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時の流れと人の動きと
『帰郷』の場合
百田 ネ 岡 忠 雄 序 先日,日本バーディ協会年次大会に出て,「キャスターブリッジとその周辺 一時の流れと人の動きと』と題されるシンポジァムが催され,私もバネリス トの一員として,それに加わった。論題の主旨は,バーディの所謂“Wessex”, かなめ そしてその要とも言えるCasterbridgeを中心に,その周辺に位置する,例え ば,Weatherbury,或は, Egdon Heathとは実際にはどんな場所であったの か,また,そこで展開された人間ドラマは,どのような時代を背景としていた のかをもう一度考え直してみようというものであった。よく知られているよう に,バーディは自分の作品の舞台として,彼の生まれ故郷であるDorset州一 帯にその範囲を限定した。従って,一,二の作品を除いて,彼が描く人間ドラ マはいずれも彼の言う ‘‘ウェセックス”の中で展開している。また彼は,時 代,或は,時間の流れについても敏感な作家であったから,その多くの小説に 於て,当時,即ち,1840年代から1870年代にかけてのイギリス農村部に於ける 社会的・経済的変動,そしてその渦中にあって抗し難い歴史の流れに翻弄され る人間の悲劇をたびたび描いている。その意味で,もう一度ウェセックスとは どういう所だったのか,あの時代とはどんな時代だったのか,そして,それら はHenchard(『キャスターブリッジの町長』)やBathsheba「(狂乱の群れを離 れて』)やEustacia(「帰郷』)のドラマとどう関わっていたのかを考えてみる ことは,大いに意義のあることであった。参加者の一人による詳細な地誌学的 研究,特に,当時の古い地図その他の文献を参照した上でのキャスターブリッ 1) 日本バーディ協会第30回記念大会(時:1987年10月31日 於=日本大学会館)2 彦根論叢 第248号 ジ,実名Dorchesterについての報告は,現実の場所としてのキャスターブリ ッジに関する多くの事実を提供してくれるものとして貴重なものであったし, また,もう一人の参加者による『町長』についての報告も,この作品が設定さ れた1840年代当時の,歴史的背景,経済的・社会的状況,さらにはその頃の民 衆文化に関する詳細な資料をもとに,これまた,作品の背景をなす時代の輪郭 を明確に浮かび上がらせるものとして,極めて示唆に富むものであった。 問題は,このテーマの下で『帰郷』を担当した私であった。私はそれぞれの パネリストの報告に感心するとともに,いささか不安になってきた。その不安 はどうやらシンポジアムの主題『時の流れと人の動きと』に対する私のアプロ ーチそのものに関わっているように思われた。以下は,その時の私の発表に, 論文の体裁に必要な加筆,補筆を加えたものであるが,私の基本的な主張その ものには手を加えていない。その中で分かってきたことは,時の流れ,人の動 きという観点に照らしてみた場合,バーディの作品の中でも,『帰郷』が極め て特異な性格を持った小説であること,そして,その特異性は同時にartifact としての小説の中での時間及び空間についての問題,即ち,現実の時間と虚構 の時間,現実の空間と虚構の空間のそれぞれの関係についてもう一度考えてみ る機会を与えてくれることになった。結果としては,文学研究に於ける二つの 基本的なアプローチの対立という形となった。しかし,これは,どちらの方法 を取るべきかというような二者択一の問題ではなくて,むしろ,相互補完的な ものだと考えた方がいいように思う。従って,以下は決して文学解釈のあり方 を論じたものではない。むしろ,『帰郷』を全く新しい角度から見直した上で の一つの解釈と受け取ってもらいたい。 1 『帰郷』という作品の立場からは,“時の流れと人の動きと”という論題は 相当に厄介なテーマである。その訳は後で説明するとして,とりあえず“時の 流れ”という観点からあの作品を振り返ってみたい。一口に“時の流れ”と言 っても,例えば『緑樹の陰で』,『狂乱の群れを離れて』のような作品での時間
