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沖縄の植物文化論-植物と信仰-: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

沖縄の植物文化論−植物と信仰−

Author(s)

大井, 浩太郎

Citation

沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 4(1): 1-52

Issue Date

1980-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6667

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沖縄の植物文化論

植物と信仰一 大井浩太郎 序論 アワと麦の文化 稲作文化 砂糖の人生 イモの文化 ソテツ地獄 衣料文化 植物の人生 林政論 ●□●●●●●■ ■ロロロ((叩一夕(】(叩二『叩)△勾如一({.(四》(硅【u){一屯〃口▽(配】(叩》 い 序 論 沖縄では甘藷を唐芋と請う者はなく、昔平敷屋朝敏(1700~1735) という者が、貧家記をかいて、はじめてカライモと使ったことがあるばかりで ある。蕾ては九州の北部から中国及び上方に亘る大区域に、琉球イモと調った が、サツマイモが伝えられて後漸く標準語のサツマイモに改まった。この類の 誤りは誰でも判ることだから、之を訂正する必要はないかも知れないが、イモ が1605年野国総管によって齋らされ、それを薩摩児水の継川利左衛門が薩 州に招き入れ、さらに之を中国石見の薯代官、井戸平右衛門の苦心によって、 日本全国に知られるようになり、関東の都市には、江戸の中頃から八里半の名 声は遠く轟き、イモ先生の異称で知られる青木昆陽(1698~1769,江 1

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戸商人の子、文蔵、1719年凶年の食料としてイモに注目し、栽培法を研究 し蕃藷考を著わし、幕府の殖産政策と相俟ってイモ先生の異名をとる。1739 年幕府の書物方となる。古文書図書の調査に当り、吉宗の命によって蘭学を学 ぶ。)の墓の前に、江戸の焼イモ屋組合が感謝の祭を営むような時代がきた。 遠州御前崎付近ではイモ種子を輸入した大沢権右衛門の記念碑は、イモ切干生 産者が主として、記念碑建立のために奔走したといわれている。この唐イモ畑 の一角は曽ては疑いもなく浦人の粟生豆生であった。こんな雑穀類の調製が面 倒で、-人を養うための土地の面積が多く入用なものより、甘いだけでもカラ イモの方が好ましい。その上世話も入費も概して少なく、凶作の患もずっと減 じ得る。沖へ出る船の弁当には、片手で食えるから便利だし、稲、粟作りに苦 しむよりも、イモ作りの生活に変えた方がよかったかも知れない。水に乏しい 島々の畑には、このカライモの輸入によって、初めて或意味の安楽郷となり、 瞬くうちに今日の如き人口密集を見るに至ったのである。(拙著イモの沖縄史) イモの先進や伝来者たちが、もし出なかったら、水の乏しい南北の島々は永く、 萱立、雑木立のま凸であったたろうし、つまりは雑木の巨木はすべて悪霊の住 所となり、住みにくい世の中が続いたかも知れない。実際にこの小さな南の島 国が今日の隆盛を来すようになったのは、一半は即ちカライモの奇蹟であった かも知れない。こう見てくると沖縄の食物文化は当初南方から黒潮の流れにそ うて入ったヤムイモ、サトイモ、続いてカライモ(野国総官は1605年江南 の福州からカライモをもたらしたことになっているが、南支には福州郊外の在、 陳振竜によって1594年ルソンから南支に伝え、陳振竜はイモ苗を福州巡撫金 学曽に献じたためキンイモの名を得、南支一帯に播植されたものを野国総官が もたらしたということになっている。)の文化がめだって居り、その間アワ、 ムギ、イネ、マメと続き、沖縄ではイモや穀類が伝えられる毎に、焼畑耕作に よって、作物文化が定着するようになったと考えて差支えないようである。こ ●●●● れを裏書するよう|こ沖縄の正史といわれる球陽には「廠田ノ良決ニハ先ツ火ヲ ●●●● ●●●●●●●●● ●● 以テ焼キ、而シテ水ヲ引イテ之レヲ灌グ、ソノ農器′、石ヲ以テ刃トナシ、長サ ●●●●●●●●●●●●●● 尺余、滴サ数寸ニシテ之レヲ墾ス、±'、稲、梁、禾黍、豆等二宜シク、尤モ猪・ 鶏多シ」とある。いずれにしても南西諸島の作物文化の一部が黒潮にのって入 -2

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って来たであろうということは、歴史資料や民族證或は考古学的考証によって 早くから知られていた。山原から中頭にかけて語り伝えられるアワ作の伝承が、 焼畑耕作によって初められたという物語りがあり、その初の場所が八重山石垣 島と請っているのも、南方からの漂着民であろうということも、アワやイモが 確かに南方(台湾東部、ルソン島、パタン島、蘭島、火焼島)から伝えられた といわれる物語がその焦点に当るだろう。この漂着民は一般に「アワの精」「イ

モの精」というよき神々であったことも明らかになっている。(喜舎場英殉・

八重山民俗誌)沖縄と八重山の中間にある宮古島の作物文化は二通りの道のり

があった。一つは直接フィリピン(宮古島では「あらう」島という)からパタ

ン島、台湾東南部の高砂族(ヤミ族、パイワン族、ルカイ族)の住地の作物を 伝えたコース、他の一つは八重山の島々に移植されたヤムイモ、サトイモ、ア ワが、八重山を経て多良間島、伊良部島に移され、宮古島に上陸したという道

のりである。しかし沖縄全域に定着した作物文化にも、南と北に大きな差等が

あったことは見逃せないようである。それは沖縄本島が紀元前後以来本土との 交渉が繋ぐなり、南方文化の影が次第に薄くなっていった事実である。すなわ

ち沖縄島という名称は使わなくても、道の島々や奥の島々をすべて蒟鳧桑綾と

使ったらしい事実がある。現に久米島では沖縄から大島にかけての島々をすべ てウチナーといっているし、大島では、島々を含めてすべてウチナガナシの領 地と断じている。この島々は615年以来大和朝廷に貢しており、683年、 698年、714年と時代が下るにつれて数多くの人々が本土の帰化人になっ ている。(続日本紀による)沖縄の人々が、本土の経済を多分に受けいれてい ることは、歴史がその証拠である。就中13世紀から16世紀にかけては、東 南アジアの諸地域はもちろん、日本々士への交通は、母国という憧慣もあって、 ひっきりなしに行なわれている。実のところそれは日本国民の生活力が政治的 拘束の緩みから、大河の決する如き勢で、国外に横溢したからに他ならなかっ た。彼等は或は倭冠となり、或は勘合貿易となり、朱印貿易となって現われた。 いわば膨脾として南支那海に波打っていた頃の国民の覇気は痛快の極みであっ た。この-大痛快事に刺戟されたのであろうか。沖縄からは八重の潮路を乗り 越え乗り越え、十棚船を組み立てては、京・鎌倉の裏門に折々立ち寄っては、 -3

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その文化の音づれを立ち聞きして帰っていた人々が、この時代になると、島々 の船は方向をかえて、南支那の海岸から、インドシナまでさすらいでて、その 豊かな芳烈な天産物を載せて帰った。その模様をおもろそうしから引用すると、 楠木はこので、(楠木の大船をつくって) 大和船こので、(大和式の十棚船をつくって) 大和旅のぼて、(大和航海にのぼって) 山城たびのぼて、(上方の山城にのぼって) 瓦買い(このぼて、(大和瓦を買いにのぼって) てもつ買いIこのぼて、(いろいろな品物を買いにのぼって) この神歌の原歌はおもろそうし10巻の「ありきえとのふし」(ねいしまいし がふし)に出ている。 「いしけした、 よがほうよせつけるとまり、 かねしかねどのふ いしへつはこので、 かなへつはこので、 いしけよりなおちへ、 なだらよりなおちへ、 くすのきはこので、 やまとぶれこので、 やまとたびのぼて、 やしるたびのぼて、 かわらかい(このぼて、 てもちかい|このぼて、 おもいぐわのためす、 わりがねがためす、」

