔1926〕年12月、鞘鉄道株式会社と改称)の栴駅でなければならない。すな わち、 「岬の風景」の冒頭近く、作品の主舞台に辿り着くまでは、作中の小都会が鮪であることを示 唆しているのである.言うまでもなく、師は広島県沼隈半島南東端に位置する、陸続きの港町である。- 3 -しかし、 「岬の風景」中には、こんな記述もあるO 其の夜、私は月の出るのを待った。 月は矢張り島の上にぬらぬらと浮びあがる-箇のただれた片目であった。 (7,5頁) 「私」の置かれている状況全体を肺臓できる場から説明したと読めば、ここの部分は「私」が暮らす 「島の上」に月が出たと解釈できなくもない。 (ここのところは「私は夜更けの窓を明けて海を見な がら、晴渡として且つ旧式な自分の生活を噸笑したことが屡であった。その時私は必ずうづくまる島 の上に、おそいぶざまな月を見たが、私にとっては月は-筒の赤くただれた片目であった」 (69頁) 及び「麦畑の丘」で月を目にする部分(72頁∼74頁)と対応している。引用中の「矢張り」は、その 対応関係を喚起する陳述の副詞であり、上記引用部分の「私」は窓外の(良)の上に出る月を待って いると解されるべきであろう。)井伏自身は、 「岬の風景」を収録した『オロシャ船』 (金星堂、昭和 14 〔1939〕年10月20日)の「後記」で、次のように執筆当時を回想しているQ 「岬の風景」は大正十二年ころ、長篇の序鴬を書くつもりで書いたものである。そのころ私は 早稲田の文科を休学して、瀬戸内海の困ノ島、三ノ庄町、土井医院の二階に止宿してゐたが、文 学的には殆んど精進する気持を失ってゐた。 (7巻621頁) 井伏はこの「後記」で作品を執筆した場所と時期とを記したに過ぎず、 「岬の風景」の舞台が因島で あると明言しているのではない。が、作中人物たちが歩む麦畑、 「よくない外泊」先で「私」が目に する百貫島の灯台の明滅、作品末尾の印象的な虹の風景は、井伏が因島について語る時にしばしば言 及するものであって、因島がモデルとなっているのは疑いない(注3)。冒頭では鉄道でこの土地にやっ て来たと解されるべき「停車場」の様子が描かれていた。しかし、岬における物語が始まると忽ち、 陸路への関心は消え失せて、海上に浮かぶ島や、行き交う船の姿が点綴され、あたかも一つの(島) に「私」が暮らしているかのように印象づけられる。しかも、井伏自身が直接間接に因島との関係を 語っている。井伏作品に親しんできた読者がそれを念頭に置いて読めば、因島だと断定はしないにし ても、 (島)を舞台にした小説だと読んでしまう誘因が確かに存在する。 作中に「百貫島」や「対山館」は出てきても、物語の主舞台については「因島」あるいは「鞘」と いった具体的な地名は一切登場しない。しかし、作中の叙述には、 「因島」を思わせる要素と、 「鞘」 を背景とした要素とが混在している。 『公認汽車汽船旅行案内』の「口絵の縮尺三十万分の-の地 図」 (注4)で「ごまかして描いてある豆つぶ大の岬の南端に位ゐする小都会」と記すがごとく、地図上 に「岬の風景」の舞台を撫しても見あたらない、非在の地とでも言うべき舞台設定である。 ところが、 「岬の風景」という作品には、先に触れたように、実在の鞘あるいは鞘津を示唆する 「対山館」や、鞘軽便鉄道柄駅を思わせる「停車場」が出現する.船が廻る岬や「百黄島」の灯台の 明滅は因島を思わせる。そればかりではなく、 「木津川丸」 「大阪商船」といった実在する船名や船会 社が登場する。すなわち、舞台の背景には現実性界と連続する要素が仕込まれていて、その舞台を特 定し得るかのように見えるのだ。だが、それらを重ねて「因島」だとか「斯」だとか、実在の土地に 特定しようとするとうまく当てはまらない仕掛になっているらしい。結論めいたことを先取りして言 えば、 「因島」あるいは「輔」とかいった現実世界におけるモデルを揺曳しつつ、 「ある小都会に近い 岬」という架空の領域に「岬の風景」という作品は成立しているようなのである。
- 4 -旅先などにおける体験談を素材にするという体裁を採り、その体験談が虚構性を強めて他界・異界 の領域に入り込む物語においては、主舞台に近づくに連れてその場所が暖昧化・鷹化されるのは、泉 鏡花「高野聖」また井伏自身の「へんろう宿」を例示するまでもなく、一つの定型だといってもよい。 しかし、 「岬の風景」においては、その主舞台- (虚構の領域)として設定されたはずの(岬)近く を、(現実の領域)にあって固有名を持たされた木津川丸が通り、港には大阪商船が入ると言う。 なぜ、作品の舞台が因島や鮪と特定されずに、暖味化・腐化されなければならなかったのだろうか。 また、唆昧化・鹿化への力が働いているにもかかわらず、それと矛盾するかのごとき、実在の地名や 固有名が登場するのだろうか。あるいは、陸続きの岬のようでありながら、なぜ島を思わせる記述が 作中に出現するのであろうか。こういう素朴な疑問を抱かざるを得ない。別言すれば、 「岬の風景」 という(虚構の領域)に、なぜ強い事実性を示唆する固有名を引用するのだろうか。 その一方で、それらの固有名が 〈事実の領域>においてどのような内実を持っていたのか、という 疑問も浮かんでくる。それを明らかにすることが、おそらく、この作品における虚構の特質を解き明 かすことに繋がると思う。 そして、それは、ある種の事実を取り込んだ文学作品が、必然的に(事実 の領域)における歴史と関係してしまうことを証明することになるだろう。 そうした課題を念頭に置きつつ、本稿では一種の注釈作業を試みたい。注釈作業と称しても、資料 の軽重も十分に把握していない、一斑を垣間見た報告に過ぎないだろう。本稿の標題に私注稿と附し た所以である。是非、御批正を仰ぎたい。 書き後れたが「岬の風景」の執筆・発表時期は必ずしも明確ではない。 「岬の風景(長編のプロッ ト)」の標題で『鷲の巣』第2巻第5号(大正15 〔1926〕年8月号)に掲載された本文は再掲と考えられ、 初出誌と目される『陣痛時代』第2号(大正15 〔1926〕年2月)の所在も不明である。 また、作中の時期設定も明瞭ではない。取り敢えず、作品発表に近接した時期が下限となろう。 「岬の風景」に即して判断すれば、再掲時の改稿の可能性を含めて、 『鷲の巣』第2巻第5号(大正15 〔1926〕年8月号)発行の少し前(同号奥付には大正15年8月1日発行、大正15年7月20日印刷納本とあ る)辺りになろうか。 差し当たって大正15 (1926)年7月頃を下限としておこう。一方、早稲田大学 を休学した井伏が因島三庄に滞在した時期は、大正10 (1921)年9月あるいは10月頃から翌大正11 (1922)年3月あるいは4月頃と回顧されている。これを上限とすると、大正10年9月辺りである。 「岬の風景」作中で、賄いの娘・安藤さよ子が渡す領収書には「五月吉日」とあり、 「私」は彼女 に「夏の帯」を買う約束をする。作中に「初夏の風景」 (70頁)という言葉もある。ただし「五月吉 日」や初夏という時季と、秋から春という井伏の因島滞在期間とは重なりにくい。 その舞台を(事実 の領域)で特定し難いのと同じく、 「岬の風景」の作中事実と井伏の生活的事実をそのまま重ねるこ とも難しいのだが、作中現在は、大雑把に大正十年代の某年、初夏の頃としておこう(注5) 2 、尾道-新居浜航躍(線)における木津川丸 「岬の風景」において木津川丸は、次のように、大阪商船の大型汽船と対比して描かれる。 毎日午後二時になると、木津川丸が岬のはなで汽笛を鳴らして港に入って来る。人々はこの汽 笛によって午後二時であることを知る。賄の娘の言ふところによると、木津川丸の煙の真黒いの は石炭の悪い故ださうだが、この裏異な煙のため、この汽船は他の何れの船よりも最も派手な航
- 5 -海ぶりである。 私は浜で遊んでゐる児童達の俗謡に刺戟されて以来、木津川丸以外の他の大きな汽船には好意 を持たなくなった。 児童達は大きな汽船に向って罵署をあびせかけるのだ。はるか沖まではとど く筈もないのに小石を投げたり、各自の尻をたたいたりして、声をそろへて歌ふのだ。その俗謡 の大体の意味は-大阪商船のよくない性質の船は、大きな躯をしてゐるばかりで大莫迦者だ。 港に入って来るのもよいが、船の横腹で波ばかりたてて、実に悪い厭な奴だ。その俗謡を、児童 達は目の暮れるまでくり返すことがある (65頁) 井伏文業中「木津川丸」という名称は、 「岬の風景」のほか二つの随筆作品に出て来る。その一つ が「初夏巡遊案内」 (『新文学準備倶楽部』第1号、昭和4 〔1929〕年6月1日)で、その中の「因島」と 題された一節の中に次のようにあるO 和冠の砦、今は存せず。本城の姓は柑橘の花咲きにはふ丘となりて、つはものどもを想ひ耽る の情懐をそそらず。 徒らにわれらが旅愁を雛酷せしむるのみ。出城の地は細長き岬の突端にあり て、 -ふでの麦畑となりて存す。 黄色に熟したる麦の色と紺碧の潮の色との調合また絶可にして、 産後の雲雀は岬の突端にあたりて上空高く舞ひあがり、鳴ることしきりなり。木津川丸この岬を めぐりて汽笛をならせば、午後三時と知れよかし。 (1巻395頁) もう一つの随筆「私の愛好する島や港」 (『セルパン』第5号、昭和6 〔1931〕年8月1日)でも、 かつて私は因の島に一週間ほど行ってみるつもりで出かけたが、たうとう七箇月間もそこに滞 在した。その結果、私は学校を二学期間も欠席して、大失敗を演じたのである。私はこの島のこ とは何でも知ってゐる。 木津川丸-汽船-が岬の突端をまはるとき汽笛を鳴らせば、午後三 時である。満潮のときには、島の南端の石垣から沖の百貫島の渚まで、その距離が三里三丁三間 である。 (3巻192頁) と、木津川丸は、因島の岬を廻る定期船として登場する。ここに言う木津川丸が廻ってくる岬とは、 井伏が滞在した因島三庄町千守の東南東の方角に見える三ヶ崎の岬のことで、因島村上氏支配下の 「見張りの城」跡と見倣されている美可崎(美ヶ崎)城鉦がある(注6)。 因島三庄町(大正10年以降御調郡三庄町、現、因島市三庄町)三ヶ崎の岬を廻る定期船「木津川 丸」は、随筆というジャンルで言及されていることから推測できるように実在する。当時、住友汽船 新居浜一尾道航路(線)に就航していた鉄製貨客船・木津川丸である。明治21 (1888)年12月31日現 在の、日本に船籍を置く船舶の登録原簿に基づいて作成された『日本船名録』 (明治23年3月塀) (逓 信省、明治23 〔1890〕年4月15日)には「キの部」 (汽船の項)に船舶番号1080番として登載され(63 頁)、明治21 (1888)年3月に川崎造船所で製造、 132総噸Gross Tonnage、 82登簿噸Nett Tonnage、 20 公称馬力 Nomal Horse Power、定繋場・大坂、船主・大坂商船会社といった記録が残されている(注7) 製造者の社史『川崎重工業株式会社社史』別冊(年表・諸表) (川崎重工業株式会社、 1959年10月15
日)掲載「艦船建造実績」には、
製修番号:3、艦船名:木津川丸、艦船種:貨客船(秩)、注文主:大阪商船、総トン数:138、
- 6 -積貨重量:55、速力:9.00、馬力:IHP88 、起工年月日:明治20年6月12日、進水年月日:明治 21年2月23日、引渡年月日:明治21年3月26日 (160頁) と、 『日本船名録』とは多少違うところもあるが、その諸元が記録されている。 この木津川丸が就航していた住友汽船新居浜一尾道線は、住友家が所有・経営する住友別子鉱業所 の手によって、同鉱業所のある新居浜と、山陽鉄道が開通した尾道とを結ぶために明治25 (1892)午 2月27日に開設された航路である。 『愛媛県史』は、 「住友汽船」という「名称の企業が存在したこと はなく、あくまでも住友家の汽船事業であり、住友鉱山の海運部門」と述べている(注8)。とはいえ、 当時の時刻表には「住友汽船木津川丸発着時間表」 「住友汽船航海及賃金表」等の名称で記載されて いて一般客も利用できた。 この航路開設は、瀬戸内海沿岸部の交通機関の近代化と大きく関わる。明治24 (1891)年11月3日 に山陽鉄道尾道駅が開業し(注9)、尾道が陸上・海上交通の結節点となったのを受けて、住友総本店が 明治25 (1892)年1月22日に住友尾道支店を設置、新居浜の別子鉱山との連絡・運搬用に翌月の2月27 日から同航路の運行を始めたのであった(注10)。 鉄道敷設という陸上交通の近代化が新たな海上交通路 の開設(航路開設)を呼び込んだのであって、必ずしも海上交通の地位が向上したわけではない。新 居浜-尾道航路に即して言えば、四国における鉄道建設の後れが、本州側で早く発達した近代的輸送 手段である鉄道と結ぶ必要を生じさせ、このような本四連絡航路が開設されたのであった(注11)その 時刻表・寄港地を末尾の「別表1住友汽船新居浜-尾道腺時刻表」に掲げた。開設時には御代鳥丸一 隻体制で運行されていたが、一年余を経た明治26 (1893)年3月4日から御代鳥丸に替わって木津川丸 が就航する(注12)同じレシプロ蒸気船だが、木船で登簿噸数も32噸程度と限界のある御代島丸を、鉄 船で積載量が三倍近くある82登簿頓の木津川丸に替えたわけである。航路開設当初の寄港地は西条・ 今治の二港のみだった模様だが(注13)、明治29 (1896)年12月以降、四阪島精錬所の起工に伴って四阪 島も寄港地に加えられる(注14) 住友家の事業案内書である『住友事業案内』を、国立国会図書館近代デジタルライブラリーによっ て見ると、 「明治三十一年末調」とある(明治32 (1899)牛版)の28頁と、 「明治三十三年十一月末 調」とある(明治34 (1901)年版)の9頁∼10頁に、使用船として木津川丸一隻を挙げ、同線の寄港 地として西条・今治・四阪島を記している。 そして、同案内 く明治36 (1903)年版) (住友本店、明治36 〔1903〕年4月7日)には、御代鳥丸の 写真が「住友汽船御代鳥丸 明治三十五年八月より航海開始」とのキャプションを附けて掲載され (同ライブラリーでは『住友事業案内』第3冊21コマ)、その写真と対応するように、本文では、 鉱山の需用貨物及一般旅客を運送する為め二膿の汽船を備へ- (御代鳥丸)は新居浜に- (木津 川丸)は尾道に碇繋し双方より毎日一回宛新居浜尾道間を往復し且何れも西条、今治、四阪島、 三庄等に寄港す (20頁) と、御代島丸・木津川丸の二隻体制で運航していることに言及している。 「明治三十五年十一月改 正」分の時刻表を掲げる『汽車汽船旅行案内』明治36 (1903)年1月号(第100号、庚寅新誌社)も 「御代鳥丸ハ三十五年六月新造ノ鋼鉄船ニシテ新居浜ヲ起点トシ従来ノ汽船木津川丸ハ尾之道ヲ起点 トシ毎日一回相互地発船往復ス」 (圏点、前田)との「注意」を掲載し、新造鋼船・御代島丸の使用 を強調している。そのことから分かるように、同じ「御代鳥丸」という船名ではあるが、航路開設時
- 7 -の木船・御代鳥丸が同航路に復帰したものではない。これは二代目で、就航の明治35 (1902)年に大 阪鉄工所で新造された鋼製の貨客船である。明治35 (1902)年12月31日現在の記録である『日本船名 録』〈明治36年版〉 (注15)には、初代の御代島丸(22頁、船舶番号1272)と二代目の御代鳥丸(85頁、 船舶番号7435)との、二隻の「御代鳥丸」が見える。御代島丸(二代目)の項には、範多龍太郎(大 表1 住友汽船新居浜-尾道線略年表 年 月 日 新 居 浜 - 尾 道 航 路 関係 事 項 使 召船 明治 2 1( 18 8 8) 年 3 月 木 津 川 丸 竣 工 (大 阪 商 船 ) 明治 2 4 ( 18 9 1) 年 12 月 御 代 鳥丸 製 造 (住 友 ) 明治 2 5( 1 8 9 2 ) 年 2 月 2 7 日 新 居 浜- 尾 道 鉄 路 開 設 御 代 鳥 丸 明治2 6 (1 8 9 3 ) 年 3 月 4 日 御 代 鳥 丸 に 替 わ って 木 津 川 丸 が 就 航 木 津 川 丸 明治 2 8( 1 8 9 5 ) 午 3月 3 1 日 西 条 . 今 治寄 港 が 確 認 明 治2 9( 1 8 9 6) 年 1 2 月 四 阪 寄 港 開 始 木 津 川 丸 明 治 3 5( 1 9 0 2) 年 6 月 御 代 烏 丸 (2 代 目) 竣 工 (住 友 ) 8 月 御 代 鳥 丸 就 航 。 木 津 川 丸 と の 2 隻 体 制 で 運 行 開 始 。 三 庄 木 津 川 丸 . 御 代 鳥 丸 寄 港 開 始 か ? 1 1 月 御 代 鳥 丸 の三 庄 寄 港 が 確 認 木 津 川 丸 . 御 代 鳥 丸 明 治 3 7( 1 9 04) 年 4月 第 一 四 阪 丸 製 造 (住 友 ) 明 治 38 (1 9 0 5 ) 午 1 2 月 御 代 鳥 丸 に替 わ る 第 一 四 阪 丸 の 就 航 が 確 認 木 津 川 丸 . 第 一 四 阪 丸 阪鉄工所の創 設・経営者) によって、明 治35年3月に 製造された、 274総噸、 147登簿噸、 48公称馬力の 鋼船で、所有 者・住友吉左 衛門、船籍港 ・伊予国新居 浜といったことが読まれる(注16)なお、もう一隻の御代鳥丸(初代)の所有者は阿部伝次、船籍港は 越後国尼瀬となっている。 前引の『住友事業案内』 (明治36 (1903)年版)の記事は明治35 (1902)年8月以降、同航路が木津 川丸と御代島丸との二隻体制で運行されたことを記録しているが、それと同時に、新たに三庄を寄港 地に加えたと推定される。この三庄寄港のことは、新造鋼船・御代鳥丸就航を特記することで先に触 れた『汽車汽船旅行案内』明治36 (1903)年l月号185頁掲載「住友汽船髭慧間発着時刻表明治訂五年i一月」 に拠って確認できる。 しかし、二代目御代島丸の新居浜一尾道線就航期間は僅か三年程で終わり、明治38 (1905)年12月 改正の時刻表(『汽車汽船旅行案内』明治39 〔1905〕年4月号/第139号、庚寅新誌社、 161頁掲載「住 友汽船票孟雲間発着時刻表 明治三十八年十二月改正」)では、御代島丸に替わって第-四阪丸が登場し ている。 『愛媛県史』は「明治39年6月17日 新居浜∼阪神航路を再開」と記し、その収載資料には、大正5 (1916)年・同6 (1917)年・同(1919)年の新居浜一尾道線の使用船に木津川丸・第一四阪丸、新 居浜一大阪航路の使用船に御代島丸、新居浜一四阪線の使用船に第二四阪丸を掲げている(注17) 調査し得た当時の時刻表の内、 『愛媛県史』が新居浜-阪神航路開設とする明治39年6月17日に最も 近いのは『汽車汽船旅行案内』明治40 (1907)年3月号(第150号、庚寅新誌社)で、その169寅掲載 「住友汽船航海表」の内に「白岩砦票至大阪間」として御代鳥丸の時刻表が掲げられている.時系列で 言えば、新居浜-尾道航路に御代島丸に替わって第-四阪丸が就航、その後、再開された新居浜一阪 神航路に御代鳥丸が就航するという順である。 二代目御代鳥丸に替わって登場した第一四阪丸は、 『日本船名録』 (明治38年版)に拠れば、明治37 (1904)年4月範多龍太郎製造の121総噸、 65登簿噸、 40公称馬力の鋼船である(凱8)o木津川丸(82登 簿噸)に近い規模の第-四阪丸(65登簿噸)を新居浜一尾道航路に投入し、その後、石炭庫・水槍の 容量が長距離の使用に耐え、また、積載量も大きい御代島丸(148登簿噸)を新居浜(四阪島)-阪 神航路に移したと推測される。
