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教育実践における専門性の語りと記述と省察

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(1)Title. 教育実践における専門性の語りと記述と省察. Author(s). 宮原, 順寛. Citation. 学校臨床心理学研究 : 北海道教育大学大学院教育学研究科学校臨床心理 学専攻研究紀要, 13: 35-50. Issue Date. 2016-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7945. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 教育実践における専門性の語りと記述と省察 宮 原 順 寛. AStudyofNarrative,Description,andReflectionabout Teacher’sProfessionalExpertiseintheEducationalPractice. 国学力・学習状況調査の実施に相前後して,学力. はじめに. 向上が学校の至上命令とされているかのような語 りが多くなった.その背景としては,2000年,2003. 本論文の目的は,教師が省察的な教育実践を どのように記述し,どのように読み解けばよいの. 年,2006年,2009年,2012年,2015年に実施され た,OECD(経済協力開発機構)によるPtSA(生. か,その原理を明らかにすることである.言い替. 徒の学習到達度調査)の影群がある.. 行っていくために,教育実践をどのように語り,. えれば,教育実践において教師が発揮する専門性. 松下佳代は,これらの動きに対して,教育現場. を語りと記述と省察の相から照らし出すために,. における「評価疲れ」「徒労感」といった問題点を. その理論的な基盤となる考察を行うことが本論文 の目的である.しかし,この点に関して検討する. 挙げている(松下佳代,24頁).さらに,松下佳 代は,フィンランドの教育学者パシ・サールベル. べきことがらは多岐にわたるので,本論文におい. グが名づけた「グローバル教育改革運動(Global. てほその範囲を絞り,教育実践のエビデンスに関 する研究動向の整理,畏的諸研究と質的諸研究の. EducationalRerormMovement:GERM)」という語 を紹介している.なお,GERMには,皮肉を込. 明証性についての整理,教師自身の感情を揺さ. めて,病原菌(germ)と同じ綴りが与えられて. ぶったテーマを扱ったエピソード記述と相互作用. いるのだとされている.このGERMと連動する. 的な物語構築としてのアクティヴ・インタビュー. 動向として,松下佳代は,イギリスのブレア政権. についての考察を行うこととする.. 下において主席教育顧問を務めたマイケル・バー バーが提唱する「伝達・達成学(deliverology)」. ないしは「伝達・達成の鎖(deliverychain)」と. 1.教育実践の評価をめぐる問題. いう語句を挙げ,批判的に考察している(松下佳 代,25−31頁参照).これらの語句は,「政策決定. 本章においては,この研究の問題意識の所在を 示すために,教師の専門性を取り巻く状況を概括. のトップから現場にいたるまでの各層が,批判や. 的に描写しておきたい.そのために,グローバル. 反対意見に惑わされることなく,鎖のように固く. 教育改革運動に関する松下佳代の論考と,成果主. 結びつきながら,教育改革を推進していくべきだ」 という主張と一体をなすものであるとされる(松. 義と競争原理が学校に入ってくることによる生き づらさについての守屋浮の論考を整理する.. 下佳代,31頁).これはイギリスだけではなく, PISAに影響された日本においても例外ではない.. 1.1.教育改革の「伝達・達成の鎖」 筆者が授業研究のために訪問した北海道および. 松下佳代は,「国一都道府県一市町村一学校に築 かれた『伝達・達成の鎖』によって,よりよい評. 長崎県の小中学校では,2007年から実施された全. 価結果(学力向上)をめぐる競争が市町村・学校. ■Norihiro MtYAHARA 北海道教育大学大学院教育学研究科学校臨床心理専攻 キーワード:エビデンス,畏的研究と質的研究,エピソード記述,アクティヴ・インタビュー 35.

(3) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). レベルでも展開されることとなる」と幣鐘を鳴ら. 姿が見えなくなることを知っているはずだ.一人. している(松下佳代,39頁).. ひとりがバラバラにされ,子どもたちも教師自身. これまでも,学習指導要領や教科書検定等に. も,苦しく,生きづらくなることを知っているは. よって,教育内容についての統制が徐々に強化さ れてきた.しかしさらに,GERMの体制下では,. ずだ.」(守屋,52頁) 筆者なりに言い替えれば,これまでの日本の学. 学力調査の結果を証拠(エビデンス)として採用. 校数育は子どもの姿を見つめることを大串にして. しながら,教育方法についての画一化の管理的圧. きたのであるが,その価値観をいったん脇に閃か. 力が「伝達・達成の鎖」として高まっている.競. ねばならないくらいに学校現場が多忙さの中で追. 争的な教育効果測定方法が促進されることだけで. い詰められているということでもある.ここで守. はなく,これらを肯定的に受けとめて稀極的に参. 屋も述べているように,目標管理評価の論理に席. 加するか否かという面においても,学校内でのさ. 巻された学校数育の現場では,投資された教育費. らなる分断と対立と抑圧が発生しかねない.. に見合った成果が生み出されているかを常に問わ. 教育行政が教育方法の画一化を強要した場合に. れるかのように,教師たちは錯覚させられている.. は,親たちや子どもたちや一般の人々からだけで. しかし,成果主兼が推し進められても,その実は 「きわめて単純で冷たい人間観」(守屋,52頁). はなく,教師たち自身からも,「教師の専門性の レベルは低い」と認識されるようになる.なぜな. であるが故に,その教育的な効果は短期的表層的. ら,画一化によって,教師たちが本来個々の事例. なものに留まらざるを得ない.そこでは幸福感が. に応じて発揮するべき教育的タクトに制約を課さ. 減少し身の閃き所がなくなるにもかかわらず,ま. れ,教師が具体的な教育実践の中で教育的思慮探. すます成果(エビデンス)の検証に追い立てられ. さに某打ちされた実践を行うことができにくくな. ている構造にある.. るからである.フィールドワーク先の学校現場に. しかし,教育の成果の検証は,汽用対効果とし. おいても,「授業進度を同学年で揃えること」や「生. て示されるものばかりではない.例えば,刊行さ. 活指導の方法を教職員の間で一枚岩にすること」. れた実践記録に登場する元児童生徒たちが30歳以. といった言説が多く聞かれる.そしてもはや「揃. 上になってから個別インタビューあるいはグルー. えられない教師」や「画一化に疑問を抱く教師」. プ・インタビューを実施した村井浮志の労作であ. は,個性や多様性や異論の歓迎といった範疇で理. る 汀学力」から「意味」へ」などのように,授. 解されることはなく,同僚教師から問題視される. 業を受けた子どもたちのその彼の人生におけるそ. 状況を招いている.このような日本の教育状況で. の実践の位同と意味を調査したものもある.この. あるからこそ,教育実践における「証拠(エビデ. ような例示から,授業の価値を検証する方法が学. ンス)」や「客観性」を孜々はどのように理解す. 力テストだけではないということは見出すことが. るべきかを検討する必要がある.言い替えれば,. できるだろう.. 授業づくりや学級づくりや学校づくりの「成功」 や「失敗」をどのような基準と枠組みで語るのか という問いである.. 2.教育実践研究におけるエビデンス 本草においては,先述したグローバル教育改革. 1.2.成果主義の錯覚 守屋浮は,アメとムチで競争させて点数を上げ. 運動の中で改革の指標として用いられているエビ. させようとする成果主義と競争原理が入り込んだ 教師の世界を憂いつつ,次のように述べている.. デンスについて,医学におけるエビデンスと対照 しつつ,教育学研究者たちの知見を整理しながら, 統計的評価の特性を踏まえて検討する.. 「いつも子どもたちのそばにいて,子どもたちか ら学び続ける教師は,そんな人間観が間違ってい ることを,身体でわかっているほずだ.そんな人. 2.1.医学におけるエビデンス ここで本論文の前半において検討する教育実践. 間観に従おうとすると,いとおしい子どもたちの 36.