すなわち「伊敷下は豊年を招く港ぞ、兼次の貴き君よ、君がいさおにて、石槌

を造り、金槌を造りて、伊敷港を修理して、なたらを修理し終りぬ。かくて楠 船を造り、大和船を造りて、大和の旅に上り、山城の旅に上りたり。瓦を買い -4

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(ことて、品物を買わんとて、わが愛児のためにこそ、わりがねがためにこそ」、 というのである。「具体的な内容は島尻真壁村の伊敷の城主が、大和へ瓦やそ の他の品物を買うために」とあるから、古くは沖縄では瓦や品物を買うために 遙々日本々士まで出かけたことが、ありありと読みとれる。 室町期になると本士でも支那でも、新興貿易の機運が著しく、シナでさえ蒙 古の武断政治が崩壊して、朱明の重商懐柔政治がこれに代ったために、寧波、 泉州、広州には各国の貿易船で賑わい、室町の将軍義満でさえ、勘合貿易の利 を追うことに汲々とする有様であった。すなわち南の島人が、母国船の後を追 うて朱明の門に忍び寄ったのである。にも拘らず室町幕府の威令が行なわれな くなってからは、倭冠の徒は支那海から南海方面まで跳梁し、是等倭竃と拮抗 して、寺社商人の輩まで船を出して津々浦々に利権を漁った。そして南西諸島 の多くの島々にも多数流れこんできた。これを契機に、南島の人々は独自の立 場で七つの海をまたに、南方の宝庫を取引の根城にした。そのことは元の延祐 4年(1377)宮古島の貿易船(大和から来島したという砂川大殿によって 建造されたうるか船で乗組員でもよく60数人もあったという。)が温州に漂 着した事実が、史料によって明らかになった。温州府志によると、「海外婆羅 公の民海蕃に往實し、風涛に過って温州永嘉県に漂着式」その具体的な内容に よると、「延祐4年6月17日晩無舵の小船一隻永嘉県の海島に漂流す、14 人の内5人は青黄色(芭蕉布)の服を着、9人は白衣を着ている。(苧麻布)b ミヤゴ 言語通ぜず、10月中書省に報告し、漸くlこして海外婆羅公管下密牙古人民凡 サライトウ そ60余人、大/j、2船、撒里即地面に行かんとして、漂到したものであること が判った」。撒里即とはシンガポールの事であって、密牙古は宮古であり、婆 ポラ 羅公とは惇羅(保良)のことであろうとし、われている。該記事の中にある「有 旨命発住泉南、候有人性彼帯回本国」の文句によって、江南泉州と琉球(宮古 島)との間に巳に相当の往来のあったことが認められる。この時代の沖縄本島 の貿易船の往来は史実によって明らかにされているから次に掲げよう。 西暦日本年号中国年号歴史事項 1372文中元洪武五察度はじめて入貢す(明) 1380天授六〃十三南山王承察度明へ入貢す -5

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西暦日本年号中国年号歴史事項 1382弘和二〃十五泰期入貢する、 1383〃一〃十六北山壬拍尼芝明に入貢する、 1385元中二〃十八明帝三山に海舟を与える、 1386〃一〃十九馬、硫黄を以て進貢する、 1392〃九〃二五留学生を国子監に送る、問人36姓帰化、 1404応永十一永楽ニシャム船来琉して交易をはじめる、 1407〃十四〃五尚思紹冊封を受ける、 1417〃二四〃十五国相懐機明に行く、 1427〃三四宣徳二明帝より皮弁冠服を授けらる、 1431永享三〃六尚巴志朝鮮と通好する、 1463寛正四天順七マラッカヘ遣使、 1472文明四成化八尚円王冊封を受ける、 1477〃九〃十三八重山に朝鮮人漂着し、帰朝後見聞記をのこす、 1490延徳ニ弘治三パターとの交易はじまる、 1M4天文三嘉靖十三冊封使陳侃来琉し、使録をのこす、 1541天文十〃二十パターとの交易とぎれる、 1562永禄五〃四一冊封使来琉す、(倭冠跳梁によりおくれる、) 1579天正七万暦七冊封使来琉し薩商の抜属を見聞し、その圧力 的なるを報ずろ、 この時代より遡って沖縄本島に新石器時代人が持ってきたであろうと思われ る豚が、山に逃げて猪となったことになっているから、当時沖縄本島にはイモ 類(おそらくヤムイモ、サトイモであろう、)と粟、麦、豆、稲と次第に栽培 され、山には猪と鹿がいただろう。この猪を捕えて飼育を可能ならしめた条件 として、イモ作が可能であると考えられている。そしてもしあったとすればア ワよりもイモ(ヤムイモ、サトイモ類)であろう。精々おくれて、アワ、ムギ、 豆、黍が入り、これらの作物が複合されたとみられている。つまり先史時代に は南方からの作物文化が押し寄せてきたのに拘らず、続いて入ったであろうと 思われる日本々士の耕作文化の受け入れによって、南方の耕作文化は次第Iこか -6

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げをひそめ、結局沖縄本島は日本文化の一環に入ったと見なければならない。 いずれにしても南島が日本々士と接触するようになると、驚くべき速度で本土 のあらゆる文化が入りこんだ。そのうち宗教文化がもっとも多く、沖縄の文化 に影響を及ぼすようになったのである。例えば人間の生命や人間の霊魂はつね にその宿っている本体から離れやすい性質をもっており、特に寝ついている間 とか、病気にかかる場合などにこれがみられる。しかも霊魂自体はきわめて脆 弱であるから、人間は不断に自分の霊魂が肉体から遊離することについて用心 していかなければならず、-たん遊離した霊魂は儀礼とか呪術などの方法を用 いて呼びもどさねばならない。このように人間はおのれの霊魂に対して常にそ の存在を監視し、それ自体脆弱で危険にさらされている霊魂を守らなければな らない。そのために人間は己れの生命の安全をはかる手段として一定の制限つ まりタブーに身を委ねなければならないのである。いわばタブーは生命の保護 者であり、且つ守護者なのである。だから人間はタブーにとりかこまれて生き ているといえる。このようなことは本土の源初的な信仰であったのに拘らず、 仏教が早くから伝えられて、その源初的な信仰が次第に影をひそめ僅かに-部

の呪術者や神がかりのみに適用されるようになった。')にも拘らず沖縄には仏

教の伝来もずっと遅れ、その上源初的な信仰のみが人民全体の精神を支配する 信仰であったが故に、その信仰は根強く、しかも長く独特な信仰形態として残 されるようになったのである。この霊魂を肉体から遊離させるのがまた悪霊で あって、人や聖霊・聖域を悪霊から護るためにいろいろな方法を用いるように なった。その方法の大部分が中国から入ったものであろうと考える者が多いが、 それは、中国文化の伝来が長期にわたって行なわれ、その歴史性を色濃くつく りあげた事から想像した事態であって、中国文化の伝来によって悪霊退散の方 法を思いついたことにはならないのである。例えば悪霊から護る方法の操作が 全く機械的なもので、固有の効力があるとは思えない。サンやヒジヤイナアが 悪霊から護るために用いられていることを機械的なものとするならば、中国に はこうした具体例がない。これなどはむしろ日本の固有信仰であることを証明 しているのである。すなわち家、神域、井戸、農舎、墓、家畜小屋、畑の種蒔 の場合、或は祖霊への供物、すなわちハレの日の食べものなどにサンをつけれ -7

