源頼親と大和源氏の生成
著者
森 公章
著者別名
MORI KIMIYUKI
雑誌名
東洋大学文学部紀要. 史学科篇
巻
43
ページ
1-46
発行年
2017
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009902/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja一 源頼親と大和源氏の生成 はじめに 鎌倉幕府を開き、公家と並立する武家社会の成立を齎した源頼朝は、清和源氏、就中源頼信に始まる河内源氏の家系 に属していた。曩祖六孫王経基─満仲父子が確立した清和源氏は、満仲の子頼光が摂津源氏、頼親が大和源氏、そして 頼信が河内源氏と、それぞれの受領任国との関係で、畿内各地を拠点に発展していく。これらのうち、河内源氏が武士 の棟梁として広く全国に展開していく理由については、摂関家との親疎の度合い、畿内での充分な基盤形成に欠ける点 など、前二者とは異なる条件にあったことが梃子になっているのではないかと思われるが、そうした側面に関しては別 稿で私見を整理しているので、御参照いただきた い (( ( 。 では、摂津源氏や大和源氏はどのように展開していったのであろうか。摂津源氏は満仲が築いた摂津の拠点である多 田館を継承し、治承・寿永内乱期にも源頼政や多田行綱の活動が知られ、始祖頼光は物語世界でも代表的な武威の人物 として活躍しており、多方面から検討が試みられてい る (( ( 。一方、大和源氏はその始祖頼親の伝記的考察は行われている もの の (( ( 、頼親以降の関係人物について総合的に考究した研究は少なく、大和への定着過程やその後の活動形態にはなお
源頼親と大和源氏の生成
森
公
章
二 検討の余地があると思われる。 そこで、小稿ではこの大和源氏の展開過程を解明することで、河内源氏とは別の、畿内 の新たな地を拠点とする中小武士としての活動が可能になった背景を探ることにしたい。 そこにはまた、武士の棟梁を目指す方向とは異なる、小地域への定着を図る様態を看取す ることができ、より普遍的な武士像の構築につながる事例を見出すことも期待される。 一 源頼親の生涯 源頼親は父満仲の次男として生ま れ (( ( 、母は左衛門権佐藤原致忠の女であった (『尊卑分脈』 三 ─ 一 五 七 ・ 二 二 二 頁 )。 生 没 年 は 不 詳 と せ ね ば な ら な い が、 満 仲 と 頼 光・ 頼 信 は と も に 八十歳前後で死去しており、頼親もその活躍状況から見て、天暦八年(九五四)誕生説だ と、九十歳代後半、そこまでの長寿は不審であるので、誕生年を下げるにしても、やはり 八十歳前後までは生存していたと考えられる。頼親は三度大和守になり、 藤原道長には 「殺 人上手」と認識されていた(後掲史料i)ことで著名であるが、まずは彼の生涯を辿って みたい。 a『紀略』正暦五年(九九四)三月六日条 召 二武勇人源満正朝臣・平維時朝臣・源頼親・同頼信等 一、差 二遣山々 一、令 レ捜 二盗人 一。 b『栄華物語』巻五「浦々の別」 《長徳二年(九九六) 》 高望王 【参考:桓武平氏略系図】 国香 貞盛 維衡 正度 正盛 繁盛 兼忠 維良(維茂)〔城氏〕 維幹 為幹〔大掾氏〕 良文 忠頼 忠光(道・通)〔三浦氏〕 将恒 武基 武綱〔秩父氏〕 忠盛 清盛 忠常 忠昌 常永 常時 常澄 広常〔上総氏〕 常兼 常重 常胤〔千葉氏〕
三 源頼親と大和源氏の生成 頼光 頼国 源師房 俊房 顕房 広綱 雅光 頼綱 国房 明国 行国 頼国 仲政 頼政 仲綱 行綱 光国 光信 光基〔美濃源氏〕 経基 満仲 頼親 頼信 頼義 義家 義親 義国 義忠 義業〔佐竹・山本〕 義清〔甲斐源氏〕 盛義〔平賀・大内〕 親義〔岡田〕 為義 義時 義重〔新田〕 義康〔足利〕 〔石川〕 義朝 義賢 義広(義範・憲) 行家(義盛) 義基 義兼 義資 義広 頼朝 義経 義仲 義綱 義光 頼成 大江通清女 頼房 頼遠 〔陸奥の石川氏〕 頼基 頼俊 頼治 頼風 頼安 信実 頼兼(範) 玄実 頼実 頼景 仁範 円尋《大和禅師》 仁尋 頼慶 女子 源師時 基輔 頼遠〔太田〕 親弘 親治 基親 基重 魚名 基弘 親満 基親 女子《伊予内侍》 (頼弘) 〔宇野〕 有治 清治 義治 業治 頼基 満政 俊綱 (高倉院女房) 師任入道 図 1 大和源氏の略系図と人物相関図
四 (上略)内裏には、陣に、陸奥国前守維叙、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親などいふ人々、みなこれ満仲 ・ 貞 盛 の 子 孫 な り、 お の お の 武 士〔 ( 梅 沢 本 ) 武 者 〕 ど も 数 知 ら ず 多 く さ ぶ ら ひ、 東 宮 の 帯 刀 よ、 滝 口 な ど い ふ 者 ど も 夜 昼さぶらひて、関を固めなどして、いとうたてあり。世には盗人あさりと言ひつぐるもいとゆゆし。 (下略) 頼親は頼信と同じく、aの大索に登場するのが初見であり、武者としての活躍が期待される存在であったことが窺わ れる。そして、頼親は頼信とは異なり、藤原道長が権力を確立する長徳の変においても道長の武力として登用されてお り、道長の信頼を得ていたようである。bによると、時に周防前司であったといい、既に地方官の経歴も有していた。 こうした官歴を振り出しに、頼親はⅠ寛弘三年(一〇〇六)〜同六年三月四日、Ⅱ長元二年(一〇二九)〜同五年、Ⅲ 永承二年(一〇四七)〜同五年の三度に亘り大和守を勤めることになるが、自身あるいは郎等と寺社勢力、ないしはⅠ とⅡの間に二度大和に任じられた藤原保昌との郎等間の対立などにより、いずれも在任中に何らかの紛擾を勃発してい る。 c『御堂関白記』寛弘三年(一〇〇六)六月十四日条 従 二 山 階 寺 一、 為 二馬 允 為 頼 一被 レ打 二池 辺 園 預 一有 二寺 解 文 一。 召 二為 頼 一間、 人 云、 従 二山 階 寺 一三 千 許 僧 行 二 為 頼 私 宅 一焼 二 亡数舎 一云々、路辺田畠二百余町損云々。聞奇不 レ少。 d『小右記』 〈逸文〉寛弘三年六月二十七日条《 『神木動座之記』 》 山階寺別当僧都来了。依 二山階寺愁 一而度参 二左府 一、不 レ召 レ前。又依 二件事 一、已講蓮聖停 二公請 一。僧都已有 二忿怒気 一、 至 レ今 不 レ可 二参 入 一者。 件 蓮 聖 与 二左 馬 允 当 麻 為 頼 一有 二競 田 事 一、 為 頼 偏 仮 二前 美 乃 守 頼 光・ 大 和 国 司 親 頼〔 頼 親 〕 威 一制 摧殖。 就 レ中新作歌馬山階寺被 二嘲哢 一 、無礼云々。 仍寺家僧等数百相率為 レ問 二其事 一向 二彼所 一也。 即国司言 二上公家 一云々。 為 頼 宅 五 所・ 民 烟 若 干 放 火 焼 亡 并 損 田 三 十 余 丁 者。 寺 家 申 云、 不 レ 令 レ損 二一 歩 田 一。 又 至 二焼 亡 事 一、 為 頼 運 二 出 宅 内 財
