【論文】
日本における論語受容の一斑
―郷党篇「厩焚章」を手がかりに―
渡
邉
大
概要 :本 稿 は 、 日 本 に お け る 『 論 語 』 受 容 の あ り 様 よ う に つ い て 、 郷 党 篇 「 厩 焚 章 」 の 中 国 に お け る 伝 統 的 解 釈 と 、「 厩 焚 章 」 を 踏 ま え た 落 語 「 厩 火 事 」 を 中 心 と す る 、 日 本 の 諸 資 料 か ら 窺 え る 解 釈 と の 比 較 を 通 じ て 、 考 察 を 加 え た も の で あ る 。 検 討 を 通 じ て 、 中 国 に お い て 、『 論 語 』 郷 党 篇 「 厩 焚 章 」 は 、 旧 注 、 新 注 の 別 な く 、 所 謂 「 重 人 賤 畜 」 説 を 基 調 と し て 解 釈 さ れ て き た の に 対 し 、 日 本 で は 、「 重 人 賤 蓄 」 と 直 截 に 割 り 切 る 事 へ の た め ら い が 認 め ら れ る こ と を 確 か め た 。 ま た 、 中 国 で は 、『 論 語 』 を 礼 の 書 と し て 読 み 、「 か た ち 」 ま で 学 ぼ う と し た の に 対 し 、 日 本 人 に お い て 、『 論 語 』 はあ くまでも孔子の「こころ」を学ぶための書であったという点にその『論語』受容の特徴的傾向を見いだした。 キーワード :論語 受容 厩焚章 厩火事 桂文楽 一 日本人はどのように『論語』を読んできたのか。こ の問いは、日本文化と中国文化の関係を考えることに もつながっている。たとえば、川瀬一馬は次のように 述べている 一 。 「日本で論語がどのように読まれたか」 それには大き く分けて二つの問題が含まれていると思います。そ の(一)は、日本における論語の伝流。即ち、論語が何時入ってきて、どのように広まつたか。それに は論語の原典のほか、注解なしには読めませんから、 その注釈・研究書なども含んでおりますが、この方 面は主として、文献学的・書誌学的に考究されるこ とになります。……その(二)は、論語は日本で儒 教思想の中心として(さらに言えばシナ大陸の文化 の主力として)作用しておりますが、しからば何故 に、わが国では論語というシナの古典を最も尊重し、 これを利用したのであるか。そして、それはどうい う効果をもたらしたか。 また、 その結果はどうであっ たか。 ここでは、日本文化における大陸文化の影響は疑い 得ぬものとされ、 『論語』にその中心的かつ決定的な役 割が与えられている。一方、 橋本秀美『論語―心の鏡』 (岩波書店、 二〇〇九年) には次のようにある 二 。 (傍点は引用 者による) 『論語』 は中国の古典である 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。 二千数百年前に中国で 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 生まれた『論語』は 0 0 0 0 0 0 0 、 当時の中国の社会・文化を背 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 景に成立したもの 0 0 0 0 0 0 0 0 であり、その後数百年、中国社会 における伝承を経て徐々に変化して、西暦二〇〇年 前後、鄭玄・何晏の手を経て基本的に文字内容が確 定した。その解釈・理解については、その後も現在 に至るまで、各種異説が生まれているが、最も重要 な解釈は西暦一二〇〇年に亡くなった朱熹のもので あった。また、 『論語』版本の流通は、 更に近代に至 るまで変化があり、 一定していなかった。…(中略) … 要するに『論語』は 0 0 0 0 0 0 0 、文字内容・解釈・版本、ど の面について言っても、二千数百年の間、 まさに中 0 0 0 0 国社会に育てられてきたというべきもの 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 である。逆 に、二千年以上の間、中国の全ての知識人は、幼少 から『論語』を学ばない者は無く、 『論語』を学んで いなければ中国語を習得したことにならないと言っ ても誇張ではない。したがって、 中国知識人の精神 0 0 0 0 0 0 0 0 は『論語』によって育てられ、鍛えられてきた 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ので あり、 それは非知識階層も含めた全ての社会のあり 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 方に根本的影響を与えている 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。だから、 『論語』は中 国の古典である、というのだ。 確かに『論語』は中国だけのものではなく、その
中には人類にとって普遍的価値を持つ智恵が含まれ て い る と 考 え ら れ る し、 日 本・ 韓 国 な ど が『 論 語 』 0 0 0 0 0 0 0 0 0 から受けた影響も長く深いものがあるが、中国の状 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 況とは比較にならない 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。日本では、科挙のように文 芸力を基準とした高級官僚の選抜は行われず、中国 のように共通の古典学の基礎を持つ知識階層が形成 されることはなかった。 江戸時代以降は幅広い階層 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の人が『論語』を学ぶ機会を持ったが 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、生活に直接 関わる重要問題ではなく、 所詮はお遊びの域に止ま 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 る場合が殆どであった 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。 ( 一六九~一七〇頁 ) 引用冒頭の 「『論語』 は中国の古典である」 というこ とばの裏には、 もちろん、 「日本の古典ではない」とい う意味が込められている。それは、 「中国知識人の精神 は『論語』によって育てられ、鍛えられてきたのであ り、それは非知識階層も含めた全ての社会のあり方に 根本的影響を与えている」や、 「江戸時代以降は幅広い 階層の人が『論語』を学ぶ機会を持ったが、生活に直 接関わる重要問題ではなく、所詮はお遊びの域に止ま る場合が殆どであった」などといった箇所からも確か められるだろう。 (本稿筆者は、 お遊びの何が悪いのかという立 場であるが、 それはともかく) このような発言は、 たとえば、 津田左右吉が「一般民衆の生活においては、……儒教 な ど は は じ め か ら 何 の 関 わ り 合 い も な い も の で あ っ た」などというのと同様、 『論語』はもとより、 日本文 化における中国文化の影響を表層的ないしは限定的な ものにすぎないとみなす立場からなされたものであろ う ( も っ と も 日 中 両 文 化 に 対 す る 各 々 の 評 価 は 正 反 対 の よ う で あ り、 そ の こ と 自 体 大 変 興 味 深 い こ と で は あ る が )三 。 さ て、 そ の 「お遊び」の例として、橋本は、 「学者虚して曰すくな い か な 腎 」 (『 初 代 川 柳 選 句 集 』 上、 岩 波 文 庫 ) と い う 江 戸 川 柳を取り上げ、 「川柳や小咄を創作し、 享受した町人た ちにとって、 学而篇第三章の「巧言令色鮮矣仁」は、 耳 に馴染んだ言葉であったにちがいない。しかし、教養 水準としては この程度が限界だった 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、という感じがす る」 (傍点は引用者による) と、 日本における『論語』受容 のあり方に極めをつけたうえで、中国における「非知 識階層」 ( 所謂 老百姓) のそれを代表するものとしてであ ろう、中国漫才界の泰斗馬三立の演じる「吃元宵」を 引き合いに出す。
―
孔子は鴉片をやっていた。―
