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和辻風土論の背景

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Academic year: 2021

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(1)辻. 土. 論 の. 背. 景. 平. 野. 幸. は現在ではほとんど否定されつくされた感があるが、それにもかかわ. らせるということが主要な目的となっているので、深い思索が展開さ. あったことはよく知られている。しかし和辻の外国体験の内実につい. てはこれまであまり論じられたことがなかった。『風土』という著作 の欠陥も魅力もこの著作が和辻の私的体験に基づいて書かれたという 事実から出来していると考えられる以上、彼の外国体験の内実を詳し く検討してみる必要があるのではないだろうか. 和辻は幕末明治期以来の日本の海外留学者の多くが残しているよう ないわゆる外国体験記あるいは海外滞在日詰というものを書き残して いない。しかし彼の死後、昭和四〇年になって'彼が留学中に妻にあ てて書いた書簡が公刊されているので'これによって現在では彼の留 学体験がどのようなものであったかを詳しく知ることができる.. 『故国の妻へ』という'いかにも女性向きの感傷的なタイトルをつ けられたこの本は、妻にあてられた書簡という性格上それなりの欠点 和辻風土論の背景. て'家族である。家族と離れてくらすことが和辻にとつてはこの上な. ためらいを感じている.ためらいの原因は瀬石などの場合とちがっ. た和辻は文部省の在外研究員としてドイツ留学を命じられた時大いに. うことは垂喪の的であったはずだ。しかし当時京都大学の助教授だっ. に沈潜したことのある日本人にとつては'西欧を実際に訪づれるとい. う時点においては、いやしくもかつて一度は西欧の思想と文化の研究. これは彼の思想を解く重要な鍵になることは疑いない。昭和二年とい. い、家族共同体内での「顔」をさらけ出しているからである。そして. も事実である。というのもここで彼は決して外部では見せることのな. しかし和辻の研究家にとつては意外な発見をこの本はもたらすこと. れていないということがその欠点のひとつに数えられるであろう。お. をもっているo故国に残してきた妻へ旅の印象や自分の健康状態を知. 仁. 七. ①. 0. らず'この書物は現在にいたるまで執劫に読みつがれているのは何故. レ\. そらく和辻が生きていたならばこの本の出版を拒否したことであろう し'岩波版の『和辻哲郎全集』にも当然のことながら収録されていな. において展開された和辻の風土理論の妥当性. 風. か.この書物が書かれるにいたったきっかけは和辻の西欧留学体験で. 『風土』 (昭和一〇年). 和.

(2) 和辻風土論の背景 く苦痛なことであったらしいo. 書いているし、そして九ケ月後の昭和二年十一月二十二日付の手紙に. はどのようにしたら二年間という留学期間を短縮して合法的に帰国で. るべく照や京子や夏彦から注意をそらすようにつとめていたが'汽車. 年三月一七日であったが、同日に船内から妻照に出された書簡を見る と次のように善かれているo「今朝は涙の出るのを押えるために、な. だ.途中で帰るには'川学校から呼び返して貰う事。榔病気の理由を. 令で来ているのだから、勝手に自分の都合で帰るわけには行かないの. の船で帰るという事も、どういう形式にしようかと今迷っているo命. きるかが詳細に思案されている。「五月ごろ(昭和三年の-筆者注). の出る前、照の眼にいっぱい涙がたまったので、堪らない気持になっ. 和辻が白山丸で神戸港からヨ-ロッパに向けて出発したのは昭和二. 