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IRUCAA@TDC : 戦時下の歯科医学教育 第2編 軍医学校と歯科委託生および歯科医将校制度と戦線での歯科医師

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Title

戦時下の歯科医学教育 第2編 軍医学校と歯科委託生およ

び歯科医将校制度と戦線での歯科医師

Author(s)

金子, 譲; 高橋, 英子; 阿部, 潤也; 上田, 祥士; 福田,

謙一

Journal

歯科学報, 120(2): 119-156

URL

http://doi.org/10.15041/tdcgakuho.120.119

Right

Description

(2)

はじめに 日中戦争から太平洋戦争にあっても,日本軍の歯 科治療への対応は戦地医療の中でも最も遅れた分野 に属していた1) 。歯科医の軍医(仮)が誕生したのは 陸軍が1940(昭 和15)年3月30日(勅 令 第213号),海 軍が1941(昭和16)年5月28日(勅令第624号)2) と陸海 軍とも太平洋戦争の直前であった。名称は歯科軍医 ではなく陸軍では歯科医将校,海軍では歯科医科士 官と称した。これは医師で歯科を専門とした軍医と の区別をするためとされている。該制度以前の軍病 院で歯科治療をしていた歯科医師は嘱託であり軍 人,軍属のいずれでもなかった。 該制度が始まるにあたって,陸軍省医務局課長 (渡邊軍医大佐)が1940(昭和15)年6月15日に陸軍将 校制度を都道府県歯科医師会長協議会で説明してい るので纏めてみる3) 。 「1.機が熟して今般の制度が創定されたが,多 年の熱望が実現されたためか,歯科医師の社会的地 位の飛躍的向上に対する観念が漏れ過ぎたためか, 今まで本制度の創設に団体としてあるいは個人とし て運動した一部の方が,創設は自身の運動の結果だ と言っているそうである。甚だしきに至っては今次 事変(日中戦争:著者註)の野戦における歯科診療が 円滑を欠き,治療上相当の不都合があったから本制 度が創設されたとの不穏当極まる言辞を弄する方が あるとも聞いている。この点を明確にしておきた い。陸軍医務当局は,今次事変における歯科診療が 不十分だったとは思っていない。一部野戦から局部 的地域で不十分と思われたかも知れないが陸軍省医 務当局としては全般を通じて不十分であるとは認め ていない。この事をまず重ねて申し上げておく。 2.本制度が一部人士によって創設されたとの話 は陸軍においては遺憾である。陸軍は国防の責任か ら陸軍における諸法規,諸制度は全て国防上の必要 に基づき陸軍自体の見解において決定されるべきも のなので,外部からの運動によって左右されるべき ものでないことは言うまでもない。 3.陸軍衛生部の武官表において新設された歯科 医少将以下少尉に至る官等は,薬剤中将以下少尉と 衛生大尉以下少尉との中間に創設されたものであ る。歯科医将校の官等が新たに設けられたのは陸軍 において歯科医将校は軍医将校でない事を指すもの である。世上時に口にされる歯科軍医という言葉は 絶対に無い。これは国法としての医師法,歯科医師 法と両者が明確に区別されている精神と同様であ る。もし歯科軍医という言葉があれば医師と歯科医 師との両方の免許を持っている者に対している。歯 科軍医とは歯科医師免許だけの歯科医将校とは全然 別個の存在である事を承知してもらいたい。 4.医科と歯科との業権境界問題は軍内の要求に おいて決められるので一般的な(社会問題として軍 の:著者註)責任問題にはならない。しかし,これ が導火線となって社会的な,また医師,歯科医師間 の重大問題となるやも知れないし,またこれが軍内 にも影響するかも知れないので無関心では無い。な お,武官表に歯科医少将の階級が制定されたことは 一般歯科医師の社会的地位の向上を意味するものと

戦時下の歯科医学教育

第2編 軍医学校と歯科委託生および歯科医将校制度と戦線での歯科医師

金子 譲

高橋英子

阿部潤也

上田祥士

福田謙一

東京歯科大学の歴史・伝統を検証する会 キーワード:軍医学校,軍衛生部歯科委託生,歯科医将 校,戦場での歯科医師 (2020年4月13日受付,2020年4月28日受理) http : //doi.org/10.15041/tdcgakuho.120.119 連絡先:〒150‐0013 東京都渋谷区恵比寿4 金子 譲 119 ― 17 ―

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思われる。したがって歯科医師諸氏においてはこれ を自覚され内容の向上を計画実施されるよう努力し てもらいたいと思う。」 とし,続けて陸軍補充令および同施行細則が説明さ れた。 軍内のことは他からの意見で事を決めるのではな い。陸軍における歯科治療はこれまで不足の状態と は考えていない。医師,薬剤師の最高位は中将であ るが,歯科医師は少将でありこれは衛生兵(看護婦 など)の大尉との中間である。歯科軍医という言葉 は歯科医師にはなく,あるとすれば医師と歯科医師 の両方の免許を持った場合であり,歯科医将校とは 別個の存在である。医科と歯科の業権境界問題は軍 内の決め事として処理されるので,社会とは直接関 係ないとはいえ社会で問題となりこれが廻って軍に 影響するかも知れないので無関心ではない。陸軍歯 科将校の制度ができたことは歯科医の社会的地位が 上がったと考えるので,歯科医は自覚の上向上に努 めてもらいたいということである。陸軍省医務局の 一課長の説明,あるいは武藤陸軍省軍務局長の談 話4) などは軍の性格と歯科医師に対する高圧的な考 え方を良く示している。 しかし,一方では歯科医将校制度の成り立ちは歯 科医学あるいは歯科医療の特性を浮き上がらせてい ることが分かる。それは日中戦争における戦線での 戦い方と兵器によった戦傷の広がりが日露戦争とは 比較にならないほどの顎顔面外科治療を数と質にお いて必要とし,そこでは歯牙と顎が一体として持つ 機能である咀嚼の回復を必然的に要求したという現 実である。今日の日本の幅広い歯科医学・歯科医療 の重要な一構成部分は口腔顎顔面外科学にあるのだ が,その胎動は軍医学校あるいは陸軍病院にあっ た。教育機関の病院で行われていた顎顔面外科は陸 軍軍医学校とその関連の陸軍病院で多数の治療症例 によって進歩し,戦後その体験は歯学部の病院で継 続発展したという流れである。 本稿では歯科医学教育の視点から軍医学校におけ る歯科医専委託生徒,陸軍歯科医将校・海軍歯科医 科士官,陸軍病院と軍医学校における口腔科と口腔 外科の成り立ち,そして戦前での歯科診療について 記したい。またこれらの理解のために最小限必要と 思われる知識も付記した。 軍の病院形態 1.陸軍5−8) かん が 陸軍の組織は役所に相当する官衙(陸軍省・参謀 本部・教育総監部),実戦をする軍隊,将兵を教育 する学校(実施学校・補充学校),衛生を担う衛生 部,そして特務機関から構成されていた5)。軍医学 校は学校部門,病院は衛生部に隷下した。 衛生部は将校の職業区分として軍医,薬剤官,歯 科医師(太平洋戦争),衛生(看護婦,衛生兵)となっ ていた。この医療担当者の勤務が病院と師団司令部 の軍医部となり,傷病将兵の診療,マラリアなどの 風土病に対する予防衛生,また食べ物,水などに よった伝染病の防疫などと広範囲であった。 えいじゅ ち 病院は平時には連隊所在地(衛戍地)に常設されて へいたん いる陸軍病院(旧衛戍病院)であるが,戦時には兵站 病院と野戦病院が戦地に設置された。戦線の後方か ら前線に向かって陸軍病院(昭和11年11月衛戍病院 から改名),兵站病院,野戦病院となる6) 。 例えば最前線の塹壕で一人の兵士が顔面と顎骨損 傷を受けたとして,必要な最終治療まで患者が動く 過程を見てみる。呼ばれて塹壕の受傷兵士のところ に駆けつけるのは衛生兵(衛生隊)である。衛生兵は 気道と出血に配慮しながら早急に担架兵と仮包帯所 に搬送する。患者は応急処置もそこそこに野戦病院 へ車輌隊によって搬送される。野戦病院は軍医が常 置され最前線の医療施設であり陣容も整えている。 とはいえ損傷は大きくこのテント作りの病院での長 期療養は適切でないので,縫合による初期的な止血 治療に限ることとして本格的な治療は後方病院であ る兵站病院で行うこととなる。搬送された兵站病院 での治療で気道障害対策もとられ,一応の顎骨と顔 面損傷への修復も施術される。1か月の入院で治癒 経過も良いのだが,歯牙も吹っ飛び咀嚼障害が顕著 でありこのまま戦線に戻すわけにはいかない。咀嚼 の機能回復には,顎補綴とさらに口腔リハビリテー ションも含めた長期的な治療が必要だと診断された ことから,高度な医療が可能で安全な陸軍病院への 後送が決められる。この受傷兵の連隊に陸軍病院は あるが口腔外科と歯科との両面からの施療は本国の 東京陸軍第一病院が適当と考えられる。同病院に収 容された患者は軍医学校口腔外科で治療されるとし 120 金子,他:戦時における軍と歯科医師 ― 18 ―