(4) 教育実践における専門性の語りと記述と省察 のエビデンスと,医学分野での「科学的根拠に基. 固有構造(p負dagogischeEigenstruktur)』や教育. づいた医学」(Evidence−Based Medicine:EBM). 的内実を踏まえたものになっていないことも危供. との区別をしておかなければならないだろう.. されるのである.こうした事態に対応するために. 津田敏秀によれば,1992年にアメリカ医師会雑. も,これまでの教育の方法と技術に関する原理や. 誌に掲載されたEBMに関する論文が臨床研究と. 原則を継承していく学問的な営みが,ますます大. 医学研究の方向を決定づけるまでは,疫学的な根. 切になるのである.歴史に学ぶことのない教育の. 拠をもった医学研究は必ずしも全ての医師の判断. 『方法と技術』の開発は,思慮深さに欠けた教育. 根拠ではなかった(津田,36頁).それまでの医. 実践を生み出すだけのものになってしまうからで. 学的根拠は,①医師個人の思いつきや経験の蓄積. ある.」(深澤,19頁). による派,②実験的探究による病因のメカニズム. ここに示されたように,「教育学的な固有構造」. 解明派,③疫学的統計派,への支持が分かれてい. を踏まえた教育実践の評価が求められる.例えば,. たと津田は言う.なお,津田の論考は,上記③を. 教育実践と教育学が求めるところは指導者による. 推進し,②の立場を批判する立場にある.つまり,. 思慮深い働きかけの中での学習者の主体の発動で. 公害病や胃棉の原因が実験によって特定されるこ. あるという教育学に固有の視点を堅持することで,. とを待つまでもなく,疫学的統計によって対策を. 困難な状況においても多様で個性的な教育的タク. 始めるべきであるという主張である.. トを発揮することができる.その一例として,理. ここで留意しなければならないのは,医学に. 科の実験でフラスコを落として割ってしまった子. とっての患者の生存や健康という指標ほどには,. どもに対する対応の事例を挙げながら,探滞は次. 教育実践の効果の指標は一義的に定められるもの. のように述べている.「ここで重要なことは,ど. ではないということである.もちろん,「どのよ. の対応をする教師が㌻よい教師』なのかではない.. うな生存か」「健康とは何を指すのか」といった. どのように対応しても,その背景には,その教師. 問いについても,各人の憑見は異なることがある.. なりの思いや考えが作用しているということであ. しかし,それ以上に,「学校数育は何のためにあ. る.その教師の『思想の全体』を作り上げている. るのか」「学びとは何か」「それはどのようなとき. 定理や命題の体系として,その教師なりの r教育. に成立したと言えるのか」といった問いは,論者. 学』が働いているということである.その『教育. の立場によって異なる結論に導かれることがより. 学Jをヘルパルトは『学問としての教育学』にま. 多いだろう.したがって,医学におけるエビデン. で高めることで,思膚深い教師になることを求め. スの議論の展開について知りつつも,これと理路. るのである.」(深澤,14頁). を異にする教育実践と教育学のためのエビデンス. その教師なりの思いや考えがあればよいという. の議論が必要となる.. ことではなくて,また既成の教育学が教育実践に 適用されればよいのでもなくて,その教師が学ん. 2.2.教育学とエビデンス. で体験して形成してきた教育実践と教育学の体系. 探揮広明は,教育実践と教育学のためのエビデ. を,教育学的思慮探さとして語り,記述し,省察. ンスに関わって,次のように述べている.「いつ. することが,困難な教育的状況のなかでこそ求め. の時代においても,教育の方法や技術の掟唱は,. られているのである.. より効果的であることを謳い文句になされること 2.3.近代科学的エビデンスと生活世界的エビデ. が多い.教育は,もともと時代を切り開く側面が あり,その先端を担う教育の方法や技術は,一見, それが時代のニーズに合っており成果が実証され. ンス. 日本教育学会は,紀要『教育学研究』第82巻第 2号(2015年6月号)において「教育研究にとって. ているかのようにふるまう.しかし,その実態は. のエビデンス」という特集を組み,このテーマで. ㌃エビデンス欠如』と指摘されるように,科学的 で継続的なデータに支えられていることが意外と. 9本の論文を掲載している.本節と次節では本論. 少ない.さらにいえば,その効果が『教育学的な. 文に関連が深い2つの論文に焦点をあてて,教育 37.

(5) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). 実践の研究に関するエビデンスの位置と課題につ. 11頁参照).この独断論に関しては,本論文の第3. いて整理する.. 章第4節において再び検討を行いたい.. 今井康雄は,哲学の領域における「明証性」 2.4.目標に対する手段の適否判断のためのエビ. (self−eVidence)とエビデンスとの関連を示して. デンス. いる(今井,9頁).その上で,「エビデンスとし. 松下良平は,教育のエビデンスを「教育目標を. て受け入れられたものには,『それを信じるのに 何の根拠も必要ない』というお墨付きが与えられ. 実現するための方策(教育計画から教育方法まで). を設定したり評価したりする際の客観的な根拠」. る」(今井,9頁)という捉え方になりがちな点を 批判的に検討している.今井は,このことを,「エ. (松下良平,16頁)として捉えている.その上で, 「エビデンスは,理論(科学的仮説)を検証・反. ビデンスは,それがエビデンスであることによっ てではなく,それがエビデンスと呼ばれることに. 証するためのデータではなく,目標に対する手段. よって威力を発揮している」(今井,5頁)とも表. の適否を判断するための材料である」(松下良平,. 現している.. 23頁)としている.筆者の理解では,反証可能性. また,今井は次のように述べている.「エビデ. の有撫はある言説が科学的イ反説であるか疑似科学. ンス指向の教育学が応答責任を支えられないのは,. であるかの指標のひとつとされることが多いのだ. 学習の経験という途中経過をブラックボックス化. が,教育目標の真偽判定には教育のエビデンスは. し,もっぱら学習の帰結からエビデンスを採取し. 用いられていないということになる.そのために,. ようとしているからだ.これはおそらく偶然では. 「エビデンスを必要とする研究は,研究者共同体. ない.生活経験から離れたところでこそエビデン. よりも目標を設定した集団に従い,クライエント. スが得られるという,近代科学の思想に由来する. やカスタマー等のステイクホルダーに奉仕する」. 方法論的前提が,学習の経験への通路を構造的に. (松下良平,23頁)と松下良平は指弾するのであ. 妨げているのである.」(今井,10頁)つまり,成. る,. 果主義に根ざすエビデンス評価は,その構造から. なお,松下良平は,「エビデンスに基づく教育. 必然的に生活経験に根ざそうとする教育実践の評. の適否についてエビデンスに基づいて決着をつけ. 価と相容れないのである.. るのは不可能」(松下良平,25頁)だと断じている.. 応答責任と説明責任に関わって,今井は,「エ ビデンスは,近代科学的なエビデンス(証拠・論. その上で,「エビデンスに基づく教育を評価する. 拠)の方向と,生酒世界的なエビデンス(明証性). 拠するしかない」(松下良平,23頁)としている.. ためには,全体論的で解釈学的なアプローチに依. の方向へと,言わば引き裂かれている」(今井,11. これらの松下良平の主張を,本論文の筆者は以. 頁)と述べている.今井は,前者の近代科学的な. 下のように理解する.エビデンスに基づく教育実. エビデンス(証拠・論拠)の方向については「教. 践の評価は,目標と効果との関係を問うのみであ. 育が公共的活動として存続する上で不可欠」と一. り,目標設定そのものの良し悪しを批判検討する. 定の位置づけを与えながらも,「学習の経験は,. ことはない.このため,むしろ目標設定者の意図. その帰結によって測ることはできず,過程を意味 づける個別的な応答頁任によってしか把握できな. を常に擁護するものとなってしまう.これは,組 織学習論の術語に置き換えて述べれば,判定基準. い」(今井,11頁)と述べ,生活世界的なエビデ. を絶対視して達成度を測るシングルループ学習で. ンス(明証性)の方向を乗祝している.. あって,判定基準そのものをも問い直そうとする. ただし,今井は,近代科学的エビデンスによら. ダブルループ学習ではない.教育のエビデンスは. ない評価を丸ごと肯定しているのではない.教育. 極めて政治的で社会的なものであるにもかかわら. 実践が独断論に陥りやすいということについて指. ず,その評価基準自体の評価や修正に関しては限. 摘するとともに,学校数育が人為的で近代的な制. られた目標設定者以外の参加が見込まれていない. 度であるために生活世界的なエビデンスに直結し. のである.. ていないことについて注意を喚起している(今井, 38.