おいおい、孔子の頃に鴉片はないだろう。―
あるんだよ。 『論語』 読んだことあるだろ? 『上 論語』 〔一〇篇ずつ分けて 『上論語』 『下論語』 と呼ぶのが習慣 だ っ た 〕 に 書 い て あ る、 「 二 三 子 以 我 為 隠 乎? 吾 無隠乎爾」 〔述而篇 「諸君はわたくしが隠し事をするものと 思 っ て い る の か? 私 は 君 た ち に 隠 し て い る こ と は な い 」〕 。 子路や顔回が心配して、先生また鴉片ですか、止 めてください、と言ったんだな。そしたら孔子が 言うんだ、 「二三子以我為隠乎?」おまえたち、 私 が 中 毒 に な っ て い る 〔 中 毒 の 意 味 の「 癮 」 と「 隠 」 が 同 音 〕 と 思 う の か? 「 吾 無 隠 乎 爾 」。 私 は 中 毒 じ ゃ ない、ちょっと吸って遊んでいるだけだ。―
吸って遊ぶ ?! ――吸って遊んで、大失敗だ。止められなくなっち まった。金が無くなって質屋の世話になることに なる。身の回りのもので、取り敢えず使わないも のは全部質屋に預けちまったな。 ――その頃質屋なんてあったのかよ? ――あったな。 『論語』に書いてある、 「君子長 当当 0 0 、 小 人 長 戚 戚 」 〔 述 而 篇。 原 文 は「 君 子 坦 蕩 蕩、 小 人 長 戚 戚 (君子は平らでのびのびしていますが、小人はいつもくよくよ しています) 」〕 。 「常当当」 、いつも質屋に行っていた な 〔「当」は質に預けること。 「常当当」と「長蕩蕩」は同音〕 。 ――『四書』に書いてあるのは「君子 坦蕩蕩 0 0 0 」、 「 長 0 当当」じゃない。 ――そうそう、 「毯当当」 、毛布も一緒に預けちまっ た 〔「毯」は毛布。 「毯当当」と「坦蕩蕩」も同音〕 。 預けら れるものは一切合財預けちまったな。半導体ラジ オ、持って歩くのも邪魔だから、預けちまう。 ――半導体ラジオなんてあるわけないだろ。 ――テレビも要らない、預けちまう。 ――そうかい、テレビもあったの。 ――あったね。 『下論語』に「吾聞其語矣、 未見其人 也」 〔季氏篇。 「その言葉を聞いただけで、まだそんな人を見 た こ と が あ り ま せ ん 」〕 。 こ れ が 半 導 体 ラ ジ オ だ っ た な。 声は聞こえるけど、人の姿は見えない、これがラ ジオだな。 ――はああ。じゃあテレビは? ――孔子はテレビを一台持ってたんだが、これが壊れちまった。使えなくなった。見えないし聞こえ ない。 ――これも『四書』にある? ――そうそう、 「視而不見、 聴而不聞」 〔『大学』 。「見て も 見 え な い、 聞 い て も 聞 こ え な い 」〕 。 映 ら な い、 聞 こ え ない、壊れちゃった。子路が、先生どうしましょ う? というと、 「子曰、 非礼勿視」 〔顔淵篇。 「礼に 外 れ た も の は 見 な い よ う に 」〕 。 「 非 理 勿 視 」、 修 理 し な き ゃ 見 れ な い 〔 修 理 の「 理 」 と「 礼 」 が 同 音 〕 、 と い う 意味だな。 ( 一七一~一七三頁 ) こうして、 橋本は、 「落語の『千早振る』が百人一首 を曲解したのと同様に、ここでは『論語』の中の多く の文句が自在に引用されて曲解されている。近代中国 における『論語』の普及度は、近代日本における百人 一首と同程度かそれ以上であった、と言えよう」と裏 釘を返すのである。 たしかに「吃元宵」には縦横に『論語』が引かれて いる。これを可笑しいと感じる聞き手がいてはじめて 笑いとして成立するということを考えれば、 「近代中国 における『論語』の普及度」は相当のものであるに違 い な い 四 。 し か し、 同 じ 話 芸 で あ れ ば ( 非 知 識 階 層 を 対 象 とする、 とは言うまい) 、 たとえば、 落語の「厩火事」はど うだろうか、少なくとも「この程度」以上のものとは い え な い だ ろ う か、 と い う 疑 問 ( と い う よ り は「 引 っ か か り」のようなもの) が本稿の出発点である。 上論掉尾に据えられた郷党篇中に「厩焚章」なる一 段がある。 廐焚。子退朝曰、傷人乎。不問馬。 (厩が焼けた。先生は朝廷からおさがりになると、 「人にけがはな かったか。 」とだけ仰って、馬のことはお尋ねにならなかった) 「厩火事」 はこの 「厩焚章」 を踏まえた噺である。本稿 は、 (落語「厩火事」を中心に) 日本人が「厩焚章」をどの ように読んできたのかということを手がかりに、日本 文化と中国文化の関係を視野に入れつつ ( できれば両者の 関係を捉える視点についても意識しながら ) 、日本における 『論 語』受容の一斑を窺おうとするものである 五 。
二 「厩火事」 について、 『日本大百科全書 ( ニッポニカ )』 は、次のように解説する 六 。 落語。 『論語』 から出た教訓噺。夫婦げんかの絶えな い髪結いのお崎は、亭主の本心が知りたくて仲人に 話す。仲人は、 唐 も ろ こ し 土 の孔子は厩の火事で愛する白馬 を焼死させながらも、馬にかまわず家来の安否を尋 ねたため、家来は孔子を心から尊敬したという話と、 麹町のさる屋敷の旦那は、奥方がたいせつな瀬戸物 の鉢を持って階段から滑り落ちたときに、鉢のほう ばかり気にして奥方の体のことを少しも聞かなかっ たという話をする。そして、お前の亭主も、お前が 瀬戸物を割ったときに、もしも瀬戸物ばかり気にし ているようだったら別れてしまえと教えた。お崎は 帰宅して瀬戸物を壊す。 亭主は驚いて 「けがはなかっ たか」と聞く。 「まあ、 ありがたい。お前さん、 そん なにあたしの体がだいじかい」 「あたりめえじゃねえ か、けがしてみねえ、あしたっから遊んでて酒飲む ことができねえ」 。古い江戸の噺であり、 8代目桂文 楽が研究を重ねて完成した。 関 山 和 夫 に よ る 簡 に し て 要 を 得 た 記 述 で は あ る が、 「厩火事」 という噺をどのようにみるかという点につい て異論がないわけではない。たとえば、加太こうじは、 『落語―大衆芸術への招待』 (現代教養文庫、 社会思想社、 一 九六二年) の中で、次のように主張する。 (傍点は引用者に よる) たったひとりだけ登場する女かみゆいは、古典落 語四五〇種のうちで、もっとも人間らしくえがかれ た人物のひとりである。演者によって、おさき、ま たはお竹ともいわれるこの女かみゆいの年齢や容貌 は、はっきりしていないが、物語の進行中で推定さ れるところでは、年は三十前後、顔かたちは十人並 だが心がけのよさがひとつの魅力になっている女で、 教養は低い。おしゃべりで愛嬌がありよく働く。都 市において生活する女のすべてが、日本髪をゆって いた時代だから、女かみゆいという職業は当時の女
性の職業としては代表的なものである。毎日、指を 油だらけにして、このおさきなる女かみゆいは働い ている。亭主はなまけ者で、これという職業につい ていない。ただ、ちょっと男前がよくて弱気で、そ れでいてずうずうしい。この落語の題は「うまや火 事」というが、それは、女かみゆいのおさきに、仲 人が意見をするとき、孔子のうまやが火事になった ことを引用するからである。 落語を耳学問のひとつ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 として、孔子の例を話す部分を「うまや火事」の主 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 題としている 0 0 0 0 0 0 演 ◎◎ 者 もあるが、これは話を底の浅い教 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 訓にしてしまう皮相な演出である 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。「うまや火事」 の 主題は、落語にたったひとりだけ登場するもっとも 職業婦人らしい女かみゆいのおさきの、女心の哀れ さ、人間生活の哀れさ、その喜びと悲しみをおさき とその亭主の生活を通してえがくところにある。 (一 〇四頁) 「うまや火事」という話は、 モーパッサンの短篇にも 比すべき、すぐれた人間描写と筋立てを持っている。 