加藤弘之と井上円了
著者
松岡 八郎
雑誌名
井上円了研究
巻
3
ページ
19-34
発行年
1985-03-16
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006764/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja加藤弘之と井上円了
−加藤弘之の前期政治思想との関連において
松 岡 八 郎
本稿は、昭和五八年一二月六日の井上円了研究会第三部会の例会において、 ﹁加藤弘之の前期政治思想﹂と題して 報告したものを、再整理し、増補したものであるが、決して十分なものとはいえない。いまは中間報告という形にお いて取りまとめてみたのである。 筆者はかねてから、政治学ないし国家学を明治維新前後に欧米からわが国に受容した最初の典型な一人として、加 藤弘之に大きな関心をもっていたが、やがて井上円了研究会に参加したことによって、加藤と井上とは非常に密接な 関係があることを知るにいたった。 ここでまず加藤と井上との具体的な関係について、若干の指摘をしておきたい。加藤は天保七年︵一八三六年︶に但 馬国出石藩︵兵庫県出石町︶の兵学師範役の家に生まれており、井上は安政五年︵一八五八年︶に越後国三島郡浦村の真 宗大谷派滋光寺に生まれ、出生においては両者はなんの関係もないが、その年令の差は二二才であり、親子ほどの年 19令の違いがあったということができる。したがってその後、両者の問に関係が生ずると、井上にとって加藤は先生で あり、先輩であり、後援者となるのである。井上が加藤を直接知るようになるのは、恐らく井上が東京大学文学部第 一科哲学科に入学した明治一四年︵一八八一年︶以降のことではないかと思われる。加藤は当時、講義を担当していた わけではなかったが、東京大学総理の地位にあったからである。在学中、明治一七年には井上らは﹁哲學會﹂を組織 したが、加藤はその第一回の会合に出席している。井上は翌一八年に卒業し、二〇年には﹁哲学館﹂を創立するので あるが、この創立に際して、加藤の精神的援助が多大であったといわれている。こうして両者の関係は、加藤が大正 五年︵一九一六年︶に死去するまで長く続いた。 だが筆者が問題としたいのは、右のような具体的な関係を詳細に明らかにするということよりは、井上の思想 特に筆者が関心をもっているのはその国家の観念 を明確にするための一つの方法として、両者の思想的な学問的 なかかわりや異同を解明することにある。別言すれば、西欧的な国家の観念をわが国に最初に導入したといわれてい る加藤の国家の観念を下敷きに置いて、井上の国家の観念を描きだしてみようというわけである。勿論、現在の筆者 の研究段階では、到底この課題を全面的に解明することはできないので、ここでは、まず第一段階として、加藤の前 期政治思想との関連において、両者を比較する視点について考えてみたいと思う。 20 二 加藤の思想はよく知られているように、前期と後期とでは非常に異なっており、したがって、その思想をこの二つ の時期に分けて考えていくのが普通であると思われる。前期思想というのは、明治一〇年ごろまでの天賦人権論や立 憲政体論を主張していたころの思想をいい、後期思想というのは、それ以後、進化論を受容して、いわゆる社会進化
論あるいは社会的ダーウィニズムを基調とする思想をいうのである。 井上が加藤の思想になんらかの関心をもったであろうと思われるのは、恐らくその後期思想ではなかったであろう か。井上が東京大学予備門に入学したのが明治一一年であり、また文学部に入学したのが↓四年であり、前述のよう に一七年には﹁哲學會﹂を組織して加藤を直接知ることができたと思われる。このように井上の東京大学在学中のこ ろは、加藤は丁度、その前期思想を後期思想へと変化︵転向ともいわれている︶させていったときであった。 