南船北馬集 : 第十五編
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
15
ページ
233-328
発行年
1998-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002962/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja南、般 北 毘 集 ﹁ げo 第十五・編
甫水井上囲干記
群蕩縣巡講第二回日誌 ,大牢ぬ止ハ危T十一月コ一日、 爆己後五時池個一犀を磯し、 東ト︷線にて盤∼為︷恒入属郡川観奇哨↑K軍一 亮冷頁旋館ほ宿す、四日大爾、午前曹洞宗長喜院Rて揮塔をなし、午拓簿褒場騰陵嘉 去祇て蘂漕を享ず、碧霜少なb、廟會登起は住口山本同貴氏とす、余の娼友たる郵但 燈糞法下塞ぽ氏窓肋力せらる、浪醗後山屠粁理店にて晩餐を喫し、其夜頁締高木彙寓兵 と摘掌し望島京すo 寮一月五日東洋×麟へ欝内省よ隻御思餌の御登汰あ’、同十一日悟購㌔、案洋大堪腱職 叉創立三+年⑲況黄會あ多、雷日比於ける余の拙作左の如し。 鎗+玉包 ﹂ (巻頭) 4.刊行年月日 底本:初版 大正7年11月18日 5.発行所 国民道徳普及会 1.冊数 1冊 2.サイズ(タテ×ヨコ) 188×127㎜ 3.ページ 総数 目次 本文 131 〔1〕 130 ・大亮滝年ヨ 天鰻ゼ年千 ^総 ξ ㌧ ド 一潴濠五ば印刷、 一月干八已登行 / ∵ ﹁[﹂ 而 ”丁“栖騒鑑 −,.、.戴畷人、. 麟、2竺・ ぶ 蛋行所 、開⋮闇鰯ぺ ー つ蕾率恵冨冑仏窃き日町碗ザ己◎鴇 擁翻土二掴ド霧羅 .東京靖宇晶ロ●各●質叫∀す筒†二ρ緯 薩 一膨、.発蹴 一獺, 遭肇亨蓄膨各垣毒ル寮掴±︹惹怖 舗雌秀峯舎籔︷工場 享宴萸耶禽鷺窃憂士黄町藁、†法書婚 田罠遵倍普及●群馬県巡講第二回日誌
南船北馬集 第十五編 大正六年十一月三日、午後五時、池袋駅を発し、東上線にて埼玉県入間郡川越町︿現在埼玉県川越市﹀に至り、今 福旅館に宿す。四日、大雨。午前、曹洞宗長喜院にて揮毫をなし、午後、町役場内議事堂にて講話をなす。聴衆 稀少なり。開会発起は住職山本国隆氏とす。余の郷友たる郵便局長松下定雄氏も助力せらる。演説後、山屋料理 店にて晩餐を喫し、その夜、男爵高木兼寛氏と同車して帰京す。 十一月五日、東洋大学へ宮内省より御恩賜のご沙汰あり。同十一日、快晴。東洋大学において創立三十年の祝 賀会あり。当日における余の拙作、左のごとし。 創建以来三十霜、開莚先祝育英長、釈迦成道孔丘立、斯歳吾貴亦必昌。 ︵東洋大学は創建以来三十年、宴を開いてまず俊英の育つを祝う。釈迦の成道、孔子の而立の年であり、こ の歳を期してわが校もまた必ずやさかえん。︶ おまへ百までわしや九十九まで、但し学校は八千代まで。 十一月十六日。未明、暗を破りて家を出で、六時半、随行静恵循氏とともに上野発車。九時、群馬県高崎︿現在 群馬県高崎市﹀駅に着す。これより中学校に至り、校友会のために講演をなす。校長伊藤允美氏と余と同県の出身な り。午後一時、飯塚より電鉄に駕す。はるかに浅間山の雪をかぶりて一面に白きを望む。渋川より馬鉄に移り、 走ること五里、日暮れて吾妻郡中之条町︿現在群馬県吾妻郡中之条町﹀に着す。刈稲すでにおわり、桑葉ことごとく凋 233零して、野色の空しきを覚ゆ。ただし途中、岩井堂の奇勝、巌隙に紅楓の点綴せるは一美観なり。この日、風寒 く凍気衣に徹す。宿所鍋屋旅館は昔時、十返舎一九の宿泊せし所なりという。 十七日快晴。厳霜満地、庭白く雪のごとし。午前、浄土宗清見寺において教育家の追弔会あり。ときに一席 の談話をなす。その寺は渓上の腰部に鋸し、市街より坂を下りてこれに入る。その眺望は与津清見寺に似たりと いうも、海と山の相違あり。住職は長田台麟氏なり。午後、小学校に至りて開演す。主催は教育会、発起は郡長 藤崎正義氏、視学関新平氏、書記佐藤喜与平氏、校長小代伝三郎氏なり。当所には県立農業学校あり。本町の名 物は梅羊糞、栗羊糞、椎茸羊糞なりと聞く。余の郷里来迎寺村より小野塚熊吉と名付くる人、ここにきたりて永 住す。 十一月十八日︵日曜︶ 快晴。朝気︹華氏︺三十四度、澄水氷を結ぶ。厳寒のときに同じ。馬車行程三里、吾妻川 に沿いてさかのぼり岩島村︿現在群馬県吾妻郡吾妻町﹀に至る。途中、岩櫃山の奇勝あり。車上所吟、左のごとし。 霜風時節入吾妻、紅葉代人迎馬蹄、穫稲已終焼炭始、行看煙影抹晴渓。 ︵霜風の十一月に吾妻郡に至った。紅葉が人に代わってわが馬車を迎える。稲の刈り入れもすでに終わって 炭焼きが始まり、行くゆくその煙があかるい谷間にたなびいているのが見える。︶ 世間一般に群馬県のカラ風というも、吾妻郡にはその風なしとのことなり。この日、藤崎郡長と同乗す。岩島 会場は公会館なり。すべて演説にも、芝居にも、集会にも、これを応用する由。赤塗りの新築なり。発起は村長 小池甚一郎氏、助役日野豊三郎氏、校長山池富次郎氏、同山口留吉氏、岩島銀行日野太七氏、応永寺住職古川了 真氏にして、みな大いに尽力あり。当夕、応永寺に宿す。郡内第一の大坊にして、山門蔚然として立つ。住職古 234
南船北馬集 第十五編 川氏は哲学館出身なり。 十九日 晴れ。馬車行約四里、長野原町︿現在群馬県吾妻郡長野原町﹀に至る。途中、吾妻川の峡間一里の間は関東 耶馬渓と称す。奇巌縦立横臥、その石間に松楓の介立するあり。紅葉七分どおり落下せるも、なお三分をとどむ。 よろしく車をとめて、そぞろに愛すべし。ことに吾妻川の激流が両崖わずかに一問幅の狭路を落下してほとばし るところ、大いに趣あり。また、弁天橋の中央に岩石兀立して、自然に橋杭をなせるもまた奇なり。その川上に 円山あり。形状、豊後玖珠郡の岩扇山に似て、岩壁中空にかかるもまた一奇なりとす。会場は長野原小学校、発 起は町長宮崎亀三郎氏、助役佐藤政吉氏、校長川村新治郎氏、休憩所は大津屋なり。これより草津まで三里、そ の道馬車を通ずべし。草津より更に山間に入ること二、三里の所に、入山と名付くる寒村あり。利根郡の藤原に 比すべき僻地なり。常に杓子をつくりて外へ輸出す。よって﹁恐れ入山メンパの杓子﹂との語、世間に伝わる。 メンパは飯をいるる曲げ物なり。今はその村、六合村の中に入る。六合をクニとよむ。演説後、馬車を馳せて下 行すること二里、川原湯の敬業館に宿す。客室六十以上ありて二百人をいるるに足る。浴室も数カ所あり。これ に次ぎて山木屋、山木星、養寿館、おのおの内湯を有す。当夕の所吟、左のごとし。 吾妻川上試吟遊、雲態岩容奇更幽、看尽関東耶馬渓、湯煙凝処宿仙楼、 ︵吾妻川のほとりに吟遊を試みるに、雲と岩の姿かたちはすばらしく、またおく深いおもむきがある。関東 の耶馬渓をじっくりと鑑賞し尽くす。あの湯煙のかたまりのぼる所はみやびな宿なのである。︶ 吾妻郡の四大温泉と称するは草津、四万、沢渡、川原湯なるが、前三泉は数年前入浴を試みたり。ただ、いま ぴ だ知らざるは川原湯のみなりしに、今夜にて全部卒業するを得たり。よって一詠して曰く。
