• 検索結果がありません。

土居光知先生の事ども

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "土居光知先生の事ども"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者

鈴木 善三

雑誌名

試論

51

ページ

41-58

発行年

2016-10-30

URL

http://hdl.handle.net/10097/00121922

(2)

【特 別 寄 稿】

土居光知先生の事ども

鈴木 善三

I

人生には不思議な「えにし」というものがある。私と土居光知先生との 出会いも、この「えにし」の糸で結ばれていると思う。 私は昭和19 年、地元塩釜の旧制中学に進学したが、その年の暮れ、生 家はB29 の焼夷弾によって灰燼に帰した。その後、私は学校を転々とし、 戦後は旧制宮城師範学校予科に籍を置き、学業を続けていた。その師範学 校時代に国語の教科書を通して、土居先生のお名前を知った。戦後の混乱 期に編まれたこの教科書には、『文学序説』(初版大正11 年7月)から採 られた「国民文学と世界的文学」と題する清新な文学論が収められていた。 その後、私は東北学院に進んだが、そこで思いがけずも、先生から直接英 文学を教わる光栄に浴した。それは昭和26 年のことで、先生はすでに東 北帝国大学を定年退官(昭和23 年3月)されていた。土居先生の英文学 の講義は英国ロマン主義が中心であったが、その講義のなかで今でも忘れ がたいのは、先生がコールリッジの『老水夫の歌』の有名な一節、

The fair breeze blew, the white foam flew, The furrow followed free;

We were the first that ever burst Into that silent sea.

(3)

を朗々と吟誦されたことである。先生が声高く読まれたコールリッジの詩 句によって、私は初めて英詩の美しさに触れた思いがした。 教室における土居先生は、私にとって近づき難い存在であったが、幸い なことに、私は冬の蔵王で先生と直接お話することができた。先生が喜寿 を迎えられたとき、弟子たちによる『英文学試論』と題する論文集が昭和 39 年8月研究社から出版された。殆どが旧制の卒業生であったが、私は 「Pope と Le Bossu」という一文を寄稿した。この論文集の最後に旧制四回 生の天野一夫氏が「先生と山,スキー」なる文章を寄せているが、その中で、 先生が「いつも峨々温泉を根拠地にしておられました。先生は峨々がお好 きのようでした」と書いている。私はその頃山岳部に所属していて、正月 三箇日を過ぎると、遠刈田から峨々温泉に向い、ここを基地として行われ るスキーの合宿訓練に参加していた。その峨々温泉のスキー乾燥場で先生 のお姿をお見受けしたときは大きな驚きであった。当時の先生は65 歳の ご高齢であったはずで、その先生が私たちと一緒にスキーをなさるという ことは考えられなかった。かく言う私も、文学部在職中、助手や院生とと もに毎冬山形蔵王に出かけ、土居先生の築かれた伝統を守り続けてきた。 最初に、私は先生からシールをスキーに貼付するワックスの塗り方を教わ り、スキー・ツアーの際には、「ストック制動」なるものの直伝を受けた。 このユニークなスキー術も、先生が考案されたものではなかったかと思っ ている。 私はその後、昭和37 年3月東北大学大学院文学研究科を満期退学し、 翌月から文学部の非常勤講師となり、38 年度には文学部専任講師として採 用され、土居先生の衣鉢を継ぐこととなった。先生は昭和37 年『古代伝 説と文学』により第13 回読売文学賞の研究翻訳賞を授与されたが、先生 はそのときの賞金を基金として若い学者の育成を目的とする「青葉文学賞」 を創設された。私は、昭和39 年『英文学研究』に寄稿した「十八世紀に おける牧歌論争の背景」と題する論文によって、この文学賞の第二回目の 受賞者に選ばれた。 「青葉文学賞」の授賞式は東京の学士会館などで行われていたが、土居 先生はいつもこの式に出席され、同窓生を囲んで、先生の近況を伺うのが 慣わしであった。そんなある日、先生は当時東京大学文学部助教授に任ぜ られた大橋健三郎氏のことに触れて、先生の母校のスタッフになったのを 殊の外お慶びになり、一層の活躍を願って、胡麻健康食品を贈ったことを 明らかにされた。そして、この胡麻に関して、有名な『千夜一夜物語』(『ア

(4)

ラビアン・ナイト』)の「アリババと40 人の盗賊」の中で、金貨が隠され ていた洞穴を開けるとき、「開け胡麻」という言葉を発した話を取り上げ、 アラビア語のsimsim には巨大な岩を開ける怪力が備わる旨の話をされた。 一見、牽強付会とも思える先生のお話を隣に座っていた村岡勇先生は、ま た、土居先生のお得意の話が出てきたというような様子で見守っておられ たが、私には土居先生の「開け胡麻」と健康食品(セサミン)をさながら 形而上詩人のコンシートのように結びつける方法に喫驚した。 言うまでもなく、『古事記』と『日本書紀』には、天照大神が建速須佐 之男命の乱暴狼藉に怒り、天岩戸に引き篭もる神話が物語られている。 八百万の神が様々の儀式を行って闇と化した高天の原と芦原中国に光を取 り戻そうとし、最後に一瞬の隙を見て天手力雄神がこの岩戸を引き開ける という、いわゆる、「天岩戸」の神話とアリババの「開け胡麻」の話は重なっ てくる。『古代伝説と文学』の中で「『古事記』における詩的心象」(昭和32 年) を扱っている土居先生の胸には、両者の関係は既に折り込み済みであった と推察される。 私が土居先生の恩恵を被ったのは、こればかりではない。私は昭和55 年度の大学院の演習でブレイクの作品を取り上げたが、そのとき先生の『英 文学の感覚』所収の「ブレイクの象徴」(昭和2年、4年)を読む機会を持っ た。先生は、この論考のなかで、『経験の歌』に連歌のような形で歌われ る‘The Little Girl Lost’(「迷った少女」)と‘The Little Girl Found’(「見つ かった少女」)の主人公ライカ(Lyca)と呼ばれる少女の意味を次のように 解釈している。「ブレイクのライカの歌がもつ尚一つの興味はこれらとワー ズワースのルウシーの歌との類似である。ライカという語もルウシーなる 語もともにギリシア語のλύκη(光)に基づいている。ワーズワースのルウ シー(Lucy)もまた自然の中に育った浄らかにして輝かしい少女、そして 自然の一部となった、「迷った少女」である。ワーズワースがブレイクに 暗示されるところがあったか否かは不明であるが、ルッソオに初まった当 時の詩歌の雰囲気の中にかかる「光の子」に対する憧れが漂っていたとは 想像できるであろう」。 私はこの文章に接したとき大きな衝撃を受けた。というのは、先生の 解釈は、後年、Irenes H. Chayes が‘Little Girls Lost: Problems of a Romantic Archetype’(Bulletin of the New York Public Library, 1963)において、指摘し ているからである。Lyca がギリシア語の光と関連するという解釈はギリシ ア語を自家薬籠中の物とされていた土居先生ならではの卓見である。また、

