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吉田篁墩《論語集解攷異》における校勘水上 雅晴一 前言

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吉田篁墩《論語集解攷異》における校勘

水上   雅晴

一   前言

  吉田篁墩(名は漢官、初名は坦、字は学生・学儒、号は篁墩外史。一七四五~一七九八)は水戸藩の表医師を務める程の 技 量 を 備 え た 医 者 で あ っ た が、 事 情 も あ っ て 中 年 に 医 か ら 儒 に 転 じ、 「 折 衷 学 派 」 に 分 類 さ れ る 井 上 金 蛾( 一 七 三 二 ~ 一 七 八四)の下で学 ぶ

。以後、漢唐の注疏を重視して学問を進めながら、古写本・古刊本の蒐集に務めて校勘に従事した。東条 琴台(一七九五~一八七八)の見解によると、篁墩が校勘した内容は清代考証学者の所説と暗合するものが多 い

。篁墩が経 書 解 釈 の 方 法 に つ い て、 「 経 解 は 当 に 古 に 近 き を 以 て 信 と 為 す べ し。 …… 之 を 要 す る に、 明 は 宋 に 如 か ず、 宋 は 唐 に 如 か ず、唐は漢に如かざるは、其の漸く古に近きを以てなり」 (朝川鼎〈近聞寓筆序〉 )と述べているのは、同時期の中国の考証 学者の見解と軌を一にしてい る

。東条琴台は篁墩の遺著《近聞寓筆》 (文政六年[一八二三]刊)に跋文を記して、 「家は世 よ医を業とし、篁墩に至りて始めて儒を為し、漢魏の伝注に左袒し、考拠学を安永天明の間に首唱 す

」と称しており、篁墩 は日本の考証学における先駆者と見なされることもある。

  記録によると、篁墩には以下の著作がある。

(2)

《 古 文 尚 書 孔 伝 指 要 》 五 巻、 《 論 語 集 解 考 異 》 十 巻、 《 菅 氏 本 論 語 集 解 考 異 》 十 巻、 《 真 本 古 文 孝 経 孔 伝 》 一 巻、 《 左 伝 杜 解 補 葺 》 五 巻、 《 真 本 墨 子 考 》 十 五 巻、 《 経 籍 考 》 二 巻、 《 活 版 経 籍 考 》 一 巻、 《 足 利 学 校 書 目 附 考 》 一 巻、 《 廟 略 議 》 一 巻、 《 祭 議 略 》 一 巻、 《 留 蠧 書 屋 儲 蔵 志 》 二 十 巻、 《 近 聞 寓 筆 》 四 巻、 《 近 聞 雑 録 》 一 巻、 《 清 朝 創 業 事 略 》、 《 欣 然 悦 耳 録》二巻、 《骨董小説》二巻、 《箕林山房文鈔》六 巻

。(東条琴台《先哲叢談続編》巻十二〈吉篁墩〉 ) これらの書物の大半は既に失われているが、篁墩が最も精力を傾けた《論語集解攷異》は伝存している。書名から知られる 通り、本書は何晏《論語集解》を校勘したものであり、全篇、漢文で記されている。

  何晏《論語集解》の文献整理の情況を概括した高華平は、篁墩の仕事に言及して次のように評価している。 《 論 語 》 に 対 し て 注 解・ 整 理 を 施 し 研 究 し た 著 作 は 多 い が、 意 識 的 に《 論 語 集 解 》 の 整 理 と 研 究 に 従 事 し た も の は 少 な い。 筆 者 の 知 る 限 り、 こ の 類 の 著 作 は 日 本 の 篁 墩 吉《 論 語 集 解 考 異 》( 寛 政 三 年 四 月 聚 珍 版 ) と 我 が 国 の 学 者 李 方 が 近 年出版した《敦煌論語集解校証》 (江蘇古籍出版社、一九九八年版)の二種しか存在しな い

。 この発言を見ると、吉田篁墩《論語集解攷異》が《論語》の校勘に関して重要な地位を占めていることが理解できる。しか し現在に至るまでこの書物に関する専論が見受けられないので、編纂情況と校勘の内容について考察を加え、本書において 展 開 さ れ て い る 校 勘 の 内 容 お よ び そ れ が 持 つ 意 味 を い さ さ か な り と も 明 ら か に し た い。 な お、 本 稿 で 用 い る《 論 語 集 解 攷 異》は、関儀一郎編《日本名家四書註釈全書》論語部参(東洋図書刊行会、一九二二年)所収排印本であり、引用の際には 同書の巻数と頁数を示す。

二   《論語集解攷異》の編纂情況

  吉田篁墩《論語集解攷異》は慶長刊《論語集解》を底本と し

、《論語集解》本文を掲げた後、 〈攷異〉すなわち校勘記を附

(3)

