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蜻蛉日記の屏風歌と安和の変

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蜻蛉日記の屏風歌と安和の変

﹃蜻曾記﹄の災﹂、安和二年(九六九)八月の条に'儒尹

(小一条左大臣)の五十賀のために作者道綱母にょって詠まれた屏 風歌が九首列挙され、その後に﹁など、あぢきなく、あまたにさへ しひなされて、これらが中に、漁火とむら鳥とは、とまりにけりと 剛くに、ものし﹂とい、フ記述が続く。この﹁とまりにけり﹂につい て、諸注の多くは﹁漁火﹂﹁むら鳥﹂を泳み込んだ晉が屏風歌と して﹁採用になった﹂と解しており、また少数ながら﹁不採用となっ た﹂との解釈も見られる。私は水稿において、﹁とまりにけり﹂を、 師尹五十賀の催しが﹁中止になった﹂と解釈することができるので はない力またそう鯛オアした場合、嬬蛉日記﹄の航みをいかに深 めることができるかについて、老えてみたいと思う。 まずはその一節を引用しておこう。﹃蜻蛉日記﹂の木文は﹃蜻蛉 (庄1) 日記解釈火成 3﹄に拠り、適宜表記を改めた。 八月になりぬ。そのころ、小一条の左大匝の御とて世にののしる。 左衛門遮臼の、御屏風のことせらるるとて、えさるまじきたよりを はからひて、せめらるることあり。絵のところどころかきいだし たるなり。いとしらじらしきこととて、あまたたび返すを、せめ てわりなくあれば、宵のほど、 J1見るあひだなどに、一つ二つな ど、思ひてものしけり。 人の家に賀したるところあり。 じ^をめぐる打日のいく力、ノ\リ^7日ゆく司一恵にあはむとす一 C 1 旅ゆく人の、浜づらに馬とめて、千鳥の声聞く所あり。 一声にやがて千鳥と開きつれぱⅢ世をつくさむ数もしられず 粟田山より駒ひく。そのわたりなる人の家に引き入れて見ると ころあり。 あまた年こゆる山辺に家ゐして綱ひく駒もおもなれにけり 人の家の前近き泉に、八月十五夜、河の影うつりたるを、女ど も見るほどに、垣の外より、大路に笛ふきてゅく人あり。 雲ゐよりこちくの声を開くなへにさしくむぱかり見ゆる月か ノf ノ

ゐなか人の家の前Rづらに、松原あり。鶴群れてあそぶ。﹁二 つ歌あるべし﹂とあり。 げ

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浪かけの見やりに立てる小松原こころをよすることぞあるら し 松のか1<砂のなかとたづぬるはなにの飽かぬぞたづのむら 鳥 網代のかたあるところあり。 網代木に心をよせてⅡをふればあまたのよこそ旅{tてけれ 浜辺に、漁火ともし、釣舟などある所あり。 漁火も海人の小舟ものどけかれ生けるかひある浦にきにけり 女車、もみぢ見けるついでに、また、もみぢおほかりける人の 家に来たり。 よろづよをのべのあたりに住む人はめぐるめぐるや秋を待つ らむ など、あぢきなく、あまたにさへしひなされて、これらが中に、 渙火とむら鳥とは、とまりにけりと聞くに、ものし。 二 このあと本文は﹁かうなどしゐたるほどに、秋住春れ、冬になり ぬれぱ・・・・・,﹂とあって、季象変り、新たな露心ヘと移っている。 ところで、諸注の中にはこの五十賀を、安和二年七月二十一日の 催しと説くものが多い。﹃日本紀略﹄同日条に﹁蔵人頭右中将藤原 済時朝臣於法性寺設法会。賀厳親左相府五十算﹂とあるのがその根 拠であり、確かに師尹の五十智ぞして記録にあらわれるのは、師尹 の息済時が法会を設けて父の五十歳を賀したというこの一件のみな のである。 窪ι しかし﹃蜻蛉日記全袈﹄が指摘するように、師尹のよう含腎 クラスの屯長であれば、一材四gは、様者を異にしつつ何度も打 われるのが通常であり、﹃全袈﹄はその根拠として、長和四年(一 0 一五)に左大辱償道長の五十賀の行事森り返し催されている 事{夫を指抽している。もちろんこれは道長に限ったことではないの であって、たとえば﹃日本紀略﹄にょれば、太政大臣{詣(師尹の 兄)の七十賀にかかわる行事が、安和二年の十、一月二十八日、十三 (庄3) 月九日、十三日、↓七日に催されていることか知られる。同様に師 ヂ五十賀も、主催者を異にする様々な催しが行なわれ、また予定さ れていたと孝えてもいいのではないだろ、つか。本文に﹁世にののし る﹂とあるのは、師尹五↓賀の祝いがル軸たちの砥で繰り返し行 なわれ、あるいは行なわれる予定であることを背"京としているだろ う。そして、この年十月十五日の師尹の死にょって、予定されてい たいくつかの竺旻が中止になったであろうことは容易に推測でき る。この推刈は本稿の結論にとって重要な前提である。 そもそも、引用文冒頭の﹁.八月になりぬ﹂とい、フ記述からは、作 者の屏風歌が八月以後に予定されている加登のために依頼されたも のであり、七月二十一日の催しと関わりのないことは明らかなので (庄1) ある。﹁月見るあひだなどに一というのは、八月十五夜前後の回想 ﹁小一条の左大臣の御﹂とは、﹁御﹂はこの場合列昌の意であっ て、﹁小一条左大臣﹂と課されていた藤原師尹(九二OS九六九) の五十賀を意味している。師尹はこの年三月の政変いわゆる﹁安 和の変﹂にょって左遷された源高明のあとを襲って左大臣に昇進し ていたのである。