(5)

先生はChayes のように「祖型」(archetype)という言葉こそ使っておられ ないが、ブレイクとワーズワースとの間にアーキタイパルな類縁関係があ るということを見事に洞察されている。 ライカという少女について語っている一方で、先生は今様フェミニズム の走りとも言うべき、いわゆる、女性の官能的美しさにも触れている。『英 文学の感覚』に収められた「シェイクスピアと花」の中で、先生は、『萬葉集』 以来、日本の歌集、俳句集がすべて春夏秋冬恋及び雑に分類されているの に対し、西洋人の花に対する美観はこれと趣を異にし、どこまでも「人本的」 で、花を青春の生命の美しい象徴として眺め、花を通じてうら若き生命の 輝きなどを表現していると論じている。『文学と伝説の伝播・交流』にお いて取り上げられたのは、シンデレラ、プシュケ、雪白姫〔ママ〕などで、 先生が神話や伝説の中で足跡をたどったのは主に女性である。先生の業績 中、特記すべきはギリシア語などを参照にして旧約聖書の「ソロモンの歌」 の翻訳を試みたことである。この歌は、スペンサーの祝婚歌同様、男女恋 愛の歌である。第一場ソロモンの後宮はコーラス1で始まる。『古代伝説 と文学』所収の訳を引用すると「願わしや君の接吻、君の愛美酒にまさる、 匂やかに妙なる御身、香い油の馨りにしみて……少女らが慕うぞうべ」と ある。先生は、恋人が怯悦境にひたる様を「知らずとも訪ねゆけ 女の中 の女よ、牧人の天幕のかたえ」といった文語調を見事に駆使し、「ああわ が背、いざきたれ、香ぐわしき岡の上に さお鹿のごとく」とシュラミの 女の歌で結んでいる。 先生は、また、ジョイスのUlysses(1922 仏国版)の一部翻訳を兼ねた紹 介を昭和4年(1929)2月号の『改造』に発表している。私は大学院の演習で、 この大著を3年かけて、一通り読破した。その原作の初版がパリで発行さ れて7年しか経過していない時点で、土居先生が日本語で小説の輪郭を紹 介したのは、寿岳文章氏の言葉をもってすれば「驚異の記念碑」である(発 禁本英国版は1936 年に出版される)。 改めて述べるまでもなく、『ユリシーズ』はLeopold Bloom というユダヤ 系のアイルランド人が、早朝から午前様として自宅に戻るまでの一日の出 来事をホメロスの『オデュッセイア』を本歌として、700 頁余を費やして 描いた大冊である。先生は、この「ジョイスの『ユリシーズ』」の最後が Bloom の夫人 Molly の「とりとめもなく移りゆく感想を……一つのコンマ もピリオドもなく、また節を改めることなく」綴った夢物語であると述べ ている。ちなみに、先生は「句読点に就いて」(昭和15 年)という題の論

(6)

考を発表している。先生はペーネロペーに擬せられたMolly の‘obscene’で、 女性特有の長話を日本の読者に伝えなければならないと思ってか、句読点 のない『ユリシーズ』最後の第十八章の一部を訳出している。 土居先生がお亡くなりになったのは昭和54 年 11 月 26 日であるが、そ れから数日後、先生の愛弟子の一人、津田塾大学教授近藤いね子さんが、「土 居光知先生を悼む」と題する追悼文を『朝日新聞』に寄稿し「土居先生に は私が東北大学の学生だった時から四十七年もの間、学問的にも人間的に も見守って頂いてきた」と書いている。旧帝国大学で女子を最初に入学さ せたのは東北帝国大学であったことはよく指摘されるが、土居先生は1970 年代以降、声高く叫ばれてきたフェミニズムの実践者であったことは言う を俟たない。