わが国に進化論が体系的に紹介された最初は、明治一〇年一〇月、東京大学の動物学生理学教授モースによる講演 であったといわれているが、それ以後、特に進化論が盛んに論議されるにいたった。加藤がその思想的変化を初めて 明確に示したのは、明治一二年=月、東京・愛宕下の青松寺において﹁天賦人罐ナキノ読井善悪ノ別天然ニアラサ ルノ説﹂と題して行った講演であったが、さらに翌二二年三刀には東京・東両国の中村桜において﹁天賦人罐ナキ論 ノ績キ﹂という講演を行い、また一四年一一月二二日には政府からの圧力もあって、前期思想である天賦人権論を基 調としていた﹁眞政大意﹂および﹁國緒新論﹂の二つの著書を﹁謬見﹂としてみずから絶版とする旨を公表するにい たった。こうして加藤は思想的変化を遂げるとともに、新しい思想の確立に努力し、 五年一〇月には﹁人樺新説﹂ を公刊して、進化論の立場に立つ新しい思想を体系的に構築したのである。そしてこの﹁人樺新説﹂に対して、矢野 文雄、馬場辰猪、植木枝盛、外山正一などから激しい反論が行われ、いわゆる﹁天賦人糠論箏﹂が起こって、当時、 世間に大きな反響が巻き起こった。 井上も明治一四年ごろ、石川千代松と進化論について論議していたことがあるところをみると、進化論になんらか の関心をいだいていたことは否定できない。だが勿論、当時、井上の関心の中心は哲学であり、宗教であり、仏教で あったのであろうから、したがって思想的には加藤と井上とは相反する立場にあったことはいうまでもない。いまこ 21
こで、両者の思想的かかわりについて詳細に検討することはできないが、その相反する立場にあることを明確に示す 一例としては、よく知られているように、もう少し後年になって、明治三一年、井上が﹁破唯物論﹂という著書を公 刊したのに対して、加藤が﹁破破唯物論﹂という論文を書いて、これに反論していることがある。井上のこの著書は ﹁一名 俗論退治﹂という副題が示しているように、その批到する唯物論の範園を非常に広く使用している。井上は この著作の目的について、 ﹁主として近來流行の唯物論を破斥するにはあれども傍ら祠儒佛三道の再興を謀らんとす るにあり而して其再興は祠儒佛の身躰へ西洋學説の滋養を與へて何れの劉まで襲達し得るやを試んことを期す﹂るも のであると述べ、また﹁此に一口に唯物論と云ふも、其中には色々の分子が混じて居ます。即ち余が近來新聞に雑誌 に著書に講演に其他談話中に一たび見聞して荷も三道の敵と見認たものは、皆之を一束に纏て、此に唯物論の張札を 付けました、故に若し細かに分けて申さば、其中には唯物論、進化論、實験論、感畳論、自利論等が一魔になりて居 ます、尚ほ其外に唯物論の小使か人足かは知らざれとも、拝金宗、躰欲宗、御幣連、芋虫連も加はりて見えます、而 して其仲間は何れも西洋舶來の看板を掲げ、頻りに西洋風を吹き立てふ、何となく威張たる風躰でありますが、其中 で唯物論が大將らしく見ゆるを以て、余は其線名を唯物論或は唯物派と申します、若し紳儒佛三道に比較して視ると きは、何れも我邦の正論にあらずして、舶來の俗論なれば、一名之を俗論派と呼び、之に封して三道の方は正論涙と 爾します、其外に舶來の學派中にも非唯物派、即ち先天派、唯心派、理想派等ありて、多少三道と一致するものもあ りますから、是等は皆正論派の仲間に入れて、客席に据置積りであります。﹂と説明している。このように井上は、 その反駁しょうとする唯物論の範囲内に、加藤が支持する進化論を含ませており、したがって加藤からの反論が当然 に行われることになる。 加藤は﹁破破唯物論﹂という論文の冒頭において、 ﹁井上円了博士は学識卓越にして且つ教育上の功績も既に著大 22