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ばそれは、これらのものを守るという意識が強く働く。特に宮古、八重山、久 米島にはこれが一般的である。また家族が不在の場合とか、店や仕事場の主が 留守をする場合などには正面入口にサンをつけたりする。この場合は魔物によ って起されるかも知れない火事やその他の災害から建物を守るためである。サ ンの材料はたいていススキであるが、中には桑の枝を用いたりする、その一方 の先端を大きな輪に結び、残りの部分はそのまま垂らしておく。ヒジヤイナア はお獄や神域の周囲の部落の入口に張ることにしている。時には門の上や道の 両側に張りわたすこともある。また悪霊の住む場所といわれる巨木にまきつけ ヘンゲ ることもある。この悪霊の変化と詔われるキジムナーは月夜や叉Iま逢間が関に よく人間の姿になって出没し、漁をする。この変化は、必ず同年輩位のものを 誘って仮の親友になるが、己れの住所だけは明かさないというタブーを守り通 す。しかし-たん正態が暴露されるようになると忽ち妖怪変化となって人間を 傷つけたり、殺したりする。 ①島尻真壁村の宇江城に久嘉地鮫殿という人がいた。働き者で昼は野良で精 一杯働き、夜は海辺で魚貝をあさり、平和な生活をしていた。或月の晩海辺に 行ってみると、見ず不識の若者が漁をしている。中々の巧者であるらしく獲物 を-ぱい捕ってある。鮫殿はかんたんな挨拶をして後知らない男と同様に、同 じ場所ですなどりをはじめた。それから後は毎晩のように、例の男と一緒にな って漁をした。そのうちに両人は懇意になって、男はきっと獲物を分け与える ようになった。ただ不思議なことに男の誰がどうも聴き覚えがない。住所はど こかと聞くと、ただ山の方向を指さすばかりである。着けている着物はいつで も濡れかけている。そのうえ容貌や態度がどうも奇怪に見えろ。或時は幻のよ うにさえ見える。鮫殿いよいよ怪しんで、「あなたは何Iinを通って海には来る か、村はなんというか」と重ねて問うと、急に男の目つきが輝き出した。そして 「今日は面白くないから帰る」と、拾台詞を残してそのままスタスタと立去っ た。鮫殿は男の挙動に疑念を持ちはじめ、男が立去った後しばらく刻をおいて、 男の後を追いはじめた。例の男は後を振り向うともせず、樹木をかき分け、か き分け山に入っていくではないか。いよいよ鮫殿腹をすえて男の後についてい くと、一株の古い桑の大木に着くなあと思ったら、男は大木に吸い込まれるよ -8

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ように姿を消した。鮫殿このありさまを見て吃驚仰天、急ぎ逃げ帰ろうとした が、心を落ちつけ、桑の巨木のところに立ち寄って、人の入りそうな洞穴を見 出そうとするが、この木には洞穴一つもない。いよいよ不審に思い急ぎ帰宅し て、このことをありのま▲女房にうちあけた。女房はそれはきっとキジムナー に違いない、折を見計って妾が退治してやろうと言った。翌日も夫鮫殿は何食 わぬ顔で漁に出た。すると一足さきに例の男は漁にやってきていたらしく、貝 や魚をたくさん取ってある。こうして鮫殿たちが漁をしている時刻に女房は、 夫から聞いた桑の大木までたどりついて、巨木を焼き払った6妖'径帰ってみる とあたり一面火の海となり、家はすっかり灰になっている。驚きあきれて地団 太踏みながら、「ど奴が俺の家を焼いたのだ」と怒ってみたが、もはやどうに もならぬ。キジムナーは何処ともなく消え失せた。このことあって以来鮫殿夫 妻はこわくなって、遠い山原に移り住み姿をかくした。あれから数年後のこと である。鮫殿は用事があって首里に上国せねばならぬようになって、-人とぼ とぼ夜道を急ぎつつあった。闇の中から-きわ光り輝くものがやってきた。じ っと見つめていると、何と数年前消えた男ではないか。鮫殿は急にこわくなっ たが、から元気を出して長い間の御無沙汰を詫びながら挨拶を交わした。男は 久し振りの対面とあって、喜んで普天間街道筋にあった酒屋に鮫殿を誘った。 両人は親しく昔話に花を咲かせた。そのうち鮫殿は輿に乗じて、遂に五年前桑 の精を追い払った話をした。じっと聞いていた妖怪、すつくと立上ったかと思 う間もなく、懐中にしのばせてあった短刀(錆びついていた)を抜きとるや否 や、鮫殿の手を捕えて、五本の指を切り落として、ぱっと姿を消した。鮫殿は 痛くてたまらず、急ぎ引返して帰宅したが、重態に陥り悶死した。妻は悲しみ のうちにも、せめて生れ故郷までは死骸を移さればとあって、馬をかりて死骸 は宇江城まで運んだが、前原の墓に葬るため死骸を棺桶に移した。死衣に着換 させるため着けた衣をはぎとると、これはしたり、死骸は全身錆色であったと 伝えている。 ②ウスク木の神 久米島仲里間切真謝村にウスク下という家があった。この家の後方急な坂を 登りつめると幾百年も経っただろうと思われる大木(ウスク)が植えられてい

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る。いつの頃からかその根元の大きな洞穴にキジムンが住んでいた。キジムン はウスク下の家の年のころ三十ばかりなる若者と親しくなり、毎晩のように海 に誘った。それが雨の日も風の日も欠かさず誘うので、若者はいい加減あきあ きしていた。女房は夫よりも懲りごりだった。女房は一計を案じてキジムンの 誘いに来るのを止めさせようと企んだ。そしてその計略を夫にうちあけ、茅を 刈りてきてキジムンの住むウスクを焼き払うことにした。あれから夫は毎日野 良に出ては茅を刈りてきて、ウスクの根元に積み重ねた。毎日ウスクの根元に 茅を積んでいる様子をキジムンは怪しんで、若者に訊いた。「お前はこんなに 茅を刈りてきて、俺の家のまわりに積んでいるが、どうしたんだね」、「いや ね、お前が冬になると寒かろうと思ってねえ」、 「あ§そうだったか、ありがとう、御苦労なことだ、」久米島にもいつか冬が やってきた。それでも二人は漁に行くことを止めなかった。今日も今日とて昼 のつかれもいとわず二人は遠い遠い岬の所まで出かけていった。女房は二人が 行きつく頃合を見計って、例の茅に火をつけた。積みあげた茅は天をこがすば かりに燃えひろがった。見る見るうちに巨大なウスクは燃えきった。無心にな って漁をしていたキジムン、突然クンクン鼻をならし始めた。けぶたし、煙の匂 いだ。これはきっと俺の家の焼ける匂いだ、いそぎ帰らればとキジムンは、し きりに若者をせきたてる。若者は「とうとうやったな女房の奴」と腹の中には 思っているが、「なあんだ、そんなことってあるもんか、お前の思い違いだ」 というが、キジムンのあわて方は普通ではない。眼の輝きが違う。顔色まで妖 怪変化だ。若者は止むなく家路を急いだ。帰ってみるとこわいかに。ウスクは すっかり燃えて灰が残っているばかりである。キジムンはがっかりした。若者 に向って「俺はもう家がなくなった。ここには居れない。ウチナーに行ったら、 安里八幡様の庭に二本の大ウスクがある。『あれだ、』あれはまだ主がないか らあすこにいって、あの木の主になろう。お前がもしウチナーに行くようなこと があれば是非訪ねてくれ」という。そう言ったかと思うとキジムンの姿忽然と して消失した。数年後ウスク下の男は首里への所用があって、ウチナーに出た。 「彼奴は八幡様のウスクの主になろうと言っていたが、どうなっているのだろ う。訪ねて見よう、」そして或日ウスク下の男は安里八幡を訪ねた。男はとあ -10-

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る民家でキジムンの様子をきこうと思い、つかっかと民家に入り、よもやま話

をして御茶のごちそうまで受けた。男は民家の主に向って「わたしは数年前キ

ジムンの家を焼き払ったが、そのキジムンが今はどんな暮しをしているか、知

りたいために、ここまで訪ねてきた」と話した。すると熱心に聴いていたこの

家の主人、突然立ち上ったかと思うと、囲炉裏にくくてあった燃えさしの薪を

両手に握り、妖'怪に変身し、いきなり若者の両眼につき刺した。「お前だった

か、憎くき奴め、家を焼かれたもののうらみ思い知れ」と、わめく若者の眼を

焼きただらした。若者は生れもつかぬ盲目の片輪にされ、他人にささえられて

漸く久米島までたどりついた。それ以来ウスク下の家には、子孫がすべて眼病

者が生れたと伝えている。 かように悪霊はキジムナーという妖`怪になって、巨木に住みつき、人を誘っ ては害悪を流しつつ、流転をつづけるのである。しかしキジムナーにも二つの 弱味があった。その一つは人間が放屈をすると忽ち分身をするということであ