入. た--胸がふさがり、神戸に着くまで、何だか気が晴れなかった」. もって満期前帰朝願を出し、文部省の許可を待って帰る事。㈲病気が. け加えれば'幕末や明治期の男だったらたとえ妻に対してであろうと. 西田さんの了解を得て来たが、急に短縮して1年と一か月か二か月に. い。学校からは一年半で呼び返して貰うように、出る前に藤井さんや. するとすれば呼び帰す口実の事で両先生がちょっと困られ杜しないか. とも思う.もしそういうふうであれば拙か㈲の方法で、神経衰弱の診. 断書でも誰かに書いて貰って'病気のため研究に堪えず'という理由. も、思い切って来年五月ごろの船で帰ってしまった方がいいような気. ように国家的使命を帯びたものではなくなっているということであ きた家族のことだったo. 持に、だんだんなって来ている。私はやっばり照のそばにいて子供た. で帰る。そのどれを択ぼうかと思って今迷っている。がいずれにして. にほとんど例外なく去来した日本国の命運についての深い懸念が和辻. ちの顔を見ていなければ、落ち着いて勉強が出来ないのだから'勉強. った。. 「文部省の命令にある通りの『研究』に堪えざる健康状態である事」. するという点からもその方がいいと思う」. そして結局和辻が選んだのは仰の方法であった.神経衰弱のため、. 神戸港を出発して約五ケ月後に出された手紙を見ると、「照の手紙 が遅れても十八日の月曜には必ずつくと思っていたのに、案外にも着. ④. かつて明治期のヨーロッパ留学者たちの脳裡. の心をわづらわすようなことは書簡集でみるかぎり一瞬たりともなか. る。留学中終始和辻の念頭を占めていたものはもっばら日本に残して. ここでわかるのはこの期になると留学というものがもはやかつての. 年男にしてはいささかふがいがないという感じがしないでもない。. もこういう女々しい言葉はけして吐かなかったであろう。三八歳の中. 所にちりばめられていて'いささか目ざわりなのだが、蛇足ながらつ. 至急帰朝を要するものならば'許可を待たずに帰朝し'医師の診断書 と大使館の証明とをつけて'帰朝後追認願を出す事。のtニつのほかな. こ. れに類したいかにも女々しい言葉が『故国の妻へ』という本のいたる. ⑧. かなかった。それで今週の始まりは少し景気がわるい。又シベリアで. を理由に予定を早めて帰国することになる。どこも悪いところがない. 房のそばでなければ落ち着いて勉強ができないという事は、本来そん. せ早く帰れば笑う人もあるだろうが、そんな事はどうだっていい。女. のに仮病をつかって帰国することにさすがに気がひけたのか、「どう. ⑤. 汽車の故障でもあったのだろうと気を安めてはいるが'やっぱり何と なく気にかかる。神経衰弱には放してならないが、′うちが恋しいこ と'毎日うちのことを考えることは'いつまで経っても変らない」と. ③.

(3) 知られている。和辻の自然景観に対する鋭い感受性はおそらく資質的 なものなのであろう。この傾向はすでに『古寺巡礼』にあらわれてい. るし'晩年になって善かれた『自叙伝の試み』にも頗著に見られる。. 和辻がヨ-ロッパ留学にさいしてたどった経路を見てみると次のよ. うになる。上海、香港、シンガポ-ル'。ヘナン'コロンボ、アデンか. ら紅海を抜け、スエズ運河を通って'マルセイユ着.ヨ-ロッパでは. ベルリンを主要滞在地とし、そこを拠点として、ドイツ、フランス、. イタリアの主要都市'及びロンドンを訪問した。北欧、ギリシア、ス ペインヘは行かなかった。勿論東欧には行っていない。. を通読してみてただちに気がつくのは、彼の視線が常に二つのもの'. 述しか見られない。したがって和辻が風土を哲学的考察の対象として. 通過してきた東南アジアのそれについてはごく断片的思いつき的な記. 書簡集で自然景観と風土にたいする詳細な記述がはじめてあらわれ るのはエジプトの砂漠についてである。意外なことだがそれまで彼が. 