だが、 ある 0 0 落 ◎◎◎◎◎◎◎ 語関係の文筆家 の解釈を見ると〈主眼 0 0 0 0 0 0 0 0 0 とする所は、媒酌人が女房に対しての説諭にあるこ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 とゆえ、通俗で俚耳に入りやすい教訓であることに 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 異論はない〉 と教訓話にしてしまっている 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。もし、 そ のような教訓話と理解して「うまや火事」を演ずる なら、人間生活の哀れをえがいたこのはなしの価値 はまったくうしなわれるであろう。印刷された文学 は書いた者から読者にじかに伝わる。だが、落語の ように、演者が中間に介在するものは演者の解釈が 作品の価値を定めるために大きな役割をはたしてし まう。 (二六九頁) 加太は、 「厩火事」の主題は、 「落語にたったひとりだ け登場するもっとも職業婦人らしい女かみゆいのおさ きの、女心の哀れさ、人間生活の哀れさ、その喜びと 悲しみをおさきとその亭主の生活を通してえがくとこ ろにある」と、教訓噺とみなす演者、論者を二度にわ たって批判している。 「ある落語関係の文筆家」とは、 野 村 無 名 庵 を 指 し て い る よ う で あ る が 七 、 加 太 に か か れば関山も同断ということになろう。一方、飯島友治 は、 「江戸時代、 寄席が俗に耳学問の場所であるといわ
れたのは、 落語家が高座で故事来歴などや礼儀作法、 挨 拶の仕方を話し、笑いを通して八ッつあん、熊さん連 中を啓蒙したからである。 『二十四孝』 『道灌』 『人形買 い』 『牛ほめ』などの噺や、 一連の「根問い物」と称さ れる噺と同様、 『厩火事』もそういった性格を持つと同 時に、昔は 俗耳に入りやすい教育的な噺 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 としてもては やされていた」と野村無名庵を意識したような物言い を し て い る 八 。 飯 島 に よ れ ば「 厩 火 事 」 は、 ( そ の 多 く が 亭主連であろう) 聴衆の八ッつあん、 熊さんに対し、 女房 がなにか壊したときには、まず、相手の怪我を心配し ろと教誨 (教誡?) する噺ということになろう 九 。「厩火 事」をどうとらえ、どう演ずるかということは、演じ 手なり、聞き手なりの落語観とも関わる問題なのであ るが 一〇 、 ここではひとまず、 落語=芸術、 落語=文学 と言い切る加太が、 「厩火事」を、人間生活の哀れさ、 その喜びと哀しみとを描き出す落語の代表作としてい ること、また、演者 (の解釈) の果たす役割の大きさを 指摘していることに注意しつつ、 八代目 桂文楽 (一八九二 ~一九七一) の演じる「厩火事」から、 『論語』 「厩焚章」 と関連する箇所を抜き出してみよう 一一 。 「お前、 唐 も ろ こ し 土 を知っているかい?」 「知ってますとも、お団子でしょ。 」 「お団子じゃないよ、今の中華民国だ。 」 「はァ……」 「ここに孔子という学者があった。 」 「幸四郎の弟子かなんかですかねぇ。 」 「役者じゃないよ、学者っ。 」 「学者ってえと、どんなもんなんですゥ。 」 「まるで分からない。 今でいう文学博士とでもいう学 問のある、偉いお方なんだ。そういう方だから町な かへお住まいにならない、ごく静かな郡部というよ うなところへお住まいになっていたんだ。昔のこと だ、お役所にお勤めになるのに馬でお通いになって いた。 二頭の馬があった。 一頭のこの 白 しろうま 馬 の方を、 殿 様がたいへんにお愛しになったんだ。 」 「あッら、 そうですかね、 似たような話があるもんで すね。 うちの人もたいへんあれが好きなんですよ。 夏 はいけないけど、 冬はあれにかぎる、 温まっていいっ て……」 「おい、 濁酒の話をしているんじゃあないんだよ、 白
馬ったって乗る馬だよ。 」 「ああ、 乗るお馬なんですか、 それがどうしたてえん ですゥ。 」 「 そ の 日 に か ぎ っ て 乗 り 換 え の 黒 あ お 馬 の ほ う へ 乗 っ て らっしった。その留守にお厩から火事が出た。家来 のものは心配をして、ご愛馬の白馬に怪我でもあっ ては大変と、厩に跳んでって、どうかしてこの白馬 を出そうと思った。どうして動くことか、名馬ほど 火を恐れる、だんだん、だんだん家来のほうで引き ずられてく、命には代えられないから羽目を蹴破っ て家来は逃れた。馬は焼け死んでしまった。殿様の お 帰 り っ て こ と に な っ た。 『 お 帰 り あ そ ば せ、 あ や まって厩から火を発してございます、ご愛馬の白馬 が…』といわないうちに、 殿様が、 『家来のもの一同 怪我はなかったか』 とおっしゃった。 『家来のもの一 同無事にございます。 』『そうか、それは重畳であっ た』にこにこ笑ってらして、ほかのことはこれっぱ かりもおっしゃらない。どうだい、偉い方だろ。そ のご家来はなんと思う、ああ、ありがたいご主人だ、 この君ゆえには一命をなげうっても尽くさなきゃな らないと思うだろう、これがおさきさんの前だが一 事が万事てえんだよ。 」 「厩火事」 が 「厩焚章」 を下敷きにしていることはあ きらかだが、と同時に、かなりの脚色が施されている ことにも気づかされる。白馬と黒馬の二頭を飼ってい るという設定、家来が馬を助け出そうとする様子など、 いずれも『論語』 「厩焚章」にはないものであるし、 孔 子帰宅後のやりとりも「厩火事」ではかなり詳細に描 かれている。このような潤色が孔子を「偉い方」とし て描くためのものであり、その偉さとは、厩が火事に なったときいて、まっさきに家来の怪我を気遣うとい う点にあるのはいうまでもない。しかし、それだけで なく、この噺では、孔子が、愛馬の死を悲しんでいた、 ということが聞き手に分かるように演じられているこ とも忘れてはならない。たとえば、わざわざ、乗り換 えの黒馬を登場させるのは、生憎にもその日に限って 白馬が厩に繋がれていたことにするためであろう (孔子 が 登 庁 の た め 毎 日 馬 を つ か う 必 要 が あ っ た こ と が 説 明 さ れ て い る の も 同 様 である) 。聴衆は、 この噺を聞いて、 悲しくないはずはな
いのに、それをこらえて、家来を気遣い、馬のことに は一言も触れない孔子を「偉い方」だ、と感じるよう 演じられているのである。 実は、この箇所には、別の演出の仕方もある。たと えば、 五代目 古今亭志ん生 (一八九〇~一九七三) のものは 次のようである。 「こんな話があるんだ。今じゃあ昔な、 唐土に、 孔子 という方があって、このお方は何より馬を愛してい たんだ。その中で白馬といって、全身真っ白な名馬 をたいそう愛していて、 ご家来に、 『余の次のものは この馬であるぞ、 この馬にもしものことがあると、 そ の方どもは、そのままにはしておかん、重い刑儀を 行うッ』といわれたから、ご家来はもうその馬のこ とばかり心配していると、ある時、殿様お留守の時 に、火事があった。ええッ火事だって時には、あの 馬にもしもの事があったらいけないと思うから、す ぐに馬小屋に駆けていったけれども、風の強いため に間に合わず、その馬を焼き殺して、もしお帰りに なったらどんなことがあるかしら、 ことによると、 腹 でも切らなきゃなるまいと思っていたところへお戻 りになった。 『失火があったそうだな』 、『さようにご ざいます』 、『その方どもけがはなかったか』 、『いや 私どもにけがはございませんが、ご愛馬を焼き殺し ましたのは、私どもの落ち度で、どうぞ重き刑儀を 行っていただきたい』と、 『いやその方どもにけがさ えなければよかった』と、こういって馬のことを尋 ねなかった。 」 文楽のものと比べると、 「余の次のものはこの馬であ るぞ、この馬にもしものことがあると、その方どもは、 そのままにはしておかん」と孔子自らに言わせている ことで、 孔子の 「偉さ」 が減じているように思える。つ まり、 この科白によって、 火事の報告を受けての、 「い や、その方どもにけがさえなければよかった」という ことばが、やや唐突で、ちぐはぐなものになって、文 楽の孔子には感じられた愛馬を失った悲しみが読み取 りづらくなってしまうのだ。また、孔子にそう語らせ たことで、火事の際、家来たちは、馬を殺してしまっ たら大変な目にあうと慌てて馬小屋に駆けていくよう