五 源頼親と大和源氏の生成 物 一 、故放 レ火令 二焼亡 一云々。須 下給 二使官人 一 、慥令 上レ 実 二検損田等 一者、 而左府偏信 二国司言上趣 一 、不為理[ ]愁者。 寺中騒動不 レ可 レ 敗、申後日加 二制止 一不 二敢承引 一□[ ]向 二為頼所 一者。国司未 二著任 一、来月下旬可 二著任 一云々。相 府[ ]都未 レ知 二其由。 一 頼親は寛弘三年の春除目で一回目の大和守になったが、任国に着任する以前に、左馬允当麻為頼という者と興福寺の 已講蓮聖との競田の問題が原因で、大きな対立が起きている。dによると、係争中であるにもかかわらず、為頼が摧殖 したことが導因になったようであり、興福寺側が事情を問い糺そうとしたところ、為頼は自宅の財物を搬出した上で、 自宅に火を放って、興福寺側の濫行を喧伝するという反撃に出た。為頼は源頼光、そして大和守になった頼親の威を借 り、さらに彼らの背後には道長の存在も期待できたので、強硬策に出たものと思われる。 道長は国司の言上だけを取り上げ、cでも国司側からの伝聞に基づき興福寺側に非があると判断していたので、興福 寺 別 当 定 澄 が 面 談 を 求 め て も、 こ れ に 会 お う と し て い な い。 『 御 堂 関 白 記 』、 『 小 右 記 』 に よ る と、 事 態 は 次 の よ う に 推 移し、定澄が道長と会見するが、興福寺大衆が入京しそうになるところまで進展してしまう。 六月二十日…大和国司が興福寺僧の濫行を報ず( 「山階寺僧聖催数千僧俗国内亡損解文」 ) 六月二十四日…内裏御読経始から已講蓮聖を追い返す 六月二十八日…大和国司言上解文を道長に下す:焼亡屋十六宇・損亡屋三千余宇、損田三百余町 六月二十九日…蓮聖に命じて下手人を召進させる 六月三十日…興福寺僧が来て、闘諍事を愁う 七月一日…定澄が興福寺側の主張を答弁し、実検使下向を求む 七月二日…道長が定澄と会見
六 七月三日…已講蓮聖の公請を停止 七月七日…興福寺大衆の愁状を返送 七月十二日…興福寺大衆数千人が入京(三千余人との説あり) 。頼親宅辺にも候す 七月十三日… 定澄に大衆参入阻止を命じるも、不可能になったので、陣定で協議。官使に興福寺僧を追い立てさせ る 七月十四日…興福寺僧は帰去の指示に従い、帰去 道長は興福寺大衆の退去をふまえて、定澄・蓮聖らとの協議に応じ、興福寺側が呈示した四箇条の要求のうち、実検 使派遣の件だけは承諾した( 『御堂関白記』寛弘三年七月十五日条) 。しかし、 「守頼親停任事」に対しては、 「頼親身無 レ罪、 所 レ申無 レ便」 、「為頼又停 レ任」に関しては、 「是又奇事、 為 レ人焼 レ宅有 レ愁者也。不 レ罪 二焼人をハ 一、 被 レ罪 二愁人 一、 極無 レ便事」として、 これらを拒否しており、 さらに蓮聖の公請停止取消し要求に対しても、 「件条雖 下有 二罪名 一者也 上、 於 レ申有 二何事 一。有 レ罪者、 被 レ免事恒例。雖 レ然入 二件申文内 一、 仍不 レ能 二奏聞 一。若可 レ申、 以 二他申文 一可 二奏聞 一」と、 全 く 応 じ て い な い。 た だ、 今 回 は 興 福 寺 側 が「 毎 レ事 称 二道 理 之 由 一 還 去 」 と な っ た と い い、 道 長 側 の 全 面 的 勝 利 に な っ たのである。 このようにして大和守就任当初に勃発した興福寺との紛擾は、道長の強力な後ろ盾により、何とか収束し、頼親はこ の 年 に 初 任 の 検 注 を 行 い、 栄 山 寺 や 弘 福 寺 に 免 判 を 出 し て い る( 『 平 安 遺 文 』 四 四 三 ・ 四 四 四 号 )。 し か し、 興 福 寺 側 の 意 趣 は 包 蔵 さ れ た ま ま で あ り、 翌 年 二 月 二 十 八 〜 三 十 日 の 道 長 の 春 日 詣 に 先 立 っ て、 頼 親 が 春 日 に 参 詣 し た 際、 「 還 間 興 福 寺 垣 辺 以 レ石 打 レ之 云 々」 と い う 出 来 事 が 起 き て い た( 『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 四 年 二 月 十 一 日 条 )。 但 し、 同 年 の 道 長 の 金 峯 山 参 詣 に は 定 澄 も 奉 仕 し て お り、 頼 親 も 帰 路 に 供 膳・ 給 馬 な ど を 奉 仕 し て い る( 八 月 十 三 日 条 )。 道 長 第 で の 諸
七 源頼親と大和源氏の生成 道 論 議 の 際 に も、 頼 親 が 非 時 を 供 し た( 同 年 五 月 三 十 日 条 )。 ま た 敦 成 親 王( 後 一 条 天 皇 ) 五 十 日 に は、 頼 親 が 折 櫃 物 五十合を奉仕し、 「尽善尽美」であったと評されている( 『小右記』寛弘五年十一月一日条) 。 こ う し て 一 回 目 の 大 和 守 の 任 期 も 終 わ ろ う と す る 時、 『 権 記 』 寛 弘 六 年 三 月 四 日 条 に は「 又 大 和 守 頼 親 辞 二任 国 一事、 可 レ然哉、 令 二諸卿定申 一。若可 レ許、 其替人同可 二挙申 一。諸卿定申、 雖 レ在 二任終年 一 、農節以前也。被 レ許有 二何事 一哉」と、 頼親の辞任の意向が示され、結局は藤原輔尹が大和守に任じられた。以後、藤原輔尹(寛弘六〜長和元年)→藤原保昌 ( 長 和 二 〜 五 年 ) → 源 政 職( 寛 仁 元 〜 万 寿 元 年 ) → 藤 原 保 昌( 万 寿 二 〜 長 元 元 年 ) と、 い ず れ も 道 長 の 意 に 沿 う 人 々 が 大和守にな り (( ( 、二度目の頼親の大和守登用につながる。 e『小右記』長和三年(一〇一四)正月六日条 ( 上 略 ) 左 府 伝 二 仰 大 納 言 道 綱 一 云〈 道 綱 就 二 彼 辺 一 奉 レ之 〉、 諸 国 受 領 吏 二 箇 年 中 不 レ 済 二公 事 一之 者、 不 レ可 二叙 用 一之 起 請 宣旨下了。若前司過 二彼期 一、後司済 二限内 一給 レ官事如何、可 二定申 一者。諸卿申云、任 二起請宣旨 一可 レ被 レ行。但其間有 二 加言之人々 一。件事更発非 二他事 一、只和州事歟〈前司景斉四个年内済事、新司頼親限内究済云々〉 。(下略) 頼親の一回目の大和守の受領ぶりに関する事柄は、長和三年正月に話題になっている。受領功過定を実施するには、 公文の準備や済物の納入などの諸条件を整える必要があり、当時は任終から数年を経た時点、おそらくは次の受領任用 な ど が 期 待 さ れ る 頃 に 判 定 を 済 ま す の が 通 例 に な っ て い た よ う で あ る。 e 上 略 部 分 に は、 摂 津 守 橘 為 義 に つ い て、 「 左 大 臣 懇 切 被 レ催 」 に よ っ て 実 施 さ れ、 「 諸 寺 条 有 二不 快 事 一、 然 而 諸 卿 黙 然 不 レ 陳 二左 右 一 」、 「 事 之 気 色 恐 二懼 左 府 一歟、 仍 只 注 二無 レ過 由 一了 」 と あ る よ う に、 公 卿 た ち が 道 長 の 意 を ふ ま え て、 暗 黙 の 了 解 の う ち に 受 領 功 過 を パ ス す る 様 子 が 記 されている。道長執政期には特に道長の家司など関係者に対してはこうした偏跛な人事が強行されたことが指摘されて お り (( ( 、『北山抄』巻十「吏途指南」に掲げられた「古今定功過例」の中の備前守源頼光の事例も著名である。