- 8 -この経緯を簡略にまとめたのが、 「表1住友汽船新居浜一尾道線略年表」である。この表に見られ るように、住友汽船新居浜-尾道線には、初代御代鳥丸・二代目御代島丸・第-四阪丸・木津川丸の 計四隻が就航していたのであるが、その中で木津川丸が最も長い期間に亘ってこの航路で見られた船 であり航路沿岸で親しまれていたと考えられる。 就航当初は木造の初代御代鳥丸に替わった鉄船であ ったとはいえ、間もなく鋼船の時代を迎えて、鉄船は旧式のものになってしまう(因みに、二代目御 代島丸・第一四阪丸も鋼船である)。 大正十年代に至れば木津川丸の船齢は優に三十年を超えるo 新 居浜-尾道線で長く親しまれたということは、すなわち、船質も,一時代前の鉄船であり、老齢 船(注19)と称されるべき船齢に至っていたのである。 ところで、 「別表1住友汽船新居浜一尾道線時刻表」に示したように、木津川丸が鞠港に入港した 形跡は-切ない。調査の届かない可能性も否定しきれないが、先に述べたように鉄道の未発達な四国 北部瀬戸内海沿岸から山陽鉄道(国有化後は山陽線)への連絡を目的として尾道港への航路が開設さ れたのであって、柄港∼鞘軽便鉄道∼福山駅という迂遠な経路を取らざるを得ない鞘港への寄港その ものが想定しがたい。 この点からも、岬の突端で汽笛を鳴らして入港する木津川丸のイメージは、井伏の因島三庄塾居時 代に形作られたものであると言ってよいだろうし(注20)、また、 「岬の風景」の木津川丸もこの住友汽 船・木津川丸を指していると見てよいだろう。しかし、 「岬の風景」の午後二時であろうと、 「初夏巡 遊案内」 「私の愛好する島や港」の午後三時であろうと構わないが、 「別表1住友汽船新居顔一尾道 線時刻表」に見られるように、井伏が因島三庄に滞在していた大正10 (1921)年10月頃から翌大正11 (1922)年3月頃までの期間、牛後二時あるいは午後三時頃に木津川丸が三庄港に入ることも、その 附近を航行することもない。井伏因島滞在期間中の午後二時とか三時に、美可崎城祉のある岬を廻っ て三庄へ寄港する可能性があるのは、尾道を繋留港としていた第一四阪丸である.午後一時もしくは 二時頃に尾道を出港する第-四阪丸であれば、その頃に附近を航行するo 3、老齢船・木津川丸 初代や二代目の御代島丸と違って(「御代島」は新居浜沖に見える島で、その後も別子鉱業所では 新居浜発着船の船名に採用している)、木津川丸は、その船名から想像されるように住友家(別子鉱 業所)が新居浜-尾道航路に使用する目的で新造した船ではない。 木津川丸の最初の所有者は、 「岬 の風景」において木津川丸と対比される大型船の所有・運航者である大阪商船株式会社であった。 明治17 (1884)午5月の開業以前から、大阪商船では政府補助金を得て優秀船を麺造することを計 画し、いずれも関西瀞の河川名に由来する船名を持った安治川丸・湊川丸・吉野川丸・木津川丸・加 茂川丸、以上五隻の鉄船を建造する(注21) 木津川丸が大阪商船において就航した航路の全ては分からないが、 「なっかしい日本の汽船」の 「国内航路 大阪商船・本州方面一明治前期」 http://homepage3. nifty, com/jpships/の「大阪福山線 (明18 (1885)下半期開設∼明19 (1886)下半期大阪岡山線∼明治22年(1889) 7月廃航)」に、その 名前が以下のように記されている。
明治18年(1885)下半期に汽船1隻月5航海として開設。神戸/高松/丸亀/多度津/玉島に寄港。 明治19年(1886)下半期以降、大阪磨島線を福山に寄港させ同時に本線を大阪から岡山直航に改
- 9 -め大阪福山線と改称した。 一時休止後、明治21年(1888) 5月1日には太陽丸、中津川丸、木津川 丸、興讃丸、新和歌浦丸、亀鶴丸、第二鷹島丸の7隻により26航海として再開。大阪鷹島線が短 縮され大阪岡山線と改称されたため翌明治22年(1889) 7月に廃航となった。 大阪-福山線の使用船として挙げられている各船と、その後の状況を 「表2 大阪-福山線使用船と その後」に示した。表2に掲げた船のほとんどが大阪商船発足時に中小船主たちから現物出資された 百四十総噸から百五十総噸程度の木船で、遭難した中津川丸以外は、明治24 (1891)年から明治33 (1900)年までの十年間に全隻が売却されている。大阪商船発足時に中小船主から引き継いだ不採算 路線の整理・統合や、船質の劣る船舶の整理が大阪商船初期の課題であって、 「なっかしい日本の汽 船」が記した航路の整理や表2に見える所有船舶の売却は、その課題を実行に移したものだと言えよ う。大阪一福山線再開の明治21 (1888)年5月1日当時は、明治17 (1884)年5月の創立からまだ四年 しか経っていず、この航路の使用船では鉄船は僅かに木津川丸と興讃丸の二隻だけである。二隻の鉄 船の内、興讃丸が明治5 (1872)年製造であり、それと比べても、明治21 (1888)年3月製造早々の木 津川丸の船質の優越性と船齢の新しさが目につくD 表2 大阪-福山線使用船とその後 船 名 製 造年 船 質 総 噸 数 売 却等 太 陽丸 † 明 治 14( 1881) 仁 144 明 治 33 (1900) 年 2月28 日売 却 中津川 丸 明 治 19( 1886) 木 148 明 治32 (1899 ) 年 12月 8 日遭難 木 津川 丸 明 治21( 1888) 鉄 132 明 治26 (1893) 年 3旦8日 牽塑 興讃 丸 † 明 治 5( 1872) 鉄 131 明 治27 (1894) 年 1月 17 日売 却 新和 歌 浦 丸 † 明 治 14( 1881) 木 153 明 治30 (1897) 年 4 月28 日売却 亀鶴 丸 † 明 治 14 (1881) 木 226 明 治30 (189 7) 年 3 月 9 日売却 第 二広 島 丸 † 明 治13 (1880) 束 143 明 治 24 (1891) 年 9月22 日売 却 *『大阪商船株式会社80年史』 718貢-743貫掲載「新造船累年表」 「購入船累年表」 「売却船累年表」 「売却船累年衷」に拠って作成。 *明治17 (1884)年5月1日大阪商船設立時に各船主が現物出資した船舶には、船名の 右脇に†を附して示した。 しかし、木津川丸製造 後十年と経たないうちに、 鉄船から鋼船の時代へと 切り替わり(日本最初の 鋼製汽船・球磨川丸の竣 工は明治23 〔1890〕年)、 鉄船・木津川丸の優越性 も短期間で終わってしま う。吉田文二は「当時の 日本造船業は十年ピッチ で木から鉄(銑鉄)、鉄から鋼-と材質の急激な変化が進められていたことになる」としている(注22) 加えて、木津川丸の百総噸余という大きさも、大阪商船では必要性の低いものとなっていたようで ある。大阪商船の社史『創業百年史』は、 「優秀船建造は」 「100総トン内外の小型木造船.が多い同社 としては、その基礎を確立するための最重要課題であった」としている(注23)会社設立前から政府補 助金を得ていた優秀船建造計画で明治18 (1885)年12月から明治22 (1889)年9月の間に竣工した五 隻の内、建造後十年も経たない明治28 (1895)年4月10日に遭難した安治川丸(525総噸)を除くと、 吉野川丸(380総噸、大正11 〔1922〕年11月12日遭難) ・湊川丸(355総頓、昭和4 〔1929〕年3月2日摂 陽商船会社に譲渡) ・加茂川丸(351総噸、昭和元〔1926〕年12月31日土佐沿岸汽船会社に譲渡)の三 隻の鉄船を三十年以上に亘やて保有し続けていたのだが(注24)、船齢五年ほどであったにもかかわらず 木津川丸だけは早々に売却してしまうのである。売却先は、別子銅山を所有・経営していた住友家で あるO住友家総理人・広瀬宰平が単なる出資者という程度に留まらないほど大阪商船株式会社設立に 深く関わっていたことが背景にあったと思われるが、明治26 (1893)年3月8日、大阪商船から住友登 久(12代目吾左衛門の妻で、 14代目吉左衛門を襲名)に売却された記録が見える(注25)木津川丸以外 は三百総噸を超える鉄船であったのに対して、木津川丸が132総噸という点で他の四隻とは異なり、 『創業百年史』に言う小型船に当たるので、その点が考慮されたかと思われる。 所有船の鋼船化・大型化を図る大阪商船の大きな流れに取り残された木津川丸は、大阪商船株式会 -