なり故を以て余と年歯を隔ること殆と父子の如きにも拘はらず積年の交誼深厚にして余の益友とする所なり然るに博 士が先頃著述せられたる破唯物論は余の学説を駁するもの多くして余と所見を異にするの点少からざれば余は弦に之 れが反駁を試みざるを得ざることとはなれりLと前置し、井上の所説をもって﹁全編に渉りて非科學的なるもの甚だ 多き﹂と反論している。 この論争について、ここではこれ以上たちいることはしないが、このように両者は非常に親密な関係を有しながら も、思想的には相反する立場にあったのであり、井上が加藤を批判したのは、進化論を基調とするその後期思想が中 心であったのである。したがって両者の思想を比較検討する場合、加藤においては後期思想を主として問題とすべき であろうと思われるが、筆者はその後期思想については目下研究中であるため、この両者の思想を詳細に比較検討す ることは次の機会に譲りたいと思う。そこで本稿では、井上の思想、特に国家の観念を明らかにするための一つの方 法として、両者がともに啓蒙学者といわれていることから、まず加藤の啓蒙思想の特質について考えてみたいと思 う。勿論両者は啓蒙学者として活躍した時期を異にしており、したがってその啓蒙思想の特質を異にしてはいるが、 加藤の啓蒙思想の特質を考えることによって井上の啓蒙思想をひいては国家の観念を考える視点を見出すことができ るのではないかと考えるのである。 三 一般に、幕末慶応期から明治↓○年ごろまでの時期を啓蒙期あるいは啓蒙時代と呼び、とりわけ啓蒙活動を活発に 展開した﹁明六社﹂の人たちの思想を、普通、明治啓蒙思想というのであるが、 ﹁明六社﹂の一員でもある加藤がこの 時期における最も典型的な啓蒙学者の一人であったことはいうまでもない。したがって加藤が啓蒙学者として活躍し 23
たのは、主としてその前期思想の時期であったということができる。 そこでこれから、加藤の前期思想としての啓蒙思想について、その特質を考察しようとするのであるが、そのまえ に、個々の啓蒙学者の問題としてではなく、いわゆる明治啓蒙思想に共通する特質についてまず述べておきたいと思 う。だがこの特質については、すでに他の機会︵拙稿﹁津田真道の啓蒙的政治思想について﹂﹁法学新報﹂︿中央大学法学会﹀ 九九巻一・二合併号昭秒五九年六月三〇日発行参照︶に論じたことがあるので、ここでは結論的に述べるに止めたい。 一般に啓蒙思想というのは、広く民衆の無智蒙昧を啓発することを目的とし、その結果、個入としての自覚と自発 的能動性を高めようとする思想であり、そこから当然、明治啓蒙思想もその特質の第一として、進歩主義的思考や合 理主義的思考を基底的な性格としてもつことになる。したがってそこには、多くの場合、前提として愚民観がつきま とわざるをえなかったのである。 第二には、明治啓蒙思想は一九世紀後半、植民地的アジアの一角において、帝国主義的段階への移行期にあった欧 米先進諸国による強大な国際的圧力を全面的に受ける状況に対応するものとして、あるいはまた国内的にはその国際 的圧力に対抗するために、幕藩制から天皇制的中央集権国家体制へ転換しようとする啓蒙専制政治のもとにおいて登 場してきたものであることからして、一方においては、その強大な国際的圧力にいかに対応するかを意識せざるをえ なかったとともに、他方においては、その対外的圧力に対抗するための国内体制の変革・整備をいかにすべきかを意 識せざるをえなかったのである。したがってこの二つの課題に対応するために、後進国としてナショナリズムの傾向 をその基調としてもつことなり、また西洋列強に対抗しうる統一国家を形成することが終始その主要な[日標とされ た。こうして明治啓蒙思想は、明治新政府の基本施策と同調しながら、あるいはそれを先取りしながら、王政維新の もとにおける開国和親、富国強兵、文明開化などの思想を推進し普及していったのである。 24