八 頼親が登場する案件に関しては、 従来の起請宣旨の原則を示した上で、 「若前司過 二彼期 一、 後司済 二限内 一給 レ官事如何」 というケースについての審議を求めている。これは藤原景斉を次の受領に任用する前提条件構築のための誘問と解せら れ、公卿たちは「前司景斉四个年内済事、新司頼親限内究済」という大和国の状況をふまえたものであることを悉知し ていたが、結局は道長の意向が承認され、景斉は寛仁二年(一〇一八)に備前守に就任することができた。その際に、 「 公 事 無 レ術、 国 之 異 損 万 二倍 他 国 一」 に も か か わ ら ず、 道 長・ 頼 通 に 米 を 献 上 し た こ と が 非 難 さ れ て い る( 『 小 右 記 』 寛 仁 二 年 十 二 月 三 日 条 )。 こ の 場 合、 頼 親 は 道 長 の 意 向 を ふ ま え て、 前 司 の 国 務 の 不 備 を 補 い、 給 官 に 資 し て い る の で あ る (( ( 。ちなみに、この一回目の大和守時代の出来事として、頼親は国栖を調じてしまったらしく、以後元日の国栖奏が不 参により実施されなくなったとされている( 『小右記』寛弘八年(一〇一一)正月一日条) 。 なお、 長和元年(一〇一二)六月二十九日に皇太后宮に虹が立った時、 「相 二親左府 一之人々宅多立」との風聞があり、 その中には頼親も含まれていた( 『小右記』同日条) 。また大嘗会御禊の御前三十人のうち、四位六人の一人として奉仕 する( 『御堂関白記』長和元年閏十月二十七日条) 、さらに禎子内親王五十日には折櫃物五十合を藤原惟憲・橘道貞・源 頼親・源政職・宮道式光が十合ずつ調進したが、惟憲・道貞・頼親は銀飾を用いたといい、その奉仕ぶりが特筆されて いる( 『小右記』長和二年八月二十七日条) 。 f『小右記』長和三年(一〇一四)二月十六日条 ( 上 略 ) 右 金 吾〈 懐 ゝ〉 密 々 云、 勅 語 云、 大 将 為 レ吾 有 二用 意 一之 人 也、 仍 所 二 相 示 一也。 摂 津 守 佐 光 可 二 辞 退 一云 々。 以 二 右 馬 頭 頼 親 一可 レ任 之 由、 左 大 臣 可 レ挙 云 々。 頼 親 者 住 二彼 国 一、 所 領 太 多、 如 二土 人 一。 先 年 大 宮 院 御 時、 以 二維 衡 一被 レ任 二伊 勢 守 一、 依 二 彼 国 之 住 人 一停 レ任。 左 大 臣 彼 時 大 謗。 吾 為 二儲 弐 一之 間。 而 以 二頼 親 一挙 二 摂 津 守 一、 相 二同 維 衡 事 一。 若 挙 二頼親 一、欲 レ仰 二此趣 一。抑聞 二大将之奏報 一可 レ仰也者。奏 二仰旨尤道理由 一、其次少々事令 二加奏 一了。 (下略)
九 源頼親と大和源氏の生成 こうした頼親の働きぶりに対して、道長は摂津守藤原佐光の辞任に際して、その後任の摂津守に頼親を推挙しようと したらしい。但し、fによると、三条天皇はこの案件に反対であり、秘かに右近衛大将藤原実資に自分の見解の正当性 の有無を打診している。三条天皇と道長の対立は著名である が (( ( 、頼親は摂津国に所領を有しており、土人国司の任用に つながること、そもそも一条朝に伊勢平氏の祖となる平維衡が伊勢守になった際 に (( ( 、道長の反対で取り消しになった事 例 が あ る こ と( 『 御 堂 関 白 記 』 寛 弘 三 年 正 月 二 十 八 日 条 ) な ど、 本 件 に 関 し て は 無 理 な 点 が 多 く、 結 局 は 頼 親 の 摂 津 守 推挙は行われなかったようである。 ところで、頼親は大和源氏の祖と位置づけられているが、fによると、この段階では摂津国を拠点にしていると目さ れており、第一回目の大和守時代にも大和国に拠点を有していたようには思われない。c・dの紛擾を惹起した当麻為 頼 は 大 和 に 拠 点 を 持 っ て お り、 大 和 の 豪 族 で あ っ た と 考 え ら れ る。 『 古 事 記 』 に は 当 麻 倉 首 比 呂 の 女 飯 之 子 と 用 明 天 皇 の所生子が当麻王であるとあり( 『上宮聖徳法王帝説』も参照) 、その後裔の当麻公(真人)や当麻・当麻倉首姓者は律 令官人としても活躍が知られる。大和の当麻氏の本拠地は葛下郡当麻郷に比定されるが、為頼は城下郡に存した池辺園 と紛争を起こしているので、この付近に田地を獲得していたのであろう。この為頼との関係は、一回目の大和守の次に 頼親が漸く就任した淡路守解任につながる事件を惹起している。 g『扶桑略記』寛仁元年(一〇一七)三月八日条 是日、前大宰少監清原清〔致ヵ〕信、日昼被 レ殺。前大和守藤原保昌郎等也。 h『古事談』巻二─五十七 頼 光 朝 臣〈 六 孫 王 孫、 満 仲 男 也 〉 遣 二四 天 王 等 一令 レ打 二清 監 一〈 清 原 元 輔 男 〉 之 時、 清 少 納 言 同 宿 ニ テ ア リ ケ ル カ、 依 レ 似 二法師 一欲 レ殺之間、為 レ尼之由云エントテ忽出 レ開云々。
一〇 i『御堂関白記』寛仁元年三月十一日条 右 衛 門 督 来 云、 行 幸 申 時 許 六 角 小 路 与 二 福 小 路〔 富 小 路 ヵ〕 一侍 小 宅 清 原 致 信 云 者 侍 介 リ。 是 保 昌 朝 臣 郎 等。 而 乗 馬 兵 七八騎 ・ 歩者十余人許圍来殺害了。遣 二検非違使等 一 、令 二日記 一如 レ此。見 レ之秦氏元子申 下有 二此中 一由 上。問 二氏元在所 一、 頼 親 朝 臣 相 従 者 々。 仍 問 二案 内 一、 頼 親 所 為。 人 々 広 云、 件 頼 親 殺 人 上 手 也。 度 々 有 二此 事 一。 是 被 二殺 害 一大 和 国 為 頼 云 者阿党云々。 j『御堂関白記』寛仁元年三月十二日条 使官等遣 二氏元在所 一、是摂津国云々。又召 二頼親使等 一也。 k『御堂関白記』寛仁元年三月十五日条( 『扶桑略記』同日条も参照) 追 二 捕 氏 元 一官 人 等 奉 二日 記 一云、 氏 元 家 召 二法 師 一間、 申 云、 件 頼 親 朝 臣 依 レ 仰 氏〔 元 脱 ヵ〕 奉 仕 者、 子 細 有 二事 多 一。 今 日除目也。淡路守貞亮・右馬頭惟憲。件等頼親借〔替ヵ〕 。(下略) この事件は『今昔物語集』巻二十五第八話「源頼親朝臣令罰清原[ ]語」とある本文欠の話に相当するもので、 「 殺 人 上 手 」 と 評 さ れ た 頼 親 の 暗 部 を 伝 え る 興 味 深 い 内 容 で あ っ た と 思 わ れ る ((1 ( 。 こ の 話 が 失 わ れ て し ま っ た の で、 事 件 の細部は不明であるが、g〜kによると、 「大和国為頼云者」 (i)=当麻為頼は頼親の後に大和守になった藤原保昌ま たはその郎等と何らかの紛争になり、保昌の郎等清原致信に殺害されてしまったらしい。致信はhによると、清少納言 の兄弟ということになるが、藤原彰子の女房として勤務したこともある和泉式部の夫の一人として著名な藤原保昌の郎 等になり、為頼殺害を実行したのであった。iによると、今回の件はその報復であり、頼親・保昌はともに道長に近侍 する人々であったが、郎等同士の対立に巻き込まれたのか、ともかくも頼親は秦氏元という者に命じて、白昼堂々と京 内で殺人に及んでしまった。事が大きくなったのは、石清水八幡宮行幸の当日、しかも行幸経路付近で起きた事件とい
一一 源頼親と大和源氏の生成 うことで、検非違使別当藤原頼宗も関心を抱かざるを得なくなり、検非違使を派遣して犯人追捕にあたることになった のであろう。 jによると、頼親の拠点はやはり摂津にあると考えられていた。では、頼親と為頼はどのようにして関係形成に至っ たのであろうか。c・dには当麻為頼が左馬允の肩書を有することが知られ、馬寮と関係する人物であったことが注目 される。d ・ hで為頼とも関係があったとされる頼光には左馬権頭の経歴があるが (『尊卑分脈』 三─一〇七 ・ 二二二頁) 、 頼光の馬寮における活動は不詳である。一方、頼親はkで淡路守・右馬頭を罷免されているように、右馬頭としての活 動も長期に亘っている。fで摂津守就任が実現しなかった後、頼親はしばらく体調不良になったのか、あるいは罷業な のか、病気を理由に賀茂祭使や道長の上東門第行幸での競馬の奉仕を断っており、右近衛大将で馬寮を統括する御監を 兼 帯 し て い た 実 資 に そ の 旨 を 報 告 す る こ と が あ っ た( 『 小 右 記 』 長 和 三 年( 一 〇 一 四 ) 三 月 二 十 八 日・ 四 月 二 十 四 日・ 五月一日条) 。 また摂津国との関係では、 『尊卑分脈』には、頼親は「住大和国豊島郡」とあるが(三─一五七頁) 、頼親の子孫にも 豊島郡に居住する者がいたから、これは摂津国豊島郡の誤りであろ う ((( ( 。