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〈書評〉市原季一著『ドイツ経営学』

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Academic year: 2021

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市原季一著﹃ドイツ経営学﹂

山 本 安 次 郎

 改めて説くまでもなく、経営学は学問論的にはドイツを母国とす るともい5べく、ドイツ経営学の研究は何人にとって毛経営学研究 の一関門と毛呼び得るであろう。その意昧にて、ドイツ経営学の紹 介や研究は従来のわが国の学界に︵も必ずしも少なしとしない。し かし本書がわが国で唯一を誇る神戸大学経営学部での経営学史の講 義を契機とし、多年の苦心彫鎮の結果成れる亀のだけに学界を碑益 するところの多い異色の労作ということが出来る。その特色は著者 自身でいっているように、 ﹁ドィッ的経営学の生成と発展﹂を﹁ニ ツクリツシユ経営学を中心として﹂学史的に把握ぜんとするにある といえよう。そし︵経営学史は或る意昧で経営学そのものであるか ら、本書も亦﹁ドィッ経営学﹂といわれ得るのである。がそれは同 時に市原助教授の考えられる﹁経営学﹂そのものでもあると見られ よう。少くともその基礎工作である。  現在わが国大学の経商学部に於︵経営総論の講義が行われている が、今日の状態では経済学に於けるが如き分科は認められず、概論 電 評 や原論は元より経㎝営山史や学山史を・も含むべく余触腰なくされ、 これを例囚 えば一週二時問の通年講義で試みる場合、如何に困難であるかは自 明であり、担当者の苦労は並大抵のことではない。特に学論や学史 などに力を入れすぎると、それだけで終りともなりかねないのであ る。本書の出現は総論担当者に対してもこの点についての負担を軽 減すべく、少くとも経営学を学ぶ者の常識として敢えて一読を薦め たいと思5。 二  われわれは先ず本書の内容を概観しよう。  何事でも初めが大事である。端緒は結論をも予想せしめるからで ある。かくて第一章の﹁ドイツ経営学の分類﹂に関する研究が問題 となる。著者は先ず従来試みられたドィッ経営学の発展段階につい ての諸説を洋語しつつ、一壷H一年の重要性を確定し︵これを出発 点とするのである。今度は学派乃至学説の分類について検討し、両 極端にニックリッシユ学派とリーガーの私経浩学派を対置し、前者 を典型的なドィッ経営学として把握し、シユマーレンバッハのケル ン学派とシュミット学派はそれぞれ両者の中聞に位置するものとす るのである。本書が狙うところはこのニックリッシユ学派の系譜を 明かにしてその特色を明確ならしめこれを申心に諸学派乃至諸学説 の地位を解明するのであって、 私経済学派は次の機会にゆずられ る。論旨極めて明快、何人をも首肯せしめずにはおかない。  第二童では﹁先駆者シエアーとデイートリッヒ﹂が問題とされ、 七三