第三の特質は、よく言われているように、その啓蒙の方法がいわゆる上からの啓蒙であったという問題である。対 外的圧力に対抗するための統↓国家の形成が、すなわち明治維新の変革が、主として、下からではなくて上から行わ れたことから、その啓蒙も上から、さらに言えば﹁制限された臣下の悟性﹂の使用として行われたのであった。した がって臣下の立場からする上からの啓蒙は、前述のナショナリズムを基調としたことによって、民権よりは国権を尊 重する思想が重視される。換言すれば、国権を確立するための民権という考え方が、それぞれの程度の違いはあった としても強調されたのである。この意味において、明治啓蒙思想は一般的に進歩主義の立場に立ちながらも、体制変 革的ではなくて、体制維持的な体制順、応的な思想であったといってよいであろう..したがってここに、明治啓蒙思想 の限界がある。 第四の特質は、明治啓蒙思想はいうまでもないが、近代西洋の思想や文物制度を摂取するという形をとって展開さ れたということである。幕末から維新にかけて、撰夷思想がなお根強く存在するなかで、洋学に対する偏見が依然と して残存してはいたが、欧米先進国に対抗していくためには、後進国たるわが国は欧米先進国の文化・文明を大いに 吸収しなければならないとしたのである。だがその際、それを導入する態度としては、和魂洋才や東洋道徳・西洋芸 術などの観念が示しているように、日本人としての自主性や主体性が貫かれていたといわれている。特に儒教の教養 −殊に朱子学的な自然法思想iを媒介として、西洋の自由や権利の観念が受容された、いわゆる天賦人権論の導入な どは、その適例ということができるであろう。だがこのような自主性や主体性は、ナショナリズムの傾向や上からの 臣下としての啓蒙の思想とあいまって、自由や権利の観念に不徹底性やあいまい性をもたらしたともいわれ、明治啓 蒙思想がやがて明治一〇年ごろから変容していった原因ともなったのである。また欧米先進国の文化・文明を吸収す る態度としては、即効性が期待され、したがって実用の学が明治啓蒙思想において重視されることになる。 25
右のように結論的に述べた四つの特質をもって、明治啓蒙思想の特質にすることができるとするならば、次には、 この特質を考慮におきながら、加藤の前期思想としての啓蒙思想の特質について、その生涯と関連させながらできる だけ簡潔に述べてみたいと思う。 加藤は、すでに述べたように、天保七年︵二八三六年︶六月二三日、仙石氏の支配する出石藩の中級武士の家に長男 として生まれたが、家職は甲州流兵学師範役であった。加藤出生の前年、天保六年には、いわゆる仙石騒動という御 家騒動があって、藩禄が削減されたため、加藤家の禄高も半減され、その生活が非常に苦しくなり、また病弱な母が 一四才のときに死去したこともあって、加藤の幼少年時代はかならずしも恵まれているとはいえなかったが、弘化二 年︵一八四五年︶には一〇歳にして藩校・弘道館に入学して、儒学ー四書五経を習い、同じころ、父からは兵学を教え られ、文武の修業に励んだが、議論好きな少年であったといわれている。こうして加藤は、あまり恵まれた境遇に育 ったとはいえず、多くの啓蒙学者と同じように、学問を好む性格ではあったが、一方、封建的な閉鎖的な不合理な身 分制度に対して批判的な性向をもつにいたるとともに、他方、立身出世に対する野心をもつにいたったようである。 やがて西洋列強のわが国への進出がしきりに起こるにいたり、対外的な危機のもとで加藤も西洋への目が開かれる こととなったが、嘉永五年︵一八五二年︶には父にともなわれて、兵学修業の目的をもって江戸にでてきた。だが伝統 的な兵学にあきたらず、佐久間象山について西洋流砲術を学び、さらには大木仲益︵のちの坪井為春︶について蘭学を 学び、非常な困難な状況のもとで蘭学に精励した結果、恩師大木などの推薦によって、万延元年︵一八六〇年︶閏三 月、幕府の設置する蕃書調所の教授手伝に就職したのである。 この就職は、生活上の安定を与えるとともに、蕃書調所の優秀な洋学者たちの指導を受けることを可能とし、また その所蔵する洋書を自由に活用することができるようになって、加藤の洋学研究が目覚しく進歩し、やがてドイツ語 26