私は東北大学文学部在職中、John Denham の Cooper’s Hillに代表される「眺 望詩」(prospect poetry)の系譜を辿ってみた。日本の詩歌でも『萬葉集』(巻 第一の雑歌)に舒明天皇の「望く に み国」の歌にその類型を見出すことができる。 漢詩でも、高台に登って周囲を俯瞰するこの種の「登と う覧ら ん」の歌はすでに『詩 経』や『楚辞』に用いられている。 しかし、不思議なことには、英国などヨーロッパでは、土居先生の言葉 をもってすれば、「自然に対しては美よりも寧ろ恐怖と驚異とを感じてい た」。また、詩人ジェームズ・ハウエル(?1593-1666)についても、「彼はウェ イルズの山地に生まれた故に、山岳美を味わい得べき筈であるが、1621 年 にアルプスを見て、高い、醜いアルプスは自然の畸形な恐ろしく巨大な瘤 であって……」、と述べている。このような怪奇な形に映った自然美を歌 い、自然を愛する心が一般に目覚めたのはワーズワースなどの時代になっ てからであると、先生は「自然の愛の発達」(『文学序説』所収)で論じて いる。この論考が「自然の愛」と題して最初に発表されたのは、なんと大 正7年刊行の『英語青年』誌上においてであった。この問題を観念史学派 の巨匠Marjorie Hope Nicholson が Mountain Gloom and Mountain Glory: The Development of the Aesthetics of the Infinite の中で取り上げたのは 1959 年の ことである。『文学序説』の初版は、大正11 年(1922)に遡り、土居先生 の創見には、ただただ驚くばかりである。

(7)

II

土居先生の広大無縁にして気宇壮大なヴィジョンの一面を垣間見てきた が、先生の研究は決して恵まれた時代環境のもとで培われたものではな かった。 先生は西洋文学第二講座(ドイツ文学講座)の小宮豊隆先生と同じく大 正13 年に、東北帝国大学西洋文学第一講座主任教授として着任され、前 に述べたように、昭和23 年に退官された。この間、第二次世界大戦が勃 発し、帝大教授と言えども、その矜持を保つことは困難であった。こうし た事情を知る貴重な資料が残されている。それは、風呂本武敏氏編の『土 居光知 工藤好美宛書簡集』(平成9年)である。工藤好美氏は、後年『無 意識の世界 ─ 創造と批評』(昭和41 年)を共著の形で出版している土 居先生の親友の一人で、先生より一回り若いペーター研究者である。工藤 氏は旧制富山高等学校で教鞭をとっていたが、先生の推挙で旧制台北大学 助教授となった。工藤氏の学問上の恩人とも言うべき先生に、工藤氏は大 正末から多くの書簡を書き送っている。ちなみに触れておくと、この頃の 台北帝国大学には先生の第三高等学校の後輩、矢野峰人氏や、教え子で戦 後東京大学教養学部で日本最初の比較文学者とも言うべき研究者を育てた 島田謹二氏(東北帝国大学英文三回生)が在職していた。土居先生が逝去 されるまで、長い間、先生と工藤氏は書簡を交わしたが、残念ながら、先 生が工藤氏から受け取った手紙は一通も残されていない。これに対し、工 藤氏は先生の手紙を一通漏らさず保存していたようである。 その中で、昭和14 年1月 15 日の手紙には、先生のこの時代に関わる苦 悩が表されている。「軍備の充実、飛行機の競爭に世界は力を集中して、 思想界はますます統制されて行くことと思ひます。私共はお互に文学者と して貢献する上に於いて深慮を要する時となりました。私がしたいと思っ てゐることは文学の考古学的研究で、有史以前から今日迄の文学の発展を 考へることを得さしめ、以って現代の逼迫した状勢から、険しく狭くなっ た人生観に対し、広闊な悠久な人生観照を以って緩和を与へたいと思ふこ と、基礎日本語を完成して高等教育を受けない人々にも真に必要な知識を 與へることができるやうにしたいとの願ひです。しかるに誰も私の仕事を 續承し発展してくれそうな人もありません。「この道や行く人なしに」の 感老の近くとゝもに致します」。

(8)

先生は芭蕉の最晩年の辞世の句「此の道を行(く)人なしに秋の暮」に 仮託して、当時の心境を工藤氏に伝えている。それはまた、先生を取り巻 く学内の厳しい環境をも反映している。「近頃また思想問題が神経過敏に なって困ってをります。昔のことをほり返すやうな態度でこの春には九州 大学の教授がひとり退職を余儀なくされましたが、只今では東北大学の教 授をねらってゐてそのために学生が五,六人検束されてゐます。自由とい ふやうな言葉も注意して用ひねばならなくなりました」。この書簡を認め たのは、昭和16 年6月 25 日のことである。 実は、先生は第二次世界大戦に日本が加わり対米戦争を開始した昭和 16 年 12 月8日を直前にして、この工藤氏宛の手紙を書き残している。先 生は不運にも昭和14 年7月に東北帝国大学法文学部長に補せられ、昭和 16 年7月にこの職を辞任している。法文学部長在職中、先生がもっとも 恐れていた教授の思想犯事件が起きていた。それは先生と同じ年に法文学 部経済学第三講座に着任し、経済政策論を担当していた宇野弘蔵逮捕事件 である。宇野弘蔵氏(1897-1977)は、大正 10 年大原社会問題研究所に入 所、ドイツ留学を経て、東北帝国大学法文学部に籍を置いていたが、昭和 13 年2月コミンテルンの反ファシズム統一戦線を呼びかけた人民戦線事件 に連座して、大内兵衛、美濃部亮吉諸氏とともに検挙された。その後二審 で無罪が確定したが、宇野氏は自ら昭和16 年に東北帝国大学を辞職した。 この事件と同じ時期に土居先生が法文学部長を務めていたことは偶然とし か言いようがない。この種の言論弾圧に先生がいたく心を痛めていた事実 は、戦後、東京大学経済学部で宇野氏を先生として仰いでマルクス経済学 を学んだ高弟からも直接話を聞いている。先生が対米戦争を目前に法文学 部長を辞任したのは賢い選択であったと思う。土居先生の後を襲った『三 太郎の日記』で名高い、美学講座担当教授、阿部次郎先生は長女の和子さ んが社会問題読書会に参加し、何度も検挙され、東京女高師を追われたた めか、体調を損ね、昭和17 年3月で法文学部長を辞することになる。文 学部で教鞭をとっていた20 世紀を代表するユダヤ系ドイツ人哲学者カー ル・レーヴィットも、昭和16 年2月仙台を離れ、米国に亡命している。 工藤氏と交わした書簡も、先生の長男健一さんがガダルカナルで戦死し たことを伝える昭和18 年 10 月 29 日を最後として、戦争終結まで跡絶え ている。