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て患者は本国へ海路搬送されるという流れであっ た。 陸軍病院がかつて衛戍病院(後に改名)ともいわれ たのは衛戍に由来する7) 。衛戍とは大日本帝国陸軍 がその軍隊を永久に一つの地に配備駐屯することを いい,その地を衛戍地(Garrison)と称した。陸軍は 師団,旅団,連隊,大隊,中隊,小隊,分隊から構 成されている8−10) 。 1888(明治21)年(5月12日勅令第31号)に陸軍常備 隊配備表として発令された初期を見てみると師団は 東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本にあり,た とえば第一師団(東京)に旅団の歩兵第一旅団(東 京),歩兵第二旅団(佐倉)があり,さらに隊として し ちょう へい 歩兵連隊と大隊(騎兵,砲兵,工兵,輜重兵)が東 京,佐倉,高崎の地に存在している。このような形 で6師団,旅団は12地(東京,佐倉,仙台,青森, 名古屋,金沢,大阪,姫路,広島,松山,熊本,小 倉)となっていて,48の隊が旅団のある地に加えて 豊橋,大津,姫路,丸亀に駐屯する陣容となってい た5) 。衛戍病院は連隊や旅団の駐在地に規模を変え て置かれていたことになる。その後の日清戦争,日 露戦争,日中戦争,太平洋戦争と戦役が重なり拡大 高度化するに従って戦時編成は大型化した。 日中戦争没発時には陸軍病院80院と分院が19院で あった。太平洋戦争開戦時になると陸軍病院は内地 77,台湾7,朝鮮11,樺太1,千島1,関東軍43, 支那派遣軍34の合計174院であり,終戦時には南方 軍17,台湾10,朝鮮14,関東軍69,内地軍等119で 合計229院と増加した6) 。 東京第一衛戍病院は昭和11年に東京第一陸軍病院 に,そして昭和13年に臨時東京第一陸軍病院と改名 されて全陸軍病院における最大規模にして中枢機関 であった。現在の東京国際医療研究センター(東京 都新宿区)である。 兵站(Military Logistics)11,12) とは戦闘地帯から後 方にある軍の諸活動,機関,諸施設を総称したもの で,物資の配給や整備,兵員の展開や衛生,施設の 構築や維持といった戦争における作戦を行う部隊の 移動と支援を計画・実施することをいう。兵站病 院13) とはそうした機能を持つ機関に付属した病院を 指し,約1,000名の患者を収容,救療できる人員お よび機材を有していた。前方の師団衛生機関(隊包 帯所,衛生隊,野戦病院その他)からの後送患者, 兵站区内部隊,兵站地通過部隊の患者を収療し,で きる限り患者を回復させて原部隊に復帰させること が任務とされた。呼称は○地○軍第○兵站病院とい う。伝染病などに備えるために非常収容力を設備す る必要があるので駐留地の大病院を利用した。やむ をえなければすべて天幕だけでも開設された。兵站 病院は赤十字条約によって交戦国間で尊重・保護を 受けていた。 野戦病院14) とは戦時・戦場における野外病院(野 外で治療する移動式救護施設)のことである。すで に古くなったがブラック・コメディ映画「MASH」 つまり Mobile Army Surgical Hospital がテント内 で手術などを行っていたのは朝鮮戦争下の米軍野戦 病院を映している。 日本帝国陸軍の野戦病院は一個師団(例えば昭和 12年8月のある野砲師団は25,254名15) に3∼4個程 度存在した。1野戦病院は約100∼200名の患者を収 容でき,救急救命処置(止血を含む)が最優先される ことが治療原則であり,これに準拠した本格的な手 術も行われた。野戦病院は自前の兵站組織や輸送手 段を持たないために,その活動は制限され自衛戦闘 は不可能であったとされている。野戦病院は戦線の 中核病院であり約240名の編成で軍医17名,薬剤官 2名,歯科医将校1名,衛生部将校3名,衛生部下 士官兵161名,輜重兵将校2名,輜重兵下士官兵116 名他と乗馬・駄馬76頭などとなっているがすべての 野戦病院がこれに順当していたわけではない。各野 戦病院は指定された歩兵連隊と行動を共にする。ま た,傷病兵の看護は衛生隊の衛生兵が担当した。野 戦病院と兵站病院の間に野戦予備病院が設けられる こともあった。 戦闘での最前線で将兵と一緒に動くのは非戦闘員 である衛生兵(combat medic)16) である。衛生兵は 負傷兵士の応急処置を施し,後方の野戦病院へ搬送 することを任務としている。衛生兵は戦時国際法で 兵科の軍人とは異なる保護資格が与えられていて, その重要性から師団の2−5%の人数を占めたとさ れている。陸軍の衛生兵は「病院付衛生兵」と「部 隊付衛生兵」とに分かれている。病院付衛生兵は陸 軍病院で医学の講義や実地習練としての病棟勤務が 行われたが,部隊付衛生兵は兵科から選抜され,教 歯科学報 Vol.120,No.2(2020) 121 ― 19 ―