川原湯にあびたる今日こそうれしけれ、吾妻の湯は是れで卒業。 当夜、寒威凛として金に徹し、終宵熟眠するを得ず。そもそもこの峡間を関東耶馬渓と称するはおもしろから ず。その景、決して耶馬渓の付庸にあらず、すべからく独立の名称をもって世間に伝うべし。余思うに、川原は 仙源と音通なれば、爾来、仙源渓と改めたきものなり。 二十日 快晴。川原湯を発し、馬車にて下行すること四里にして原町︿現在群馬県吾妻郡吾妻町﹀に至り、小学校 にて開演す。他所はすべて郡教育会の主催なるも、当町だけは郡内各宗寺院の組織せる樹徳会の主催なり。目下、 農家は稲コキと麦まきとに着手して繁忙期なれば、聴衆いたって少なし。発起は星野亮石氏︵副会長︶、深井法庵 氏、長田氏、河原田寛澄氏、坪井全勇氏、天野霊真氏にして、校長遠藤清造氏、町長田村直次郎氏助力せらる。 郡役所よりは佐藤書記、各所へ案内せられたり。東洋大学出身荒井雪堂氏は尻高村より来訪あり。 吾妻郡巡講中見聞の一端を記せんに、その特有の方言、 アチャ ガラ モーゾウ ベーガンス アチャはソレナラの義、ソレナラオミセナサイというべきをアチャオミセナサイという。ガラは過失の義、誤 りてコワシタをガラコワシタという。モーゾウは早速の義、早速出掛けたをモーゾウ出掛けたという。べーガン スは語尾に添うる言葉なるべし。また、語尾にムシを付けること利根に同じ。タビタビをトロピョウといい、自 然をオノガテーという。郡内の宗教は曹洞宗を第一とし、浄土宗これに次ぐ。一般に民家の信仰薄く、葬式の外 には僧侶を聰することなく、死後の七日にも三十五日にも寺へきたることなく、盆正月にも寺を訪うものいたっ てまれなり。檀家の宅には棚の中に位牌を置くのみにて、仏像を安置せず。すべて寺や仏は、縁起の悪いものと 236
南船北馬集 第十五編 して忌み嫌う。これに反して神道は縁起がよいと聞きて、神葬祭に改むるものもすくなからず。ある村落には天 理教の盛んなる所ありという。あるいはまた老人においては、途中にて寺の住職に会することすら不快に感ずる ところあり。その意は、住職が過去帳の中に記入して死を祈るを恐るるによるという。以上は伝聞のままを記せ るのみ。 二十一日 快晴。原町より車行約一里、四万川を渡橋して中之条に達し、午前八時発の馬鉄に駕し、渋川より 電鉄に転じ、飯塚より汽車に移りて十二時後、碓氷郡安中町︿現在群馬県安中市﹀に着す。会場小学校は建築壮高な り。開会主催は郡教育会にして、郡長田中正三氏、視学佐藤錠太郎氏、書記中林広次氏、校長小井戸方三郎氏、 同吉田源次郎氏の発起にかかる。当地は新島裏氏の出身地の故をもって、ヤソ教に固結せる団体ありという。午 後より上州名物カラ風起こる。宿所は安中館なり。旧知柏木順映氏来訪あり。余の当町にて開演するは第四回目 と思う。 二十二日 穏晴。車行約一里にして原市町︿現在群馬県安中市、碓氷郡松井田町﹀に至る。中間に県立蚕糸学校あり。 校長山中良治氏は東京大学予備門の同窓なるが、三十五、六年ぶりにて相会す。駅路の両側に老杉並立せるは、 旧中山道なるによる。午後、原市小学校にて開演す。発起は校長柳沢弁造氏、後閑校長小林岳二氏、磯部校長上 原信太郎氏なり。当節は郡内一般に稲コキ、麦マキ最中にて繁忙を極むる由。山林の紅葉は満を持していまだ落 ちず、いくぶんか旅中の目をたのしましむるに足る。当夜、真下嘉蔵氏宅に宿す。哲学館出身金田宥円氏来訪あ り。氏は当町満福寺の住職たり。昨日の車上吟を左に掲ぐ。 車入碓氷川上関、雪風如矢射吾顔、三山猶帯蒼々色、独有瞠然是浅間。 237
︵車は碓氷川上流の碓氷の関所に至った。折しも雪風は矢のごとくわが顔を射る。赤城、榛名、妙義の三山 はなお青々とした緑色を帯び、ただ白雪の輝いているのは浅間山のみである。︶ 今夕は東京より御恩賜に奉答せんとて東洋大学、京北中学相合し、学生生徒一千五百名提灯行列を行い、二重 橋前に整列して、陛下の万歳を三唱せりとの報あり。 十一月二十三日︵新嘗祭︶ 晴れ。車行一里半にして松井田町︿現在群馬県碓氷郡松井田町﹀に至る。途中、旭旗の軒 前に翻るを見て大祭日なるを知る。会場は小学校、主催は郡教育会、発起は校長須藤和四郎氏、休憩所は坪井旅 館なり。町長村山初太郎氏は今より二十年前、当地開会の主催者なりしを記憶す。本日は田中郡長も出席せらる。 今夕、東京上野公園梅川亭において大学予備門当時の夜話会を開くを聞き、左の三十一文字を電報にて通知す。 旅に居て又夜話会を欠席す、我には許せ旅行道楽。 演説後、特に佐藤視学の厚意により、汽車にて磯部に移り、磯部館に入る。同館の前身三景楼は、余が三十二 年前、ニカ月間滞在せし旧跡なり。懐旧の一作、左のごとし。 毛西一路日将噂、懐旧尋来碓氷漬、妙義観楓時巳晩、鉱泉楼上坐看雲。 ︵群馬西毛の一路に日はたそがれんとし、往事をおもい碓氷川のみぎわをたずねた。妙義山の観楓の時節に はすでにおそく、鉱泉の旅館階上に座して雲を眺めている。︶ 磯部館は大ならずといえども、客室の設備と待客の方法ともによしとの公評なり。その他に鉱泉旅館として鳳 来館、林屋、山城軒等あり。夜に入りて碓氷川の水声枕頭に触れ、客眠を催進するなどすこぶる幽趣を覚ゆ。 本郡の方言を聞くに、前橋、高崎と大差なし。左に二、三を挙示せん。 238
南船北馬集 第十五編 男の児をガキ、女児をアマ︵下等社会︶、氷柱をアメンボー、ヒキガエルをベットーとも、オヒキベットーと も、虎杖︹いたどり︺をトッカンボー、杜鵠の鳴き声をオトガノドヲツッキッタという。 子供が物の数をかぞうるときに二個ずつを取りて、 ヤナギノカゲカラオバケガデタヨ、 という。これ三十をかぞうるときなり。もし四十をかぞうときは、これにマタデタヨを加うるという。 二十四日 快晴。厳霜地に敷き、紅葉日にあぶり、紅天地白世界を現ず。これに加うるに、浅間山の白粉を装 い、雲衣を帯びつつ碧空に魏立するところ、暁望極めて壮快なり。北甘楽郡視学福田啓作氏わが行の先導となり、 平岡の上、桑林の間を一過して富岡町︿現在群馬県富岡市﹀に至る。車行二里半、途中、洗粉原料採出所あるを見る。 山底にあなをうがち、粘土を採出し、これを乾燥せしめて製粉するなり。本日の会場は富岡小学校にして、聴衆 中には中学校、実科女学校生徒も加わる。主催は郡教育会および学事会にして、郡長丹後斉治氏、視学福岡氏、 町長古沢小三郎氏、校長田中美名人氏、および矢島太八、中山雄、加藤延次郎三氏の発起にかかる。宿所大和屋 旅館はその姓を楊島という。これをヌデシマとよむ。当夕、郡長、町長等と会食す。古沢町長は春秋七十七、県 下町村長中の高老なるも、嬰錬としてよく飲みよく語る。その元気、青年を圧倒す。この日は旧十月十日に当た る。本郡の慣例としてこれをトウカン夜と呼び、藁を束ね、これを縄にてかたくまとって棒のごとくにし、この 藁棒をもって地面を打つ。その言葉に﹁トウカンヤヨイモノダ、朝蕎切り、昼団子、夕餅食って遊ブンベ﹂と叫 ぶ。これ翌年の豊作を祝する意なる由。その日は必ず蕎︹麦︺と団子と餅を食すという。つぎに、十月の恵比寿講 ㎜ には焼き餅を食すと聞く。その他本郡の風俗として、十二月八日に目かごをさかさまにつるし、これを軒前に立