になる。 「ことによると、腹でも切らなきゃなるまい」 という台詞と相俟って、孔子と家来たちの関係までも が文楽の噺とは違ったもののように映るのである (文楽 の方の家来たちは罰を恐れるために白馬を助けようとするのではな い) 。また、 文楽の孔子が、 家来たちが「お帰りあそば せ、あやまって厩から火を発してございます、ご愛馬 の白馬が…」と いわないうち 0 0 0 0 0 0 に、 「家来のもの一同怪我 はなかったか」と声をかけていることも、志ん生と比 べると数段勝っていることに気がつく。話の筋からい えば、孔子が馬よりも人を大切にしたということが分 かりさえすればそれでよいわけだが、 文楽の「厩火事」 は隅々まで細かい配慮が行き届き、孔子の人物像まで もが緻密に練り上げられている 一二 。現在、 「厩火事」 と いえば文楽と衆目の ほぼ 0 0 一致するところとなっている のもそのためなのであろう 一三 。 三 ここでいったん落語「厩火事」を離れて、そのもと となった 『論語』 「厩焚章」 が中国でどのように解釈さ れてきたのかについて確かめてみよう。対照の便宜 の ため 、まず諸解釈をまとめて掲げる。 ①桓寛 (前漢・昭帝期) 『塩鉄論』刑徳篇 魯廐焚、孔子罷朝、問人不問馬、 賤畜而重人 0 0 0 0 0 也 ②鄭玄 (一二七~二〇〇) 『(敦煌本) 鄭氏注論語』 〔P二五 一〇号、八二〇年抄写〕 重人賤畜 0 0 0 0 、自君之朝來歸。 ③何晏 (?~二四九) 『論語集解』 鄭玄曰、 重人賤畜 0 0 0 0 也、退朝自魯君之朝来歸。 ④皇侃 (四八八~五四五) 『論語義疏』 廏焚至問馬 云廏焚者、 廏、 養馬之處也。焚、 燒 也。孔子早上朝、朝竟而退還家也。少儀云、朝 廷曰退也。云曰傷人乎、 不問馬者、 從朝還退、 見 廏遭火、廐是養馬處而孔子不問傷馬、唯問傷人 乎、是 重人賤馬 0 0 0 0 、故云不問馬也。王弼曰、孔子 時為魯司冠自公朝退而之火所。不問馬者、矯時 重馬者也。 ☆⑤陸徳明 (?~六三〇) 『経典釈文』論語音義 廐、久又反。夫子家廐也。王弼曰、公廐也。焚、
扶云反。 曰 ・ ・ ・ ・ 傷人乎 、 絶 ・ ・ 句 、 一 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 讀至不字絶句 。畜、 許又反。 ⑥ 邢 昺 (九三二~一〇一〇) 『論語注疏』 此 眀 孔子 重人賤畜 0 0 0 0 也。 廐焚謂孔子家廐被火也。 孔 子罷朝退歸承告、而問曰、廐焚之時得無傷人乎、 不問傷馬與否、是其 重人賤畜 0 0 0 0 之意。不問馬一句、 記者之言也 ⑦朱熹 (一一三〇~一二〇〇) 『論語集注』 非不愛馬。然恐傷人之意多。故未暇問。蓋 貴人 0 0 賤畜 0 0 、 理 ◎ 當如此。 ⑧同『論語或問』巻十五 或問、廐焚而不問馬何也。曰退朝聞之、一時之 間、急於問人、故未及問馬爾。然亦豈終不問哉。 葢必將有以告者矣。諸説惟 尹 ・ ・ 氏 得之。 范 ・ ・ 氏 毎以 教人為説、非也。聖人之動、無非至教。然以為 是而必以教人則拘矣。 謝 ・ ・ 氏 捐情之説、 楊 ・ ・ 氏 未離 公門、 侯 ・ ・ 氏 禮敬之説、亦皆未然也。曰 陸 ・ ・ 氏 釋文 一讀至不字絶句如何。曰於理則通、然亦不辭矣。 曾氏又以不字自為一句、亦未安也。 *尹 焞 (一〇六一~一一三二) 〔朱熹『論語精義』巻五所引〕 貴人賤畜 0 0 0 0 、 理 ◎ 當然也。君子親親而 仁 ◎ 民、 仁 ◎ 民而 愛物之意。 *范祖禹 (一〇四一~一〇九八) 〔同右〕 君子之行、必本於 仁 ◎ 。問人而不問馬者、 貴人賤 0 0 0 畜 0 、所以教人。 *謝良佐 (一〇五〇~一一〇三) 〔同右〕 馬非不愛也。恐傷人之意多。故捐情於此。 *楊時 (一〇五三~一一三五) 〔同右〕 朝言不及犬馬。雖退朝未離公門。故問人不問馬。 *侯仲良 (北宋) 〔同右〕 馬雖貴畜、異於人者也。故不問。聖人 禮 ◎ 敬如此。 ⑨鄭汝諧 (一一二六~一二〇五) 『論語意原』 巻二 雖 然 聖 人 天 也、 動 静・ 語 言・ 飲 食・ 衣 服、 皆 天 ◎◎◎◎◎ 理之発見 也。 ⑩ 蔡 節 ( 南 宋・ 理 宗 期 ) 『 論 語 集 説 』 ( 巻 五 )〔 郷 党 篇 冒 頭 に 置かれた篇 全体についての 総論〕 夫子之道、 初不離乎日用之間、 惟其盛德之至、 動 容周旋無不中於 禮 ◎ 。故言語 ・ 容貌 ・ 衣服 ・ 飲食 ・ 朝聘・擯相・交際・起居、皆足以為法。 ★⑪王若虚 (金・一一七四~一二四三) 『 滹 南集』 巻五
孔子廐焚而不問馬、 蓋 ・ ・ ・ ・ 其已見 、 故 ・ ・ ・ ・ 不必問 。初豈 有深意哉。特弟子私疑而記之耳。後人因其記之、 遂妄意而為之説、 本 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 不須著此三字 。 鄭氏以為貴 4 4 4 4 4 0 人賤畜而然 4 4 4 4 4 、 夫 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 君子之待畜固輕於人 、 然不應無 4 4 4 4 0 情如此 4 4 4 。 ★⑫陳天祥 (元) 『四書辨疑』 巻六 未暇問乃是心欲問而無暇以及之也。 理當如此、 却 是理不當問也。一説而分兩、意理皆不通。問人 之言、止是傷人乎。三字而已。言訖問馬有何未 暇。 雖 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 曰 貴 人 賤 畜 、 亦 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 有 生 之 物 焚 燒 之 苦 、 亦 ・ ・ ・ ・ 當愍之 。今曰貴人賤畜理當如此、其實豈有如 此之理。王 滹 南曰蓋其已見、故不必問、初豈有 深意哉、特弟子私疑而記之耳、本不須著此三字。 此説決盡古今之疑。 *『四庫全書簡明目録』四書辨疑 元・ 陳 天 祥 撰。 朱 子 四 書 章 句 集 注、 元 初 始 行 于 北 方。 王 若 虚不以為然、立説攻之。天祥又推演王氏之説、以成是書。 ⑬『四書大全』 (永楽中翰林学士胡広等奉勅撰、一四一五刊) 『論語集注大全』巻十 南軒張氏曰 仁民愛物固有間 0 0 0 0 0 0 0 也。方退朝始聞之時 惟恐人之傷故未暇及於馬耳。 呉氏曰廐焚問馬、 人 之常情、 聖人恐人救馬而傷 0 0 0 0 0 0 0 0 、 故問人傷否而已 0 0 0 0 0 0 0 、 更 不問馬、 記之所以示教。雜記 ・ 家語皆載此事。家 語云國廐、恐非。國廐則馬當問、路馬則又重矣。 ⑭『日講四書解義』巻七 (康煕十六年〔一六七七〕大学士 庫勒納等奉勅撰) 論語上之四 此一章書是記 孔子仁民先於愛物 0 0 0 0 0 0 0 0 也。門人記曰一 日夫子養馬之廐、被火焚燒、夫廐為火焚傷馬必 矣。夫子自君之朝退而來歸聞之、即問曰火得毋 傷人乎、未嘗問及馬也。蓋惟恐人之傷、故不暇 及於馬耳。夫 天地之生物於人為重 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 當倉卒發問 0 0 0 0 0 之時 0 0 、 意不在馬而專在人 0 0 0 0 0 0 0 0 。 聖人其體天地之心為 0 0 0 0 0 0 0 0 0 心者乎 0 0 0 。 一見して気づくのは、①前漢・桓寛『塩鉄論』に始 まって、②後漢・鄭玄注論語、③曹魏・何晏集解から、 ⑥ 北 宋・ 邢 昺 『 論 語 注 疏 』、 さ ら に は、 ⑦ 南 宋・ 朱 熹 『論語集注』にいたるまで、 表現に多少の差 こそ あるが、 いずれも 「重人賤畜 (人を重んじ畜を賤しむ) 」 説とでもい うべき解釈でほぼ一貫しているということである (異な