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-10-にもとづく記述であるに述いないから、そのあとしぱらくLて屏風 歌の全てか詠み終えられ、依頼主のもとに届けられ、屏風絵の色紙 形に魂凹されるのに必要な日時を考慮するならぱ、賀宴の予定は早 くて八月末、おそらくは九月以後であったと考えられよう。 一方、﹃日本紀略﹄にょれぱ、師尹はこの年七村七日に七夕の宴 を催し、また先述のように七打三十一Πには五十賀が祝われて健在 か鰯山されるのであるか、その後、一陛にともなう政務多端にもか かわらず、左大臣師尹の名は、十河九日の上表まで全く見出せない。 上表とはご饗のためメC近一契曾夫子傅を罷めんことを訥うとい う内容で、ほどなく同打十五日に逝去している。なお、十河九日の 上表が直ちに勅許され、度者十八人J喜わっていることから考える と、すでに快復不能の菊状とみなされていたのではないだろうか。 このような状況を勘案すると、八月末以後に予定されていた師尹五 十賀の諸行事のいくつかが、木人の菊気や病没のために小止となっ たとする推測は、一塀硫かなものとなろう。 ﹁八月になりぬ。・・・・・・世にののしる﹂'く本文について、いさ さか竺ておきたい。﹁左衛門督﹂を誰にあてるかについては諸説 があるが、この時期に左一何督であった一償頼忠(師尹の兄{益の 息)とする現今の通説で問題はないだろう。繋一が師尹と関係が薄 (゛己 いことを僻心視するむきもあるが、伯父甥の間柄ではあるし、そも そも頼忠は加貝宴の、様者ではなく、賀の屏風の作製を担当すると し う形で主催者に奉仕しているのであるから、頼忠と師尹との関係よ 三 りも、痔一と主催者との関係の深さこそが重琴'のである。 羅のところどころかき出だしたるなり﹂については、かつては、 あちこちの丹小を揣いた屏風か作者の元に持ち込まれたと解されて いたが、沽水好子氏は﹁画図の趣を言最荒.日き出したもの﹂が作者 のもとに届けられたのであり、﹁屏風を持って使者が往反したので (庄6︺ はない﹂七永された。 利は拙松弓今昔物語獄﹄と﹃蛸蛤 、 ブ (よ7) Ⅱ託一に見る屏加歌詞進の特異例﹂において、恐柄を説明した詞1 の多くか﹁人の'家に賀したるところあり﹂とか﹁・・・・・・千鳥の声剛く ところあり﹂のように、﹁・・・・・・ところあり﹂の形をとっていること を根拠に、作者のもとに届けられたのは、屏風絵を写した模写絵で あったと玉した。それは八一器の詞古のうち五箇所に及んでいる のであるが、これが﹁画図の趣を一呈に書き出したもの﹂であれぱ ところ﹂とあるはずで、﹁あり﹂の一語は不要である。﹁あ リ干L こ り﹂の一語が加えられているからには、これらは羅にこれこれの 場而があった﹂の副いであるとしか老えられない。つまり、作者は 絵を見てそ黒柄を二暴で説明しているのであって、作者が見た絵 が屏風梦ぐのものではないのであれば、それは模写絵であったとし か考えられない。作者の屋敷に屏風が運び込まれたのでないこと は、消水氏のお説の通りであろう。 四 では、九首の屏風繁列挙されたあとの本文、﹁など、あぢきなく、 あまたにさへしひなされて、これらが中に、漁火とむら鳥とは、と けりと聞くに、ものしL一についての1金言寸に干多りたい。 一【^

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﹁漁火﹂と﹁むら鳥﹂については、﹁これらが中に﹂とあること から、九首の屏俄の中の特定の二首をさすことは明らかであり、 ﹁漁火﹂は﹁漁火もあまの小舟ものどけかれ生けるかひある浦に来 にけり﹂を、﹁むら良ごは﹁松のかげまさごの中とたづぬるはなに の飽かぬぞたづのむら鳥﹂を指し示していると判断される。鼎は ﹁漁火とむら鳥とは﹂のあと経く本文の解釈である。 現代広く流布している注墾白の現代語訳をいくつか、列挙してみ よう。﹃全注釈﹄には﹁といったふうに、気乗りしないのに、たく さんむりに詠まされさえしたが、これらの中で、漁火の歌と誉お 歌とが採爪になったと朋いて、不愉快だった﹂とある。﹃対訳﹄に は﹁などと、いやいやながら、こんなに何首も処理に詠まされて、 これらの中で、漁火の歌と鶴の群鳥の歌とは選にもれた、と聞くと いやな気がした﹂とある。﹃解釈大成﹄には﹁など、気が進まない のに、いく首もいく首も無理やり詠まされさえもして、これらの中 で﹁漁火﹂と﹁むら邑の歌とが採用になったと聞くにつけ、なん (庄8︺ となくおもしろくない気持である﹂とある。一新編全集﹄には﹁など、 気のりもしないのに、幾首も幾首も延理にょまされたあげく、これ らの中で、﹁契﹂の歌と﹁たづの群鳥﹂の歌と、二首は採用になっ たと聞くと、何かしつくりしない気持であるL一とある。 いずれも﹁漁火とむら鳥とは﹂を﹁とまりにけり﹂が受けると判 断して、この二首が採用になった、あるいは不採用になったと解釈 されているのであり、この点、従来の全ての研究者の理解は一致し ている。採用か不採用かで意見が対立しているにすぎないのであ る。私が木稿で主張したいのは、﹁渙火とむら鳥とは﹂を受けるの は﹁ものし﹂であり、﹁とまりにけりと聞くに﹂は﹁ものし﹂と感 じた理由を説明する挿入句ではないか、﹁とまりにけり﹂とは師尹 五十賀の賀宴が中止になったの意ではないかという新解釈である。 以下、鼎点を整理しつつ説き進めたい。 動詞﹁とまる﹂は﹃蜻蛉日記﹄に二七例ぱかりが見出される(別 に名詞﹁とまり﹂が一例)。多く目に付くのは﹁{佰泊する﹂豊の﹁と まる﹂で、そのうち、たとえぱ﹁とまりぬべきことあらぱ、など言 へど﹂(上巻・天徳元年八月)は夫系家)がき作者)のもとに 泊まる馨二橋寺といふところにとまりぬ﹂(上巻・{女和元年九月) は、旅先で宿泊する忠である。﹁残留する﹂の薫でも使用され、 たとえば﹁ゆく人もせきあへぬまであり、とまる人、はたまいてい ふかたなくかなしきに﹂(上赤﹂・天暦八年十打)は、陸奥国に旅立 つ父を﹁ゆく人﹂、京にとどまる作者を﹁とまる人﹂と表現している。 また、﹁(車より)おりたれば、心地いとせんかたなく苦しきに、と まりたりつる人々・・・・・・﹂(中巻・天禄元年六河)とあるのは、作者 の唐崎行きに同行せず、留守宅にとどまっていた侍女たちをさして しる ﹁文ささげて来る者あり。そこにとまりて﹂(上巻・{女和元年九 打)は、﹁立ち止まる﹂の意、ス若狭守の車が)立ちもとまらで行 きすぎぬれぱ﹂(災﹂・天禄元年七月)は﹁停車する﹂の意で、い ずれも動いて来た人や物が停止することをあらわす﹁とまる﹂であ る。おそらく、この﹁動きをやめる﹂の延長上にあるのが、﹁予定 の行動を小止する﹂﹁とりやめになる﹂の意で、﹁こたみぱかり言ふ 五

