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ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化  ――ヘルマン・プラッツと雑誌『アーベントラント』(板橋拓己)

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(1)

137

政治的

闘争概念

戦間期から一九六〇年代にかけて、主にドイツ語圏にお い て「ア ー ベ ン ト ラ ン ト ( Abendland 西 洋) 」 と い う ス ローガンを掲げてヨーロッパの連帯を説き、ある種のヨー ロッパ統合を唱導した「アーベントラント運動」なるもの が存在した。本稿の目的は、ドイツ現代史学やヨーロッパ 統合史研究で近年注目を浴びつつある * 1 、このアーベントラ ント運動の出発点を探ることである。アーベントラント運 動の特徴は、戦間期から戦後にかけての人的・思想的な連 続性であり、本稿の具体的な対象は、ヴァイマル共和国期 ドイツで刊行されていた月刊誌『アーベントラント』と、 それを取り巻くネットワーク、そしてその主導者であった ボ ン 大 学 の ロ マ ニ ス ト 、 ヘ ル マ ン ・ プ ラ ッ ツ の 思 想 で あ る 。 本論に入る前に、そもそも「アーベントラント」とはい か な る 概 念 か、 こ の 概 念 の 由 来 を 確 認 し て お こ う。 Abendland は、 ド イ ツ 語 で「晩」 「夕 方」 を 意 味 す る Abend と「土 地」 を 意 味 す る Land が 組 み 合 わ さ れ た 語 であり、 「陽の沈む地」を意味する。英語だと Occident に 対 応 す る も の で あ り、 語 源 的 に は「ヨ ー ロ ッ パ」 と も 重 な っ て い る。 通 例、 「西 洋」 と 邦 訳 さ れ る が、 文 脈 に よ っ ては「西欧」とも「ヨーロッパ」とも訳されてきた。

第Ⅱ部

両大戦間期

中央

西洋

﹂概念

政治化

雑誌

板橋拓己

(2)

139 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 138 を越えた組織化は、第一次世界大戦以前にまで遡ることが で き る。 例 え ば、 マ リ ア・ ラ ー ハ 修 道 院 周 辺 の 典 礼 運 動 ( Liturgische Bewegung ) や カ ト リ ッ ク・ ア カ デ ミ カ ー 連 盟 ( Katholischer Akademikerverband ) の 存 在 が 挙 げ ら れ よ う。 こ れ ら 教 会 と 結 び つ い た カ ト リ ッ ク 知 識 人 の 運 動 は、 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 概 念 の 普 及 と と も に、 各 国 宗 派 政 党 の 国 際 的 協 働 に 寄 与 す る こ と に な る (板 橋 二 〇 一 二 b) 。 の ち に フ ラ ン ス 外 相 と し て 欧 州 石 炭 鉄 鋼 共 同 体 を 導 くロベール・シューマンも、典礼運動の最初のドイツ会合 (一 九 一 三 年) に 参 加 し て お り、 典 礼 運 動 が「将 来 の ヨ ー ロッパのための礎石」であったと第二次世界大戦後に回顧 している (

Müller & Plichta 1999: 21

) 。 そして、これらの運動に従事していたボン大学のヘルマ ン・プラッツの主導で一九二五年に刊行されたのが、雑誌 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト ( Abendland. Deutsche Monatshefte für europäische Kultur, Politik und Wirtschaft ) 』である。この 雑 誌 へ の 寄 稿 者 を ざ っ と 挙 げ て も、 デ ィ ル ク ス ( Walter D irk s, 19 01 -19 91 ) 、 グ リ ア ン ( W ald em ar G ur ian , 19 02 -19 54 、 コーゴン ( Eugen Kogon, 1903-1987 ) 、ネル=ブロイニング ( O sw ald v on N ell-Br euni ng , 1 89 0-1 99 1 ) シ ュ ミ ッ ト ( Ca rl Sc hm itt, 1888-19 85 、 シ ュ パ ン ( O thm ar Sp an n, 187 8-1 95 0 ) ス ト ゥ ル ツ ォ ( Lu ig i St ur zo, 18 71 -19 59 ら 当 時 の カ ト リ ッ ク 知 識 人 ・ 政 治 家 の 錚 々 た る 面 々 が 揃 っ て い る 。 さ ら に 『 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 』 は 、 旧 ハ プス ブル ク 君 主 国 の 貴 族 ロ アン 公 爵 ( K arl A nto n Pri nz Ro ha n, 1898-19 75 が 主 導 し 、 欧 州 知 識 人 ネ ッ トワ ー ク の 一 角 を 形 成 し て い た ヨ ー ロ ッ パ 文 化 同 盟 ( E ur op äische r Ku ltur bun d/ Fé dé ra tion de s Uni ons In tel lec tu elle s ) お よ び 月 刊 誌 『 ヨ ー ロ ッ パ ・ レ ヴ ュ ー ( Europäische Revue ) 』と密に交流していた * 3 。 実際に『アーベントラント』を担った人々を見ると、ま ず 編 集 責 任 者 ( Herausgeber ) に は、 当 時 指 導 的 な 役 割 を 果たしていたカトリックの出版者、政治家、知識人が就い て い た こ と が 分 か る ( Bock 2006: 346-352 ) 。 例 え ば 出 版 関 係者では、中央党機関紙のなかで最も発行部数が多い『ケ ル ン 人 民 新 聞 ( Kölnische Volkszeitung ) 』 の 中 心 人 物 だ っ た ヘ ー バ ー ( Karl Hoeber, 1867-1942 ) と シ ュ ト ッ キ ー ( Julius Stocky, 1879-1952 ) が い た。 ま た、 中 央 党 左 派 に 属 し、 ベ ル リ ン の 日 刊 紙『ゲ ル マ ニ ア ( Germania. Zeitung für das Deutsche Volk ) 』 の 編 集 長 を (党 内 右 派 の パ ー ペ ン が 一 九 二 七 年 に 同 紙 の 実 権 を 握 る ま で) 務 め て い た キ ュ ン ツァー ( Richard Kuenzer, 1875-1945 ) も『アーベントラン ト』の編集責任者に名を連ねている。キュンツァーは、カ 問題は、この「アーベントラント」が政治理念やスロー ガンに転じたときである。この場合「アーベントラント」 は、 単 な る 地 理 的 表 象 で は な く、 「西 洋」 共 通 の 文 化 的 な 紐帯に基づいたヨーロッパ諸国民・諸民族の連帯を説く概 念として機能する。この政治化の端緒は一九世紀にある。 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 は、 フ ラ ン ス 革 命 の 理 念 に 対 抗 す る ものとして、メッテルニヒ時代に保守主義者やロマン主義 者 た ち の あ い だ で 流 通 し た ( Schildt 1999: 24 ) 。 こ う し て 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 は、 と く に 保 守 派 の ヨ ー ロ ッ パ 主 義 者の政治的語彙として定着していく。 そして、この概念を人口に膾炙させたのは、第一次世界 大戦が終結した一九一八年に第一巻が出版され大ブームと な っ た シ ュ ペ ン グ ラ ー ( Oswald Spengler, 1880-1936 ) の 『西洋の没落 ( Der Untergang des Abendlandes ) 』である。 『西 洋 の 没 落』 は 衒 学 的 な 歴 史 哲 学 お よ び 比 較 文 明 論 で あ り、西洋世界の「没落」をストレートに論じたものではな い。それでもこの本をベストセラーとしたのは、何よりも 「ヨ ー ロ ッ パ の 自 殺」 (教 皇 ベ ネ デ ィ ク ト 一 五 世) と 評 さ れ た第一次世界大戦の衝撃と、それを待ち受けていたかのよ うな強烈なタイトルである。シュペングラー自身の言によ る と、 『西 洋 の 没 落』 と い う タ イ ト ル は 大 戦 前 に 決 ま っ て いた。しかし、彼の意図を超えて、世界大戦の終結ととも に「西洋の没落」というフレーズは独り歩きし、多くの人 び と の 世 界 認 識 を 規 定 し た。 そ し て、 「西 洋 の 没 落」 を 嘆 く 人 た ち の あ い だ で、 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 は、 大 戦 に よって破壊されてしまったヨーロッパの全一性を取り戻す ための一つのシンボルとなったのである。 こうして「アーベントラント」は「政治的な闘争概念」 ( Faber 2002 ) と な っ た。 こ の 概 念 は、 と り わ け カ ト リ ッ ク層に持て囃されることとなる。それにはいくつか理由が あるが、とくにドイツのカトリックにとっては、敗戦と帝 政の瓦解が、プロイセン=プロテスタントを中心としたド イ ツ 帝 国 の 社 会・ 秩 序 モ デ ル の 崩 壊 と 認 識 さ れ た こ と が ある * 2 。そして、戦後も長く占領下にあったラインラントの カ ト リ ッ ク 知 識 人 を 中 心 に 発 刊 さ れ、 「ヨ ー ロ ッ パ の 統 一」をアピールすることになるのが、雑誌『アーベントラ ント』である。