る 解 釈 の 方 向 を も つ の は、 ☆ お よ び ★ 印 を 付 し た 三 例 の み で あ る ) 。 たとえば、③魏 ・ 何晏『論語集解』は、 「鄭玄は、 『 〔本 節 の 教 え は 〕 人 間 を 重 ん じ、 家 畜 を 軽 ん じ る と い う こ と である。 〔経文中にある〕 「退朝」 とは魯の君の朝 〔=政庁〕 よ り お 戻 り に な っ た と い う こ と で あ る。 』 と い っ て い る。 」 と ( 恐 ら く は 桓 寛 に 由 来 す る も の で あ ろ う ) 鄭 玄 の 説 に 拠っているし、⑥北宋 ・ 邢 昺 『論語注疏』は、 「この一 節は孔子が人間を重んじ家畜を軽んじたということを 明らかにするものである」とこの章の主旨を説いてい る。長らく最も影響力のある注釈書であった⑦南宋・ 朱熹『論語集注』でも、 「馬を愛していなかったわけで はない。しかしながら人に怪我はなかったかを心配す る 気 持 ち の 方 が 強 か っ た た め に、 た ず ね る 余 裕 が な かったのである。思うに、人間を重んじ、家畜を軽ん じるということは、 理 0 としてまさにこのようでなくて はならないのである」と、孔子の馬に対する愛情を留 保しつつもやはり「重人賤蓄」説を採っている。この 「重人賤蓄」 説が中国の伝統的 『論語』 解釈における主 流であったとみなしてよいだろう。 もっとも集注の 「非 不愛馬。然恐傷人之意多。故未暇問」というコメント には、 「重人賤畜」と直截に言い切ることのできない、 朱熹の逡巡が垣間見えて は いる。やや回り道ではある が、その朱熹のためらいについても考えておこう。 それはやはり「聖人」孔子が何故馬についてたずね なかったのか (たずねてほしい) という疑問 (と願望) から 発したものであるに違いない。 『論語或問』には、 ☆を 付 し た ⑤ 唐・ 陸 徳 明『 経 典 釈 文 』 論 語 音 義 の「 一 読 」 が取りあげられている。 「不」 字を疑問の終助詞とみな し、 「曰傷人乎不。問馬。 (〔孔子は〕 「人に怪我はあったか、 な か っ た か 」 と 仰 っ て、 〔 そ れ に 続 け て 〕 馬 に つ い て 尋 ね た ) 」 と い う意味にとろうとするものである。朱熹は、これに対 し、 「 理 に お い て は 通 じ る が、 辞 を な さ な い ( 於 理 則 通、 然亦不辭矣) 」と、 句作りの上で難があるとして容れてい ない 一四 。しかし、 この問答を採録しているという事実、 また、 「理においては通じる」という発言、 そして、 「貴 人賤畜、 理當然也」という尹 焞 の説を、 「諸説惟尹氏得 之」と して 採用しながら、集注ではわざわざ「蓋」字 を冠していることなど、いずれも馬についてたずねな い孔子に対する、朱熹のしっくりこない感じからくる もの と考えてよいだろう 一五 。
ところで★を付した⑪金・王若虚『 滹 南集』が朱熹 に異を唱えているのも、馬を問わぬ孔子に違和感を感 じているという点では朱熹といぶかしみを共有してい るのであり、ただ「重人賤畜」が「理」なのだからと 乗り切ろうとする朱熹の説が肯綮に中るものではない と不満を感じたためなのであった。 「孔子が、 厩が焼け てしまったとき、馬についてたずねなかったのは、お そ ら く ご 自 身 で ( 馬 が ど う な っ て い る か ) 目 に さ れ た の で あり、問う必要がなかったためである。もともと深い 意味などなかったものを、弟子が勝手にいぶかって記 しただけのことなのだ。後人はそのように記されてい たために妄想をたくましくして説をなしたのだが、本 来『不問馬』の三字は、書き記す必要もなかったもの である」となかなか穿った見方をしているのがそれで ある。これが、孔子は馬についてたずねないような薄 情ではないという気持ちから捻り出された解釈である こと、 「鄭氏が貴人賤畜としているのはその通りで、 君 子は家畜に対しもとより人より軽く扱うものだが、そ れ に し て も こ ん な に 情 0 の な い わ け は な い ( 不 應 無 情 如 此) 」と続くことからうかがえる。⑫陳天祥 『四書辨疑』 の朱熹批判も同様である。 「 〔集注の〕 『未暇問』 とは、 心 では問いたいとおもうもののそうする暇がないという ことである。 『理當如此』とは、 理として問うべきでは ないということである。 〔これでは〕 ひとつの説がふたつ に分かれてしまい、意味も道理も通じない。人につい てたずねるといっても、たった『傷人乎』の三字では ないか。馬についてたずねる暇がないなどということ があろうか。 『貴人賤畜』はさはさ り ながら、 生あるも のが焼かれてしまう苦しみは、また、当然、 憐れむべ 0 0 0 0 き も の 0 0 0 で あ る ( 亦 當 愍 之 ) 。『 貴 人 賤 畜、 理 當 如 此 』 と い うが、どうしてそんな理があろうものか」と、朱熹の 説は辻褄が合わないと指弾し、 「理として当に此くの如 くあるべし」といい放つ朱熹を厳しく批判し て 、孔子 自身が目にしたため問う必要がなかったという王若虚 の説を「此説決盡古今之疑」と絶賛するのである 一六 。 王若虚や陳天祥の朱熹の説に対する反発は、孔子に 「情」がないはずはない、 馬について尋ねなかったのは、 ほかになにか理由があるからなのだ、という思いから でたものであった (しかし、 王若虚、 陳天祥のふたりも、 「君子 之待畜固輕於人」 、「雖曰貴人賤畜」と、 一般論としては「重人賤畜」
を 認 め て い る こ と に も 注 意 し て お き た い ) 。 実 は 朱 熹 も 彼 ら と 同じ理由から踏み迷っていたので は あった。にも関わ らず、朱熹が「重人賤畜」説を採ったのはなぜか。そ れ は も ち ろ ん「 理 」 の た め で あ っ た ( 朱 熹 に と っ て「 理 」 と「 情 」 と は そ も そ も 秤 に か け る べ き も の で す ら な い ) 。 こ う し て、やがて 「重人賤畜」説は定論として、⑬『四書大 全』や⑭『日講四書解義』という明清二代の勅撰書に おいて公認されることになる。 『四書大全』に、 「民をいつくしむのと物を愛するの にはもとより へだて 0 0 0 があるのだ (仁民愛物固有間) ……馬 小屋が焼けたら馬について尋ねるのが、人間のふつう の 情 0 ( 人 之 常 情 ) な の に、 聖 人 は 人 が 馬 を た す け て 怪 我 をしたのではないかと恐れ、そのために人に怪我がな かったかをお尋ねになるのみで、馬については尋ねよ うとなさらなかった。これを記録して教えとするため である」とあるのも、 『日講四書解義』に、 「孔子は民 をいつくしむことを、物を愛することより優先された。 …… 天 地 に 生 き る 物 で は 人 間 が も っ と も 大 切 な の だ。 咄嗟にたずねる際、気持ちが馬にではなくただ人間に のみあるとは。 聖人は天地の心と一体となって (自らの) 心としているのだろうか」とあるのも、儒家思想の文 脈の中からは当然の帰結といえるものである。次節で は蛇足を承知でそのことについて 確認して みたい。 四 中国においては「厩焚章」について、古注、新注を 問わず、 「重人賤畜」説を基調とした解釈がもっとも広 く お こ な わ れ て き た。 そ れ に し て も 文 楽 の「 厩 火 事 」 に描かれていたのとはずいぶん異なった孔子の姿がそ こにはある。そして、もちろんそこでも孔子は「偉い 方」 とされているのである。しかし、 それは孔子が 「人 を 重 ん じ 畜 を 軽 ん 」 じ る た め で あ り、 「 重 人 賤 畜 」 が 「理」であるからということなのであった。 孔子の思想の中核をなす「仁」とは、顔淵篇に「愛 人 ( 人 を 愛 す る こ と ) 」 と あ る よ う に、 他 者 に 対 す る 思 い やりの気持ちといってよいものである 一七 。 しかし、 そ の思いやりは、誰に対してでも同じように注がれる無 条件、無差別のものではなく、むしろ、相手との関係 に よ っ て 差 等 を つ け て 発 揮 さ れ る べ き も の で あ っ た。
自分と同じく全ての人を無差別平等に愛せよという墨 家の兼愛説を、 孟子が、 父を 蔑 な み し、 君を蔑する「禽獣」 の説として激しく批判したのもそのためである 一八 。 つ まり、儒家は、愛情は誰にでもあるものだが、相手に よって濃淡が生じるのが自然であり当然である、自分 の子供に対する愛情と隣家の子供に対する愛情を考え てみよ、実母に仕えるのと同じように他人にも仕えら れるだろうか、人間は、自分と他者との関係を正しく 踏 ま え て 振 る 舞 う こ と が で き る か ら こ そ 人 間 な の だ、 そもそも実の父と他人との区別、自分の君主と他人と の区別がつけられなければ、社会は崩壊してしまうで はないか、と考えるわけである。中国における「厩焚 章」についての諸注釈が「重人賤畜」の線上にあるの も当然のことと肯われるだろう。このことは、⑧朱熹 『論語或問』 および 『論語精義』 に引かれる諸子の説か ら も 確 か め ら れ る。 ( 何 で も 教 育 に 結 び つ け て し ま う と 朱 熹 に け ち を つ け ら れ て い る ) 北 宋・ 范 祖 禹 は「 君 子 の 行 な い は、 きっと 仁 0 にもとづくものである。