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清沢満之とその教育思想

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(1)清沢満之とその教育思想 久. 木. ManshiKiyosawa. 幸 His. and Yukio. 男 Thought. Educational. HISAKI*. StJMn4ART This. (1863-1903), helped. tained. most. the. through. his his. actual. life. of. the. and丘nding. faith. of in. true. Rescript the. on. purpose. meaning. the. schools. the against Education.. Kiyosawa. and. colleges. educational. He. asserted the false. of overcoming for of life, and method of. standpoint. the. same. Ee,. teaching)・. of. spiritual. freedom. at-. Buddhism.. educational none. anti-patriarchism,. for. middle. standing. developmental. from. teaching. in. teaching. Imperial. "kaihatsu-ky∂ju''(the freedom. thought of Manshi Japan・ Meiji. thought,. the. phases. System. advocated. supported. in. in. of. experience. educational. represented. Tenn6. of. his. educational. Buddhists. prominent. unique. the. the. clarify. and. form. face. must. be. to. Buddhism System. In short, .and. of. in. Tenn6. consciousness. also,. the. Kiyosawa. pupils. purpose,. intended. to. of. tbat. one. faith. His ideal. is. paper. thought of. which. can. be. his. contemporary. characterized. as. supernationalism,. thinkers. could. share. paci丘sm with. him.. I 明治・大正期のすぐれた教育思想家,かつ(広義の)教育実践家であった沢柳政太郎が,. 中村敬宇・福沢諭吉・新島裏に「匹敵するべき偉人」と評し1),藤岡作太郎が「当時思想 はじめ. 界の雄を以て目せられしほ大西祝と清沢満之となり」と述べた2)清沢満之についてほ,こ れまで仏教者としての思想や実践がことこまかに紹介もされ,考察もされてきているが3), かれの教育思想についてほ,従来はとんど顧みられることがなかった4)。尾張藩の下級武 士の家に生まれたが,年少にして僧侶となって以来,仏教者の立場を貫いたかれの場合, これはある意味でほ,当然のことといえるかもしれない。たしかに,かれの思想と実践と の中核をなすものほ,仏教-浄土真宗の信仰であり,かれほこの真宗信仰を軸として自 己の思想を形成して行ったのであって,かれが教育について発言する場合にも,つねにこ. の姿勢を崩してほいない。 しかしそれにもかかわらず,ここにあえて清沢の教育思想をとりあげようとするのは, 次の二つの理由にもとづいている。 1.清沢における教育思想のウェイト. かれにほ教育に関する著作(単行本)はないが,教育について論じた小篇をいくつか残 *教育学教室(°ept.. of. Education).

(2) 25. 清沢満之とその教育思想 している。そして,これらの小篇を通じてうかがい得るかれの教育思想には,その信仰の. 単なる「応用篇」あるいは"corollay"に止まらぬものがある。かれの思想の展開を通観 すると,教育についての思索の深まりが,信仰の深まりと媒介しあっていることが認めら れる。清沢の信仰の実践的性格からいってこれほ当然のことともいえるのであるが,とに かくかれの思想体系中における教育思想のウエイトほ,けっして看過され軽視されてよい 底のものでないことはたしかであろう。かれほ「教育が社会啓発の為に枢要なることは, 論ずるまでもなき所5'」と,教育重視のことばを洩らしているが,おそらくかれが自ら意 識していたであろう以上に,教育思想はその思想体系中に大きいウエイトを占めている。 2.清沢教育思想の特異性 天皇中心主義教育体制の確立期にあたる明治20年代から,. 30年代前半にかけて,教育. 実践にたずさわるたびたびの機会をもった清沢ほ,その実践と思索とをとおして,同時代 の教育思想とはきわだって特異な主張をくりひろげている。かれが,義務教育年限延長の 主張をもっていたことは6',とくに奇とするに足りないかもしれないが,時代の流行思潮 たる-ルバルト主義に一顧だにも与えず,国家有機体説にも必らずしも左担せず,かつき わめて特異な仕方で天皇中心主義教育体制批判を試みていることは,じゅうぶん注目に価 しよう。. 「明治時代において社会主義に同情と理解とを示しているほとんど唯一の仏教. 徒7)」と評される清沢は,社会主義老たちのごとく天皇制打倒を叫びはしなかったけれど も,深い内観に根ざす確信をもって,天皇中・[J主義教育体制に対するNein. !をくりかえ. している。要するに,清沢その人の思想の把握を深めるためにも,また現在まだじゅうぶ. んに究明され尽しているともいい難い明治20-30年代の教育思想の理解を進める上にも, 清沢の教育思想を改めてとりあげることほ,けっして無駄でほないと考えられるのである が,清沢の教育思想を検討するに際して,どうしても見落すことのできない点がある。そ. れは,かれの教育思想が机上の思弁の所産でほなく,その生活と実践の中から紡ぎ出され 「実験8)」をとおして得 たものだということ,かれがしばしば用いることばを借りれば, られたものだということである。この意味で,かれの教育思想について語るためには,先 ずかれの生活経歴-伝記をとりあげることが不可欠の課題となる。もっとも,かれの伝. 記はすでにかなり詳しく研究されているので9',ここではかれの教育思想形成にとくに関 連深いと考えられる点を*・[Jに,かんたんにかれの生活経歴を回顧するにとどめる.. 文久3年(1863),尾張藩の下士・徳永永則の子として生まれたかれほ,愛知県義枚・ 学制による小学校を卒業後,愛知英語学校に学んだが,同校は明治10年4月廃校となり, っいで入学した愛知県医学校も同年9月廃校となったため,知人の僧侶のすすめに従がっ て「勉強させて貰えるということで10'」翌11年,京都の育英教校(明治8屯東本願寺 が設立した英才教育棟関)に入学,同時に得道して僧となった。いわば修学の便のために 仏門に入ったわけであるが,教校在学中にほ,仏教の研究にもしんけんに取りくんでいる。. しかし,明治14年,東本麻寺東京留学生として大学予備門に入学,ついで東京大学に進 む際にほ,物理学専攻の希望をもっていたといわれるが11),結局文学部哲学科に入学,と.

(3) 26. 久. 木. 幸. 男. ・くにヘーゲルをフェノロサに学び, --ゲル弁証法を深く理解したといわれる1皇'.明治20 午,帝国大学文科大学を卒業,大学院に進んでブッセの指導をうけるかたわら,第一高等. 中学校・哲学館の講師となり,学者としての途を歩み始める。ところが翌明治21年(1888), 東本願寺が京都府から「経営を依頼13)」された京都尋常中学校に校長として就任すること を要請され,学者コースを断念して,青年教育にたずさわることになる。 かれとしてほ,まさに百八十度の転換であるが,かれがアカデミック・コースを進むこ. とにおもいを断ち,東本願寺の要請に応じたのは,一般にいわれているようシ羊,やはり・東 本願寺に対する「報恩の念」によるものであろう14)。ところで,東本願寺がかれを東京か ら呼び戻したのは,京都府から「経営を依頼」された尋常中学校の校長適任者がほかに得. られなかったからであるが,そもそも京都嘩が府立中学の経営を東本願寺にゆだねたのほ, 府の財政難のためであるといわれている。とすると,結局京都府の財政難がかれをして青. 年教育の途を選ばせた究極の原因だということになろう。ただし,従来この「財政難」の 実態ほ,必らずしも明らかにされていないが,実ほ府立尋常中学校資本金を第三高等中学 校の移転新築費に充てたため15',尋常中学校の有力な財源が失なわれたことが,京都府が 尋常中学校を維持し得なくなった原因である。すなわち,森文政下の中学校令にもとづく. 文部省告示16)により,大阪の第三高等中学校が京都に移ることになったが,それにほ京都 府がその新築費10万円を支出することが条件になっていたため17I,府では尋常中学校資 本金の全額31,613円余と地方税68,386円余,合計10万円を拠出することを余儀なく された18)。その上,高等中学校経常費の1/2も地元負担とされたため19),ついに尋常中学 校経費を明治21年度予算から全額削除せざるを得ぬ事態に追いこまれた皇0'oそこで,か って尋常中学の経常費を寄付した「実績」をもつ21)本願寺に,その経営を委任することに なったのである。いわゆる「財政難」の実態が叙上のごときものであるとすると,結局か. れをして教育実践に挺身させる原因となったものは,森文政による高等中学校拡充政策だ ということになるが,かれが校長就任を出発点として,森が強固な路線を敷いた天皇中心 主義教育体制を鋭く批判するに至る思想的立場を形成して行ったことは,まことに歴史の 皮肉というべきであろう.. ところで,明治21年,数え年26才で京都尋常中学校長となったかれは,英語,歴史 等の教科も担当しているが,. ・当時の京都尋常中学生でのちに東大言語学教授となった藤岡 勝二によれば,かれの英語の授業振りほ「実に懇切で」一度も叱られたことほないが,何. となく遊ぶことができなかったといい,また歴史でほリポート試験を課するなどの試みも 行なっているが2皇),のちに開発教授の熟Lな擁護者となる片りんほ,ここにもうかがわれ る。. (なおかれほこの年,三河大浜西方寺清沢家の婿養子となっている。). ところが明治23年7月,かれほ突然校長の職を理科大学卒の後輩・稲葉昌丸にゆずっ て平教諭となり,同時に,極度の粗衣粗食に甘んじ禁酒禁煙を励行しきびしい日課に従が う禁欲生活に入った。その動機について,かれ自身は何事も語っていないが,禁欲生活を 始めたのほ,堕落した僧風復興のためともいわれ皇8',またかれの倫理的厳粛主義が実母の 死を契機に徹底的な否定精神に到達したものともいわれている24'oそして,外に対する批.