この豊島郡の拠点は河辺郡多田館を拠点とした 父 満 仲 か ら の 伝 領 も 想 起 さ れ る が ((1 ( 、『 延 喜 式 』 巻 四 十 八 左 右 馬 寮 の 近 都 牧 の 項 を 見 る と、 右 馬 寮 に は 摂 津 国 鳥 養 牧( 島 下 郡 )・ 豊 島 牧( 豊 島 郡 )・ 為 奈 野 牧( 河 辺 郡 ) が 付 設 さ れ て い た こ と が 留 意 さ れ る。 「 弓 馬 」 は 武 者 と し て の 技 芸 の 基 本 で あ り、 経 基 に は 左 馬 頭、 満 仲 に も 左 馬( 権 ) 頭 の 官 歴 が 知 ら れ る か ら( 『 尊 卑 分 脈 』 三 ─ 六 二 ・ 二 二 一 頁 )、 牧 の 所 在との関係で河辺郡の地を拠点に求めたのかもしれない。頼親も満仲以来の摂津の所領の存在に加えて、右馬頭として 豊島牧に関与したことが豊島郡の地への拠点形成につながったのではないかと推定されてくる。 左馬允当麻為頼は元来大和国の豪族と考えられ、頼親の三回目の大和守就任より後、十一世紀中葉の事例であるが、
一二 当 麻 氏 に は 大 和 国 の 在 庁 官 人 と し て 活 躍 す る 者 も 知 ら れ る( 『 平 安 遺 文 』 六 九 七 ・ 七 〇 八 ・ 七 二 四 ・ 九 九 三・ 九九七 ・ 一〇一三 ・ 一〇一四 ・ 一〇二一 ・ 一〇四二 ・ 一〇五三号) 。しかし、為頼と頼親の関係は一回目の大和守就任以前か らのものと目されるので、やはり馬寮という官司、都での交流を介して成立したものと見るのがよいであろう。頼親の 郎 等 と し て は、 そ の 他 に 後 述 の 散 位 宣 孝 や 典 薬 允 致 親( 史 料 m・ n・ p )、 ま た「 着 黒 雄 丸 」 と「 同 類 」 と さ れ る 大 和 源 前 司 御 牛 飼 の 瀧 雄 丸( 『 平 安 遺 文 』 五 二 八 号 長 元 八 年( 一 〇 三 五 ) 三 月 二 日 秦 吉 子 解 ) の 存 在 な ど が 知 ら れ る が、 彼 ら は い ず れ も 平 安 京 で の つ な が り に よ っ て 配 下 に 加 わ っ た 人 々 で あ っ た と 思 わ れ る。 『 平 安 遺 文 』 三 八 五 号 長 保 元 年 ( 九 九 九 ) 八 月 二 十 七 日 大 和 国 司 解 の 城 下 郡 東 郷 早 米 使 藤 原 良 信 殺 害 事 件、 四 九 五 号 治 安 四 年( 一 〇 二 四 ) 二 月 十 五 日 従儀師仁静解の宿院饗頭藤原為茂殺害未遂事件、三七二号長徳三年(九九七)六月十一日前淡路掾美努兼倫解などによ ると、当時各地の庄園の寄人かつ放免や中央官司とのつながりを有し、畿内各地と都とを往来する「不善之輩」が数多 くいたことが看取され、頼親はその種の人々を郎等に取り込もうとしていたのであ る ((1 ( 。 l『小右記』寛仁元年(一〇一七)十二月二十六日条 ( 上 略 ) 臨 夜 前 淡 路 守 頼 親 来、 不 二相 逢 一。 令 レ申 二禊 祭 勘 文 事 一、 忽 可 レ難 二放 給 一。 此 事 度 々 以 二実 明 宿 祢 一令 レ伝、 申 云、 可 レ給 二寛仁〔長和ヵ〕四五年勘畢勘文 一者。答云、 寛仁〔長和ヵ〕四年者初拝年、 仍前司定佐所 レ済也。不 レ可 レ裁〔載ヵ〕 二当任勘文 一。去今両年可 レ済也。而今年臨 二禊祭期 一雖 レ令 レ催、 称 二解任由 一不 レ進。究済期在 二二月卅日以前 一 、三月解官、 宰〔 寄 ヵ〕 二事 於 解 官 一遂 不 二進 納 一。 仍 斉〔 斎 ヵ〕 院 司 上 二奏 状 一、 無 下可 二譴 責 一之 宣 旨 上、 只 以 二年 料 米 一所 レ給 也。 今 如 レ申 者、 至 二当 年 料 一分 二 附〔 付 ヵ〕 後 司 一、 仍 不 レ可 レ済 者。 禊 祭 料 不 レ可 レ分 二付 後 司 一、 物 已 色 別、 参 期 有 レ限。 背 二応 和 起 請 一、 更 分 二付 後 司 一、 未 レ知 レ所 レ據。 又 令 レ申 云、 然 者 進 二納 於 院 一 可 レ 載 二 勘 文 一者。 答 云、 件 未 進 代 申 二請 公 家 一、 給 二 料 物 一了。 今 又 不 レ可 レ納 レ 院。 是 已 不 レ知 二物 意 一 也。 又 云、 彼 間 不 レ知 二案 内 一 弁 済 所 令 レ申 也。 如 レ此 之 事 深 不 二知 給 一、
一三 源頼親と大和源氏の生成 欲 レ蒙 二殊恩 一者。明日参入又々可 レ承者。太可 レ難 二進止 一事也。何為々々。 fの摂津守推挙が無為になった後、頼親は越後・備後の後任補充にも「旧吏申文」を出しているが、受領になること は で き ず( 『 小 右 記 』 長 和 三 年 六 月 十 七 日 条 )、 長 和 四 年( 一 〇 一 五 ) に な っ て 淡 路 守 に 就 任 し た。 『 今 昔 物 語 集 』 巻 二 十 八 第 三 十 話「 左 京 属 紀 茂 経、 鯛 荒 巻 進 二大 夫 一語 」 に は、 「 而 ル 間、 茂 経、 宇 治 殿 ノ 盛 ニ 御 マ シ ケ ル 時 ニ 参 テ、 贄 殿 ニ居タル程ニ、淡路ノ守源ノ頼親ノ朝臣ノ許ヨリ、鯛ノ荒巻ヲ多ク奉タリケルヲ」とあり、頼親が頼通、また道長に奉 仕しようとしていた様子が彷彿される。しかし、 g〜kの事件によって、 淡路守は任期途中で罷めざるを得なくなった。 辞任によってすべてが終わったかと言うと、次の任官に備えて、受領功過定に合格しておく必要があり、頼親はすぐに 準備にとりかかったようであるが、 lの寛仁元年の斎院禊祭料未進により勘畢勘文が給付されないという大きな障壁が 生じるのである。 lによると、毎年四月の賀茂祭の斎院禊祭料は二月三十日を究済期日として納入するものであり、三月に辞任した頼 親は当然納入しておかねばならなかった。これは前年度の済物から支出すべきものであるから、あくまでも前司である 頼親の責務であり、頼親の前司藤原定佐も任終年の長和四年分をきちんと納入している。通常任終年の済物は後司の責 任で処理されるので、頼親は後司に分付したと主張するが、禊祭料は後司には分付できないしくみになっていた。さら に頼親は未進分を斎院司に補塡して、何とか勘畢勘文を発給してもらおうとするが、この年の未進分は既に朝廷の別の 経費から借用されており、斎院司に納入するという方法は不可能であり、手続き的にはどうしようもない状況であった ようであ る ((1 ( 。 受領功過定にはこのような複雑なしくみを理解し、公文や済物に伴う手続きをきちんと遂行しておくことが必要にな るが、通常の受領には仲々困難であり、 lに登場する弁済所(使)の如き部署にしかるべき人物を登用して、遺漏のな