時の流れと人の動きと一『帰郷』の場合 3 が持つ意味と,『町長』や『テス』の場合とはひとくくりにしては論じられな い,各々の作品のテーマなり主題なりと,時代あるいは時間の観念との関係は, そのつど検証されるべきものではないかと私は考えている。もっとはっきり言 えば,時の流れが作品の中で重要な役割を担っているものと,比較的そうでは ないものとがある筈で,その辺の区別を無視して,全ての作品に所謂‘‘バーデ ィの時間”として同質のものを見いだそうとするのは無理ではないかと考えて いるのである。これは時間に限らず,空間,バーディの創作になるウェセック スについても言えることで,『帰郷』の中のエグドン・ピースが格好の例である。 確かに「帰郷』に於けるエグドン・ピースは,そのprimitiveな様相といい, それを包む闇の深さといい,極めて異様な,なにかしら底知れぬ深淵を秘めた 場所として読む者を圧倒する。ところが,この同じエグドン・ピースが他の作 品,例えば『テス』などに現れると,全くそのような空間としては扱われては いない。むしろ,何の変哲もないただの荒野であり,テスが,その悲しく苦しい Pi19rimageの時々に遠望する風景の一つに過ぎない。 MarlottやTalbothays, さらには,Flintcomb−Ashなどの場所が,テスの人間ドラマ、と不可分に結び ついているだけ1こ,このようなエグドン・ピースのindif erentな扱い方は一 層際立った対照を見せている。この事は,バーディのfictitious Iocaleとして のウェセックスを考える上で重要なことのように思われる。バーディの場合, 作品と舞台との関係は常にユニーク,と言うか,一回限りのものであって,む しろ各々の作品の内容によって,或いは,主人公たちの内面のドラマを反映す る形で,そのつど塗り直されていると考えた方がいいのではないかと思うので ある。 全くの余談だが,昨年機会があって遅ればせながら所謂‘‘バーディ・カント リー”を訪れることが出来た。ちょうど八月の始めのことで,世界の庭園と呼 ばれるにふさわしい美しい風景を堪能できfcし,案内書片手にバーディゆかり のあちこちを歩くことは実に楽しい経験であった。しかし,だからと言って, この経験が私のバーディ文学への理解を深めたとは全く思ってはいない。そも そも,初めからそのような期待は抱いてはいなかった。むしろ,Froorn川の
4 彦根論叢 第248号 河畔に立って,こんな浅い川でユースティシアはよく死ねたものだ,などと下 らないことを考えたものである。 言い換えると,私が自分の眼で見たイングランド南西部も確かに一つの realityではあるが,バーディの作品に描かれたウェセックスは,それとは別 うの,Hillis Millerの言う“verbal reality”であって,その両者の関係は厳密に 区別しなければならない,いやむしろ関係が無いと言い切ることさえ可能かも しれないと私は考えている。周知のように,バーディが自分の小説の舞i台にウ ェセックスという総称を初めて用いたのは『狂乱の群れを離れて』だが,その 序文の中で彼自身こう言っている。 But I ask all good and idealistic readers to... refuse steadfastly to believe that there are any inhabitants of a Victorian Wessex outside 3) these volumes in which their lives and conversations are detai!ed. バーディがこのような断り書きを書いた直接の理由は,詮索好きな読者による スキャンダラスなモデル捜しに先手を打とうとしたことにあるらしいが,それ と同時に,文学作品に於ては,physical realityとverbal realityとの区別が 必要なことを作者自ら警告している証拠ともとれる。だと.すれば,同じエグド ン・ピースであっても,それぞれの作品のverbal textureに於ける意味は当 然違ってくるわけで,各々の作品の枠を越えて,エグドン・ピースだけを,独 立した,普遍的意味づけの施された空間として扱うことは出来ないのではない かと考えられるのである。 ここで,時間の問題に戻るわけだが,‘‘時の流れ”についても,私が今エグ ドン・ピースについて言ったのと同じことが言えるのではないか,つまり,エ グドン・ピースという空閲がそうであったように,時間の要素もまた物語の中 身と緊密に結び着いている場合もあれば,比較的希薄な場合もあるのではない 2) See J, Hillis Miller, Thomas ffardy : Distance and Desire (Cambridge, Massa− chusetts: The Belknap Press of Harvard University Press, 1970), pp.33−37. 3) Thomas Hardy, Far from the Madding Crowd, Author’s Preface.