(4) 清沢満之とその教育思想. 27. 判を内にひるがえし,堕落した僧風を自己の内に見たかれほ,一校の指導者たるに価せぬ 自己を発見し,校長辞任にふみきったのであろうoただしかれの禁欲生活は,少なくとも かれの主観においてほ自力的修道ではなく,明治25年ごろの作と考えられている「宗教 けつじよう 要旨」の中にいう「信心決定後の報恩謝徳の行」としての「道規の修習」と見ていたよう であるが畠5,,のちにはそれを「自力の迷情」と反省している皇6'.いまひとつ,清沢の禁欲. 主義において注目されることほ,それが自閉的に欲望を禁圧することのみに限局されず, 自己批判が外界批判と媒介しあっていることであろうoかれほ外-の批判を内-ひるがえ すとともに,その内-の批判と禁欲的精進とを起点として,外-の批判とその改造の努力 とを怠らないのである。だからかれほ,きびしい禁欲生活を一方では続けつつも,けっし て外部への関心を失なわず,明治25年には処女作『宗教哲学骸骨』を出版し,また府立 尋常中学の改善にも,すこぶる心をくだいているo 府立中学校を東本膜寺が経営したのは,明治21-25年の5か年間であるが,この間に 東本願寺が中学経費として支出した金額は,大谷派法主-の府会感謝決議によれば,合計 約29,800円余27),. 1か年平均紛5,800円余で,これに約2,000円余の授業料を合わせ. た約8,000円が同校1か年の平均収入であった。これに対し1か年間の支出は,例えば明 治25年度の場合について見ると,人件費が約93%を占私設備費その他はわずかに (同年度の全国平均は25%で)28',財政的条件ほきわめて劣悪であるoその上,東 6.6% 本頗寺の財政難のた臥そのわずかな中学経費の支出さえ,しばしば遅延する有様だった という.清沢が明治24年秋,稲葉とほかって教学資金募集の計画をたてたのは皇9',かれ が学校改善の熱意をもっていたかぎり,当然のことであったoもっともこの計軌ま本山当 局によって阻止せられたが,ついで翌25年秋,再び財政・教学計画をたてて本山と交渉, このたびは計画の大半が採用されたという。この第2次計画の内容は不明だが,当時,翌 26年度から京都中学が東本膜弓の手を離れて府の経営に戻ることが,すでに予定されて いたので30,,それに代る教育機関の設立が計画の中心であったと考えられるoそして明治 26年,大谷尋常中学校が新たに設立され,同年9月には,清沢の学友で「教科書機密漏 洩事件」のため文部省図書課長を退職した沢柳政太郎を校長に迎えているo清沢ほ,稲葉 や第四高等中学講師から転任してきた今川覚神とともに,沢柳を中心にして,学園整備計 画を進めることになる。. この計画がひとまず完成するのは明治27年7月であるが,これに先立って同年4月, 清沢は肺結核にかかり,これまでの禁欲生活に一応終止符をうって兵庫県西垂水に転地療 養を試みる。ところがかれの療養中に,本山保守派と気脈を通じた生徒のストライキ事件 が起り,沢柳は解職,稲葉・今川ほ減俸の処分をう仇清沢が構想した学校改革ほ一挙に 瓦解する。しかし当時不治の病と考えられていた肺患にかかったことによって,否応なし しようじ. に生死の問題に直面せしめられたこと,罫L、惨たんの末ようやくその一端が実現したばか りの学園構想が全面的に崩壊したこと,さらに明治29-30年,稲葉・今川・月見覚了ら の同志と試みた教団改革運動が挫折したことなどを通じて,かれほ自己と運命-の内観を 深め, 『阿含経』『教具抄』『エビクチタス教訓書』などに学びつつ,真宗他力の信仰を確.

(5) 28. 久. 木. 幸. 男. 立して行く81'o清沢がのちに「精神主義」と名づけたかれの思想の中枢部は,この時期に 形成されたものである。. この間病状ほ一進一退の経過をたどっているが,明治32年,法主後継者・大谷光演に 招かれて,その教育係として東上する。ところがかれの東京の寓居に,京都尋中時代の教 I土や. え子でかれに傾倒する暁烏敏・多田鼎・佐々木月照らが集まって共同生活を営むようにな り,一種の私塾(浩々洞と名づけられた)の形をなしたが,翌々34年から,浩々洞主催 の日曜講話や雑誌『精神界』の発行などの対外活動も行なっている。浩々洞は私塾といっ ても,むろん系統的学習を目ざしたものでほなく,宗教書・文学書の輪読・廻読,清沢の 談話,自由討論,個人指導などが折にふれて行なわれたo塾生は大学・専門学校の学生で, かれらに対する清沢の態度は,暁烏が「先生の弟子に教ふるや,各人の性格をさとり,そ の機に応じ,智を以て之を開発し給ふo先生ほ卓励たるソクラチックの論法を以て我等を 開導し給ひ・-誘導至れり尽せり」といい,多田が「規律を以てせず,叱責を以てせず, 一に自由に放任すo菅にそれのみならず,折々の茶話会にほ,年少の老と共に遊戯の中に も加り,共に興じ共に戯れたまふ。而して何となく温かなる空気満洞に動きて,自然に 統理せられ,一言の不平をいふ老なかりき」と語るがごとく32,,京都中学時代以上に,開 発主義的行き方に徹していることがうかがわれる。 東京在任中の清沢の仕事として,浩々洞における指導とあいならんで重要なのは,真宗 大学学監(学長)としての活躍であろうo明治32年,本山当局から学監就任要請をうけ たかれは,先年の学園改革の失敗をおもっていくたびか熟慮を重ねたのち,大学の東京移 転,教育方針やカリキュラムへの不干渉等を条件に,就任を承諾する33).月見覚了宛の書 翰に「只だ大学生に対する一片の心と,真宗大学と云ふものを思ふ一片の心ほ,今日の如 き場合にほ,. -ツ前後左右を顧みず,盲目的に引受けても見度存険へ共・-・」といい34,, また井上豊忠に宛てて「顧みて一派の裏面を観察致候-ば,実に前途暗蒋の景勢に有之侯。 決して校舎の建築移転を喜ぶが如き余地ほ無之かと存ぜられ侯」と書き送っているが35】, いずれもかれのいつわらぬ心境であったようである。. 東京巣鴨に移転した真宗大学ほ,すべて清沢の構想にもとづいた新組織をもって,明治 34年10月開講されるo予科2年,本科3年,研究院5年という構成や,帝国大学令を意 識したことが明白な,. 「真宗大学-宗門ノ枢要二応ズル学科ヲ教授シ,及ビ其ノ縫奥ヲ研究. セシムルヲ以テ目的トス」という「真宗大学条例」の条文,さらに,哲学の朝永三十郎・ 紀平正美, Jb理学の福釆友吉など新進俊英のスタッフなどを見ると36,,清沢が真に大学の 名に価する大学,さらに「従来の宗門大学の観念を完全に破った,近代的な文科大学37,」. の建設を意図していたことほ明白である。. 「この大学ほ世界一の仏教大学たらしめぎるべ. からず38'」というかれのことばにもよく現われているように,清沢ほ最高レベルの仏教の 学を真宗大学に期待した。そしてかれにおいて仏教を学ぶということは,. 「自信数人信(自 ら信じ人をして信ぜしむ)の誠を尽すs9'Jことにほかならなかった。それゆえかれほ,ふ. つうの私学がこぞってしたように,文部省の認定学校となって卒業生に中等教員資格を賦 「嘆ずべきこと」として強く斥けている40,oところがこのこと. 与されようとすることを,.