自然景観と美術建築物に執扮に向けられているということだ。1方そ. 眺めるきっかけになったのは砂漠地帯を見た時であったと推定してよ いだろう。書簡には、「アデンからアラビアの砂漠'アフリカの砂漠I. 心だ。彼が留学期間中に親しく交際した外国人は一人もいない。彼が ベルリンでつき合っていた人間はもっばら日本人だけで、あっちこつ. ち旅行する時の相棒も日本人であったo相手の文明の中に素手で入っ て行って冒険をするという精神がまるでないのだ。その感受性と精神. ナイルの沿岸、エジプトの美術など、非常に印象が深かった」、「突コ. ツとした山が'まるで岩と砂ばかりで'毛ほども緑を持っていない。. 聴い褐色で、所々黒ずんでいて'まるで屍を見をような物凄い感じが. いう自然は我々には実に珍らしく'ただ呆然とする外なかった」とい. する」、「死んだような砂漠は、海よりも一層物凄い。梅はいかにもい きいきとして、生きた感じがあるが'砂漠には少しもない。--こう. ⑧. 論じた部分が最もよく出来ているように思える.. 場の三つの類型に分類しているが'理論的整合性といった点で沙漢を. ってくる。和辻は『風土』において、風土を、モンス-ン'沙漠、牧. った言葉が見られ、和辻が非常に驚いているのが手にとるように伝わ. ⑨. は外にむかって常に固く閉じられている。そして驚くべきことに和辻 ほどの知識人がそういう己れのふがいない精神に露ほども気がついて いないのである。和辻という人物が鴎外や淋石にくらべると経とんど 論ずるに足りない人物である理由がこの書簡集に杜歴然セぁらわれて いる。. だがそれを補うかのように自然景観への視線は実に鋭い。この時の. 九. 観察が基になって後に『風土』という著作が生み出されたことはよく 和辻風土論の背景. ⑦. こに決定的に欠けているものがある。生きた人間や社会についての関. に近い著書を出していたし、鋭い知性と感受性を持っていた。書簡集. けではけしてなかった.彼はすでに『古寺巡礼』をはじめとして十冊. 期間中に彼が望郷病だけに悩まされて何も辛がつかなかったというわ. れて一年半であった。 しかしここで和辻の名誉のために言っておかねばならないが'留学. 月熱田丸でマルセイユを出発、帰国の途につく。留学期間は旅程を入. かず'ついに仮病をつかって留学期間を短縮して帰国してしまうとい った事態が笑うべき事でないはずがない。こうして和辻は昭和三年五. 教官が貴重な外貨を使って留学した、ところが家が恋しくて毎日落着. ばそれこそ大いに「笑うべき事」であったにちがいない.官立大学の. なに笑うペき事ではない」と書いているが'当時の社会常識で考えれ. ◎.

(4) 和辻風土論の背景. 和辻がはじめて踏んだヨ-ロッパの土地はマルセイユであった。そ こからパリヘ向かうのだが'彼は車中で京大農学部教授の大槻正男と 同席する.そして「同車した京大農学部の大槻(正男)君にきくと' フランスには日本のように雑草が繁茂しないので、やわらかい牧草. り切れないだろうが、こちらでは樹蔭にさえいれば暑くないのだから. かくなった空気が公園の中まではいって来るという事はないのだろ う。--日本で七月未にこんなに無風だったらそれこそむし暑くてや. いわけだが、こちらでは普通だ。空気の動きが少ないので'路上の温. 一〇. は全くの誤認というべきである。『風土』で湿潤とか乾燥とかいった. おかしい」樹蔭にいて涼しいのは空気の動きが少ないからだというの. (例えばクロ-メ-のごとき)が、非常に好く出来るのだという」と いう記述が三月二十九日付の葉書に見られるが、『風土』を見ると、. でに五ケ月にもなろうというのに、そこでは夏でも樹蔭にいるとひん. やりと涼しいのは湿気が少ないせいだということに全く気がついてい. ないのである。意外というはかない.. 彼が湿気という要素にやっと気がつくのは留学した年もおしつまっ. た十二月になってからである。