つることあり。その日には子が親を招きて饗応をなす。また、二月八日も目かごをつるす。このときは親の方で 40 子供を招くという。以上の慣例は隣郡にもある由。 2 十一月二十五日︵日曜︶ 温晴。午前、原製糸場を一覧す。工女約千人、そのうち四分は越後、六分は本県およ び他県なるやに聞く。工場は明治三年の起工、五年の開業にして、政府の創立にかかれり。本邦にて蒸気力を工 場に応用せしはこれを鳴矢とす。実に明治文明史上に特書すべき工場なり。工場の一棟に幅七間、長さ八十六間、 工女五百二十人をいるるものあり。政府の事業とはいえ、五十年前の経営としては驚くべし。支配人大石保佐一 氏、場内を案内せらる。即吟一首を記して同氏に寄す。 甘楽渓頭訪富岡、大名物是製糸場、壁間古色蒼々裏、留得明治史上光。 ︵甘楽の渓流に沿って富岡を訪れる。大の名物は製糸場である。その壁はところどころ古色蒼然として、明 治史を飾る輝きをよくとどめている。︶ その建築はすべて木柱、瓦壁にして、和洋折衷なるはおもしろし。これより車行一里、鏑川を渡橋し、丘陵を 上下して小幡村︿現在群馬県甘楽郡甘楽町﹀に入る。当村はもと小藩の城下なりという。茂木旅館にて昼食するに、 女中団扇をもって傍らに座し、終食の間たえず蝿を払う。冬時の蝿払いは珍し。会場小学校には本日、物産品評 会あり。演説発起は校長木暮兵三郎氏、村長高橋一郎氏、助役遠藤誉次氏、書記柳沢房蔵氏等なり。当夕、郵便 局長田中歌吉氏の宅に宿す。 二十六日 穏晴春のごとし。車行二里、釣り橋を渡りて一ノ宮町︿現在群馬県富岡市﹀に移る。途上、いたるとこ ろ桑園ならざるはなし。桑葉ことごとく凋落して、野色ためにひろし。農家なお納稲耕麦に忙しきがごとし。開
南船北馬集 第十五編 会前、国幣中社貫前神社を参拝す。町名のごとく本県第一位の宮なり。門前の街路は丘上にありて、社殿は石階 をおりたる渓間にあり。門前より堂を見下ろすは、佐渡の妙照寺とともに異例なり。社殿小なりといえども、そ の彩色の美は日光に髪覧たり。門前の紅楓はわずかに残葉をとどむるのみなるも、社後に老杉直立数十丈の大樹 あり。俵藤太秀郷卿の植うるところ、周囲二丈五尺余、境内ために森然たり。ときに所感一首を賦す。 林丘堆処有祠門、宮是上毛第一尊、降到神前心自寂、老杉千古鎖塵煩。 ︵林の丘の高い所に総門がある。この貫前神社は上毛の第一尊である。石階を下って神前に至れば心はおの ずから静かに、老杉は千古の世俗の煩わしさをとざしている。︶ 会場小学校は丘下にあり。主催は諸会連合、発起は町長今井梅次郎氏、校長高橋亀吉氏、および山崎金次郎、 田中寅之助、大里武志、石井泰蔵、田村茂十郎、佐藤繁松、矢野間徳次郎七氏なり。この地方には黛の一字姓あ り。当夕、社前亀嶋屋旅館に宿す。 二十七日 晴れかつ風。朝、一ノ宮駅を発し、軽便にて渓間をさかのぼり下仁田町に至る。その中間にナンジ ャイという地名あり。文字は南蛇井と書す。昔時、幕府代官出張の際、村名をたずねられしに、その答え判明せ ざれば、代官よりナンジャイと問い返されしにより、ただちにその語を取りて地名とせし伝説あり。下仁田より 馬車に移り、渓路を自然に登ること二里半、道路大いによし。月形村︿現在群馬県甘楽郡南牧村﹀に至りて馬をとど む。当所は蕗蕩の名所にして、山はみなコンニャク畑、家はみな商蕩を切りて煎餅のごとくし、これを串にさし て軒前に掛け乾燥せしむることに従事す。畑一反歩の収穫百円以上、桑よりも米よりも利益あり。故に畑の売買 は一反六百円ないし八百円という。欧州大戦以来、両蕩大いに騰貴し、この地方にては多く茜翰成金を出だせり 241
との評あり。とにかく下仁田以上には米田全くなし。昔時、米を筒に入れて蓄えおき、人の死せんとするとき枕 頭にてこれを振り、米の音を聞かしめたりというは、この山間部を形容したる話なり。また、駅路より横道に入 ること一里半、大塩沢に黄粟宗の名刹黒竜山あり。その界隈の奇勝、やはり関東耶馬渓と称す。月形会場は小学 校、主催は同村と尾沢村連合、発起は月形村長小金沢喜与治氏、校長小須田健次郎氏、尾沢村長安田百平氏、校 長飯塚悦太郎氏、および有志小金沢英夫氏にして、みな大いに尽力あり。聴衆の過半は婦人なるは異例なり。宿 所千歳屋は下女を置かず、男子をして給仕せしむるもまた異風なり。当夕、旅館において村長、校長協力して、 即座に商蕩を製造せられたるを一見せるも、また旅中の一興なり。諺に薬九層倍というが、萄蕩粉一合が三十倍 になる、故に跨蕩三十倍といわざるを得ず。畑地より掘り出だしたるときは、その形大芋のごとし。信州人この 地にきたりこれを芋と心得、購入して家に帰り、そのまま煮て大いに失敗せりという話あり。当日の途上吟、左 のごとし。 南牧川源多蕗田、冬来収得曝軒前、停節欲問渓何白、即是水車成粉姻。 ︵南牧川の源あたりは萄蕩畑が多く、冬になるとき収穫して軒さきにさらす。杖を止めて渓がなぜ白くなっ ているかをたずねようとしたところ、それは水車の粉煙を上げたものであった。︶ 渓上ところどころに水車にて商蕩を粉に製する工場あり、あたかも石灰を製するごとく白煙をみなぎらす。月 形は長野県と境を接す。その国界に屋形をなせる奇山あり。海抜四千五百尺、妙義の左背に当たりて横座し、遠 方より望むを得。これを荒船山と名付く、あるいは一名破風山ともいう。山の形、破風造りの屋形をなせるによ る。その山の北辺より流出せる水を北牧川といい、南辺の方を南牧川という。月形は南牧川の渓頭にあり。渓狭 242
南船北馬集 第十五編 く山急にして、家屋を建つるに平地なきほどなり。国境の連山はすでに雪をいただき、ときどき山風雪片を吹き 送る。今秋以来、初めて雪を見る。夜に入りて天全くはれ、寒月咬々たり。詩思忽然として動ききたる。 客窓寒夜有朋来、対酒三更月作媒、山里風流人解否、炉烹萄蕩尽残杯。 ︵窓に寒さのしのび入る夜に友の来訪あり。酒に対して三更ともなれば月がなかだちとなる。この山里の風 流を人が解するか否か。炉に萄蕩をにて、なお杯を尽くさんとする。︶ 二十八日 晴れ。今朝、室内寒気︹華氏︺三十八度、水みな凍る。馬車をめぐらして下仁田町︿現在群馬県甘楽郡下 仁田町﹀に至り、午後、小学校にて開演す。校舎新たに成り、内容よく整備せるを見る。発起は町長湯浅武之吉氏、 校長北沢靖三郎氏、学事会長茂木松次郎氏、副会長高井新之助氏にして、上野鉄道会社長佐藤量平氏および有志 松本伝蔵氏助力せらる。下仁田につきては、﹁町が九の字で市がクサイ﹂といえる僅言あるはおもしろし。町の形 が﹁く﹂の字なりで、市日は毎月九サイなるを意味す。実にその町は全く千岳万立、両渓合流の中点にあり。宿 所は新杉原旅館なり。福田視学は月形山中まで案内の労をとられたり。本郡開会の特色は、神職会が教育会に加 わりて開催せられしにあり。聞くところによるに、郡内は飲酒の流行するところにして、毎年、下仁田には一升 会ありという。 北甘楽の方言を聞くに、疲れたことをセッチョウという。アーツカレタというべきをアーセッチョウという由。 予想外のことをアテツコトモナイといい、学校へ行くを学校セユクという。また、言葉の間にコを入るることあ り。牛がくるというべきを牛がコークルといい、菊がさいたというべきを菊がコーサイタという由。また、本郡 内の地名四カ所を合すれば、ナス、ナンバ、イヤイヤ、カブリとなると聞く。 243