時の流れと人の動きと一『帰郷』の場合 5 か。当時の時代背景,歴史的推移を無視しては論じられない作品もあれば,む しろ,そのような要素がnegligibleで,もっと他の要素を強調しなければな らない作品もある,そして,『帰郷』という作品はどうも後者に属する作品で はなかったか,というのが私の考えなのである。言い換えれば,『帰郷』の世 界が他のバーディの作品と違うのは,ここでは時は流れず,人もまた動かない, いや,動かないと言うより動けない,無理に動こうとすれば死が待ち受けてい る世界,そのような閉塞的な世界があの作品の世界ではないかと思われるので ある。 ll 例えば,『町長』或いは『テス』あたりでは確かに,社会的・経済的時代の 流れが陰に陽に見え隠れしており,『無名の人ジュード』でもやはり,当時の ヴィクトリア朝社会の時代背景,固阻な因習と新しく目覚めた意識との角逐が 重要なテーマとなっている。ところが,『帰郷』になると,そのような意味で の時代,時間の概念は殆ど見い出せない,むしろバーディは意図的にそれらを 排除しようとしている観すらあるのである。もしあの作品の本編だけを,つま りバーディが後になって付したPrefaceやPostscriptを除いた本編だけを読 んだ場合殆ど時代が特定軍来ないのではないかと思われる位である。 その原因は幾つかあるが,例えば,バーディとしては珍しいことに,この作 品では仕事らしい仕事,職業らしい職業を持った人を殆ど登場させていない。 パリ帰りのClymは,眼を痛めたこともあって,当分の間無職だし, wildeve と言えば,本当はエンジニアになりたかったものが今は宿屋の亭主,道楽半分の 気の乗らない商売に過ぎない。唯一仕事と言えるのはreddlemanのDiggory Vennだが,彼の場合もこの仕事は彼本来の仕事ではなく,Thomasinに結婚 を断られたのを機会に半ば自棄的な気持ちで始めたものであり,本文にもある ように,言わば時代に取り残された“curiosity”,骨董的な職種であって,『狂 乱の群れを離れて』や『町長』或いは『テス』の中で描かれた農村共同体を支 える農業労働とは全く縁遠いものである。ここで大上毅に,人間と労働,労働
6 彦根論叢第248号 と生産手段との関係のあり方に依拠して階級社会の推移を見るマルクス的歴史 観を持ち出すつもりはないが,少なくとも,ちゃんとした労働に携わる入間が 主要登場人物の中に一入もいないということが,この作品に於ける“時代性” を希薄にしている,少なくとも『町長』や『テス』などに見られるような時代 の流れの影を薄くしている一因ではないかと思われるのである。職業や労働こ そ最も敏感に時代の流れに左右されるものだからである。 第二に,この作品のジャンル及びスタイルの観点からこのことを考えてみた い。1923年頃とされるバーディの手紙の中に次の一節がある。 The unities are strictly preserved [in writing the poetic drama The Famous Tragedy of the Queen of Cornwall], whatever virtue there may be in that. (1, inyself, am old−fashioned enough to think there is a virtue in it, if it can be done without artificiality. The only other case 1 4) remember attempting it in was The Return(ゾthe Native.) つまり,『帰郷』を書くにあたって演劇のスタイル,特に古来からの約束事で ある三一致の法則,即ち,place, time, actionの一致を意識して書いたことを バーディは認めているのである。このことは,この物語が初めから終わりまで 舞台をエグドン・ピースに限定していることに最も明らかだが,時間の一致の 方もかなり意識的にこれを守ろうとしていることが窺われる。周知の通り,時 間の一致というのは,物語の進行を連続する一区切りの時間に限定することで, ホラティウスのArs−Poeticaによれば,その長さは“a single revolution of ら the sun”と規定されている。当時は回るのは太陽だったから,これをバーディ の時代に合わせて,この“太陽”を“地球”に置き替えて“asingle revolution of the earth”と読み替えれば,一日,或いは,一年となるわけで,この作品 4) Florence E. Hardy, The Life of Thomas Hardy (London: The Macmillan Press, 1962), p. 422. 5) “The tragedy tries as far as possible to keep within a single revolution of the sun, or only slightly to exceed it, whereas the epic observes no limits in its time of action....” Horace, “On the Art of Poetry”, Classical Literary Criticism, trans. T. S. Dorsch (Penguin Books, 1975), p.85.