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-12-こときくと思ひてとまれ﹂(中巻・天竺年六月)は、作者が寺に 行くのを思いとどまって自邸にとどまるようにという兼家の三軍、 ﹁みそぎの日、犬の死にたるを見つけて、いふかひなくとまりぬ﹂(下 巻・天延二年四月)は、道網の賀茂祭ヘの参加が、触磁のためにと りやめになったの寸¥ある。 さて、この﹁中止となる﹂﹁とりやめになる﹂の牙﹁とまる﹂は、 ごくありふれたものであって、乎近な辞書にょっても、、﹁いとなみ、 つしかと待つことの、さはりあり、にはかにとまりぬる﹂(﹃枕草 ,1 し 子一くちをしきもの)、﹁神わ、ざなどもとまりて、さうざうしきに一 (﹃源氏翻﹄朝聖﹁二日、宮の大饗はとまりて﹂(﹃紫式都日記﹄) などの用例をご牙に見出すことができる。一方、先に紹介したよ うに、﹃蜻蛉日記﹄の問哘盲所﹁とまりにけり﹂について諸荏、﹁(那 風歌として)採用になった﹂あるいは﹁不採用となった﹂と鯛して いるのであるが、このような解釈か導き出される根拠を、動詞﹁と まる﹂の用例の中に見出すことは困難であろう。また、困虹である からこそ、﹁採用﹂﹁不採用﹂という正反対の江裟が主張される"梨 となったとも言えるのではないだろうか。 ﹃全袈﹄は﹁とまりにけり﹂について﹁誘になった。﹁とまる﹂ は先方の手元に残る、受理される、の竺と説明し、その根拠とし て﹃宇津保物瓢巴赤日詣の﹁たまづさのつひにとまらぬものならぱ むなしき身ともなりぬべきかな﹂と﹃玲越盤企雑秋の﹁しぐれつっ ふりにし宿のことの葉はかきあつむれどとまらざりけり﹂(作名中 務)を挙げる。後者は﹁天暦御時、伊勢が・家の架召したりければ、 まいらすとて﹂という、興味深い詠作亊情のもとに詠まれた〒圃で あるが、﹁とまら、ざりけり﹂というのは、木の葉を掻き染めよ、つと 弌 してもちりぢりになってしまうように、母伊勢の歌は多くが散逸し てしまったと豊で、底意は、散逸してしまう程度の歌でしかない という謙遜である。﹃全裟﹄のいう﹁先力の手元に残る、受理さ れる﹂の意ではない。 前者、すなわち﹃示保物語﹄の歌においては、乎祭相手の手 元にとどめられるの意で動詞﹁とまる﹂が用いられており、﹁先方 の千元に残る、受理される﹂翌にふさわしい用例といぇるだろう。 しかし、こ倫義を﹃蜻蛉Π記﹄の﹁とまりにけり﹂にしいて適用 するならば、﹁漁火﹂と﹁むら鳥﹂の二首だけが受理されて残りは 返却されたの意となり、きわめて不適切である。断わりきれないつ てを頼って熱心に詠作を依頼してきた頼忠は、届けられた作者の歌 稿を宮んで﹁受理﹂したはずであって、もしその歌冴中から歌を 選び出すという作業がその後なされたとしても、その作業を動詞