10-社において は早々と処 分される運 命にあった が、住友汽 船では三十 年以上に亘 って同一航 路で使用さ れ続けてき た。仮に大 表3 住友汽船新居浜-尾道線使用船 船名 船 質 船 体 製 造 年 船 齢 噸数 汽織 製 造 年 馬 力 速 力 (浬 ) 定 員 和 暦 登 簿 噸 軸 暦 公 称 馬 力 NH P 最 強 1等 2 等 3 奮 l 西暦 総噸 西 暦 図 示 馬 力 IHP 普 通 合 計 御代 鳥丸 木 明 治2 4年 3 2年 32 .4 8噸 - 16 - - - -(18 9 1年 ) 60 . 15噸 - - - -木津 川 丸 秩 明 治2 1 年 3 5年 8 7.4 7噸 明 治 39 年 2 4 10 19 人 4 1 人 6 0 人 (18 88 年 ) 142 .4 8噸 (19 06 年 ) 18 5 9 120 人 御 代 鳥 丸 鋼 明治 3 5年 2 1年 142 .94 噸 明 治 35年 4 8 11 16 人 18 人 7 3人 (19 02 年 ) 28 4 .60 噸 ( 19 02年 ) 4 5 0 10 10 7人 第 一 四 阪 丸 鋼 明治 3 7 年 19 年 44 .3 2噸 明 治 37 年 4 0. 33 10 8 人3 1人 4 1人 ( 19 04 年 ) 112 .1 1噸 (19 04年 ) 23 0 9 80 人 *初代御代鳥丸は建造当時の『日本船名録』に拠り,それ以外は日本汽船件名録弊行所『日本汽船件名錬』第9版 (1923年4月25日)に拠って作成。 船齢は大正12 (1923)年を基準とした。 *大正12 (1923)年に,同線で使用されていた船名は太字で示した。 *表中の-は資料がなく、不明。 正12 (1923)年の時点での船齢を含めて、住友汽船新居浜-尾道線の使用船を一覧したのが「表3 住友汽船新居浜-尾道線使用船」である。 表3に示したように、早くからこの航路を外れていた初代御代島丸を除けば、船質・船齢・馬力に おいて、木津川丸が見劣りする老齢船であったことは明瞭ではある。しかし、定期的な点検・保守・ 修繕がなされたればこそ、長年に亘って使用することが可能だったわけで、木津川丸の汽碓・汽機と もに明治39 (1906)年に交換され、木津川丸の図示馬力は88馬力から185馬力に向上している。この ように木津川丸は定期船としての使用に耐えるようにメインテナンスが続けられていたのであって、 表3に掲げた四隻はいずれも石炭炊きのレシプロ蒸気船(同じ石炭焚きでも蒸気タービン機関があ る)だが、例えば大正12 (1923)年の時点においては、これまで船名を挙げてきた住友汽船所属船の 中では木津川丸が最も新しい機関部を備えていたのである。 4、大阪商船と師 井伏が因島で過ごした大正10年(1921)前後から「岬の風景」発表の大正15 (1926)年までの間、 因島三庄に寄港する大阪商船株式会社の定期航路は存在しない。大阪商船の定期便が寄港していたの は因島三庄ではなく、 「岬の風景」のもう一つのモデルと思われる軒である。鞘港は、長い間、大阪 商船の内航分野の幹線の一つであった大阪山陽線(大正3 〔1914〕年以降の名称)の寄港地であった。 それでは、 「岬の風景」中では、 「大きな躯」をして「船の横腹で波ばかりたて」る「大阪商船のよ くない性質の船」と書かれているが、実在の大阪商船(定期航路)には、どのような船が使用されて いたのであろうか。 『備南之名勝』 (先憂会、大正5 〔1916〕年7月1日再版〔大正5年5月1日初版〕)には、 「措雪空斯津荷 客扱店/加藤商会」 「尼崎汽船部鞘荷客元扱所/三好回漕店」 「讃備聯絡汽船/東予丸/栴港/莞予師元 扱店」といった広告が掲載されている。それに拠れば新港に以下のような定期便が寄港していた。 午前6時00分〔尼崎汽船下リ〕、午前6時40分〔大阪商船関門方面〕、午前11時10分〔東予丸多度津 方面〕、午後3時00分〔大阪商船阪神方面〕、午後3時00分〔尼崎汽船上り〕、午後6時00分〔東予丸 尾道方面〕 -
11-これは『沼隈郡誌』 (先憂会、大正12 〔1923〕年12月17日)の第13章航路に、 一、汽船航路 大阪商船 大阪商船会社の大阪下関間を航路とせる汽船は鞘町へ寄港す。 尼崎汽船 尼ケ崎汽船会社の内海航路の汽船も師、数名-寄港す。 東予丸汽船 尾道港を基点とし香川県多度津間の航路を連絡せる連絡船東予丸は鞘及敷名へ寄港 す。 と紹介するところと重なる(外に発動汽船航路・渡海船・渡船を掲げる)。 この大阪山陽線を概観した『大阪商船株式会社80年史』 (大阪商船三井船舶株式会社、 1966年5月1 日、 259頁)は、 大阪山陽線 本航路は明治17年(1884年)5月当社創業とともに開始せられ昭和10年(1935年)3月摂 陽商船に譲渡されるまで50有余年間瀬戸内航路の幹線として荷客の輸送に多大の貢献があった。 本航路は当初第7本線大阪馬関線【明治17年5月∼明治22年4月】と称し、明治22年(1889年)大 阪赤間関線【明治22年4月∼明治35年6月】、明治35年(1902年)大阪下関線【明治35年6月∼大正3 年10月】、大正3年(1914年)大阪山陽線【大正3年10月∼昭和10年3月】と改称した。 当航路の競争船として活躍したのは尼崎汽船であったがその都度協定の上、共存の実を上げた。 特筆すべきはわが国最初のディーゼル貨客船音戸丸が大正13年(1924年)2月当航路に配船され、 引続き翌年4月姉妹船早鞠丸・三原丸が就航し面目を一新した事であるO と記している。なお、 【 】内は『創業百年史資料』 (大阪商船三井船舶株式会社、 1985年7月20日) 15 頁∼21頁掲載の「航路改廃の推移(戦前期)」に拠って補った。 大阪商船が観光案内目的で発行し.た『瀬戸内海航路案内』 (大阪商船株式会社内航営業課、大正2 〔1913〕年7月1日)には、本文中で下関線寄港地として鞘とその周辺名勝地を紹介し、巻末の「瀬戸 内海航路一覧」に大阪下関線の使用船も掲載している。 これら鞘寄港の大阪商船使用船を、当時の時刻表等を参照してまとめたのが「別表2 大阪商船大 阪山陽線使用船」である。この別表2のように、大正10 (1921)年頃までの大阪山陽線では、天龍川 丸・大井川丸・龍田川丸という六百総噸クラスの貨客船を主として使用し、それに四百総噸クラスの 船を附加するという運用である。 因みに、同線に使用されたことのある船名が、 『公認汽車汽船旅行 案内』大正10 〔1921〕年8月号では、大阪-細島腺に高坂丸、大阪一徳島線に愛媛丸、大阪-勝浦急 航線に龍田川丸などと見える。大正十年代には六百総噸クラスの船四隻を運用し、大正末年には六百 総噸クラスのディーゼル船を含む五隻体制で運行している。木津川丸の132総噸、全長32.92米と比較 すると、別表2に掲げたように大阪商船大阪山陽線使用船はその倍近く、全長は五十米を超える。 「岬の風景」で木津川丸と大阪商船を対比するところでは「木津川丸以外の他の大きな汽船には好 意を持たなくなった」 (65頁)とある。 「岬の風景」においては木津川丸・大阪商船の両者ともに「大 きな汽船」とされているようだ。 当時の辞書では、例えば前掲中形版『辞林』のように、 「汽船」の項で「蒸気船の略言」と記述し (261頁)、 「蒸気船」の項で「蒸気機械を装置し、其動力により推進螺旋回転して、水上を走る船。 汽船」 (568頁)等とするのが一般的である。しかし、 『日本国語大辞典』第2版第4巻(小学館、 2001 -