雑誌﹃

︵一九二五∼一九三〇年︶

大陸ヨーロッパのカトリック知識人や政治家たちの国境

(3)

141 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 140 また二代目主筆のベッカー ( Werner Becker, 1904-81 ) は、 カール・シュミットの指導を受けた法学博士であり、三代 目 に し て 最 後 の 主 筆 ク ラ イ ン ( Karl Klein ) は、 カ ト リ ッ ク の 学 生 サ ー ク ル で あ る「ゲ レ ス・ サ ー ク ル ( Görres-Ring ) 」 に 活 動 基 盤 を 有 し、 攻 撃 的 な 政 治 的 カ ト リ シ ズ ム を展開した。概して主筆陣は、編集責任者たちよりも攻撃 的で、同時代の「保守革命」と呼ばれる人々に近い思想の 持ち主であったといえよう ( Bock 2006: 353f. ) 。 多種多様な寄稿者や、カトリック諸政党・諸団体の名士 を 集 め た 編 集 陣 を 一 瞥 す れ ば 分 か る よ う に、 『ア ー ベ ン ト ラント』は、特定の政治的立場を表明する雑誌とはいえな かった。ライン中央党に近い人が相対的に多いものの、政 党政治的な議論はほとんど『アーベントラント』では展開 されていない。カトリックの個別の利害集団を代表した他 の カ ト リ ッ ク 系 メ デ ィ ア と は 異 な り、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』は、カトリックという緩やかな紐帯をもとにした、さ まざまな意見のプラットフォームの形成を志向したといっ てよいだろう。 政 治 関 連 の 記 事 と し て は、 ド イ ツ の 国 制 を め ぐ る も の や、ヨーロッパ政策・国際連盟政策に関するものが多く、 日常政治を論じたものは少ない。とくに初期においては、 き わ め て 抽 象 的 な 論 説 が 多 い (時 代 が 下 る と、 独 墺 合 邦 (ア ン シ ュ ル ス) や、 教 育 政 策、 社 会 政 策 な ど、 個 別 問 題 に 関 す る 論 説 が 多 く な る が) 。 ま た と く に 目 立 つ の は、 ド イツ以外のヨーロッパ諸国の政治、社会、文化に関するレ ポートである。実際、外国からの寄稿が実に多い。 このように、雑誌『アーベントラント』を党派的なスペ クトルのなかに位置づけるのは難しい。とはいえ、大きな 目 的 と 基 調 は 明 確 で あ る。 こ の 点 は、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』のよき理解者ロアンが、自身の雑誌『ヨーロッパ・レ ヴュー』で次のように簡潔に纏めている。 「 ド イ ツ ・ カ ト リ ッ ク の 生 命 線 は 二 つ の 目 標 を 指 し 示 し て い る 。 こ の 二 つ は 、 並 ん で い るの で は な く 、 連 続 し て い る 、 あ る いは 入 り 混 じ っ て い る と い っ た 方 が 良 い か も し れ な い 。 つ ま り 、 ド イ ツ の 統 一 と ヨ ー ロ ッ パ の 統 一 、 民 族 共 同 体 ( Vo lk sg emei nsc ha ft ) と ア ー ベ ン ト ラ ン ト ま た は 統 一 ヨ ー ロ ッ パ ( ge eini gte s Eur op a ) で あ る 。 こ の 課 題 に 、[ 一 九 二 五 年 ] 一 〇 月 一 日 に 創 刊号 が 出 版 さ れ た 『 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 』 は 取 り 組 ん で い る 。『 ヨ ー ロ ッ パ ・ レ ヴ ュ ー 』 は こ れ を 心 か ら 歓 迎 す る」 ( Rohan 1925: 140f. ) 。 トリック政党の国際ネットワークであるSIPDICのド イ ツ 代 表 団 の 一 人 で あ り、 「ヨ ー ロ ッ パ 合 衆 国」 の 唱 道 者 だった (板橋 二〇一三:七九) 。 政 治 家 で は、 オ ー ス ト リ ア 首 相 ザ イ ペ ル ( Ignaz Seipel, 1876-1932 、 首 相 在 任 一 九 二 二 年 五 月 〜 二 四 年 一 一 月、 二 六 年 一 〇 月 〜 二 九 年 五 月) や、 レ ル ヒ ェ ン フ ェ ル ト 伯 ( Hugo Graf von Lerchenfeld-Köfering, 1871-1944 ) がいる。周知の よ う に ザ イ ペ ル は、 高 位 聖 職 者・ 神 学 教 授 で あ る と 同 時 に、一九二〇年代にオーストリア・キリスト教社会党の総 裁を務めた大政治家である。首相在任時には国際連盟に忠 実な外交政策をとりつつ、オーストリアの経済再建に努め た。また、元バイエルン首相のレルヒェンフェルトは、一 九二六年七月にオーストリア駐在ドイツ公使に就任し、独 墺関係の強化に尽力した人物である。このオーストリアと バイエルンの大物に加え、ライン中央党の重要人物ホリオ ン ( Johannes Horion, 1876-1933 ) とハーマッハー ( Wilhelm Hamacher, 1883-1951 ) も編集責任者を務めていた。 さらに『アーベントラント』の編集責任者には学者・知 識 人 も い た が、 彼 ら は 概 し て カ ト リ ッ ク 左 派 に 位 置 す る 人々だった。例えば、フライブルクなどで教授を務めた社 会 倫 理 学 者 ブ リ ー フ ス ( Götz Briefs, 1889-1974 ) は 労 働 者 の「疎外」を研究していたし、また同様にケルン大学の社 会 倫 理 学 者 ブ ラ ウ ア ー ( Theodor Brauer, 1880-1942 ) は 「連 帯 主 義 的 な」 労 働 組 合 を 唱 え、 ヴ ァ イ マ ル 共 和 国 末 期 にケーニヒスヴィンターのキリスト教系労組の教育組織を 指 導 し た 人 物 で あ っ た。 他 に も、 カ ト リ ッ ク・ ア カ デ ミ カ ー 連 盟 の 創 設 者 ミ ュ ン ヒ ( Franz Xaver Münch, 1883-1940 ) や、 ミ ュ ン ヘ ン 大 学 の 法 史 学 者 で あ り、 ヴ ァ イ マ ル 憲 法 の 起 草 に も 関 わ っ た バ イ エ ル レ ( Konrad Beyerle, 1872-1933 ) 、 高 名 な カ ト リ ッ ク 思 想 家 デ ン プ フ ( Alois Dempf, 1891-1972 ) が編集責任者に名を連ねている。 雑 誌 編 集 の 日 常 的 業 務 を 司 る 主 筆 ( Schriftleiter ) に も 目を向けてみよう。編集責任者がカトリック系諸組織の名 士をバランスよく集めたものだった一方、主筆には若くア グレッシブな知識人が就いた。初代主筆であるオーストリ ア の シ ュ ラ イ フ ォ ー グ ル ( Friedrich Schreyvogl, 1899-1976 ) は、 ウ ィ ー ン 大 学 で 国 家 学 を 学 ん だ の ち、 文 筆 家 と して活躍しながら、ロアンの信奉者としてヨーロッパ文化 同盟の創設に加わった人物である。一九二七年にオースト リ ア の カ ト リ ッ ク 文 筆 家 連 盟 会 長 に 就 任 し た た め、 『ア ー ベントラント』の主筆からは退くが、引き続き編集責任者 には留まり、同誌でオーストリアの立場を代弁し続けた。