二十九日 快晴。早朝、凍気をおかして下仁田を発し、高崎駅にて小山行きに移り、佐波郡伊勢崎町︿現在群馬 県伊勢崎市﹀に入る。会場小学校は生徒二千四百人、県下第一の大校にして、八間十五間の大講堂を有するも、生 徒全員を収容するを得ずという。邸内に煉瓦造り、直立六、七間の時報鐘楼あり。開会主催は町青年会にして、 会長加藤末吉氏︵校長︶、副会長戸谷清一郎氏︵助役︶、主事石川重一郎氏、同石川国太郎氏等の発起なり。当夕、 料理店銭屋、一名白水楼において、町長石川泰三氏、郡視学斎藤完二氏、および発起諸氏とともに晩餐を喫して、 旅館新井屋に入宿す。室は土蔵中にあり。当夜、満月清輝、窓に映ずるを見て一首を浮かぶ。 三山帯雪午風寒、農圃桑枯野色寛、入夜客窓浮白影、何知霜月掛軒端。 ︵上毛の三山は雪を帯びてま昼の風も寒く、畑の桑も枯れはてて野もひろやかに見える。夜になって客室の 窓に白い影が浮かぶ。なんと霜夜の月の光が軒端にかかったのである。︶ 本郡長は岩本俊卿氏なり。 三十日 晴れ。風起こり気寒し。午前、工業学校に至りて校友会のために講話をなす。校長は斎藤吉広氏なり。 これより車行約一里、三郷村︿現在群馬県伊勢崎市﹀小学校にて開演す。村長石田勝馬氏、校長遠藤宗作氏等の発起 なり。宿所平田源助氏は造酒家にして詩画をよくす。その名酒﹁鳳泉﹂は毎年の品評会に一等賞を博すと聞く。 一絶を賦して主人に贈る。 毛野山風烈、晩来寒徹身、鳳泉時一酌、忽覚暖如春、 ︵上毛の野に山おろしの風ははげしく、暮れがたからの寒さが身にしみとおる。名酒﹁鳳泉﹂をひとたびく めば、たちまちに暖かきこと春のような思いがするのだった。︶ 244
南船北馬集 第十五編 当家にて伝聞するに、造酒に従事するものの名称に種々ある由。第一はオヤカタ︵杜氏︶、そのつぎはカシラ︵副 杜氏︶、そのつぎはニバン、そのつぎは麹屋、船頭︵酒漉し掛り︶、釜屋なりという。 十二月一日 穏晴。車行約一里半、赤堀村︿現在群馬県佐波郡赤堀町﹀に至る。途上、仰ぎて赤城山を見るに、夜 来の寒風雪を醸し、頂上白雪をいただけり。よって一詠す。 佐波原上路塵稠、夜漸深時風漸収、暁対赤城山頂雪、始看冬色入毛州、 ︵佐波の平野の道は塵埃が濃く、夜もようやく深まって風も次第に収まった。夜明けに赤城山頂の雪に向か いあい、はじめて冬の気配が上毛の国に入ってきたのを目にしたのだった。︶ 会場は小学校、主催兼発起は村長茂木元氏、助役千吉良啓八氏、収入役町田善太郎氏、校長萩野国松氏、僧侶 堀祐源氏、および生形、町田両訓導等なり。みな大いに尽力せらる。宿所大光院は学校の隣地にあり、堀氏その 住職たり。本村旧家赤堀鋸三郎氏の先代の女子にて、身を赤城山上の池に投ぜしものあり。そのとき携帯せる鏡 の遺物ならんとの評ある古鏡の破片、湖畔より出でたり。余これを一見して、﹁欲知伝説昔、問鏡々無言、観此蒼々 色、黙中如有言﹂︵言い伝えるいにしえを知らんとねがい、鏡に問うも鏡は語らず。この青々と光る鏡を見つめて いると、物言わぬうちより言の聞こえてくるような思いがする。︶と書す。本村は中島徳蔵氏出身地なり。村内に 牛房︹ゴボウ︺の姓あるは珍し。隣村の東村は国定忠治の出生地なるが、従来その墓石を砕き取り、これを粉末に して中風の薬に用うる迷信ありと聞く。 十二月二日︵日曜︶ 温晴。車行一里半、赤城山頂の新雪を背視しつつ行き、殖蓮村︿現在群馬県伊勢崎市﹀に至る。 45 2 大光寺を去りて数丁、田圃の間に数株の樹木あり。その中に薬師を刻したる古石碑あり、これをキンマラ薬師と
いう。毎年一月十四日はその祭日にして、近郷より参拝者雲集す。これに祈願すれば、腰部以下の病は必ず平癒 すと伝う。後日平癒すれば、木にて男根の形を作りたるものを奉納すと聞く。これ奇異の迷信なり。殖蓮の会場 は小学校、休憩所は役場、発起は村教育会長川田勇作氏、副会長高橋由太郎氏、村長古郡仲三郎氏、校長櫛原忠 次郎氏等なり。本村には機業家多し。郡内も稲コギ、麦マキいまだ全く終わらず、農家なお多忙なり。当夕、車 行一里弱、伊勢崎町新井屋に入宿す。 三日 穏晴。暁霜雪のごとし。車行一里半、采女村︿現在群馬県佐波郡境町﹀に至りて開演す。会場は小学校、主 催および発起は村長岡崎清次郎氏、助役新井潤造氏、校長五代直四郎氏、訓導吉田弁次郎氏、妙真寺住職三品宥 勝氏にして、いずれも多大の尽力あり。当夕、妙真寺に宿す。真言宗豊山派なり。本村もやはり機業地という。 四日 温晴。車行一里半にして、剛志村︿現在群馬県佐波郡境町、伊勢崎市﹀に入る。これをタケシとよむべきを、 一般にゴウシとよむ。本村もまた機業地なり。故に田畑に一人の婦女子を見ず。すなわち男耕女織の地なり。本 村だけにても、婦人の機織賃一力年二万円に達すという。午後、小学校において開演す。村長石原清助氏、校長 長谷川卓郎氏、助役和佐田角太郎氏、訓導天笠栄茨郎氏、有志高木平馬氏、ほか七名の発起かつ尽力による。黄 昏、車行わずかに十五丁、境町︿現在群馬県佐波郡境町﹀小学校に移りて夜会を開く。校内の作法室は華族の御殿に 類する設備を有し、県下にはもちろん、関東の小学校において、いまだかつて見ざる作法室なり。開会発起は町 長内田平次郎氏、校長五十嵐留吉氏、署長野俣喜三郎氏、職員五代規信氏等とす。本町は恵比須講にて一般に休 業するために、聴衆比較的多し。聞くところによるに、商家は毎月一日、十五日、二十八日には恵比須大黒に灯 明を掲ぐるを例とす。しかして十月の恵比須講には、特別に頭付きの魚を付けたる御膳二人前をそなえ、そのお 246
南船北馬集 第十五編 下がりは必ず主人夫婦の食するところとする由。維新志士村上俊平氏この地より出でたりと聞く。宿所中沢屋は 維新前よりの旅館にして、今なお茅屋なり。しかれども玄関には、宮殿下の御休憩所たりしことを掲示しおけり。 本町は前橋をへだつる六里、伊勢崎を離るる二里の地点にあり。 五日 穏晴。暁寒すこぶる厳、霜気また烈なり。車行一里、例幣使街道すなわち高崎より日光に通ずる旧道を さかのぼりて豊受村︿現在群馬県伊勢崎市﹀に至る。半機半農の地なり。休憩所にあてられたる役場は新築まさに成 り、郡内第一の役場と称す。会場は小学校、発起は村長松本完蔵氏、助役多賀谷荘蔵氏、校長神戸直一郎氏なり。 日まさに暮れんとするとき車を走らすこと一里、名和村︿現在群馬県伊勢崎市﹀に入る。夕照なお余紅をとどむる中、 正面に浅間山の煙を吐きて聾立せるを望むところまた壮観なり。夜中、小学校にて開会あり。村長大和杢右衛門 氏、校長大和栄八氏の発起にかかる。しかして宿所は有志家小此木康昌氏宅なり。当所駐在巡査下山作造氏は哲 学館に在学せし由。本村には昔より首切り畑と名付くる所あり。これまでその畑にて首を切られたること数回あ りとて、これを耕すものなく、多年荒地になりいたりしが、耕地整理のためにこれを耕地に編入せりとて、迷信 家が苦情を鳴らせりと聞く。斎藤視学は毎日各所へ出席せらる。 六日 快晴。瓶水氷結、石のごとし。寒気厳冬に異ならず。車行一里、例幣使街道に従い、利根川を渡りて芝 根村︿現在群馬県佐波郡玉村町、伊勢崎市﹀に入り、午後、小学校において開演す。発起は村長新井佐太郎氏、助役今 井得一氏、校長武井文之助氏、僧侶紅林孝潤氏等なり。当夕、高見屋旅館に宿す。 七日 穏晴。車行一里、玉村町︿現在群馬県佐波郡玉村町﹀に至る。会場小学校は堅全の建築なり。主催は各宗協 会にして、観照寺真山宥啓氏、西光寺西園実如氏、称念寺宇尾達道氏、観音寺真木孝良氏、神楽寺福井栄覧氏の 247