それは南仏を訪れた折だった。「オリ -プにもっと近いものを持ってくれば、伊豆や国府津あたりのみかん. 見えるのがいかにも暖かいいい心持のものだ。しかしオリ-ブの色は. るとそれもなおってしまった」という感想が書かれているが、インド. た事かと不思議に思った。もっとも空気は日本のよりもずっと乾燥し. ている。空気に湿度が多いという事は何と云っても日本の特長らし. えた頃に善かれた手紙には次のような条りがある。「公園などで樹蔭. いうふうに'いろいろな点で日本の風景に似ていながら、しかも感じ をまるきり違わせる点が一つある.それは空気が乾燥している事だo. からにカサカサしている」. ちょっと見てすぐそれを感じる.山や野の色が潤いのない色で'見る. テカルロを訪れる途中の風景について次のように書いている。「こう. ⑭. のペンチに腰かけていると、ちっとも暑くない。日本で盛夏の頃に公. 容易には発見されなかったのである.ベルリンに落ちついて夏をむか. 『風土』において重要なカテゴリ-になっている湿気は、しかし、. い.(文明国の中では恐らく日本が随1だろう)」次いでモナコとモン. いわけでもなく、また少ないわけでもないのに、この緑の色はどうし. の木だが、あれは緑がもっと濃く'また葉の聞から黄金色のチラチラ. て、インド洋が少しは荒れるかと思ったが'玄海灘ほどの事もなく、 しごく平穏だった。そればかりか暑い暑いと言われていたインド洋が. 妙に冷たい色をしているのだから全く違う。ここいらはそう光線が弱. りに汗もが出来て'カラ-にすれてちょっと困ったが'インド洋へく. いっこうに暑くないoシンガポ-ルからコロンボまでの間に額のまわ. 月十五日付の書簡には、「コロンボを出ると波がちょっと大きくなっ. ても湿度の問題が和辻の頭をわずらわせたような形跡は全くない。三. いてくる。しかし東アジアの国々を通過する過程で善かれた書簡を見. 「雑草がない」ということは当然のことながら湿度の問題と結びつ. た」と彼は興奮した筆致で書いている。. 事実を教えてくれたのである。それはほとんど啓示に近いものであっ. 概念をあれほどふんだんに使うことになる和辻がヨ-ロッパに来てす. ⑳. 「この時に大槻教授は'「ヨ-ロッパには雑草がない」という驚くべき. ⑬. 洋がいっこうに暑くないのは湿度が低いためなのに、ここでも和辻は 湿度という要因に全く気がついていないのである。. ⑩. 園のペンチに休んでちっとも暑くないなどという事は決してあり得な. ⑬. ㊨.

(5) のパラッツオを初めとして'やは-突き出た軒を持った家が多いが、. はり同じような軒を持っている。(ロ-マの市中では、ルネッサンス. したのかしらと思いながら歩いていると'古いこわれかかった家がや. 和辻が、まだおぼろ気ながらであったかもしれないが風土論らしき ものの構想の端緒をつかんだのは「湿気」と「乾燥」という気象上の. ればやはり同じように軒を突き出す必要があるのだろう.これはなか. イタリアは日本のように雨が多くないし、また風が少ないので吹きぶ りという事もない。しかし北欧に比べると雨はよほど強い。雨が強け. しかし木のたるきを使って日本ふうに垂れた軒はあま-見なかった)0. 二つの要素をつかんだ時であったと推定される.そしてこれ以後の書 簡には急にヨ-ロッパの風土にたいする言及が熱を帯び詳細になりは. じめるのである。大槻から「ヨ-ロッパには雑草がない」という話を 聞いた時には和辻はただ驚いていただけであるが、昭和三年一月二日 付の、イタリア旅行の途中で書かれた書簡で、和辻ははじめて雑草と 湿気とを結びつけて考えている。「イタリアはよほど日光の強いとこ. なか面白いと思った」. ここでは雨という風土上の1要素が建築様式に決定的な影響をあた. えているという認識が語られている.