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育は連隊の医務室と陸軍病院で行われた。両者の医 療能力は大きく異なっていて病院付衛生兵の方が高 かった。前線で負傷兵の救護にあたるのは部隊付衛 生兵でヨーチンと蔑称されていたが,戦闘中の兵士 からはヨーチンではなく「衛生兵殿」と敬意を込め て呼ばれていた。太平洋戦争における沖縄戦を舞台 にしたアカデミー賞(2017)の「ハクソー・リッジ」 は米国の衛生兵を描いた実話で,衛生兵の理解を助 けてくれる作品であった。 負傷兵の救護活動は前方作業としての戦線負傷者 の捜索,救急処置,包帯所への搬送(担架中隊)であ り,包帯所作業は救急包帯,副木といったより厚い 処置であるが輸送に耐えられる程度の初期処置であ る。後方作業としては包帯所で初療を終えた患者を 後方の野戦病院へ搬送する作業であり,車輌中隊が これに服した。 軍陣口腔外科の内容については坂下英明らによっ て最近詳しく解説されている17,18) 。 内地に着くと軽症では所属部隊の三等病院に,重 症者は二等病院(朝鮮,台湾を含めて全国に26か所) に,特殊治療あるいは義肢が必要であれば一等病院 (大阪,相武台,広島,小倉の陸軍病院),さらには 陸軍大臣直轄病院(臨時陸軍東京第一および第三病 院,名古屋第二,福岡第二の陸軍病院と軍医学校) に転送された17) 。臨時陸軍病院では精神的外傷への リハビリも身体的なものと同様に重視された。また 退院後の自立生活のための基礎的職業準備教育も 行った。日中戦争では傷病兵の治癒率は82%に達 し,日露戦争時の倍以上の効果が得られた19) 。 こうした軍の病院には1940(昭和15)年までは歯科 治療をする軍人としての歯科医師は勤務していな く,歯科医師は嘱託医(軍属ではない)として雇用さ れていて軍階級はなかった。歯科医将校制度は歯科 医学専門学校生徒が軍の委託生として第一段階の衛 生部将校育成に組み入れられたこと,また兵科将校 が転科して衛生部将校になる道ができたという大き な出来事であった。 2.海軍 海軍病院20) は1870(明治3)年に芝高輪に設置され ているが,1872(明治5)年の海軍省の独立に伴って 設置された海軍軍医寮が海軍における医務と衛生制 度の初めとされている。これが海軍病院の前身であ る。1873(明治6)年の徴兵制の施行により軍医科が 設けられ同9年「海軍武官官等表」の改正によって 医官は文官がなくなり全て武官となり軍医制度の形 態になった。その後,1986(明治19)年には薬剤官が 定められ任用された。看護科は1897(明治30)年の改 正によって士官(高等官8等)の官位が新設された。 歯科医師は1941(昭和16)年に海軍武官として加わっ た。それまでは嘱託歯科医であった。嘱託歯科医の 待遇は奏任官(三等以下九等までの高等官)であっ た。歯科嘱託医は1937(昭和12)年12名,昭和14年44 名,同20年には誕生した歯科医科士官を合わせて 570名が実働していた21) 。 海軍病院は海軍局医務局に隷属していて,大きな 病院(第一種)は鎮守府である横須賀,呉,佐世保, 真鶴に設置され,また野比,戸塚,霞ヶ浦,湊の海 軍基地の病院はその分院を3−5か所に有してい た。 海軍病院は3種類で第1種は戦地から送院されて くる患者用,第2種は第1種である程度回復した患 者用,第3種は長期療養を必要とする患者のため温 泉地などに設置されていた。また各軍港の海軍病院 と戸塚海軍病院,賀茂海軍病院には「練習部」が設 けられていた。「練習部」は1945(昭和20)年4月に 戸塚衛生学校,賀茂衛生学校として独立した18) 。 海軍歯科医科士官制度が始まる前には歯科診療は すべて嘱託医によって行われていて,その配置は鎮 守府海軍病院と各艦隊司令部だけであったが,1939 (昭和14)頃から兵員の急激な増加に伴い嘱託医も増 加して多方面に配置された。1945(昭和20)年1月で は 兵 力120万 名,軍 医3,800名,歯 科 医 科 士 官262 名,嘱託歯科医158名とされている。さらに1945(昭 和20)年4月には第6期(賀茂・見習尉官任用予定 者)281名が採用され,またその直後に予備役歯科医 少尉が316名採用されて,数か月の間に約600名の歯 科医科士官が誕生した21) 。 終戦時の歯科医科士官の配置は陸上廳(鎮守府, 海兵団,学校,作業廳,海軍病院),海上部隊(司令 部:連合艦隊,第2艦隊,第一機動艦隊,各方面艦 隊,航空艦隊,水雷戦隊,潜水戦隊,病院船,運送 艦),陸上部隊(警備隊,防備隊,根拠地隊他),航 空部隊などとなっている。歯科医師が乗艦していた 122 金子,他:戦時における軍と歯科医師 ― 20 ―

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艦船には戦艦が陸奥,大和,武蔵,金剛,日向,山 城,重巡洋艦が足柄,那智など5船,軽巡洋艦が矢 矧,能代など4船,航空母艦が翔鶴,瑞鶴など7 船,病院船の牟婁丸などが記録されている21) 。 3.軍人の階級 陸軍では軍人は「兵科」と「各部」と大別されて し ちょう いる22−24) 。兵科は歩兵,砲兵,騎兵,工兵,輜重兵 (戦線に輸送・補給する一切)・航空兵・憲兵であ り,各部は衛生,獣医,経理,軍楽,技術,法務な どの後方部職種とされ,医療関係は衛生部に属し た。衛生部は軍医,薬剤,歯科医,衛生で構成され ていた。 海軍では,兵科(水兵科,機関科,飛行科,整備 科,工作科)と陸軍の各部に相当する科として,軍 医科,薬剤科,歯科医科,看護科,主計科,技術 科,法 務 科,軍 楽 科 と な っ て い る(昭 和20年 終 戦 時)。 以下,階級を示す(陸軍と海軍の階級呼称が違う 場合は括弧内に海軍の呼称を記載)。二等兵,一等 兵,上等兵,兵長:兵。伍長(二等兵曹),軍曹(一 等 兵 曹),曹 長(上 等 兵 曹):下 士 官。准 尉(兵 曹 長):准士官。少尉,中尉,大尉:尉官。少佐,中 佐,大佐:佐官。少将,中将,大将:将官。 なお,陸軍,海軍共,各所属科によって呼称が加 わる(陸軍技術上等兵,陸軍主計中尉,海軍衛生兵 長,海軍歯科医中尉など)。 官吏は高等官と判任官に分類され,高等官として 大将は親任官(天皇が任命),中将と少将は勅任官 (内閣総理大臣が任命),尉官と佐官は奏任官(内閣 総理大臣が任命)と序列化され,下士官は判任官(大 臣が任命)でその下の兵は官吏とは認められていな かった。尉官から上位が将校(士官)であり,親任官 と勅任官が閣下と呼ばれた25) 。 呼び方には軍人としての出自や兵科・各部の違い などによって異なり複雑である。陸軍では少尉以上 の階級総称を兵科では「将校」と各部の「各部将校 (将校相当官)」とに分け,海軍では「将校」とは兵 科と機械科(後に兵科に併合)の軍人だけであり,軍 医科・薬剤科・歯科医科と主計科・造船科・造機 科・造兵科・水路科といった戦闘後方部門には「将 校相当官たる士官」と厳しい区別がされていた。そ して「部」や「科」によって階級の上限が決まって いるということである。医療職の最高位である中将 は陸軍では軍医,薬剤,海軍では軍医だけとなって いる。歯科医師はいずれも少将までである。ちなみ に大将は陸海軍ともに兵科だけの階級である。 軍医学校 1.陸軍軍医学校小史 以下は「陸軍軍医学校五十年史 昭和11(1936)年 発刊」26) から纏めた。 陸軍軍医学校は1886(明治19)年6月に創立され, 医師,薬剤師,看護婦(旧称),そして後発の歯科医 師を50年間(1936年まで)に総数で5,165名卒業させ た。しかし,軍医学校の萌芽は1870(明治3)年の大 阪軍事病院での軍医学校(軍医寮舎と呼称)の設立に あった。ここでは医学教育を他には依頼しないで独 自に養成した。大阪には陸軍の中枢を担う諸機関が あったことから,医学教育はオランダの医師ボード イン(大阪病院)が担当して当地が軍医学校の嚆矢と なった。 1875(明治8)年には東京医学校(東京大学医学部) の整備を見たので,陸軍部内で普通医学の教育をし ないで東京医学校生徒の中から,志願者を陸軍軍医 生徒(陸軍委託生の嚆矢)として採用し,卒業後に陸 軍病院で軍医特有の学術科を練習させて軍医に任ず るという,軍医養成の道を開くことが陸軍当局に よって決められた。この軍医育成法は二等軍医正石 ただのり 黒忠悳によって建議された。そして従来の軍医学校 である「軍医寮舎」を,1877(明治10)年に卒業生が 出ると廃止して「軍医学講習所」とした。委託生は 1876(明治9)年3月に20名,さらに明治14年12月に 10名を召募した。 (委託学生は東京医学校だけに召募されたのだ が,当時の官立医学校は東京医学校だけであった。 明治政府は旧幕府からあった医学校を,1869(明治 2)年12月に大学東校とし,1871(明治4)年に文部 省設置により大学東校を単に東校としてその所轄と した。1874(明治7)年5月にそれまでの東校を東京 医学校に改称した。東京医学校はそれまで予科3年 (医学前教育),本科(医学教育)5年制でドイツ語に よった教育が行われていた27)のを,日本語で授業を 行う4年制の通学生制度を別課として定員は60名で 歯科学報 Vol.120,No.2(2020) 123 ― 21 ―