(4)

143 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 142 プ ラ ッ ツ は 一 九 〇 〇 年 に プ フ ァ ル ツ の ラ ン ダ ウ で ア ビ トゥーアを取得し、ヴュルツブルク大学、ミュンヘン大学 で神学などを学んだのち、一九〇五年にミュンスター大学 で言語学の学位を取得した。この時期プラッツは、いくつ か の カ ト リ ッ ク 改 革 派 の サ ー ク ル (ク ラ イ ス) に 所 属 し て い る。 例 え ば、 学 友 ア ベ レ ( Theodor Abele, 1879-1965 ) と と も に、 ヴ ュ ル ツ ブ ル ク の 神 学 者 シ ェ ル ( Hermann Schell, 1850-1906 ) を 中 心 と し た ク ラ イ ス に 属 し て い た。 また、アビトゥーアを取得した一九〇〇年に、マルク・サ ンニエ ( Marc Sangnier, 1873-1950 ) およびフランスの「シ ヨ ン ( Sillon 畝) 」 運 動 と 出 会 い、 そ の キ リ ス ト 教 民 主 主 義 と 平 和 主 義 に 感 銘 を 受 け た。 さ ら に プ ラ ッ ツ は、 カ ト リ ッ ク 社 会 運 動 の 指 導 者 ゾ ン ネ ン シ ャ イ ン ( Carl Sonnenschein, 1876-1929 ) とも接している。 こ の よ う に 二 〇 代 の 時 期 に 青 年 プ ラ ッ ツ は、 「シ ヨ ン」 運動などのカトリック左派、あるいはキリスト教民主主義 派に共感を寄せていた。しかし、一九一〇年に教皇ピウス 一〇世が「シヨン」の「近代主義」を批判して破門したと き (ア ー レ テ ィ ン 一 九 七 三: 一 八 二 ― 一 八 三) 、 プ ラ ッ ツ はそれに従った。この事件は、プラッツが「近代」を再考 するきっかけとなる。 と も あ れ 、 そ の 後 も プ ラ ッ ツ は 積 極 的 に カト リ ッ ク の 諸 運 動 に 関 わ っ て い く 。彼 の 周 り に は ブ リ ュ ー ニ ン グ や ロ ベ ー ル ・ シ ュ ー マ ン も い た 。 こ う し た 面 々 が 、 前 述 の マ リ ア ・ ラ ー ハ の 典 礼 運 動 や カ ト リ ッ ク ・ ア カ デ ミカ ー 連 盟 の 創 設 に 関 わ っ て い た の で あ る 。 ま た プ ラ ッ ツ は 文 筆 活 動 に も 勤 し み 、 ム ー ト ( Ca rl M uth , 1 86 7-194 4 ) の 『 高 地 ( H oc hla nd ) 』 に寄稿していた。第一次世界大戦が勃発すると、プラッツ は東部戦線に配置されるが、知仏派として重宝され、一九 一五年には陸軍省、一八年には外務省に戦時プロパガンダ への協力を求められている。また、戦中にプラッツは『高 地』でフランス思想の分析を次々と発表し、それらは戦後 の一九二二年に『現代フランスにおける精神の闘争』とい う大著に纏められた ( Platz 1922 ) 。 プラッツは、戦後もさまざまなカトリックのネットワー クと繋がりを保ち、そして何よりも旺盛な著述活動を展開 することで、ヴァイマル共和国の言論空間で一定の知名度 を得るに至った。また学位取得後、大戦前にはデュッセル ドルフで、大戦後にはボンで高等学校正教諭 ( Studienrat ) を務めていたプラッツは、当時気鋭のロマニストだったク ルティウス ( Ernst Robert Curtius, 1886-1956 ) の推挙によ り、一九二四年三月からボン大学のフランス精神史の嘱託 つ ま り、 「ド イ ツ の 統 一」 と「ヨ ー ロ ッ パ の 統 一」 を 不 可 分のものと捉え、両者の結合とその同時の達成を目指すこ と、 こ れ が『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 の 基 調 で あ っ た。 そ し て、この基調の設定に最も重要な役割を果たしたのが、ヘ ルマン・プラッツという人物である。