人について尋ね、馬 について尋ねないのは、人は貴び、畜は賤しむもので あることを教えるためである (君子之行、 必本於仁。問人而 不問馬者、 貴人賤畜、 所以教人) 」と、 孔子の振る舞いを、 はっ きりと「仁」にもとづくものと評している。 仁が、他者との関係に応じて差等をつけて発揮され るべき思いやりだとすると、その仁をどのように発揮 すべきかを規定するのが「礼」である。礼とは、日常 の細々とした作法の謂いであるに違いないが、その実 践を通して、あるべき関係が確認され、秩序が維持さ れるという意味で、社会に欠くことのできない基、人 間として踏み行なうべき道と位置づけられるものでも あ っ た ( 儒 家 は 人 間 を 社 会 的 存 在 と み な す た め、 自 分 が 何 者 で あ るのか は 、常に他者との関係によって規定される。儒家の言説の中 心に位置するのが常に人倫であるのはそのためである。また、孔子 の仁が他者に対する思いやりの気持ちを根底とするのも、他者の存 在なしに自身が存在できないからであり、まず自己修養から始めよ と 「 修己〔から安人へ〕 」 を主張するのは、人の生きる場が社会の中 以外にないと考えるからである。つまり「修己」とは社会の中で生 きていくための約束=社会的規範を身につけるということに他なら ない。この社会的規範を礼と呼ぶのであ った 。為政篇にみえる「七 十而従心所欲不踰矩」という晩年の述懐は、孔子にとって、縛られ ていると意識しないほど完全に 〔 そ こでは 「矩」 と表現されている〕
社会的規範〔すなわち礼〕を身につけることが、ひとつの到達点で あったことを示している。また、 仁について顔淵に問われ、 「 克己復 礼為仁 」 と答えたのも、その細目を問われて、 「 非礼勿視、非礼勿聽、 非礼勿言、 非礼勿動 」 と返したも、 それを別の言い方であらわしたに 過ぎない。自己修養によって徹底的に社会的規範に遵うことこそが 仁なのだ、と。その意味で仁と礼は表裏一体の関係にあるものであ る) 。 こうして、厩が火事になった際に孔子がとった行動 は、 仁にもとづき、 礼に適った行為 (あるいは礼そのもの) として賞賛されることになる。侯仲良の説に、 「馬は貴 い家畜とはいえ人とは異なる。だから馬については尋 ねなかったのである。聖人の 礼 0 の敬粛であること、こ のようである。 ( 馬雖貴畜異於人者也。 故不問。 聖人禮敬如此) 」 と あ る の が そ れ で あ る ( ち な み に、 古 人 に と っ て 馬 は 財 産 で あった、そのため厩が焼けたときに人についてたずねずに、馬を問 うものがいた、という言及は、④梁・皇侃『論語義疏』所引の王弼 の説や荻生徂徠『論語徴』にもみえている) 。 付 言 す れ ば、 「 厩 焚 章 」 ば か り で は な く、 「 郷 党 篇 」 に詳細に記される、 孔子平生の行住坐臥はすべて「礼」 として意識されるものであった。⑩南宋・蔡節『論語 集説』に、郷党篇を総括して、 「孔夫子の道は、始終、 日常から乖離することはなかった。その立ち居振る舞 いで、 礼 0 に適わないものはない。だから、 その言語、 容 貌、 衣服、 飲食、 朝聘、 擯相、 交際、 起居の様子は、 み な 法 と す る に 足 る も の で あ る。 」 と あ る の が そ れ で あ る。だからこそ、 ⑦朱熹『論語集注』は (尹 焞 の説にもと づいて) 孔子の 「重人賤畜」 という行為を 「理」 とする のである。ここでいう「理」とは、 もちろん、 「天地万 物之理」 、「所以然之理」 、「當然之理」などとして説か れる、あの「理」である。⑨南宋 ・ 鄭汝諧『論語意原』 にも、 「聖人は天のごとく届きがたい存在ではあるが、 その動静、言語、飲食、衣服はみな 天理 0 0 が発現したも のである」 一九 とあり、 やはり郷党篇に描かれている孔 子日常の挙措容止すべてが天理の発現したものとされ ている。だからたとえば、 『論語』郷党篇中の諸章にみ える 失 飪 、不食。不時、不食。割不正、不食。不得其 醤、不食。 (煮方の適当でないものは食べず、 時期外れのものは食べず、 切
り方の正しくないものは食べず、 付け汁の適当でないものは食 べなかった。 ) 食不語、寝不言。 (食べるときには会話せず、寝るときにはものを言わない。 ) 席不正、不坐。 (座席がきちんとしていなければ座らない。 ) 君命召、不俟駕行矣。 (主君の命で召されると車駕の整うのを待たずに出発された。 ) 迅雷風烈、必変。 (ひどい雷や烈風にはきっと居住まいを正して慎まれた。 ) などはいずれも、孔子の日常における実際の振る舞い であるとともに礼として意識されていたということに な る 二 〇 。「 聖 人 」 孔 子 の 仁 は 日 常 生 活 の す み ず み に い きわたって、しかるべきかたちをとってあらわれてい たはずなのだからである。 こ こ で、 馮 夢 龍 ( 一 五 七 四 ~ 一 六 四 六 ) の『 笑 府 』 巻 二 「腐流部」 に収められている 「不問馬」 と題された一篇 の笑話に目を転じてみよう。 一道學先生在官時、 馬厩焚、 童僕共救滅之、 回報、 道 學問之曰、 傷 ○○○ 人乎 、對曰、幸不傷、但馬尾燒却了些、 道學大怒、責治之、或請其罪、曰 豈 ○○○○○○○○ 不聞孔子不問馬 、 如 ○○○○○○ 何輒 以馬對 。 ( あ る 道 学 先 生 が 役 人 を し て い た 時 の こ と、 馬 屋 が 火 事 に な っ た。 童僕たちは総出で消しとめた。お戻りになって報告をすると、 道 学先生は、 「人を傷えりや」とたずねた。 「幸いにして怪我人はあ りませんでした、 ただ馬の尻尾がすこし焼けました」とこたえる と、 道学先生はかんかんに怒って、 その童僕をひどく罰した。あ る 者 が そ の 訳 を た ず ね る と、 「 孔 子 様 が 馬 に つ い て 問 わ れ な か っ たのを知らぬというのか、 どうして馬についてこたえたりしたの か」と答えた。 ) 「厩火事」と比べたとき、 その笑いがずいぶん異なっ たものであることにまず驚かされる (この話が日本人には 分かりづらいのには相応の理由があろう) 。 それはともかく、 こ こでは、火事の報告を受けた際の道学先生の胸の高鳴 り (孔子様と同じように振る舞える機会がやってきたというある種 の 喜 び ) や、 「 傷 人 乎 」 と た ず ね た 時 の 得 意 げ な 様 子 が 描かれ、余計なことを答えたと童僕に対する怒りのあ
まり (おそらくは鞭打って) ひどく責め、 (馬小屋が焼けたとき は、 人についてだけ尋ね、 馬については訊かないという) 「礼」に こだわる余りに、却って、人間を阻害し、 人 ・ を愛する こ と か ら 始 ま る「 仁 」 を 忘 れ、 重 人 賤 畜 と い う「 理 」 を踏み外してしまった道学先生が笑いものになってい るわけである (これは間違いなく、 儒教のある一面を突いた話で、 儒教を礼教と呼ぶこと、また、理が人を殺すという戴震の発言など もこの話からよく理解できる) 。 この笑い話から、 『論語』郷 党篇「厩焚章」が「礼」の問題として認識されていた ことが改めて確かめられるであろう 二一 。 以上、 中国では、 『論語』郷党篇「厩焚章」を「重人 賤畜」説を基調として理解してきたこと、人は重んず べきもの、畜は賤しむべきものであるから、馬小屋が 焼けたときには、人についてたずね、馬についてはた ずねないのが「礼」とされ、 「理」とされるにいたった ことを確認した。 五 文楽の「厩火事」では、 「悲しくないはずはないのに、 それをこらえて、家来の怪我を気遣い、馬のことには 一切触れなかった偉い方」として孔子が描かれていた。 孔子がこのように演じられるようになったのはいつ頃 からなのであろうか。 「厩火事」が「古い江戸の噺 」 とされるのは、喜久亭 寿曉が文化四年から六年 (一八〇七~〇九) にかけて記し た所謂ネタ帳『滑稽集』にみえている「唐の火事」が 「厩火事」を指すとされているからである 二二 。 江戸落語の鼻祖とされる鹿野武左衛門が没したのは 元禄十二年 (一六九九) 、 中興の祖、 烏亭焉馬がはじめて は な し の 会 を 主 催 し た の が、 天 明 六 年 ( 一 七 八 六 ) の こ と で あ る。 そ の 後、 寛 政 の 改 革 ( 一 七 八 七 ~ 一 七 九 三 ) に よる風紀粛正をはばかりつつ、同好同士の趣味の会か ら、 セ ミ プ ロ、 や が て は 職 業 と し て の 噺 家 が 誕 生 し、 徐々に寄席も開設されてきた文化年間初頭に 二三 、 江戸 の華とされる火事と喧嘩をふたつながら種とする、い かにも江戸の風を感じさせるこの噺を、喜久亭寿曉が どう演じたか知るすべはもはやない 二四 。 文楽が誰から 教わったのか、辿っていくほか道はないのだが、それ も すぐに行き詰まってしまう。文楽からいくらもさか