12-年4月20日)が、 「蒸気機関を動力とする船。 また、一般に推進機関を用いて運航する大型船舶。蒸気 船」 (135頁)とするのが当時の実状に叶っていたようで、後者の意に解しておいてよいだろう(注26) とすると、注目されるのは、 『大阪商船株式会社80年史』が特筆しているように、大正13 (1924) 年2月以降、音戸丸(688総噸)、早鞘丸(697総噸)、三原丸(697総噸)という新鋭ディーゼル船が使 用されていた事実である。 ディーゼル船は「石炭焚きの船にくらべて煙の量はかなり少なくなり、実 際には細長い管のような煙突だけで十分」 (注27)で、音戸丸についても「煙突不要論もあったが、社標 取付けの関係上排気管の周囲にやぐらを設けた。しかしその後、外観上から細長い普通の煙突に変更 された」 (注28)という。ファンネルマークを附けるた糾こ、化粧煙突が設けられたという事情である. 大阪商船の煙については「岬の風景」作中に言及がなく、木津川丸の吐く黒い煙が強調されているの は、こののような事情を背景にしているのではないだろうか。残された写真では、船体中央にあって 細長く高い木津川丸の煙突に対して、音戸丸型のディーゼル船ではやや低く太い煙突になっている。 また、航走中の写真を比べても、石炭炊きの蒸気船は盛んに煙を出しているが、ディーゼル船では殆 ど煙は見えない。 (このディーゼル船のことをいつどのように井伏が知ったのかという問題が残るが、 大阪山陽線の寄港地に柳井津が含まれており、大正13 (1924)年4月頃から7月頃まで井伏は柳井に滞 在していた。また、尾道港も大阪山陽線の寄港地であった。) しかし、この大阪商船が因島三庄に寄港することはなく、また、木津川丸が斯港に寄ることもない。 すなわち、木津川丸という船名を手掛かりにして作品の舞台を探れば一応因島三庄をモデルとできる が、他方、木津川丸の代わりに大阪商船(「対山館」 「停車場」も加えられる)を手掛かりにすると、 柄がそのモデルとして浮かび上がってくるのである。 どうも、井伏は、因島(三庄)での体験と、輔での体験とを重ねて、 「岬の風景」という(虚構の 領域)を作り上げているようなのである。 作品の設定から言えば、この作品世界が現実的要件を排除して、 「私」の「安逸」を許すユートピ アのごとき環境を作り上げるために、 (事実の領域)にある因島三庄でもなく、鞘でもない(虚構の 領域)に「岬の風景」の舞台は設えられている、と一応言っておこう(注29) そもそも「岬の風景」には「私」にとって都合のよい く女)たちしか登場しない。 雇い主という立 場で「私」を支配し、あるいは、脅かす可能性のある村上家の当主(みち子の父)は直接姿を現わさ ず、月給が届けられるだけである。 「私」が約束された「月給二百円」というのも破格である。週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗 史』上(朝日文庫) (朝日新聞社、 1987年3月20日)から、大正十年前後の各種職業の初任給を摘録す ると以下のようになる。 大正9年の巡査45円〔昭和10年も同額〕 (571頁) 大正9年の小学校教員40円∼55円〔昭和6年は45円∼50円〕 (577頁) 大正12年の大卒銀行員50円∼70円〔大正15年も同額〕 (601頁) 大正15年の高等官〔高等文官試験合格者〕 75円(583頁) 編纂人に選ばれた「私」は、これら大正十年前後の初任給水準の数倍の収入を約束されたのであって、 厚遇の程が理解されよう(因みに衆芳関から大正13 〔1924〕年9月10日に刊行された『父の罪』の翻 訳原稿料は、井伏「牛込鶴巻町」に拠れば1枚50銭で300枚近い原稿だったと言う)。 そのような 「私」の生活が保障された(逆に言えば、 「私」の生活を脅かす条件を排除した)領域に「岬の風 -
13-景」の世界は成立している。 しかし、そこから 〈事実の領域>にあるものを完壁に排除しているのでもない。 「岬の風景」とい う(虚構の領域)に、 (事実の領域)における木津川丸と大阪商船とを導入してみれば、この両者は 新旧の対比を導く要素として取り込まれているようなのだ。実際の時刻表に従えば木津川丸ではなく 鋼船の第-四阪丸の方が相応しいし、斯港に定期便が寄港していたのは本節に引いた資料にあるよう に大阪商船だけではなかった。 そうであるにもかかわらず、木津川丸と大阪商船が登場させられたこ とで、鉄船と鋼船という船質の対比、そして、注5に引いた東郷克美の大正14年か大正15年初頭の成 立という推測が誤っていなければ、レシプロ蒸気船とディーゼル船という新旧推進機関の対比も読ま れる。ライバル関係にあった尼崎汽船ではなく、大阪商船が登場するのも、大阪商船がいち早くディ ーゼル船を使用したところに理由があったとも思われる。 木津川丸の来歴、特に大阪商船との因縁を当時の人々がどこまで知り、また、井伏の知識となって いたのかは、不明である。偶々見聞した木津川丸や大阪商船であったかも知れない。しかし、〈虚構 の領域〉では明らかに現実的要件を排除したかに見える「岬の風景」なのだが、木津川丸・大阪商船 という固有名を探ると、住友家の事業や、曲折を経て近代化してゆく海陸の交通体系、また、そこで 使用されていた船舶の変遷といった、日本の近代史と交叉してくる。 それは、意識するにせよ、意識しないにせよ、井伏を含めて、私たちが所与としての歴史の中にあ るということを意味する。現実的要件を排除する方向で作られた文学作品においても、産業の近代化 に深く関わる交通という要素を取り込んだ途端に、そういう歴史と交点が生じるようだ。 結論を急ぐのはやめよう。 まだ、なぜ、因島・鞘という固有名が出されなかったのかという問題に も、鮪軽便鉄道についても触れてはいない。これらについては、次の機会に報告したいと思う。 〔附記〕 本稿作成に当たっては、兵庫教育大学大学附属図書館、兵庫県立図書館、社町立中央図書館、神戸 市立中央図書館、大阪府立中央図書館、福山市民図書館、交通博物館図書室、財団法人日本海運振興 会海事情報センター、別子銅山記念館、国立国会図書館の資料を利用したo 利用に際して直接応接し て頂いた方を始めとして、様々な形で御教示・御援助を賜った。不慣れな領域の調査において、これ ほど心強いことはない.記して厚く感謝申し上げる。 なお、本稿に掲げた船舶の登簿噸数(純噸数と同じ) ・総噸数、製造年月日(進水とも竣工とも解 される)の数字は資料によって相違があり、また、航路名も「航路」と「線」の両様の記載がなされ る等の不統一があるが、特に断わらず統一もしなかった。 注1、例えば、 「瀬戸内海の島の富家村上氏に招かれ、小説風系図編纂の担当者として、月給二百円で、島 の岬での生活が始まる」 (紅野敏郎「「岬の風景」をめぐって-井伏鱒二と富沢有為男-」 『群像』 第35巻第10号、 1980年10月、 267頁)とか「ある小島の岬の町に寓居する」 (楠田佑『井伏鱒二文学事 典』明治書院、 2000年12月8日、 336頁掲載「岬の風景」の項)とかいった、この作品が(島)を舞台 にしているといった理解が示されている。作中の(岬)という表現を正確に受けて、 「岬の-医者の家 系作りにやとわれ」 (槙林溌二「初期の井伏鱒二- 「岬の風景」を中心にして-」 『近代文学試 論』第10号、 1972年9月30日、 17頁)、あるいは、 「「岬の南端に位ゐする小都会」にやって来る」 (東郷 克美「「くったく」した「夜更け」の物語-初期井伏鱒二について-」 『成城国文学論集』第13韓、 -
14-1981年3月20日、 28頁)とする理解があるのは言うまでもない。 なお、 『福山市史』下巻(福山市史編纂会、 1978年7月1日)は、鞘町の「人口は明治39年に1万人を こえ、昭和4-5年を除きその水準を維持している」とする(473頁)0 注2、三宅俊彦『時刻表百年のあゆみ』 (交通研究協会、 1997年10月8日3訂初版〔1996年4月18日初版〕) 36 見。 注3、例えば、 「鞘ノ津付近」 (『世界の旅・日本の旅』第10号、昭和35 〔1960〕年5月1日)で「私のゐた土 井医院の二階は兄はらしがよかった。 西側の窓は城山と向かひあってゐたが、東側の窓は爆灘に直面 し、広々とした海のなかに小さな百貫島がぽつりと在った。 その右手に和冠の出城のあった岬が見え た。出城の虹は平らで麦畑に耕されてゐたo」 (21巻265頁)と因島の麦畑を描いている。 因島を舞台と したと思われる「実写の小型フィルム」 (『婦人サロン』第3巻第2号、昭和6 〔1931〕年2月1日)には、 私は午後二時ころの窓の眺望を最も愛した。細長い一本の岬は、港の水を片手で抱いてゐる格 好に長く延び、その岬の突端から向ふの島の真上まで、空に高く巨大な虹がかゝった。どういふ 加減であらうか。 午後二時ころになると、必ずさういふ巨大な虹がかゝったのである。 多くの帆 船や蒸汽船は、その虹の下を航海して、虹の消えないうちに目的地へ急いで行かうとしてゐるか のごとくであった。 (2巻428頁) 見習看護婦は岡の頂上へ散歩に行くことを好んだ。 それは彼女の習慣であるといふかのやうに、 彼女は午後二時になると、必ず岡の頂上へ散歩に行った。そして柿の木の下で、彼女はかつて最 も青ざめた顔になったときの姿勢で立ってゐた。空に現はれた虹は、そこの場所からは彼女の後 の方角に見える筈であったのだ。 (2着432頁) と、 「岬の風景」と重なるような場面が出て来る。 なお、対山館については、 「革丙の津とその附近」 (『旅と伝説』第1年第7号、昭和3 0928〕年7月1 日)に「この町で泊り心地のよいとされてゐるのは、対山館とときわとである」 (1巻204貢)と書かれ、 「情感の故郷」 (『小波世界お伽噺月報』第5号、昭和19 〔1944〕年3月20日)に「よほど以前、学生の ころ私は栴之津の対山館といふ宿に一泊して」 (10巻527貢)云々とあり、 「旅中所見」 (『暮しの手帖』 第37号、昭和31 〔1956〕年12月5日)においては対LLJ館に「小学-二年の頃、祖父に連れられて二度ほ ど泊った記憶」 (19巻195頁)があり、以来、五回ほど泊まったと記す。 注4、おそらく「縮尺三十万分の一」ではなく「縮尺三百万分の一」であろう。 例えば『公認汽車汽船旅行 案内』大正10 〔1921〕年8月号(旅行案内社)の、索引を兼ねた附録地図は「凡縮尺三百万分之-」と する。