﹁とまる﹂にょっ美現するということは、こ倫倫裟からして

ありえないだろ、つ。 見てきたように、諸注の多くは﹁とまりにけり﹂を﹁(二首が) 採用になった﹂と觧しているのであるが、少数ながら﹁とまりにけ

り﹂をスニ首が)森用になった﹂と解する裟も存在する。こ

の問題につぃて詳細に論じているの蛙忌壽氏の一﹃かげろふ日記 ︹'主"︺ 抄﹄である。氏は二首採用説を奨力した上で、それを次のように批 判している。

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数多の歌を強いられてょんでやったものを僅か二首を採用した と想像する事がこの場△口、甚だ事実の理解として問違って居 る。詠んでやつた歌は全都絵にそえて書かれるはずのものであ つたのが都合にょり二首はやめになつたものである。﹁とまる﹂ は中止になった亊。屏風歌を依頼せられた作者はその社会に於 て硫固たる定評ある歌よみであつた。作者のよみ歌を歌よみで も識老でもない左衛門督か僅か二首ぱかり嚇越したと言っ亊{夫 があり得ようとは思われない。(中略)下巻天延二年の記事に ﹁男日犬の死にたるを見っけて言ふかひなくとまりぬ﹂とあ るのも、祭に行くのが中止になつた意味である。 全てが書かれる予定であった屏風歌九首のうち二首が﹁都合にょり﹂ 書かれなかったという需を、三宅氏は相楚しておられるのである (したがって、厳密には﹁不採用﹂説とは異なる)。しかし、屏風絵 小の、屏風歌を詠むべき場面はあらかじめ決められ、歌を書くべき 色紙形の位置も定められた上で一、粋依頼はなされているはずである から、﹁都合にょり﹂書かれなかったという烹忠は起こりえないの ではないだろうか。また、例外的にそのような森忠か発生したとし ても、それは頼忠だけが知りうる亊{夫であり、頼忠としては、それ をわざわざ道綱母に知らせて彼女に不快感を抱かせる理由はない。 また、賀{晏の出席者にしてもそのような事・美は知りえないから、そ れが人づてに彼女の耳に入るといったいきさつも墾疋できない。三 宅氏説は屏風歌需依頼の器心に即していないと評すべきであろう。 しかし、道綱母の歌をたった三首ばかn警したという事{夫はあ りえないというΞ宅氏のお考えは十分納得できるものである。そも そも頼忠が、道綱獣にとって断わりきれないつてを頼ってまで一松 を依頼し、彼女が何度か断わっても根気よく依頼をくり返したのは なぜであろうか。 賀の屏風の製作を担当するという形で賀宴の主催者に奉仕するこ とになった頼忠は、屏風歌に関しては、清原元輔とか大中臣能宣と かいった、屏風歌を詠みなれた専門歌人に依頼するのが無難な選択 である。彼らなら+暑んで注文に応じるであろうし、早速屏風絵拝見 のために頼忠邸に参上とい、呈びになるであろう。わざわざつてを 求めて依頼したり、辞退する道綱母に粛佃をくり返したり、屏風絵 を実見できない彼女のために模写絵を描かせたりといった余割な手 問は必要ないのである。そもそも、上流屯於の夫人に屏風歌を依頼 するというのは当時の{轟に反しており、﹁いとしらじらしきこと﹂ というのは、それにかかわる彼女の感想であろう。 それにもかかわらず頼忠が道綱母ヘの依頼を思いつき、強行した のは、和歌に堪能な才媛として世問に知られ、兼{永の愛妻として身 内でしばしぱ話題にのばる道綱舟に屏風歌を詠ませ、賀の屏風に特 別な価値を付加しようとしたからではないだろうか。そうすること にょってゞ堂賀者師尹をはじめ加曇の出席者を喜ぱせることができ 賀{旻の補者は面目をほどこすわけだし、そうなれば、補者 から虞らへの信頼も増すものと計算したのではなかったか。そのよ うにしか考えられないように私は思うのである。したがって、詠作 を依頼されたのは作者一人と私は推測しているが、歌仙家集本﹃元 輔集﹄に同じ折の屏風歌が見出されると上村悦子氏が主張されて以 来、元輔が競作者であるとするのが定説となっている。私は、上村 氏をはじめ諸氏の指摘する﹃元輔集﹄歌は、道綱母森んだ師尹五 1士、

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-14-十加貝屏風歌とは別時の作であるとぢぇるものであるが、この僻、に ついては本稿の最後に姦小を加えたい。 以上のべてきたように、闇踵の一﹁とまりにけり﹂は、一 ]¥ーカ ,1 用になった﹂の意でもなけれぱ﹁不採用になった﹂の妾ぐもなく、 ル県旻が﹁中止になった﹂﹁とりやめになった﹂の女じあると考えら れる﹁・・・・・・これらがいに、沖火とむら鳥とよ、とまりこナリと開 くに、ものし﹂を、、﹁これらの歌の中にあって、契の歌とむ、ー の歌については、賀・纂がとりやめになったと剛くにつけ、いやな気 がした﹂と解してみたいのである。 gの中止を知った作者は、なぜ﹁契﹂と﹁む、鳥﹂の二首に 関して、﹁ものし、一という感儁にとらわれたのか。歌を頼忠に送って やった後で、この二首に不吉六支言が含まれているのに気付き、 ι .生fカミ寸、ーーk {こ右:つ丈ことⅡⅡし、て.、 jイヌ m^1義ナ、ム'上ff;.ι いやな気がした、といったいきさつが想像されないでもないが、こ の二首を討むかぎりでは、不吉な文言など見川すことはできない。 そもそも道綱母ともあろう歌人が、そのような,仞歩的なミスを犯す はずはないだろう。どうやら、この二首を見つめているだけでは、 この問歴は矧杁しそうもない。次節において検剖を進めたい 0 皮 しまうという恋劇か一族を襲ったのである。作者はこの顛末につ V て記した上で、﹁身の上をのみするH記には入るまじきことなれど も、恋しと思ひ入りしも誰ならねぱ、しるしおくなり﹂と述ベ、 ら一族に格別の詞枯を寄せている(災﹂:輪二年'Ⅱ条)。

さてその後、六打下句に、品明の北の方'署匝永R址妹)

カーヒになったと朋いた竹名は、長歌J線じ工為に増り、その心を 怠めよ、つとした。使いの者は作者の盲いつけ通り、長歌の僻り主が 加力を明言しなかったが、それと祭知した愛宮は、作老のもとに返 .を樹けさせた、はずであった。ところが、作者が転居していたた めに、使者は勢て手紙を別の所("姫か)ヘ届けてしまい、受け 取った力では変だとも思わなかったのか、これに返i!1左Lたため た。それを見て馴辻いに気付いた戸菁が竪tていると知った作名 は、このままにはしておけないと思い、御返Jiが届いていない旨の 歌を納った。しぱらくして淫凸から、硫かなつてを通じて歌が譜け られ、作者はそれに返歌した。 このような長歌にまつわる後U獣か記述された↑証後こ、﹁八月 一以下の芥又儒で冏県亘にしている"子何ミW{関樋女の.述力ゞ笄充く のである。そのことにまず注愆しておきたい。六村の長歌一、需と八 好の屏癒歌、誹作とは竹歌の力U.川を存分に発揮しえた一速の出来事 として、作名の勺礁にとどめられていたにちがいない。しかも、一 力は夫の失脚にょる一族の紗吹を恋しむ北の力のために、一方は我 が川の春を福歌する左大臣のために作歌したものであったことは、 彼女の力怯に格別の印象を付け加えたことであろう。それは高明、 族に対する深い同情と、屏風歌詠作にあたっての気乗りのしない心 Ⅲとい、フ、一・張とな 0 て一日延に表現されているよ、つに思われる。 作名か尻風歌を討じた安和二年八乃を五か打さかのぽる1可f-月、左火臣源高明が大宰椛帥として左遷されるという、世に言、つ﹁安 和の変﹂が契北した。出件は高明左遣のみにとどまらず、多くの子 息たちは、ある者は配流され、ある者は出,家し、散り改りになって 七 ーーー「 t;'1