のぼることは出来ないのである 二五 。 安藤鶴夫『わたしの寄席』 (雪華社、 一九六六年) は、 「文 楽は 〝 厩火事 〟 を三代目 ・ 小さんから教わっている。小 さ ん が 上 野 の 桜 木 町 に 住 ん で い た 時 分 の こ と で あ る 」 と す る 二 六 。 暉 峻 康 隆 監 修『 桂 文 楽 全 集・ 上 』 ( 立 風 書 房、 一九七三年) の「作品解説」でも、 「文楽は、 この噺を三 代目小さんから教わっている」と明言した上で次のよ うに続けている。 (傍点は引用者による) 三代目小さんは、この『厩火事』を、めったに高 座にかけなかったそうである。ある日、たまたまこ の『厩火事』をやりはじめた。聞いていると、 『そらァまァそうですけどもねェ、 なにもお刺身を 百人前誂いて長屋へ配ったってわけじゃァないんで すし、二升も三升もお酒飲んで泡ァ吹いてひっくる 反 っ て 寝 て た っ て わ け じ ゃ な い ん で す か ら …( 中 略 ) … 一 合 の お 酒 や 一 人 前 の お 刺 身 ィ と っ た っ て な に も 旦 那、 そ ん な に お っ し ゃ ら な く た っ て い い で し ょ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 』 と、別れたいと相談にきたお崎さんが、逆に旦那に くってかかるところが実にあざやかだった。 この台詞をいいたいがため、ここの個所をやりた いがために、ひとつの噺を高座にかけるということ が、落語家にはよくあるという。 …(中略)… 文楽が『厩火事』を教わりに行ったのも、まさに それであった。この、お崎の台詞を、心情を演じた いためであった。 それから文楽の研鑽がはじまった。 その焦点は、 お 崎のこの台詞であったことはいうまでもない。 三代目小さんの演ずる『厩火事』は、髪結いのお 崎さんが夫婦になる、 そも馴れ初めが入っており、 四 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 十分以上もある長編であった 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。それを、まず枝葉末 節をとりはらい、噺のポイントをお崎の心情におい て無駄をはぶくという、文楽特有の作業が始まった のである。 ここでいう 三代目 小さん (一八五七~一九三〇) とは、 漱 石が『三四郎』で与次郎の口を借りて絶賛したあの小 さんである 二七 。小さんはめったに 「厩火事」 をかけな かったということばを裏付けるように、落語全集、速 記録の類で、 小さんの 「厩火事」 を収録するものは (管
見 の 及 ぶ 範 囲 で は あ る が ) 次 に 引 く 今 村 信 雄 編『 名 作 落 語 全 集 7 恋 愛 人 情 編 』 ( 騒 人 社、 一 九 二 九 年 ) の み の よ う で ある。 (原文は総ルビだが煩を厭って極力省略する) 親「是やア俺がお 店 た な の隠居さんに聞いたんだが、昔唐 土に孔子さまといふお方があって、お馬が飼つてあ ツた」 竹「へエー」 親「御家来に、此の馬は私が秘蔵の馬だから、私と思 つて大切に扱つてくれろと、 豫 か ね ぐ 々 申付けてあつた」 竹「へエー」 親「スルト或日お不在にお厩から火事が出て、生憎旦 那さまから大事にしろと言い付つてるお馬が焼け死 んじまツた。サアこれは大変なことになった。旦那 様がお帰りになつたら、何んなにお 叱 こ ゞ と 言 を蒙るだら うと、御家来が皆な青くなつてゐる。ところへお帰 りになつた。早速其のことを申上げると、馬の事は 一言もお聞きなさらないで、家来は誰も 負 け が 傷 をしな かつたか、厩だけの焼失か、夫れは宜かつた、火の 元を大切にせんければならんぞ。家来が無事なれば 目出たい。アヽ宜かつたと毎もより御機嫌だ。夫れ で家来が、奇態なことがあるもんだ。マア 御 ご じ や う だ ん 戯談 に もせよ、己れより大切にしろと御しやつたお馬が焼 死んだから何ういふことになるかと思ふと、馬のこ とは一言もお聞きなさらないで、家来のことを再三 お聞きなさる。シテ見ると 平 ふ だ ん 常 仰しやつたのは 真 ほ ん た う 実 の口先で、イザとなれば畜 生 よりも人間の家来を深 く思召して下さる。 アー有難い旦那様だといつて、 御 家来が忠義を尽したといふが、それが其の論語とか いふ本に出てゐるとよ。厩焼けたり、子廳より退い て曰く、人 傷 や ぶ らずやと、馬を問はず…」 ここから馬を失った孔子の悲しみを読み取ることはで き な い。 二 人 の 馴 れ 初 め も な け れ ば、 「 そ ん な に お っ しゃらなくたっていいでしょ」という台詞もない。そ もそも、刺身の話が持ち出され、そんなやつとは別れ てしまえとけしかけられることもないから、そんな言 葉の出ようがないのだ。 「親分 妾 わたし の考へでは 他 ほ か に 情 い ろ 婦 か 何か出来たに違ひない。 其 そ い つ 奴 がキツト意地を附けるん で、お前何だねえ、廻り髪結なんか女房に持つて、 宜 い
い 情 いろおとこ 夫 か何かの積りで遊んでゐるが、遊んでゐたきや ア 此 こ つ ち 方 へお出でとか何とかいはれて、それで 妾 わたし の方を 肱をきめて、 而 さ う して 先 む か う 方 へ行くんだらうと思ふと、口 惜しくツて悔しくツて…」といわせているなど、小さ んのお竹は文楽のお崎とはだいぶ異なって描かれてい るようにおもえる。 一 方、 暉 峻 康 隆『 落 語 芸 談 』 ( 三 省 堂 書 店、 一 九 七 六 年 ) には文楽との対談 「桂文楽―長生きするのも芸のうち」 の中に、文楽自身のことばとして、 あの名人初代遊三 (大3・7・8没) さんの、 「 な に も そ れ ほ ど に 言 っ て く れ な く た っ て い い で 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 しょう 0 0 0 」 と い う と こ の よ さ な ん て も の は ね え。 わ れ わ れ が やって、人に、あそこがいいのなんのって、そんな もんじゃないんですよ。なんとも言えないんですね、 人情がこもっていて。なるほどなあと、お客が感心 するんですよ、そのお師匠さんがやれば。 と 初 代 遊 三 ( 一 八 三 九 ~ 一 九 一 四 ) へ の 憧 憬 が 語 ら れ て い る。 そ の 初 代 三 遊 亭 遊 三 の 口 演 は「 厩 焼 失 」 と の 題 で、 『百花園』 二巻二十八号 (一八九〇年) に掲載されている。 親「マ、黙つてお聞き、孔子さまと云ふお方が有つた んだ。馬が大層お 嗜 す き で 種 いろ〳〵 ろ 召した。其内に御意に入 つた白馬、しろンまが大変にお嗜なんだ」 「 …… お 乗 ン な さ る 馬 が 幾 匹 も 有 つ た 其 中 で 白 馬 が お嗜ゆゑ、御家来に被仰るには、是は秘蔵の馬だか ら粗末にしてはならん、大切に扱ヘヨと 吩 い ひ つ 咐 けてお 置きなすツた。スルとノ、マ我邦で云へば文部省だ か、宮内省だか、 如 ど う 何 云ふ処か知らんけれども、其 時分勤めて居た役所へ御出勤の留守に厩から火事が 出て其白馬を焼殺したと思ひねエ。サア御家来一同 心配して是は大変な事をした、 如何したら宜らう、 此 事をお 勤 つとめさき 先 へ申上げようか、其内に 御 お さ が り 退出 に成つた らお叱りを蒙るだらうと一同真ツ青に成つて、其時 分は雇人ぢやアない奉公人だからお手討ちに成つて も 詮 し や う 方 がないので皆真ツ青に成つて居る所へ孔子様 がお 帰 か へ り 館 に成つて馬の事をお聴きなされ、家来一同 無事は芽出度い〳〵と云つて大変お悦びに成つたと