風土が人間の態度や精神に影響. ろだが、そのくせ雑草が依然としてはびこっていない。牧場の草はや はりドイツと同じ柔かい革だ。ただ. 一一. 感想をもらしている「人間の顔の色の黒い事、(日本人そっくりなの もある)、体の小さい事、北欧人のようにぬうっと落ち着いていない. 同じ一月三〇日付の書簡で和辻はイタリア人を観察して次のような. でいるのである。. いのだが'皮肉なことに彼自身も言っているとうりドイツで学んだこ とは少なく'旅行地のひとつにすぎなかったイタリアから多くを学ん. タリアでその構想が生まれたと推定される.彼の留学の主要な目的が ドイツ哲学の研究であり'滞在日数もベルリンですごした日が一番多. のには大いに心動かされている)。『イタリア古寺巡礼』は和辻のイタ リア旅行の成果であるが、『風土』という著作も書簡で見る限り'イ. なく日本に似ているという認識からくる。(美術建築についても彼は ドイツのものにはからい点をつけていることが多いが、イタリアのも. まざまな点で彼の興味をかきたてたらしい。それは風土と人間が何と. に)そういう緑草の間に混っている雑草が、幾分ドイツあたりよりは. (ニ-ス地方'リヴィエラと同じ. ⑲. を与えているという発見もこの時同時になされている。全体に和辻は ドイツやフランスなどには余り感心していないのだが、イタリアはさ. 和辻風土論の背景. 策した。この時彼はイタリアの民家が日本のそれと同じように軒をも っていることに気がついた。彼はこう書いている。「日本の軒を真似. 未'和辻は日本の友人といっしょにロ-マ郊外のアダンチノの丘を散. めるきっかけはやはりイタリア旅行中におこった。昭和三年の一月. ま見ることができる。次に和辻が風土と文化とを結びつけて考えはじ. 後に和辻は『風土』において日本の風土の特徴を「湿潤」としてと らえることになるが、ここではそういう認識の端緒をわれわれはかい. だという事になる。そういう意味で日本が太平洋の湿気を貰っている という事は、非常に日本の風土と重大な関係を持っていると思われ. がこんなに少ないところを見ると'雑草の繁茂には湿気がよほど必要. たもので、とても日本の雑草のように頑強なものでない。気候が大体 日本と同じく'日光がまた日本と変らない強さであって、しかも雑草. 多いかと思われる。--しかしその雑草たるや、細いヒョロヒョロし. る」㊨.

(6) 和辻風土論の背景. でせかせかしている事などだが'これはどうも風土と関係があるらし く思える」和辻はここでその原因を暑さに求めている。人間の色が黒. のあたりに見ているわけであるが、次のような感想はその総仕上げと. るかに考えぬかれて書かれた『風土』という書物にもこういう類いの. しぶりだった。/すべてこういう野や山や水や石の風情が'要するに. につく奴)がついているのが目についた。これもヨ-ロッパに来て久. にくらべるとせかせかしているという印象を得たのだが、. (彼はドイツ人を北欧人と呼. 従って日本にいくらかずつ似てくる。日本の自然と文物とが、湿度と. 湿度のいくらか多い事を語っている。温度が多いほど植物が繁茂し、. るかったりする場合'だらりとしてしまう習慣がつく。そこで自ら体. その理由を次のように述べている.「暑い国では体がだらけたり'だ. 度に湿度の影響を受けているのかを言うことはそう簡単ではないはず. ていることは確かであろうが、文物. 関係のある事を今更思う」木の生え方などの自然が湿度の影響を受け. のほうがはたしてどの程. 格がよくなる場合と悪くなる場合とに別れてくると思う。ドイツ人は. だ。しかし書簡でみるかぎり和辻にそういった反省がきざした様子は. (文化). 一体にいい体格をしているo女などでもそうだ.イタリア人には日本. ない。. るが'そのヒントを得たのもやはりイタリア旅行中であったと思われ. ヽ. ヽ. ヽ. いるという感じになる。