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さて問題の長歌であるが、﹁あはれ今はかくいふかひもなけ

れども思ひしことは春の末花なむ散ると騒ぎしをあはれ

あはれと開きしまに﹂と、高明失脚に寄せる作者の同象らそれ は始まり、次いで、愛宕山に身を潜めていた高明がついに流された といういきさつが述ベられる。さらに、四河になれぱほととぎすが 鳴くように、人々は高明を偲んで泣き、五月雨のころには誰もが涙 で快を濡らし、まして閏五月にもなればご俣のせいで着物はすっか り朽ちてしまったと、但間の同情が高明一族に集まっていることが 強調される。これに続く本文を引用しよう。

ましてこひぢにおりたてるあまたの田子はおのが悩々

いかぱかりかはそほちけむ四つにわかるるむら鳥の

おのがちりぢり巣ぱなれてわづかにとまる巣守にも

何かはかひのあるべきとくだけてものを思ふらむ

ここには、高明の子供たちと北の方愛宮ヘの同情が歌い上げられ ているのであるが、注目すべきは、散り散りになった子供たちを﹁四 つにわかるるむら鳥の﹂と表現していることである。諸条指摘 しているように、これは﹃孔子{壽﹄顔回↑扇に、﹁桓山之鳥、四鳥 を生む。翌既に成り、将に四海に分れんとす。其の母悲み嶋きて 之を送る﹂(原漢文)とあるのに由来する表現なのであろうが(原 典をはなれて、周知四諺となっていたか)、ここに﹁むら鳥﹂とい う歌栗使われているのを見逃すわけにはいかない。この﹁むら鳥﹂ は、父高明の失脚に連座し、各地に分かれて行かさるをえなかった 子息たちを喩えており、二系散の為を象徴していると言ってょ かろう 、一方、師尹五十智屏風歌に﹁松の陰まさごの中と尋ぬるはなにの 飽かぬぞたづのむら鳥﹂七詠まれた﹁むら鳥﹂は、長野を象徴する めでたい鶴の群れである。賀宴にふさわしい歌雫あるから、この 一首は賀の屏風歌として、特に不都合な点はないであろう。しかし、 わずか二か月前に詠んだ長歌の中に、工永航散の悲劇の渦中にある 子息たちの喩えとして﹁むら鳥﹂なる歌語を詠み込んだことを、こ の時作者が想起しなかったとは考えられないのではないだろうか。 屏風誇鶴の群れが拙かれておれば、屏俄に﹁たづのむら鳥﹂と 詠むのは自然ななりゆきであり、人の不審を招くことなどありえな いが、作者にしてみれば、内心おだやかならぬものがあったのでは ないだろうか さて、熊て長歌は、宮中で時めいていた高明が、今では九州の 地で{叔しく過ごしておられるだろうと思いやったあと、北の方愛宮 の出{永ヘと筆を進める。本文を引こう。

かつは夢かといひながらあふべき期なくなりぬとや

君もなげきをこりつみて塩やくあまとなりぬらむ

舟を流していかばかりうらさびしかる世の中を

ながめかるらむゆきかへるかりのわかれにあらぱこそ

君がよどこも荒れtゞらめ塵のみおくはむなしくて 枕のゆくへも知らじかし ﹁塩やくあま﹂は、﹁河人﹂と﹁尼﹂との掛詞で、﹁投げ木を樵り 枯み﹂﹁舟を流して﹂は﹁海人﹂の需となっており、﹁海人﹂にとっ -

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6-て大切な﹁舟﹂は、﹁尼﹂となった愛宮が我が身を託していた高明 を寓している。 実は、この﹁海人﹂﹁舟﹂から連想される歌が、師尹五十賀屏風 歌の中にある。﹁漁火もあまの小舟ものどけかれ生けるかひある浦 に来にけり﹂がそれで、作者が﹁漁火とむら鳥とは﹂と笈乢した三 首の中の一方にほかならない。長歌では嘉写冨を都に残して述くへ 流された高明に喩えられた﹁海人﹂の﹁舟﹂が、屏風歌では﹁生け るかひある浦﹂に来た人物にょって﹁のどけかれ﹂と願われる条物 として歌われている。画中に小舟が描かれていれぱ、それを﹁海人 一七翻(むことに,りの問陌心もない力ゞ、二か月^削の長Wてに一﹁塩1や

くあまとなりぬらむ舟を流していかばかりうらさびしかる

世の中をながめかるらむ﹂と詠んで愛宮の不幸を思いやった作者 が、屏風歌の﹁あまの小舟ものどけかれ﹂と緑み口に何のこだわ りも持たなかったとは老えられないのではないだろうか。 この二首について、人知れず述和感をぬぐいきれない作署であっ ても、その後何の波乱もなく、師尹の賀の祝いも次々と予定通りに 催されたのであったなら、単なる気の迷いであったとして安堵する ことができたであろう。ところがそうはならなかった。師尹は死の 床に伏してしまったのである。自作の屏風歌が披露されるはずだっ 呈ι十賀の纂力ゞ[﹁とまりにけりL一ノ巾止になった、︺,と開いた時、 あの﹁漁火﹂と﹁むら鳥﹂の二首について、﹁ものし﹂という強い 不快感を作者か抱いたのは、けだし当然とはいぇないだろうか。 先にも少し触れておいたが、上村悦子氏は﹁とまりにけり﹂を通 説通り(二首が)﹁採用になった﹂と解釈する立場から、すなわち、 この屏風歌が二人以上の歌人にょる競作であったと考える立場か ら、道細ーリ:以外にこの屏風歌四献作を依頼された歌人の作として、 歌仙家集本﹃元帖集﹄の次の二首(一四八、一四九番歌)を指摘さ (住那︺ 17 小一条の右おとどの五卜賀し侍りしに、屏風ゑ、たけのもと にイ乞うノ\たり なよ竹のよながき秋の欝ををきときはに花の色もみぇなん はまつらをゆく人、ちどりなけぱひきとどめたり 千鳥なくうらぞ過うくおもほゆる我ゆくかたははるかなれども 藤田.- N氏は、この上村氏説を紹介した上で、続く吾(一五0、 一五一番歌)も同時の屏風歌ではないかと、王張された。 ︹主Ⅱ︺ 柳さくらのある 花桜あかぬ匂ひのすぎうくて千とせへぬべし青柳の糸 船にのりてありて、八月十五夜 琴の昔も池のそこゐもおほ空のさやけき月にひかれてぞすむ 藤田氏はさらに、これら一四九、一五0、一五一番歌を含む、前田 家木元帖倭の三二番歌から一一四番歌までの二二首の歌群をも、 八