(6) 教育実践における専門性の語りと記述と省察 2.5.統計的評価の自己立証的性格 エビデンスの議論は, これまでの教育評価の文. あり,他ならないこのパラダイムを選んでいるこ. 脈で言うと,何を測っているのか,そして,それ. がって,今日の学力テストの状況は,中立的な正. と自体が政治的で社会的な決断なのである.した. は測り得るものなのか,さらに,測ったものをど. しい方式で学力を測定して分析しているというわ. う示すのか(目標準拠か集団準拠か)といった議. けではないのである.しかし,エビデンスという. 論に相当する.それでは,そもそも教育評価に統. 位置づけでこれらの学力テストが用いられている. 計的な手法を用いることは正しいあるいは最良の. ところでは,先に引用した今井が述べているよう. 方法と言えるのであろうか.. に,あたかも正しい評価をしたかのような「お墨. イアン・ハッキングは,統計的手法がどのよう. 付き」効果が与えられてしまうのである.. な発見の経緯によるものなのかについての歴史的 で哲学的な考察を行っている.本節と次節では,. 2.6.統計的評価のフィードバック効果 もう少しハッキングの議論を学力調査と教師の. ハッキングの考察に依拠しながら,学力計測とそ の統計的推論の意味について検討する.. 専門職性の話題に結びつけた考察を続けよう.. ハッキングは「推論のスタイルというものは奇. ハッキングは,「人間現象」や「社会現象」に. 妙にも自己立証的self−authenticatingだ」(ハッ. 対する統計的推論の適用に際して「数字化し分類. キング,10頁)と言う,「命題は,その値が真で. することで,逸脱した一部の集団を改良(統制). あることを決定する助けとなるような推論や考察. できるという発想がこの一見価値中立的な発想の. のある種のスタイルがなかったならば,真偽を決. 起源にあったことに注意すべきである」(ハッキ. 定することができない.ある命題が何を意味して. ング,6頁)と指摘してる.と言うのも,以下に. いるのかは,我々がその命題を真と判定するよう. 示すハッキングの論考で指摘されているように,. な方法に依存しているのである.」このことを,. 多くの人間には正常の範囲に収まるように振る舞. 方法の側から言うと,次のようになる.「我々は. いたがる傾向があるからである.. あるスタイルを,命題の真偽を見出す最良の方法. 「人々は,もしもそのような法則の中心付近に. として正当化することはできない.なぜなら命題. いる傾向を持つなら自分が正常normalであり,. の意味そのものが,その真偽を決定する推論のス. 極端にはずれるならばそれは病理的pathological. タイルに依存しているのだから.」(ハッキング,. であると考えた.病理的でありたいと考える人は. 10頁). ほとんどいないから,『我々の大多数』は自分を. つまり,統計的な推論が最良のものであるかど. 正常にしようとし,こうした試みが逆に,何が正. うかは自己立証的であるが故に,つまり,統計的. 常であるかに影響を与える.原子にはそういうこ. な思考枠組みの中でその良し悪しを検討すること. とはない.人間科学は,物理学には存在しないよ. そのものがひとつのパラダイムであるが故に,そ. うなフィードバック効果を見せるのである.」. のパラダイムを超えてその手法が最良かどうかを. (ハッキング,4−5頁). 判断することはできないとハッキングは言うので. 上記の論考で述べられているのは一般的な事例. ある.言い替えれば,もともとの思考枠組みが異. であるので,このことが学力調査や教師の専門性. なるもの同士を比較することはできないという科. に関して語られる際には少し注釈を施さなければ. 学哲学上の課題に到達する.証拠を示す手続きの. ならない.都道府県や市町村の教育行政関係者の. 方法とどのような価値を目指すかという方向性と. 発言を見ても,学力調査においては,正常の範囲. が組み合わされてパラダイムを形成しているので. を日精すというよりも,平均値以上でなければな. ある.この点は,先に検討した松下良平の指摘と. らないという囚われや,でき得るならば成耗上位. も符合する.. に位置したいという願望が働いている.そもそも. したがって,今日使われている内容の学力テス. 平均点を評価基準とした序列を公表する調査が政. トを用いて今日公表されているような平均値順位. 策評価とその結果(エビデンス)の報道としてな. での競争を行うこと自体がひとつのパラダイムで. されている場では,例えば「平均点以下でよい」 39.

(7) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). 3.圭的研究と質的研究の対立図式の克服. という意見は,胸中に持っていたとしても公には 表明しにくいものである.その意味では,「平均 点以上を求める」発言は,このような教育政策評. 本章においては,景的な研究と質的な研究とを. 価の推論のスタイルとして,「自分を正常にしよ. 対立的なものとして捉えない視点を基盤としなが. う」とする試みの亜種であると言えよう.ともあ. ら,客観的か主観的かという対立の克服の試論に. れ,そのように評価対象者に「あるべき」像を胸. ついて触れる.その際,自然科学においてもデー. 中に抱かせてその方向に自ら邁進させる機能が統. タを集積しただけでは理論とはならないという主. 計調査に備わっているという点では,ハッキング. 張や,社会科学においても当事者に接近しただけ. の指摘は学力調査についても当てはまるのではな. では有用な知見を得ることはできないという主張 を踏まえて,研究仮説を持った研究者の役割が重. いだろうか.. 要なものとなることを示す.. そして,「正常」の意味合いが測定され統計的 に示されることによって変化するということに留. 3∴ エビデンスとナラティブとの関係. 意しなければならない.これは,何が教師として よいことなのか,どのような授業がよい授業なの. 奥野雅子は,景的研究と質的研究を連続したも. か,その基準となるものの見方考え方に関わるこ. のとして捉えている.奥野は,先行研究を整理し. とである.学力に関する統計を取って政策評価の. ながら,「客観的に実証された根拠」としての「エ. 証拠(エビデンス)にしようとした時点で,どの. ビデンス」の強さを7段階に分けている.その内. ようなものを「正常」と見撤すのかというものの. のエビデンスが最も弱い第1レベルの「症例報告. 見方の方向性が決められていたということなので. /事例研究」を質的研究として位置づけ,第3レ ベルの「ケース・コントロール・スタディ」以上. ある.つまり,まったく中立的に学力調査が行わ れているというのではなくて,統計的な学力調査. を畏的研究としている.また,両者の間に位問す. を行うということ自体に,既にものの見方考え方. る第2レベル「ケースシリーズ」を「両方の要素. の転換が含まれているのである.教師の専門性の. が混在する」「エビデンスが少ない罷的研究」「質. 調査やその育成を子どもたちの育ちの姿や学校内. 的研究のひとつ」としても捉えている(奥野,69−71. 部の相互評価によってではなく統計的な外的評価. 頁参照).. によって行うという発想そのものが,その結果の. その上で,奥野は,「得られたデータ自体が純. 如何を待たずして既に路線の変更であったのであ. 粋に客観的なものではなく,人間の知覚という主. る.このようにして,統計的な外的評価の向上に. 観的フィルターにかけられた後のもの」として捉. 意を砕く「正常」な教師たちが生み出される.. え,「景的研究の結果であるエビデンスが100パー セント客観的であるかというと,100パーセント. さらに,逆説的な表現となるが,平均以上の教 師を求める発想は,平均以下の能力水準の教師が. という数値はありえない」(奥野,72頁)と主張. 半数程度いることを前提としていることに気づか. する.その上で,奥野は,「質的研究と昂的研究. なければならない.あるいは,平均以上の学力を. という両方の研究を円環的流れの中で捉えること. 求める発想は,子どもたちの半数程度は平均に満. で,個別性と普遍性の両眼視ができるようになる」 (奥野,72頁)として,「これまで対立概念とさ. たない成績であることを前提としていることに気. れてきたナラティプとエビデンスに連続性を見出. づかなければならない.そして,これらのことを 突き詰めれば,真・善・美を相対化する非決定論. し,時間軸のなかで交互に連鎖をなす階型的構造. としての統計的推論は,価備中立を装いながら. として捉えること」(奥野,76頁)を提案している.. データ提供者に対して全体の中でのその者の相対. このように,景的研究と質的研究とを連続的な. 的な位置取りとそれにふさわしい振る舞いを教え. ものとして捉えようとする発想は,本論文の筆者. るという点で,各人の内面に住まう官僚主義的傾. が追究する立ち位置とも重なるものである.単に. 向との相性が高いということになる.. 景的な研究と質的な研究のそれぞれの欠陥を埋め 合おうという発想ではなくて,後の第4章におい 40.