(6) 清沢満之とその教育思想. 29. が学生の問に不満をひき起し,明治35年10月,学生騒動がぼっ発する。学生の主な要. 求ほ,教員免許状の件と,若手教官を「知名の大家」にかえることであったが,かれは学 生の説得を試みることもなく即座に辞表を提出,ただちに三河-帰郷する。真宗大学移転 後ちょうど1年,そしてかれが翌36年(1903)6月, 41年の短かい生涯をおえる8か月 前であった。 学生の要求ほ,要するに真宗大学を「ふつうの私学」化しようとするものであり,かれ が真宗大学に寄せた願いとは根本的にあい容れないものであったが,かれが学生の説得を. 試みることさえせずただちに辞職したのは,過去1年間にその精神を学生たちに伝えるこ とができなかったという事実に対して,責任をとったのであろう。養父母と実父とに辞職 を報じる書翰に,この学生騒動を「学校の方不行届に相成」と述べているごとく41),かれ. ほ事件を自己の「不行届」とうけとめたのである。そしてこのような「不行届」をもって かれの教育者としての活動ほ終止符をうつ。青年の日にアカデミック・コースを断念して 仏教教育者の途をえらんだかれほ,常識的にほ教育者の事業にも敗れたといってよい。た. しかにかれの生涯ほ,失敗と敗北,挫折と悲惨に終る苦斗の一生であった42)oその苦斗が 実は徒労でなかったことを証するのは,ただかれの精神と思想,およびそれらを正しく継 麓する何人かの後継者たちの存在のみであろう。しかしこのことほ,実はかれの悲惨が類 いまれな栄光であることを物語っているのではないだろうか。すく小れた後継者を育て得た ことについてほ改めて述べるまでもない。しかしその思想ほなぜ教育者・清沢満之の栄光 であり得るのか。これを明らかにするためには,かれの教育思想の内容を検討しなければ ならない。 注 1)沢柳政太郎『退耕録』. (『沢柳全集』第2巻, p.476) 2)藤岡作太郎『国文学史講話drj p.435 3)教化研究所(編) 『清沢満之の研究』,西村見暁『清沢満之先生』,吉田久一『日本近代仏教史 研究』,同氏『清沢満之』 (人物双書)などが代表的なものである。 4)広瀬某氏が真宗大学に閲し,宮城顕氏が浩々洞での門下生指導に関連して,清沢が支持した 「開発主義」に言及しているのが,わずかな例外である(教化研究所(編) 『清沢満之の研究』 p.241,. 5) 6). 347). 「ソクラテス」. (『清沢満之全集』〔以下『全集』と略称〕第6巻, p.357). 『六花郁々』 (『全集』第5巻, p.94). p.439 7)船山信一『増補明治哲学史研究』 8) 「仏教者孟自重乎」 (『全集』第4巻, p.343) 9)西村見暁『清沢満之先生』,吉田久一『清沢満之』. 10)吉田久一『清沢満之』. (人物双書). p.48. ll)西村見暁『清沢満之先生』 p.39 12)船山信一『増補明治哲学史研究』 p.78 13)吉田久一『清沢満之』 p.70 14)松原祐善「清沢満之の精神主義」 (教化研究所(編) 『清沢満之の研究』 p.59) 15)京都府(編) 『京都府会志』p.142 16)明治19年11月30日文部省告示第3号「高等中学校の設置区域」 (『明治以降教育制度発達史』 第3巻, p.166) 『京都府会志』p.139 17)京都府(編).

(7) 30. 久. 18)同上,. 木. 幸. 男. p.310f.. 19)明治20年8月13日文部省令第8号「高等中学校経費地方税支弁額」 史』第3巻, p.169) 20)京都府(編) 『京都府会志』p.144. (『明治以降教育制度発達. 21)同上, p.307 22) 『全集』第3巻, p.612. 23)西村見暁『清沢満之先生』. p.. 117,田村円澄「清沢満之」. (家永三郎(編) 『日本仏教思想の展開』. p.321). 24)吉田久一『清沢満之』 p.88 25) 「宗教要旨」 (『全集』第3巻, p.334f) 26) 「明治35年当用日記」巻尾(『全集』第7巻, p.475) 27)京都府(編) 『京都府会志』p.198 28) 「明治125年度・公立尋常中学校歳出」 (『文部省第20年報』 p.130)より算出o 29) 『全集』第3巻, p.733 30)京都中学を明治26年度から府の経営に移すことほ,明治24年11月府会で議決されている(京 都府(蘇) 『京都府会志』p.164) 31)かれが到達した他力信仰の内容については,佐々木蓮麿「清沢満之の信仰」,松原祐善「清沢満 之の精神主義」を,その思想史的意義についてほ,西山邦彦「清沢満之の哲学的基礎」 れも教化研究所(宿) 『清沢満之の研究』所収)を参照。 32) 『全集』第8巻, p.254 33)同上,. (いず. p.207. 34)明治32年7月5日付,月見覚了宛書翰(『全集』第8巻, p.41) 35)明治34年11月19日付,井上豊忠宛書翰(『全集』第8巻, p.140) 36) 「真宗大学要覧」 (F全集』第8巻, p.370ff,) 37)広瀬呆「真宗大学」 (教化研究所(編) 『清沢満之の研究』p.234) 38) 『全集』第8巻, p.490 39) 「真宗大学開校の辞」 (『全集』第8巻, p.355) 40) 『全集』第8巻, p.349 41)明治35年10月26日付,清沢厳照夫妻・徳永永則宛書翰(『全集』第8巻, p.158) 42)たとえば寺川俊昭氏も, 「清沢ほ悲劇の人である」と述べている(教化研究所(宿) の研究』. p.. 『清沢満之. 447). Ⅱ 清沢の思想体系中に占める教育思想のウェイトについては先に一言したが,その思想体 系中で,教育が如何なるものとして把捉されているかという問題を考えることから,かれ の教育思想の内容の考察を始めよう。 教育学老でない清沢ほ,のちに沢柳が批判したような,. 「空漠たる」教育の定義1)を試. みたりほしていない。西山邦彦氏ほ,かれが「自己を通して」真宗信仰に参入した所に, 清沢の独自性の一つを認めているが乏),たしかにかれは, 「自己を通す」ことのない発言を 退仇. 生活と遊離した概念には一顧だにも与えようとしていない。この意味で清沢ほ体験. 主義者であり,生活実感尊重主義者であった。したがって,かれの教育についての主張や 論述も,どこまでも「自己を通した」ものであった。かれが「女子教育論」の執筆を求め られたのを謝絶する理由として,女子教育の体験をもたず,したがって「未だ骨て,女子 なるものに就きて研究したることもなく,また将に研究せんとも思はず」と述べている8) のほこの÷とを示している。それゆえ,かれが教育について論じるのは主として,かれが.

(8) 31. 清沢満之とその教育思想. 実践体験をもった青少年教育-具体的には,中等および高等教育一に関してである. もっとも,明治32年に書かれた「転迷開悟録」にほ, められており,そこでほ, からず」として,. 「家庭的教化」と題する短文が収. 「幼稚なる児童」に対しては「其の監督教訓ほ余り精細に失すべ. 「極めて寛宏なる襟懐を以て之を観察」するべきことを主張しているし4),. また『無尽灯』誌・明治33年1月号所載の論文「内・[Jの決定」では,いたずらに「教訓 戎ほ理論を読言削. させるだけの修身科教育を批判している5)から,かれが幼児・児童の教. 育にまったく無賂bであったとほいえない。おそらく4人の子女の成長とともに,幼児・. 児童の教育に対する関心も高まったのであろう。しかし「体験主義者」清沢にとって,京 都中学・大谷中学・真宗大学等における実践の対象となった青少年の教育が,その教育論 の主要な内容をなしていることは否めない。かれほ教育について論じるに当って,その範. 囲を限定する旨とくに明言はしていないが,事実上ほほとんど青少年教育のみに限って, 所論を展開しているのである6)0. 明治29-30年の教団改革運動の機関誌『教界時言』第9号(明治30年7月)に書か れた「真宗大学新築に就いて」と題する論説ほ,かれが外部に発表した最初の教育論であ り,かれの教育に対する基本的な考え方がよく現われているが,その中でかれほ,. 「精神. 的教育」の必要を力説して,次のように述べている。. 夫れ教育ほ活ける知識を産するのみならず,叉能く活ける道徳を生ず。教育の中にほ 識見あり,気節あり,正義あり,博愛あり,胆勇あり,力行あり,凡そ天下の至宝は蔵. して此の真に在らざるほ莫し。. --然れども余輩の称して教育と為すものほ,所謂精神. 的教育にして,かの記葡詞章の学にほ非ざるなり。記諦詞章の学ほ死学のみ。死学ほ宿. ける知識を産し,活ける道徳を生ずること能はぎるなり7)。 そして,かかる精神的教育によってのみ「宗教的精神を振作」することが可能になるこ とを論じ さらにそのためにほ先ず, 「社会の大勢の最も早く現るる地」たる東京に,真 宗大学を新築すべし,と結論している。しかし「活ける知識」の教育という主張も,精神 的教育の重視も,それ自体としてほけっして珍しい意見でほない。そのような意見ほ,た. とえば森有礼の教育論においても見出されるところである。森ほその「国家実用主義」の 「国民の志気の滴養」を教育目的とし,また教科の実利性をすこぶる重要視し. 立場から,. ている8)。ただし森の国家実用主義的「精神教育」は,いわゆる「隔離主義の教育」とし 「一般社会と異った社会を作 て具体化されている。その適例ほ,師範学校寄宿舎制度や, る9)」ことによる「健全な精神教育」を目ざした,第一高等中学校長・木下広次の「龍城主. 義」などであるが,かかる隔離主義は神島二郎氏もいうごとく,青少年を成人社会から隔 離することによって,かれらの社会-の同化を阻止し,その創造的精神を圧殺するという 槙能をもつ10)。これに対し清沢の「精神的教育」は,まさに隔離主義の否定において成り 立つものである。かれが真宗大学の東京移転を主張するのは,東京の文物が与える刺激が 「精神教育を助」け11),. 「社会の進歩に伴ふことを得」るからであって,かれほ「東京は学 「時勢を弁ぜず,教育を知らざ 生を軽操に流jlしむるの恐あり」とする隔離主義的議論ほ, るの俗論なり」とまでいっている12)。隔離主義的精神教育が,現実を見る限をくもらせる.