そうして円い丘が頂まで緑革に覆われ、細い. るのだから、山と谷の関係はいつも同じようで'いつも丘が起伏して. でも二千尺ぐらいの所までは登っているのだが'全体が高くなってい. れている事だった。沿道での高い山は三千尺ぐらいあり'鉄道の線路. にめず. ヽ. 和辻は後に『風土』においてヨ-ロッパの風土を「牧場」と規定す. も、それと関連しているかと思うOドイツ人は神経が遅鈍じゃないか. ヽ. る。それはシチリア島を旅行していた時だった。和辻はシラクサをた ヽ. と思うくらい'神経的な疲労を感じない。イタリア人はすぐ興奮する. ヽ. ってアグリジュントヘ向かっていた。「この日沿道の景色で実 ヽ. らしく思ったのは'起伏する山や谷が全部同じように畑や牧場で覆わ. ヽ. 代りに疲れ易い。そういう点も寒さ暑さと関係がありはしないかと思. う」又この少し前の所で、イタリア料理は油が少なく、塩が利いてい. るのは暑さのせいだと和辻は書いている。料理に油が少なく塩が利い ているのは暑さのせいであるというのはともかくとして、イタリア人. ヽ. ヽ. 輪廓を見せつつ直ちに空に接する。ある所では、丘の上の畑を馬で耕. している.農夫の姿が空の中にシルエットになって見えた」(傍点. 平野)。「実にめずらしく思った」と書かれているがこういった景観は. -. は暑さのために体の貧弱なのが多く(だらりとした習慣がつくから体. ヽ. ⑳. 格がよくなる場合と悪くなる場合に分れる)興奮しやすく疲れやすい 従ってせかせかしているように見える'という考え方も首をかし. げざるをえない。ここでも人種的要素と歴史的要素が無視されている. ヽ. ヽ. がある。ドイツ人が勤勉で'イタリア人が怠け者だというふうな事. 人程度の貧弱なのが多く、ことに女に日本ふうの痩せ方をしているの. ⑳. んでいる). るoさて'和辻はイタリア人がドイツ人. 断定が散見され'風土決定論という熔印を押される原因になってい. こけ. いのを暑さのせいだけにしているのはお笑い革で、人種の要素や民族. だ。「汽車から見ていると、沿線の石垣に白い苔(石灯龍などに普通. こうして和辻の風土決定論が次第に固まって行くのをわれわれは目. 〓一. 見てよいだろう。ウンブリア平野を汽車に乗って通っていた時のこと. ヽ. の成り立ちといった歴史的要素が考慮に入れられていない。もっとは. ⑳. からである。. ヽ. ただ. ⑯. -.

(7) ヽ. 和辻がもう一つ、帰国後ものがれることができなかったものに'ヨ -ロッパの風の弱さについての驚ろきがあった。これに気がついたの. はマルセイユからパリヘ着いて間もなくの頃であった。このあたりに 出された和辻の書簡には風への言及は見られないが、出隆の次のよう. らくりをずばり衝いていると言えないこともない。実際『風土』には. さてまた風の問題になるが和辻はイタリア旅行中に、イタリアに繁. いるのである。. と気がつくような「地理的唯物論」の論理ならざる論理が展開されて. この煩の話ほどひどくはないが、ちょっと考えただけですぐおかしい. ヽ. りのような気がして、今もあの客間での梱のことを覚えている」(『出. ⑳ サ13ソ. が,三月の未,大西君と和辻君とがマルセイユからパリに到着した翌 ロのこと。僕の宿の客間で、三人で煩革をふかしながら話していたと. き,和辻は自分のはいた畑草の咽の静かな動きを見つめながら'"欧 州は日本(或いは東洋)とちがって、風が吹かない(或いは風が静か だ)″と言って'そこからインド洋上でかれが観察したモンス-ンの 話'さらに東西文化の比較論になった.むろん大西も僕もかれの畑に クーラン・デ. 和辻はそこでは木が形が整っていて'しかも直立していることに気が. ついた。木が「人工的と見えるほど」に整っているのに驚いたあと、. 彼はこう書いている。「日本あた-では'放任してある樹は放してこ. んなふうなととのった形にならない。