(8) 教育実践における専門性の語I)と記述と省察. て示す鯨岡の明証性の議論のように,客観とは何. 3.2.「暗黙知」における二項関係克服の視点 省察的実践家について述べる際にしばしば言及. かという地点にまで遡って検討する際には,両者. されるマイケル・ポラニーの「暗黙知」の捉え方 について,二項対立図式の克服の方向で読むべき. の連続性に行きつくのである.ただし,連続性は 同一性ではない. 客観性に関わって,池田喬は,次のように述べ. であると主張する論考がある.立山善康は,「暗. ている.「そもそも客観性が求められるのは,研. 黙知は,客観的かさもなければ主観的かという二. 究によって得られる知識は人間の体験を 〈現実〉. 項対立を超えたものである」という把擦のもとに,. に対応した仕方で説明すべしという要求ゆえであ. 次のように述べている.「ポラニーの独創性は,. る.そうだとすると,体験の連鎖の中で証拠を発. 単に語りえない知というものの存在を指摘したこ. 見していく日常生活者の言草もまた,人間の体験. とだけではなく,あらゆる言語的知識には,かな. を 〈現実〉 に対応した仕方で説明するという要求. らずしも言語化されない個々人の知ることの働き. に応えている.いやむしろ,〈現実〉 に体験され. が不可欠であることを指摘した点にあると考えな. る通りに体験を説明するという点では優れている. ければならない.」(立山,175−176頁)つまり,. ようにさえ思える.」(池田,122頁)この主張に. 人間の知の在り方というものは,個々の人間など. 際して池田が参照しているのは,統合失調症の認. からは遠く離れた真理真実をわずかばかり垣間見. 知神経科学者であるフリスの「精神病の症状は,. るような客体的なものではなくて,より主体的で. 客観的に測定できる障害ではなく,声が聞こえる. 個性的なものだと言えよう.立山によれば,ポラ. とか,自分の行動が外部の力に支配されていると. ニーは,「真の科学的知識はいっさい個人的なも. 信じるような主観的な体験である」という叙述で. のを含まず,純粋なデータだけから自ずと生じる. ある.その上で,池田は,「体験の当事者たちが. ものであるという思い込み」をしていることを批. 現実の実践の中から語り出している体験理解の網. 判している.むしろ,「知識の成立にはかならず. の目を,客観化が締め出してしまうとしたら,体. 個人的なものが含まれており,また,それなしに. 験の研究としては一面的なものになってしまう」. は知識は成り立たない」という立場をポラニーは 取っていると言う(立山,178頁).. (池田,122貫)と主張する. つまり,この点において,学問的な要求に従っ. そうだとすれば,教師の知,あるいは,教職の. て記述するということと客観的に測定するという. 専門性についても,再考が迫られる.教職の専門. こととの関係を同一視しないことが求められるの. 性とは,その全てを「誰にでもできる」模倣可能. である.先に示したように,自然科学的な証拠と. な技術(テクニック)の体系と見倣してしまうこ. してのエビデンスを求める発想は,池田が言うよ. とではなくて,一部に「誰にでもはできない」技. うに「研究によって得られる知識は人間の体験を. 術(アート)が含まれることを承認することから. 〈現実〉に対応した仕方で説明すべしという要求」. 始められるべきである.「誰にでもできる」模倣. に叶う手段であったはずのものが,転倒されて目. 可能な技術体系を主張するということは,主語が. 的化したものである.したがって,自然科学的な. 他の誰かに入れ替わっても作動する方法を唱える. エビデンスで人間の行為を説明し尽くそうという. ことである.このことによって,代替可能な,つ. 目論見ではその要求に応えられない.また,自然. まり,誰にでもできるはずの目標を定められて,. 科学における客観的説明と精神科学(人文社会科. それができないことはその教師個人の責任である. 学)における解釈学的理解とを共訳不可能なパラ. という論理を招くことになる.教師の能力を標準. ダイムとして対照してしまうことでも,やはりそ. 化しようとする動きにおいて苧苧成しなくてはなら. の要求に応えられない.そうではなくて,学問的. ないのは,基準に合致するよい教師とそうでない. 要請を満たすための研究活動という次元での共通. 教師とを区別することによって,代背可能性を高. 性と,その明証性や了解を得る方法の連続性のあ. めようとすることである.代替可能性を高めるこ. る違いとして捉える必要がある.. とと,思慮深い教師を養成しようとすることとは, 同じ方向にはない. 41.

(9) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). まさに立山が暗黙知の考察において指摘したよ. 別にはならないことを主張している.すなわち,. うに,個人的な「知ること」の働きかけがないま. 米盛によれば,「万有引力の法則は観察事実から. までは「知られたもの」を我がものとすることは できないのである.言い替えれば,ヘルパルトが. 帰納的一般化によって導かれたものではなく,観. 教育学理論と教育実践の喋介項としての教育的タ. の」(米盛,38頁)である.つまり,「諸物体の落. クトを必要としたことを今日の視点から意味づけ. 下の現象をどれだけ周到に観察し一般化してみて. 直すとすれば,知識と暗黙知との関係を対立項と. も,創造的想像力,仮説的思惟の働かないところ. 察事実を説明するために創案され発明されたも. してではなく,「知られたもの」と「知ること」. では,席接には観察不可能な『引力』という理論. の関係,つまり,先に引用した「言語化されない. 的イ反説的対象というものを考えつくことはできな. 個々人の知ることの働き」として捉える必要が生. い」と米盛は言うのだ.このことについて,アイ. まれるだろう.. ンシュタインの言葉を借りて,「経験をい. くら集. めても理論は生まれない」と米盛は指摘している 3.3.経験をいくら集めても理論は生まれない. (米盛,38∼39頁参照). この米盛の論考を通じても,罷的研究と質的研. 本論文の筆者が勤務する学校臨床心理専攻の大 学院生に対する修士論文指導に際して,院生たち. 究の間には研究方法論上の共通する課題を抱えて. から時折寄せられる研究方法論上の質問に,「イ. いるということが見えてくる.景的なデータから. ンタビュー協力者の選定は何人ならば充分なの. は直接には生み出されない創造的想像力や仮説的. か」というものがある.この間いそのものが,果. 思惟といったものを必要とするという意味では,. 的研究を中心としたこれまでのパラダイム(知の. 景的研究と質的研究とは軌を一にしている.. 枠組み)の発想に呑み込まれていると言ってよい だろう.つまり,掛け替えのないこの体験につい. 3.4.当事者研究における誤ったモデル. ての語りを,他ならぬこの人物から,他ならぬ私. ー方で,質的研究には,自然科学の研究対象に. が聴き取りたいからこそインタビューをするのだ. 対する景的な研究とは異なる問題も存在する.. という発想ではなくて,知らず知らずのうちに景. 先に第2章第3節において検討した今井が指摘す. 的なあるいは自然科学的な研究として成立させる. る独断論に関連する議論が,当事者研究と言われ. ための手続きを求めてしまうのである.そこでは,. る質的研究領域の中では,次のような展開を見せ. 自分にとって研究したいテーマと研究方法とが乗. ている.. 離しているのである.. 宮内洋は,「〈当事者〉 をめぐる間違った前提」 あるいは「誤解」の例として,次のようなものを. なお,罠的研究として学校数育実践についての アンケート調査を実施する際に,地域や性別や年. 挙げている(宮内,183−184頁).すなわち,「〈当. 齢(経験年数)等に偏りがないようにするために. 事者〉 に近づけば近づくほど,当該の問題に関す. は,全数調査あるいは無作為抽出法等を行わなけ. る多くの情報が存在し,より多くの情報にアクセ. ればならない.そのために,一定の誤差の幅を設. スできる」,「〈当事者〉が保持する情報の罷は当. 定して理論上それに収まるようにサンプル数の統. 該問題に関する情報の昇に等しい,もしくはそれ. 計学的な算出を行う方法は存在する.また一方で,. に近い」,「〈当事者〉 が保持している情報の果と. 質的研究としてグラウンデッド・セオリー・アプ. 他者に対して伝達される情報の景は等しい,もし. ローチ(GTA)などで言うところの理論的飽和. くはそれに近い」,といった誤解である.とりわ. に至るまでインタビューを行うという手法が提唱. け3番目の誤解に関しては,当事者であっても研. されてもいる.しかしながら,ここで問われてい. 究者が必要とするデータを全て語ることができる. るのは,データの集め方ではなくて,「必要なデー. わけではないことについて,宮内は留意を促して. タを集めれば研究になる」という研究観である.. いる.. このことについて,米盛裕二による次の論考で. つまり,本研究に引きつけて言うと,物理的に. は,物理学を例にして,観察事実を帰納しても法. 子どもの近くにいる教師が子どもに関する生活世 42.