(9) 32. 久. 木. 幸. 男. ことによって天皇中心主義の虚偽意識の定着を容易にし,フィクシアスな価値観がさらに 現実の矛盾を隠蔽するという結果をもたらすのに対し,清沢の精神的教育は,ダイナミッ クな社会実態との接触による批判的・創造的態度や,現実に対する柔軟でセンシティブな 精神の形成を目ざすものといえる。かれが「活ける知識」. 「活ける道徳」と呼ぶのは,こ. のような現実批判と創造的行為の起点となる知識・道徳であろう。 といっても,現実にまきこまれ現実を脆拝すること,あるいほ単に「社会の進歩」に順 応することが,主張されているのでほない。なぜなら,精神的教育の究極するところほ宗 あか. 数的精神の振作にあり,しかもかれの生活自体が証ししているごとく,宗教とは仮借なき 否定-いわゆる「現実」が,もちろん自己をも含めて,とどまるところもなく否定しつ くされて行くこと(いわゆる絶対否定)にほかならないからである。そして,このような 意味での宗教的精神を振作することほ,まさに宗教的実践以外のなにものでもない。後年, 真宗大学開校の辞において,かれほきわめて簡明直裁に語っている。 我々が信奉する本願他力の宗義に基づきまして,我々に於いて最大事件なる自己の信 念の確立の上に,其の信仰を他に伝-る,即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成す るのが,本学の特質であります13)。. ところで,清沢の宗教的精神の教育と,天皇中心主義教育との対立ほ,絶対否定を目ざ す現実接触と現実隠蔽のための隔離主義との対立のみにほ止まらない。天皇中心教育が, 表面ほ「超宗教」というポ←ズをとりながら,実質的にほ天皇信仰のインドクト1)ネーシ. ョンにほかならなかった以上14),つまり天皇中心主義教育が本質的に一つの宗教教育であ った以上,清沢の宗教的精神の教育との問に緩衝地帯のあり得るはずほなかった。明治30 「基督教を以て 午,同志社校長となった横井時雄が,徴兵猶予の「特典」を得る目的で, 徳育の基本とする」項目をその綱領から除こうとした時,清沢は「吾が教界の教育家に警. 告す」と題する批判文を発表している(『教界時言』第17号)。そして横井の措置を「これ豊 に寄の叉奇なるものにあらずや」と皮肉り,同志社がキリスト教的世界主義の立場を堅持 することを強くすすめて\、る15'。綱領の一部削除という措置の中に,天皇信仰-の屈服, 宗教的精神-の裏切りを見たからであろう。 もっとも,清沢が教育実践に乗り出した当初から,天皇中心主義教育との対決を明確に. 意識していたか否かは明らかでない。藤岡勝二によれば,教育勅語発布の際,清沢は京都 府立中学生に,. 「服従」をテーマとして約2時間にわたる講話をしたという16)。勅語や天. 皇に対する服従のみを説いたかのようにも思われるが,藤岡が「教師その人も果して真実 (マ. の服従が出来るかどうか,と申されました時ほ,何となく言葉に権威があって,さすが種々 の教師も顔色がなかったやうに覚えてをります」と語っているところから見ると,必らず しもそうでもなさそうである。明治24-25年ごろの執筆と考えられる小篇「真正の道徳」 あんじん. には,われわれに象山を与える宗教が,倫理道徳の教えに先行するべきこと,安心は「無 ごうみよう. 限の尊体」の「告命に信順する」ことによって得られることが述べられている17)。上述の 講話でもおそらく,如来-の服従が勅語や天皇への服従に先立たねばならぬことを説いた のではないかと思われる。とすれば,前者ほせいぜい後者より高次元のものとされるに止. マ).

(10) 33. 清沢満之とその教育思想. まり,両者の対立性は,明治23-24年の段階でほ,まだ意識されていないといってよい であろう。ところが明治32年,新法主光演の教育係をつとめた際の手記「御進講覚書」 には,釈迦の伝記の一部について,次のような注釈を加えているo. 忠孝両絶-出家入山 不視国家一釈種敗滅 . +. +. +. t. +. .. .. .. .. .. .. 4. L. +. 4. +. +. 4. .. じようどう. 出家入山ほ,釈尊が忠孝以上に宗教を求め玉ふ態度なりo而も此は成道以前に属すo 成道以後に於ける釈尊の倫理観ほ如何○今之を国家の上に就きて見んか,釈種敗滅の時 に於ける釈尊の態度を伺ふべきなり18)0 さらに晩年にほ, 「仁義忠孝に反くと,責めらるるならば,私共ほ之を甘んじて受ける のであります」と言いきっている19'.対立点ほきわめて鮮明に意識されているわけであるo. 「仁義忠孝」を拒否しているにもかかわらず, このように,清沢が「忠孝両絶」を説き, かれが「儒教的精神に深く支配されていた」とする見解もないわけではない乏0'o明治前半 期に成人した知識人として,かれが儒教的教養をもっていたことは当然であり,その道文 にも,儒教的・漢学的表現は少なからず見出されるoまた『論語』や『言志録』は,晩年 のかれの愛読書であった乏1'.しかしだからといって,教育勅語の構成要素の-たる儒教主 義の影響を過大視するのほ適当でない。かれが儒教的なものの影響をうけていることほた しかであるが,比較的表層に止まったがゆえに,それを突破して「忠孝両絶」を説くこと もできたのであろう。. なお教育勅語の発布に付随して起った,いわゆる「教育と宗教との衝突」事件に対して は,当時(明治26年)社会的発言をしていない2皇)清沢は,むろんその論評を試みるよう なことをしていない。しかし同年の手稿「教学問題」中の「道徳標準」と題する一節は, 明らかにこの「事件」を意識して書かれたものと考えられるoこの手稿は「仏教開発的教 授法」という表題をもつメモ(次節参照)の「例題」の部分の改定ないし敷術と見ること ができ,問題の提起のみで結論は述べられていないが,その中でとくに次のようにいって いる点が注目される。. 既に標準あれば,之を各般の事情に応用して,徳育の体系を建立するを得べしo而し て世間の説に於いては,功利を標準とするあり,道心を標準とするあり,神勅を標準と. するあり。仏者ほ将に安心立命を以て標準とせざるべからざるが如しo将して然るや否 や。要するに,標準を確定して徳育の体系を開説するほ,吾人今日の最急務とする所な り皇3).. 清沢はこれまでにも,.. 「道徳の標準」についてたびたび論じているけれども乏4'・この「事. 件」に触発せられて初めて「徳育の体系の建立」の問題を取り上げるに至ったものであろ う。 「教育と宗教との衝突」事件の主要な論争点ほ,周知のごとく,教育勅語以外にキリ. スト教が「徳育の標準」たり得るか香かということであったが,この論争を実像に,清沢 「標準を確 も改めて「徳育の標準」を考察したものと思われる。ところがここで清沢は, 定して徳育を開説する」ことが「今日の最急務」であるとしている。すなわちかれは「徳.