■ をも本格的に学ぶこととなり、さらにはその学問的関心を自然科学や軍事科学から社会科学や人文科学へと転換して となワぐさ いった。こうして殊に西洋の政治について勉学した結果、文久元年二八六二年︶一二月に﹁郡艸﹂という問答体の小 冊子を完成した。これは当時の状況のもとでは幕府に出版の許可を得ることは到底不可能であると考え、また撰夷家 によって不測の害を受けるかもしれないという心配もあって、公刊されることなく、写本となって同僚や友人に流布 したといわれており、一般民衆を啓蒙することはなかった。この小冊子は、隣国中国︵清国︶の政治改革に籍口して、 わが国の政治改革を論じたものであるが、当時の﹁内憂外患交々いたる﹂という危機を乗り切る方策として、東洋の 専制国家にはいまだ存在しない良制であるところの西洋の仁義を旨とする公明正大な政体11上下分権11立憲君主制 ︵加藤は﹁鄭艸﹂ではまだ立憲政体という言葉は使用してはいない︶を導入すべしと説いている。ここに上下分権というの は、 ﹁君主萬民の上にありてこれを統御するといえども、確乎たる大律︵憲法︶を設け、また公會︵議会︶といえるも のを置きて王権を殺ぐものをいう﹂とし、また﹁天下は天下萬民の天下たることを忘れず、萬事みなひとり國王のた めに謀らず、もっぱら國家萬民のために謀るを本意とす。﹂と述べて、儒教的な安民ないして民本の思想を基礎とし ながらも、西欧的政治理論にもとつく上下分権をもって政治を改革する良術であると論じ、しかもこの政体は郡県制 にも封建制にも適用することができると説いている。こうして加藤は、郡県制の専制国家であった清国のみならず、 当時のわが国の幕藩制の改革にもこの政体を適用することができるのではないかと示唆している。すなわち加藤は、 封建制のもとにおける立憲君主制の採用という、いわば公議政体論的立場からする幕府政治の改革を想定していたと いうことができる。換言すれば、幕藩制を廃滅して立憲君主制を採用するという革命的方法ではなくて、封建制を維 持しながら立憲君主制を導入することよって幕藩制を改革し、統一国家を形成して内外の危機に対応しようという体 制維持的立場からの立論であった。 27
このように幕府に仕える官僚学者加藤は、上下分権をもって政治改革の良術であるとするのであるが、それが良術 であることを説明するために、政体分類論⋮比較政治制度論を展開しており、この政体分類論こそ、わが国に西洋の 政治理論を体系的に受容した最初のものであったといわれている。 ついで元治元年︵一八六四年︶八月には幕府の直臣に抜擢されて、開成所の教授職並に昇進したが、慶応三年︵一八 六七年︶七月にはドイツ語の勉学を基礎として、ドイッの学者ブロックの著書を抄訳し、﹁西洋各國盛衰強弱一覧表﹂ と題して公刊した。この訳書は、西洋の﹁各國人口の多寡、版圖の大小、海陸軍の兵数、軍艦のトン敷、輸出・輸入 の多少等、その他諸般のことを各國比較的に﹂図示して説明し、西洋各国の強盛な有様を説くとともに、その強盛な 原因を政体に由来すると論じている。西洋各国は君主同治︵立憲君主制︶か万民共治︵民主共和制︶かの政体を採用して おり、したがってともに立憲制ないし議会制が行われて、官民が]心一体となることができ、それが西洋各国をして 強盛ならしめることができたというのである。このように加藤は立憲政体をもって官民調和の場としてとらえる立場 から論述しているのであるが、とかく当時のわが国においては国論が対立している状況にあり、したがって国論が統 一されることが望ましく、その国論を統一する方策として、官民調和の場としての立憲政体を採用すべきことを考え ていたといってよいだろう。なおこの訳書は公刊書としては最初のものであったが、類書の少ない当時においては、 西洋の状況についての啓蒙書として大きな役割を果したといわれており、ここに幕府に仕える啓蒙学者として登場す るにいたった。 加藤がこの訳書を出版して間もなく、政治状況が大きく変動して、将軍慶喜が慶応三年一〇月一四日には大政奉還 の上表を朝廷に提出し、同年一二月九日には討幕派のクーデターによって王政復古の大号令が発せられて、新政府が 誕生したが、翌慶応四年の早々には鳥羽・伏見の戦が起こり、敗れた慶喜は江戸へ逃れて恭順謹慎し、徳川家は重大 28