り、他の一つは己れの正体を言われるとキジムンは化身になるということであ

る。だから漁夫が放屍をすることは、悪霊から身を護ることといわれ、また漁

にでてタコを食べるときには、その足の一部を切りとり、「キジムンのたまし いと言いながら海に放りなげる」ことにしている。古木や巨木を住居とする悪 霊の精といわれるキジムナーは、よく妖怪に変化するから、木を伐って良い日 と悪い日があるらしい。与那原村の背後は一帯の森林地帯であった。板良敷村 ●●●●● の木樵たちは、木を伐ってよし、日をキリチビーと請い、キリチビーは寅の日で なければならぬという慣わしもできていた。そして寅の日で伐り終えぬような 大木であれば、樹木の一部分を片割させておけば、別の日に伐ってもよいと言 っている。そのかわり木を伐って悪い日はキリチといって、必ず「木の精」の 崇りを受けるといわれている。西原間切の柵原山は古城に近く名木がたくさん 出るといわれて、首里のお殿殿内の材木は、この山から伐り出す習わしになっ ていた。ここでも伐り出す日を寅の日とし、木の精の悪霊にたたられる日をう しの日として、警戒したと伝えている。この木の精をキジムナーといっている が、これは大方古木に住みつき、なかでもウスク、カジマル、桑、松、クヮデ ーサー、イジユ、ビンギ、ガーガーギーがえらばれるという。キジムナーはい -11-

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ずれも人の形に化して出現する。キジムナーは住居が焼かれても死ぬことはな い。変幻出没自在で、新たな住居を求めて去っていく。例えば粟国のキジムナ ーは大ウスクに住居していたが、それを焼かれて、喜屋武村に立去り、真壁村 のキジムナーは住居であった桑の古木を焼かれて山原に立去った。宜野湾新城 村のキジムナーはビンギの古木を焼かれて、美里の熱田村比嘉に立去った。 ●●●●● ●●●● 「羽地や大宜味では、キジムナーのことをブナガヤーとかブナガーと語し、、 ブナガーは人助けもするが、必ず後難があるという。伊是名のキジムナーはア カプサーとかアカヨナジャーと請い、アカプサーは人に必ず害悪をながすもの であるという。本部のキジムナーはスノーラと呼ばれていて、海岸の巨木に住 みつき、魚夫の捕った魚の目をくり抜いて食べるという。このスノーラで体が 小さく、魚の目を食べないのをカムラー小と謂い、本部の人々はこれを人霊 (魂)といっている。久米島のキジムナーは人里近くの川や池に住み、水泳を する人々の足を引っ張って深みにはめてしまうという。生態ははっきりしない が、人間と全く同じように行動する。人間と変りはないから、うっかりすると、 言葉を交し、社交もする。しかし一旦己れの正態が暴露されると忽ち妖怪に変 化し、幻のように消え去るといわれている。」(琉球大学社会人類学教室・沖 縄民俗研究参照) 一般にキジムナーは人間が放匠Eしたり、タコをなげつけたりすると、直ちに 消失する。精霊であるという観念は古くから住民の間に持ち続けられている。 だから木を伐る日も大方寅の日とする。寅(虎)は古くから神秘なものと考え られ畏れられていた。「枢星散じて虎となる」とあるようにその前身は大空の 星だったという。また「雲は龍に従い、風は虎に従う」と古書に見えているの も神秘の-面を現わしているのではないかと思う。つまり虎は霊妙不可思議の なぞ 動物とされていて、四方(こ象どられ、四季|こ准らえられている。中国では「虎 は生れて三日牛を食うの気ありと言い、若しその気なしと親が判定すれば親に 殺される」という話が伝えられている。そういう事から日本では丈夫な子供を 産みたいと望むものは、胎教の一助として産婦に「虎豹勇躍」の図を見せたり、 産児に虎胆とか虎之助、虎太郎などとつけたのは、その子が勇猛ならんことを 希望した表現法であった。元来陰陽道では「虎を陽物と言い、闘うこと、争う -12-

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ことに虎がたびたび引き合いに出される。宮古、八重山の俗言では勇猛なもの は、虎という名を呼称とする。危険なことの楡えに「虎の尾を履む」といい、 恐ろしいものが、隙をうかがっているさまを虎視耽々という。従って与那原板 良敷村や西原柵原村でキリチビーに寅の日をきめたのは、この村々に陰陽道の 影響があったことを証する。後漢の劉昆は光武帝(AD,25~57)の時代 に弘農地方の太守をつとめていたが、その辺は昔から虎の災害が多かった。そ こで劉昆はさまざまな防禦策を講じた。そのせいか猛虎がみな子虎を背負うて 河を渡り、他の地方に逃げた。この話を聴いた光武帝はいたく感心して劉昆を 招き「君の仁政のおかげで猛虎は逃げ、又山火事も防げた」と、いうと、劉昆 はただ一言「それは偶然でしょう」と答えた。すると光武帝はいよいよ感心し て「これ長者の言なり」と言って、後漢書に記録をとどめさせたとある。 「うしの日を伐採の悪日としたのは、たしかに陰陽道の思想によるものらし い。うしは古くから人間の生活に関係が深い。故に獣全体を代表させていた。 ●● 例えば牝牡は牛の男女だけでなく獣類の男女に用いられる。荘子は役人になる ことを懲通されたとき『犠牛をごらんなさい。ごちそうを与えられてはいるが、 当の牛になってみれば、むしろ豚同様な生活をしても、犠牲はいやだというで しょう。私だって同じことで、いかに高禄を食んで賛沢はしても、役人生活は 真っ平ごめんです』と。斉の国の宣王或るとき『犠牛をみて、びくびくしなが ら悲しそうによろよろ歩いている様子に、かわいそうになって臣下の者に、あ の牛を助けてやれ、その代り手を犠牲にするがよい』と。孟子に『牛山の木嘗 て美なり』とある。これは斉の国の都に近かった牛山の美しく茂った木が都作 りの材木だと称して、樵夫のために濫伐されて禿山になった。そのために牛山 はもはや山の本性を失っている。人間だって仁義の良心を絶ちきって養うこと がなければ、潤のない禽獣の心になるだろう』と、つまりうしの日を特に伐採 の悪日としたのは、人間との関係を絶ち切るという陰の日であるから、うしの 日に木を伐るなという教であろう。」(諸橋轍次・十二支物語参照) われわれは農耕社会に深く根をおろしている農耕儀礼をとおして、いかに植 物の栽培に対して不安感や劣等感をもっているかを探り出そうとするのである。 とかく農耕社会には、人間はつねにその根底に自己の無力さや、はかなさ、世 -13-

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界や自然のたよりなさ、といった認識がある。この認識はいわば儀礼をつくる べき性格のもので、そこから自已以上の他者に依存しようとする態度と心理が 養われてくる。超人間力への依存はこれを媒介として、一方では宗教を、そし て他方では呪術や禁忌を生み、それらは次第に儀礼化し、伝承化して久しく持 続していくのである。その他に依存の態度は、さらに他力に於ては、より強い 力より高い文化がしばしば未知の世界から押し入ってくると思っている。 それはある場合には大きな災害をもたらす不可視の力の侵入であり、ある場 合は幸福や知識を賦与してくれる神や異人の来訪でもあった。農耕生活が自ら 動かぬ植物的な性質をもつ以上、そして農作物が常に天然の外部条件に左右さ れる運命をになっている以上、人事を尽したあとは、常に天命を待つという態 度以上の積極的な転換は望み得ない。従って人々はつねに受身に外からくるも のに相対している。 呪術や宗教が農耕社会に於て急激に発達したのは自ら動かずして、外からく る力にすがり、あるいは外方からの脅威に対抗しようとする心理は、一面に於 て神霊や祖霊が、定期的・臨時的に村々家々を訪れ、帰ってくるとする信仰と 疫病や災害をもたらす霊魂やデモンズが同じく往還をたどって、村々家々を襲 うとする信仰とを習合的に形成し、これに対する儀礼をさまざまに作り上げて いくとともに、実際に外方から村の中にさすらい訪れてくる宗教的呪術的旅人 を畏敬し、歓待しその教説に対して甚だ従順な態度をとるに至ったゆえであろ う。にも拘らず儀礼様式や態度はその体験される変化の種類によって三つの種 類に分けられるようである。掘一郎氏はこれを次のように区分された。 第一は外界の日月星辰の進行や四季の変化、食用植物ことにもっとも神聖な 穀物と信じられてきた稲の播種、発芽、移植、成育、成熟、枯死の循環過程な どの、いわば自然法則的な変化と見るべきものに対する儀礼群、これらは季節 的に一定した恒例の儀礼であった。 第二は台風、旱魅、洪水、地震、津波といった一瞬にして生活の根底を破壊 し、生活環境を変化させる天災地変、疫病火災、害虫発生といったものの突発 来襲による生活秩序の激変、これらに対する対抗儀礼である。 第三は外界の変化に対し、内部的人間関係的な変化に伴う不安から導かれる -14-