(11) 34、. 久. 木. 幸. 男. 育の標準」が未確定だと考えていたのであって,つまりかれほ,すでに天皇の名において 確定され,キリスト教徒でさえも承認していた教育勅語の基準性を認めていないのである. そして,清沢自身必らずしも明言しているわけではないが,教育勅語の基準性否認ほ,請. 争の際のキリスト教徒側の妥協性-の批判(それはやがて前記同志社批判につらなる)杏 含蓄しているとも見ることができよう。 要するに清沢は,教育勅語を名ざしで直接批判することも(それほ当時としてほ不可能 なことでもあった),またむろんそれを肯定することも(それほかれの宗教的精神を裏切る ことであった),ともに避けているのであるが,教育勅語発布の直後熟ま別として,明治. 20年代末ないし30年代初頭には,教育勅語に代表される天皇中心主義の教育理念を,自 己の立場とあい容れぬものとして,きっぱりと拒否するに至っている。明治34年,かれ ほ「宗教的天地に入らうと思ふ人は,形而下の孝行心も愛国Jbも捨てねばならぬ」. (『精神. 界』第1巻,第11号)と,疑問の余地のない明快さで書いている皇5,0. 天皇中心主義教育を拒否したかれも,吉田久一氏によれば,明治天皇その人に対しては 敬愛の念をもっていたといわれている乏6'o吉田氏ほ,清沢が西垂水に転地療養中,明治天 皇が列車で通過するのを見送ったという,従弟・大井清一のことばを自説の根拠としてい るが,大井の証言には疑問がないわけではないo清沢が見送ったといわれる明治天皇の通. 過とほ,広島大本営への往復の際のいずれかであろうが,当時大井は東京遊学中であった から27',かれの証言はむろん伝聞によるものであるo明治天皇が広島行きの途中,西垂水 辺を通ったのは,明治27年9月15日で,この日の清沢の日記にほ「大元帥陛下御通馨, 午前八時三十分」と記したあと,その夜の月明の描写があるのみで,見送りの有無は記し ていない28'oその前日には発熱しているので,あるいほ見送らなかったのかもしれない。 広島からの帰途,明治天皇がこの辺を通るのは,翌28年4月27日であるが乏9,,同年4 月の清沢の日記には2日・29日の両日しか記載がなく80,,また4月28日付の井上豊忠 宛書翰81'が残っているけれども,それらのいずれにも見送りのことは善かれていない。結 局・かれが見送りに駆り出された可能性ほ残るが,いずれにしてもかれは格別の印象や感 銘をうけることもなく,したがって日記や書翰に何も書き残さなかったのであろう。とす ると,かれが明治天皇に敬愛の念をいだいていたとほ断定しがたく,はかに明治天皇につ いて何ごとも書きしるしていないことを考えあわせると,かれほおそらく天皇その人に対 して特別の関心をもっていなかったと見るのが適切であろうし,明治天皇をカリスマ的君 主とする明治「大帝」神評2'にも免疫になっていたと考えてよいようである。 国家に対する清沢の態度ほ,天皇その人に対する態度にくらべて,きわめて明確であっ て,前引の「不視国家」の一語にほぼ尽くされている。ただし,それを求道の段階での国 家否定に限定する38'oは適切でないo なぜなら, 「不視国家」とは「成道以後における釈 尊」の国家観だったからであるoところが清沢ほ,求道の過掛こおいて否定される国家や 忠孝は,ト度如来の慈光に接して見れば,厭ふべき物もなければ,嫌ふべき事もない叫」 ぎやくしん. という獲信の体験をとおして再び肯定される,としている。一見, るようだが,実はそうではない。. 「不視国家」と矛盾す 「如来の慈光」のもとでの国家肯定は,単なる肯定でほ.

(12) 35. 清沢満之とその教育思想. なく,いわば否定をうちに包む肯定だからである.吉田久一氏もいうごとく,否定をく(' りぬけてきた国家肯定が, 「その現実契機であった国家や忠孝の持つ罪悪感という前提を 見忘れるならば,堕落した肯定しか残らない35'」ことはたしかであるが・清沢の国家肯定 は,つねに国家悪-のいたみを内にひめているoかれが国家悪の具体的分析をしていない ことは,吉田氏の指摘抑のとおりであるが,しかし清沢がこの問題を素通りしているわけ -ごはない。. 国家の主我性に由来する国家悪ほ,国家による個人の抑圧および他国の抑圧という形態 をとるが,清沢は前者に対しては公共主義ないし光明主義を,後者に対しては和合主義を 対置せしめている。公共主義あるいは光明主義とは,. 「国家主義と個人主義との調秤7'」・. すなわち,国家による個人の抑圧の制限を意味し,和合主義とは「或ほ四海兄弟と云ひ, 或ほ万国同胞と云ふが如き観念38'」であって,要するに両者は・国家悪の否定態であるo っまり,国家悪の否定態を提示することを通じて,国家肯定の中での国家否定-の回帰が 志向されているわけである。それゆえ,かれにおける国家肯定ほ,国家至上主義へ安易に 帰ることではなく,どこまでも「不視国家」という否定的契機を含み,肯定と否定との緊 張関係の中に現成する「絶対無限の国家39'Jの肯定なのであるo このように,国家悪に対していたみをもちつづけた清沢が,最大の国家悪ともいうべき 戦争,明治国家の異常肥大の主要栄養源の一つであった戦争に対して,否定的態度をとっ たのは当然であろう。すでに明治26年ごろのメモの中で,仏教の「四恩」のうちの国土. の恩に対して,かれは次のような新しい解釈を加えているo 自国に対す 国土之恩一国家に対する義務 他国に対す40). (. 他国に対する義務を自国に対する義務と併列するという思想ほ,やがて上述の和合主義 の母体となるものであるが,かかるインターナショナ1)ズムはかれの終生の信条の一つで あって41,,それが平和思想につらなることはいうまでもない。かれほ「不評の心」. 時報』明治34年3月号)で,戦争を肯定する議論ほ,. (『政教. 「野蛮社会,禽獣世界の事を説明の. 根拠とする」ものだとして平和を強調し42',また日清戦争後鼓吹せられた臥薪嘗胆を「獣 蛮的時代の仇敵主義43)」ときめつけている。 ただし清沢の平和思想にほ,戦争原因の科学的分析がまったく欠如している。これは, かれの時代・経歴・教養などから見て,ふしぎでほないが,前記「不評の心」でも,戦争 と競争とを併列して,両者の原因を「吾人の心性に固着したる悪習」たる「競争の情」に 求めている。自由競争はいうまでもなく近代資本主義の基本原理の一つであるから,清沢 がその克服を説いたことは,資本主義の否定につらなるものと見ることもできようし,普 た家永三郎氏のいわゆる「反近代主義44)」と規定することも可能であろうが,自由競争の 資本主義が,近代世界の戦争の原因だとする認識がかれにあったか否かは疑問であろoも っとも,かれの平和思想がとくにはっきり現われるのは明治30年代に入ってからのこと で,明治27-28年の日清戦争に対するかれの態度は,必らずしも明瞭でない。当時はか れが肺患を療養しつつ,自己の生死の問題とまっこうから取り組むことを通じて・信仰を.