(9)

III

村岡勇先生によれば、土居先生の独創的想像力は、先生が土佐(高知県 長岡郡十市村青野)のご出身であることと密接に関連していると指摘して いる。土居先生が東京のような大都会で生を受けたなら、先生の思想や立 論は生まれなかっただろうということである。先生はまた、東北帝国大学 に在職し、仙台という東北の地で研究生活を送ったことで、その独自の考 えを温めることができたと思える。先生は人の意表を衝く独自の研究を世 に問い続けた類い稀なる学者であった。その事実は『文学序説』の初版が 大正11 年に発行され、再訂を重ね昭和 42 年までに第 20 刷を経たという 事実からも推し量られよう。東京帝国大学英文学科の一年後輩の斎藤勇氏 の『英文学史』は、私たちの世代では読まれても、この文学史を繙く人は 現在ではいないだろう。しかし、土居先生の『文学序説』は、先生の第三 高等学校の後輩で、東北帝国大学で戦中戦後フランス文学を担当し、俳句 を「第二芸術」と呼んだ桑原武夫氏は、岩波全書から出版した自著に土居 先生と同じ『文学序説』(昭和52 年)というタイトルを用いている。桑原 氏によって受け継がれた『文学序説』所収の論文は、既に述べたように欧 米の批評家の考えを何十年前に先取りし、もしこの著書が英語で発表され ていたならば、その与えた衝撃は計り知れないものだったろうと思われる。 土居先生の学問的スタンスを「中心」と「周辺」いう言葉に置き換えて みれば、先生は明らかに「周辺」に身を置き、その自由な発想を培われた のではなかろうか。同様に、英国から大西洋を隔てた彼方カナダで、丁度 同じ頃、先生の学風にも似た広大なる、西洋文学・文化の全体像を包摂し た巨視的な文学論を開花させようとした一人の批評家がいた。それはオッ クスフォードのマートン・コレッジでエドマンド・ブランデンに師事し、 トロント大学のヴィクトリア校に着任したノースロップ・フライ( 1912-1991)である。土居先生よりも二回り以上も若く、しかも、生前、両者の 間には交流も影響も認められない。だが二人の学問や批評の方法に互いに 類似したものが認められる。以下、フライとの比較において、土居先生の 業績、とりわけ様式論(フライはこれを‘mode’と呼んでいる)の特徴を 明らかにしてみたいと思う。 土居先生は明治43(1910)年‘Life of Shelley’と題する卒業論文を提出 して、東京帝国大学を修了するが、先生の研究の出発点がロマン派にあっ

(10)

たことは意義深く、その後の先生を大きく方向付けることとなる。ちなみ に、先生が学ばれた東京帝国大学英文科では、「ヘルン先生は伝説上の存 在となり、夏目先生はすでに大学を去り、上田敏先生は新しく設けられた 京都帝国大学に転任され、英文学科ではロレンス先生、ロイド先生、スイ フト先生に教えられることになり、英文科の学風が一新していた」と『文 芸その折り折り』(荒竹出版社、昭和48 年)の中で語っておられる。田山 花袋の『蒲団』などの自然主義が東京では胎動し、ロマン主義はすでに過 ぎ去ってしまったと先生は感じておられたが、そんな中で、京都時代のロ マンティックな夢想が思想として蘇がえってくるように感じて、シェリー を卒業論文に選んだという。先生はその後、ブレイクに対する関心を深め、 『英文学の感覚』などに一連のブレイク論を発表する。当時、ブレイクは 世俗の理解を越えた「狂人」の類として敬遠されていたが、先生はユング 流の集合的無意識に似た考え、すなわち、「久しい時を経て人間の心の底 に滲み徹った象徴をブレイクの詩の中に探ろうとした」と言える。先生は 「創世記」に描かれた「生命の樹」と「知識の樹」から論を起こし、これ らの象徴的な木が、前に述べたブレイクの『無心の歌』と『経験の歌』の 二巻に、どのように描かれ、かつ、彫版されているかを精緻に分析してみ せる。土居先生にとって、ブレイクという詩人は、想像力によって「すべ ての物象を心の奥に見ようとした」幻視的な芸術家と映ったようである。 土居先生とフライの最初の接点は、いうまでもなく、ブレイク研究に求められ よう。(なお、フライの著作集を監修・刊行し、みずからもEssays on Northrop Frye: Word and Spirit(Iron Mountain Press, 2015)や Northrop Frye and Others: Twelve Writers Who Helped Shape His Thinking(University of Ottawa Press, 2015)などを著わしている米国のフライ研究家 Robert D. Denham が The Educated Imagination: The Website Dedicated to Northrop Frye を公開して いるので、ハロルド・ブルームをして「天才」と言わしめたフライの厖大 な資料や研究を読むことができる。)フライは英文学者であるのみならず、 一時、聖職者に任命され、The Great Code: The Bible and Literature(1981) なども著した。この本は、新旧約聖書の比喩構造や予型論(typology)の 視点から、ダンテ、ブレイク、シェリー、イエーツなどの詩人などを取り 上げて論じているが、フライは早くからブレイクの魅力に引かれ、トロン ト大学在学中はスウィフト研究家のHerbert Davis 教授担当のブレイクの長 詩『ミルトン』の演習に出席している。土居先生も、一連のブレイク研究 の中で「ブレイクの長詩『ミルトン』」と題する論考を発表し、ブレイクが「個