なお、注2に引いた三宅俊彦『時刻表百年のあゆみ』には、 1925 (大正14)年4月に日本旅行文 化協会から鉄道省編纂『汽車時間表附汽船自動車発着表』の翻刻出版が始まったので、旅行案内社 『公認汽車汽船旅行案内』は公認の文字を外されたとあり(47頁∼48貢)、同書の「時刻表百年史 年 表」には、 1925 (大正14)年6月の項に「旅行案内社『公認汽車汽船旅行案内』から公認の文字が抹消 され、 『汽車汽船旅行案内』となる」 (逆ノンブル10頁)とある。この記述に拠れば、 「岬の風景」の作 中現在を大正14 (1925)年4月以前と推測できるはずである。 しかし、大116年1月号(第387号上昭 和4年5月号(第415号)の複刻版の表紙には『公認汽車汽船旅行案内』と「公認」の文字が見える。 こ の「公認」の文字の有無を以て「岬の風景」の作中曳在推定資料とすることは困難なようである。 注5、注1に引いた東郷克美「「くったく」した「夜更け」の物語-初期井伏鱒二について-」は、 「こ の作品における貧しく怠惰な生活とそれを脅かす不安な感情は、むしろ因ノ島滞在よりあとの早大中 退後の窮迫した生活と精神的紡復の反映と見るべき」 (32頁)で、作中の「耳かくし」の流行が大正12 年以降であり(33頁)、 「執筆も大学中退後「三年」たった大正十四年あたりとみていいと思う」 (32
-15-頁)とし、極端に生硬な欧文直訳体や「くったく」という用語などの徴表から「おそらくは大正十四 年か、あるいは大正十五年初頭の成立」 (33頁)としている。 注6、 『日本城郭大系』第13巻 〈広島・岡山〉 (新人物往来社、 1980年1月15日、 166頁-167頁)。 なお、注3 に引いた「鞘ノ津付近」には、止宿先の土井医院二階からの眺望が記されているが、そこで言う. 、「和 冠の出城」が美可崎城虹であり、西側の窓と向かい合っていた城山は千守城比であろう。 なお、涌田 佑『図説・井伏鱒二』 (有峰書店新社、 1985年5月30日) 66頁掲載の筆録「「岬の風景」を語る三ノ庄の 土井富久江氏」ではこの東側に見える岬を「地蔵岬」と呼んでいる。. 注7、 『愛媛県史』 (社会経済3商工).(愛媛県、 1986年3月31日)掲載「住友「汽船」略年譜」 (649頁)には 「137G/T、 76馬力」とある。 『日本汽船件名録』第9版(日本汽船件名録発行所、 1923年4月25日) 1240 頁に、木津川丸の汽機・汽鰭の製造を明治39年9月とするのは、後述するように、明治39 〔1906〕年に 機関部を新しくした時期を記したものである。なお、 『日本船名録』 (明治34年版) (1901年7月11日) では、明治21年5月大井権次郎製造の汽権を登載とし(登簿船14頁)、 『日本船名録』 (明治40年版) (1907年4月20日)では明治39年9月製造の汽機、明治39年日月製造(口は判読不可、 3あるいは5とも 見える)の汽碓(製造者は範多龍太郎)を登載とする(登簿船10頁)。 ここに挙げた木津川丸以外にも、昭和19 (1944)年1月16日に竣工した、 833総噸の木津川丸(50798 番、以下、括弧内は船舶番号)が大阪商船に所属していたし、例えば『日本船名録』 (明治40年版) (1907年4月20日)には、 13登簿噸で根室港に船籍を置く木津川丸(5119番)のほか、第二木津川丸 (8366番)、第三木津川丸(7053番)、第四木津川丸(8378番)、第五木津川丸(9129番)、第六木津川 丸(9686番)などが見える。 10噸前後の船であったり、大阪の木津川曳船株式会社の所蔵、あるいは、 新潟港が船籍港であったりと、いずれも「岬の風景」との関連を求めることは困難である。 注8、前掲注7 『愛媛県史』 (社会経済3商工) 644頁D 注9、 『広島県史』 (近代1 ・通史Ⅴ) (広島県、 1980年3月25日) 931頁には、尾道まで10月3日に開通したと ある。 注10、以上の新居浜一尾道航路開設に関わる記述は『住友別子鉱山史』上巻(住友金属鉱山株式会社住友別 子鉱山史編集委員会編、住友金属鉱山株式会社発行、 1991年5月9日) 469頁に拠る。なお、前掲注7 『愛媛県史』 (社会経済3商工) 492頁、 649頁などには明治25年1月同航路開設とある。 注11、新居浜における煙害事件の発生は明治26 (1893)年9月とされ、桝阪島買収は明治28 (1895)年11月 であるので(前掲注7 『愛媛県史』 (社会経済3商工)、 224頁)、新居浜-尾道航路の開設は四阪島精錬 所建設を考慮したものではなく、新居浜と本州方面とを結ぶところにその目的があったと考えられる。 注12、前掲注10 『住友別子鉱山史』上巻469頁。 なお、 『日本船名録』 (明治25年版) (逓信省、明治27 〔1894〕年2月26日。明治25年12月31日現在の記録)の初代御代島丸のところは、 60.15登簿噸、 32.48 総噸、明治24年12月(摂津国川北村・小野正作)製造、公称馬力16、定繋港・大坂、船主・住友トク、 等となっている(69頁)。翌年の記録である『日本船名録』 (明治27年版) (逓信省、明治27 〔1894〕年 9月6日。 明治26年12月31日現在の記録)では、船主・古藤亀太郎、船籍港・佐渡国二見とあって(68 頁)、住友家から売却された模様である。 注13、 『備後尾道名所案内記』 (備後尾道町賛同協会、 1895年3月31日)巻頭色頁「汽船木津川丸発着日時運 賃表」。 注14、前掲注10 『住友別子鉱山史』上巻469頁。 注15、 『日本船名録』 (明治36年版) (1903年6月25日、帝国海事協会)。 「凡例」に「明治三十五年十二月三十 一日現在」とある。 -
16-注16、前掲注7 『愛媛県史』 (社会経済3商工)掲載「住友「汽船」略年譜」 (650貢)の明治35 (1902)年8月 の項では「第2世御代鳥丸を新造(旅客定員1、 2、 3等合計で133人)」とある。 なお、後掲「表3 住友 汽船新居浜-尾道腺使用船」作成の際に使用した前掲注7 『日本汽船件名録』第9版では、調査年次が 相達するためか、二代目御代鳥丸の定員は1 -2-3等合計107人である。 また、前掲注15の『日本船名 録』 (明治36年版)の御代島丸の汽機・汽繕製造を明治35年5月とし、本文7頁に引いた『汽車汽船案 内』明治36年1月号の「注意」には6月新造と記している。二代目御代鳥丸は明治35年3月進水、同年6 月竣工と思われる。 注17、前掲注7 『愛媛県史』 (社会経済3商工)掲載「表交2-48 住友汽船の収支決算書」 (647頁-648頁)及 び「住友「汽船」略年譜」 (650頁)0 注18、前掲注7 『愛媛県史』 (社会経済3商工)掲載「住友「汽船」略年譜」 (650頁)の明治37年4月の項に 「曳船兼貨客船第一四阪丸を新造」とあり、 『日本汽船件名録』 (表3参照)では「旅客及曳船」とする。 注19、伊藤科学研究所『艦船の科学』 (宝雲舎、 1944年11月15日、 196貢)に次のようにある。 進水後十年以内を新船といひ、十年以上二十年までを中古船といひ、二十年以上になると老齢船な どといはれてゐる。貨物船では経済的に使はれる年限は二十五年とされ、その間に船の建造費を取 りもどすことになってゐる。しかし定期航路の旅客船になると、それよりずつと短命である。しか し船の補強修繕を充分にすれば、三十年、四十年は使用出来、中には五十年を超えるものさへある 位である。 注20、なお、因島滞在中に井伏が木津川丸を利用したか否かは不明で、井伏「因ノ嶋」 (『信濃毎日新聞』朝 刊、昭和7 〔1932〕年10月23日∼24日)には、 「総噸数五十トンくらゐの」 「発動汽船」に乗ったとの記 述しかない(3巻577頁)。なお、本文中でも触れたように、大阪商船大阪山陽線の寄港地には尾道・柳 井が含まれているので、井伏は鞘港以外で大阪商船の定期便を目にした可能性もある。 注21、 『創業百年史』 (大阪商船三井船舶株式会社、 1985年7月20日) 28頁∼30頁。 注22、吉田文二『船の科学-箱船から水中翼船まで-』 (ブルーバックス) (講談社、 1982年10月25日第 12刷〔1976年7月25日第1刷〕) 224頁。 注23、前掲注21 『創業百年史』 28頁。 注24、 『創業百年史資料』 (大阪商船三井船舶株式会社、 1985年7月20日)掲載「所有船舶一覧表」 44頁。 注25、 『大阪商船株式会社80年史』 (大阪商船三井船舶株式会社、 1966年5月1日)掲載「売却船累年表」 743 頁。前掲注24 『創業百年史資料』掲載「売却船累年表」 743責も同様。 注26、因みに『婦人家庭百科辞典』 (三省堂、昭和12 〔1937]年6月1日7版〔刷〕。ちくま文庫2005年2月10日 複製に拠る)の「汽船」の項に「蒸気力で推進器を動かして水上を走る船をいふ」とあるが、そこに 掲げられた秩父丸の写真には「我国最大の汽船秩父丸」というキャプションを附している(ちくま文 庫版上巻543頁)。しかし、秩父丸は昭和5 (1930)年製造のディーゼル推進船で、蒸気力は用いない。 これなどが、 『日本国語大辞典』に言う「汽船」を「推進機関を用いて運航する大型船舶」の意で用い た例になるだろう。 注27、吉田文二『船の一生-設計・建造・運航・修繕--・-』〈ブルーバックス〉 (講談社、 1991年9月 25日第2刷〔1991年7月20日第1月旧) 244頁。 注28、日本造船学会編『昭和造船史』第1巻く明治百年史叢書) (原書房、 1978年3月10日第2刷〔1977年10月 30日初版〕) 253頁。 注29、この点については拙稿「演技空間への旅-井伏鱒二の田舎-」 (『社会文学』第19号、 2003年9月 11日)で言及したことがある0 -17