恐らくこちらの気候が温和で'. 植物にこういう形をおのずと取らせるのではないかと思う。この点'. して従順である'と考える。そして「従順な自然からは比較的容易に. 『風土』において和辻は風雨が少ないということは自然が人間に対. は風だけでなく雨という要素がつけ加えられている。. 荒い風や荒い雨のある日本と非常に違っている所以かと思う」ここで. ⑳. 々ならぬ関心をいだいていたことがわかる。「同じく煩革の梱の話だ. っている木々の生え方を観察して再び風のことを思いだしたらしい。 な聖宗あり,和辻がこの頃すでにヨ-ロッパの風の弱さについて並. ヽ. 陸自伝』)これは何とも皮肉な話というほかないが、和辻風土論のか あたっても彼哲)の印象から自由になることができなかったのであ. 彼に消しがたい印象をあたえたにちがいない。そして『風土』執筆に ヽ. さて、『風土』という本が単行本として出されたのは昭和一〇年で. が、和辻はこういった疑問には全く触れていない。. 影響などの撃りが'風土的影響よりもはるかに大きいと思われるのだ. たものは何かという問いに答えることはそう簡単に言えるものではな く,オリエントから伝わった占星術とかアラビアから伝わった化学の. さに風土唯物論とも言うべき考え方であろう。近代科学の源流となっ. 神が生まれた、即ち科学精神が生まれたとするのだが、これなどはま. 法則が見いだされる」ここから彼は'ヨ-ロッパには法則を求める精. ⑳. はまかれなかった。たしかにその客間では、煩はかき乱されないで' 静かにたなびいていて、いつのまにか消えていってた。だが、空気の 流通のいい・すきまだらけの・和室ならとにかく'日本でも、締めき られた洋室なら、・煩草の姻は、ゆっくりはき出せば静かにたなびくに. ちがいない。とにかく、この客間は締めきられ'僕らは静かにだらり と長椅子によこたわっていたのだから'煩が静かに動くのも当然だろ う.それなのに'この1事から直ぐさま普遍的な結論をだす、という. ヽ. よりも、この1般的な事実で特殊な結論を立証しょうとする。これが. 和辻風土論の背景. 一三. やがて和辻君の仕上げる『風土論』『モンス-ン論』(あのときには僕 のはし はこれを『地理的唯物論』だと評して、同君のお許しをえた) ヽ. る。 -ル.

(8) 和辻風土論の背景 あるが'和辻はヨ-ロッパから帰国してまもなく昭和三年九月から翌. 年の二月にかけて風土をテ-マとした講義を行なっており、単行本は この講義が基礎になって出来上ったものである。つまりこの講義こそ. は和辻の外遊の直接的な「成果」であったわけである。そして講義は 外遊の記憶がまだなまなましい時期に行なわれている。この事実が 『風土』という本のあいまいな性格を決定したと思われる。つまり, 『風土』という著作は外見は理論書として書かれているのだが、読ん でいくうちにこれはどう考えても一種の旅行記ではないかという印象 を強く持たせられてしまうのである。世界の風土を三つの類型に分類 するという方法自体はなるほど一見理論的なようにみえるのだが'実 際にはそれは彼が実際に眺めて観察した風土をただ便宜的に分類した だけのことであって、地球上の風土がたかだか三つに分類できるほど 単純なものでないことは誰の目にも明らかである。それに'和辻が実. 際に旅行中あるいは西欧滞在中に観察あるいは経験した事柄がほとん どなまのままで挿入されている部分があまりにも多すぎるのである。 『風土』という書物が長いあいだにわたってさまざまに論議の対象と. されてきたのはそれが理論書として提出されてたからではないのだろ ぅか。この書物が旅行記として善かれたならばそれほどに論議を呼ぶ. ことはなかったと思われる。現在では『風土』の理論的妥当性という 点に関してはほとんど論駁されつくされたといった感があるが'それ. にもかかわらずこの本は独自の魅力をもっていて、和辻が残した書物 ではおそらく最もよく読まれているものだ。