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開設して医学の普及を計った28) 。1877(明治10)年4 月に東京医学校は,幕府時代の昌平黌と開成学校を 基とした南校と合併して東京大学となり,東京医学 校は東京大学医学部となった。そして1886(明治19) 年の帝国大学令によって東京帝国大学医科大学と なった。1875(明治8)年の公立医学校は東京医学校 だけであり,同年には最初の医術開業試験が3府 (東京,京都,大阪)で行われた:著者註)。) 1881(明治14)年には,第一回陸軍医学生徒として 東京医学校に学んだ委託生が陸軍に入った。軍医生 徒ではなかったが同窓中第一の異才と目された森林 太郎(鴎外)も卒業後に陸軍に入った。彼らは系統的 医学を習得した新進気鋭の軍医として,先ず軍学講 習所において教鞭をとり軍陣医学の教育に清新の気 を注入した。 1886(明治19)年5月に軍備の拡張,医学の進歩や 内憂外患で軍陣医学教育機関をさらに充実する必要 が生じたことから,「陸軍軍医学舎」が以下の性格 を持って開設された。 概則:陸軍軍医学舎は陸軍軍医生徒で医科大学卒 業生,医科大学卒業生にして軍医志願者(20歳以上 30歳以下の体格強壮)を講習生として入学させ,こ れに軍医特科の学術を講習することを目的とした。 また体格強壮18歳以上25歳以下の者で軍医部下士 (著者註:下士官)に出身志願者を選抜し,これに須 要な学術を教授する。さらに近衛鎮台(著者註:後 の師団)附医官(一,二,三等軍医)を召集して学生 医官として日新の学術を教授し軍隊一般の事項,流 行病,風土病,軍陣外科学,目耳診断法を習熟させ ること(明治19年6月か ら の 授 業 に は 近 衛 か ら1 名,各鎮台から18名を招集)。学期は講習生が6か 月,下士は12か月。なお講習生の人員不足がある場 合には,臨時に医術あるいは薬舗開業免状を所持す る者から補充し教育する。 明治20年:3月には東京在住の薬学講習生10名を 募集(出願者14名)採用し,本学舎で教育し同年10月 に卒業式で卒業証書を授与した。彼らは薬剤官候補 として当分東京鎮台病院へ通勤が命じられた。 明治21年:麹町の新築校舎に移転して「陸軍軍医 学校」と改称。陸軍軍医学校条例が制定(12月21日) され,在職衛生官,医官,薬剤官候補生の教生(教 育実習)が目的とされた。補充条例(12月24日)で医 科大学生から陸軍出身志願者を召集し,選抜して医 官候補生あるいは薬剤官候補生として医学校に通学 させて,卒業の上見習医官あるいは見習薬剤官とし て3か月以上衛生部士官の勤務に服させる。該候補 生は本校入学時から志願兵として陸軍制服着用,学 費は官費,身分取り扱いは三等看護長に同じ。 明治22年:陸軍軍医学校教官森林太郎は陸軍衛生 教程全書26編を編纂(3月)した。陸海軍での脚気論 争がされた。海軍は洋食,陸軍でもこれを謳歌しだ した。石黒軍医監は日本兵食の改変を強硬に反対 し,森教官に比較研究を命じる。森は薬剤官の大井 玄洞,飯島信吉と1年あまりの研究を終了した。 「之ニ由リテ幾千年来の慣習タル日本食ニ些カノ動 揺モ与ヘズ,特ニ兵食トシテ幾回ノ戦闘ニモ実績ヲ 発揚シ,永遠ノ基礎ヲ固ムルニ至レリ。」と結論付 けた。 明治26年:陸軍々医学校条例(7月6日)。衛生部 は上長官士官(後の佐官)29) を召集して学生として軍 陣医学,軍陣衛生学およびこれに関係する学術を実 験講究せしめかつ軍陣衛生試験を行うところとす る。 明治27年:日清戦争開戦と同時に軍医不足が生 じ,民間の医師を臨時募集してその不足を補った。 かん か この戦役は日本が初めて外国と干戈を交え,ついに 一躍世界列強に伍するに至った。 明治27/28年:日清戦争での戦死者および患者総 数は戦死者977人,患者総数284,526人であった。 明治29年:召集した軍医学校生139名,短期1か 月の練習終了後に任地に復帰させた。昨年末と合わ せて200名の卒業生を出したが未だ充足していな い。このため従来の士官補充の範囲を拡張して医術 開業免状,または薬剤師免状を有する者に陸軍衛生 部現役志願者を臨時募集して,軍医学校生徒として 軍医学校に入学させて4か月の特殊教育卒業の後, 見習医官,同薬剤官に任用の道を開いた。このこと は衛生部として特筆すべきことである。また,軍陣 衛生に関する試験を行うことも追加して本校の目的 と条例が改正された(5月9日)。 明治30年:免状所有の薬剤師19名を薬剤官生徒と して入学させる。これを軍医学校生の召募第一回と して11月に卒業式を挙げ,見習薬剤官として衛戍病 院に配属。 124 金子,他:戦時における軍と歯科医師 ― 22 ―

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明治31年:本年中医学生徒に採用されて卒業した ものは46名,これを軍医生徒召募の嚆矢として他に 軍医学生37名,薬剤官学生7名の練習を完了す(こ こで生徒と学生を使い分け,生徒の採用を最初だと しているので帝国大学以外の医学校からの召募に よったことを示していると思われる:著者註)。東 京大学にすら未だないシーメンスのレントゲンを購 入した。 明治36年:軍医学生の召集の数はますます多く なった。また本年中の修了者は83名。 明治37年:日露戦争が2月勃発した。各部隊の動 員と共に学生は所属部隊に復帰した。1月に召集し た軍医学生40余名も3月15日に解散した。 明治37/38年の戦役間における戦死者患者:戦死 46,423名,行方不明11名,患者1,668,076名(他に詳 細な統計が掲載:著者註)。俘虜は総数72,480名で 患者は7,990名で軽症者は収容所で治療,日本の予 備病院(松山,小倉195名,姫路,善通寺,金沢,青 森,名古屋,対馬,大阪,仙台,静岡,習志野,佐 世保,熊本,福知山,福岡,濱田,弘前,敦賀,鯖 江)で治療した者1,219名,また現地の附属病院など がある。 戦地俘虜患者22,649名,内外 両 地 入 院27,097名 (内死亡2,436名)。内地収容の俘虜患者は累計(1病 毎に1名)72,408名,うち9,209名は収容所病室また は予備病院に収容,このうち死亡は321名。 明治40年:今年初めて歯科学専攻学生を選定し, これを大学院に依託し石原講師(東京大学医科大学 歯科学講座 石原 久助教授:著者註)の指導を受け しめ,また9月には普通学生の歯科実習のため在京 各部隊の該科病兵を本校に集めることを定めた(医 師あるいは委託の医学生のことである:著者註)。 明治41年:陸軍軍医学校条例の改正(3月3日)・ 従来単に学生と称していたが事実は普通学生,専攻 学生,上長官学生の三種であったので,これを条例 にその区分を明示した。後に陸軍軍医学校条例一部 改正(明治43年11月30日) 陸軍軍医学校は学生を衛生部に必要な学術を練習 させ,軍陣医学を研究し教科図書の編纂または選択 をなし且つ軍事衛生に関する試験を行う。普通学生 は衛生部士官を当てる,専攻学生は練習を終わった 学生から選抜したる者とする。専攻学生は研究のた めに,帝国大学医科大学または伝染病研究所へ派遣 することができる。 6月1日には本校の画期的事業の一つである診療 部を開始する。目的は学生の練習のため軍人軍属そ の家族に限り,実費をもって本校内で診療をするこ とである。先ず耳鼻咽喉科の外来診療を開始し,次 いで歯科,皮膚科と外科で臨床学科の教育上非常な 効果をあげている。従来本校には実習用患者はいな くて,専攻学生だけは衛戍病院,東大医科大学その 他の官公立病院で実習または臨床講義の患者を求め あるいは手術を見学したが,普通学生には全くその 研究対象を欠き研学,講習上の不便が少なくなかっ た。診療部ができたが,歯科のように隔日交代で耳 鼻咽喉科と教室を共用し,大正元年9月に至るまで 3度教室を移転する状況であった。 明治42年:上長官学生,一等軍医以下学生68名 (うち専攻生22名)を召集して科目を練習させた。普 通学生の教科目に口腔外科学が含まれている(但し 口腔外科学には軍陣外科学,軍陣内科学のように軍 陣の名はついていない:著者註)。この年,1月初 めて二等軍医岡島 格が口腔外科の専任教官に任ぜ られる。 陸軍軍医学校教育細則(明治42年2月制定,明治 44年7月改定):第1回召集の軍医学生練習期は毎 年2月に始まり同年7月に終わり,第2回の練習期 は毎年8月に始まり翌年1月に終わる。 明治43年:召集した軍医学生161名,薬剤官学生 22名。 明治45年(大正元年):1月から3月の間に三回に 分けて選兵医学講習院の講習をした。科目は眼科特 にトラホームと耳鼻科。軍医74名。また歯科嚢およ び歯科器械の改正意見を医務局長に提出した。 大正5(1916)年:久しく本校嘱託として口腔外科 学を講じた石原 久講師の担任を解くにおよび,該 科の教育および診療は岡島 格教官が管理する。 大正8年:口腔外科に関しては本年5月に一,二 等衛戍病院における歯科医の雇用に関する件が発令 されたのをもって,当分は本学科専攻生の教育を廃 止する。但し,普通学生教育は本科知識の緊要性に 応じ従来通り継続する。なお5月に三内多喜治教官 は済生会麹町分院口腔科医長を嘱託され,同分院に おいては口腔治療室を新設し一般歯科患者の治療を 歯科学報 Vol.120,No.2(2020) 125 ― 23 ―