(11)

性中心主義を否定し、自我没却と謙恕の精神を強調し、四海同胞の愛に生 きること、全体に生きることのみに人類救済の途がありと信じ、この詩を 書いたと考える」と書いている。

本題に戻って、フライの10 年以上に及ぶブレイク研究が結実するのは、 大戦下に執筆され、1947 年にプリンストン大学から刊行された Fearful Symmetry: A Study of William Blake である。人口に膾炙したブレイクの The Tyger の冒頭の一節「虎よ虎、輝き燃える、夜の森の中で、どんな神の手、 あるいは眼が汝の怖ろしい均整をつくり得たのか」(土居訳)から題名を 採った20 世紀のブレイク研究において、金字塔を打ち立てたのは、この フライのブレイク論であった。しかし、最初ランダム・ハウス社から出版 予定であったフライのブレイク論は刊行を拒否される。この事実は、当時 のブレイクに対する偏見とともに、その斬新さを物語るものであろう。フ ライはこの本の中で一貫して、ブレイクの作品をスペンサーやミルトン、 とりわけ、聖書の伝統の中に位置づけ、その個性的であると同時に、これ らの伝統に根差したブレイクの象徴主義の本質を「類似」(analogy)と「同 一性」(identity)、「想像力」(imagination)という視点から掘り下げようと している。その後のブレイク・キャノンを決定したとも言えるフライの業 績は画期的な研究として、多くの批評家によって絶讃された。ブレイクの 再評価に寄与したフライの研究が出版されたのは1947 年であるが、土居 先生が「ブレイクの象徴」、「ヨブ記」解説、「長詩『ミルトン』」などを発 表したのはフライに先立つこと20 年も前のことで、いかに先生の明察が 先端的なものであったかを物語る。 土居先生の著作集は昭和52 年3月から同年7月まで『英文学の感覚』、 『古代伝説と文学』、『文学と伝統の伝播・交流』、『言葉とリズム』、『文学 序説』の順に岩波書店から刊行された。先生の業績の中で画期的なものは、 第五巻として出版された『文学序説』であることは論を俟たない。その中 でも白眉と称すべきは、「日本文学の展開」と「文学の様式の展開に就いて」 ではないかと思う。先生の様式論ないしはジャンル論は、その後東北大学 文学部の同僚で、日本文芸学の理論の樹立者として名高い、同郷の岡崎義 恵教授との論争を通じて、英文学のみならず日本文学の分野にも影響を及 ぼすこととなる。 先生は、生前、外山滋比古氏との対談(『土居光知対談集:東西文化の 流れ』研究社、昭和48 年)の中で、ジャンル論執筆の模様を次のように 語っている。「大正の初めごろ、私らはRichard Moulton の World Literature

(12)

1911)、The Modern Study of Poetry(1915)などを読み、文学的表現が感動 を主とするか、語ることを主とするか、反省を主とするか、行動を主とす るか、思索を主とするかによって、叙情詩、物語、小説、劇、論文などに 分化(differentiate)するという説を知りました。これはいわゆる文学のジャ ンル説であって、ジャンルは元来生物学で用いられる自然科学的な名称で あり、一度分化すれば分化したジャンルが再び結合するということは考え られませんが、文学の場合では叙情的な劇、物語、オペラのような歌、音楽、 ダンスなどを合体したようなもので、分化したものが再び合一し、進化す るようであります。私はこのジャンルを分化とみず、展開とし、大正まで の文学を三つの時期に分けて、文学のEvolution を考えたのでありました」。 また、土居先生は次のようなことも述べている。「Moulton は、やはり文学 の分化説(differentiation)です。それは動植物のジャンルの考えを転用し たものでしょう。さきほども言いましたように、一度分化すると、分裂し たジャンルとジャンルが結合して、子孫を生むことはありませんが、人間 の精神的生産である叙事詩とか劇や物語は再び結合し、新しい類型を創作 します。ジャンルの考えは生物的進化論の考え方から生じたものと思いま すが、文学の様式や類型はpsychosocial evolution の中で考えられるべきも のと思います」。 先生がここで言及しているモールトンというのは、英国生まれの批評家 Richard Green Moulton(1849-1924) の こ と で、 彼 は The Ancient Classical Drama: A Study in Literary Evolution Intended for Readers in English in the Original(1890)や World Literature and its Place in General Culture(1911)な ど数多くの著作を書き残している。Norton Anthology の編者 Sarah Lewall は、 モールトンの文学論が、「文学の総体」(the sum total of all literature)、いわ ゆる「世界的文学」(world literature)の重要性を力説したと再評価している。 土居先生はモールトンの「分化」という枠組みを「展開」というものに修 正し、それを日本文学を三つの時期に分けて、その様式の特色を跡づけよ うとしたのである。 「日本文学の展開」において、先生は叙事文学、叙情文学、物語、劇、論 説の順に従って、その様式の変遷を追っている。叙事文学とは、言うまで もなく、『古事記』や『日本書紀』を指すものであるが、この叙事文学に代っ て次に現れる叙情文学では、『萬葉集』に見るように、国家や民族ではなく、 主観的な心情の告白が支配的となる。続く『伊勢物語』や『源氏物語』に 代表される物語文学の時代にあっては、「我」と「汝」の融合を歌う叙情

(13)