別表1住友汽船新居浜-尾道線時刻表 寄 港 地 使 用 船 等 W rK ifc 西 条 壬 生 川 今 治 四 阪 下 弓 削 三 庄 尾 道 明 治 28 (18 95) 年 3 月 3 1 日 (備 後 尾 道 町 費 同 協 会 『備 後 尾 道 名 所 案 内 記 』 明 治 28年 3月 31 日) 木 津 川 丸 往 路 6時 00分 6時 55分 ∼ 8時 4 0分 - - - 12時 00 分 木 津 川 丸 復 路 20 時 00分 19時 20分 - 17時 55分 - M ∼ 13時 30 分 明 治 32 (18 99) 年 4月 (庚 寅 新 誌 社 .『汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 明 治 32 年 4月 号 / 第 55 号 ) 木 津 川 丸 往 路 5時 00分 6時 0 0分 - 8時 0 0分 9 時 05分 - - 11時 30 分 木 津 川 丸 復 路 18時 30分 17時 4 5分 I 16時 0 0分 14 時 30分 - - 12時 00 分 明 治 35 (1902 ) 年 1 1月 改 正 (庚 寅 新 語 社 『汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 明 治 3 6年 1月 号 / 第 100 号 ) 御 代 鳥 丸 往 路 8時 00 分 8時 4 0分 M 10 時 0 5分 11時 00分 丁 12 時 0 5分 13 時 00分 御 代 鳥 丸 復 路 19時 00分 18 時 2 5分 - 17時 2 0分 16時 05分 - 15 時 0 0分 14 時 00 分 木 津 川 丸 往 路 14 時 20 分 13 時 35 分 - 12 時 20 分 10時 55分 l ∼ 8 時 30分 木 津 川 丸 復 路 15瞳 30分 恒 時 25 分 - 17 時 55 分 19時 05分 - 1 2 1時 20分 明 治 38 (1905 ) 年 12月 改 正 (庚 寅 新 誌 社 『汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 明 治 3 9年 4 月 号 / 第 139 号 ) 第 二 四 阪 丸 往 時 6 時 00 分 6 時 50分 8 時 15 分 9時 25分 ー 10 時 40 分 1 1時 40分 第 一 四 阪 丸 復 路 18 時 00 分 17 時 15分 16 時 05 分 14時 4 5分 一一 13 時 2 5分 12 時 20分 木 津 川 丸 往 路 12 時 40 分 1 1時 55分 10 時 45 分 9時 35分 M 8 時 15分 7 時 00分 木 津 川 丸 復 路 13 時 20 分 14時 10分 L 15 時 25 分 16時 35分 - 17 時 50 分 19時 00分 明 治 4 0 (1907) 年 3 月 (庚 寅 新 語 社 『汽 車 汽 船 旅 行 嚢 内 』 明 治 40年 3月 号 /第 150 号 ) 第 一 四 阪 丸 往 路 6 時 20 分 7 時 0 5分 7 時 3 5分 8 時 5 5分 10時 0 5分 ー 11時 20 分 12 時 20 分 第 一 四 顧 丸 復 路 19時 20分 18時 4 0分 18時 10分 17 時 05 分 . 15 時 4 5分 - 14 時 25 分 13時 20分 木 津 川 丸 往 路 12時 30分 11時 50分 11時 2 0分 10 時 15分 8 時 5 5分 - 7 時 35 分 6時 30分 木 津 jr.丸 復 路 13時 00分 13時 45分 14時 15分 15 時 35分 16 時 4 5分 n 18 時 00 分 恒 時 00分 大 正 元 (19 12) 年 9月 (庚 寅 新 誌 社 『汽 車 汽 船 旅 行 案 内』 大 正 元 年 号 /第 白16 号 ) 大 正 4 (19 15) 年 3月 (旅 行 案 内 社 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 4 年 3 月 号 /第 2 46 号.) 第 一 四 阪 丸 往 路 6時 00分 6時 4 5分 7時 10分 8時 20分 9 時 2 5分 10 時 25 分 10 時 40分 11時 50 分 第 一 四 阪 丸 復 路 18 時 4 5分 18 時 0 0分 17時 3 5分 16時 2 5分 15 時 25 分 14時 25分 14時 10分 13時 0 0分 木 津 川 丸 往 路 12時 10分 11時 2 5分 11時 06 分 9時 50分 8 時 35 分 7 時 35分 7時 20分 6時 10分 木 津 川 丸 復 路 12時 2 0分 13時 0 5分 1 3時 30 分 14時 4 0分 15 時 55 分 16 時 55 分 17 時 10分 恒 時 20分 大 正 10 (192 1) 年 8 月 (旅 行 案 内 社 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 10年 8 月 号 /第 323 号 ) 第 N 四 阪 丸 往 路 朗 寺00 分 6 時 45 分 7 時 10 分 8 時 2 0分 9 時 25 分 10時 25分 10時 40分 11時 50分 第 一 四 阪 丸 復 路 18 時 4 5分 18 時 00 分 17 時 35 分 16時 2 5分 15 時 25 分 14 時 25分 14 時 10分 13時 00分 木 津 川 丸 往 路 12 時 10 分 1 1時 25分 1 1時 00分 9 時 5 0分 8時 35 分 7時 35分 7時 20分 6時 10分 木 津 川 丸 .復 路 12 時 20 分 13時 05分 13時 35分 14 時 4 0分 15 時 55 分 巨6時 55分 恒 時 10分 18時 2 0分 大 正 12 (19 23) 年 7月 (旅 行 案 内 社 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 12 年 7 月 号 /第 346 号 ) 第 一 四 阪 丸 往 路 5 時 35分 6時 15分 6時 40分 7 時 50 分 8時 55分 9時 55分 10時 10分 11時 20 分 第 一 四 阪 丸 復 路 18 時 40分 、17時 55分 17時 30分 16 時 2 5分 15時 25分 14時 25分 14時 10分 13時 00 分 木 津 川 丸 往 路 12 時 10 分 11時 25分 11時 00分 9 時 5 0分 8時 35分 .7時 35分 7時 20分 6時 10分 木 津 川 丸 . 復 路 12時 20分 13時 0 5分 13時 3 5分 14 時 40 分 15時 55分 16時 55分 11時 10分 18 時 20 分 -
18-大 正 13 (1924 ) 年 2 月 11 日実 施 (白 石 義 弘 『住 友 汽 船 物 語 』 未 刊 ) 第 一 四 阪 丸 往 路 8 時 10分 - - ー0 時 3 0分 9 時 2 0分 12時 20分 12時 30隼 13 時 40 分 第 一 四 阪 丸 復 路 19 時 35 分 I - 17時 25 分 18時 3 0 分 15 時 35分 15時 20分 i14時 10分 木 津 川 丸 往 路 12 時 50 分 ∼ - 10 時 4 5分 11時 5 0分 8時 55分 8時 40分 7時 3 0分 木 津 川 丸 復 路 13 時 30分 I M 15 時 5 0分 14時 3 5分 17時 30分 17時 50分 19 時 0 0分 大 正 15 (19 26) 年 8月 1 日 (旅 行 案 内 社 『ポ ケ ッ ト汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 15年 8 月 号 / 第 101 号 ) 第 一 四 阪 丸 往 路 6時 50分 - 8 時 20 分 8 時 0 0分 11時 0 0分 11時 10分 12 時 20 分 第 一 四 阪 丸 復 路 18 時 20 分 - - 16 時 2 0分 ー7 時 2 0分 14時 20分 14時 10分 13時 0 0分 木 津 川 丸 往 路 12 時 50分 - - 10 時 4 5分 1 1時 5 0分 8時 50分 8時 40分 7 時 30 分 木 津 川 丸 復 路 13時 10分 - - 16 時 00 分 14 時 2 0分 17時 4 0分 17時 50分 19 時 00 分 昭 和 2 (192 7) 年 1月 (旅 行 案 内 社 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 16 年 1月 号 / 第 38 7 才 ) 第 一 四 阪 丸 往 路 7時 0 0分 - - 9 時 30 分 8 時 10 分 11時 10分 11時 2 0分 12 時 30 分 第 一 四 阪 丸 復 路 19時 20分 = - 17 時 0 0分 18 時 ー0分 恒 時 10分 15時 00分 13 時 50 分 木 津 川 丸 往 路 13時 10分 - - 11 時 00 分 12 時 10分 9時 10分 9 時 0 0分 7 時 50分 木 津 川 丸 復 路 13時 5 0分 - - 16 時 30 分 14 時 40 分 18時 10 分 18 時 2 0分 19 時 30分 * 「実施」 「改正」の日付が明示されているもの以外は、掲載時刻表等の発行年月を示した。 *始発港と途中寄港先の本船の発時刻を示した(本船が桟橋に接岸できない港における連絡用の好 の時刻ではない) 。なお、明治35 (1902)年11月改正分と明治38 (1905)年12月改正分によると、 三庄発時刻の5分前が三庄着時刻である。 *寄港地は尾道・尾ノ道、三庄・三ノ庄、四阪・四阪島などの表記が混在しているが、最も簡略な 表記で統一した。 *太字で時刻を示した大正13 (1924)年2月以降は、今治・四阪の寄港順が逆になる。 * 『愛媛県史』 (社会経済3商工) (愛媛県、 1986年3月31日) 646頁掲載「新居浜∼尾道航路ダイヤ (明治末年ごろ) 」は大正元(1912)年9月から大正10 (1921)年8月までの第一四阪丸の運行ダイ ヤと同じ。 -
19-別表2 大阪商船大阪山陽線使用船 典 拠 . 配 船 開 始 船 名 匝 全 長 m 製 造 年 月 (* 進水、+竣工) 備 考 (速 力 . 機 関 な ど) 大 正 2 (19 13) 年 1月 『瀬 戸 内 海 醜 路 案 内 』 (大 阪 商船 株 式 会 社 内 航 営 業 課 、 大 正 2年 7月 1 日) ∼ 春画 j r l′ 6 14 5 1. 82 明 治 36 (1903) 年 3月 十 12 .14k t 同 型 船 . 愛 媛 丸 - 天 顔 川 丸大 井 川 克 .ー 66 2 54. 13 両 面 好 両 市 一年 7 月 * . 10 .3/ 12 kt 65 1 54. 13 両面 云「 首藤 再ll年 6 月 * O .lv l2 .Ok t - 龍 田川 丸 408 50. 29 明 治 2 7 18 94) 年 4 月 + 12 .6kt - 姫 抑 元 一J 4 15 50.4 7 明 治 2 7 (18 94) 年 4 月 * 10 .1/ llkt 大 正 4 (19 15) 年 2月 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 4 年 2 月 号 /第 2 46 号 (旅 行 案 内 社 ) I 天 龍 川 丸 Fル一.l一首6i 54. 13 明 治 30 (18 97) 年 7 月 哀 10 .3/ 12 kt - 利 根 川 tiS O 54. 13 明 治 3 0 (18 97) 班 10 .0/ 12 .Ok t 10 .1/ llkt - 姫 川 丸 4 15 50. 47 明 治 2 7 (18 94) 年 4 月 ホ - 大 井 川 丸 6 51 54. 13 明 治 30 (18 97) 年 6 月 * 9 .6/ 12 .Ok t - 龍 田川 丸 408 50. 29 明 治 2 7 (18 94) 年 4 月 * 12 .6kt 大 正 5 (19 16) 年 1月 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 5年 1月 号 /第 2 56 号 (旅 行 案 内 社 ) - 天 龍 川 丸 66 2 54 .13 明 治 30 (18 97) 年 7 月 * 10 .3/ 12 kt - 利 根 川 66 0 54. 13 明 治 3 0 (18 97) 年 11月 * 10 .0/ 12 .Ok t - 高 坂 丸 637 52. 12 明 治 3 5 (19 0「2) 牛 11月 * 9.8 ′llk t 1 大 井 川 丸 65 1 54. 13 明 治 3 0 (18 97) 年 6月 * 9 .6/ 12 .Qk t A 龍 田川 丸 408 50. 29 明 治 2 7 (18 94) 年 4 月 + 12 .6kt 大 正 5 (19 16) 年 5月 『備 南 之 名 勝 』 (先 憂 会 、 大 正 5年 7月 1 日再 版 〔大 正 5年 5月 1 日初 版 〕 )ノ掲 載 広 告 「中 国 航 路 定 期 発 着 時 刻 表 」 - l利 根 川 丸 *6 56 54. 13 明 治 3 0 (18 97) 年 11月 * 10 .0/ 12.Ok t .- 天 龍 川 丸 *65 9 54. 13 明 治 30 18 97) 年 7月 * 10 .3/ 12kt - 大 井 川 丸 ホ645 54. 13 明 治 30 (18 97) 年 6 月 * 9.6 / 12 .Ok t 10 .1/ llkt - 姫 川 丸 *442 50. 47 明 治 2 7 (18 94 年 4 月 * ∼ 龍 田川 丸 *430 50. 29 明 治 2 7 (18 94) 年 4 月 * 12 .6kt 大 正 10 (19 21) 年 8月 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 10年 8月 号 / 第 32 3号 (旅 行 案 内 社 ) - 天 龍 川 丸 662 54. 13 明 治 30 (189 7) 年 7 月 * 10 .3/ 12kt - 利 根 川 丸 GW ー 54. 13 明 治 30 (18 97) 年 11月 * 10 .0/ 12.O kt - 大 井 川 丸 liM 5 1. 13 明 治 30 (18 97) 年 6 月 * 9 .6 / 12 .Ok t M 高 神 丸 -I!"'串 50. 63 明 治 38 (19 05) 年 6 月 ホ 9 .5/ 10 .5k t 大 正 10 (192 1) 年 12月 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 10年 12 月 号 /第 327 号 (旅 行 案 内 社 ) - 天 龍 川 丸 lit>二 54. 13 明 治 30 (18 97) 年 7月 * 10 .3/ 12k t - -- 利 根 川 660 5 4. 13 明 治 30 」些 L 堅 1l 月 * 10 .0/ 12.Ok t 一m一一LP - u i n i 'i 65 1 54. 13 .明 治 30 (18 97) 年 6月 ホ 9 .6/ 12 .Ok t - 高 坂 丸 6 37 5 2▼12 明 治 35 19 02 年 1 1月 * 9 .8 / llk t 大 正 11 (192 2) 年 9月 『ポ ケ ッ ト汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 1 1年 9月 号 / 第 5 9号 (旅 行 案 内 社 ) - 「 天 龍 川 丸 6 62 54 . 13 明 治 30 (189 7) 年 7 * 10 .3/ 12 kt - 利 根 川 丸 $ 6 W > 5 4. 13 明 治 30 (18 97) 牛 1 1月 * 10 .0/ 12.Ok t - 大 井 川 丸 tiiil 54 . 13 明 治 30 189 7) 年 6 月 * 9.6 / 12 .Ok t - 愛 媛 丸 6 14 5 1.8 2 明 治 36 19 03) 年 3月 十 12 .08k t 大 正 12 (1923) 年 7 月 『公 認 汽 車 汽 船 旅 行 案 内 』 大 正 12年 7月 号 /第 34 6号 (旅 行 案 内 社 ) - 利 根 川 丸 titiO 54 . 13 明 治 30 (189 7 年 1 1月 * 10 .0/ 12.Ok t - 大 井 川 丸 6 51 54 . 13 明 治 30 (189 7) 年 6 月 * 9.6 / 12 .Ok t - 天 龍 川 丸 6 62 54 . 13 明 治 30 (189 7) 牛 7 月 * 10 .3/ 12kt - 愛 媛 丸 6 14 5 1.82 明 治 36 (190 3) 牢 3 月 + 12 .08k t M 尚 坂 丸 6 37 52 . 12 明 治 35 (190 2) 牛 1 1月 * 9 .8 / llkt