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開始する。 大正9(1920)年:今年の本長官学生は15名の招集 しょうけつ をみた。「時恰モ流行性感冒猖獗ヲ極メタル直後ナ リシヲ以テ,課程ノ一部ヲ割キ本病ニ関スル教育ヲ 行ヒ,以テ軍隊防疫ノ実行ヲ挙グルニ努ム(ママ)」 また流行性感冒の猛威を防ぐために大正9年次に入 営の壮丁(陸海軍とも)に対し入営前に本病予防接種 を実施すべき接種液を本年9月から本校から交付し た。 我が軍に於ける流行性感冒に就て (大正9年第1回)30) 陸軍軍医学校卒業式における御前講演集 流行性感冒の記録は古いが明瞭な記録は16世紀か らで特に18・19世紀には30年毎に全世界で反復して いて,その終息はいずれも数年にわたっている。最 後の流行は1889年から数年間流行した。本邦に於け る1890(明治23)年の流行はその余波である。 今次の世界流行は一昨年に始まり,我が陸軍では 1918(大正7)年の春に2,3の師団に小流行があっ たが同年5月から7月に至り各師団がほとんど一斉 に大流行をきたした。患者数は50,318名であったが 死亡者は3名と僅かであった。次が同年10月から翌 年1月にわたり激烈な流行が反復した。この間の患 者は38,481名で死亡者は555名となった。死亡率は 1.44%にあたる。さらに1919(大正8)年11月以降の 流行は最も猛烈悪性で本年(大正9)3月まで継続し て以後ようやく減退の傾向を示した。この間の患者 は33,850名で死亡者1,693名となり死亡率は約5% の多さとなった。本流行前の5年間の部隊に於ける 年間平均死亡者は308患者名で死亡率は0.16%なの で,比較するとその惨害は頗る多大である。一昨年 来の大流行は毎常兵員の入営を機として爆発してい て,初年兵と応召兵は古兵に比べてその罹患率は頗 る高くまた死亡率は4倍にも及ぶ。 内務省の調査によれば1918(大正7)年8月から翌 8年7月までの一年間の本邦内地に於ける本病患者 は21,168,398名で,これは人口の37%に相当し死亡 者は257,363名で死亡率は1.21%を示した。次の流 行である1919(大正8)年11月から本年4月までの6 ヶ月間の患者総数は2,323,479名で死亡者は124,660 名であり死亡率は実に5.36%の巨数を示す。 欧州では本流行の盛期は一昨年5・6月にしてそ れほど長期には続かなかったが9・10月になると再 燃してその後一弛一張各地に小流行が生じた。その 罹患率は各国差異があるが人口の20−40%となって いる。全世界の死亡者は初年度の流行で概算数100 万人以上に達するといわれている。 前回の世界的流行に際して1892(明治25)年ドイツ の細菌学者リヒヤルド・ブファイフェルが微小な細 菌を患者に発見したとのことで病原に関して一大光 明を得たと信じられたが,本菌の病原的意義につい ては次第に疑義が生じてきた。今次の世界流行に際 し各地に於ける検査成績で「インフルエンザ菌の検 出は流行の時期と場所でその数に著明な差異があ り,我々の軍医学校防疫学教室に於ける検査によれ ば死体解剖例から多数の本菌を証明できたとはいえ 1/3から半数の例に証明しえたにすぎない。その 他の学者の研究成績によっても本菌は本病の真因と して確かに承認を与えるに足る根拠はなお薄弱の感 があるだけでなく,これを否定するものあるいは細 菌もしくは濾過性病体を唱えるものあり今なお確定 するに至っていない。 患者および死亡者の検査材料から「インフルエン ザ菌以外に証明される細菌数は少なくなく,ことに 肺炎球菌および連鎖球菌は最も多い。我が陸軍各師 団に於いて多く検出されるのは前者に属する。した がって肺炎球菌は「インフルエンザ菌」と共に本病 特に肺炎症状を呈する症例に於いて重要な意義を 持っていると考えられるので病理組織学上の研究に よりこれを承認することができると考える。 肺炎球菌種に関しては本校での検査では本年度流 行の極期に得られた本菌種は前年度流行で得られた ものに比べ病原性が強い菌種が多く,特に粘液性肺 炎球菌は患者及び死亡者に於いて著しく多数に検出 された。この病原性の強い菌種は動物実験に於いて も毒力は強く,また人の格魯布性肺炎に於ける病原 としてその毒性が強いことから,本年の流行が昨年 よりも重症患者および死亡者が多かったのは肺炎球 菌の毒性の強さによっていると推定しえる。 本病の予防に関しては飛沫伝染による危険の防遇 に努めることが要義とする他に我が軍にあっては前 述の研究成績から「インフルエンザ菌及び肺炎球菌 混合予防液」を広く軍隊に使用し防疫の手段を講じ 126 金子,他:戦時における軍と歯科医師 ― 24 ―