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書 評 第三章では﹁ニックリッシユ経営学の系譜﹂がたずねられ、シエア ーとデイートリッヒからニックリッシユへの展開の径路が画かれる と共にニックッシユの発展的段階が問題となる。著者によれば、こ れらによつ︵ドイツ的経営学生成の系譜が作られるのである。  かくの如くニックリッシユ経営学即ちドィッ的経営学の生成を明 かにした後、ドィッ経営学の中心的課題についての対立と発展とを 解明する。第四章では﹁ニックリッシユの共同体論﹂、第五章では ﹁シエンプルークの社△試形︷象弥珊﹂、馳弟六出早では﹁経営学と組 繊払謂的縣︸ 考﹂、第七出早では﹁経営目的の規定につい︵﹂、第八血早では﹁経済性 論の展開﹂が、学史的にも理論的にもそれぞれ複雑にして困鑑な問 題にも拘らず明確に要領よく経営の立場乃至経営学固有の観点を浮 き彫りにするように纏められている。著者の重点はここにあり、本 書の価値と意義とはこの数章のうちに見らるべきかに思われるほど である。その意昧にて熟読玩落せられんことを望みたい。  第九章は﹁経営学と計算論的思考﹂を問題としシユマτレンバッ ハとニックリッシユとの貸借対照表論が取扱われ、第十章は﹁レ下 マン経営学の発展﹂の三戸階がニックッシユとの関連に於て取上げ られ、第十一章では﹁シュミット経営学の発展﹂が問題となり、例一 の財産経済論や人経済論の主張が顧みられ、それぞれの地位や特質 や関係が解明せられる。ここでもわれわれは多くのものを学びとる ことが出来るであろう。特に経営学と会計学との根本関係などがそ れである。  ドィッ経営学を全体として特質づけるものは比較研究であろう。 七四 経営学は本来比較経営学を基麓とすべく、ドイツ経営学はアメリカ 経営学やその他の国の経営学と共に問題とせらるべきであろ5。然  るにこれまでアメリカ経営学やフランス経営学以外は殆んど問題と .ならなかった。本書が第†二章に於て﹁ドィッ経営学と隣接諸国の 経営学﹂を問題とし、スイス、イタリや及びフランスの経営学に触 れているのも一特色といえようし、著者の努力の並々ならないこと  を示−している。 三  以上内容の項目を列挙したに止まり、その内容にまで触れるを得 ななかったが、読者はどの頁からも経営学の基本問題がどこにある かを見出すことが出来るであろ5。そしてこれらについては勿論著 者から卓越せる見解を期待することが出来る。ここではその詳述を 許されないから、ただ二三の読後感を録するに止めねばならない。  ただ目次を見ただけでは或はバラバラの寄ぜ集めの感がするかも 知れない。しかしよく注意し︵見れば課題たる﹁ニックリッシユを 中心とし︵﹂見たる﹁ドイツ経営掌﹂とい5ものが、内容的に且つ 具体的にしかも適確に把握せられ、まことに手際よく生き生きと画 き出されていて感銘潔いものがあるのを覚えるであろう。ただ個々 の学説につい︵は余りにも簡暑にすぎ且つ割り切りすぎて些か物足 らないとも考えられるが、謂わゆる文献史的ではなく学史的である ことを狙ったことからそれも止むを得ないのかも知れない。それに し︵も中心たるべきニックリッシユ学説が単に﹁系譜﹂というよう

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な見方や﹁共同体﹂﹁目的﹂﹁経済性﹂というような個々の点のみ から果して充分に把握し得るかどうか問題であろう。余りにも論理 的でありすぎるのではないかという感じを否定し得ない。われわれ は一歩深く掘りすすめてニックリッシユ学説の生の根源からの把握 を著者に望みたいと思う。  なお、著者に於ては経営学は或るところでは真に独立の経営学で あり、また或るところでは経営経済学の省暑の如く思われるがどう であろうか。勿論、ドイツだけを問題とする場合には経営経済学と いう名称について何等の疑問悉起らないのかも知れない。 しかし 論理を尊ぶ著者に対しては、通常無視され勝ちなこの根本的な区別 を、単に言葉の問題として無視されざらんことを希望したいもので ある。朝雲史とか学説史とかと真の意味での学史とを区別せんとす るならば、恐らくその名称の問題が単に言葉の問題としてではなく 論理の問題として取り上げられねばならないと思われるからであ る。この点につきわれわれは著者の経営学論を直接に知りたいと思 う。経営学の根本問題の一つがここにあると思われるからである。 いわばドイツ経営学批判の問題である。  最後に、著者は殆んど全く外国の交献のみに依拠され、しかも広 汎な丈献を自由に駆使され、適切な見解を立てられ、その努力は全 く敬服の外ないのであるが、その反面、そのような国内文献を無視 することはどうであろうか。問題が問題だけに或はそれも止むを得 ないともいえよ5。しかし少くと毛ドィッ経営学やフラン.ス経営学 特に前者については既に古くからおが国でも問題となっており、幾 電 評 多の文﹂献があるのであって、それら凡︵が、一顧に値しないとはい えない筈である。面倒といえば面倒ではあるが、研究が協力によっ て進められる限り、賛否はと竜かくとして、他人の研究をも尊重する 態度が、お互の研究を促進する上からいって丞大切なことではなか ろうか。.批判的精神はどこまでも磨ぎすますべきも共に学ぶという 謙虚な気持は驚いたくないものである。これは著者に対すると共に 筆者への自戒で亀ある。  以上二三の点につき感想を述べたが、それは決して塞書の価値を 些かも減ずるものではない。それは依然として、わが国の経営学研 究の水準を高めるほどに重要な価値をもつものたることを失わな い。著者の努力に感謝を捧げると共に、われわれは春秋に富む著者 がこの輝かしい労作を出発点とし︵巨歩を続けられ更にわれわれを 満足せしめられんことを期待するものである。 ︵森出書店、昭和二 十九年十月刊、A5判本文二四七頁、索引二三頁、三八○円︶ 七五

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