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儀礼群である。これは年令や肉体関係の変化、社会機構と個人のかかわり合い における儀礼で、通過儀礼と呼ばれるものである。 この儀礼の行事はある部分は呪術的で、ある部分は宗教的であるが、全般な 不安の解消とともに、より強固な生活樹立への信念を求め、積極的と消極的の すなわち興振と防衛の呪術や儀礼を通して、永続性と自由を確保しようとする 希望をリアライズしようとする意図を有している。このような呪術及び宗教の 社会機能の発達には例外なく、司祭者呪者の指導的な役割が見られる。ことに 農耕生活に於て極度の発達を遂げ、彼等による宗教呪術の組織は家族や部族も しくは国家といった古代社会の全行動を貫いており、これを統制している。こ れらの諸行事に対して祖先崇拝はつねに先行する。祖先崇拝ということは、た だ我をして今日あらしめ、生活の基盤を樹立してくれたという系譜的親愛観や 生活的創建者に対する尊敬の念だけから生れたものではない。 そのような願望は子孫による継承とともに、家に対する永続性の願望をも同 時に寄せている。かまどの火とその継承を特に尊重する風習は仏教でも「法灯」 といい、皇室のヒツギが重視されるところからも窮われるが、民間でも家庭の 中心がカマドであり、その火が神聖視されているのは、むしろ宗教的なものと さえ考えられている。特に沖縄の火の神はすべての呪術的儀礼の根源であり、 火自体もっとも神聖なる神であったのである。従ってすべての神への願望や祈 願はこの火の神を通して訴えられ、それを乗せてもらう台がすなわち香炉であ って、あらゆる祈願はこの香炉をとおして拝まれるのであるから、「おとおし」 であり、火そのものはたんなる火ではなく「御三つもの」と一体となって神格 化されるのである。 この思考はさらに人間の生命の糧である穀物の播種、成育、成熟、結実、枯 死というように種子の循環過程の認識と、ここに得られる穀物霊魂の死の復活、 再生の実証灼智識によって、いっそう確実化されたもののようである。なんと なれば穀物はそれを食べて生活力を持続する人間の生命の重要な部分であり、 従って穀物の生命力と人間の生活力とは不離一体の関係にあるからである。そ れ故穀物の収穫に関する種々の呪術や儀礼は、それが同時に人間の生命にかか わる呪術や儀礼とオーバーラップしている(拙著火と風の信仰)。 -15-

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「ことに収穫から播種にいたる期間のそれは、同時に人間霊魂の更新すなわ ちタマフリと邪霊によって、穀物と人間霊がともにそこなわれないための、厳 重な謹慎と対抗防衛の呪術と生殖を模擬する繁殖豊饒を予祝する呪術とが幾通 りにもおこなわれるのである。 それは沖縄歴史の特色がそうさせたのである。沖縄歴史の展開は単に孤立に よってのみもたらされたものではなく、常に外方からの刺激と内部からの欲求 によってつくられてきた。すなわち古くから沖縄人の服はつねに北方日本や西 方シナ、朝鮮或は南方に注がれてきたように思う。アジア大陸における民族の 興亡、その政治、経済、文化的な展開は、直ちに沖縄のそれに反映した。その 点は日本々士も同様であった。つまり琉球という地理的孤立が、雑多な人種と、 文化の複合的人間と文化の形成に都合のよいへだたりを保ったと同時に、霞動 する諸民族の隆替と古代文明の中心地から全く隔絶してしまわぬ反応可能の距 離を保っていたということが、沖縄の歴史を大きく運命づけたことは否定でき ない。だから与えられたものはつぎつぎと滅び去っても、いろいろと攻変した ものは、何とか自分たちの生活の中にくみ入れ保存してきた。沖縄が全体とし て島国であるだけでなく、ムラがそれぞれ独立した島填的性格をもち、これが 家畜を余り使用しない集約的な手耕か小農法を営んできた生産形態と梱まって、 その生産過程においては、もとより外部からの有形無形の来入者侵入者に対し ても、災害に対してもできる限りの人間の力を結集し、一つの中心に集約する 必要性が痛感されたものと思われる。自然への適応と時処占有と農耕生活に基 本的につきまとう限界性の自覚、負い目における不安が絶えず人々の心を駆っ て、極めて入りこんだ重層的ピラミッド型の社会組織を形づくっており、さら にそれを上から下へとつらぬく強力な政治的統合態勢をもって、維持しようと してきている。 対内的には、血縁意識と家族間の歴史的間柄の意識とそれらを結びつける宗 教的シンボルを墓(ムート)の共有を契機として、本家分家による同族集団を ユイ 構成し、あるいIま地縁集団としてのマキュー、クミなどの結も単なる政治的統 制関係のみならず、通過儀礼や職業技術の習得にいたる親方どり、上下の階層 関係への加入を通して共同体の意識を強め、その不安や脅威をやわらげていた。 -16-

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こうした特色は農村程強く意識されている。

沖縄の農村には近ごろまで一生をその生れた村内だけで過ごしてしまう人は

少なくなった。こうした生活状態は植物にも似たもので、士地と切り離せない 土地とともに生きる生涯といえる。自然環境とのこの密接不離の関係は、自然 を客観においてながめるという意識を生じない。また自己の確立した生活形態 や生活態度、意志や設計を、さまざまな手段方法によって自然のなかに打ちた

て、割りこませていこうとするような方向は生れてこない。自然は命ずるもの

であり、生活設計はこれへの順応においてなされろ。 自然風土は沖縄人にあっては、人間生活と対立してあるものではない。生活 の大前提であり、生活への至上命令として与えられたものとして受けとられる。 沖縄の農村社会のように-つの孤立した自給自足ふうの小世界を築いていたと ころでは、こうした意識や感`情が世代的歴史的に伝達されていくものと考えら れる。それはただ自然や風土にたいする意識や感`情はここから培われてきた。 生活態度や人生観といったものだけにとどまらないことは明らかである。ここ から宗教生活も始るのである。沖縄人は古くから肉体と霊魂とを不離なものと は考えていなかった。霊魂は肉体を離れやすく、肉体の有限にして、くずれや すいのに対して、霊魂は甚だ自在なしかも脆弱なものと信じていたらしい。だ から霊魂は生きている間も、特定の人々のものは、時として肉体を離れて思う がままに出没し、意志を伝え、復讐することもできるものと信じられている。 それ故に、死後にも霊魂が地下の窮屈な世界に入っていこうとするような煉 獄や地獄の思想は元来もってはいなかったようである。 例えば久志村の山中に明治の初頭まで使われていたという「樹上墓』があっ た。大樹の上に平屋をつくって葬るのであるが、それは単に野辺に送った死人 が樹上で蘇生してくれればとの希望があったし、またたとえ蘇らなくとも、自 由に出没し、大樹を住家として、家族や遺族と互に意志を通じあい、かつ復讐 することができると信じての葬法であった。この型を象徴するもう一つの墓制 は近代まであった久高島の墓制がそれであった。 歴史的に沖縄の墓制の発達を見るならば、農村では大古帯やこもで纏うて放 った原始的な形式から棺枢式となり、モヤ式となり、それから巌届式となり、 -17-

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遂に堅固な近代的墓制となっただろう。だからこそ「わかれ遊び」(死人との わかれをI惜しむモアシビー)が廃れた戦前でさえ、ナーチャミーという語が遣 っていて、その中には蘇って欲しいという言語’情調が伴っていたのである。 また霊魂が他界と現世を往来する信仰と、この中に育くまれた農民の宗教的 ホスピタリティは一方封鎖的な局地村落社会において、その集団の遡りうる限