云ふ。家来は皆悦んで、何んとか一ト言お小言が有 りそうなものだのに馬の事は一ト言もお聴きなさら んで、家来の身を左程に思し召して下さるかツて大 変に悦んだ。……」 これが今のところ目にすることのできる「厩火事」の 最も古い速記録のようであるが、やはり、夫婦の馴れ 初 め も「 そ ん な に お っ し ゃ ら な く た っ て い い で し ょ」 という演出もない 二八 。「厩火事」は、 初代 遊三の十八番 らしく、 速記本に はその 口演が数本残されている (中に は、お竹と呼ばれているもの、お竹がご贔屓のところで実際に髪を 結 っ て い る と こ ろ を 前 段 に お く も の な ど が あ り、 相 応 の 違 い は あ る) 。しかし、 そのどれにも、 馬を失った孔子が悲しみ に耐える様子は 浮んでこない し、文楽が痺れた という その台詞もない。また、女が亭主の浮気を疑っている 点も 小さんのものと 共通している。このほか、同時代 を生きたやや後輩の 六代目 三遊亭円生は、 文楽の厩火事 は志う雀から出たと述べている 二九 。しかし、 残念なが ら志う雀の「厩火事」がどのようなものであったのか を確認することはできない。ほかに落語全集や速記録 などをできる限りたどってみても ( 管見 の限り では ) 文楽 のような孔子は見つけることは出来ない 三〇 。 今回目睹 し得たもののうちで、文楽の「厩火事」の祖型として 一番相応しそうなのは、 『修養全集 第六巻―滑稽諧謔 教 訓 集 』 ( 大 日 本 雄 弁 会 講 談 社、 一 九 二 九 ) 所 収 五 代 目 三 遊 亭 円生 (一八八四~一九四〇) の口演である。 旦那 「 アヽさうか、 それは別れる方が宜いだらう。私 もどうも悪い者を世話したナ。もと〳〵お前は女髪 結で宅の女房の髪を結ひに来る、お前の亭主といふ ものは第一私の家へ始終出入りして居て、それが為 に、盆暮れには半纏の一枚づつも遣つてあるという やふな理屈で、お前ともチヨイ〳〵顔を合はせるし 双方独身で居た所が詰まらねえ話だらうから、夫婦 共稼ぎと云ふことがあるから てんで 、夫婦にした。 サ アそれから毎日のやうに何うだ斯うだといふ、もう 幾度口を利くか知れねえ。説諭をして見たり色々す るが、 双方ともに分からない。で私が仲へ入つて、 さ うさ、四五年前だらうナ、お互いに 稼 しやうばい 業 して居るか らいけない、二人で稼ぐには相違ないが、亭主の帰
りが遅いと云つては夫婦喧嘩、女房の帰りが遅いと 云つては夫婦喧嘩ぢやア 迚 と て も納まりが付くものぢや アないてんで、それから余計稼ぐお前を休ませる訳 には 行かないから 、夫婦揃へて置いて私が会つて言 うただらう。 亭主の方を 仕事を休 ましてしまへ、 忠 ま め 実 な男だし飯位炊けるだらうと云ふと、亭主もそれア 親方の所へ居りましたから飯も炊けますしお 菜 か ず 位出 来ます。男の手で何でもないことでございますから、 さうかそれならと云ふんで、お前も喜んで、それで 二三年は行つたのだ 。 それが又此頃になると のべつ 0 0 0 だ。どうもこれぢやア俺も世話が焼ききれないから、 もう 寧 い つ そ別れた方が宜いだらう」 女「さうですか」 旦那「別れさせてやらう」女「エヽ」 旦那「俺もお前の亭主にはちよいと気に入らない事が ある。四五日前お前処の前を通つた。さうすると格 子が五寸ばかり開いていたから、下泥棒でも入つち やア悪からうと思つて、オイ〳〵居ないのかといふ と、アヽ旦那ですか、どうもつい一人身體で出られ ないものですから御無沙汰をしました、マアお掛け なさいと云つて戸口を開けて呉れたから、入つて上 へは上がらずに腰を掛けて居るとお茶をついで出し たりして、丁度昼間の一時頃、飯を食ったものと見 えて膳を壁の方に片寄せて、マア一服召上れと云ふ のだが、 この膳に載つてたものが俺の気に入らない」 女「へエー何が載つて居りました」 旦那「さう顔の色を変えて騒ぎなさんなよ。刺身が一 人前、五切か六切載つかつて居たのだ。それに膳の ところへ徳利が一本附いて居つた。お上さんが油だ らけになつて汗を垂らして働いている、その留守に 仮 た と ひ 令 五勺の酒でも飲んではどうも俺は気に入らない。 別れた方が宜いだらう」 女「だつてあヽやつて留守をして居ますからね、退屈 もしますから、ナニ飲んだつて、何も別に不経済と いふ程のこともなし、貴方、そんなに言わなくたつ て宜いぢやありませんか」 …(中略)… 女「ヘエー人間の試し方があるんですが、それで分か るんですか」 旦那「分かるとも。一事が万事だよ。唐土を知って居
りますか」 女「知つて居りますかつて、お団子のことでせう」 旦那「お団子ぢやアないよ、 唐土といふと今の支那だ」 女「ヘェー、チヤン〳〵ですか」 旦那「チヤン〳〵と云ふ奴があるかい。それは唐土の 昔だよ。孔子と云ふ学者があつたナ」 女「アラマア、帝劇へ何時でも出て居るいづれ幸四郎 か何かの弟子でせう。そんな役者は余り知りません けれども、まだ下廻りなんでせうね」 旦那「何を言つて居るんだ。役者ではない、 学者だよ」 女「学者つて何です」 旦那「仕様がないね、学問の出来る偉い方なんだ、今 の世でいへば文学博士といふやうな神様になる程の 人なんだ」 女「ヘェー、それがどうしたんです」 旦那「毎日お役所へお勤めになる」女「いづれ郡役所 か何かへ出て居るのでせう」 旦那「何を言つて居るんだ。文部省といふやうな処へ その毎日お勤めだ」女「ヘェー」 旦那「さういふ方の住ふ処といふものは、もう町中の 繁華な処は騒々しくていかぬ」 女「アヽ成程、それではマア何れ中渋谷といふやうな、 ……彼処辺は好い地面があるさうだけれども、随分 と値が高いさうですね」 旦那「蒼蠅いな、さう 喋 し ゃ べ 舌 つては困るよ」 女「ぢや成たけ黙つて居りますけれどもね」 旦 那「 そ れ で 郡 部 と い ふ や う な 処 へ お 在 で に な つ て 日々のお勤め、青に白……この上馬が居るんだ」 女「ヘェー、 じやうめ 0 0 0 0 つて何です」 旦那「馬だよ。この白馬が大変にお気に入りだ」 女「アラマア、家の人がさうなんですよ。夏はいけな いけれど、寒い時などにはあの濁酒はおいしくは な いが 身體が温まつてお腹が脹るつて…」 旦那「何を言つているんだね。白馬と云つたて濁酒や 何かではないよ、白い馬だよ」 女「アヽさうですか。明神様や山王様何かにある」 旦那「さう決まつてやしない。孔子様はこれが大変に お気に入りなんだ」 女「ヘェー、それがどうしたんで」 旦那「或る日のこと、その日に限って御愛馬の白馬に
楽をさせてやらうというお考えか、孔子様が青の方 へ乗つて行らしつたんだナ」 女「塩原太助の馬でせう」 旦那「それが何だ」 女「だつて青よ〳〵と……」 旦那「何を言つているんだ。黒い馬をどういふ訳か俺 は知らぬが青と云ふんだ」 女「さうですか、黒いのを青といふ、妙なものですネ。 それがどうしたんで……」 旦那「お留守に厩から火事が始まつた。サア馬係りの 人は一生懸命、けれども 飼 か ひ ば 料 があるから直ぐ火が大 きくなつてしまつた」 女「ヘェー大変ですね、自動車 喞 ポ ン プ 筒 か何かゞ……」 旦那「何を言つているんだね、それは昔だ、大昔だ」 女「アヽ昔ぢやア迚もそんなものはありますまいけれ どもね。それでどうしたんです」 旦那「厩の中に人が一生懸命火を掻分けて入つて、馬 の口綱に捉まつた。 上馬ほど火を恐れるといふね。 名 馬といふものは大変なもんだ」 女「ヘェー」 旦那「それこそ人間なら悧巧と云つても宜い位」 女「ヘェーさうですかね」 旦那「後へ後へと退つてどうしても出ない。人の力と 馬の力とは違ふ。火を恐れて奥へ〳〵と這入る。自 分の身體へ火が附いては堪らない。それが為に横の 羽 目 を 蹴 破 つ て 漸 く に し て 外 へ 出 た 。 係 り の 人 も い ゝ 塩 梅 に 怪 我 を し な か つ た 。折 し も お 帰 り と い ふ 声 が 掛 か つ た 。 そ の お 係 り の 人 は 御 前 へ 出 て 恐 る 〳 〵 、 今 こ ん に ち 日 過つて御厩から火を発しまして、御愛馬の白馬 が … … と 申 し 上 げ た ら 、 そ の 言 葉 を 消 し て 、 イ ヤ 〳 〵 家 来 の 者 に 怪 我 は な い か ど う ぢ や と 仰 や つ た。 一同無事にございます、と申上げると、それならば 上乗であると何も仰しやらぬでニコ〳〵笑つて奥へ お通りになつてしまつた。その御家来はお前何と思 ふ、アヽ有難いご主人だ、 只 た つ た 御 ご 一 言 ご ん だが馬のこと は問はぬで家来に怪我がなければそれで上乗と仰つ て下さつた。この君故には命を捨てゝも尽くさうと いふ心持が出るぢやアないか。 これが一事が万事、 論 語の中にある厩焚けたり、 子、 朝より退いて曰く、 人 傷つけ り や、馬を問はず…」