(10) 教育実践における専門性の語りと記述と省察 界的エビデンスを得ているとは必ずしも言えない. 語ること自体が恐ろしく感じられるであろう.だ. し,豊かな実践をする教師に丁寧にインタビュー. から,当事者のインタビューにおいては,研究仮. をしたとしても必ずしもその技術体系や教育思想 が明らかになるわけではないということである.. 説を持った研究者の役割が重要なものとなるので ある.. 当該の実践を行った教師をインタビュー協力者. 石原孝二は,当事者研究という営みが,体験を 持つ者と持たない者との相互の歩み寄りを前提に. (インタビュイー)としてインタビューを行うイ. していることについて,次のように述べている.. ンタビュアーは,貯蔵庫から無垢の情報を混じり 気なく取り出そうとするようなやり方では,当事. 「当事者研究は,当事者が,自らの体験や困難,. 者の語りから教育的思慮深さの考察を得ることは. 問題を,それらを共有する仲間と共に研究する営. できないのである.この点については,第4準第2. みであると同時に,それらを共有しない人に対し. 項において,インタビューの共同制作という観点. て語り出すという営みでもある.当事者の側は,. からさらに考察する.. 自らの体験を可能な限り細部へと分節し,読者に 理解可能な,共有可能な言葉で語ることによって, 読者の経験に歩み寄る.読者の側は,自らの体験. 3.5.研究の共同性 21世紀初頭の当事者運動において掲げられてき. を可能な限り細部へと分節し,自らの体験のリ. た「私のことは,私がいちばんよく知っている」「私. ソースの中から,当事者の体験の細部と照合可能. が何者であるか,私が何を行うかは,私が決める」. なものを見つけ出すという努力を求められる.」. (熊谷,218頁)という標語について,熊谷晋一. (石原,51頁) ここで石原は当事者と読者に分けて考察してい. 郎は,「私は,私のことをよく知らない」「私が何 者であるか,私が何を行うかを,仲間と共に探る」. るが,教育実践に関するインタビューでの語りを 他の多くの読者に分かち伝える際には,インタ. (熊谷,219頁)への変更を求めている.それは 次のような理由からである.「当事者ニーズを踏. ビュアーという媒介者が介在する.その場合には,. まえた支授を,とよく言われる.しかしニーズと. 上記で石原が示した「読者」は,「インタビュアー. は,いつでも当事者にとって自明なわけではない.. と読者」に置き換えて読み取られなければならな. 『ああいう状態になりたいJrこういう行為を行. い.次章においては,これらの考察を踏まえつつ,. いたい』という形でニーズが表明されるためには,. 質的研究の研究手法と研究方法論について検討を 深めたい.. 『その状態や行為を選択すると,自己身体や世界 にどのような帰結が訪れるか』について,ある程. 4.エピソード記述とアクティヴ・インタ. 度の予想が成り立っている必要がある.」(熊谷,. ビュー. 219頁)しかし,その予想を当事者が立てられる とは限らないのである. ここに記されたことを,教育実践に関するイン タビューを用いた研究に置き換えて考察すれば,. 本章では,質的研究の研究観をよく示す研究方 法論として,エピソード記述とアクティヴ・イン. 次のようになる.教育実践の当事者にとって語り. タビューを採り上げる.まず,エピソード記述に. たいことが明らかである場合もあるが,そうでな. おける明証性が自然科学における明証性とはどの. い場合もある.研究者から見て卓越した子ども理. ように異なるかについて整理する.次に,アクティ ヴ・インタビューにおけるインタビュアーとイン. 解の上に示された専門性の高い教育的タクトとし て観察されるような実践であっても,教育実践の. タビュイーの関係性,および,分析の目的に対す. 当事者の側では当たり前の日常的な活動だと位置. る変更の要請について整理する.これらを承けて,. づけてしまうことによって語ることを臆すること. ここで得られた共同制作としての実践分析の視点. もある.特にそのインタビューに回答することで. が,実践記録のカンファレンスにおける「聞きこ. 自分自身や自分を取り巻く世界にどのような変容. み」と呼ばれる活動においても見られることを示. が訪れるかの予想が成り立っていないときには,. す.最後に,「教師の心を揺さぶった体験」と「相 43.