りの根本の霊すなわちオヤガミの信仰を醸成し、他方外部からの信仰や技術の

伝達者を歓待して迎え入れ、より広い高い生活形成へと進んで、沖縄人の生活 を沖縄人らしさの共通要素を築きあげてきた。穀霊と祖霊との結合の根底にも こうした農民の霊魂観と他界観が先行しているらしい。 すなわち穀物が播種によって生命力を展開して成長し、成熟した末、穀粒と なって枯死する過程は、これによって生命を養っている人間にとってもまぬが れることのできない-つづきの連鎖過程なのである。とすれば人間生命にとっ て最大の危機は植物が穀物化した静止期間である。そしてこの静止期間に穀霊

が永遠に眠ってしまわないように、また邪霊のためにかき乱されないために、

多くの呪術や儀礼が行なわれ、それが直接に人間生命の更新をも意味する重大 な物忌みの期間なのである。「穀霊はまず死霊的な観念と結合し、穀霊を産み これに生命力を賦与する穀母信仰は、その農耕集団のオヤガミと次第に一元化 されていったのではなかろうか。農耕儀礼を通して、常に祖霊が考えられてい た形跡はただ盆行事のみではなかったのである」(堀一郎氏日本宗教の社会 的役割参照)。 1.アワと麦の文化

金関丈夫氏の提唱された南島式褥耕文化(佐々木氏は南島系根栽農耕文化と

よぶ)を見ると、ヤマイモ、サトイモの耕作文化が南から北に向って伝わった

ということが十分想定される。ところがバシー海峡を離れて台湾に入ると、ア

ワの占める比重が著しく高くなっている。少なくともハレの食事には断然アワ

の重要性が大きくなり、ケの食事の中心をなすサトイモとアワの二重構造が見

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られるようになる。このような点から、台湾にはイモ類を主作物とする根栽農 耕文化の上に、何らかの形でアワの文化がのつかったと推定される。しかもこ の台湾から北の地帯のわが南西諸島では、モチという粘性の高い特殊な食品が 現われてくる。モチという食品は、前に述べたように東南アジア北部の照葉樹 林帯の中で生まれ、その中で育ったいわば照葉樹林文化の指標の一つとも言え る食品であるから。従って南西諸島ではモチが食事文化の中で重要な要素をな し、つまり照葉林文化の影響が強く及んだことを示す有力な証拠の一つと言え る。いわばその文化の基層部に典型的な根栽農耕文化をもっているところへ、 アワを中心とする雑穀類の栽培を持ちこんだのは華南、江南地域に展開してい た照葉樹林文化の影響があると推定されるのである。八重山群島にはかなり早 い段階にアワとともにムギが現われている。これなどはおそらく南シナからの 影響ではないか。しかし沖縄本島以北になると、南島系根栽文化が南から北上 するとともに、日本々士の側から縄文文化が南下し、のちには、弥生文化の水 田稲作文化が南下してくる。そしてこの南からの文化と、北からの文化が沖縄 本島以北の地域で、それぞれ複合しているのが明らかである。このアワのうち でモチアワ、というとすぐお正月のモチと考えがちであるが、アワモチやキビ ダンゴまで含めた広い意味のモチを考えなければならぬ。一般に雑穀類の種子 の澱粉には強い粘性がないのが普通であるが、幾種類かの穀物、つまりイネ、 アワ、モロコシ、キビ、ハトムギなどの中には、澱粉に特に強い粘性をもつ品 種があり、この種子澱粉に強い粘性をもったものを多くの作物の中から選び出 して、それを品種として固定化するまで栽培すると、ウルチの方が単位面積あ たりの収量は高くなる。にも拘らずモチ種を選択しそれを栽培するのは、経済 性の問題ではなく、モチが好きだという嗜好性が存するためと考えるほかない。 この嗜好性というのは日本民族の間ではかなり普遍的である。すなわちインド 人や南シナ人はパラパラした米やアワを好むのであるが、これは日本人の好み に合わない。つまりインドや南シナでは、上等の米やアワは強い香りがあって パラパラしている。だからモチ種を好む地方の人々が、モチ種を選択し、栽培 する慣行が見られるという。ところがビルマの北部からタイの北部の山地民は モチ種でなければ栽培しない。最近日本ではモチ米の不足を補うために、タイ -19-

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からモチ米を輸入するようになった。またシナの江南地方から台湾に至る地域 がまたモチ種を大量につくっている。いわば照葉樹林地域ではイネ、アワをは じめ各種雑穀はすべてモチ種であり、モチ種はいわば照葉樹林文化のよい指標 になると考えられている(佐々木高明氏南島根栽農耕文化の流れ参照)。 南島の文化圏では、台湾に大量にモチ種の作物(主としてモチアワ)が作られ ているが、祭りの日になると、水に浸したアワを石臼でひいて、草の葉で包ん でいわゆるストーン・ポイリングをやるのもアワのモチ種であって、台湾山地 民の間ではハレの日の御馳走にはアワモチを欠かすことはできない。アワを石 臼でひいて、それを粉にし、水にこれてシトギとしてまるめたものであり、こ れがモチとなる。ところで同じような方法で沖縄にはコメのモチやアワのモチ をつくっている。 前記の通り、アワはインドのサバンナ地帯に原産した雑穀の-種と考えられ ているのに拘らず、現在インド半島のジャングルに住む焼畑農耕民の間にはア ワはあまり栽培されていない。それでもアッサム地方のナガ族の間にはアワが 常食となっているので、アワを大量に栽培しており、また南シナの山地でもか なり作っている。この事実は宮古島の南シナ漂流人日記(1673年恵和密日 誌)によって明らかにされている。台湾の山地の焼畑農耕民は南シナから入っ て、台湾山地に定着した人々であるといわれているが、彼等はアワをもっとも 重要な作物として栽培しており、そのためにアワをめぐる複雑な農耕儀礼が発 達している。 沖縄の焼畑では古くからアワとイモ類が栽培されていた。宮古島の焼畑は一 様にアワ作が展開していたし、八重山では米が移植される以前には、イモ類と アワが普遍的に栽培されていたことが、考古学の上から実証されている。つま りアワは南シナの照葉樹林地帯を通って北シナに伝わり、黄河流域の古代シナ 文明の基礎をつくった農業の基幹作物となっており、他の経路は南シナから台 湾に伝わり、台湾から北上して、八重山諸島から宮古諸島、沖縄本島に伝えら れた経路と、さらに台湾からフィリピンやその北部洋上の黒潮の洗う島々に移 植されたアワが、黒潮の流れにそって北上してきた人々によって、八重山の石 垣島、西表島、竹富島を経て、宮古島に上陸したであろうと思われるコースが -20-

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いろいろ考えられている。或はフィリピンのアエタ族(航海の達者な海洋民族) が、宮古島から逆にアワを輸入していたであろうという口碑が伝えられている。 宮古島の東海岸にある砂川村は、宮古島で最も早く海上交通を開いた村であっ たが(砂川大殿という倭人が漂着して定住し、大船をつくつあ南方貿易に従事 したといわれる。)この村に南方(アロー島民、ルソン島民のこと)からアロ ー人がやってきて、彼等の貿易品であった露類や石器類、イモ類を運んできて、 砂川村のアワと交換していた。砂川村のアワは大量に生産されて、毎年余剰ア ワが倉に積まれていたので、容易に交換ができた。成年例のアロー島民がやっ て来たときに、俵に小石を詰めて粟とみせかけ、彼等のカメ、ツポ、石器、農 具と交換したため、交通がぶつつり切れ、もう二度と再びアロー人はこなくな ったといわれている。この照葉樹林文化のアワ作の日本への伝播経路としては 当然二つのコースを考えているが、そのうち最も重要と思われるコースは、照 葉樹林地帯の北限をなす中シナから、九州や南朝鮮へ直接上陸したであろうと 思われるルートである。他のコースは台湾から沖縄を経て北上する経路である が、時代とともに逆に北シナから北鮮を経て南下するコースもあっただろう。 こうしていくつかの伝播コースがあるが、或は以上のコースすべてを経由して、 日本へ伝わった可能性もあろう。 すなわちアワは古く日本の重要作物の一つだったことはまず異論はなかろう と思う。こう考えてくると、日本の焼畑の特色が基本的にはシナの江南地方か ら西南シナに至る照葉樹林地帯のそれに系譜的に連なることはもはや疑えなく なる。いうまでもなくわが国は東アジアに分布する照葉樹林帯の北辺に位置し ている。その上稲作以前のある時期には、朝鮮半島を経由する北方系農業の影 響をうけ、他方では南方から伝わった根栽農耕文化の影響を受けた可能性も考 えられる。このような複雑な文化の交流の中で、焼畑で栽培される主作物の選 択と編成が少しずつ進行し、日本の自然に適応する形態の焼畑の輪作方式と基 幹作物の編成が行なわれたものと考えられる。その源流と思われる東南アジア の焼畑農耕民の村々では、樹木の伐採播種をはじめ、焼畑の労働が共同労働で 行なわれる例が多い。「共同労働の単位をなすものは、村落共同体そのものも あるし、さらに村落内に分出した小集団或は親族集団の場合もあるが、いずれ -21-