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つつあるといえども未だ所望の成果を得る域には達 していない。 古来人類に多大な禍害を及ぼしてきた本病は今再 び全世界を風靡しその猛威を振るっていることか ら,この病原の研究は世界各地で行われている。し かし未だに解明に至っていない状況にあり,した がってその予防治療法に関しても将来の研究に待つ ことが少なくない。ますます軍陣医学の研鑽に努め て良い結果を得なければならないと考えている(現 代文に変更)。 (流行性感冒は後に云われるスペイン風邪であ る。世界で3000∼4000万人が死亡した。病因は上記 に触れられている濾過性物質,つまりウイルスだっ たのだが様々な感染性疾患の病因が細菌性である思 考を超えるのには少し時間が必要だった。インフル エンザ菌と肺炎球菌(現肺炎双球菌)の混合予防液 (ワクチン)は北里研究所によって248万人分(人口 5719万人)が製造され軍隊はもちろんのこと多くの 国民が接種を受けた。この効果について内務省の公 式見解は無効であったとしている。世界的に細菌説 が支持されている一方でこの時期に北里研究所の研 究員でもあった山内 保らは濾過性物質が病因であ り細菌ではないことを臨床研究(北里研究所ではな い医院)で発見し,フランスの学士院に1919(大正 8.4.1)に報告している。インフルエンザ・ウイルス 発見者は1933年英国の C. Andrews らとされている が山内博士への再評価が進んでいるようである31) : 著者註)。 大正10(1921)年:口腔外科学科では久しく治療用 動力装置の備付をしてこなかったが,本年4月以降 これを新設し診療上一段の進歩を促せり。大正7年 度からの診療部患者は漸次増し,9年度には1日平 均292.56人となり,教育上多大の便益を収めたとは いえ,周辺の急速な発展過程に適応させるためには 現在の規模では各分科における十分な臨床材料を得 るのは難しいので,近い将来には職員の増と設備の 充実を必要とすること切であった。これが後年戸山 原頭における堂々の偉観を出現させた胚芽であっ た。また,病理解剖室は独立したことから,我が陸 軍で胸膜炎多発の原因に関する調査研究として「軍 隊胸膜炎調査会」が軍令(陸普第二百八十号)をもっ て設置された。 大正11年:本年度学生入校は上長官学生15名,甲 種士官学生71名,乙種士官学生89名(薬剤官学生10 名を含む),准士官学生4名。3月29日に軍医学校 条例改正で従来の普通学生を乙種士官学生,専攻学 生を甲種士官学生と称し,従来その練習期間の4か 月乃至1年を概ね6か月乃至1年に改めた。また, 衛生部准士官の優秀なものを本校で教育し,看護官 とする制度となったことから本年度初めてその4名 の入校があった。 陸軍軍医学校学生採用規則(4月1日)と陸軍軍医 学校教育綱領(7月25日)が制定された。後者では学 生への学科目が軍医正・軍医と薬剤正・薬剤官,そ して准士官に別れて記載されている(いずれの学生 にも口腔外科はない:著者註)。 大正12年:関東大震災によって本校の大部分は崩 壊し軍陣衛生学教室と化学兵器研究室から発火し, 建造物機器備品の毀損甚大であった。しかし学校前 庭に避難して職員学生と入院患者には1名の死傷者 もなかった。本館のバラックが12月25日に竣工した のでここで教育が始まる。 大正13年:陸軍衛生部士官学生委託学生委託生徒 規則中改正・学術研究のために大学令による大学の 大学院もしくは研究科,伝染病研究所または医学専 門学校研究科に入学する衛生部士官を衛生部士官学 生と称する。 昭和2(1927)年:診療規定に関する内規(大正15 年6月25日改正)が掲載されている。口腔外科とし て充塡,有床義歯など約50処置の料金が記されてい る。下顎骨骨折手術,下顎骨脱臼整復術は外科部の 手術として区分されている。陸軍軍医学校学生心得 が同年8月に制定された。 昭和4年:牛込区戸山町の新校舎に移転。陸軍軍 医学校移転新築工事が説明されている。 陸軍軍医学校は明治21年に麹町富士見町に開設さ れたが,現校舎は狭くなったことから牛込区戸山町 の陸軍用地に移転工事をすることが決定。昭和2年 6月起工し同4年3月30日に竣工し移転を完了し た。新校舎敷地面積57,074平米(17,356坪),そのう ち牛込済生会病院の貸付地12,986平米。診療部本館 の西は東京第一衛戍病院敷地。 設置:東南に済生会病院,南端は事務所,各科診 療室,手術室,南病棟他など,以北を陸軍軍医学校 歯科学報 Vol.120,No.2(2020) 127 ― 25 ―

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診療部とし,南方2階は皮膚科,眼科,口腔外科, 耳鼻咽喉科の4科。病室は80床。本館および附属病 院(木造),衛生学教室並びに図書館,標本館(鉄筋 コンクリート))などとなっている。 この年の11月7日に天皇陛下が新校舎に行幸され る。概況が説明された。学生の種類として上長官 (現在入校していない),甲種(現在83名,このうち の40名は乙種の課程を終わり隊務に服していたもの から試験で採用した。1年間1科目を専門に学ばせ る),乙種士官(40名6月に初めて軍医,薬剤官に任 ぜられた者で初級軍医薬剤官に必要な学術を一年間 練習),准士官学生(6名三等看護官候補者)の4種 類となっている。他に中国から留学生が軍医として 3名入校している。創立以来学生数は4,000名。 昭和6年:5月に第一特命検閲陸軍大将白川義則 の検閲があり,学校長が軍紀,服務,教育,研究, 診療部の業務,防疫部の業務,図書の編纂,保育 (教職員,学生の保健衛生:著者註),法規の実施, 動員(腸チフス,パラチフス予防接種液の製造交 付:著者註),会計経理,諸営造物などに関する報 告が行われ,その摘要が記載されている。これに対 して特命検閲使から与えられた訓示と指示が記され ている(特別な指示はない:著者註)。 この年の9月18日に満州事変が勃発した。この事 変に関する陸軍軍医学校の業務が詳しく記されてい る。世界の情勢と本邦医学界に於ける現況に鑑みて 学校に於いては戦疫予防に関する研究は切迫してい ること,および戦傷患者の収容に関してまず述べら れている。研究の状況では口腔外科「顎戦傷」の研 究として「国産歯牙矯正器」「帯環顎副木及有鉤角 線副木」が製作されたことが記されている(歯科用 レントゲンはあるようだ:著者註)。また,東京第 一衛戍病院に於ける戦傷患者(昭和7年1月21日−昭 和9年3月31日)の延85,518名のうち口腔外科(三内 一等軍医正)は5,342名,眼科,耳鼻科は各約28,000 名,25,000名などが表示され,軍医の全国衛戍病院 への出張表もある。 昭和8年:11月には永久命令として各教室に分担 させる学校の研究項目を決めた。例えば,軍陣衛生 および化学兵器関係事項としては化学兵器によった 中毒患者の治療法,被毒を受けた部隊での消毒法, 防毒マスクや防毒衣の研究,兵食・兵衣・兵営の研 究など,また結核予防とチフス予防接種とともに防 疫部作業の合理化といった軍人病疫関係の研究,さ らには戦傷,軍隊病および選兵への医学的事項など の中には眼科的詐病看破法や梅毒の検査法および薬 物,衛生材料などその他広範にわたる。 また学生教育方針を変えるとして,主として乙種 学生の実務に熟練させるために従来の教育時間を改 め講義時間を少なくして臨床実習時間を増した。 昭和9年:陸軍軍医学校令改正(3月30日)・学生 の名称「甲種士官学生,乙種士官学生,准士官下士 官学生」を「甲種,乙種,丙種学生」に改めるとの ことで,准士官下士官(看護婦)が丙種となった。 また,陸軍軍医学校教育綱領が改定された(6月 30日)。目的として高邁なる品性の陶冶が加えられ た。軍人衛生学,軍陣防疫学,戦傷学,軍隊病学, 選兵医学などの教科目では習得すべき内容が説明さ れている。軍隊病とは平戦両時における軍隊に多発 あるいは特発する疾病と予想作戦地での特殊疾病を 指している。また国際法と外国語がありロシア・支 那など隣邦語中一個国語を習得する。運動系では体 操および剣術,馬術,体操なども重要視されてい る。医学のほか薬剤,看護の教育も記されている。 昭和10年:陸軍軍医学校教則として教育の実施規 定が昭和10年3月19日付けで改定された。例えば外 国語では文法を習得し,簡単な日常会話ができるよ うにするなどが加えられていて教育目標が設定され てきている。 昭和11(1936)年:陸軍軍医学校令が7月28日に改 正された。本校は陸軍大臣の管轄に属し,学生と衛 生部幹部候補生に衛生部の勤務に必要な諸般の学術 を習得させ,軍陣医学・薬学・衛生学の調査・研 究・試験および図書編纂する。また軍陣防疫学的な 検索材料・予防剤・および治療品の製造を行うとこ ろであり,教育・調査・研究に資するために一般患 者の診療を行うと定められた 学生は毎年1回入校させ修学期間は概ね1年とす る。甲種学生は一,二等軍医および一,二等薬剤官 のうち選抜試験合格者を軍事衛生に関する学術を専 攻させる,必要ならば長期学生としてほぼ1年間さ らに在学させる。乙種学生は初任の軍医,薬剤舘と して必要な学術を学ばせる。丙種学生は三等看護官 候補者をこれに当てる。 128 金子,他:戦時における軍と歯科医師 ― 26 ―