一四 いように処理しておくべきものであっ た ((1 ( 。しかし、頼親にはこうした方面に通じた郎等がいなかったようであり、不測 の事態になってしまったのである。但し、寛仁三年正月の受領功過定では一日目こそ保留になったが、二日目には無事 「 無 レ 過 」 と 判 定 さ れ て お り( 『 小 右 記 』 同 年 正 月 二 十 二 ・ 二 十 三 日 条 )、 こ こ に は 道 長・ 頼 通 の 支 持 が 作 用 し た 側 面 が 大 きいと思われる。 さ て、 そ の 後 頼 親 は 万 寿 元 年( 一 〇 二 四 ) に は 伊 勢 守 で あ っ た こ と が 知 ら れ( 『 小 右 記 』 同 年 十 二 月 四 日 条、 治 安 二 〜 万 寿 二 年 任 か )、 長 元 元 年( 一 〇 二 八 ) に は 再 び 摂 津 守 の 後 任 補 充 に 応 じ る が、 や は り 採 用 さ れ ず( 同 年 九 月 二 十 八 日条) 、長元二年に二回目の大和守に就任する。 m『小右記』長元四年(一〇三一)正月二十六日条 ( 上 略 ) 又 云、 大 和 守 頼 親 進 日 記 内 下 手 人 五 位、 可 レ候 之 処 如 何。 〔 余 云 脱 ヵ〕 申 二事 由 于 関 白 一、 有 レ被 二定 下 一歟。 但 五 位 者 候 二左 衛 門 府 射 場 一之 例 也。 臨 昏 来 云、 頼 親 進 二下 手 五 位 一、 可 レ令 レ候 二左 衛 門 府 射 場 一、 令〔 今 ヵ〕 四 人 下 手 者、 慥 可 レ令 二召進 一、彼等不 二召進 一者、不 レ可 レ免之由、有 二関白命 一者、宣下訖。 (下略) n『左経記』長元四年正月二十八日条 大和守頼親郎等散位宣孝朝臣、 依 下打 二彼国住僧道覚 一之下手 上、 公家有 レ召。仍国司召進、 今日検非違使等向 二頼親宅 一、 請 二 宣 孝 一〈 衣 冠 〉、 乗 馬〈 放 免 者 二 人 取 二馬 口 一 、二 人 抑 レ 鎧 云 々〉 。 持 二到 左 衛 門 弓 馬 一、 令 レ 候 云 々。 昨 日 頭 弁 云、 件 宣 孝令 レ進 二傍下手人等 一之後、可 レ被 レ問之由、有 レ仰云、遅召進隨久可 レ候歟云々。 o『小右記』長元四年三月七日条 (上略)頭弁従 レ内示送云、大和守頼親令 下免 二身仮 一従 上レ 事。但請僧進(道ヵ)覚下手人等、令 二慥召進 一者。 (下略) p『小右記』長元四年八月二十九日条
一五 源頼親と大和源氏の生成 (上略) 頭弁云、 関白云、 大和守頼親未 レ進 二先日濫行下手 一 、先可 レ令 レ進 二典薬允致親 一。件下手者不 レ進者、 可 レ令 レ 乞〔免ヵ〕 二国司 一之由者、即宣下了。 この二回目の大和守時代にも頼親は不善の郎等の行為に悩まされることになる。m・nによると、五位の郎等である 宣孝という者が大和国で僧道覚を打ったことが原因で、頼親は下手人の差し出しを命じられ た ((1 ( 。この時には道長は死去 しており、関白は頼通であったが、道長存命の頃とは頼親への庇護などが大きく変容していたようである。宣孝は五位 な の で、 衣 冠・ 乗 馬 の ま ま 出 頭 し、 左 衛 門 府 の 弓 場 へ の 拘 禁 と い う 措 置 で 済 ん だ が、 頼 親 に は「 傍 下 手 人 」、 即 ち 宣 孝 とともに道覚を攻撃した者の差し出しが命じられ、特に頼通は「傍下手人」も捕獲するまでは宣孝を拘禁し続ける旨を 述べ、oでも下手人進上を指示しており、またpでは典薬允致親を進上しないと、頼親の大和守を罷免するとまで迫っ ている。 この事件の顚末は不明だが、頼親側が指示に従い、頼親は二回目の大和守を一応全うすることができたようである。 この間、 頼親は廟堂の重鎮として、 頼通の信頼も厚かった実資に志を送るなどしており( 『小右記』長元四年三月十九日 ・ 七 月 六 日、 同 五 年 十 一 月 十 一 日 条 )、 摂 関 家 一 辺 倒 で は な く、 広 く 庇 護 者 を 求 め る 工 作 に 努 め ね ば な ら な か っ た。 こ こ には道長時代とは異なる頼親の立場が看取され、それが三回目の大和守の際に興福寺との対立・土佐国への配流という 晩年の結末につながる一つの要因であった思われる。 q『造興福寺記』永承二年(一〇四七)五月二十日条 興 福 寺 納、 信 濃 国 長 久 四・ 寛 徳 元・ 二、 并 三 箇 年 封 可 二進 済 一□ □( 之 由 ヵ) 賜 二宣 旨 於 大 和 守 源 頼 親 朝 臣 一。 先 レ是、 信 濃 国 新 司 源 経 隆 朝 臣 可 二 進 済 一之 由、 給 二 綸 旨 一之 処、 申 返 者。 前 司 頼 親 朝 臣 依 レ有 二身 □( 病 ヵ) 一 □ □ □ □( 彼 ヵ) 国 下 二遣使者 一 、徴 二取三箇年官物 一 、皆悉運上了。遷替之□無 二物分付 一。然則以 二前司頼親 一 、被 レ令 二進済 一之。左大臣宣云、
一六 新司経隆朝臣所 レ申□有 二其理 一、宜 下以 二頼親朝臣 一、令 中弁申 上□、令 レ給 二件宣旨 一也。 r『扶桑略記』永承四年(一〇四九)十二月二十八日条 山階寺大衆向 二大和守源頼親館 一。前加賀守源頼房等合戦之間、興福寺僧侶等中 レ矢死者粗有 二其数 一。 s『扶桑略記』永承五年(一〇五〇)正月二十五日条 大和守源頼親配 二土佐国 一、前加賀守源頼房流 二隠岐国 一。依 二興福寺愁 一也。 頼親は長久三年(一〇四二)の春除目で信濃守になり、遷替、永承元年(一〇四六)には三度目の大和守に就任した (『 平 安 遺 文 』 永 承 元 年 十 一 月 二 十 八 日 大 和 国 栄 山 寺 牒 )。 し た が っ て 信 濃 守 は 寛 徳 二 年( 一 〇 四 五 ) ま で で あ っ た こ と になるが、qによると、この信濃守在任中の封物納入をめぐって、頼親は興福寺と紛擾を起こしている。即ち、頼親は 長久四年と寛徳元・二年の三箇年の興福寺封物を未済のまま遷替し、後司である源経隆に進済すべき綸旨が下ったが、 経隆は頼親が自身の病により (任国に下向しないままか) 、使者を派遣して三箇年分の官物を (京宅にか) 運上してしまっ たことを訴え、前司頼親が進済すべきことを主張した。この指摘には理があり、関白左大臣藤原頼通は頼親に進済を命 じているのである。ここにも頼通の頼親に対する態度の一端が看取される。 この信濃守時代の興福寺封物未済が進納されたか否かは不明であるが、受領としての頼親が官物押領に走り、かつ寺 家封物の未済を放置するという国務運営を行ったことには注目したい。r・sによると、頼親は三回目の大和守の任終 年に至って、興福寺と武力衝突に及び、子頼房の参戦を得て、合戦では興福寺に勝ったものの、父子ともに流罪の憂き 目に会い、頼親は土佐国配流で晩年を迎えることになる。この事件の原因は不明であるが、後代になっても「雖源頼親 なりと、依山階寺之憂□被流」 (『平安遺文』八〇一号天喜四年(一〇五六)五月東大寺起請案) 、「永承年中源頼親・頼 房 朝 臣、 向 二衆 徒 一施 レ箭 之 罪 科、 早 所 レ被 レ処 二遠 流 無 期 之 科 一也 」( 二 九 三 七 号 保 元 三 年( 一 一 五 八 ) 七 月 興 福 寺 衆 僧 等
一七 源頼親と大和源氏の生成 申状)などと、寺社勢力と対立した者を退ける先例として宣揚され、大和国の寺社勢力確立の画期と目されていたよう である。 こうした寺社勢力との対立の要因として、信濃国でも見られた寺家封物の納入問題を探ってみたい。以下の行事は頼 親の何回目の大和守の時の出来事か不明であるが、時代の趨勢という要素を加味すると、三回目に関係するものと思わ れ、 こ こ で 触 れ る こ と に す る。 嘉 応 二 年( 一 一 七 〇 ) 閏 四 月 興 福 寺 西 金 堂 満 衆 解 案( 『 平 安 遺 文 』 三 五 四 七 号 ) は 東 大 寺の大仏等燈油料の賦課をめぐる東大寺側と興福寺領高殿庄との紛争に関する文書であるが、 そこには 「東大寺御油者、 聖 武 天 皇 以 二天 平 勝 宝 二 年 一割 二置 六 十 六 町 料 田 一、 遍 宛 二大 和 一 国 一、 諸 郡 令 レ 勤 給 之 間、 源 頼 親 朝 臣 之 時、 停 二一 国 配 分 之 例 一、 以 二五 箇 所 私 領 六 十 六 町 一、 寄 二入 件 御 油 免 田 一、 所 二弁 来 一也。 今 高 殿 庄 者 五 箇 所 私 領 隨 一 也 」 と い う 由 来 が 記 さ れ て い る。 