文学に対して、叙述は反省的、懐古的となり、心の世界を伝えるものとなる。 物語のあとには、劇の要素を持つ室町時代の謡曲と狂言が現れるが、この 様式では対話に重きが置かれる。最後には、『徒然草』に象徴される精神 の自己表現を内容とする論説のジャンルが来る。先生は『徒然草』について、 「そこには現実から理想を見る皮肉、理想から現実を見る諷刺、理想が理 想を嗤う自嘲がある」と書いている。諷刺文学に強い関心を持っている私 は、かねがね、『徒然草』の諷刺的要素をこの作品に見出してきた。脱線 ながら、その一例を第七十五段の最初の文について述べてみよう。「つれ づれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりある のみこそよけれ」。『徒然草』の主題に触れた一文で、この部分を岩波の日 本文学大系所収のテクストの注釈で現代語に換えてみよう。「することも なく、話し相手もなく、やりきれない、とこぼす人は、一体どんな気持な のだろう。事にも人にもまぎれることなく、たった一人でいるのが、それ こそ何より結構な世界なのだ」。土居先生の洞察に学んだ具体例である。 第一期における日本文学の展開を手短かに纏めてみたが、先生はこの展 開の法則を、さらに、『平家物語』などの戦記文学に始まる第二期の作品 群に当てはめ、俳諧、西鶴、近松、儒学者の文章の中に順次、様式の隆替 を辿っている。そして、最後に、明治の政治小説を叙事文学として位置づ け、第三期の文学の展開を、以下、新体詩、自然主義の小説、倉田百三の 戯曲、思想家の批評の順に跡づける。私などの昭和一桁世代にとって、倉 田百三の親鸞と唯円の物語を戯曲として描いた『出家とその弟子』(大正 7年)はベストセラーの一つであった。(なお、岡崎義恵教授は、土居先 生が試みた第三期の捉え方が不正確であり、その間の相互関連の説明が不 十分であると批判している。) 土居先生はこのように文学上の様式の展開を三つの時期に区分し、それ ぞれの時期が人間の一生のように、青春・成熟・衰退という過程を経て、 新しい誕生を迎えると考えている。しかも、この様式論を広く文学の類型 にあてはめるだけでなく、一個人の創作にも適用できると説き、その例と して、さまざまな様式を擁した武者小路実篤の作品を年代別に列挙してい る。土居先生は、また、日本文学の展開を三つに区分するだけでなく、「第 四期の展開がはじまらんとしつつある」と述べている。この時期は、言う までもなく、昭和の時代である。先生はこう述べている。「第四期の文学 は多分第二期と類似した途を辿るのであろう。即ちその社会意識は、機 械及び資本の勢力から人権の自由を救出する更に公正な社会を求めて止ま

(14)

ず、その個人意識はまた叙情詩の状態に憧れるのであろう。現代の文学は 自意識的にならざるを得なかった。文学は要するに知識をも行為をも人間 化し、一切を純粋感情のうちに融かして、自我の内容とし、一度充実した 自我の姿を描くことによって自我を創造せんとす」。先生は、昭和の文学 の展開を「機械」、「資本」、「自我」を主軸として捉えようとしている。こ こには、先生の鋭い明察の一端を伺い知ることができる。 土居先生の様式論の輪郭は上に略述したところからも分かるように、日 本文学の全貌を俯瞰したエンサイクロペディア的広がりを持っているが、 これに競いうるのは、おそらく、フライを措いて他にいないのではないか と思う。フライの様式論は『批評の解剖』の第一エッセイにおいて展開さ れている。30 頁余の内容を略述するのは困難であるが、私なりにこれを要 約すると、以下のようになる。土居先生の様式論がモールトンに示唆を得 たことは既に見てきた通りであるが、フライは、まず、アリストテレスの『詩 学』第二章を引用し、その中で用いられているspoudaios と phaulos という ギリシア語に注目する。岩波文庫の『詩学』の訳語をもってすれば「すぐ れた人間」と「劣った人間」となる。フライはこの言葉を「善」(good)と「悪」bad)と解釈せず、比喩的に「重い」(weighty)と「軽い」(light)と敷衍 する。つまり、文学作品に登場する人物をわれわれよりも「すぐれた人間」 と「劣った人間」、さらに、われわれと「同じ人間」に大別している。こ のように、登場人物の力量を示す「重厚」と「脆弱」から、五つの人物群 を措定する。それらの人物は、神、ロマンスの英雄、悲劇の主人公、喜劇 や小説の主人公、自然主義小説の主人公(例えば、セオドア・ドライサー の『アメリカの悲劇』に登場するクライド・グリフィス)である。こうし た主人公が万能の神から次第に行動能力を失い、最後は蔑視の対象に下降 することを指摘し、おのおのの人物たちを「神話的」、「ロマンス的」、「高 次模倣的」、「低次模倣的」、「アイロニック」モードと名づけている。フラ イは「ジャンル」という代わりに「モード」という言葉を用いているが、 New Critical Idiom シリーズとして出版された John Frow の Genre(Routledge, 2015)によれば、「ジャンル」は文学の種類(kind)を表すのに対し、「モー ド」は‘heroic’とか‘tragic’といった形容詞的に文学作品の種類を示す 際に用いられるとし、Barbara Lewalski や Gerard Génette を傍証として挙げ ている。

土居先生の様式論の枠組みはフライと異なるが、神話や伝説を中心とす る叙事文学を第一位に据えた先生の立論は、フライの「神話的モード」と

(15)