(11) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). 互作用的な物語構築」とを関連づけたインタ. 拠は,因果律でいう原因ではなく,A君の行動の. ビュー・エピソード記述について四象限の図とし. 根源であり,いってみればA君の行動原理である,. て整理しながら考察する.. 一層正確に言えば,A君がそのように行動せざる. 4.1.エピソード記述にとっての明証性. 行動を惹起している一種の可能性の条件である.」. を得なくなっている由来であり,A君にそうした 鯨岡は,明証性の論じ方には2柿類があると言. (田端,191頁)この田端の論考において,原田. う.すなわち,人間の主観を超えた客観的な立場. と結果との直線的な短絡ではなくて,「行動の根. や視点という意味での「超越的な立場や視点」を. 源」の「由来」や「可能性」を理解することが求. 根拠にして明証性を主張する行動科学や自然科学. められていることに留意したい.さらに言えば,. の論じ方か,あるいは「万人にとって信憑するに. 結果から算出されるエビデンスとしての根拠では. 足る」から明証的だという論じ方か,そのいずれ. なくて,状況的で過程的な「根拠(Grund)」が. かであると言うのである(鯨岡,163−164頁参照).. 求められているのである.. その上で,鯨岡は,後者の「万人にとって信憑す. さて,再び鯨岡によれば,いったん分離して考. るに足る」という道を選ぶことを宣言している.. えた行動科学についての明証性について,次のよ. そして,信憑性の得方について,鯨岡は次のよう. うに述べられている.「実は行動科学の認識も,. に述べる.「私の場合,一挙に可能的なr万人にとっ. 実際には同じ研究者仲間の了解可能性を無視して. てj ではなく,まずは r私にとって信憑するに足. は成り立ち得ません.研究者としては論文を弄い. る』から出発」するとしている.それから「多く の人にとって信憑するに足る」を経て,「万人に. た時点で,エビデンスに基づいて苦いた論文だか ら得た認識は明証的だと信じて再くのでしょうが,. とって信憑するに足る」という段階が構想されて. 場合によっては査読者によって了解可能ではない. いる.ただし,鯨岡は,この最後の段階について. とはじかれる可能性があり得るからです.」(鯨岡,. は「あくまでも理念的,究極的なかたち」である. 165頁). としている.なぜなら,「私が主体であることの. この指摘は,鯨岡が現象学の知見を基盤にしな. 固有性を手放さない中でなされる私の研究は,私. がらエピソード記述の研究方法論を展開している. を一挙に純粋な認識主観とみなすことなど到底で. ことを踏まえると,次のように理解することがで. きない」からであると鯨岡は述べている(鯨岡,. きる.すなわち,絶対的で客観的な真理を私たち 人間は直接に確かめることはできないが,他者の. 164頁参照). 本論文は基本的にこの鯨岡の立場を支持するも. 意見を取り入れることも含めて,自らの主観に与. のである.なお,付言すれば,この引用文中の「多. えられる確からしさを砕かめることができ,その. くの人にとって」という表現については,「私」. 確からしさには客観性や妥当性の「私」にとって. の周囲で「私」と文化を共有して共に生きる「多. の漉さ薄さの価値づけをすることはできる.その. くの人にとって」と捉えることによって,「万人. 意味では,自然科学が現在私たちに提示している. にとって」という表現との差異を見出すことがで. 法則性の多くは,自然科学者の研究共同体におい. きる.つまり,「他の多くの人にとって」とは,. て了解可能性がまず確かめられ,その後に,一般. 解釈学の表現を使うならば,「地平の融合」の接. の生活者にも確からしさが濃いものとして共通了. 点を見出すことであると言えるだろう.. 解が可能なものとなり,いわゆる「客観的」なも. ここで,鯨岡の「他の多くの人にとって信憑す. のとして認識されるものである(竹田,195−197. るに足る」と判断するところについて,田端傑人. 頁参照).. の論考を引用しながら補っておきたい.田端は, 感情を爆発させて教室を飛び出すA君の行動の. 4.2.研究観としてのアクティヴ・インタビュー ホルスタインとグブリアムは,「インタビュー. 「根拠(GrしInd)」がわかったと思われたときに, A君についての理解を広げていく作業に一応の終. の目的は物語を生み出す力に刺激を与えることで. 止符を打つことができると言う.「この場合の根. ある」(ホルスタインほか,70頁)と述べている, 44.

(12) 教育実践における専門性の語りと記述と省察 言い替えれば,「回答者はその場の状況において,. 互行為に依存しているのである.社会的に構築さ. インタビュアーに助けられながら,アクティヴに. れた意味は不可避に協同的なものである以上,歪. 意味を構築している」(ホルスタインほか,79頁). 曲と考えられる要素を相互行為から取り除くこと. ということである.ホルスタインらは,これまで. は,おおよそ実質的に不可能なのである.インタ. の標準的なインタビュー手法は,「いつでもどこ. ビューの参加者はみな,悪味構築に不可避的に巻. でも同じ回答を引き出すこと」や「『正しい止回. き込まれている.」(ホルスタインほか,54頁) このような,インタビューの捉え方によって,. 答を引き出」すことを求めて(ホルスタインほか, 32頁),「中立的で情を交えない刺激以外のものを. 教育実践に関するインタビューのデータを,実践. すべて,インタビューから取り去ろうと」してい. の結果を直接に反映したエビデンスとして矯小化. たと批判する(ホルスタインほか,104頁).この. してしまうことなく,実践の過程そのものとは異. 考え方は,ホルスタインらが批判する見方を授用. なる共同制作の物語作品として,位碍づけること. すれば,「回答者の話は,固定された情報の貯蔵. ができるのである.一回性の教育実践は,ひとつ. 庫からもたらされた現実の報告のコレクション」. の出来事であっても,複数の観点から多病的で複. (ホルスタインほか,200頁)であると捉えてい. 合的で複雑な物語として描き出すことが可能とな る.このような羅生門的アプローチとも呼ばれる. るに等しい. これに対し,ホルスタインらは,「自覚的にア クティヴであろうとするインタビュアーは回答者. 教育実践への接近方法を踏まえて,教育実践研究 においてもインタビューの在り方が問い直されな. が調査の対象となる問題に本腰で取り組めるよう. くてはならない.. に,物語を話す時の立場や語りのリソース,そし て,回答者が取るべき方向づけや,この間題の前. 4.3.実践記辞の「聞きこみ」とアクティヴ・イ ンタビュー. 例などを示したり,ときには提案さえすることも. 前節はインタビューに関する考察であったが,. ある」としている(ホルスタインほか,104頁). このように構築主兼的な知の捉え方の上に立つこ. このことは教育実践記録の分析的な読み取りにお. とによって,インタビューにおけるインタビュ. いても該当する.. アーのインタビュイーへの関わりの捉え方は劇的. 白石陽一は,実践記録をその著者も交えて集団 で検討する際の「聞きこみ」という手法について,. に変化する.. 次のように述べている.「実践記録を読むときに. これを承けて,インタビューを用いた研究にお ける分析の目的についても,次のように変更を要. もっとも重要なことは,F聞きこみ』なのである.. 請される.すなわち,「分析の目的は,たんに状. 当時の状況はどうであったのか,子どもの発達課. 況づけられた語りの産出を記述することではなく,. 題はどこにあったのか,学校での共同体制はどの. 語られていることがどのようにして研究対象であ る経験や生活と関わっているのかを示すこと」(ホ. 程度取り付けることができたのか,など,実践者 が苦いた物語のなかに 叩民っているものJ,『いま. ルスタインほか,200頁)として設定されること. だ言語化されていないもの』を汲みあげていかね. となる.. ばならない.このような過程を経て,『だれが,. ここで留意したいのは,ホルスタインらの提起. どのように成長した」物語か,『別の可能性もあ. は,アクティヴ・インタビューとそうでないイン. りえたのではないか』,といった意味づけができ. タビューがあるということではなくて,原理的に. るようになる.」(白石,111頁). 全てのインタビューはアクティヴ・インタビュー. ここで述べられている教育実践のカンファレン. であるという主張であることだ.このことは次の. スの様式を,ここまでの議論に置き換えて検討し. ホルスタインらの記述からも読み取ることができ. てみよう.ホルスタインらの言う「物語を生み出. る.「どんなインタビュー状況も,それがどれほ. す力に刺激を与え」ているものこそが,カンファ. ど形式化され,限定され,あるいは標準化されて. レンスの座に集った着たちから実践者兼実践記録. いようとも,インタビューの参加者のあいだの相. 執筆者に対して行われる「聞きこみ」である.実 45.