発起にかかる。町長町田市之助氏等助力せらる。当町は昔時、遊廓地をもって世に知られしも、今は全く農本位 の地となる。本夕、観照寺に宿す。真言宗なり。余が毎回飯一杯というを聞き、大ドンブリに飯を盛り上げて出 だされしは、またおもしろし。 八日 穏晴。早暁、霜気をおかして玉村を発し、下の宮の船橋を渡り、宮郷村︿現在群馬県伊勢崎市﹀勝念寺に至 る。途中、連取天神の社前を過ぐ。境内に有名の笠松あり。地に平伏して笠形をなす。その枝域の周囲五十間余。 午後、勝念寺において真宗青年会のために講話をなす。平田源助氏その会長たり。この寺は本郡唯一の真宗寺院 にして、桑林の間に孤立す。規模大ならざるも新築全く成り、堂内を一見すれば進歩的構造たるを知る。余の所 吟一首、左のごとし。 環境桑林鎖俗塵、中間魏立仏堂新、従今勝念山頭月、照及佐波全郡人。 ︵この辺りはすべて桑林で俗塵の入るをはばみ、その中に仏堂も新しくたかだかと立っている。これよりの ちは勝念寺の上にかかる月は、あまねく佐波全郡の人々を照らすであろう。︶ 当夕、小学校に至り、更に村教育会のために講演をなす。聴衆、堂にあふる。岩本郡長も出席せらる。発起は 村長森村鍋太氏、助役栗原清作氏、校長篠木謙吉氏、職員斎藤、伊原、森、宇野、根岸、須田、鈴木、常見八氏 なり。演説後、勝念寺に帰りて宿す。その距離二十丁余。住職は多賀堂竜天氏なり。また、本村には哲学館出身 の金田賢瞳氏あり。これらの諸氏奔走尽力の結果、哲学堂維持金は本県中最多額を拝受するに至れり。したがっ て昼夜揮毫に忙殺せられ、夜半後まで筆を摘せず。また、一郡全体を合計するに、哲学堂維持金の最多額を拝受 せしも本郡とす。これ、ここに大いに深謝するところなり。 248
南船北馬集 第十五編 本郡の方言を聞くに、驚いたことをタマゲタといい、大いに驚いたをブッタマゲタという。大きいをデッケー、 すばらしく大きいをスデッケー、嘘らしいをデンボーという。 十二月九日︵日曜︶。朝、勝念寺を発して行くこと十丁、新伊勢崎駅より汽車によりて邑楽郡館林町︿現在群馬県 館林市﹀に移る。会場小学校は千八百人の生徒を有す。この日、郡教育会の総会あり。開会発起は郡長塙任氏、視 学高瀬泰作氏、町長熊谷直方氏、校長長沼亨氏、その他堀口、小林、清水、増毛、島田、杉本、矢島諸氏等総じ て十五名にして、みな大いに尽力せらる。当所へも二十年前に来講せしことあり。名物は麦落雁と干しうどんな り。余が本郡の名物を集めて作りたる俗謡あり。 邑楽名物御存じないか、分福茶釜と干盟鈍︹うどん︺、麦落雁と鮒鯨、方言デンポウ、イシ、オゾイ、花山ツ・ ジと善導寺、まだもあります大谷休泊。 塙郡長は雄大の体躯を有す。酒量もまた豪なり。当夕、美名伝旅館に宿す。相応の大館なるも、女中一人のみ。 機業の盛んなる結果、下女の払底を知るに足る。 十日 晴れ。車行約一里、六郷村茂林寺を訪う。茅屋の禅寺なり。門内寂として人なし、再三呼びてようやく 取り次ぎの出ずるあり。書院に入りて分福茶釜を一見す。およそ水一斗ぐらいをいるるべき茶釜なり。往昔、こ の釜にて茶を沸かし、千人の客に飲ませしに、なにほどくみても尽きざりしという。これより妖怪の一物となる。 これを分福と名付くるは、この釜の茶をのむ人は福を分与せらるるの意ならん。かつて明治維新後、一度博覧会 に出品せしことあり。その際、伝説の真偽をためさんとて、湯を沸かして衆人にのましめたるに、たちまち尽き 49 2 しという。昔日の妖怪は今日の妖怪にあらず。即時一首を賦す。
車入野蹟霜色新、茂林寺古寂無人、当年福釜今猶在、何不煎茶分衆賓、 ︵車が野の小道に入ると霜の色も新たに、古刹の茂林寺は寂として人影もない。当時の福釜は今日に伝えら れてある。どうして茶をたてておおぜいの客にふるまわずにおられようか。︶ これより更に一里を走りて佐貫村︿現在群馬県邑楽郡明和村、館林市﹀に至る。これ郡内の模範村なり。小学校開会 の発起は村長田口真三郎氏、校長清水民治氏、書記渋川広一氏なり。当夕、館林美名伝に帰宿せるに、高瀬視学 の配意により、名物の鮒のアライを試食す。天下一品の美味なり。その他、尊菜もまた当地の名物という。 十一日 晴れ。館林の揮毫数非常に多きために、午前滞在、午餐後ようやく塙郡長とともに軽便に駕して小泉 町︿現在群馬県邑楽郡大泉町﹀に至る。客車の内部はハイカラ式なり。行程三里を三十分にて達す。会場は小学校、 発起は町長金井椎吉氏、助役長谷川定次郎氏、校長島田友蔵氏、教員木村専一、森戸良作、服部儀次郎、川上茂 太郎、森権次郎五氏にして、みな大いに尽力あり。宿所は中村屋旅館なり。当町より新田郡太田町へ一里、休泊 村は十五丁に過ぎずという。本郡の地面は米田と松林のみと称して可なり。松林だけ六百町歩あり。これみな大 谷休泊の経営せしところと聞く。その神社は館林町外にあり。 十二日 晴れ。車行二里、永楽村︿現在群馬県邑楽郡千代田町﹀に入る。佐波郡と本郡とは全く平坦部にして、小丘 すらもなく、車行すこぶる便なり。まず光恩寺において休憩す。真言宗豊山派なり。住職永柄行全氏は一時、哲 学館に在学せしことありという。会場は小学校、主催は青年会、発起かつ尽力者は村長塩田栄太郎氏、校長増尾 福三郎氏なり。夜に入り灯を点じて光恩寺を発し、行くこと数丁にして利根川を渡船し、これより田間の新道を 一走して熊谷駅に達す。その里程三里、塩田村長わが一行を送りてここに至る。途中、児童走り出でて、お嫁サ 250
南船北馬集 第十五編 ンきたれりと呼ぶ。この辺りにては、嫁入りは必ず日暮れの後なる由。八時半乗車、十時半上野着。これにて群 馬県第二回の巡講をおわる。 邑楽郡の方言の二、三を挙ぐるに、バカゲタことをモウゾウといい、嘘言をデンボウといい、氷柱をカナンボ ウ、サヤエンドウをブドウまたはサヤブドウ、うどんをメンコ、利口をオゾイ、貴様をイシ、たくさんをエイラ、 ハゲシイことをガショウキ、ソウカイをソウケ、チットをチットンベー、化物の出でるをザトウがきたるという。 また、婦人の秘所をオカマという。鹿児島のオハコに同じ。奇姓につきては、本郡に二十里とかく苗字あり。こ れをチリヒジとよむはすこぶる奇なり。邑楽郡の俗謡中おもしろきものを摘載せん。 足尾の深山の白雪がヨ、霞の奥より流れ来て、渡瀬井堰に揚げられてヨ、田植の乙女が袖ぬらす。︵田植え歌︶ 古河の二丁目油屋の娘、油とろく腰までつけて、腰の光で古河町をてらす。︵同上︶ 分福茶釜に毛がはへた、とんだ狐のいきみあひ。︵大津絵ぶし一節︶ そろた、そろたヨ、踊子がそろた、稲の出穂の様によくそろた。︵盆踊り歌︶ 群馬県人の宗教信仰の薄弱なることと、寺院の振るわざることは前すでに述べしが、そののち聞くところによ るに、寺院の収入は檀家一戸につき平均五十銭以下なりという。その代わりに寺院は大抵多少財産を有せざるな く、糊口に窮するの憂いなし。したがって布教をつとめずという。檀家の仏壇は粗末のものにして蜜柑箱ぐらい を用い、これを勝手の棚の上に置くもの多し。しかしてその中には位牌を置くのみという。また、寺院に入り仏 像を拝むに、拍手を用うるもの多しともいう。かく宗教の信仰なきと同時に迷信すこぶる多し。さきに挙示せし ものの外、本県一般に厭忌するものはサンリンボウなり。その日に贈り物をするときは、これを贈りたる家は栄 251