重なるし、「諷刺と自嘲」に彩られた『徒然草』に代表される第五位の論 説文学はフライが措定した「アイロニック・モード」と響き合う。しかし、 先生とフライとの類似点は、その歴史的パースペクティヴに求められよう。 フライが彼のモード論を「歴史的批評」(Historical Criticism)と呼んだの は、この概念によって西洋文学の歴史的展開が説明されると考えたからで ある。フライによれば、神話に始まる五つのモードの変遷は、そのまま15 世紀にも亘る西洋文学の各時代に適用されるのである。すなわち、古代の 神話は中世ロマンスに受け継がれ、下っては、ルネサンスの悲劇を経て、 デフォーの時代に重心を移し、最後には、カフカやジョイスの現代小説に 辿り着く。フライは、また、こうした展開の短縮した形(土居先生の第一 期に相当する)を古典古代の中に見出すことができると言っている。たし かにギリシア神話とローマ諷刺文学の間には、類似のモードの展開が認め られる。フライは、土居先生のように、明確に文学の展開を三期にこそ分 けていないが、文学が歴史の過程で隆替消長を繰り返すという考えに立っ ている。このフライのモード論は、彼が早くから関心をもって読んできた シュペングラーやヴィーコの歴史観に示唆を得たものと思われるが、通時 と共時の座標軸を融合させた土居先生の様式論との類似性にはいまさらな がら驚きを禁じえない。フライは『批評の解剖』の中でシュペングラーの 議論に触れ、文学作品は‘growth’、‘maturity’、‘decline’、‘death’、‘rebirth’ の有機的な展開を遂げると述べているが、土居先生の様式論と酷似してい ることは言うを俟たない。 土居先生は『文学序説』に続いて、その各論とも言うべき『文学の伝統 と交流』や『神話・伝説の研究』などを発表してゆく。その中で、先生は「叙 情詩の伝統」、「ロマンスの伝統」、「劇の伝統」と題する三部構成の伝統論(系 譜論とも言えるが)を扱っている。ここでは「ロマンスの伝統」について 簡単に触れておきたい。 先生は、この論考において、中世物語の一大集成「アーサー王物語」に 収められている「聖グラール(聖杯)物語」を取り上げ、このロマンスの 系譜を五穀豊穣を祈願する夏の太陽神と聖杯を手にした地母神(アマル ティアのコルヌコピアはその一例)との結婚の祭式に遡っている。先生は かねてCambridge Ritualists の研究業績 A. B. Cook(1868-1952)の Zeus: A Study in Ancient Religion(1946)の著作を精読し、その方法を「ロマンスの伝統」 に生かそうとしている。Zeus は二部構成の大著で、一部ではゼウスを‘a weather-god, the god of earthquakes, clouds, wind, dew, rain and meteorites’とし

(16)

て、二部では‘the floating islands, the iconography of Eros, the idea of hierogamy’ に関する豊富な‘addenda’を添えて叙述した大著である。私も Cook の研 究の一部を繙いてみたが、その巨視的広さに圧倒されてしまった。 土居先生はロマンスの伝統を古代オリエントの祭儀に求めるだけでな く、さらに、この伝統がローマを経て西洋にも伝えられると同時に、イン ドや中国、そして日本の『御伽草子』にも伝えられたと推論する。先生の ロマンス論の出発点となっているのは、「夏の太陽神と地母神の結合」で あるが、フライもまた『批評の解剖』の第三エッセイ「原型批評」(Archetypal Criticism)の中で、春夏秋冬を「喜劇」、「ロマンス」、「悲劇」、「アイロニー と諷刺」の四つの「ミュトス」(物語)に重ね合わせながら、その特性に ついて論じている。フライの言う「夏のミュトス」としての「ロマンス」 が土居先生の「ロマンスの伝統」と、その発想において近似しているよう に思えるのは、私だけであろうか。 ところで、フライはみずからを‘Odyssean Critic’と呼んでいるが、こ れはコールリッジが悲劇やリアリズムに向う「イーリアス的批評家」に対 して、喜劇とロマンスの方向を目指す批評家を「オデュッセイア的批評 家」と称している。この「オデュッセイア的批評家」を自任するフライ は、The Secular Scripture など多くのロマンス論を書いているが、人間の願 望を投影し、理想化された世界を描くロマンスへの関心は、当然のことな がら、フライのユートピア言説への傾斜と表裏一体を成す。彼のロマンス 論がユートピア的空想に支えられていることは、Angus Fletcher や Fredric Jameson によって夙に指摘されている。 岩波の『土居光知著作集』の月報で、大橋健三郎氏は、「東京空襲が始まっ てまもない頃私は隊からの出張で冬の東北に出かけ、いっとき先生のお宅 をお訪ねしたことがある。そのとき先生は、H・G・ウェルズの『将来の世界』 (1933)の分厚い本を膝に置いて、ウェルズの予言力に驚嘆されながら、君、 もうまもなく戦争が終るから、今死んでは無駄になる。自重して生きのび 給え、と私に言われた」という。私の手許には、戦後間もなく生活社から 出版された日本叢書42 号の先生の『ウェルズと世界主義』と題する、大 変お粗末な紙で綴られた一冊のパンフレットがある。この定価壱円五十銭 のパンフレットの中で、先生はウェルズの世界主義、日本と世界主義、自 由主義、社会主義などの問題を扱っている。このパンフレットはウェルズ のA Modern Utopia(1905)の紹介であるが、面白いことには、この「利己 的欲望の抑制にある自由主義の国家」の指導者がSamurai と呼ばれている。

(17)

先生は何故に日本のサムライの名をウェルズが用いたのかは分からないが 「明治維新のとき新らしい国家を建設するために諸侯やその従属者であっ た士族が数百年間享受してゐた特権を投出した態度の潔ぎよさが今後実現 さるべき理想国の支持者にこの名を與へさせたであらうか」と書いている。 土居先生は、このウェルズ論のみならず、「現代イギリスのユートピア物語」 と題する論考も発表している。この中で、先生はオールダス・ハックスレー のBrave New World(1932)と Island(1962)などを取り上げ、世界国家の 可能性と東西文明の融合の可能性を示唆している。そのヴィジョンの一端 は、先生が戦後間もなく日本最初のユネスコ協会を東京の地ではなく仙台 に創設することに尽力し、具体化される。