(13) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). 践記録の筆者があえて苦かなかったもの,わかっ. る研究手法であり,広義には研究方法論であると. てはいても苦くことができなかったもの,苦くべ. も言える.このことについては本論文の筆者の研. きだと悪識できなかったもの等々を,インタビュ. 究文脈に位置づけながら,別稀において論じてい. アーに類比されるカンファレンス参加者が問い掛. る(宮原,5ト54頁参照). 鯨岡は,「心揺さぶられる度合い」について「誰. けることによって,鯨岡の言う「多くの人にとっ て信憑するに足る」明証性を備えた物語へと改稿. にも強烈なインパクトを与える出来事だけでなく. を迫ることとなる.. 他の人にはほんのちょっとしたことにしか見えな. そしてこのことは,実践者兼実践記録執筆者を. い出来事であっても,それがある人の心を大きく. 責める議論に終始するのではなくて,白石が次の. 揺さぶることはあり得る」(鯨岡,55頁)と述べ. ように述べるように,読み手の見識を問い返す構. ている.鯨岡は,自閉症で排泄の躾もできていな. 造を有している.「実践記録が『テクスト』だと 言えるのならば,『実践家がどういう関心を持っ. すむことですよね」と語ったエピソードを例に引. ていたのか』を尋ねることは,じつは,読み手で. きながら,次のように考察している.「この母親. ある『私の関心はどこにあるのか』,『私の関心で. の言葉を聞き流してしまうか,この言菓に圧倒さ. はどう読めたのかJと自問自答していることにな. れるかは,まさにこの母親の前に現前する人の主. る.この過程においては,参加者である読み手は. 体としての生きる姿勢に関わってきます.誰もが. い我が子に接する母親が「一回余分に洗濯すれば. 『自分の実践を』検討していることになる.この. 感動する一言ではないかもしれませんが,人に. ときに問われるのは,実践をした者というよりも,. よっては r目から鱗が落ちる』ほどの感動をもた. 問いをさし出している者となる.『実践分析』と. らし得るのです.」(鯨岡,56頁)ここで鯨岡が. は実践した人を批判的に検討することではなくて,. 言う「この言葉に圧倒される」ことは,その後に. 読み手である自分自身を問いただしていく営みな. 生じる他者に語らずにはいられなくなるというこ. のだということになる.だから,実践の一部を切. とも含んでいると解釈したい.また,これは,単. り取って,『すぐれている』とか『がんばっているJ. にすばらしい事例に出会った透明な観察者として. とか評価するだけでは不十分なのである.」(白石,. の感想ではなく,その言葉を解釈し受けとめる自. 111頁). 分のこれまでの当事者との関わりや理解の卑小さ を実感させられることによる「圧倒」でもある.. このように検討するとき,もはや透明な観察者. 鯨岡の言う「心揺さぶられる体験」は,インタ. が教育実践を記述するということは言えなくなり,. ビュー調査の中においても発生する.. 誰が観察し,何を意識して,誰に向けて記述した. 全てのインタビューはアクティヴ・インタ. のか,誰と誰とがどのような人生の履歴を背景に カンファレンスを行ったのか,といった実践記録. ビューであるという立場を選択すれば,そのイン. と実践分析のメタ考察が必要となってくるのであ. タビューにおいて語られ聴き取られたエピソード. る.したがって,全ての教育実践研究は広兼の共. は語り手と聞き手との共同制作物である.とは言. 同研究となる.. え,両者にとってそのエピソードが心を揺さぶら れたか否かという観点からどのような価値を持つ. 4.4.心緒さぷられる体験とインタビュー・エピ ソード記述. かを検討すると,必ずしも語り手にとって心を揺. 本論文の最終節である本節においては,これま. られるエピソードになるとは限らない.このこと. さぶられたエビデンスが聞き手にとって心揺さぶ. での原理的な検討を下敷きにしつつ,教育実践を. を図1「インタビューにおける語り手と聞き手の. 対象とした研究を行う際のインタビューを通した. 心を揺さぶられた体験」として示した.なお,岡. エピソード記述がメタ考察に開かれる契機につい. 1においては,簡便のために,心を揺さぶられた. て,やや具体的な場合分けに沿って検討したい. なお,エピソード記述は,鯨岡が捷唱する「背景」. 体験を「◎」の記号で示している.また,そうで ない場合には「×」の記号を付している. 心を揺さぶられた体験に注目すると,教育実践. 「エピソード」「考察(およびメタ考察)」からな 46.

(14) 教育実践における専門性の語りと記述と省察. り. 残されている.さらにカンファレンスの中で当該. 手. のエピソードの意味が読み解かれ共有されること. 感動している(◎) 感動していない(×). もある.その場合には,②から前述した(Dの位置. ①. へと移行することとなる. さらに,図1に③として示したように,語り手 は当該のエピソードに感動していないが聞き手に. 閃. き. とって心を揺さぶられる内容を秘めている場合が ある.語り手が当該のエピソードに心を揺さぶら. ②. れていない場合には,特に意識されたり語られた. /、し. りすることがない.だからこそ,聞き手には当該 のエピソードは当初隠されている.しかし,もし. 手. も聞き手が何らかのきっかけを待て語り手から当 該のエピソードについて聞き出すことができたと. 図1.インタビューにおける語り手と聞き手の心を. したら,聞き手は心を揺さぶられてインタ. 揺さぶられた体験(出典については、付記を参 照のこと。). ビュー・エピソード記述として採り上げることと なる.その場合には,さらに,聞き手によって当 該のエピソードが心を揺さぶられるものとして意. の実践者(インタビュー協力者:語り手)と開き 苦きの筆者(インタビュー実施者:聞き手)との. 味づけられることによって,当該のエピソードが. 間の関係は次の段落以下のように整理される.な お,以下の図についての解説では,語り手自身が. 語り手にとってはどのような意味を持っているか. エピソード記述を行った場合と差異化するために,. の時点に及んでもなお,語り手にとっては心を揺. 聞き手が語り手のエピソードをもとに自らの心を. さぶられたエピソードとして意味を実感できない. 揺さぶられた体験として措いた場合を「インタ ビュー・エピソード記述」としておく.. こともある.一方で,この時点で,語り手にとっ ても心を揺さぶられるエピソードであったことが. が改めて問い返されることとなる.もちろん,こ. 追認識された場合には,カンファレンスによる発. 図1に①として示したように,語り手と聞き手 にとって共に心揺さぶられるエピソードとなって. 見がもたらされたと位置づけることができる. これに対して,図1に④として示したように,. いる場合がある.語り手が感動しているからこそ, エピソードとして選び出され,語られる.これに. 語り手にとっても,聞き手にとっても,ともに心. 対して,聞き手にとっても心を揺さぶられるエピ. を揺さぶられるエピソードとして捉えられない場. ソードとして感動がもたらされている場合には,. 合がある.この場合には,語りとしても採り上げ. インタビュー・エピソード記述として普き留めら. られないし,暗黙の語りを発掘しようともされな. れる.ただし,この場合においてでさえも,同じ. いこととなる.. く心を揺さぶられた経験となっているにもかかわ. インタビューに基づくエピソード記述を作成し. らず,語り手と書き手との間で意味づけの差異が. てカンファレンスを通じてメタ考察を高めるため. 生じることから,まさにこの点においてメタ考察. には,ここに示した①から④に見られる関係を理. への展開の可能性が生じる.. 解しておくことが求められよう. なお,ここで示した図1は,いわゆる自己開示. 次に,国1に②として示したように,語り手に とっては心を揺さぶられた体験であっても,聞き. の有無と他者による認知の有無の組み合わせによ. 手は心を揺さぶられなかった場合がある.この場. る「ジョハリの窓」の国と類似しているが,それ. 合には,インタビュー・エピソード記述としては. を直接の着想源にしたものではない.図1は,. 採用されないこととなる.ただし,語り手自身が. 「ジョハリの窓」に比べて,アクティヴ・インタ. エピソード記述を行う場合には,語り手にとって. ビューの研究観に即してインタビュアーによる. の心を揺さぶられた経験を分かち伝える可能性が. 「発掘」や「方向づけ」を肯定すること,聞きこ 47.