時の流れと入の動きと一『帰郷』の場合 7 が十一月五日のガイ・フォークス・デイの火祭りに始まって,翌年の十一月六 日で終わる,つまり,一年と一日で終わるというのは,出来過ぎのようではあ るが,やはり,時の一致ということを作者が意識していた証拠と充分考えられ る。たとえそれが偶然だとしても,一年と一日という設定はこの作品の“時間” を問題とする際に無視出来ない事実で,つまり,それがいずれも“around of time”と言うか,一回転“revolution’,を完結した時間であること,言い替え れば,直線的なlinear timeではないことである。全ては結局は元に戻る永遠 の周回運動的な時間でしかないわけで,我々が普通“history”と呼んでいるよ うな時間の観念からすると,時問はぐるぐる同じところを回っているだけで流 れてはいないとしか言えないのがこの作品ではないかと思うのである。 時間,特に流れるものとしての時間の印象を希薄にしている第三の理由にジ ャンルの問題がある。バーディが小説家として極めてinnovativeであったこ とはよく知られており,『窮余の策』に始まって『ジュード』に至るまでの間 に,自己の主題に最もふさわしい形式・表現を求めて,様々なスタイル・ジャ ンルを試みている。『緑樹の陰で』『狂乱の群れを離れて』がパストラルを念頭 に置いたものとすれば,『町長』にはエピックの雰囲気があり,『テス』や『ジュ ード』はリアリズムを限界まで試みた。試みた末にその枠をつき破ってしまっ たと言っていいであろう。では,その中間に位置する『帰郷』はと言えば,こ れは誰がみてもmythologyの世界を試みたものであることが分かる筈である。 エグドン・ピースの描写といい,「夜の女王」のあのユーステイシアの描き方 といい,Prometheus神話のモチーフといい,時にはゆき過ぎではないかと思 われる位,バーディは神話的雰囲気を盛り込むことに腐心している。そして, 神話の世界が原型を,つまり普遍的造形としての人間,archetypeとしての人 間を扱うものである以上,時代の流れ,時間の経過に晒される部分は削り取ら れることになる。この意味でも,この作品では“流れるものとしての時間”は irrelevantとなってくるのである。 このことと密接に関連してはいるが,やはりある程度区別して考えなければ ならないのは,バーディがこの作品の中でさかんに強調するprimitivenessで
8 彦根論叢 第248号 ある。この小説がprimitivenessを基調としていることは開巻部のエグドン・ ピースの描写に既に明らかであるが,それにとどまらず,小説全体の中でバー ディはそれを具体化している。エグドンの土,十一月五日の下火の火,エグド ンの荒野を吹き抜ける風 そしてクライマックスでのShadwater Weirの濁 流の水,こう並べてくれば,所謂four elements,古入が森羅万象すべてそれ でもって世界が置くられていると考えたあの四大元素すべてが配されているこ とが分かる。『帰郷』の世界はそれ程elementalかつprimitiveな世界なので ある。 逆説めくが,流れるものとしての時間という印象を希薄にするために,もっ とはっきり言えば,時間の要素をirrelevantにするために,バーディは思い切 り時間の経過のスパンを引き延ばし,太古にまで遡ってみせたのではないか。 我々が時間の流れを実感することと,物理的時間の経過の長さとは決して相関 しない。むしろそのスパンが大きくなればなるほど希薄になると言っていいの ではないか。博物館を訪れ,特に最も歴史の古い古生物の化石やマンモスの骨 などが陳列されている部屋に入ったときのあの奇妙に静かで隔絶された印象は, 悠久の時の流れを実感するというよりは,むしろそこだけ時間が停止した空間, 或いは時間が封じ込められた空間と感じられるからではないであろうか。 『帰郷』に於ける“時の流れ”のこのような特異性を象徴するものが,ユー ステイシアの砂時計である。私は前々から彼女が持ち歩く砂時計のことが妙に 気にかかっていた。何か隠された意味がありそうにも思えるし,単なる雰囲気 作りのための小道具に過ぎないのかもしれないと思ってもみたり。単なる小道 具にしてはバーディは妙に印象に残る書き方をしているし,などと。しかし, 既に述べたようなこの作品での時間のあり方,何かを目指して過去から未来へ と向かう直線的な時闇ではなくて,常に元に戻って,いつまでたっても堂々め ぐりのような,出口のない時間,封じ込められた時間,それはまさにガラスの 器の中に閉じ込められた砂時計の中の時間そのものであり,上と下をひつくり 返すだけで再び過去が未来となってしまうような,過去と未来の混在,と言う よりむしろ不在,そのような砂時計の時間こそ,この物語に於ける特異な時間