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昭和20(1945)年32) :3月には教育と研究部門のほ とんどと診療部の半分は旧制山形高等学校を中心と する山形平野に分散疎開して,学校幹事が山形市に 常駐して業務を統括した。軍医学校の一部と学校長 は東京に残った。軍医学校は5月23日の東京大空襲 で完全に焼失した。東京第一病院の本館は耐震耐火 構造であったために被害は少なくて済んだことから 戦後この建物が戦傷病患者や外地引揚者の診療の最 大の拠点となった。また,その職員は引揚船乗船救 護班員の派遣などで戦直後に目覚ましい活動をし た。現在の東京国際医療研究センターである。 2.海軍軍医学校 1872(明治5)年に海軍病院に併設された「海軍病 院学舎」が海軍軍医学校33,34) の嚆矢とされている。 英国軍医アンダーソンが日本の11名の医師に西洋式 の手術を指導した。その後9年にわたって医術教育 は継続し1881(明治14)年に第1回の卒業生を出した がアンダーソンの帰国で教育が続行できなくなっ た。しかし,これを継続させたのが高木兼寛であっ た。高木は薩摩藩の軍医であって戊辰戦争に従軍し た。その後高木は薩摩藩が創設した鹿児島医学校に 入学し,校長の W.ウィリスに認められ教授に抜擢 された。1872(明治5)年に高木は,海軍軍医療(後 の海軍省医務局)に入った。1875(明治8)年にアン ダーソンの推薦で聖トーマス病院医学校(現 King s College London)に留学した。1880(明治13)年にロ ンドン留学から帰国して東京海軍病院長となり,さ らに1882(明治15)年に海軍医務局副長兼学舎長(軍 医学校校長)に就任した。高木はその年に「海軍医 務局学舎」を再開して10名の医師の指導を自らが始 めた。高木は海軍軍医官委託制度を同1882(明治15) 年に開始し,委託生として東京大学医学部生7名を 採用した。 「海軍医務局学舎」は1886(明治19)年に「海軍軍 医学校」と改称され,1889(明治22)年に薬剤官候補 生の実習が始められた。1894(明治27)年に軍医学校 学生と候補生の卒業を終えて医学校は廃止された。 医学教育は海軍大学校に増設された軍医科で続行さ れ8名が編入した。 高木兼寛34)はロンドンから帰国した後の1881(明 治14)年には,松山棟庵(慶應義塾医学所初代校長, 13年に廃校)と共に英国医学を中心とした「成医 会」と「成医会講習所」を設立した。なお,東京歯 科大学の創設者である高山紀齋は成医会の会員で あった35) 。講習所は,医術開業試験のための夜間の 医学塾で高木など海軍軍医が講師を務めた。高木は 翌1882(明治15)年に芝に施療病院として「有志共立 東京病院」を設立(高木は副院長)した。この東京病 院は皇族からの支援を受け,また1887(明治20)年に 昭憲皇太后を総裁に迎えたことから「慈恵」の名を 賜ったことで「東京慈恵医院」(後に東京慈恵会医 院)と改称した。「成医会講習所」は1889(明治22)年 に東京府から正式の認可(各種学校)を受け「成医学 校」と改称した。また高木は聖トーマス病院医学校 の体験から看護婦の育成機関として,明治18年に 「有志共立東京病院看護婦教育所」を設立した看護 教育の先駆者でもあった。 「有志共立東京病院」は「海軍軍医学校」(旧海 軍医務局学舎)の臨床教育の場として継続した。学 制が各種学校から専門学校そして大学へと進展する 過程で,成医学校と東京慈恵会医院,そして有志共 立東京病院看護婦教育所は昇格した財団法人東京慈 恵会医科大学として一体化した。海軍歯科医学生が 後述しているように,東京慈恵会医科大学が海軍軍 医教育の場でもあったのは高木兼寛(最終階級は海 軍軍医総監)によった。 太平洋戦争のときの海軍軍医学校は横浜市戸塚, 元山(現北朝鮮),青島(現中国),広島県賀茂に設置 され,戸塚と賀茂には衛生学校が併設されていた。 陸軍軍医学校・衛戍病院と口腔科・口腔外科 この項は,上記の陸軍軍医学校五十年史26) と下記 の「皇紀2600年陸軍軍医学校口腔外科記念集談話 会」36) から纏めた。 まず兵隊用の病院は1868(明治元)年にでき,陸軍 軍医学校は大阪で1870(明治3)年に始まったが,陸 軍病院が次第に充実してきた1886(明治19)年に,陸 軍軍医学校の規則(陸軍々医学舎概則)ができて陸軍 省内に置かれた学校はその6月に始まっている。病 院は名前を数度変え東京衛戍病院となり,1888(明 治21)年には陸軍軍医学校条例が制定された。そし て1894(明治27)年8月から翌年4月までの日清戦争 の時に,東京衛戍病院に歯科口腔科が設置されて嘱 歯科学報 Vol.120,No.2(2020) 129 ― 27 ―