ゆるも、これを受くる家は滅亡すと信ず。その文字は三隣亡とかきて、一軒のみ栄えて他の三隣はみな亡ぶの意 に解するは笑うべし。また、六三の迷信あり。六三とは一種の占法にして、己の年齢より九を引き去り、残れる 数によりて吉凶を判ずるなり。例えば残数が一か三ならば足に痛みを起こすと判じ、二か六ならば腰に痛みを起 こすと判じ、五か七ならば肩、四か九ならば腹、六か三ならば全身に苦痛を起こすと定め、六と三に当たれる年 を大凶とし、その年は必ず神社に参詣して、病気除けの祈薦を請うという。モー一つ聞き込みたる迷信を述ぶる に、一般に切り火︵石を打ちて出だす火︶は縁起の悪いものとして厭忌す。これ、その火はただちに滅する故な り。しかるに婚礼に際し嫁が家を出ずるときは、必ず切り火をなす。これは、かえるなかれの意を示すという。 その火を打つと同時に玄関へ塩をまくを例とす。これ、前橋方面にてもっぱら用うる旧慣なる由。碓氷郡にては 嫁の家を出ずるときには、切り火の代わりに箒にてはき出だすを慣例とすと聞く。これまた、かえるなかれの意 を示すものとす。これに反して普通の客来の節、客の去るを見てただちにはらうを不吉とし忌むという。また、 前橋の旧士族の家にては、正月三力日間は包丁を使うことを忌む。その意は、切ることを嫌うより起こる。よっ て大晦日の夜において、三日間の食物をことごとく切りおくを例とすという。以上、伝聞のままを記しおく。 群馬県巡講は多野郡を除く外、二市十郡を一周したれば、ここに余の鄙見を開陳するに、その県人は概して才 あり智あり、旧習になずまず、情弊に陥らず、快活にして進取の風あり。なにごとにもよく成功すべき資格を有 す。しかりしこうして、明治の新天地において、その割合に成功したる人物の出でざるはいかんというに、堅忍 持久、自彊不息の精神において欠くるところなきかを疑わしむ。いわゆるカラ風的にして、たちまち起こりたち まちやすみ、長く持続せざる風あるように感ぜしむ。果たして忍耐力の不足ありとせば、これを補修する方法を 252
南船北馬集 第十五編 考えざるべからず。余の見るところによるに、教育方面にては通俗講話を盛んにして、知識上よりこれを啓発す る道を講じ、宗教方面にてはその本分たる布教を興して、信念上より随機開導する方針を取るより外に良法なか るべしと信ず。今回三カ月にわたり、その県二市十郡を巡講し、各所において多大の厚意をかたじけのうするを 深謝するとともに、鄙見の一端を表白して高評を仰ぐところなり。妄言多罪。 十三日 晴れ。自宅にて休養し、十四日午後三時半、池袋発に乗り込み、東上線にて五時、的場駅に下車し、 これより車行約一里、埼玉県入間郡霞ケ関村く現在埼玉県川越市、鶴ケ島市v発智庄平氏の宅に入宿す。同氏は池袋よ り同乗せらる。 十四日 晴れ。発智氏は郡内の旧家にしてかつ富豪なり。大いに力を村治および教育の上に尽くさる。その邸 めぐらすに喬杉数十株をもってす。命名して養神園と号す。その中の書院を静観という。庭内に二十八勝あり。 九曲水、摩天杉等これなり。よって一詩を賦呈す。 一園二十八風光、最好養神又洗腸、九曲水声動詩思、摩天杉影護書堂。 ︵養神園には二十八の景勝があり、もっとも精神を養うことと世俗に汚れた腸を洗い流すのによい。九曲水 の水音は詩情をつき動かし、摩天杉は書院をまもっているのである。︶ 本村は田畑あり山林あり、養蚕製糸ともに盛んなり。また、甘藷、薪材をも輸出すという。午後、開会。会場 小学校の境内に大廟遥拝所あり。発起は弘道会支部長発智氏、幹事山畑武七氏、崇台講社長延命寺住職幡宥順氏、 執事新井宥延氏なり。村内有志家中に奇姓あり。御菩薩池と書し、これをミゾロケとよむ。また、本村の特色は 年々村暦を作りて各戸に配布することなり。その暦によるに、正月は新暦一月を用い、盆は七月二十四日より三 253
日間をあてはめ、四月三日、四日を三月の節句とし、二月末を年中の勘定日とする等の特色あり。演説後、 駅より乗車、当夕七時、帰宅す。 十二月十五日 晴れ。午前、東洋大学において教授内田周平氏還暦の賀莚に出席し、狂歌一首を賦呈す。 貧乏といふは野暮なり君が身は、読書万巻腹は福々。 内田氏の演説中、わが家は貧乏であるとの語を繰り返されしにつきて、かくよみたるなり。 群馬県開会一覧 ︵市郡︶ 前橋市 同 同 同 高崎市 同 同 同 新田郡 ︵町村︶ 太田町 ︵会場︶ 師範学校 中学校 臨江閣 郡会議事堂 劇場 寺院 高等女学校 中学校 小学校
二二二二ニー一ニー席
席席席席席席席席席数
︵聴衆︶ 三百人 六百五十人 七百人 三百五十人 一千百人 五百人 五百人 五百五十人 四百五十人 ︵主催︶ 同校 学友会 市教育会 郡教育会 市教育会 修養会 同校 校友会 郡町教育会 的場 254南船北馬集 第十五編
同同利同同同同同同同同同同同同同同
根
郡
同 尾島町 木崎町 薮塚本町 九合村 沢野村 世良田村 宝泉村 鳥之郷村 強戸村 生品村 綿打村 笠懸村 同 沼田町 同 白沢村 中学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 西小学校 東小学校 小学校 中学校 寺院席席席席席席席席席席席席席席席席席
四百五十人 六百五十人 四百五十人 六百人 四百人 四百人 七百人 四百五十人 四百人 五百人 四百五十人 七百人 三百五十人 四百人 五百人 二百五十人 四百人 校友会 郡教育会 郡長、町長、校長 郡教育会 村長 郡村教育会 郡教育会 郡村教育会 同前 同前 同前 同前 同前 同前 郡教育会 校友会 郡教育会および役場 255同同同勢同同同同同同同群同同同同同
多
馬郡
郡北南粕木滝同箕塚室渋金総新桃水東川
橘橘川瀬川 輪沢田川古社治野上村場
村
村村村村村 村村町町町町村村村
小小小劇寺寺小小小小小小村劇小小小
学学学場院院学学学学学学役場学学学
校校校
校校校
校校校校校校場
席席席席席席席席席席席席席席席席席
三百五十人 六百人 二百五十人 五百人 四百五十人 六百五十人 三百五十人 五百五十人 四百五十人 三百五十人 五百人 三百五十人 六百人 九百人 五百五十人 三百人 二百五十人 同村 郡教育会および役場 郡教育会 教育会および役場 教育会および役場 協和会および学校 郡学事会 同前 同前 同前 寺院および学校 協和会 三力村連合 青年会 四力村連合 青年会 同村 256南船北馬集 第十五編
同同同同吾同同同同同同同同同同山同
妻 田
郡 郡
横野村 桐生町 同 同 大間々町 同 同 川内村 境野村 広沢村 韮川村 休泊村 中之条町 同 長野原町 原町 岩島村 寺院 小学校 高等女学校 織布会社 劇場 小学校 旅館 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 寺院 小学校 小学校 小学校席席席席席席席席席席席席席席席席席
三百五十人 二百五十人 四百人 四百人 二百人 百五十人 二十人 五百人 二百人 三百人 三百人 二百人 五百人 二百人 二百五十人 百五十人 三百五十人 青年会 郡教育会 校友会 同会社 町青年会 学事会 青年会幹部 青年会 青年会 同窓会 学事会 青年会および法恩会 郡教育会 樹徳会 郡教育会 樹徳会 郡教育会 257碓氷郡 同 同 北甘楽郡 同 同 同 同 佐波郡 同 同 同 同 同 同 同 同 安中町 原市町 松井田町 富岡町 一ノ宮町 下仁田町 小幡村 月形村 伊勢崎町 同 境町 玉村町 三郷村 赤堀村 殖蓮村 采女村 剛志村 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 工業学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校
席席席席席席席席席席席席席席席席席
三百人 五百人 二百人 五百人 二百人 二百五十人 三百人 四百人 一千人 百五十人 三百人 四百五十人 三百人 六百五十人 二百人 三百五十人 三百五十人 郡教育会 同前 同前 郡教育会 教育会および神職会 同前 軍人会、青年会等 ニカ村連合 町青年会 校友会 青年会 各宗協会および町役場 学校、役場、寺院 学校、役場、寺院 教育部会 役場、学校 役場、学校 258同 同 同 同 同 邑楽郡 同 同 同 合計 豊受村 名和村 芝根村 宮郷村 同 館林町 小泉町 佐貫村 永楽村 二市、十郡、 小学校 小学校 小学校 寺院 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 六十七町村