(13) 36. 久. 木. 幸. 男. 深めつつあった時期であるが,この間のかれの日記にほ,日清戦争に関する記載が若干あ る.多くほ戦況についてのごく簡単な記述であるが45),明治28年2月19日の粂にほ 「丁汝昌の死を思ふ46'」とある。何の説明も加えられていないので,この敗戦の提督の自 殺を,かれがどう受けとめたかほ判然しない。ただかれが沢柳らとともに苦心を重ねた学 園改革が崩壊に帰した直後であり,また「再起不能を覚悟していた47'」といわれるほど, 病勢の進んでいた時期でもあったから,人一倍責任感の強かったかれが,重病に坤吟して 改革失敗の責をおい得ぬわが身を,敢然と敗戦の責任をとった丁汝昌とひきくらべたので あったかもしれない。当時かれは『他力門哲学骸骨試稿』を執筆中で,この日は「自利利 他」等数項目を書いているが,. 「自利利他の作用」を妨害するものの実例として, 「我が果 すべき義務を,人の責任とする」ことをあげている48).これがもし偶然の一致でなければ, かれほ丁汝昌の死を機縁として,自己の責任に深く思いを致したということになろう。そ れとともに,有能の評判の高かったこの提督を自殺に追いやったところの,戦争なるもの の不条理を,改めて痛感せしめられたことでもあろうか。後年かれは,責任という問題を 深めていく中で, 「絶対無限の妙用に乗托する」無責任即全体責任49'の立場にたどり着く のだが,おらくこれが,かれが日清戦争から学んだ,最大のものといえるのでほなかろう か。. 清沢が日清戦争を是認したといわれるのは50),ひとつにほかれの態度があまり明確でな いためでもあるが,その直接の根拠とされる哲学館での講演51)は,イマジネ-ショ./5乏,の 効用の実例として日清戦争をあげているだけで,むろんそれを積極的に肯定しているので はない。内村鑑三が日清戦争を熱烈に支持し,戦後の日本社会の退廃を経験する中で反戦. 論に転向した58'ことはよく知られているが,清沢も戦後の臥薪嘗胆を「仇敵主義」とおさ えることを通じて,非戦平和-の契機を確実につかんだといえよう。ただかれの場合ほ, 内村ほど戦争支持から反戦-の振幅が大きくなかったことはたしかである。 注 1)沢柳政太郎『実際的教育学』 (『沢柳全集』第1巻, p.4) 2)西山邦彦「清沢満之の哲学的基礎」 (教化研究所(編) 『清沢満之の研究』p.289) 3) 『全集』第3巻, p.681 4) 『全集』第7巻, p.185 5) 『全集』第6巻, p.281 6)沢柳は「従来の教育学」が論じる「教育の範囲」が「空漠」としていることを批判している (『沢柳全集』第1巻, p.7) 7) 『全集』第41巻, p.271 8)小松周舌「国民教育制度の成立」 (土星・吉田・長尾備) 『教育学全集』3・近代教育史,. p.. 59fE.. 9)寛田知義「旧制高等学校に於ける自治案について(-)」 (『関西大学・文学論集』第14巻, 4合併号, p.111) 10)神島二郎『近代日本の精神構造』 p.171 ll) 『全集』第4巻, p.274 12) 『全集』第4巻, p.275 13) 『全集』第8巻, p.354f. 14)拙稿「日本の教育」 (下程勇吉(縮) 『教育原理』p.222). 1-.

(14) 清沢満之とその教育思想. 37. 15). 『全集』第4巻, p.351ff. 16) 『全集』第3巻, p.623f. 17) 『全集』第3巻, p.314f. 18) 19). 『全集』第7巻, p.114f. (『全集』第6巻, p.78) 「精神主義」 (明治35年6月・関八州講習会講話) p.154 20)堀浩良『清沢満之の信仰と思想』 21) 『全集』第8巻, p.258,278,482 22)船山信一氏は,清沢がこの事件に沈黙を守ったとしている(『増椅明治哲学史研究』 p.155)。 当時清沢ほ,禁欲生活を励行しつつ,学校整備改革の仕事に忙殺されていた。 23) 『全集』第3巻, p.455f. 24) 『全集』第3巻, p.310,376 25) 『全集』第6巻, p.143 26)吉田久一『清沢満之』 p.209 27) 『保養雑記』第一綴,明治27年9月8日(『全集』第5巻, p.39) 28) 『保養雑記』第二編,明治27年9月15日(『全集』第5巻, p.53) 『伊藤博文伝』下巻, p.223 29)春畝公追彰会(編) 30) 『保養雑記』第四編(『全集』第5巻, p.84f・) 31) 『全集』第5巻p.123f. 32)神島二郎『近代日本の精神構造』 p.43 33)吉田久一『清沢満之』 p.212 34) 「宗教的信念の必須条件」 (『精神界』第1巻,第11号) (『全集』第6巻, p.144) 35)吉田久一『日本近代仏教史研究』 p.330 36)吉田久一『日本近代仏教史研究』 p.326 37)明治32年の『有限無限録』では, 「国家主義と個人主義との調和」を公共主義とし(『全集』第 7巻, p.37) 『無尽灯』明治34年10月号では, 「光明主義」とほ自己主張と自己犠牲を止揚し たものとしている(『全集』第6巻, p.346) 38) 「和合の心」 (『政教時報』明治34年11月号) (『全集』第6巻, p.275) 39) 「倫理己上の根拠」 (『精神界』第3巻,第1号) (『全集』第6巻, p・191) 40) 『全集』第3巻, p.441 41)拙稿「宗教」 (笠倍太郎(宿) 『日本の百年』p.287) 42) 『全集』第6巻, p.266 43) 「優勝劣敗」 (『無尽灯』明治33年4月号) (『全集』第6巻, p.294) p.・231ff. 44)家永三郎『日本近代思想史研究』 2月4日, 2月7日, 45) 『保養雑記』第二・三編,明治27年10月25日,明治28年2月2日, 月14日(『全集』第5巻, p.63,71,72,74,75) 46) 『保養雑記』第四編(『全集』第5巻, p.76) 47)西村見暁「清沢満之の俗諦的意義」 (教化研究所(宿) 『清沢満之の研究』p.173) 48) 『全集』第4巻, p.423 49)佐々木蓮暦「清沢満之の信仰」 (教化研究所(宿) 『清沢満之の研究』p.39) 50)吉田久一『清沢満之』 p.218 51) 「空想の実用」 (『全集』第6巻, p.465ff.) 「而もやがて現実たり得る想念」と規定してい 52)清沢はここにいう「空想」を「未だ現実ならず」 る(『全集』第6巻, p.467) 53)内村鑑三「余が非戦論者となりし由来」. (『宗教と現世』p.395f.). 皿 以上,清沢の教育思想が,教育勅語に代表される天皇中・b主義教育にどう対応ないし対 決したかを考察したが,次にこの天皇中心主義教育体制のイデオロギー的支柱たる家族国. 2.

(15) 38. 久. 木. 幸. 男. 家観,およびさらにその理論的補強といわれる国家有機体説1)との関連において,清沢教 育思想を概観しよう。. かれが家族国家観を否定したことほ,すでに西山邦彦氏によって総括的に論じられてい るが2),家一村-国の連続性の上に,国家を家父長家族の延長とし,世襲君主を「臣 民」の父に擬する家族国家観を構成する個々の要素一家父長家族制,村落共同体制,世 襲制などに対して,清沢が自己の思想をどう対置させたかは,これまで必らずしもじゅう ぶんに明らかにされたとほいい難く,かれの「反動性」が論じられたりした3)一半の理由 も,おそらくこの点の吟味不足にあったのではないかと思われる。吉田久一氏は,清沢の 思想形成過程は産業資本主義の確立から独占資本主義の展開-のコースに相対するとして いるが4),この時期ほ,家族国家観が成立する明治20年代,およびその補強理論たる国 家有機体説が姿を現わす5】明治30年代前半に該当し,清沢はその生活と思索を通じて, この両者に対決せざるを得なかったものと考えられる。 清沢はある意味で,家父長家族制の被害者であった。徳永家の長男でありながら,清沢 家の婿養子となったかれは,入籍問題に閲し前後8か年にわたって「人情の煩累」に苦し んでいる¢)0. 「ある意味で」被害者だったというのほ,この「煩累」がかれをして絶対者の. 信仰に踏みきらせる有力な機縁の一つとなっているからであるが,同時にかれが,家父長 家族制の不条理を痛感したであろうことほ想像に難くない。前にもその一部を引用した, 明治26年ごろのメモ「四恩」の中で,かれが「父母の恩」に対して,次のごとき新解釈 を加えているのは,家父長家族制-のかれの態度をよく示している。 父母之恩一家族に対する義務. (芸曇<親戚7). 封建的な「父母の恩」を,近代的な「家族に対する義務」に改めているところに,家父 長家族制への批判はじゅうぶんに読み取られよう。ただし,夫婦の横の関係を軸とする近 代家族の観念が,どの程度かれにあったかは明らかでない。上記のメモでも,親子,夫婦 という順序になっており,家父長家族の耗の関係を,ただちに夫婦の横の関係で置きかえ ることを主張しているものとも思われない。関根仁応ほ,清沢の家族観を示す次のエピソ 「自己を通した」発言しかしなかった ードを紹介しているが,つねに「実験」を重んじ, 清沢にとって,家族制度の問題は,歯切れのよい結論を出し難い問題の一つであったと思 われる。. 或人が先生(清沢)の所へ,大学を卒業してから畷乞に行かれた。. 「先生,私も長々. お世話に与りましたが,是から国に帰りまして一つ家庭を改良致したい積りでありま す。」さうしたら「さうですか。」と苦いような笑ひをして居られた。それから行ってし. まはれて,私が後に残って居ると云ふと「まあ,あんなこと言はれるのほ結構です。併 しそんなに旨いこと行桝ゴ宜いですがなo」と.それほ私共は多少先生の御事情も知って 居るのですから,どうも家庭と云ふやうなことに付いてほお互さまで,さう簡単に行か ぬものです8)..