﹂思想

ボ ン 大 学 の ロ マ ニ ス ト で あ っ た ヘ ル マ ン・ プ ラ ッ ツ ( Hermann Platz, 1880-1945 ) は、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 の 編 集 責 任 者 の な か で 最 も 同 誌 に 影 響 力 を 持 っ た 人 物 で あ る。シュペングラーの著作以来「アーベントラント」概念 は流行したが、この概念をカトリックの側から、早くから ポジティヴなかたちで鋳直したのがプラッツである。また 彼は、偏狭なナショナリズムを非難し、キリスト教に基づ いたヨーロッパ諸民族の連帯、とりわけ独仏間の連帯を説 き、その文脈から相対的安定期におけるシュトレーゼマン 外交も支持した。では、いかにしてプラッツは「アーベン トラント」という概念に辿りつき、この概念に何を託した のか。まずはプラッツの人生を追ってみよう * 4 。 ヘ ル マ ン・ プ ラ ッ ツ は、 一 八 八 〇 年 一 〇 月 一 九 日、 農 家・ビール醸造業者の息子としてプファルツのオッフェン バッハに生まれた。プラッツは少年の頃から、父が購読し て い た フ ラ ン ス 語 の『メ ス 新 報 ( Courrier de Metz ) 』 に 目 を 通 し (メ ス は こ の と き ド イ ツ 帝 国 領) 、 伯 父 の 蔵 書 か ら 一 七・一八世紀のフランス文学書を借りて読み漁っていたと いう。他にもプラッツはスペイン語やイタリア語も好み、 早くから習得していた。ロマニストになるための素養は少 年時代に身につけていたといえよう。 写真1 ヘルマン・プラッツ (出所)Becker 2007: 22.

(5)

145 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 144 こうしてプラッツは、大戦後の独仏関係の改善を「スー プラナショナルな」形でめざす。その際、フランスの民主 主義的な改革派のカトリシズム運動が、当地で支配的な反 独ナショナリズムを覆すことを彼は期待した。それゆえ、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 に 寄 稿 し た プ ラ ッ ツ の 論 説 に は、 フ ラ ン ス の カ ト リ シ ズ ム に 関 す る レ ポ ー ト が 多 い (板 橋 二 〇一三:八七、注二九) 。 このようにプラッツは知仏派であり、親仏派ともいえる 人物であった。ただし、それ以上に、あくまでドイツ愛国 主義者であり、何よりもライン愛郷主義者であったことは 強調しておきたい。フランスのラインラント併合要求には 断固反対したし、フランス側からラインラント併合に協力 す る よ う 依 頼 さ れ た 際 に は、 強 く 反 発 し た ( Platz 1919 ) 。 あくまでラインは「生粋のドイツの地であり、永遠にドイ ツの地」なのであった ( Platz 1924a: 122 ) 。 そしてプラッツの「アーベントラント」思想は、まさに ラ イ ン 中 心 主 義 と 呼 ぶ べ き も の で あ る。 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』の創刊号で彼は次のように述べる。 「わ れ わ れ は、 ド イ ツ 的 な 精 神 か ら 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 ド イ ツ の 地 で 0 0 0 0 0 0 、 人文主義的・キリスト教的な生を歩み続けようとして いる。 東 0 と 北 0 からは、 恐ろしい軍隊 0 0 0 0 0 0 、逞しい男たち、 沈思黙考する人、怖いもの知らず、思い焦がれた欲望 が流れ込んだ。他方、 南 0 と 西 0 からは、本質を捉え、思 想と目的が明確で、しばしば冷酷で打算的な 人々 0 0 が到 来した。この間にわれわれは、かつて地中海の岸辺に 花開いた、到達可能で分別のある人間存在の様式を、 東 0 と 北 0 に約束した。またわれわれは、永遠のロマン主 義 の 地 で 偉 大 な 生 の 魔 力 0 0 0 0 か ら 生 じ た 生 命 力 と 想 像 力 を、 西 0 と 南 0 に 約 束 し た。 / ア ー ベ ン ト ラ ン ト の 文 化 ( abendländische Kultur ) は、 南 海 か ら 北 海 ま で、 南 西から北東まで行き渡る。 ライン川 0 0 0 0 こそ、宿命的な 中 0 心点 0 0 であり、継ぎ目、結線、精神的な転換点であり、 摂 取 や 移 行 や 継 続 が 行 わ れ る 地 な の で は な い だ ろ う か?」 ( Platz 1925: 5 ) 。 そ し て 「 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 」 は 、 ラ イ ン 川 を 中 心 に 、 ド ー ム 状 に 広 が っ て い る ( üb erwöl bt ) の で あ る ( Platz 19 24 a: 1 22 * 7 ) 。 教授 ( Honorarprofessur ) に就任した。 さ て 、 ボ ン 大 学 就 任 前 後 か ら プ ラ ッ ツ は 、「 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 」 と い う 理 念 を 著 作 活 動 の 前 面 に 押 し 出 す よ う に な る 。 例 え ば 、 そ れ ま で の 論 説 を 集 め た 著 作 の タ イ ト ル は 『 ラ イ ン と ア ー ベ ン ト ラ ン ト に つ い て 』 ( 一 九 二 四 年 ) と さ れ た し ( Pla tz 1924 b ) 同 年 に 出 版 し た パ ン フ レ ッ ト も 『 ド イ ツ 、 フ ラ ン ス 、 そ し て ア ー ベ ン ト ラ ン ト の 理 念 』 ( Pla tz 1924 a * 5 ) と い う も の だ っ た 。 つ ま り プ ラ ッ ツ は 、 一 九 二 五 年 に 『 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 』 を 発 刊 す る 以 前 か ら 、 精 力 的 に 「 ア ー ベ ン トラント」という理念を広めようとしていたのである。 以下では、些か抽象的で衒学的なプラッツの「アーベン トラント」理念を、二〇年代の諸著作をもとに再構成して いこう。