時の流れと人の動きと一『帰郷』の場合 9 を象徴するのにふさわしいものであることに今回初めて気付いたのである。 皿 次に,論題の後半分“人の動き”という観点からは『帰郷』はどのように見 えてくるかを考えてみたい。“時の流れ”の場合もそうであったように,“人の 動ぎ’を考える時も,舞台となっているエグドン・ピースとの関係で考えてみ なければならないだろうと思う。エグドン・ピースはどのような場所として設 定されているのか,空間としてどのような特徴を持った空間であり,人々はそ の中でどう動いたか,また,動けなかったか,それがこの作品に於ける人の動 きの中心となってくるはずである。 この点でも,実を言うと,私はトポグラフィ的興味を余り持ってはいない。 そのために,バーディをやりだしてもう十年以上にもなるのに,バーディの創 作した架空の地名を地図上の実際の地名に言い換えることが出来るのは未だに 三つか四つに過ぎないという体たらくである。敢えて自己弁護を試みるなら, 先にも述べたように,私は基本的にはphysical realityとverbal realityとは 区別すべきだと考えている。従って,例えば土グドン・ピースが地図の上でど の辺になるのかという興味よりも,むしろ,あの物語の中でどのような空間と して創作されているのか,それを作品そのものとの関わりから考える方に興味 があるからかもしれない。そういう角度からエグドン・ピースを考えてみた結 果,あの物語の時間が円周的,閉ざされた時間であったのと同様に,エグドン ・ピースという空間の第一義的な意味もまた,“閉ざされた空間”であるとい うのが私の結論である。 その著しandscape of the Mindの中でAndrew Ensticeは『帰郷』の中 の土グドン・ピースの色んな特徴を詳細にリスト・アップしていって,それを ゆ 実際のドーセットのそれらしき場所と細かく対比して見せている。当然予想さ れることではあるが,バーディは一見正確にドーセットの地形の特微や地図上 6) Andrew Enstice, Thomas Hardy :Landscape of the Mind (London and Basingstoke : The Macrnillan Press, 1979).
10 彦根論叢i第248号 の配置を守っているように見せかけながら,実は,物語の主題に合うように極 めて自由な取捨選択を行っている。物語に不都合となると遠慮なく地域を削り, 必要となるといくらでも地図上の境界線を改変しているという。特に興味深い のは,創作されたエグドン・ピースの際立った特徴として,外に通ずる道が殆 ど言及されていないこと,実際の地図の上では,東西南北に向かって幾つも街 道が通じているはずなのに,物語の中では殆どそれが言及されていないという 事実である。 例えば,この小説の中でBudmouthは一種象徴的な響きを持った場所とし て登場する。それは,自由と解放のための希望の地であり,夢が実現するため の唯一のルートである。恋に恋し,情熱のはけぐちを希求するユーステイシァ, 彼女の前に現れる憧れの騎士クリム・ヨーブライトがやって来たのはバドマス だし,クリムとの関係が破綻したあと彼女が救いを求めて目指すのもやはりバ ドマスである。希望の地,夢の地であるバドマスは,希望であり,夢であるが ゆえに遠い遥かな存在である。少なくとも,物語の中でのバドマスはそうなっ ている。しかし,実際の地図の上では実はバドマス,つまり,Weymouthは, いくら当時の交通事情を勘案しても,決して遠く遥かな地ではない。むしろ, 目と鼻の先と言ってもいいくらいである。では,今回のシンポジアムの主題の 一つである‘‘キャスターブリッジ”はどうか。これまたエグドンから地理的に は決して遠くないし,この町がこの地域周辺の要として,.経済的・社会的に果 たした役割は,多くの‘‘実証的”研究が既に明らかにしている通りである。い くらエグドン・ピースに住む人々といえど,現実にはキャスターブリッジ,即 ち,Dorchesterとの様々な関わりの中で暮らしていた筈なのである。ところ が,この重要である筈の州都が,エグドンを丘ctitious localeと見る限り,実 は存在しないのである。つまり,『帰郷』の中では全く言及されていないので ある。 [ln The Return of the Native] the action is concentrated with greater regard for ‘unity of place’ than in any other of Hardy’s novels;few places outside Egdon Heath, apart from Budmouth and Paris, are referred to,