(16) 清沢満之とその教育思想. 39. 清沢ほ,子の親に対する服従を一方でほ説いているけれども9),また,親はつねに子の. 模範でなければならないとし10),明治24-25年ごろの手記の中でも,親子・兄弟・夫婦 の義務をそれぞれ相互的なものとしている。判りやすく整理すると,およそ次のようにな る。. 父母に対する義務一孝贋. 子に対する義務一変育. 兄に対する義務一悌順. 弟に対する義務一愛導. 夫に対する義務一従順. 婦に対する義務一愛提11). この場合,家族員相互の義務を「順」と「愛」としてとらえているのほ,たしかに古い 耗の関係が払拭されていないことを示すが,同時にそれが相互的義務とされている限りで ほ,家父長家族制-の批判,ないし修正の主張が含蓄されていることほ,否定できないで あろう。. 家父長家族制に悩まされたかれほ,その土壌ともいうべき村落共同体制に対しても,強 い違和感をもちつづけたようである。名古屋の下級武士の家に生まれ,東京で新しい高等 教育をうけたかれが,村落共同体の停滞と因襲の中に生きる農民に初めて接したのは,大 浜西方寺に入った際のことであるが,かれが西方寺門徒の農民に受けいれられなかったこ とほ,西村見暁氏がすでに明らかにしているとおりである。西村氏によれば,清沢が肺患 「お説教をすれ にかかった時,門徒たちはかれを西方寺から追い出そうとしたというし, ば話がむづかしくってさっばりわからないから聴衆ほ皆帰ってしまう」上に,門徒の法要. に赴いて追い返されたこともあったという1皇)0 清沢ほ農民を愚民祝する愚民観を完全に克服しているが13',村落共同体の最底辺に沈諭 している貧農・小作層や,資本主義発展の当然の結果として農村共同体から析出せられた 近代労働者階級にほ,ほとんど注目していない。清沢晩年の精神主義運動の支持層が都市 中産階級や知識層であったことほ,一般に承認されているところであるが14),清沢自身も 明治29…30年の教団改革運動の際に書いた論説「布教の方針」で,. 「社会の実勢実力は次 第に中流人士の間に集ま」ったとして15',中間層・知識層に期待をかけている.教団封建 制の部分的修正を目ざしたこの改革運動ほ,村落共同体制に依拠する保守派の捲きかえし にあって失故に終るのであるが,かれが河野法雲に語ったところによれば,かれがこの失 敗から学んだことは「此の一派一天下七千ケ寺の末寺-のものが,以前の通りであっ たら,折角の改革も何の役にもたたぬ16'」ということであった。そして明治34年,真宗 大学の経常にかれが乗り出したのほ,. 「田舎の貧乏寺の住職になって門徒を教導する,さ. う云ふ坊さんを作る為17'」であって,教団中枢部の改革に挫折した原因を反省して,教団 の封建制-それほ日本社会そのものの封建遣制の縮図であったが-を克服するために は,その基底をなす村落共同体制に癒着した門徒集団の変革が不可欠だとし,この変革に 導く指導者の養成を,真宗大学における精神的教育に期待したのである。そして暁烏敏が 門徒の信仰の古さを嘆いたのに対し,かれほ「若し新鮮なる霊光の,此の間を照破するな かりせば,真宗の法灯豊に危からずや18)」と書き送っているが,門徒農民自身のイニシア ティブによる変革は考えられていない。教団改革運動が上からの改革を試みたものといえ.

(17) 40. 久. 木. 幸. 男. るのに対し,いわば中間からの改革が意図されているわけであって,下からの改革という 考え方は欠落しているのであるが,そこにほかえって,村落共同体制に対する,清沢の強. い違和感の存在が看取されるのでほないかと思われる。 世襲制否定の主張が清沢にあったことほ,すでに西山氏が『宗教哲学骸骨』を引いて触 れているところであるが19),同じ主張は『有限無限録』中の「智者の子必ずしも智ならず。 愚老の児必ずしも愚ならず20)」の語からもうかがえるし,明治30年10月の日記『六花 郁々』中の短文「子孫の計」に「其の出生長育得業,困より父母の関する所たりと錐も, 而も父母ほ全然之を左右し得るものにあらざるなり21)」とあるのも,ほぼ同じ趣旨を別の. 角度から述べたものと解せられる。もっとも,教団改革運動中に書かれた「師命論乏2)」 (『教界時言』第4号)】では,世襲法主制を全面的に肯定するごとき表現をとっているが,こ れには戦術的な配慮もあったようである。福沢諭吉が明治30年3月30日付『時事新報』 社説できわめて卒直に指摘しているように,教団腐敗の「本源は法主の不徳不品行23)」に あり,改革グループの中にも,法主更送の強い主張があった乏4).しかし実際の運動は,幅 の広い統一戦線の結成を目ざして,法主の「神聖性」を逆に強調し, はなく,. 「不徳不品行」自体で. 「不徳不品行」を「粛斉」しなかった教団当局者を問責するという形で進められた. ため25),教団封建性打破の運動としてほ,きわめて不徹底なものに終らざるを得なかった. 清沢は運動にふみきるに当って, 「此の際一度に立派なる改革は成し遂げられずとも,破 壊丈にても沢山なり乏6)」といい,長期の斗いになることを予定していたが乏7),予想外に支 持者が拡がり,部分的成果が得られる中で,運動ほ「破壊」よりも「建設」を目標とする, より穏健的で妥協的なものに変質していったのである。しかしその場合柾も,前記「師命 論」中の「公明正大に非ざるものは--是れ己に師命には非ざるなり28)」という,一見控. え目な表現に含蓄されているごとく,当時の教団の「極端なる檀制主義29)」を立憲制に改 変するという,最低限の目標は放棄されていない。なお清沢ほ,法主後継者の光演に対し ては,晩年に至るまで非常に嘱望していた。当時の光演ほ,教団外からも信望があった が30),清沢がかれに啓蒙君主たる期待を寄せたのか, 「愚者の児必ずしも愚ならず」と考 えたためであるかほ確言しがたい。論理的整合をすこぶる重んじたかれが,法主世襲制に. のみ,その世襲制否定の主張の適用を除外したと見るのほ困難であるが,法主問題ほとに かく,世襲制の否定が清沢の後半生を一貫する主張の一つであったことは確実であろう。 叙上のごとく清沢の思想と実践ほ,家族国家観の構成要素の一々と鋭く対立するものを もつのであるが,かれほまた,家族国家観の補強理論たる国家有機体説をも,その基本的 な点において,きっぱりと否認している。清沢が有壊体説をとったことほ,一般に承認さ れているが31),かれの有機体説はいわば宇宙有機体説とでも呼ぶべきものであり,加藤弘 之に代表される国家有機体説とは,根本的にあい容れない。周知のごとく加藤が,生物進 化論のアナロジーとしての社会進化説をふまえて,国家を最高の有機体と主張するのに対 し,清沢も進化説そのものほ決して否定しないのであるが,両者の間にほなお,進化説お. よび有機体説に閲し,次のような相違点がある。 1.清沢ほ,加藤のごとく生物進化と社会進化を連続的に考えず,両者の相異を強調す.