眼差

愛郷主義

まず注意したいのは、ラインラントのドイツ人というプ ラッツの立場である。ヴェルサイユ講和条約によって当時 ライン左岸地域は連合国の占領下に入り、さらにラインラ ントはフランスの併合要求に晒されていた。つまり、ライ ンラントは大戦後も独仏紛争の最前線であり、プラッツら ラインラントのドイツ人には、何よりもフランスに対して どう向き合うかが突き付けられていた。結果的にプラッツ の「アーベントラント」理念および雑誌『アーベントラン ト』は、独仏の緊張が緩和した相対的安定期に受容される ことになるが、その誕生の契機はラインラントのドイツ人 の 危 機 意 識 だ っ た の で あ る。 現 に 一 九 二 三 年 の 時 点 で プ ラッツは、 デンプフとともに 『キリスト教的西洋 ( Occidens Christianus ) 』 と い う 国 際 的 な 月 刊 誌 の 刊 行 を 計 画 し て い た ( Pöpping 2002: 101 ) 。 さて、プラッツの「アーベントラント」理念の特徴と強 みは、ラインラントのロマニストとして、他のドイツ知識 人 よ り も、 フ ラ ン ス の 歴 史 と 現 状 に (彼 な り に) 通 じ て い たことである。一九二四年に彼は次のように書いている。 「フ ラ ン ス の ナ シ ョ ナ リ ズ ム ( Nationalismus ) に 関 す る 研 究 (次 い で ド イ ツ の ナ シ ョ ナ リ ズ ム に つ い て の 研 究) は、 私 に 次 の こ と を 教 え た。 す な わ ち、 ス ー プ ラ 0 0 0 0 0 0 0 0 ナ シ ョ ナ ル な 実 体 0 0 0 0 0 0 0 0 ( übernationale Substanz ) に し っ 0 0 0 かりと繋ぎ合わされた場合にのみ、ナショナルな激情 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ( nationale Leidenschaft ) は 克 服 さ れ う る と い う こ と 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 を 0 * 6 」。

(6)

147 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 146

Ordnungs- und Formlosigkeit

) 」時代と規定する。 「形式」 を 回 復 す る に は、 社 会 を 有 機 的 に 繋 ぐ (あ る い は 繋 ぎ 直 す) し か な い。 例 え ば、 中 央 党 の 依 頼 で 一 九 二 五 年 八 月 一 一日の憲法記念日にライヒ大統領、政府、議会の前で演説 す る 機 会 を 得 た が、 そ こ で 開 陳 さ れ た の は、 プ ラ ッ ツ の ヴァイマル憲法への熱烈な支持とともに、有機体論的な世 界 像 で あ っ た。 「各 構 成 要 素 ( Glieder ) が 全 体 に 奉 仕 す る とき、ドイツは再び花開き、新たな日を迎えることができ るでしょう。そして、ヨーロッパや世界も、精神的な全体 として、独立した実体の担い手として[……]認識された ならば、再び形式を取り戻すでしょう * 9 」。 ま た プ ラ ッ ツ は、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 創 刊 号 の 巻 頭 言 でも次のように述べている。 「本 誌 は、 散 り 散 り に な っ た も の を 再 び 集 め、 道 を 踏 み外したものを正しき方向に戻し、われわれがナショ ナルな孤立の時代において失った 全体性への限りなき 0 0 0 0 0 0 0 0 0 愛 0 によって、あらゆるものを統一性へと結びつけるだ ろう。われわれは確信している。生き生きと過去を振 り返る精神の試みと、未来への見通しによって、まさ にドイツ民族において、時代精神が押しのけた最良の 力が、全体の至福のために再び発揮されることを。そ して、ドイツの 諸 シュテメ 族 、 諸 シ ュ テ ン デ 身分 、 民 フォルク 族 、 国 シュタート 家 が、新たな 秩 序 ラ イ ヒ ( Ordnungsreich ) へ と 有 機 的 に 組 み 合 わ されることによって、新しい力と、個々の生の新たな 充足を見いだすことを * 10 」。 そして、プラッツにおいては、秩序を回復し形式を付与 できるのは、カトリシズム以外になかった * 11 。 「ヨ ー ロ ッ パ の 運 命 が 描 か れ て い る 教 会 の 伝 統 と い う 枠組みにおいて、カトリックが、アーベントラントの 実体を意識するのは比較的容易い。カトリックはこん に ち、 こ の 生 の 統 一 体 ( Lebenseinheit ) の 唯 一 の 有 機 的 な 担 い 手 で あ る。 [……] 自 ら の 力 と 責 任 で こ の 実 体を再び得るのは、プロテスタントにはより難しいだ ろう。自由思想家にはもっとも困難である * 12 」。 そして、とりわけ敗戦国である「ドイツは、工業家や金 融業者ではなく、カトリックを通して、精神世界の全体性 と有機的に繋がっている」のであり、ドイツのカトリック は 「 特 別 な 課 題 」 を 負 っ て い る の で あ る ( Platz 19 24 a: 1 38