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託医の歯科医師が診療した。東京衛戍病院は,日露 戦争で陸軍予備病院の本院となり分院を持つように なった。分院は渋谷赤十字病院,戸山分院,氷川千 駄ヶ谷分院,習志野分院などであった。千葉県にあ る習志野分院は日露戦争では捕虜となったロシア兵 の収容所であり,その数4万人で伊藤忠三郎が出張 診療の時には1日100人は歯科治療をした。 1905(明治38)年1月8日に戸山分院に「口腔科」 が設置された。病院長は下瀬謙太郎,口腔科の科長 は岡谷米三郎一等軍医(軍医大尉),嘱託歯科医とし て伊藤忠三郎が配置され,その他に福田三等軍医の 配属で始まった。伊藤嘱託医は1週に1回午後だけ であった。また福田軍医の勤務は長くはなく,他の 軍医が配属されても戦時には戦地に派遣されてしま うのでいつも人出不足の状態であった。この陣容に 東京帝国大学歯科の石原 久助教授が1週に午後2 回の非常勤となり同科の佐藤運雄講師が幇助員とし て支援した。伊藤はモデリング,失活薬,その他の 診療機械を携帯して使用した。なおの不足は伊藤や 大学から借用した。 戸山分院は収容患者が6,000∼7,000名であり,他 の赤十字,広尾,千駄ヶ谷などの分院に比較して格 別の大きさであった。戸山分院は4区画となってい て3,000名を収容できる1区の外科棟13番室を口腔 科病室とし,外来は医官室をあてがった。戸山分院 には仙台第2師団,弘前第8師団,北海道第7師団 からの患者が収容され,原隊に復帰する前の中宿病 院が戦時の兵站病院に相当する役割をしていた。日 露戦争によった戦傷者では口腔科患者はさほど多く はなかった。 1906(明治39)年:陸軍軍医学校での口腔外科は軍 陣外科の一分科となった。当時の校長は森林太郎 (鴎外)で,帝大歯科助教授の石原 久が口腔外科を 一般軍医学生に講義していたので,森校長は「石原 に依頼して軍陣口腔外科の集大成を期す」とした。 1907(明治40)年:歯科専攻学生を選定し大学院に 委託する制度ができた。同年9月に普通学生を歯科 実習のため在京各部隊の該科病兵を本校に集めるこ とを定めた。 1908(明治41)年:軍医学校条例が改正されて学生 が普通学生,専攻学生,上長官(三等軍医正,後の 佐官)学生の3種類に分類された。専攻学生は普通 学生から選抜され東京帝国大学医学部,伝染病研究 所,官公立病院での実習や臨床講義,また手術見学 をすることができた。普通学生は専攻学生の如く, 手厚く教育ができない欠点を補う意味から陸軍軍医 学校に外来診療部を開設した。まず耳鼻咽喉科の外 来,次いで歯科,皮膚科,次に外科。歯科は隔日交 代で耳鼻咽喉科と共用した。 1909(明治42)年:1月に軍医学校に初めて二等軍 医岡島 格が口腔外科の専任教官に任ぜられ10年間 勤めた。この折に教育細則(教授要目第二十条,軍 陣外科学)が以下のように定められた。「口腔外科に 在りては平戦時に於ける歯牙疾患に関する主要の学 説を講授し,診療治療並に歯牙保存に関する実習を 行う」とされた。 1914(大正3)年:下瀬謙太郎大佐(一等軍医正)が 校長に就任(大正3.8.10∼9.4.9)し,兼任の戸山分 院長として赴任した。軍医学校に口腔外科が設置さ れる。その設置にあたっては予算がなく,歯科商会 から8台の足踏みエンジン付き歯科用椅子や備品の みならず技師1名,看護婦2名の提供を受けて診療 ができるようになった。 1916(大正5)年:陸軍軍医学校嘱託として口腔外 科学を講じていた石原 久講師が解職となり,該科 の教育および診療は岡島教官の管理となった。 1918(大正7)年:外科の1分科である口腔外科の 岡島教官は転出し一等軍医三内多喜治が教官となっ た。この年,シベリア出兵にあたり司令部,兵站監 部に歯科医が配属される。また現地陸軍病院編成に あたり,歯科医師,産婦人科医各一名配属できるよ うになり,歯科医師は特に歯科診療所を市内に新設 しあるいは巡回診療を行った。一報告によれば, きゅうじゅつ 「軍司令部は黒龍江沿岸地方のロシア人の救恤(哀 れみ救うこと(スーパー大辞林))目的で尼港分院の 職員が同地方の巡回診療班として軍医一,歯科医 一,看護長一,卒三,護兵四並びに衛生材料を編成 して巡回診療をした」とあり,救済並びに宣撫工作 に活躍したようだ。 1919(大正8)年:5月に一,二等衛戍病院におけ る歯科医雇傭に関する発令が成されたことから,当 分の内本学科専攻学生の教育が廃止された。ただし 普通学生教育は本科知識の緊急性に応じ継続するこ とは従来通りとされた。同5月に三内多喜治教官は 130 金子,他:戦時における軍と歯科医師 ― 28 ―

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済生会麹町分院口腔外科医長を嘱託された。同分院 での口腔科治療室を新設し,一般患者の治療が開始 された。内地における各陸軍病院に歯科医師が採用 (嘱託)されることとなり隊の歯科患者の通療が行わ れるようになった。 1921(大正10)年:軍医学校口腔外科学科では,初 めて治療用動力装置(歯科用電気エンジン:著者註) が装着された。 1928(昭和3)年:済南事変(第二次山東出兵)が起 こり師団(衛生班)に歯科医師が配属された。衛生班 の編成では歯科医師を配属し各地に歯科診療所を開 設している。 1929(昭和4)年3月:陸軍軍医学校は麹町富士見 町から現在(当時:著者註)の牛込区戸山町に引っ越 した。 1931(昭和6)年:満州事変の勃発,事変当初は派 遣の各大部隊の衛生班に歯科医師1名ないし2名配 属となり,歯科医師は衛生班主力と行動を共にして 各地に診療所を開設し,また単独に遠隔の各部隊に 出張あるいは巡回診療を行った。次いで現地に陸軍 病院が開設されると,歯科医師の採用(嘱託)配属と なり或いは衛生班附歯科医師の転属となって,全満 全軍の歯科診療に遺憾ならしむるに至った。本事変 における顔面顎部の戦傷は,現地陸軍病院において 歯科医師により比較的早期に処置されたことから, 著しい骨欠損を来さないで治癒した例が多い。長期 間の特殊治療が必要な場合は,内地還送して東京第 一陸軍病院に収容して軍医学校において治療が行わ れた。 下瀬謙太郎軍医少将等関係者談話による 陸軍軍医学校口腔外科設立経緯 1940(昭和15)年に「皇紀2600年陸軍軍医学校口腔 外科記念集談会」が開催され軍陣歯科が回顧されて いる。下顎骨骨折固定法としての三内式結紮法の考 案者である三内多喜治陸軍軍医少将37) の挨拶に始ま り,戸山分院長また軍医学校長として口腔科の確立 に尽力した陸軍軍医少将の下瀬謙太郎38) による戸山 分院の回顧,東大医学部歯科講師として同科助教授 石原 久と共に幇助員として口腔科の診療に助力し た日本大学専門部歯科科長の佐藤運雄39)による陸軍 東京予備病院戸山分院口腔科に就いて,伊藤忠三郎 歯科医師40) による日露戦争当時の東京予備病院に初 めて設置された歯科口腔科に就いて,陸軍軍医学校 口腔外科の現役教官である川又俊夫41−43) による日清 戦争,日露戦争,シベリヤ出兵,満州事変などの戦 役での軍陣歯科の変遷などの講演がありその講演要 旨が歯科公報に連載されている。但し,川又の講演 要旨は3回連続で掲載されているが,2回目からは 厚生歯科学会昭和十六年度総会講演要旨となってい る。該学会の会長と掲載誌の編集者は今田見信であ り,さらに彼は軍陣歯科の回顧(7)としてその後 (10)までを掲載し,その(7)から4回にわたって明 治からの「歯科軍医設置要望」をその論議類纂とし て纏めている44−47) 。記念集談会と厚生歯科学会との 開催日の記載がないので,両者の関係は不明だが当 事者の講演録なので有益である。 軍医学校の「口腔外科」の母体は戸山分院の「口 腔科」にあった。当時戸山分院長であった下瀬謙太 郎38) が,口腔科誕生には岡谷米三郎一等軍医の熱意 と東京帝国大学医科大学歯科の石原 久助教授の示 唆によったことを語っている。「岡谷軍医は軍医学 校で外科を専攻したが後に歯科に興味を持って石原 教授のもとで見学した。将来は歯科専門に移りたい という希望さえ持っていた。こうゆう人がいたこと から歯科治療は早くから手がつき,別に専門の歯科 医(伊藤忠三郎:著者註)を一名配属して貰った」。 そして,科の命名と石原との関係を下瀬は以下の ように述べている。 石原博士が戸山分院に勤務するようになったの は,日露戦争の結果軍医が足りなくなったところに 帝大から陸軍の戦時勤務に携わり国事に尽くしたい がどうかとの話があった。結果青山胤通学長(医学 部長:著者註),三浦謹之助教授初め若い教室員ま で約120名がこの病院に来るようになった。石原も その幇助員の一人として勤務した。こうした時に私 も赴任したのだが,大学と陸軍の病院とは勝手が違 いなかなか文句が出ていた。石原 久助教授が来た ことに岡谷軍医は喜んだ。私と石原とはドイツ学校 の寄宿舎や大学の下宿でも一緒の縁があった。石原 は歯科に関していろいろ注意をしてくれ,治療面で も岡谷軍医の強い力になり,歯科に関することは石 原教授に相談してやる風だった。当時佐藤運雄講師 がやはり幇助員として歯科の治療に尽力してくれ 歯科学報 Vol.120,No.2(2020) 131 ― 29 ―

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