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にしても焼畑の経営はムラあるいは、その内部に形成された共同労働集団の伝 統的な機能を背景にして営まれるものが多い」。(佐々木氏同書) 沖縄の組(与)と呼ばれる集団は本来地域的な団体であり、その機能は主と して農業労働、祭祀、家作り、製糖その他日常生活の万般にわたるのである。 従って最初から血縁の者たちの幾つかの戸によって形成されたのであった。一 般に同族というのは親族すなわち姻戚関係や血縁的等親をたどって意識される 範囲であって、これらの親族の個々は、家を中心にした-つの共同体中に含ま れ、その中心たる夫婦を根幹とする家族及び遠縁とか、時には非血縁の準家族 よりなる家族が、その成員としての家族及び準家族を主要成員とする。新たな 家をそこから分出させて、その結果これらの家々が本家の統御に対して従属的 に連合する形態をとっている。従って同族団は宗教を中心とする政治・経済的 な共同基盤の上につくられた集団であるから、その日常的な生活共同作業は、 生業関係はもとより、家事万般にわたる大小の恒例ないしは、臨時の相互扶助、 物品・労力の融通、吉凶の協力関係に於て大きな役割を果している。この協力 関係で最も大きな役割を果しているのが若者組といわれる集団であるが、これ は村の神事に深く関与するばかりでなく、部落生活の運営に必要なさまざまな 仕事、例えば火事、水害、旱害、暴風、疫病の予防から後仕事、山林の保護、 道普請、治安、衛生等の労務を引きうけ、特に農村では娯楽、社交の上でも重 要な役目をもっていた。またユイマールーの単位を構成することがあるが、こ のユイは労力の交換を意味している。「すなわち1日出働の労力に対しては必 ず1日の実労働で返すことを原則とした。」金銭やその他の物資で相殺するこ とは許されないのが、この慣行の特色である。もちろん労働力が対等に交換さ れることが、一種のきまりであるが、相手の労働力が直ちに自分の方にかえっ てくるとしているわけではない。長い間にはそれが返されて、全体としての不 均衡がなければよいとしている。 沖縄では慶長の薩摩入以後貢租が村高にかけられることになっていて、「貢 租納入の単位がまた地組であるとされたから、古くからつくられていた若者組 の素朴な集団が、直ちに地組にすりかえられた例が多い。地組の本来の意義は 「地域的な集団であって、それは血族の者で構成されていた。」その血族の者 -22-

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に土地は平等に配当されていて、労作の場合には共同で耕作し、しかも互助的 に働いて収穫をあげた団体であった。(拙著沖縄農民史) この組の集団が今日でも有効に利用され、村の経済の一翼を荷っているのが 宮古伊良部島の組制度であった。この組の最初の形態がすなわち焼畑耕作のア ワ作り組であった。もっともこの形態の原初的なものは宮古島大浦村の漂流人 の集団によって始められたことが明らかになった。「大浦多志は元明革命当時 つまり日本の倭冠椙概をきわめた天順成化のころ(1450~1460)江南 の福州人大浦多志一行14人が、平和な地を求めて、宮古島に渡来した。すな わちシナの漸間地方の好民の中には、日本の倭冠にくみして、彼等の先導を勤 めたものなどがおり、又地方の富者綴紳中には、家財保護のため、ひそかに倭 竃と歓を通ずる者などがあって、海冠の中その七・八は皆中国の者であったと いう記録がある。叉天順成化年以来、シナでは海冠に対する沿岸海域の防衛を 厳重にするとともに、民間義勇隊の組織を強化して、是等倭冠と通ずる一味徒 党の者どもの捜査討伐をはかった事も記録されているから、「倭志と通ずる者 どもは、シナ内地に潜居することができなくなり、遂に家財をまとめ、家族を丹 伴なって海外に亡命するようになったものと思われる。すなわち大浦多志は倭 志一味のものであって、天)頂、成化(1457~1487)年間に渡来したも のであろうと考えられる。」(稲村賢敷氏・宮古島庶民史参照)アヤゴによる と、大浦多志一行は宮古島に上陸するなり、田圃のできる地形や飲料水等の調 査をし、あちらこちら抜渉したらしく、人情にも通じ、生活必要品も準備して、 かねてシナにあった当初行なった焼畑耕作の方法を行なったらしいことが歌わ れている。 「大浦多志ながるたしとよみやよ、(おぼらだす豊見親は、) 唐の島福州島生り、(シナ福州の産れであるが、) いふさ島ふあり島やりば、(戦争にあけくれる苦しいところであるから、) おらりげく立たりげくにAP-んにば、(ここではとうてい生活が続けられないので、) 船がまばみそがまばおわけ、(船をつくって船に食料をつみこみ、) 布や張り苫や張り被うし、(布や苫で帆をつくって、) 布巻ば糸巻ば積上げ、(反物や糸などもつみこんで、) -23-

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唐がみばすびがみば積上げ、 寝ん筵ねんだたみつみやぎ、 臥す枕にん枕積みやぎ、 南風ぬなぐ風ぬおすたりや、 風たどり、うりたどり出し、 夜くみ明日ぬ朝んな、 大浦湾ながる湾ぴやりつき、 ●●●●●①●●●● 野火たち煙立ちみりば、 ●●の●●●●●●●●●● 立つかぎさ燃し、かぎさありば、 川(井)ゆまあり、水ゆまありみ扣孟 いら井ぬかぎ水ばみつき、 ばり 畑田ゆ廻り畑まありみりIま、 田原田ぬはきやな田ば見つき、 どきぬほり、あていぬほからし やん、 (唐がめシナ製のかめ類もつみこんで、) (筵もゴザもつみこんで、) (また枕や寝具もつみこんで、) (南風のなど風が吹き初めたので、) (やわ風をうけて船出をしてみると、) (夜一夜こめて走りつづけ明日の朝には、)

(秀薯鉛迂|ミ走りついて、上陸して樹)

(野山の樹々を伐り集めてもやしてみると、)

(姦轍藝三はもえてIばな畑に)

(水のあるところを探してみると、) (いら丼という清水をみつけることができ、) (田畑になりそうなところを探し廻ってみると、)

(翻さIC菱上ぞ瞬孚して、そ)

(余りにりっぱな田圃であったから、う れしくなって)

(里戸鰯続霊弓(;し霧=て)

屋敷とり所とりしうとい、 世果報ぱい村ゆぱいしゅうりば、 (稲、アワは豊穣の実りをして、村が豊 かになったので、) 妻んにや-だまいっにや-だう らりだ、 (村が豊かになると、生活が楽になると、妻も欲しくなって、)

(潔蝋講蝿~玉のようなフニヤ)

(仲人をたててフニヤ、力堪乞わしてみると、)

(ぞ雛季結納の品々を、とりそろえ)

(ほきり森おか嶺を神域として、そこで 栄えなさいと、)

(蕊鏡二言つぎと村だち栄えて繁昌し)