席席席席席席席席席
五百人 四百人 四百人 百五十人 六百人 九百人 三百人 二百人 三百人 ︵二十五町、四十二村︶、八十六カ所、 青年会 村教育会 役場、学校、宗教会 住職 教育部会 郡教育会 同町 村長、校長 村青年会 百六十五席、三万五千九百七十人 南船北馬集 第十五編 付埼玉県ニカ所 ︹郡 町村 入間郡 川越町 同 霞ケ関村 合計 一郡、二町村、 演題類別 会場 町会議事堂 小学校 ニカ所、三席、 席数 聴衆 一席 七十人 二席 二百五十人 三百二十人 主催︺ 修証会 弘道会支部および崇台講社 259詔勅修身 妖怪迷信 哲学宗教 教育 実業 雑題 七十一席 四十六席 二十三席 八席 七席 十三席 260
南船北馬集 第十五編
大正六年度報告
例により本年中の余の事業経過を発表せんに、著作の方は、 奮闘哲学 全一冊 大正六年五月 東亜堂発行 南船北馬集 第十三編 大正六年六月発行 未知句斎集 全一冊 大正六年六月発行 新記憶術 全一冊 大正六年八月 文昌堂発行 哲学堂経営の方は、星洲界中に半月台を建築し、図書館前に紀念碑を設立せり。 をもって発表せり。︵雑誌第六月号︶ 巡講の方は前掲を再録して総計を示す。 一郡、一村、一ヵ所、一席、六百人︵神奈川県土肥村︶ 三郡、七町村、八カ所、十六席、五千五百五十人︵三河国西部︶ 一市、八郡、四十三町村、五十三ヵ所、百席、一万八千九百五十人︵大阪府︶ 五郡、十五町村、十六カ所、二十六席、三千六百二十人︵山城国︶ 二郡、六村、六カ所、十二席、一千六百人︵丹波大和一部︶ 一市、二郡、二町村、三カ所、四席、一千人︵甲州一部︶ 本堂将来の目的は﹃東洋哲学﹄ 261二郡、九町村、十カ所、十九席、四千七百人︵宮城県一部︶ 一市、十三郡、六十七町村、七十七カ所、百四十八席、三万一千七百三十五人︵岩手県︶ 一郡、八町村、九カ所、十八席、五千五百人︵新潟県一部︶ 一郡、一村、一カ所、二席、四百五十人︵福島県白江村︶ 二市、十郡、六十七町村、八十六カ所、百六十五席、三万五千九百七十人︵群馬県︶ 一郡、二町村、ニヵ所、三席、三百二十人︵埼玉県一部︶ 総計 五市、四十九郡、二百二十八町村、二百七十ニカ所、五百十四席、十万九千九百九十五人︵聴衆︶。 もしこれに明治三十九年以来の総計中より重複せる市郡町村を除去して通算すれば、左のごとくなるべし。︵重 複せるものは、市郡の方は大阪市北河内、三島、足柄下、岩瀬、入間、碧海、幡豆、額田八郡、町村の方は交野、 土肥、茨木、川越四町村なれば、これを除く。︶ 総合計 四十八市、四百二十七郡、二千六十一町村、二千六百七十九カ所、四千九百九十二席、百二十五 万九千八百六十五人︵聴衆︶。 ︵区は市に合し、街は町に、庄は村に合して算せり︶ 以上は余が満十二年間の事業と自ら称するところなり。 ︵付︶哲学堂会計報告 一、 茁?㈹v 金一万四千百四十七円八十六銭 262
南船北馬集 第十五編 一、 x出合計 金一万九百九十八円八十四銭 内 差し引き ︵備考︶ 以上 大正六年十二月決算 金五千円也 金四千円也 金六百八十円八十二銭 金百九十一円九十二銭 金二百六十四円六十八銭 金八百六十一円四十二銭 金三千百四十九円二銭 前年度剰余金 揮毫謝儀 篤志寄付 銀行利子 基本財産へ移す︵第三回︶ 同上 ︵第四回︶ 建築費および器具購入代 庭園手入れおよび修繕費 書籍、規則等印刷費 事務費︵俸給、手当、郵税等︶ 剰余金 基本財産は十年間貯金据え置きとす。 263
伊豆伊東迎歳記および群馬県一郡巡講日誌
大正六年十二月二十二日 晴れ。朝八時半、東京駅を発し、伊豆伊東温泉に向かう。これ、一力年間地方巡講 の疲労をいやせんためなり。午前十一時、国府津に着するも、汽船いまだきたらず。正午出帆の規程なるも、午 後三時半、ようやく国府津を発し、熱海、網代を経て夜七時半、伊東松原に着し、猪戸桝屋に入宿す。七、八年 ぶりにてここに至る。市街の面目は多少一新せるを覚ゆ。その翌日より毎日、西風吹き寒気強し。滞在中所吟、 左のごとし。 相海煙舟破凍風、岬頭三過到伊東、温泉未浴身先暖、知是満場湯気籠。 ︵相模の海を汽船は凍てつく風を破ってすすみ、三つの岬をよぎって伊東松原に着いた。温泉にはまだ入ら ないのに身体があたたまるのは、旅館すべてに湯気がこもっているからなのだ。︶ 天城山北浴霊泉、街上停節歎変遷、七百年前興廃跡、昇平今日酒楼連。 ︵天城山の北で霊妙な温泉を浴びる。街並みに杖を止めてそのうつり変わりを嘆息する。七百年前の伊東氏 が興廃の跡も、太平の今日では料亭が軒を連ねているのだ。︶ 伊東につきて俗謡をよむ。 伊東に風がないならば、こんなよい処あるものか、温泉景色共によし、魚は沢山名物は、蜜柑椎茸自然生、 春は山辺へ草つみに、夏は海辺へ水あびに、秋は月見に冬は湯に、四時の楽み多ければ、いつまで居てもあ 264南船北馬集 第十五編 きませぬ。 十二月三十一日︵日曜︶ 穏晴。暖香園に至りて古谷忠造氏を訪い、相伴って葛見神社の巨樟を見る。周囲五丈 三尺、熱海来宮のものに比すべき大樹なり。音無神社、東林寺、伊東祐親墓、物見松等を巡覧して帰る。 大正七年戊午元旦、伊東迎年の一作あり。 政海風波総不関、豆南迎歳酔忘還、吾身錐老心猶壮、荷得皇恩重似山。 ︵政界の風波とは一切かかわりもなく、伊豆の南で新年を迎え、酔ってかえるを忘れる思いである。わが肉 体は老ゆるとはいえ、心はなおさかんに、皇恩の山のごとき重さを背負っているのである。︶ 伊東の旅館は猪戸にては桝屋を第一とし、そのつぎに湯本館、東京館、山田屋等あり。玖須美にては暖香園、 伊東館等あり。 三日、東洋大学へ向け、新年会欠席の断りを左のごとく打電す。 電信に代理たのみて伊東より、年賀を述ぶる我は井上。 また、新年勅題につきて賦したる野吟二首あり。 大東浜上一株松、葉似鳳姿骨似竜、欧土戦塵飛不到、依然翠色四時濃。 ︵大東浜の上に一株の松があり、枝葉は鳳翼のひろげた姿にも似て、樹幹は竜の舞う姿に似ている。はるか 欧州での戦塵もここまでは至らず、昔のままに翠緑は四季を通じて濃い。︶ 東海富峰下、老松千古青、経年益繁茂、樹骨有神霊。 ︵東海富士の峰を見上げるところ、老松は千古の緑をたもち、年を経てますます繁茂している。これは樹身 265
に神霊が宿っているからであろう。︶ 四日 晴れ。にわかに帰京を思い立ち、定期の自動車に駕して伊東を去り、冷川を経て大仁駅に至る。道程五 里を一時間半にて走れり。大仁より汽車にて帰京す。 大正七年一月十一日。朝八時半、上野発、午前十一時、群馬県多野郡新町︿現在群馬県多野郡新町﹀に着。駅前丸 竹旅館に入りて憩い、午後、公会席共楽館にて開演す。主催は青年会、発起は町長高橋房吉氏、助役椎名保三郎 氏、校長浜野熊吉氏、軍人副会長安野豊作氏なり。この日、郡長堀太郎作氏、視学伊藤新作氏出席せらる。本町 には製糸場および紡績場ありて大いににぎわう。本郡は県下各郡中、新暦採用の先鞭をつけし地なりとて、一般 に新正月を用う。本日は十一日正月なり。 十二日 晴れ。車行二里、美九里村︿現在群馬県藤岡市﹀に至り、午後、小学校にて開演す。発起は村長斎藤幸市 氏、校長針谷台作氏なり。本村は養蚕本位だけありて、四面桑園のみ。当夕は造酒家かつ旧家田島文太郎氏の宅 に宿す。 一月十三日︵日曜︶ 晴れ。朝、田島氏の名酒﹁竹に雀﹂を傾けつつ、﹁田島なる竹に雀に誘はれ、我も朝から千 代千代と呼ぶ﹂とうそぶく。車行約三里、吉井町︿現在群馬県多野郡吉井町﹀に至る。旧藩所在地なり。午後、小学 校において開演す。学事会長新井巴氏、教育会長楊島福七郎氏、青年会長江原定七氏の発起にかかる。宿所は金 子旅館なり。当地には篤志家堀越文左衛門氏ありて、古稀および金婚の紀念のために、小学校へ講堂全部を寄贈 せられたりと聞く。この地方にはタバコを産出すという。先年兵庫県にて相しれる小林正義氏に再会するを得た り。町内より二十丁離れたる所に、日本三碑の一たる多胡の碑あり。 266