宗教

有機的

結合

﹂理念

プ ラ ッ ツ に よ る と 「 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 」 は 「 知 覚 可 能 な 」「 現 実 」 で あ り 、「 歴 史 的 な 力 」 で あ り 、「 理 念 0 0 ( Id ee ) 」 で あ る 。 こ の 理 念 は 、「 地 域 的 に は 0 0 0 0 0 ( lan dsch aft lich ) カ ー 0 0 ル 大 帝 0 0 0 に よ る 生 存 圏 ( Leb ensr aum ) と 結 び つ い て い る 」 と さ れ た 。「 ロ シ ア 0 0 0 は 、 ピ ョ ー ト ル 大 帝 や そ の 後 継 者 た ち に よ る 西 欧 化 の 試 み ( V erwe st lichun gsv ersuche ) にも か か わ ら ず 、 決 し て そ こ に 属 し て は い な い 」 一 方 で 、「 イ ギ リ 0 0 0 ス 0 は 、 ア ー ベ ン トラ ン ト を 越 え て 、目 的 に 基 づ く 繋 が り の な か で 広 が り 続 け て い る 」。 つ ま り 、「 西 欧 化 」 に 至 ら な い ロ シ ア と 、広 大 な 植 民 地 を 持 つ 海 洋 帝 国 イ ギ リ ス は 「 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 」 か ら 除 外 さ れ て い る ( Platz 19 24 a: 12 2f. ) また、 「 内容的には 0 0 0 0 0 ( inhaltlich ) この理念は、 古典古代 0 0 0 0 、 キリスト教世界 0 0 0 0 0 0 0 、そして ロマンス的=ゲルマン的な諸民族 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の実生活 0 0 0 0 のなかから生まれた」という。プラッツの長い説 明 を 煎 じ 詰 め る と、 「宗 教 と 生 の 有 機 的 な 結 び つ き」 が 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 理 念 を 育 ん だ の で あ る ( Platz 1924a: 123 ) 。 しかし、この宗教と生の有機的な結合は現代では失われ た。 「生 の 世 俗 化 と 物 象 化」 が 生 じ た の で あ る。 プ ラ ッ ツ はその帰結をさまざまな領域で観察しているが、ここでは 「政 治」 の 領 域 に つ い て 確 認 し て お こ う。 プ ラ ッ ツ に よ る と、 「宗 教 と 生 の 繋 が り の 粉 砕」 は「宗 教 と 政 治 の 繋 が り の 粉 砕」 も 意 味 し た。 こ れ に 伴 い、 「政 治 の 領 域 に お い て は、国家の利害、ネイションの価値、人種の優先が、一方 的 に 前 面 に 押 し 出 さ れ、 そ れ に よ り、 全 体 ( das Ganze ) と 個 ( das Einzelne ) を 不 断 に 支 え る べ き 平 和 政 策 ( Friedenspolitik ) は い っ そ う 困 難 に な っ て し ま っ た」 。 世 俗的な権力国家とナショナリズムの台頭により、本来なら ば「アーベントラント」という「全体」に対する「部分」 で あ る べ き「国 民 国 家 ( Nationalstaaten ) 」 は、 権 力 政 策 とアウタルキーを追求し、相争うようになった。独仏関係 に つ い て も、 「リ シ ュ リ ュ ー と ビ ス マ ル ク の あ い だ」 の 時 代 に、 「 ナ シ ョ ナ ル な エ ゴ イ ズ ム 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 」 と「 ナ シ ョ ナ ル な メ シ 0 0 0 0 0 0 0 0 ア ニ ズ ム 0 0 0 0 」 が 放 た れ た。 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト の 統 一 性 と 共 同体は救いようもなく破壊されてしまった」のである。そ し て、 「こ の 歪 み と 硬 直 を 決 定 的 に 示 す の が、 ラ イ ン の 現 0 0 0 0 0 状 0 」であった ( Platz 1924a: 123-126 * 8 ) 。 プ ラ ッ ツ は、 か か る 現 代 を「秩 序 と 形 式 を 喪 失 し た

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149 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 148 体に関連付けること、個を全体のなかで動的に想定す る こ と、 [フ ェ ル キ ッ シ ュ に は] ま さ に こ れ が 欠 け て いるのだ! * 14 」 こうしてプラッツは、反近代的なドイツ愛国主義者であ りながらも、フェルキッシュなナショナリズムは拒否する こととなった。

政権

プラッツは一九三三年のナチ党の権力掌握後もしばらく は無事だったが、ナチは彼を見逃さなかった。一九三四年 一二月に作成されたナチの大管区指導部の文書にはこうあ る。 「ボ ン 大 学 の な か で は、 プ ラ ッ ツ 教 授 が 一 一 月 体 制 [ヴ ァ イ マ ル 共 和 国 の こ と] の 典 型 的 な 代 表 者 の 一 人 である。ファナティックな政治的カトリックとして、 彼は現在でも、ザール地域やルクセンブルクの政治的 カトリシズムのあいだで人望を集めている。そのうえ 彼は、きわめて遺憾なかたちで熱烈な親フランス政策 を長きにわたって主張しており、当然ながらフランス の多くのサークルで格別の共感を呼んでいる。その一 方で、われわれの見るところ、彼はいかなる国民社会 主義の思想も受け入れていない。ボンで彼は、いみじ く も「共 和 国 広 プ ラ ッ ツ 場 ( Platz der Republik ) 」 と い う 渾 名 を つ け ら れ て い る。 ボ ン 大 学 か ら 彼 を 解 雇 す る こ と は、われわれの運動の立場からは絶対に必要である」 ( Hausmann 1993: 69 ) 。 こ う し て プ ラ ッ ツ は 、 一 九 三 五 年 三 月 に ボ ン 大 学 の 職 を 解 か れ てし ま う 。 こ の 措 置 に 対 し プ ラ ッ ツは 、 当 初 は 沈 黙 し て い た が 、 子 ど も た ち ( 当 時 二 〇 代 の 四 人 の 息 子 と 一 人 の 娘 がい た ) の 名 誉 の た め 、 三 六 年 二 月 二 〇 日 に 正 式 に 解 雇 の撤 回 を 求 め る 文 書 を 提 出 し た 。 そ の 文 書 で は 、 世 界 大 戦 へ の 貢 献 を は じ め 、 プ ラ ッ ツ のド イ ツ 愛 国 主 義 と ラ イ ン 愛 郷 主 義 が 強 調 さ れ て い た が 、 ナ チ ス へ の 阿 り は な か っ た * 15 。 結局、復職は叶わなかった。その後プラッツは、パスカル やボードレールなどについて、細々と文筆活動を続けた。 またニーチェやH・S・チェンバレンなど時局に沿うよう な対象も扱っているが、そこでも決してナチ的な解釈が展 開されていたわけではない。 こ う し て、 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト 思 想 の 目 的」 は 次 の よ う に 定 式 化 さ れ る。 つ ま り、 「教 会 権 力 と 世 俗 権 力 の 理 性 的 な協働を通じて、各構成要素が自律的かつ連帯的に存在で き、キリスト教的な平和を獲得し保障するような、一つの ラ イ ヒ ( ein Reich ) を 打 ち 立 て る こ と」 で あ る ( Platz 1924a: 140 ) 。