嘉手刈村ぬ玉んふるふにやっぱ、 仲人ゆ乞ふ者うすみりば、 入らすない七すないやらしば、 保喜理森おか嶺や立せよい、 島広げとよみうり。」 大意をあげると、「大浦たしとよみやは唐の国福州の生れであるが、戦乱絶え まなく、住みにくかったから、船装をととのえ、布や苫を張り廻し、布巻や糸 -24-

(26)

巻はじめ、かめ類やむしろ畳、枕等を船につんで、南風の吹〈のを待って、福 州を出発し、翌朝は早くも大浦湾に着くことができた。さっそく共同作業で山 を焼き畑をつくって生活を始めたが、巡ってみるといら丼の清水もあり、田原 田の田畑も見つけたので、余りの喜びに屋敷つくりをして、家を構えて村立て をしたが、妻もなければならぬので、嘉手刈村に玉のような美人ふにやっぱと いう者が居るという事をきき、仲人を頼み、結納の品々七揃えをそろえて、妻 に貰い、村立ち始めをしたという。」また刃頂の頃の物語と思われる次のよう な伝承もある。 「野崎村長井の里に東屋と西屋の主婦が同寺に妊娠していた。東屋の主人は 夜更けてから、前離というところにいって、漁の潮時をまっていた。暫く浜に うちあげられた大きな寄木(流木)に腰をかけているうち眠気を催してきた。 夜になって不思議な気配がするので目を醒ますと、どこから来たか化神が『寄 木大主』と呼ぶ。すると寄木も応と答える。化神がまた言う、『今夜長井の里 に両家に子供が生れた。これから出掛けていって生子の運定めをしようと思う が一緒に御出ならんか』と誘う。寄木大主は只今来客かあって御伴できないか ら何卒あなただけ行って、運定めをしていらっしゃいという。夜は深々と更け て物音一つしない。漁夫は再び夢路をたどるうちに、先の化神が再び現われて 。● 曰うよう、『生子を見るに-人に男子で-人は女子であるが、女は一日に粟一 ● 斗の運を与えた。男は日々に乞食をする貧相である、』と語ったので、寄木大 主がその理由を尋ねると、化神は『女子は産後の始末などもきれいであり、灯 火を明るく照し、生子の額に大きな鍋煤を付けてある。ところが男子の方を見 ると部屋は薄暗く、じめじめしてきたない』と訳を話してかき消すように消え た。彼の漁夫は夢のようにきいた今の話が、深く頭にしみこみ眼は次第に冴え てきた。さきの化神の話の中にあった長井の里の生子の-人は、たしかわが子 ●O●●●●●●●●@ に相違ない、『願わくば曰にアワ-斗の福徳の運を与えられた女の子であれか し』とねがいつつ、急いで帰ってみると、わが家の生子は男子であったので、 驚き悲しんだが、やがて気を取り直し、隣家を訪ねて言うよう。『こう同日に 生れるからには、定めし前世の因縁とも言うべきものがあろう。行末は必ず夫 婦にしてやろう』と固く約束して帰った。月日は重り二人が年頃になったので、 -25-

(27)

夫婦の縁を結んだ。女は生来大福の運を与えられたものであるから、次第に富 貴栄輝の家となった。或時女房は新麦の初穂の祭りに、麦を煎って粉となし、 。⑦⑤、●⑨ 麦粉を作って夫に与えたところ、『アワではなく麦粉とは何事だ』と、夫は甚 だし<腹をたて、麦粉を庭前に投げ捨て、散々に女房の悪口をした。たまりか ねた女房あきれて蔵の中に入り呆然としていると、夢現とも知れず異形のもの が現われ、『汝の夫は淫欲深きもので、別人を妻にしようと考えているから、 お前がいくら辛抱しても無駄である。これから東方にある西銘の村までいくと、 山の中に炭焼太良という有徳の者が居る。彼こそ汝が夫とすべき人であるから、 早く彼方へ行かれよ。われは天より与えられた万穀の精である。-足先に西銘 村に行って汝のくるのを待とう』と、言ったかと思うと消え失せた。女房はつ くづく考え決心がつかなかったが、間もなく夫は他の女をわが家につれこみ、 妻に乱暴を働いてとうとう追い出した。妻はやむなく隣家の友達一人を誘って 西銘の里を訪ねて行くことになった。妻に去られて以来、夫は急に貧しくなり、 家財もすべて人手にわたり、居るに家なき有様となったので、乞食におちぶれ 流浪する身となった。妻の真氏は万穀の精の導きによって、友人とともに西銘 を訪ねていくと、黄昏入相近く俄に大雨が降りだし、雷電が甚だし〈なり響い たので、近くの山の端にあるみすぼらしい草の庵に立寄って、哲ら〈雨宿りを たのんだ。主人は灯をともして奥からでてきたが、見るとひげは延び放題色は 黒く、鑑棲を着た様子は、どう見ても人間のようではない。二人は打驚いて立 去ろうとすると、男は之を止めて言うよう。『わたしは長くこの地に住む炭焼 太良という者である。さきから降り出した雨にうつらうつらしていると、白髪 の老爺が現われ、「暫くすると此処に、野崎村長井の里の真氏という女がくる、 この女は大福の者で、汝が陰徳を好む故に、天より汝の好配として与えられた 婦人である」と語って、百合の花二茎を手に授かると夢見てさめたばかりだ。 そこへ貴女がたが訪ねてきたので、何か仔細があろうと思うが、あなたはどこ の方ですか、また野崎村長丼の里の真氏という女を知らぬかと、いろいろ訪ね るので、真氏は仔細を物語り、一旦野崎に帰ったが、これが奇縁となって、炭 焼太良と夫婦になり、三男二女をもうけ、富貴栄輝の身となり、村人から嘉播 の親といわれるようになった。」(宮古島|日記による。) -26-

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宮古島の炭焼太良は、すなわち真氏の夫であるが、真氏には振分髪の夫がい

た。夫は放埒で身の運を知らず、或年新麦の初穂祭に、世の習いの麦粉の供物

を庭に投付け、女房にさんざん悪口をたたいた答で、愈々ユリ(穀霊)と云う

福神に見放され、妻は離別されて西銘の村に往ってしまい、自分は次第に零落

して、終に家々の門に立って餘りの食を乞うて命を継いだという。だとすれば

アワはもっとも重要な食物であったのに拘らず、麦も古くから栽培され、それ

は神の召し上りものであるという限りない価値をもっていたらしい。沖縄島の

おえかく 麦穂祭に(ま、次のような御崇さえ献納されている。 首里天がなし御大前、百日摸ヨカル日撰、 取合チヘアラ麦ヤガ初麦ヤノオヨヒトテ、ヲナフサトテ、手ズリヤベム、 拝レメシヨワチヘ、手ズラレメシヨワチヘテンヂ通ハシメシヨワレ、 天地通ワシメシヨワレ、ゲライ通ワシメシヨワレ、カナイ通ワシメシヨワチ へ、イツノスジヤ、玉ノスジヤ、ヲヨイトヤベム、オナフサトテド 拝ガミヤベル、デテ、」 「首里天加那志の大前に、もっとも佳麗の日を選んで折目を選んで、新麦の初 穂の御祭りを申しますから、拝み申しますから、神様何とぞ拝まれ絵うて、天 地の神々がこの願いを御ききとどけ下さいますよう、また東方におでましにな る穀の神様もおききとどけ下さいますよう、御霊威の光の御祝を賜わりますよ う拝み奉ります。」ということで、矢張神に献饒する最高のものは麦であった らしい。(琉球国由来記) 「津堅島ではアワを栽培するのに特異な方法をとっている。旧十月十三日に 畑の中の適当な場にアワの種子をばらまきにしている。この粟が一寸程伸びた ところで、一度苗床で間引を行なって、その後アワが六寸程になった旧二~三 月頃本畑にアワ苗を移植する。このとき鍬を用いて男女で畑起しを行ない、そ の後で苗の移植をすることになっている。移植法はほぼ六寸程の間隔で、二本 宛の苗を一緒に植える。このとき苗は少し向う側に倒すようにして植付け、や や大きな苗の場合には葉の上端を少し切っておく。移植後の農作業は、一回除 草を行なうが、1日二月の彼岸の頃にアワの間作として大豆を播く゜肥料は海か らウニを捕ってきて埋めこむことにしている。 -27-

参照

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