時の流れと人の動きと一『帰郷』の場合 11 and their relevance to the central theme is ob▽ious. It is worth noting 二歩Wessex Pla・es勿伽immediate neig伽urhood, S励αs Casterbridge 7> and PVeatherbury, receive hardly a mention. 以上のことを考え合わせてゆけば,エグドン・ピースがどのような場所,どの ような空間として創作されたものか,少しずつ分かってくるように思う。それ は,外界への出戸を封じられた空間,外界から隔絶された閉塞的micr◎cosm なのである。外につながる道が全く無いわけではない。しかし,それは入って これても外に出ることの出来ない道なのである。それ以外あとは,どこにもつ ながらず結局はエグドンの中を堂々巡りするだけの迷路のような道しかない。 そうであれば,そこに生きる人々の動きも,結局は元に戻るだけの動きになる のは当然である。そもそも,この物語はトマシンの結婚をめぐって始まり,そ の彼女の結婚でもって結局は締めくくられているし,彼女のためにfarmerか らreddlemanになったべンは,やはり彼女のためにfarmerに戻っている。 パリでエグザイルとしての身をかこち故郷に戻ったクリムは,最後にはやはり 一種のエグザイルとして,荒野をさすらうことになってしまう。そして,敢え て外に逃れようとする者は,ユーステイシアやワイルディープのように死ぬし かないのである。それがこの物語の“人の動ぎ’なのである。 この作品で繰り返される一つの図形的パターンが・ある。闇の中に点された明 トかりを中心にぼ一つと浮き上がる円形の空間がそれである。例えば,有名なべ ンとワイルディープとのサイコロ賭博の場面がある。ランタンの明かりが消え たあと,飛び交う蛍を捕らえて袋に入れ,その光に照らされた円の中で勝負を 続ける二人,その回りは漆黒の闇と得体の知れない野生の動物。また,開巻部 のガイ・フォークス・デイの火祭りも構図としては同じである。あっちこっち の丘の頂きで焚かれた予州の明かりによって,闇の中からエグドンの全体が浮 かび上がる。このような構図は,この物語が含む人間と宇宙との根本的な関係 を示唆するものである。即ち,宇宙は本質的には混沌とした闇の世界であり, 7) F.B. Pinion, A Hardy ComPanion (London and Basingstoke: The Macmillan Press, 1968),p.315. (My italics]
12 彦根論叢 ee 248号 そこにかすかな明かりが人間によって点される。その明かりによって闇の中に 切り取られた僅かな空間,それが人間の住むべき場所なのである。切り取られ のた円周,D. H.ロレンスの言う“charmed circle”は,この他にも,例えば, クリムとの結婚生活に疲れたユーステイシァが,ある晩,昔の平入ワイルディ ープと踊るダンスの輪というようなバリエイションとなって表れている。月の 明かりに浮かび上がる踊りの輪,その輪の中でダンスの興奮に陶然となったユ ーステイシアは,その輪の中と外とが,明確な一線で区切られているような気 に誘われるのである。 The enchantment of the dance surprised her. A clear line of difference divided like a tangible fence her experience within this rnaze of motion from her experience without it. Her beginning to dance had been like a change of atmosphere;outside, she had been in arctic frigidity by comparison with the tropical sensations here.... Through three dances in succession they spun their way;and then, fatigued with the incessant rnotions, Eustacia turned to quit the circle in which she had already 9) remained too long. ここにも,この物語の基本的構図であるcharmed circleが認められると言え よう。