近代批判

批判

かかる有機的な「アーベントラント」思想と表裏一体の も の と し て、 プ ラ ッ ツ の 著 作 に は 激 し い「近 代 ( Moderne ) 」 批 判 が 見 ら れ る。 プ ラ ッ ツ の 近 代 批 判 は、 一 九二四年に出版された論文集『大都市と人間存在』で最も 鮮明に表れている ( Platz 1924c ) 。そこで展開されるのは、 当時のカトリックによるお馴染みの近代批判である。つま り、近代化によって、世俗化および個人主義化が促され、 人間は孤立し、価値も崩壊し、現代社会は精神的にも政治 的にも貧困になった、という具合である。 た だ 、 こ こ で 着 目 し た い の が 、 プ ラ ッ ツ が か か る 近 代 批 判 を 展 開 す る 際 に 参 照 し た の が ラ ガ ル ド ( Pa ul de La ga rde , 182 7-9 1 ) だ っ た と い う こ と で あ る 。 ラ ガ ル ド は フ ェ ル キ ッ シ ュ 思 想 の 祖 の 一 人 で あ り 、 一 部 の 研 究 で は ナ チの 源 流 と 位 置 づ け ら れ る 人 物 である ( ス タ ー ン 一 九 八 八 、 モ ッ セ 一 九 九 八 ) 。 ラ ガ ル ド は 、 ド イ ツ に 蔓 延 す る 「 非 精 神 性 ( U ng eist ig ke it ) の 原 因 を 「 プ ロ イ セ ン 的 = ド イ ツ 的 な 様 式 」 の 普 及 に 見 た 。 ラ ガ ル ド に と っ て 、 そ れ は 「 人 造 的 ( Hom un kul itä t ) か つ 人 工 的 な も の ( K un st pr odu kt ) 」 で あ っ た。プラッツは、こうしたラガルドの同時代ドイツに対す る診断を評価したのである * 13 。 しかし、プラッツはラガルドを肯定したわけではない。 ラ ガ ル ド は、 現 代 ド イ ツ の 病 を「ゲ ル マ ン 的 な」 「魂 の 文 化 ( Seelenkultur ) 」 に 還 る こ と よ っ て 克 服 し よ う と し た。 しかしかかる態度は、プラッツから見ると「古ゲルマンへ の ロ マ ン 主 義 的 な 逃 避」 (こ れ が 彼 の ラ ガ ル ド 論 の タ イ ト ル で も あ る) に 過 ぎ な か っ た。 ま た、 プ ラ ッ ツ の「ス ー プ ラ ナショナルな」有機的思考にとって、フェルキッシュ思想 は 狭 隘 で あ っ た。 プ ラ ッ ツ は、 戦 間 期 ド イ ツ に 普 及 し た フェルキッシュ思想・運動に対して不満を述べている。 「本 質 や 権 力 か ら 逃 避 し ま い と い う 意 志 を、 最 も 強 力 に、 し か し 最 も 近 視 眼 的 で 最 も 盲 目 に 有 し て い る の が、 フ ェ ル キ ッ シ ュ 0 0 0 0 0 0 0 で あ る。 [……] し か し、 個 を 全

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151 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 150 た り 板 橋(二 〇 一 一) を 参 照) 、「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 は、 冷戦を背景に「西側結合」を進めていく西ドイツ政府の外 交政策を支える役割を果たすのであり、その理由を考える 際には、戦間期にまで立ち戻る必要があるということがで きる。 ◉注 *1 最 も 重 要 な 研 究 と し て Schildt ( 1999 )、 Conze ( 2005 )。 邦 語 で は 板 橋(二 〇 一 一) 。 ア ー ベ ン ト ラ ン ト 運 動 も 含 む、 西 欧 の 保 守 派 の ト ラ ン ス ナ シ ョ ナ ル な ネ ッ ト ワ ー ク に 関 す る 最 新 の 研 究 と し て Großmann ( 2014 )。 第 二 次 世 界 大 戦 以 前 の「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 言 説 に つ い て は Pöpping ( 2002 ) が 包括的である。 *2 ド イ ツ・ プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム と 第 二 帝 政 の 結 び つ き、 お よ び 帝 政 崩 壊 と プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 対 応 に つ い て は、 深井(二〇一二)を参照。 *3 ヨ ー ロ ッ パ 文 化 同 盟 の 目 的 は、 ロ ア ン に よ る と「高 次 の エ リ ー ト・ レ ベ ル で、 ヨ ー ロ ッ パ 意 識 の 担 い 手 と し て の 精 神 的・ 社 会 的 な 上 流 階 級 の 形 成 を 支 援 す る こ と」 と あ り、 最 盛 期 に は 一 四 ヵ 国 に ま た が る 活 動 を 見 せ て い た( Rohan 1954: 56 )。 ロ ア ン と ヨ ー ロ ッ パ 文 化 同 盟 に つ い て は、 Müller ( 2005 ) に 詳 し い。 中 東 欧 史 の 視 点 か ら ロ ア ン を 論 じ た も の としては福田(二〇一四)がある。 *4 プ ラ ッ ツ の 経 歴 に つ い て は、 Becker ( 2006, 2007 )、 Berning ( 1980 )を参照。 *5 本 書 は、 ラ イ ン 問 題 に 関 す る ラ イ ン 中 央 党 の パ ン フ レ ッ ト の 一 冊 と し て 出 版 さ れ た。 本 書 を 引 用 す る 場 合 は、 バ ー ニ ングが一九八〇年に編纂した版のページ数を記す。 *6 Von politischer Not und von abendländischer Idee,  in: Platz ( 1924b: 59-64, here 61 ). 傍点は原文のゲシュペルト。以 下、 引 用 文 中 の 傍 点 は 原 文 の 強 調(ゲ シ ュ ペ ル ト、 ま た は イ タリック)である。 *7 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 や「ヨ ー ロ ッ パ」 を、 複 数 の ネ イ シ ョ ン の 柱 に 支 え ら れ た 円 屋 根・ ド ー ム( Kuppelbau ) に 喩 え る の は、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 周 辺 の 人 々 の 表 現 に よ く 見 ら れ る。 例 え ば、 Karl Anton Prinz Rohan, Die Utopie des Pazifismus ( 1925 ), in: Rohan ( 1930: 22-24, here 23 )。 *8 思 想 史 的 に は、 フ ィ ヒ テ の 選 民 思 想 か ら ト ラ イ チ ュ ケ の 権 力 国 家 崇 拝 に 至 る ド イ ツ・ ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 歴 史 が 批 判 さ れ る(た だ し、 フ ィ ヒ テ の 思 想 に は 普 遍 主 義 的 な 側 面 が あ っ た こ と も 指 摘 さ れ て い る) 。 こ の 点 で は、 カ ト リ ッ ク に よ る 通 俗 的 な プ ロ イ セ ン 的 小 ド イ ツ・ ナ シ ョ ナ リ ズ ム 批 判 と い え る の だ が、 プ ラ ッ ツ の 独 自 性 は、 フ ィ ヒ テ の ナ シ ョ ナ リ ズ ム の「形 式」 と「手 法」 が、 フ ラ ン ス の ナ シ ョ ナ リ ス ト た ち、 例 え ば レ オ ン・ ド ー デ( Léon Daudet, 1867-1942 ) や シ ャ ル ル・モーラス( Charles Maurras, 1868-1952 )らアクション・ フ ラ ン セ ー ズ の 面 々 に も 受 け 継 が れ て い る と 論 じ る と こ ろ で ある。 Platz ( 1924a: 127-137 )を参照。 *9 Verfassungsrede. Rede am 11. August 1925 zum Tag プ ラ ッ ツ は、 敗 戦 後 の 一 九 四 五 年 五 月 二 八 日、 ロ ベ ー ル・ シ ュ ー マ ン の 推 挙 で ノ ル ト ラ イ ン 州 の 文 化 部 長 (の ち の ノ ル ト ラ イ ン・ ヴ ェ ス ト フ ァ ー レ ン 州 の 文 部 大 臣 に あ た る) に 任 命 さ れ る が ( Becker 2006: 258 ) 、 具 体 的 な 活 躍 を することなく同年一二月四日にこの世を去る。死後出版さ れた回顧録で、プラッツは「わたしは常にドイツ人である と 同 時 に 西 洋 人 ( Abendländer ) と し て 行 動 し た」 と 記 し ている ( Platz 1948: 55 ) 。