な存亡の危機に直面することになった。同年四月には江戸城が開城され、徳川家も一大名となり、家達が相続して、 駿河国府中の城圭となったが、加藤は幕府崩壊後も忠実な徳川家の家臣であり、そのころには大目付御勘定頭に進ん で駿府新政施行に従事していた。 丁度そのころ、慶応四年七月には加藤は第二の公刊書である﹁立憲政髄略﹂を出版するにいたった。この著書はわ が国で初めて立憲政体という言葉を使用したものとして注目に価するが、﹁鄭艸﹂の一層の充実を期したものであり、 その政体についての説明も﹁郡卿﹂よりもさらに詳細に行われている。立憲政体とは、﹁公明正大・確然不抜の國憲 ︵憲法︶を制立し、民と政をともにし、もって眞の治要を求むるところの政艘﹂であるとし、ここでもその政体には 上下同治︵君民共治11立憲君主制︶と万民共治︵民主共和制︶とがあると説いて、この二つを高く評価し、この立憲政体 こそ世界の大勢であると称揚している。 またこの立憲政体の説明に当っては、治者が﹁天下をもってその私有﹂となすことなく、国憲を制定し、国民に参 政権を認め、さらには三権分立制が確立されるべきことを説いているが、すでにこのとき、愚民観がその理論の基礎 となっており、ここに後年、民選議院論争において時期尚早論を説く根拠をすでに見出すことができる。だが政党に ついてはまだなんら言及しておらず、加藤の近代政治の理解はまだ低かったといってよい。 この著書で初めて国民の権利 公私二権について述べているが、その私権についての説明において、 ﹁生活は天の 賜うところ、これを奪うもまた天にあり。人のほしいままに奪うべきものにあらず。これを人生諸擢利の基礎とな す。﹂と論じて、詳細ではないが、加藤の前期思想の根幹をなした天賦人権論が述べられており、注目してよいであ ろう。公権については、特に選挙権および被選挙権について指摘しているが、普通選挙制を当然としながらも、制限 選挙制を考慮しており、漸進的思考を現わしている。 29
そこでこの立憲政体および国民の公私二権の二つの理論を結合することによって、加藤の立憲国家像を形成するこ とができると思われるが、その立憲国家とは、治者の私有物ではなく、治者と被治者との公共的共同体であって、こ の公共的共同体を制度的に保障するものは、憲法にもとつく政治、三権分立制、国民の権利の保障であるが、前述の ようにこの制度を運転するものとしての政党についてはまだ意識されていない。このように﹁立憲政髄略﹂は政治制 度論を中心として政治理論が展開されていたのである。 この﹁立憲政髄略﹂においても、 ﹁郷艸﹂の主張と同様、 ﹁わが皇國また二千有飲年間固有の政艘を存せしが、去 歳わが奮幕府時勢を観察して政灌を天朝に蹄納せられしより、萬機一新公明正大の政髄を起こしたもう。眞に皇國中 興の盛業にして、百姓の幸頑これより大なるはなし。﹂と述べているように、封建制を維持しながら上下同治︵立憲 君主制︶を採用することを高く評価している。この著書は、前記二つの書物と比較するとき、その理論的進歩がきわ めて大きいが、それは津田真道が慶応二年九月ごろに訳出した﹁泰西國法論﹂を貧欲に吸収した結果だといわれてお り、この著書は津田の焼き直しとさえいわれているが、類書の少なかった当時においては、吉野作造が高く評価して いるように、多くの人びとに﹁恐らく異常の感動を與へたことであろう。﹂し、また時代の要請に十分答えることの できる内容をもった書物であったことは疑いなく、したがってその啓蒙的効果は非常に大きく、加藤はいよいよ啓蒙 学者としての地位を高めていったのである。また勿論上からの臣下の立場としての啓蒙であったことはいうまでもな い。 やがて加藤は、右の﹁立憲政艘略﹂を公刊して間もなく、駿府新政の執行に従事中、新政府より召されて、明治元 年一〇月二九日、政体律令取調掛に就任した。これは新政府が加藤の西欧的な新しい政治知識を必要としたためであ ったが、加藤はこれによって徳川家から新政府へ忠誠を変えたのであり、その体制維持的な出世志向的なパーソナリ 30