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道綱丹の屏風歌と同じ折に詠まれた屏風歌ではないかと推測された (住H︺ ︹止E のである。なお、後一馨子氏や田島日子氏も、藤田氏倫に贊同し ておられる。はたしてそれでいいものかどうか、検討を加えてみた 0 まず問誓なるのは詞勇﹁右おとど﹂である。上村氏は﹁師尹 は安和二f一刀二十六日左大臣高明失脚のあとをうけて右大臣より 左大臣になったばかりである﹂とのべ、作著の勘摂を示唆してお られるのであるが、伝写の際に﹁左一が﹁右﹂と勇テされた可能性 も当筆yえられるところである。 ﹁右おとど﹂との﹁張を額面通りに受け取るならば、一 、 ブ 八番歌は安和二年春、師尹がいまだ右大臣存仟中に催された五十賀 宴のための屏風歌であった可北佐が生ずる。この一首は、竹の根元 に秋の花(﹁ときはに﹂という歌句からすると弛化であろう)が咲 いている画面を詠じたもののようであるが、そのような、画面の存在 が道綱厩の屏癒歌やその詞習(画而説川文)力ら靜み取れなVこと からも、これが道綱母の作とは別時の屏風歌であった可能性を否定 できないのではないだろうか。 ここで改めて歌仙家条本﹃元輔架﹄の当聨餅を見てみると、一 四八番歌に先立っ部分は次の通りである(一四一 S 一四七番歌)。 このあたりの配列の乱れを整理するならば、本来、一四一釆俄(く れて後1)のあとに一五二番歌(ながき夜の1)と一五三番歌(山 桜1)が続いて三首の歌群を構成していたところに二四二番歌(鷺 の1)から一五一番歌(琴のー1)までの一 0首の屏俄が混入 した給果が現状なのである。この三首の歌群の存在は、他本にょっ ても明らかで、たとえぱ坊門局節木(冷泉家時雨亭文庫蔵)には次 のようにある(同本一四七S 一四九番歌)。 一五一釆雌が続き、さらに次の へとつながってゆく。 人々山桜をみる ゆくさきはまだとをけれど山桜こまをとどめてもよほされぬる 椡ある家 あさみどりくる春ごとにたえねども猶めづらしきあをやぎの糸 八月十Ξiイ 一、, Y ︺ 珂かげの露はよろづよををきてのみこそみるべかりけれ 欝はれぬくらぶの山の龍にもこよひの月を見る程ぞなき 三打ばかり、かみといふ所に、花のいとおもしろうさける、 風のよるいといたう吹はべりしかぱ くれて後うしろめたきを山桜風のおとさへあらく聞ゆる 屏風の歌、うめにうぐひすなく 鷲のなきわたらずは山ざとのいつの桁とかしるべかりけり 我{佰のきくのしら露けふことにいくー1tつもりて淵となるらん し﹂しー このあとに先述の四首(一 二苗(一五二、一五三釆述 q 凡、 これがかへし、えいしちがよみてょみ喜し、又返し ながき夜の夢の春こそ悲しけれ花をはなとも思はれぬ身は まかりかへるとて、また 山桜見捨てかへるこころをばなににたとへて人にかたらん し、

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-18-三月ぱかりに、なにとかやかみの名といふてらに、さくらの いみじうさきたるに、よる風のいたくふきしかぱ くれてのちうしろめたき(を)山ざくらかぜのおとさへあらくき こゆる これがかへしを、えせがよみてはべし、九をそかヘL ながきよのゆめのはるこそかなしけれはなをはなともをもはれぬ みは まかりかへるとて、また 山ざくらみすててかへるこころをぱなににたとへて人にかたらん 木文に乱れがあってわかりにくいが、他本をも需一しつっ鰄乢する と、次のようないきさつが読み取れる。三打ごろ、一倫が御名寺を 訪れたところ、桜が満開で、夜、強い風が吹いたので、桜が故るの を惜しんで﹁くれてのち1﹂の工回を詠んだところ、袖名寺の僧叡 ・笑が返歌をした(その返歌は書かれていない)。叡・災の返歌に対し てさらに元輔か詠んだ返歌が﹁ながきよの・:﹂である。その後、寺 から帰るにあたって、桜との別れを悲しんで詠んだのが、﹁山ざくら ﹂の一首であった。 このようにまとまりのある三首の歌群を分断する形で屏風歌十首 が況入しているのであって、歌仙一系木のこのあたりは、きわめて 杜撰七言わざるをえない。なお、この十首のうち、一倒八番歌をの ぞく九首は前円家本に見えるが、それら九首を含む前田・家木の該t1ー 歌群交 S二四番歌)か白本.旦呂の裳着の屏血歌と右大臣の川只の 屏風歌という、二次のまとまった屏風歌資料を構成しているのと比 較して、歌仙{系本の、櫛の歯の抜けたような九首の配列は、雑牧 としかπいようかない。これら歌仙家架木の屏風歌の扱いには峽重 でなけれぱならないのである。 さて気になるのは、前節にのべたよ、つに、歌仙家集本の屏風歌十 門(一四二S 一五一釆邑のうち、一円八番歌のみが前田家木に見 川されないことである。前田家本は﹁堅太后宮の御もぎの御屏風の うた﹂という詞書(火遡)のもとに、一番歌以下、一工首が並んで いる(以下 7苓,心屏風歌﹂と略称する)。この、つち、三、三、五、 L、 ブ - 0、一一番歌が、歌仙,家条本の屏風歌、一四二番歌から一四七番 歌に相当する。前田・家本は次に﹁天徳二年右大臣も、の賀の扉風歌﹂ とい、つ詞書(大題)のもとに、ニニ番歌以下、西番歌まで、ニニ 首が雌ぶ(以下﹁ももの賀屏風歌﹂と略称する)。そのうち一七、 三一、二七番歌か、歌仙家染本の一四九、一五0、一五一番歌に相 当する。そして、﹁小.一条の右おとどの五卜賀し侍しに、屏風、昂﹂ という詞書(大延と﹁たけのもとに花うへたり﹂という詞11 (小 恕)とをもつ歌仙家染本一四八釆叢は、前田家本には存在しないの である。 この那・笑は、次のように説明できるのではないだろうか。歌仙家 条本の屏風歌十首は、一四三番から一倒七番までの六首、一四八番 首、一四九番から一五一番までの三首の、二つの部分から成り、 0