嘉 応 元 年 十 一 月 十 九 日 勧 学 院 政 所 下 文( 三 五 二 〇 号 ) に は、 「 件 御 油 者、 大 和 国 所 役 也。 而 自 二 中 古 一切 二 補 便 田 六 十 町 一、 偏 為 二寺 領 一勤 二仕 所 役 一、 多 経 二年 序 一畢 」 と い う 東 大 寺 側 の 主 張、 ま た「 凡 当 庄( 高 殿 庄 の こ と ) 之 当初領主源前司私領之内、以 二六十六町 一 寄 二進御油免 一」という興福寺側の認識が示されている。 これらによると、燈油料田は大和守源頼親が弁済不能であったためか、便補分として東大寺側に徴収を認めたものと 解するのがよ く ((1 ( 、頼親の純粋な私領であったとは考え難い。高殿庄は燈油料免田は二十五町、所当御油は二斛五斗・副 米五斛であるが、 「凡当庄者、不 レ限 二東大一寺 一、有 二多負所 一。所 レ謂春日二季彼岸不断法華経并神通寺・海龍王寺・薬 師 寺 西 金 堂 不 断 絶 香 役 等 是 也 」 と い う 存 在 形 態 に な っ て お り( 三 五 四 七 号 )、 そ の 当 時 の 由 来 と し て は 伊 予 三 位 国 明 後 家の私領を西金堂に寄進したもので、 領家である内大臣源雅通家にも所役を負担することになっていたという。 したがっ て頼親の「私領」の段階でも一円地としての私領というよりは、やはり国司として封物所済が困難になったために、国 司の役割上租税未納などによって集積していた土地を東大寺側の免田として指定したという事情が想定されてく る ((1 ( 。
一八 以上を要するに、頼親は摂津国豊島郡を本拠としており、頼親の段階で大和源氏と称される程には大和国への定着は 進んでいなかったと思われる。頼親は道長の時代には摂関家に近侍する者として、都に近い国々の受領を歴任し、諸役 を果したという感が強い。大和国に有していたという「私領」も、国司の任務としての封物所済に宛てるために東大寺 の免田とせざるを得なかったものである。但し、 東大寺に渡した分が頼親の 「私領」 のすべてではなかったようであり、 それを拠点に彼の子孫たちが大和国に進出・定着を図る過程にこそ、大和源氏の成立があったのではあるまいか。そこ で、次に頼親以降の大和源氏の動向を検討してみたい。 二 大和源氏の生成過程 『小右記』寛仁二年(一〇一八)十月二十九日条によると、十月二十二日の擬文章生の省試の結果に関して、 「義忠撰 上 十 五 人 詩 之 中、 源 頼 成〈 頼 親 子 〉 題 不 レ書 二無 字 一、 書 二不 字 一」 と い う 不 備 が 見 つ か り、 「 広 義 以 下 申 云、 題 雖 レ注 二不 字 一詩頗宜、 仍相加所 二撰上 一也者、 左府加 二此詞 一被 二奏聞 一」であったが、 摂政藤原頼通は「無 ・ 不等事公卿可 二定申 一者」 という指示を下した。結局、頼成の詩は抜棄されることになり、頼通は式部大輔藤原広業・少輔藤原義忠の措置に疑問 を呈した訳で、上述の頼通の頼親に対する姿勢と相通じるところのある顚末であった。頼成の詩の代わりに紀重利の詩 が 入 れ ら れ る こ と に な っ た が、 『 小 右 記 』 の 記 主 藤 原 実 資 は「 議 定 之 間、 滸 事 太 多 」 と 評 し て お り、 重 利 の 詩 に も 落 字があったので、今度は頼成の父頼親がその旨を道長に言上するという仕儀になった。 道 長 は「 我 見 漏 歟。 今 有 レ所 二愁 申 一、 召 二返 彼 詩 一可 レ知 二実 不 一」 と 指 示 し、 も う 式 部 省 に 下 し た の だ か ら と 渋 る 左 大 臣 藤 原 顕 光 に 対 し て、 「 大 殿 大 怒 被 二罵 辱 一、 不 レ 可 二敢 云 一 」、 「 其 間 罵 辱 不 レ可 二算 尽 一」 と い う 剣 幕 で あ っ た と い い、 再
一九 源頼親と大和源氏の生成 調査が行われ、十一月四日には重利の詩も保留という結末になった。頼成の詩が採択されることはなかったが、頼親は 子に対する不公正を道長の力を借りて正そうとした次第であり、頼親に対する道長の庇護ぶりが窺われる。と同時に、 頼親は長子頼成を文章生から出仕させようとした様子が知られ、武士としての確立を目指していた訳ではないことが看 取 で き よ う。 『 尊 卑 分 脈 』 に よ る と、 頼 成 は「 蔵 人、 肥 後 守 / 使 左 衛 門 尉 従 五 下 」 と あ り( 三 ─ 一 五 七 頁 )、 そ の 子 孫 は院の蔵人 ・ 判官代など中下級の文官の家系として存続していくようである。 また頼成は大江通清の女と結婚しており、 学問の家系との関係形成を求めたことが窺われる。 t『中右記』大治五年(一一三〇)八月十一日条 ( 上 略 ) 申 時 許 雅 光 来、 奉 二新 庄 坪 付 案 文 一。 此 次 談 云、 此 庄 ハ 土 御 門 右 大 臣 殿 為 二左 衛 門 督 一時、 源 頼 成 為 二式 部 丞 一奉 レ 寄 也。 件 寄 文 在 二 雅 光 許 一、 早 可 レ給 之 由 答 了。 入 夜 新 庄 下 司 為 遠 申 云、 新 庄 ハ 六 十 町 也。 此 外 新 御 領 四 十 町、 西 念 寺 五 十 町、 井 田 庄 十 余 町、 頼 治 加 納 十 余 町 也。 菓 子 林 在 二 新 御 領 一也。 新 御 領・ 西 念 寺・ * 井 田 庄 ハ、 皆 外・ ( 加 ィ) 地 子 所也。 遣 レ使被 二沙汰 一何事候哉云々。 仰云、 如 二在庁官人貞村 一 、九十余町之由所 二注付 一也。 仍新庄ハ九十余町歟。 (下略) * 東金堂免田四十町。新御領中、金峯山免田ハ在 二西念寺中十五町 一、此中三町ハ頼治加納中。 tは藤原忠実の大和国の某庄の立庄の様子を伝えるものである。土御門右大臣は源師房で、登場人物の関係は図1の 通 り で あ る が、 師 房 が 左 衛 門 督 に な っ た の は 長 元 三 年( 一 〇 三 〇 )、 二 十 一 歳 の 時 の こ と で あ り、 長 元 八 年 ま で が 在 任 期間になる。頼成には左衛門尉の経歴も知られるが、ここではそうした同司内での上下関係ではなく、文章生から出仕 した頼成に相応しい式部丞在任時の出来事として、今回の立庄の基盤になる土地を師房に寄進したと記されている。そ の当時は父頼親は健在であったから、源氏長者であり、藤原頼通の猶子として中央政界に太いパイプを有する師房との 関係形成、頼成への庇護を期待して、村上源氏の師房に頼成名義で寄進したという事情が推察されてく る ((1 ( 。この土地の