(18) 41. 清沢満之とその教育思想. る32,oしたがって,生物の根本動向たる利己心が,利他心-愛国心に進化するという,加 藤の「功利主義の進化論的理貯3'」は,清沢においては当然拒否せられるo 2.加藤ほ素朴な「実証」主義の立場から,優勝劣敗による進化という,現在に至るま での「事実」を根拠にして,現在の優越老による支配の合理化をほかったが,清沢ほ明治 28年の『哲学雑誌』誌上における加藤との論争において・加藤の素朴実証主義は「既往の 事実のみを基礎とするものにして」 「将来の事実に於ては,其の当否を考験せざるもの」と 批判している34,.清沢のこの批判からの論理的帰結は,加藤が擁護した現存支配体制の永 続性を否定することになるはずである(ただし清沢ほ,とくにこの点には言及していない)o 3.清沢は,加藤を含む進化論老が生存競争や優勝劣敗を弱肉強食の争闘主義と見るの は,. 「進化の中心点ほ適者生存と云ふことにある」と主. 「進化論を誤解したもの」だとし,. 「社会の事情」 張する。そして「適」とほ,個人が「自己の私欲に適する」意ではなく・ 「共同公共の精神に適したる老が,本当の適者 「共同公共の事情」に適することであって・ 「社会の発 である」と結論している85j.加藤が進化説から有機体説を導き出したかぎり, 展に関する有機体説86,」を出なかったのに対し,清沢は道に,自他の有模的関係から進化 を説明しているといえよう37)0. 4.上述のごとく,生物-社会の連続性の立場に立つ加藤は,単細胞体-複細胞体 (個人)-複々細胞体(国家)という,有機体の3段階を唱えるとともに,国際社会を有 磯体と認めることを拒否し,低次の細胞体ほ高次のものの犠牲となること,つまり個人が 国家に献身することが,その「固有性を完成すること」であるとする38'o清沢ほこれに対 して「生物・社会に存する有機組織は不完全」だと考え,宇宙そのものが完全な有機組織 だとする宇宙有機体説を唱導する39'.この点に関する両者の対立は,国家至上主義対イン ターナショナリズムと言いかえることができるであろう。. 5.加藤は君主を国家有機体の思惟中枢に,国民をその補助機関になぞらえることによ って,君主に対する国民の服従の合理化を試みる40'が,清沢は頭・胸・手などという区別 「本体」においては同一であるとしている41'oこれほ,仏教の「差別. は現象的なもので,. 即平等」論の有機体説的理解というべきであろう○むろん加藤には,このような「本体に ぉける平等」ないし「万物一体」という観念はまったくないばかりか,さらに進んで, 思 惟中枢たる君主は国家有機体の主体だとして,君主-の服従が国家への献身にほかならな いと主張している4皇,。この点についての清沢と加藤との相違ほ,. 「差別即平等」論と「忠. 君即愛国」論との違いだと要約できよう。 叙上の簡単な比較43'から,清沢の宇宙有機体説と加藤の国家有機体説との対立点ほ明ら かになったと思われるが,国家有機体説が加藤のほか,井上哲次郎や有賀長雄にも見出さ れることは周知のとおりである44'.かれらの国家有検体説は,むろんその論証の過程が加 藤とは異なるけれども,要するに「忠君即愛国」論であり・資本主義の展開とともに破綻 を示しつつあった家族国家観-の理論的テコ入れをほかったものとして,清沢の宇宙有機 体説とまったくあい容れぬことはいうまでもない。. 以上,清沢の教育思想が天皇中心主義教育理念と基本的に対立するものであることを・.

(19) 42. 久. 木. 幸. 男. いろいろの側面から眺めてきたが,むろん清沢の教育論ほ,教育理念の問題のみを取り扱 って,実践の問題を度外視しているのでほない。かれが取り上げた教育実践上の問題でと くに目立っているのは,教育方法論であり,いまひとつ見逃しがたいのほ,教授の自由の 問題であるo清沢教育思想の検討を進めてきたわれわれは,さいごにこの二つの具体的問 題に対して,清沢がいかに答えているかを概観しよう。 清沢の教育方法論の立場ほ,一言でいえば開発主義であるというに尽きる。かれが開発 主義教授法を一貫して支持しつづけてきたことほ,前にも少しくふれたところであるが, 周知のごとく開発主義は,明治10年代後半に「流行」した教授論であり,清沢が教育実 践に足をふみ入れた明治20年代以降は,. -ルバノしト教育学の全盛期であるoところがか. れはその教育論の中で,. -ルバルトにほ全然ふれていない。明治29年の「心識不滅論」で -ルバルトの「心性」論をごく簡単に紹介しているが45】,教育学者としてのヘルパル トやその教育学は,まったく清沢の顧みるところとなっていない。このように, 「全盛」の. ほ,. ヘルパルト教育学を無視して, 「流行」おくれの開発主義を支持したのほ,清沢がヘルパ ルト教育学を知らなかったか,あるいほ知っていても,開発主義にそれ以上の積極的な意 味を認めたかの,いずれかであろう。 清沢がヘルパルト教育学を知らなかったか否かは,容易に断定しがたい。しかしかれは, 教育学の基本的文献には一応ふれていた形跡があるo明治23年ごろのかれの蔵書には, 次の4冊(a-d)の教育学吾が含まれているし,また明治25年ごろ稲葉昌丸と共同購入 した書籍の中にも,教育学書(e)がある。 (a). Rain. Education. (b ). Rosenkranz. Pbilosopby. ( c). Spencer. Education. (d). (著者不明). Pestalozzi46). (e)ペインター. as. a. Science. of Education. 教育学歴史47). (d)を除いていずれも当時広く読まれていた書物で48',明治22年開設の帝国大学・特 修生教育学科の入試問題は,. (a), (e)から出題されることになっているし49),. 者が--ゲリアソであるから,清沢がとくに関心をもったものと思われ, がベストセラーであったことがよく知られている。. (b)ほ著 (c)はその邦訳. (d)以外の4部ほ,要するに清沢にと. っても教育学の基本文献祝されていたものであり,かれがこれらの基本文献を通読したの ほ,ひとつには当時の教育学が哲学から完全に分化していなかったためでもあろうが,同. 時に教育実践の指針を求めてのことであったと思われる。いずれにしても,清沢は教育学 に対してかなりの関心を有していたと推定されるのであるが,この推定がもし当っている なら,かれがヘルパルト教育学を知らなかったとすることほ,相当に奇異なことだといわ ねばならない。. その上,清沢が大学院生として指導をうけたブッセと,わが国に始めて-ルバルト教育 学を紹介した-ウスクネヒトとほ,同時に帝国大学教師として来朝しているので5。),清沢 が-ウスクネヒトを通じて-ルバルト教育学の知識を得たとの推測も不可能でほない。ま.

(20) 43. 清沢満之とその教育思想. た-ル/ミルト沢のケルンの教育学を,沢柳が明治25年12月と明治26年9月に翻訳・出 版しているが(『格氏普通教育学』 『格氏特殊教育学』),明治26年9月ほ沢柳が大谷尋常 中学校長に着任した時期に当っており,仮に-ウスクネヒトから-ル/ミルト教育学を学ぶ 機会がなかったにしても,沢柳の訳書を清沢が読んでいる公算はきわめて大きい(沢柳は・ 1)ソドナーの翻 大谷中学校長退職後著した『教育者の精神』を清沢に贈っていが1')。もっとも, 訳者・湯原元一がいうごとく,当時-ルバルト教育学が広くうけいれられたのは,内容が 「簡明直哉」で,、イ従来の道徳観念にも合致」すると見られたからであり5皇',しかも主とし て初等教育の教授論としてであったから,既述のごとく,専ら青少年教育に心を寄せ,天 皇中心主義教育理念に批判的であった清沢ほ,仮に-ルバルト教育学に接する機会があっ たにしても,とくに深入りしようとしなかったのでほないかとも思われる。. これに対して,開発主義に対する清沢の態度ほ,かなり初期から相当積極的・肯定的で ある.明治10年代にアメリカ経由で輸入された開発主義教授論を,かれが読んでいたか 否かほ判然しないが,前引のごとくかれの蔵書中には,著者不明の"Pestalozzi"があり・ 主としてこの書を通じて開発主義を知ったのであろうo. 年,. R.de. 沢柳は大谷中学を去った翌々30. Guimpsの"Pestalozzi"を翻訳・出版している53'.清沢所蔵の"Pestalozzi". も,あるいはこのドゥ・ガンの著書だったかもしれない。 すでに京都府立中学における清沢の授業態度に,開発主義-の傾斜が見られることは前 「開発教授」の語ほ,明治26年ごろのメモ「仏教開発的教授法」に初め にもふれたが, て現われる。このメモには,. 問答一師弟間. i討論-弟子問-師審判 とあり,ついで討論の「例題」として, -マを列挙している54'.. 「身心之関係」から「真理之標準」に至る15のテ. 「例題」の内容から見て,真宗大学での活用を予想したものであ. ろう。簡単なメモであるが,当時の清沢の,開発教授に対する理解がかなり明瞭に現われ ている。まず目につくことほ,かれが開発教授を教師生徒間の問答と見なしていることで ある.これは,明治10年代の開発主義教授論の場合とまったく同じであるが,後者に見 られる実物教授ないし直観教授という考え方は欠落している。予想される教授テーマの抽 象性から見て,もし直観教授が実物模型の提示をしか意味しないなら,それが省かれたの ほ当然といえるが,しかしこのことは,当時の清沢が10年代の開発教授論と同じく,直. 観を感覚的知覚と解していたことを示すものであろう。実物提示に代って,生徒相互の討 論を付け加えていることほ,清沢の創意のようにも考えられるが,討論の正否を決定する のが教師であり,テーマも最初から固定されているところを見ると,むしろ古くから仏教 で行なわれた論義を採り入れたものと見るのが適切である。そして,このような問答・討 recitationにすぎず,結局新 論は,その本質においてほrecitation,およびsocialized しい装いをまとった注入主義というべきであろう。ところが明治28年の小農「遺伝と業 感」でほ,生徒を教授の客体としてではなく学習の主体としてとらえる,本来の開発主義 の立場を打ち出して,次のように述べている。.

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