そして,このように繰り返される構図こそ,エグドン・ピースをめぐる 曖昧性を解く手がかりなのである。エグドンとはどういう場所なのかを定義す る際に最も厄介なのは,それがユーステイシアやワイルディープにとっての意 味と,クリムやトマシンにとっての意味とが全く違うことである。ユースティ シァにとって,エグドンは不毛の地であり,自由を奪う牢獄のような場所であ る。しかし,クリムにとっては親しく,懐かしい故郷の土である。この全く相 反する二つのエグドンのいずれが本当のエグドンなのか,この問題を二者択一 で考える限り恐らく答えはいつまでたっても出てこない。唯一の解決は,エグ 8) D.H. Lawrence, Study of Thomas ffardy. 9) Thomas Hardy, The Return(ゾtheハrative, Book Fourth, Chapter 3. [My italics)
時の流れと人の動きと一『帰郷』の場合 13 ドンを‘‘閉ざされた空間”charmed circleとして捉えることではないかと思 うのである。囲まれ,閉ざされた空間,一一それは,ある者にとっては自由を 奪い,逃げ道を塞ぐ牢獄である。しかし,同時にまた,ある者にとっては,外 部からの侵入から身を守ってくれる所,自分を包み込み,保護してくれる空聞 ともなる。そこを動かない限り決して危険な目にあうことがないのである。ユ ーステイシアにとっては牢獄であり,クリムやトマシンにとっては親しく,優 しいものである理由はエグドン・ピースが,この,閉ざされた空間として創作 されていることによるものであると思うのである。 結 び バーディの一連の作品の背景となっている時代と舞台,イギリス・ヴィクト リア朝の実情とイングランド南西部の地理的状況一それをもう一度確認し, その上でバーディの作品をあらためて読み直してみること,それが今回のシン ポジアム全体の狙いであり,それは充分意義ある作業だったと今でも思ってい る。一見,私のアプローチが,そのような角度からの分析と相容れないように 見えるかもしれないが,それはあくまでも表面的にそう見えるだけであって, 根本的なところでは結びついている。誤解の無いように言い添えると,私は verbal rea1ityこそが文学研究の唯一の対象であって, physical realityは対 象外であると思っているわけではない。前者のコトバ(流行の術語を使うなら “discourse”)への専らの関心の集中も,実はそのコトバ自体が時代の影響を受 けて意味やconnotationを微妙に変化させている以上,決して‘‘歴史的背景” を無視するわけにはゆかないことは認めるものである。しかし,同時にphys− ical realityへの過度の信頼も支持するわけにはゆかない。「何と言っても結局 realityというものが厳然としてそこにあるわけで,その歴史的realityを出 来るだけ客観的な形で発掘し再現することこそ文学解釈の最も根本的な方法で ある」と言い切る態度を無条件で支持するわけにはゆかないのである。何故な ら,そこで言う“reality”は決して‘‘客観的”なものではあり得ないからであ る。すでにコトバのプリズムを通ってきた,何らかの色のついたrealityでし
14 彦根論叢 第248号 .かないからである。人間にとって唯一accessibleなrealityとはコトバによ って掬い取られたrealityでしかないからで,“厳然としたreality”なるもの はたとえあるにしても,我々にとってaccess不可能なものである。だとすれ ぼ,我々としては.,結局,physical realityとverbal realityとの間を行き来 するしかない。前者の‘‘realness”にたえず留保をつけた上で,同時に後者の コトバもまた歴史的背景とは無縁でないことを念頭に置いて作業を進めるしか ないのである。 私の発表がシンポジアムの当初の狙いからはいささか逸脱したかもしれない との多少の後ろめたさはある。しかし,それ以上に,この機会が,『帰郷』と いう作品に対してこれまで考えたことのない角度からの分析を可能にしてくれ たこと. ヤ気持ちの方が強いというのが偽らざるところである。 (December 8, 1987)