二〇 近辺には頼親の次男頼房の孫頼治の加納田があったというから、前章で触れたように、大和には頼親に由来する何らか の田地があり、その子孫に継承されていたようである。 但し、その土地は一円所領として完結したものではなく、前章の興福寺領高殿庄と同じく、複雑な権利関係・人間模 様が交錯する形で存在していたと考えられ る (1( ( 。白河上皇との確執により蟄居していた藤原忠実は、鳥羽院政下に復権す ると、摂関家領の新立を推進してお り (1( ( 、本件の場合も八月七日に政所下文の発給を命じ、tのような立庄を確定した上 で、 下 家 司 と 推 定 さ れ る 僧 元 遠 を 新 庄 に 下 向・ 検 注 を 行 わ せ る と い う 過 程 を 経 て( 九 月 八 日 条 )、 上 か ら の 立 庄 が 完 成 している。本来の庄坪付は六十町であったが、在庁官人による確定作業を得て、周辺の土地との関係を調整した結果、 九十余町の領域型庄園として認定がなされており、ここに立庄の意味合いがあったと指摘される所以である。 こうして成立した某庄は元来源頼成の寄進によるものであり、現状でも源頼治などの存在は無視できず、後述のよう に、大和源氏は保元の乱の際に藤原忠実・頼長の武力として期待されていたから、今回の所領を介したつながりによっ て、摂関家との関係もより緊密になっていくものと推定される。こうした武士としての大和源氏の確立への道を歩むの は、頼治の祖父、頼親の次男頼房の系統であった。以下、この頼房から始めて、大和源氏の生成過程を明らかにしてみ たい。 頼房は史料r・sの事件で、父頼親とともに興福寺と武力衝突し、隠岐国に配流されているが、これに先立って長元 七 年( 一 〇 三 四 ) 七 月 二 十 二 日 に は 尊 仁 親 王( 後 三 条 天 皇 ) 誕 生 の 三 夜 の 鳴 弦 を 務 め て お り( 『 御 産 部 類 記 』 所 引「 平 金 記 」) 、 武 士 と し て の 資 質 が 認 知 さ れ た 存 在 で あ っ た と 思 わ れ る。 但 し、 そ の 生 涯 は 不 明 の 部 分 が 多 く、 『 尊 卑 分 脈 』 によると、承保三年(一〇七六)に「依 二山門訴 一、配 二流肥前国 一、於 二配所 一死」とあるので(三─一六一頁) 、延暦寺 とも何らかの事件を引き起こしたことが知られるくらいである。その他、天喜四年(一〇五六)以前には隠岐国から都
二一 源頼親と大和源氏の生成 に 戻 っ て い た ら し く、 前 加 賀 守 と し て 東 大 寺 の 封 戸 物 進 上 に 関 与 し て お り( 『 平 安 遺 文 』 七 六 二 ・ 七 六 五 ・ 七 八 六・ 七九一 ・ 八二五号、伊予・播磨・近江・周防の封戸物に関与) 、あるいは大和国における拠点の存在との関係で、東大寺 とつながりを有していたのかもしれない。 この頼房と大和国の関係については、 頼房が死去した承保三年に起きた土地相論により、 その所在地が知られる( 『平 安 遺 文 』 一 一 三 二 〜 三 四 号 )。 即 ち、 高 階 業 房 の 訴 え に よ る と、 大 和 国 高 市 郡 の 喜 殿 庄 は「 件 庄 田 畠 山 野 等、 元 故 肥 前 守 源 朝 臣 頼 房 所 領 也。 而 去 延 久 六 年( 一 〇 七 四 = 承 保 元 ) 八 月 之 比、 相 二副 本 公 験 条 里 坪 付 等 一、 所 レ充 二給 女 子 并 業 房 等 一 也 」( 一 一 三 二 号 )、 高 市 郡 と 十 市 東 郷 に 所 在 す る 豊 瀬 庄 は「 件 豊 瀬 庄 田 畠 山 野 池 堰 等、 故 肥 前 守 源 頼 房 朝 臣 相 伝 所 領也。領掌之間無 二他妨 一。而以 二去延久六年八月之比 一、処 二分女子并越後権守高階業房朝臣女子小野分 一者」 (一一三四 号)とあり、これらは頼房の相伝所領であったと記されているので、おそらくは頼親以来の拠点を継承したものと思わ れる。またこれらの訴えが関白左大臣藤原師実の政所に呈された時、業房側は本公験・処分帳や女子領四至注文などを 使 案 主 当 麻 助 親 に 付 し て 言 上 し て お り( 一 一 三 二 号 )、 上 述 の 頼 親 の 郎 等 当 麻 為 頼 の 存 在 を 考 慮 す る と、 当 麻 氏 と の 主 従関係も継承されていたことが看取でき、興味深い。 以 上 の 頼 房 の 活 動 を さ ら に 発 展 さ せ、 武 士 と し て の 地 位 確 立 に 努 め た の が、 頼 房 の 子 頼 俊 で あ る。 頼 俊 は「 為 二祖 父 頼親子 一」 とあるので (『尊卑分脈』 三─一六一頁) 、早くから後継者と目されていたのであろう。頼俊は陽明文庫所蔵 『定 家記』天喜五年(一〇五七)二月二日条に「 (上略)途中於 二紙幡河原 一人々馳 レ馬、 次召 二頼俊郎等 一令 レ射 二笠懸 一。人々 乗 レ 興 欲 二纏 頭 一、 有 レ儀 停 止。 ( 下 略 )」 と あ り、 春 日 祭 使 に 供 奉 し た こ と が 知 ら れ る。 今 回 の 上 卿 は 藤 原 師 実 で、 摂 関 家子弟が上卿の時は源氏・平氏の有力武士が前駆を勤め、その郎等が武芸を披露することが明らかにされているの で (11 ( 、 頼俊は摂関家とつながりを有していたことがわかる。上述の高階業房の訴訟に関わる承保三年九月三日関白左大臣政所
二二 下文案 (『平安遺文』 一一三二号) には、 頼俊が師実家の家司の一員として署名しており、 摂関家の家政を担う人材であっ たと見なされよう。 頼俊はまた、 前九年合戦の後に陸奥守になり (治暦三年 (一〇六七) 〜延久三年 (一〇七一) 任) 、河内源氏の頼義 (永 承 六 年( 一 〇 五 一 ) 〜 康 平 五 年( 一 〇 六 二 ) 陸 奥 守 ) ─ 義 家( 永 保 三 年( 一 〇 八 三 ) 〜 寛 治 元 年( 一 〇 八 七 ) 陸 奥 守 ) 父子に対抗して、武士としての大和源氏の確立に努めたことが窺われる。その様相を延久二年(一〇七〇)北奥合戦に 探ってみた い (11 ( 。 u『朝野群載』巻十一延久三年五月五日官宣旨 左 弁 官 下 陸 奥 国。 応 下 随 二後 仰 一 参 上 上 守 源 朝 臣 頼 俊 事。 右、 得 二 彼 国 去 十 二 月 廿 六 日 解 状 一偁、 謹 検 二 案 内 一、 当 国 多 年 之間、 諸公事之輩、 雖 レ有 二其数 一、 始 レ自 二散位基道 一、 至 二于其次々 一、 尋 二訪梟悪之者 一、 悉令 二追討 一既了。又荒夷発 レ兵、 黎 民 騒 擾。 然 而 或 追 二籠 本 所 一、 或 斬 二取 其 首 一、 或 乍 レ生 搦 得。 於 レ今 者 当 国 無 為 無 事 也。 加 レ之 筆 端 有 レ限、 存 略 之 間、 朝 城 雲 隔、 非 レ 無 二疑 殆 一。 件 荒 夷 等 首 并 生 獲 者、 以 レ 使 令 レ参、 定 為 二後 代 之 謗 一哉。 然 則 守 頼 俊 随 二身 件 首 并 生 獲 輩 一、 早可 二参上 一也。而当国為 レ躰、十月以後、寒気殊甚、風雪無 レ隙、無 二往還之者 一、動失 二前途 一、難 レ企 二早帰 一。因 レ茲遅 怠、 於 レ今 者、 相 二待 明 春 一、 可 二参 洛 一也。 凡 於 二近 都 一可 二言 上 一事、 寔 繁 区 分 止 時 不 二 奏 達 一 者、 定 有 二不 忠 之 咎 一哉。 隠 愧 二神道 一、顕畏 二王化 一。就 レ中七旬慈父、旦暮難 レ知、毎 レ思 二此事 一、長大息耳。然則且仰 二堯日之新光 一、且拝 二厳親之 頽齢 一。望請、官裁早被 二裁許 一者。左大臣宣、奉 レ勅、言上之旨、知 レ有 二勤節 一。辺鎮之事、不 レ可 二黙止 一、宜 レ仰 二彼 国 一。生虜之輩、討伐之符、須 下待 二後仰 一随身参上 上者、国宜 二承知依 レ宣行 一レ 之。 (下略) v応徳三年(一〇八六)正月二十三日前陸奥守源頼俊申文( 『平安遺文』四六五二号) 前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言。請特蒙 二 天恩 一、 任 二先朝綸旨 一、 依 二衣曾別嶋荒夷并閉伊七村山徒討隨 一、