多くの読者はこの書物を 理論書としてではなく、旅行記として読んでいると思われるが,たし かにこの書物は旅行記として読むかぎり、深い魅力を秘めていて,そ の魅力は時がたっても消え失せないような文学性を持っているのであ. か。こちらのほうはほとんど旅行のなまの体験がぶちこまれているに. だが'これが読んでいて全く面白くないのはどうしたわけであろう. 和辻が外遊の「成果」として出した書物に『イタリア古寺巡礼』と いうのがある。これはやはり妻に書いた手紙が中心となっているもの. 一四. 関心を示していないことだ。『故国の妻へ』で彼が関心を示している. 和辻の旅行記のもう1つの欠陥は、彼が異国の人間にほとんど全く. 文学として通用するものだ。. いるのがなまなましく描かれているからである。それはまぎれもなく. のは'横光が西欧文明に接することで存在の根抵までゆり動かされて. へ』や『イタリア古寺巡礼』などよりもはるかに旅行記として面白い. ほとんどが出鱈目な横光利1の『欧州紀行』が'和辻の『故国の妻. が震感されてしまうといったことにある。例えば書かれていることの. 自れの狭い知見を反省させられたり'極端な場合には存在の根嫉まで. 1般的に外国旅行記の面白さは、作者が異国の風物人間に触れて'. のl人よがりな自己満足だけだからである.. いう書物が面白いわけがない。なぜならば読者がそこに見るのは著者. はつまらないものとして断じ去られている例が多いことである。こう. 意識にそう作品だけが高く評価されていて'そういうものでない作品. 『イタリア古寺巡礼』を読んですぐにわかることは、彼の感受性や美. て出来上った穀にとじこもり、そこから1歩も出てこようとしない.. の文化風物に対して開かれていないからである。彼の感受性は頑とし. おこさないのだ。おそらくその理由は和辻という人物の感受性が異国. る.全体に『故国の妻へ』という書簡集は読んでいて全く感興を引き. もかかわらず'旅行記としては三流のものと断ぜざるをえないのであ. る。.

(9) のはもっばら自然景観であるし、『イタリア古寺巡礼』においては絵 画建築といった文化遺産である。1年以上も欧州に滞在しながら、欧 州人と交際した様子が全くない。これは驚くべきことだ。そして『風 土』に措かれている人間は観念にすぎない。それにもかかわらず『風 土』という書物が1種の旅行記として傑作であるのはその洗練された 文体にあるといってよいであろう。われわれは『風土』を理論的著作 として読むかぎり失望以外のものを手にしないだろう。しかしそれは. 同書'四四頁。. 同書、三〇七頁。. 和辻前掲書'三四貢-三五貢'. 同書'四四二頁。. 『風土』'一一〇頁。. 『故国の妻へ』、三五一頁-三五二貢。. 泰雄編'lニー書房、昭和四八年'一四入京.. 同書'三八一頁-三八二頁。. 同書、三八1頁.. 生桧敬三引用(「和辻風土論の諸問題」)'『人と思想・和辻哲郎』'湯浅. 同書、三八〇頁。. 同書'三三大貫。. 同書'一九〇貫。. 『風土』、岩波書店'昭和四十1年、六四頁。. 同書、三五〇頁-三五1頁。. 同書'四八貫。. 同書'四五頁。. 6. ㈹ ㈹ 抑 ㈹. 読み物として読まれるかぎり'ユニ-クな知的刺激に満ちた旅行記な のである。そして現在の読者は『風土』をそういうものとして受けと (了). 78. 胸 帆 ㈹. 9. 姻 佃 ㈹ 糾. ㈲ 糾. め'読んでいるのである。. 『故国の妻へ』和辻哲郎、角川書店'昭和四〇.. 和辻風土論の背景. 同書'四七四頁。. 同書、二九四頁。. 同書'五貫。 同書、一七入貢。. l・. (1). 注 (3H2) (5H4).

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