(15) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). 制作となることを跨まえて,より動的な展開を含. 年度)北海道教育大学学長戦略経汽(個人研究支 接種費)「教育的タクトについてのエピソードの. む構成となっている.. 記述収集による授業と校内研修の現象学的研究」. みの過程における語りと意味づけの相互的な共同. (研究代表者:宮原順寛)による支授を受けた, おわりに 主要参考文献 この論文においては,以下のような点について 池田而,「研究とは何か,当事者とは誰か」,石原. 論を整理したことを一定の成果とすることができ. 孝二編,『当事者研究の研究』,医学書院,2013. るだろう.すなわち,まず,学力調査などの事例 をもとにしながら,教育実践が「伝達・達成の鎖」. 年,113−148頁所収. 石原孝二,「当事者研究とは何か」,石原孝二編,『当. とエビデンス言説に呑み込まれている状況につい. 事者研究の研究』,医学普院,2013年,1ト72頁. て筆鋒を鳴らした.次に,昂的研究方法と質的研. 所収. 今井康雄,「教育にとってエビデンスとは何か−. 究方法について客観と主観との対立としてではな く連続性のうちに捉えることの一端を示した.最. 後に,エピソード記述とアクティヴ・インタ. エビデンス批判をこえて」,日本教育学会編,「教. ビューとを結びつけながら,物語産出を活性化さ せる相互的なインタビュー・エピソード記述の可. 育学研究』,第82巻第2号,188−201頁所収. 奥野雅子,「ナラティブとエビデンスの関係性を めぐる一考察」,『安田女子大学紀要』,第39巻,. 能性について提起した.. 2011年,69−78頁所収. 鯨岡峻,『なぜエピソード記述なのか−「按面」. これらの考察が,他ならない「あなた」の経験 を他ならない「私」が尋ねることによって共同で 物語を生み出しつつ教育的思慮探さを探究するこ. の心理学のためにム 東京大学出版会,2013年.. とにつながる研究方法論の確立に寄与することを. 熊谷晋一郎,「痛みから始める当事者研究」,石原 孝二編,『当事者研究の研究』,医学吾院,2013. 願ってやまない.. 年,217−270頁所収. 白石陽一,「教育実践記録の町読み方』(Ⅱ)−「文. 付 記. 学理論」を参考にして」,『熊本大学教育学部紀. 要』,人文科学締,第62巻,2013年,109−120頁.. この論文は,北海道臨床教育学会第4回大会. 竹田育嗣,r現象学入門』,日本放送出版協会,1989. (2014年7月12日∼13日,北海道大学)における 自由研究発表「教育実践における専門性の語りと. 年. 立山帯康,「ポラニーの『暗黙知』における『知』. 記述と省察」をもとにしながら,大幅に構成を変 えて加筆修正したものである.なお,北海道教育. のダイナミズム」,吉田謙二監修,加賀裕郎・. 大学大学院学校臨床心理専攻の遠隔通信による授. 隈元素弘・立山善東編,『現代哲学の真理論− ポスト形而上学時代の真理問題」,世界思想社,. 業科目である「臨床教育学質的研究法」において. 2009年,174−186頁所収. 田端偉人,「質的研究における r問い』について. 語った内容を一部改編して使用した.この論文に 掲載した図1は,現職教員であり当時の学校臨床 心理専攻の大学院生でもあった宮腰伸一氏と行っ たインタビュー・エピソード記述に関する検討の. 一打問いの現象学』を手がかりに」,『宮城教育. メモ(2013年10月31日)をもとに,大幅に改編し. 津田敏秀,㌢医学的根拠とは何か』,岩波薔店,2013. たものである. 本研究に際して,科学研究費補助金基盤研究. 年. ハッキング,Ⅰ.著,石原英樹・重田岡江訳,『偶. (C)「現象学的教育学における教育的タクト論. 然を飼いならす一統計学と第二次科学革命』,. 大学紀要』,第46巻,2011年,185−192頁所収.. 木鐸社,1999年. 深澤広明,「教えることの r技術』と r思想』−. と教員研修に関する研究」(課題番号:24530936, 研究代表者:宮原順寛),および,平成27年度(2015 48.

(16) 教育実践における専門性の語l)と記述と省察. 教育方法の原理的考察」,深澤広明編,『教育方 法技術論』(教師数育講座第9巻),協同出版, 2014年,9−20頁所収. フッサール,E.若,細谷恒夫・木田元訳,『ヨー ロッパ諸学の危機と超越論的現象学J,中央公 論社,1974年(原著刊行1954年).. ホルスタイン,J.,グブリアム,J.著,山田 富秋・兼子一・倉石一郎・矢原隆行訳,町アク ティヴ・インタビューー相互行為としての社会 調査』,せりか市房,2004年. 松下佳代,「学校は,なぜこんなにも評価まみれ なのか一致育のグローバル化とPISAの果たし た役割」,グループ・デイダクテイカ編,打数師 になること,教師であり続けること−困難の中 の希望J,勤草書房,2012年,23−45頁所収. 松下良平,「エビデンスに基づく教育の逆説一致 育の失調から教育学の廃棄へ」,日本教育学会編, 『教育学研究』,第82巻第2号,202−215頁所収. 宮内洋,「〈当事者〉研究の新たなモデル構築に向 けて一打環状島モデルJをもとに」,宮内洋・ 好井裕明編,『〈当事者〉 をめぐる社会学一調査 での出会いを通してJ,北大路書房,2010年, 183−204頁所収. 宮原順寛,「現象学的教育学におけるエピソード 記述による思慮探さの養成」,北海道教育大学 大学院教育学研究科学校臨床心理学専攻研究紀 要,r学校臨床心理学研究」,第11巻,2014年, 43−58頁所収. 村井浮志,r「学力」から「意味」へ一安井・本多・ 久津見・鈴木各教室の元生徒の聞き取りからJ, 草土文化,1996年. 守屋浮,「子どもが主体になるとはどういうこと か」,奈須正裕編集代表,守屋浮・滞田稔・上 地完治編,「子どもを学びの主体として育てる −ともに未来の社会を切り拓く教育へ』,ぎょ うせい,2014年,1−52頁所収. 米盛裕二,『アブダクションー仮説と発見の論理』, 勤革帯房,2007年. 吉本均,『教室の人間学−「教える」ことの知と 技術』,明治図奮出版,1994年.. 49.

(17) 学校臨床心理学研究 第13号(2015年度). SUMMARY AStudyofNarrative.Description,andRe幻ectionabout Teacher’sProfessionalExpertiseintheEducationalPractice. NorihiroMIYAHARA /「ご用(/JM什.ヾ(り川IJ/′イ凡J肌・(JJJり几//′ノ仙〝J(J・一=正作川中・′イ/:、(JJJ用品ノ,り. Apurposeofthisarticleistoconsiderabasic theory forteacherstocultivatetheprofessioninedu− Cationalpracticesbynarrative,descrlPtion.and reflection. Administrative pr・eSSureO(thestandardization oreducationalmethods riseswhileadoptinginterna−. tionalornationwidescholasticabilitylnVeStigationsinevidence.When aneducationaladministration forces Standardization,nOtOnly parents and childr・en and generalpeople butalso teachers oneselrcome to recognizeiftheleveloftheprofessionorthe teacherislow.Because,bystandardization,teaChers areim−. POSedlimitationoneducationaltactandtheycannotshowtheirstudentscducationalthoughtfulness. Thereforeitisnecessarytoconsiderhowweshouldunderstand”evidence”and“objectivity’ineduca−. tionalpractice. Then,lexaminequantitativestudies and the relationsofqualitative studies thatwereoften con−. SideredtobeopposedanddiscontinuingrelationsconventionalIy.Iconsiderthatboth havecontinuous basesaccordingtO a Phenomenologicaloplnion. FinallyIsubmitoneo[the methodstodescribe theprofessionofthe teacherin theeducationalprac, tice asrealizationo[thepaststudy.Whenateacherdescribesone’seducationalpracticc,Kujir,aOkawho. istheproponentoftheepisodedescriptioninsiststhattheteachershould choosethethemethatshook hisrfeelings.whetheritisbigas newsorissmall.HoIstein,].A.and Gubrium,).F.whoare thepro−. ponentsoftheactiveinterviewaim atinteractivenarrativeconstructionbythecooperation ofaninter− Viewerand aninterviewee.Iconnectedinteractive narr・ativeconstructionwith theexperiencethatshook the heartof the teacher.. Key words:eVidence,quantitativestudiesand qualitativestudies.the episodedescrlPt10n,theactiveinterview. 50.

参照

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