IV

土居先生とフライとの接点は、さらに教育論の中にも窺える。先に引用 した工藤好美氏宛の書簡の中で「基礎日本語を完成して高等教育を受けな い人々にも真に必要な知識を與へることができるやうにしたい」と記して いる。この基礎日本語の発想はOgden の Basic English に基づいていること は改めて指摘するまでもない。当時、先生は国立国語研究所評議員を務め ていて、戦前から頭の中に描いてきた基礎日本語をなんとしても完成させ たいという強い願いを持っていた。この間の事情を村岡先生は、前掲『喜 寿記念論文集』所収の「土居光知先生の学風」の中で次のように記述して いる。 「先生が基礎日本語を考案されたことなどもわれわれの意表をつくもの であった。先生はオグデンのBasic English にヒントを得て、基礎日本語を 工夫されたのであるが、その骨組みは、北海道に旅行されたとき、その往 復の寝台車の中で作成されたのである。Basic English は、周知のように、 必要欠くべからざる名詞、形容詞、副詞のみを選びあげるとともに、僅か 数個の動詞と前置詞の組み合わせによって一切の運動動作を表現すること として、850 語で大抵の用を弁ずることができるようになっている。この 方針は英語と性質を異にする日本語に適用できないことは無論である。そ こで先生はサ行変格活用の動詞が名詞から簡単に作られることに着目し て、主としてこの活用の動詞を残し、大部分の他の活用の動詞を捨てて、 1,000 余の語彙で大抵のことは言えるように工夫された。これは驚くべき

(18)

創意だと思う」。『著作集』第四巻には、基礎日本語の分類表が載っている。 例えば「ひと」の項目には「兄」、「姉」など、「体」の項目には「頭」、「顔」 など、「語の頭に添える語」の項目には「お」、「第」などが挙げられている。 また、基礎日本語に使用した漢字は、すべて文部省の標準漢字表のうちに 見出される文字と断っている。土居先生の自由な想像力が流露して止まな い独創的成果の表れである。 先生はまた、「アメリカやイギリスの大学」についての感懐にまで言い 及んでいる。例えば、「アメリカの大学には言論の自由は全くないといっ てよい。資本家によって支持されている大学において少しでも資本主義を 攻撃するならば位置を失わねばならぬ。コロンビア大学において非戦論を 唱えた教授はみな辞職せざるを得なかった」と述べ、「自由の女神」の巨 像が立つアメリカの大学事情を批判している(『文芸その折り折り』)。 紙幅も限られているので、最後に土居先生の教育論と酷似しているフラ イのThe Educated Imagination(1963)について簡単に触れておきたい。土 居先生は『喜寿記念論文集』にご自身の「回想録」を寄稿されているが、 その中で高知の海南中学校の四年在学の「夏休みに500 ページほどあった アラビアナイトの英訳本を読んだ」と記している。また、松岡英夫氏との 対談の中で「高校では、国文学の時間と英語の時間を連続または並行させ て、単純な論文、詩歌などを日本語あるいは英語、いずれにしても多量に 読ませることが必要だろうと思う」と語っている。要するに先生は、科学 的知識の他に、人間的情操を深めるように文学作品を読ませることが必要 だと考えている。

フライがThe Educated Imagination の中で力説しているのは、まさに、 土居先生が強調する「文学教育」である。その最初の章 ‘The Motives for Metaphor’ で、フライは、言語を「意識的言語」、「実用的言語」、「文学的 言語」の三つに区分して、文学の効用は今はいかなるものかを問うている。 第三章 ‘Giants in Time’ においては、アリストテレスの『詩学』をパラフレー ズしながら、文学は普遍的なものと関連すると述べ、「文学的象徴」の意 義を声高に歌い上げている。そして、文学の世界とは、人間の想像力以外 に現実性を持たない特異な世界であると力説する。フライも土居先生もと もに、古今東西の文学がいかに重要であるかを強調する点で、通じ合うも のを持っていることは言うまでもない。 土居光知先生が没して36 年を経た今日においても、『文学序説』を初め とする先生の業績が少しもその輝きを失っていないことをフライとの比較

(19)

を通して明らかにすることができれば、東北大学文学部英文学科の末席を 汚した私にとって望外の喜びである。 注 このエッセイは『試論:土居光知先生追悼記念号』(昭和56 年4月)に寄稿した「ポエタ・ ドクトゥス」と『英語青年』(平成11 年1月)に掲載した「土居光知とノースロップ・フライ」 に加筆し、新たに起稿したものである。

参照

関連したドキュメント

■CIQや宿泊施設、通信・交通・決済など、 ■我が国の豊富で多様な観光資源を、

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

どんな分野の学習もつまずく時期がある。うちの

 親権者等の同意に関して COPPA 及び COPPA 規 則が定めるこうした仕組みに対しては、現実的に機

拠点内の設備や備品、外部協⼒企業や団体から調達する様々なプログラムを学ぶ時間。教育

【多様な職業】 農家、先生、 NPO 職員、公務員 など. 【多様なバックグラウンド】

○菊地会長 ありがとうござ います。. 私も見ましたけれども、 黒沼先生の感想ど おり、授業科目と してはより分かり

◯また、家庭で虐待を受けている子どものみならず、貧困家庭の子ども、障害のある子どもや医療的ケアを必