ティをみることができる。だが論理的には、加藤にとってこの忠誠の変更はなんら矛盾してはいなかったといってよ いであろう。なぜなら、幕末からの国論の対立を収拾して欧米先進諸国に対抗していく統一国家ー立憲君主制国家を 形成すべきであると考えていた加藤は、いまや徳川家にその実現を望むことは不可能であり、新政府こそそれを実現 する能力を有するものであると期待したからである。 こうして明治政府に官僚学者として仕えることになり、次第にその地位を高めていったが、翌二年四月には﹁交易 問答﹂を刊行して、さらに広く民衆を啓発したのであった、この著書は、擾夷鎖国的風潮が依然として強かった当時 において、その風潮を改めて、自由貿易論の立場から外国との自由な交易を進めることがいかに有利であるかを述べ たものであり、撰夷鎖国の蒙をひらき、自由な貿易を勧めんとしたのであった。このような考え方は、当時としては 開明的で進歩的であったが、と同時に、開国和親・文明開化を基本的方針とした新政府が鎖国撰夷論者の取り扱いに 手をやいていたときだけに、政府の立場をも支援する役割を果した。 ついで加藤は、翌明治三年七月には第四番目の公刊書﹁眞政大意﹂を出版して、一層民衆の啓蒙に努めた。この著 作は﹁立憲政鵠略﹂の続編といわれているが、 ﹁立憲政譜略﹂が主として﹁治法﹂︵政治の制度︶を扱っていたのに対 して、﹁治術﹂︵政治の運用︶を問題としたものであった。加藤は、﹁安民﹂すなわち国民を安穏幸福ならしめることを もって、﹁治國﹂︵政治︶の目的であり、理想であるとして、この目的・理想を達成すべき﹁治術﹂を名づけて﹁眞政﹂ であるというのであり、 ﹁眞政大意﹂という書名は、このような意味から付けられた。こうして加藤の﹁眞政﹂は、 治者の側がいかに被治者︵民︶を治めていくのかという政府の職掌を問題としており、その職掌として保護と勧導と をあげているが、その職掌を行う場合には﹁政府で世話をやきすぎるという弊のないように、なるたけは民に任せる ようにすることを忘れてはけっしてならぬ﹂と述べて、儒教的発想を基礎としながらも、自由主義を基調として、治 31
者の側の立場からする﹁眞政﹂を論じたのである。 明治三年一二月には侍読に任命され、明治八年四月まで明治天皇に西洋の政治、法律について進講したが、この進 講のテキストとして、ブルンチュリの﹁一般國法學﹂を使用し、その訳稿を﹁國法汎論﹂と題して出版した。これは 原書の主として制度論的部分を訳したものであったが、わが国におけるドイツ一般国法学の最初の翻訳であったとい われている。また当時のわが国においては、中国の社稜の観念や国学の国体観念のほかには、まだ新しい時代に即応 すべき学問的な国家の観念が形成されていなかったが、この﹁國法汎論﹂は、わが国における西欧的な国家ないし国 家学についての最初の学問的観念を提供するものとして、学界のみならず、殊に現実に政治を担当している当時の官 僚に大きな影響を与えたといわれている。 ︵井上の蔵書中にもこの﹁國法汎論﹂がある。︶ この訳書は、加藤自身の思想を直接的に示すものでは勿論ないが、保守主義といわれている国家有機体説を基調と していると同時に、ドイツ的自由主義の立場に立つ立憲思想の側面をも具有していた。加藤が治者を念頭において主 として統治機構としての国家の制度に限定して訳出した本書は、君主の個人的統治に反対し、家産国家的構成を否定 する立憲主義的側面をも具えており、主権、国家元首の権利、国家官史の職務権限が決して個人的なものとして理解 されるべきではなく、有機的全体としての国家の利益に奉仕し、国法の制限のもとにおかれるべきものであるという 立憲政体を強調していたのである。 さらに加藤は﹁明六吐﹂の一員としても啓蒙活動に従事することになるが、このころ明治七年一月、板垣退助たち の行った民選議院設立建白に対して、時期尚早論ないし漸進論をもって反対したことはよく知られているところであ る。 ﹁国家治安の基礎を固ふする公議を張るより善きはなし。然るに其間に一難事なき66はず。何をか難事と云ふ。 即ち公議必ずしも至論明説ならざるを云ふなり。欧州文明開化の各國に於てすら、尚且つ或は之を免る﹀能はず。況 32