プ ラ ッ ツ に 代 表 さ れ る ヴ ァ イ マ ル 共 和 国 期 ド イ ツ の 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 は、 何 よ り も 反 近 代 の 理 念 で あ っ た。 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 猖 獗 な ど 諸 悪 の 源 を「近 代」 に 求 め、全一なるキリスト教的共同体としてヨーロッパを再生 させようという願いが「アーベントラント」には込められ ている。もちろん、こうした「アーベントラント」理念の 反近代性を批判することは容易い。また、プラッツらは非 ナ チ を 貫 い た も の の、 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 周 辺 の 少 な か ら ぬ 数 が ナ チ に 流 れ た。 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 は「ラ イ ヒ」理念を鎹にして、ナチスの「新秩序」と結びつく可能 性も含んでいたのである * 16 。 他方で、こうした反近代的な理念が、ヨーロッパ統合を 準備し、また下支えしたことも強調しておきたい。第二次 世 界 大 戦 後、 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 理 念 は、 ド イ ツ 連 邦 共 和国で積極的に受容されていく。ヴァイマル期の「アーベ ントラント」理念が備えていたいくつかの特徴、例えばナ ショナリズム批判や、宗教的・文化的なトーンは、ナチズ ムに倦んだドイツ人に心地よい響きを持った。 また、 「アー ベ ン ト ラ ン ト」 の ラ イ ン 中 心 主 義 的・ 親 フ ラ ン ス 的 特 徴 は、他のドイツ語のヨーロッパ秩序概念よりも、第二次大 戦 後 の 分 断 欧 州 の 時 代 に 適 合 的 だ っ た の だ ろ う (対 照 的 な 例 と し て、 戦 後 に ナ チ の イ デ オ ロ ギ ー と 重 ね 合 わ せ ら れ、 東 西 分 断 の な か 時 代 適 合 性 も 失 っ た「中 欧( Mitteleuropa )」 概 念 が あ る。 「中 欧 の 復 活」 は 一 九 八 〇 年 代 を 待 た ね ば な ら な い。 板 橋(二 〇 一 二 a) を 参 照) 。 さ ら に い え ば、 本 稿 で 見 て き た よ う に、 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 理 念 は き わ め て 抽 象的で具体性を欠くものだったが、その抽象さゆえに、機 能主義的・経済的に進んだ実際のヨーロッパ統合を観念的 に 補 完 で き た の か も し れ な い ( Müller & Plichta 1999: 19 ) 。 と も あ れ、 戦 後 の 分 析 は 別 稿 に 譲 り た い が (さ し あ

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153 ヴァイマル期ドイツにおける「西洋」概念の政治化 152 ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』 岩波書店。 福 田 宏(二 〇 一 四) 「ポ ス ト・ ハ プ ス ブ ル ク 期 に お け る 国 民 国 家 と 広 域 論」 池 田 嘉 郎 編『第 一 次 世 界 大 戦 と 帝 国 の 遺 産』 山 川出版社、一〇六―一三四頁。 モ ッ セ 、 ジョ ー ジ ・ L ( 一 九 九 八 )『 フ ェ ル キ ッ シ ュ革 命

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Februar 1936, UAB, Personalakte Platz,

 in: Hausmann ( 1993: Dok. XXII, S. 172f. ). * 16 『ア ー ベ ン ト ラ ン ト』 周 辺 の 人 々 が ナ チ ズ ム に と っ た 態 度 は さ ま ざ ま で あ る。 編 集 責 任 者 の な か で は、 プ ラ ッ ツ に 加 え、 デ ン プ フ も ナ チ 体 制 に 睨 ま れ、 教 職 を 妨 害 さ れ た。 ま た、 ブ リ ー フ ス と ブ ラ ウ ア ー は ナ チ の 政 権 掌 握 後 す ぐ に 亡 命 せ ざ る を え な か っ た。 キ ュ ン ツ ァ ー は レ ジ ス タ ン ス に 参 加 し、 一 九 四 四 年 七 月 二 〇 日 の ヒ ト ラ ー 暗 殺 未 遂 事 件 に 関 与 し た と し て 親 衛 隊 に 殺 害 さ れ て い る。 他 方、 カ ト リ ッ ク・ ア カ デ ミ カ ー 連 盟 の ミ ュ ン ヒ の よ う に ナ チ ス と 協 働 を 図 る 者 も い た。 主 筆 だ っ た シ ュ ラ イ フ ォ ー グ ル は、 一 九 三 四 年 か ら(非 合 法 だ っ た) オ ー ス ト リ ア・ ナ チ 党 に 加 わ っ て い る。 「ア ー ベ ン ト ラ ン ト」 と ナ チ ズ ム の 問 題 は、 ナ チ ズ ム と 近 代 の 問 題 にも関連する大きなテーマであり、別稿に譲りたい。 ◉参考文献 ア ー レ テ ィ ン、 K・ v(一 九 七 三) 『カ ト リ シ ズ ム

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参照

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