南船北馬集 第十五編 十四日 晴れかつ風。昨夜来、松飾りの松を集めて未明にこれを焼く。これを道祖祭またはドンドンヤキとい う。その松飾りの跡へ木花と称するもの︵ニワトコの木を削りて造る︶を立つるなり。午前、車行約五里、鬼石 町︿現在群馬県多野郡鬼石町﹀に至り、午後、小学校にて開演す。本町は神流川の咽喉を占め、その地勢は下仁田に 似たり。しかして町名の起源は、神社の奥院の縁の下に鬼石あるによる。その直径四尺、高さ三尺、神座となり おる由。これより狭陰なる峡路をさかのぼり、信上国境十石峠まで十三里あり。この間には茶盆石、雲石、姥石 等、奇石の数四十八個ありと聞く。余、これを詩中に入るる。 路入峡間車漸遅、一渓風月好題詩、神流川上水清処、四十八岩奇更奇。 ︵道は谷間に入って、車もゆっくりとしか進めぬ。しかし、この渓の風月の美しさは詩を詠ずるにはまこと によい。神流川上流の水清き所には、四十八個の奇石、奇岩がある。︶ この川源に高天ケ原および神ケ原と名付くる地名あり、乙父、乙母と名付くる部落あり。また、その下流には 木ノ宮、土ノ宮、金ノ宮等、木、火、土、金、水の地名ありという。開会発起は町長岩城善郎氏、校長川端安蔵 氏なり。当夕、三島屋旅館に宿し、本町の名酒﹁鬼面山﹂を傾く。 十五日 穏晴。下行三里、郡衙所在地たる藤岡町︿現在群馬県藤岡市﹀に至る。途中、八塩鉱泉あり、塩泉なる由。 藤岡より二里、旅館には桜雲閣、通称浦部あり。藤岡会場は中学校、主催は青年会、発起および尽力者は町長作 宮久太郎氏、町会議員島崎芳太郎氏、社司須川虎之助氏なり。しかして中学校長は長沢開右衛門氏、教育副会長 は星野兵四郎氏なり。本町には造酒家多しと聞く。当夕、柏屋旅館に宿す。 十六日 朝降雪。車行一里、新町より汽車にのり、午前十一時、上野へ着す。今回の随行は角田松寿氏なり。 267
多野郡 同 同 同 同 合計 藤岡町 新町 吉井町 鬼石町 美九里村 一郡、五町村、 中学校 公会席 小学校 小学校 小学校 五カ所、
席席席席席
六百人 三百人 七百人 五百人 四百五十人 十席、二千五百五十人 町青年会 町青年会 学事会、教育会、 町長 同村 青年会 268 一月二十日︵日曜︶ 故男爵加藤弘之博士、 白巌氏等総じて七名、 温晴。東洋大学すなわち哲学館創立の際、特に尽力をかたじけのうせし故伯爵勝海舟先生、 故真浄寺住職寺田福寿師に対し、先般三十年紀念会の報告をなさんと欲し、境野哲氏、郷 墓前に拝脆し、報告文を読み、かつご在世中の恩義を謝す。下総銚子紀行 付還暦記事
南船北馬集 第十五編 大正七年一月二十八日 晴れ。野外の散策を思い立ち、両国駅午前十時四十分発に乗り込み、午後二時十分、 下総国海上郡銚子町に着し、停車場より四、五丁離れたる一等旅館大新に入る。楼名を江月楼という。利根河口 に面し、太平洋をあわせ望むを得て、楼上の眺望絶佳なり。ただ、臨時管弦の声の喧鴛なるを欠点とするのみ。 その他、旅館としては観音前に吉野屋あり、停車場前通りに川安館および銚子館あれども、江月楼と比眉するを 得ず。 当町は県下の大市街なるも、半分は漁家にして海産を主産物とす。これに次ぎては醤油なり。山サの醸造所の ごときはすこぶる大規模にして、その一年の醸造高五万石と聞く。町内の名所の第一は観音堂なり。飯沼山円福 寺と称し、真言宗に属す。市街の中央に位置を占む。気候は東京よりもいくぶんか温暖にして、年中雨を見るこ とまれなりという。しかし、風のある日は東京以上の寒気を感ず。滞在中、拙作二首あり。 帆舟姻艇影分明、江月楼頭忙送迎、望裏自知古今変、海螺城作瓦光城。 ︵帆をはためかす舟や煙をたなびかせる艦艇の姿がすっきりと見え、江月楼にいてその送り迎えを見ればせ わしない思いがする。一望するうちに、おのずから昔と今の変わりようが知られる。かつては貝殻を屋上に のせた人家であったものが、今や瓦屋根に光る屋並みとなっているのだ。︶ 沙丘鎖海巨川長、知是坂東第一郎、日落漁舟帰入港、連槽林外望蒼荘。 269︵砂丘が海をさえぎるようによこたわり、巨大な川がとうとうと流れている。この川こそ坂東第一の川、利 70 根川である。日暮れて漁師舟が港に入り、帆柱が林のごとく並びたって、あとは海が果てしなく見えるのみ。︶ 2 当所は毎戸屋上に貝殻を載せて置くより海螺城ととなえきたりしも、今はその多くは瓦ぶきに変じたり。よっ てこれを詩中に入るる。ついでに﹃銚子案内記﹄中より俗謡二、三を摘載せん。 泣いてくれるな出船のさきで、さをも櫓擢も手にのかぬ︵船唄︶。 お前ゆくならワシをも連れて、下は奥州のはてまでも︵同上︶。 わしは磯辺の船頭の娘、舟ぢや櫓も漕ぐ擢も引く︵同上︶。 水の流れは土俵でとめる、船の流れは碇でとめる。主の浮気は誰がとめる︵盆唄︶。 盆の踊に踊らぬ奴は、木仏金仏石ほとけ︵同上︶。 おらが隣りの千松は、近江の軍に頼れて、一年たつてもまだ来ない、二年たつてもまだ来ない、三年たつて 首が来た︵童謡︶。 銚子駅より一里余ぞ隔てて犬吠崎の灯台あり。その高さ九丈、海面を抜くこと十六丈八尺、その光芒の達する 距離十九浬余と称す。これ明治五年の起工、七年よりの点火にして、明治文明史に録すべき灯台なり。拙作一首 を左に録す。 犬吠岬頭立夕陽、危礁翻浪勢荒涼、楼灯忽点竜神火、照射五千余里洋。 ︵犬吠岬のさき、夕日にてらされて立ち、危険な岩礁にさかまく波、あたりは荒れはててものさびしい。こ の灯台には忽然としてわだつみの火がともり、五千余里の海洋を照射するのである。︶
南船北馬集 第十五編 同所には海水浴旅館暁鶏館、御風館および快哉楼等あり。これより十余丁を離れたる犬若浦には犬若館あり。 この海岸一帯は危礁怪岩多きをもってその名高し。二月五日、帰京す。 ついでに還暦の記事を掲げん。余は戸籍面によるに安政五年二月四日の出生なり。︵実際より一年多きも︶され ば本年は還暦に当たることになる。およそ世間の慣例として祝宴を開き、祝品を贈るを常とすれども、余は一切 これを廃し、人より祝賀を受けず、自らも祝意を表せず、その代わりに貧嚢を傾けて公共事業の方へ寄付するこ とに定む。 一金五百円也 一金三百円也 一金一百円也 一金一百円也 一金一百円也 一金二十円也 合計 右のほか、 つぎに、 東洋大学へ 哲学会へ 真宗大学へ 郷里中学校︵長岡中学和同会︶ 郷里小学校︵来迎寺村︶へ 江古田小学校へ へ 金一千百二十円也 家族および親類等へ金三百八十円を分配し、総計金一千五百円となる。 還暦の拙作を左に録す。 皇沢由来潤我身、忠衣孝食養天真、齢迎還暦誰言老、人寿猶録四十春。 ︵もとより天子の恩沢をわが身にこうむり、忠孝を衣食として、自然に飾らぬことをつとめてきた。 よわい 271