んや開化未全の吾邦に於てをや。Lと主張したが、このような愚民観を根拠とする主張は、政府にとってははなはだ 好都合であり、したがって加藤は政府の立場を擁護する御用学者とみられるにいたり、しかも従来、立憲政体論や天 賦人権論を唱えてきたと思われていただけに世間の風当りは一層強かった。しかしこのような漸進論はすでに﹁立憲 政艘略﹂以来のものであって、したがって以前からの主張の論理的帰結でもあったのである。こうしてこのころか ら、加藤は明白に政府側の官僚学者として認められていくことになるが、依然として立憲主義を標傍していたことに は変わりはなかった。 明治八年の初め、初期三部作の最後の著書﹁國髄新論﹂を公刊した。この著書は、従来の国学者や漢学者などが唱 えていた国体をもって﹁野鄙随劣﹂なものであると批判し、西欧の進んだ政治理論によって新しい﹁公明正大﹂な国 体論を示そうとしたものであった。加藤の﹁眞誠の國艘﹂というのは、国家の起源を﹁人の天性﹂と﹁天意﹂とにも とずくものとする天賦人権論を基礎として、 ﹁,國家においては、入民を主眼と立て、とくに人民の安寧幸福を求むる 目的を定め、しかして君主および政府なるもの、もっぱらこの目的を遂げんがために存在するをもって、国家の大主 旨となすところの國鵠﹂をいうのである。したがって﹁天皇も人なり、人民も人なれば、ただ同一の人類中において 奪卑上下の分あるのみ、けっして人畜の懸隔あるにあらず。﹂﹁吾輩人民もまた、天皇と同じく人類なれば、おのおの 一己の心を備え、自由の精肺を有するものなり。﹂としているが、この自由の精神はなにをしてもよいのでは勿論な く、 ﹁つつしみて君主政府の命令・慮分を遵奉するをもって常則﹂としなければならないが、 ﹁ただし君主政府の命 令・虚分、もし倫理に背反し、あるいは人民の私罐を妨害する等のこと明瞭なるにいたりては、︵中略︶あるいは自己 の所見を述べてこれを拒み、あるいはまったくこれに違い、また實にやむをえざるにいたりては、これに抗するもた だに不可ならざるのみならず、かえって正道に合すとすべし。﹂と述べて、最終的には政府に抵抗することを承認し 33
ている。 このように﹁國髄新論﹂は、保守派を攻撃して、開明的な考え方を示しているが、結論としては、公明正大にして 真誠な国体というのは国家の理想であり、この理想を達成するためには、良正な政体︵立憲政体︶を立てる必要がある が、それのみではなく、その国の古今の沿革と人情・風習に適合した、換言すればその国の現実に適した政体を選ぶ ことも肝要であるとする漸進論を展開しており、ここに加藤の前期思想における不徹底性やあいまい性をみることが できよう。こうしてこの著書は保守派を厳しく批判したことからして、それらの人々からは激しい非難を受けたが、 他方、当時、高まりつつあった自由民権運動に理論的なよりどころを与えたともいわれている。 以上、加藤の経歴と関連させながら、その前期思想をその主要な著作についてきわめて簡略にみてきたのである が、それらの著作をみるとき、加藤の啓蒙思想は、前述の明治啓蒙思想の特質をすべて具備しているといってよいで あろう。この意味において加藤は最も典型的な啓蒙思想家というべきである。そしてその前期思想における国家の観 念の中核は、端的にいえば、ドイツ的自由主義を基調とする立憲君主制国家であるということができるであろう。 付記 中間報告ということからして、注記を付さなかったことをお許し願いたい。 34