二三 源頼親と大和源氏の生成 拝 二 任 讃 岐 国 闕 一状。 右、 頼 俊 去 治 暦 三 年 任 二彼 国 守 一、 著 任 之 後、 廻 二治 略 一期 二興 復 一、 挟 二野 心 一俗 不 レ憚 二朝 憲 一。 然 而 王 威 有 レ限、 即 討 隨 三 方 之 大[ ]、 其 間 無 二 国 之 費 一。 注 二子 細 一言 上 之 日、 被 二 宣 下 一 云、 旁 勒( 勤 ヵ) 知 レ 有 レ勒 二 辺鎮 一 、事不 レ可 二黙止 一者、 捧 二件宣旨文 一参洛之処、 清原貞衡申請拝 二任鎮守府将軍 一 、為 二大将軍 一頼俊、 于 レ今不蒙朝 [ ] 公 文 之 輩 依 二勲 功 一勧 賞 之 例、 古 今 是 多。 近 則 源 頼 義 朝 □( 臣 ) 越 二 二 階 一任 二伊 予 守 一。 加 レ之 子 息 等 及 従 類 蒙 二 恩 賞 一 之 者 廿 □ 也。 又 参 上 之 後、 依 二 綸 旨 一召 二進 武 蔵 国 任( 住 ) 人 平 常 家・ 伊 豆 国[ ] 散 位 惟 房 朝 臣 一、 条 条 之 勤 不 レ恥 二先 蹤 一者 也。 望 請、 天 恩 依[ ] 勤 節、 被 レ拝 二任 彼 国 守 闕 一状、 彌 守 二勤 王 之 節 一、 将 レ 令 レ励 二後 輩 一矣。 頼 □( 俊 ) 誠恐謹言。 (下略) w『扶桑略記』延久二年八月一日条 宣 旨、 散 位 藤 原 基 通 面 縛 帰 降 之 由、 下 野 守 源 義 家 所 二言 上 一 也。 然 則 陸 奥 守 源 頼 俊 不 レ可 下向 二陸 奥 国 一 追 討 上者、 義 家 朝 臣依 レ有 レ所 二申請 一也。抑頼俊合戦時、基通奪 二取彼印鎰 一者也。 史 料 u に よ る と、 頼 俊 は「 始 レ自 二散 位 基 道 一、 至 二于 其 次 々 一、 尋 二訪 梟 悪 之 者 一」 と「 荒 夷 発 レ兵、 黎 民 騒 擾 」 を 平 定 したといい、vでは「衣曾別嶋荒夷并閉伊七村山徒」を討伐したと記されている。v末尾の平家常らに関しては、これ を頼俊との私的関係で従軍した「坂東の精兵」であり、頼俊は私的主従関係を基盤として、公的な綸旨を前提に常家以 下の従者たちの勲功を申請したとする理解も呈されている が (11 ( 、常家らはむしろ頼俊によって捕獲された「生虜之輩」で あ っ た と 解 さ れ る。 平 常 家 は 良 文 流、 豊 島・ 葛 西 の 祖 で、 南 北 朝 時 代 成 立 の 史 料 で あ る が、 『 源 威 集 』 に は 前 九 年 合 戦 の時に「豊島平仗恒家」が活躍したと記されている。wによると、今回の騒動の首謀者と目される散位藤原基通は下野 守源義家に面縛帰降したといい、事件の詳細は不明であるが、頼俊は基通らと合戦し、国守の権威を裏付ける印鎰を奪 取されたと見えるので、頼俊の国務への対捍が主因であり、前九年合戦後も陸奥国の情勢が不安定であったことが窺わ
二四 れる。 藤 原 基 通 は 源 義 家 に 随 身 し て 延 久 二 年 十 二 月 三 十 日 に 上 京 し て お り( 『 扶 桑 略 記 』) 、 翌 年 八 月 二 十 七 日 に 陣 定 で 罪 名 事 が 議 題 に な っ て い る( 『 百 錬 抄 』) 。 u に よ る と、 頼 俊 の 上 京 が こ の 陣 定 に 間 に 合 っ た か 否 か 不 明 で あ る が、 頼 俊 は 基 通の義家への帰服後に汚点を挽回すべく、常家らの鎮圧に努めたのであろう。このように見てくると、平忠常の乱の際 に父祖以来の敵対関係にあった貞盛流の追討使平直方には頑強に抵抗した良文流の忠常が、従前から主従関係にあった 源頼信にはすぐに帰服したのと同様に、義家に面縛帰降した基通は義家と何らかの関係を有していたと考えることがで きる。したがってこの事件は、前九年合戦で陸奥国に基盤を築こうとしていた河内源氏の義家が、大和源氏で陸奥守に なった源頼俊の進出・基盤形成を妨害するために、陸奥国の在庁官人と目される藤原基通に反乱を起こさせたものと理 解するのがよいと思われ る (11 ( 。 vに大将軍頼俊の下で将軍として活躍したとある清原貞衡については、これを「真衡」と釈読して、後三年合戦の原 因となった出羽の清原氏の清原真衡に比定する説が呈され、頼俊は清原氏と提携して河内源氏の進出を防ごうとしたと する指摘もなされてい る (11 ( 。しかし、これは字形からは「真衡」とは読めず、海道平氏から清原氏の養子になった人物と 目され、清原貞衡という者がいたと見る方がよいという説を支持しておきた い (11 ( 。いずれにしても、頼俊は清原氏と協力 して、義家と対抗し、大和源氏の武威を示そうとしていたことには注目される。 しかし、vによると、清原貞衡は鎮守府将軍に任じられたが、頼俊には何の恩賞もなく、この時点においてもなお自 らの勲功を強調し、前九年合戦後の頼義が就任した伊予守と匹敵する讃岐守就任を申請せねばならなかっ た (11 ( 。今回の除 目では高階泰仲が讃岐守になり、頼俊の希望はかなわず、頼俊は前陸奥守のまま生涯を終えることになる( 『平安遺文』 一三八五号永長二年 (一〇九七) 十月十六日興福寺政所下文案に 「故陸奥前司」 と見える) 。『水左記』 承暦元年 (一〇七七)
二五 源頼親と大和源氏の生成 九 月 三 十 日 条 に は「 ( 上 略 ) 入 夜 前 陸 奥 守 頼 俊 隨 二身 黒 毛 馬 一 疋 一将 来〈 有 二白 斑 一 〉。 ( 下 略 )」 と あ り、 こ の 年 二 月 に 源 師房が死去し、源氏筆頭公卿になった権大納言正二位源俊房に対して、頼俊が志送に努めていたことが窺われる。ちな みに、十月十三日条には前下野守義家、前陸奥守頼俊が相次いで俊房のところに参向しており、源氏長者の力添えも期 待されていたと思われるが、 頼俊の任官は実現せず、 その点では延久二年合戦をめぐる義家の介入には大きな効果があっ たと言えよう。 な お、 『 中 右 記 』 寛 治 七 年( 一 〇 九 三 ) 七 月 三 十 日 条 の 召 合 二 番 左 方 に 登 場 し た 県 直 は「 故 陸 奥 守 源 頼 俊 郎 等 源 六 大 夫定男」とあり、頼俊は《源融─昇─任─宛─綱─久─貞(定)─直─…》と続く嵯峨源氏渡辺党の定(貞)を郎等に していたことが知られる。直は相撲人としても著名であり、相撲人として奉仕する際には、藤原→藤井、源→県、平→ 平群、伊福部→服などの改変が行われる習わしであったか ら (11 ( 、源直も県直と表記されている。直は寛治二年七月二十六 日 の 召 合 一 番 左 方 に 登 場 す る の が 初 見 で( 『 中 右 記 』、 『 九 条 家 本 中 右 記 部 類 』) 、 康 和 四 年( 一 一 〇 二 ) 七 月 二 十 八 日 に は腋( 『中右記』 。但し、この年は召合が中止) 、天永二年(一一一一)八月二十日の召合では最手になっており( 『長秋 記』 、『中右記』 、『九条家本中右記部類』 )、二十年以上に亘り相撲人として供節に与ったことがわか る (11 ( 。寛治七年の取組 は次のように描かれており、名勝負であった。 二番左県直、右豊原惟遠也。左右共貴重者也。抑県直者、故前陸奥守源頼俊郎等源六大夫定男也。去永保二年白丁 也。 而 寛 治 二 年 八 月、 行 二幸 一 院 一御 二覧 臨 七 番 一 日、 与 二紀 成 清 一 合 数 剋、 雖 レ 無 二勝 負 一、 成 清 十 余 度 申 レ障、 力 不 レ 敵 也。 仍 以 為 二左 方 英 雄 一。 豊 原 惟 遠 者、 最 手 惟 助 之 男 也。 去 応 徳 元 年 之 白 丁、 其 歳 与 二越 智 忠 兼 一合 得 レ勝。 依 レ之 又 為 二翹 楚 之 者 一。 其 後 共 不 レ合 二凡 骨 一、 数 年 之 間 深 以 秘 蔵 貴 重。 而 至 二今 年 一、 依 レ有 二指 天 気 一、 所 レ被 二相 合 一也。 見物之者無 レ不 レ失 レ色、況於 二左右次将 一乎。卜筮祈祷、尽 レ心尽 レ力。共手合之後、纔雖 二取付 一、左相撲長等