先の六首は亘郡俄﹂郡の匪後の三首は﹁ももの賀屏風

歌﹂歌群の一部、そしてその冏にはさまれた一四八番歌は、前田家 . 本にもその他の諸本にも伝存しない、小一条右火臣五十賀の屏風歌 九

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の残欠なのではなかろうか。すなわち、安和二年春、安和の変の勃 発以前に催された右大臣師尹五十賀のために一術にょって詠まれ、 今に伝わる屏風歌なのではないだろうか。 隹 藤田氏および後藤氏は、前田家木三系山歌以下 9西番歌まで) の詞書(大題)﹁天徳二年右大臣ももの賀の屏風歌﹂を﹁安和二年 左大臣五十賀の屏風歌﹂と改訂し、歌仙{黍本一四八番歌の果叉大 題)の﹁右おとど﹂を﹁左おとど﹂と改訂することにょって、これ ら全てを左大臣師尹五十賀屏風歌と認定しておられるのであるが、 疑問が残る。﹁右﹂と﹁左﹂轟られやすいことは硫かであるが、﹁天 徳﹂を﹁安和﹂と、﹁ももの賀﹂を﹁五十賀﹂と改訂するのは、 、1 し かがなものであろうか。﹁も、の﹂と﹁五イ﹂には字形の類似も認 められない。これほど大胆な改訂を加えることなしには、これらを 左大臣師尹五十賀屏器と認定できないというのは大いに問題であ ろう。 天徳二年の右大臣蛙償師輔である。師輔は天徳元年に五十歳を 迎えたが、その年のうちに予定されていた奨旻か耶情にょって催せ なかったため、、赤老はあらためて翌年の春に、百年倫の後半の 五十年が始まったという名冨で、三月三日前後に、﹁桃﹂と﹁百﹂

七り入乞え

ないであろうか。まずは、できる限り原文に忠,岩雛肌を志向すべ きかと思うが、そうすると右のような推測が、、一案として浮かぶの である。 なお、前田家本﹃元輔集﹄一三番から三四番までの﹁ももの賀屏 風歌﹂歌群の中の何首かについて、﹃蜻蛉日記﹄の屏風歌と同一画 面を詠んでいると判断し、したがって両者は同時の作であると考え るむきがある。しかし、当時の大和絵屏風に似通った画面が頻出す るのは当埜(これついては大力の腎るところであろうから、こ こでは詳述しない)、同一の屏風を詠んでいるとまではいぇないよ うに思う。むしろ仔細に比收すれば、別の屏風を詠んでいると判W せざるをえない例が見出されるのである。 たとえぱ﹃蜻蛉日記﹄には、詞書に﹁粟田山より駒ひく、そのわ たりなる人の{永に引き入れて見るところあり﹂とある、駒牽きの場 面を詠んだ一首が見出される。一力、前田家木﹃元輔集﹄の﹁もも の賀屏風歌﹂歌群の巾の、駒牽きを詠じた二九番鰹、﹁はしりゐ の水したえせずあふさかの関ゆく駒のかげも見えなむ﹂というもの である(詞腎はなし)。すなわち、前名の画面には粟田山の民家が、 後者の画面には逢坂関の走り井が描かれていたようであって、明ら かに両著は異なった屏興耘空詠じたものと老えられる。藤田氏は、 屏風絵を実見した元梨、粟田山の画面を逢坂山と誤認したと推測 (庄比) しておられるのであるが、粟田山と逢坂山とは、全休的な果小描写 や個々の景物(たとえば逢坂山ならば﹁走り井﹂)にょって描きわ けられるはずであるから、両者の混同はありえないように思っので ある。 また、﹃日記﹄の詞書に﹁人の家の前近き泉に、八月十五夜、打 のξつりたるを、女ども見るほどに、垣の外より、大路に笛ふき てゆく人あり﹂とあり、歌には﹁こちくの声﹂とあって、詞習の﹁笛﹂ に対応している。一方、前田家本﹃元輔集﹄では、二七番繁八月 十五夜を詠じているが、その県凹には﹁八打十五や、人のいへのい けにふねども、つけて、のりてことひくところ﹂とあり、歌は﹁こと のねもいけのそこひもおほぞらのさやけき月にひかれてぞすむ﹂と

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-20-いうものである。両者を比較すると、その画面の述いは明らかでは ないだろうか。後者の県臼(画面説明文)にいう、池に何艘もの舟 を浮かべての纏びと森ポというのは、大貴族の邸宅でしかありえ ない豪勢な遊びであって、当然この画面の主要モチーフであったろ うから、もし両者が同一画面に拠ったものであるならぱ、﹁日記﹄ の詞沓にもそれについて稔条あってしかるべきであろう(それ を歌に詠むかどうかは別にして)。やはりこれも、両者が異なった 屏風であった証拠としか考えられないのではなかろうか。 論述が多岐にわたったので、本稿の要旨を箇久奔きにしておきた 士四て 0 ①﹃蜻蛉日記﹄上巻、安和二年八河条に列誓れている九首の殴 歌は、開催が予定されていた左大臣藤原師尹五十賀のために詠ま れた屏風歌であり、おそらく作名にのみ依頼がなされたのであろ

う。清原元輔に、希か依頼され、その屏風祭歌仙家集本発

輔集﹄や前田家本﹃元輔染﹄に見出されるという器は、穫討 の要がある。 (②)師尹の病臥、病没のため、予定されていた堂旻は中止となった。 ﹃日記一本文に﹁とまりにけりと開くに、ものし﹂とある﹁とま りにけり﹂は、加県纂の中止ミ傑している。これを、二首の屏風 繁﹁採用された﹂あるいは﹁不採用となった﹂と解する通説に は従えない。 ③屏風歌には﹁たづのむら鳥﹂﹁契もあまの小舟も﹂という歌句 か詠まれているか、作者は二箇河前に遜向明の妻愛宮に贈った長 歌の中で、不京な丁家の子息たちをたとえて﹁よもにわかるる む、ーの﹂七詠み、また出家Lた愛冨をたとえて﹁塩焼くあまと なりぬらん舟を流して﹂と詠んだことを想起し、それら歌句の 頁イガ、をル丸に・柄んでいた。 ④aの中止という、不幸な結末を聞いた作者は、﹁契﹂﹁むら鳥﹂ の屏風歌と、長歌との歌語の類似について、かねて抱いていた漠 然とした不安感が的巾したかのような思いにとらわれ、それを ﹁ものし﹂という一語にょって表現した。 以上である。なお、最後にお断りしておきたいことがある。安和 の変の首謀者蛙傑師尹であったという説が古来根強く存在するが (たとえぱ﹃大鏡﹄)、その当否については現在の歴史学界や国文学 界においても迷泊がついていないようである。本竿は、この問題 は考慮の外に置いた。源,局明一族に対する同情の<永り、道綱母は師 尹に対して不快感を抱いていたのではないかといった憶測は、私の 告櫛するところではない。 上村悦子﹃蜻蛉日記解釈大成 3﹄(昭和六二年四月明治 1 害院) 2 柿本奨﹃蜻蛉日記全注釈﹄上赤﹂・下巻(昭和四一年八月角 川書店)。以下一<恐釈﹄と略称することがある。 し、

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3 {夫頼七十賀の催しが年米に集中しているのは、十月十五日の 師尹死去にともない、、轟のためにその前後に予定されていた 加異旻等が延期された結果かとも想像される。なお、このうちト 二河九日の、頼忠主催の実頼七十賀の屏風歌が﹃能盲一ぎ前 田家本﹃元輔集﹄等に見出される。 4 作者が屏風歌を依頼された師尹五十賀四gを七打二十一日 のこととする諸注の多くは、﹁八月になりぬ﹂という記述を作 者の記嬉辻いと説明している(岡一男﹃道綱の母﹄'夛夕義勇﹃蜻 蛉日記誠誰岩波旧大系など)。 5 対訳日本古典業内﹃蜻蛉口記﹄(増田繁夫校注希五三年

Ξ打創英社)

6 清水好子﹃源氏物語の文体と力法﹄(昭和五五年東京大学 出版合二三九頁以下。籾出は昭和五一年一二"。 7 徳原一凌﹁﹃今昔物証墜と﹃蜻蛉日記﹄に見る屏風歌一肇 昇異例﹂(昭和六0年二河、﹃武庫川女子火学紀要国文︹萪 編﹄第三示) 8 新編日本古典文学全架﹃士佐日記蜻蛉口記﹄(一設七年十河 ﹂、り'r .μ、 9 三{壽﹃かげろふ日記抄,一(昭和四三年四月私・緩)一四 七ページ以下 上村悦子﹃蛾蛉日記(小)全訳注﹄(昭和ゐΞf一月誠祗 0 社学術文庫)六八ページ。(注1)当一0 一ページにも同様の 指摘かある。なお、氏は気イ寸いておられなかったようであるが、 家永工郎﹃上代倭絵年表改訂版﹄(昭和四一年五打墨水書房)

に、希本﹃元帖集﹄一四八番歌齢尹五十賀屏俄として、

一希嘩の歌のあとに掲げられている。 孫田一尊耐蛉Π記﹄<小一条左大1十賀の屏風歌>に関 する一考察1 ﹃元帖集﹂との鬨迎から1﹂(大東文化大学﹃日 本文ま墜第一石ぢ、昭和六二年三月) 後一馨子﹃元帖集注釈﹄(平成一二午二打第二版貴重本 刊行会)三ハハページ以下。 田鳥智子﹃屏風歌の研究資"肩﹄(平成一九年三刀和泉 *雌三二五ページ以下。 後藤祥子氏は﹃元帖集注釈﹄において、前繍家木一三番歌以 下を左火臣師尹五十賀屏風歌と見る立場から、歌仙家集木一 八番歌を前田家木一六番歌のあとに抽入している(祠竺九三 ページ)。

前掲一俗氏の亜天及び品係氏、田島氏の前規参畷

(注Ⅱ)受儲氏論文。 (迫記)私は明和五十九年度中古文学会春季大会(五H二六E 於 椙山女学園大学)において﹁﹃蜻蛉Π記﹄の屏最と安和の変﹂と 題する口頭発表をさせていただいた。その後、私の関心が屏風歌か ら航れたこともあって、発表内容を活字化することもなく放鐙して いた。過日、当時の発表原稿を見出したので読んでみたところ、こ のまま埠もれさせるには残念な内{谷を含んでいると判断したので、 ここに同題の払Wとして発表するものである。なお、歌仙{系木ヨ兀 帖条﹄と前田家本﹃元輔梁﹄に関する考察は、今回新たに付け加え 1

(とくはら・しげみ李桜)

-22-16 ]5 14 13 12 Ⅱ

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