する体裁を取っており、武英殿聚珍版を模倣して木活字を用い、寛政三年(一七九一)に排印刊行された。篁墩が慶長刊本 を 底 本 と し た 理 由 は、 「 此 の 本、 世 に 多 く 之 れ 有 り、 因 り て 以 て 主 と 為 す 」( 巻 一〈 聚 珍 版 刷 印 旧 本 論 語 集 解 并 攷 異 提 要 〉、 三 頁 ) と 説 い て い る よ う に、 最 も 普 及 し て い る 版 本 だ か ら で あ る。 〈 提 要 〉 の 中 で は、 以 下 の 七 種 の 旧 本《 論 語 》 を 対 校 資 料とすることが説明されている。

( a )

巻子古鈔本

: 大 和 国 古 市 の 農 家 広 瀬 氏 に 出 づ。 菅 原 道 真( 八 四 五 ~ 九 〇 三 ) の 親 筆 に 係 る と も 言 わ れ る が、 そ の 証 拠 は 無 い。 安 井 小 太 郎( 一 八 五 八 ~ 一 九 三 八 ) に よ る と、 巻 背 に「 貞 和 二 年( 一 三 四 六 )」 の 紀 年 が 認 め ら れ、 雍 也 篇 の 末 に「 手 自 書 写 畢、 字 様 既 得 其 正。 子 孫 可 宝 之。 亟 相 」 な る 識 語 が あ る。 以 上 の こ と か ら、 「 菅 氏 本 」 や「 貞 和本」と称される。篁墩は百部を排印して同行の士に配布してい る

。 (b)

旧版大字本:

いわゆる「正平版」 、現存する最も古い単注刊本の《論語》 。 ( c )

大永本:

大 永 四 年( 一 五 二 四 ) 鈔 本。 藤 井 貞 幹( 一 七 三 二 ~ 一 七 九 七 ) 旧 蔵。 こ の 本 は 後 に 狩 谷 棭 斎( 一 七 五 五 ~一八三五) ・木村正辞(一八二七 ~ 一九一三)の手を経て、現在は岩崎氏の東洋文庫に収蔵されてい る

。 (d)

永禄本:

永禄六年(一五六三)鈔本。 ( e )

宣賢本:

光 禄 大 夫 清 原 宣 賢( 一 四 七 五 ~ 一 五 五 〇 ) に よ っ て 天 文 癸 巳 二 年( 一 五 三 三 ) に 校 定 さ れ た 単 経 本 を 堺 の阿佐井野氏が開版したもので、通称「天文版論語」 、別称「南宗寺本」 ・「東京魯論」 ・「阿佐井野本」 等

((

。 ( f )

国訓本:

清 原 家 の 伝 本 に 出 づ。 大 田 南 畝( 一 七 四 九 ~ 一 八 二 三 )・ 最 上 徳 内( 一 七 五 五 ~ 一 八 三 六 ) 旧 蔵 で、 現 在、静嘉堂文庫所 蔵

((

。 (g)

伊氏本:

伊藤東涯(一六七〇~一七三六)が享保年間(一七一六~一七三五)に刊刻したもの。 (巻一、三~四頁)

(4)

  武 内 義 雄 が 説 く よ う に、 七 種 の 版 本 の 中、 少 な く と も( a ) と( b ) は 山 井 鼎( 一 六 九 〇 ~ 一 七 二 八 ) が《 七 経 孟 子 考 文 》 の 中 で 引 証 し た《 論 語 》 諸 本 よ り 古 い

((

。《 論 語 集 解 攷 異 》 は、 こ れ ら の 旧 本 の み な ら ず、 「 更 に《 開 成 石 経 》・ 皇 侃《 義 疏 》・ 陸 徳 明《 論 語 釈 文 》・ 宋 邢 昺《 正 義 》・ 朱 熹《 集 注 》 を 以 て 参 綜 讎 校 し、 各 お の 同 異 を 著 は 」 し た 労 作 で あ る( 巻 一 〈提要〉 、三・四頁) 。

  本書の編纂は、中国大陸内における《集解》本の流通情況を踏まえた上で企画・実行されている。篁墩は〈提要〉の中で 銭曽(一六二九~一七〇一) 《読書敏求記》巻一〈何晏論語集解十巻〉の記載を引いた後、次のように述べる。 銭曽、族父の謙益と、典籍に於て精鑒瀏博と称せられ、宋槧旧鈔、力を殫くして捜討し、儲蔵の富むこと、書城に侔し きも、猶ほ尚ほ《集解》原本を得る能はず、讒かに皇朝の正平鏤本に就いて覩るを得るのみ。因りて知る、宋よりして 元明、今の清に迄ぶまで、復た《集解》の原本有る無きなり。 (巻一、二頁) 銭謙益(一五八二~一六六四)と族子の銭曽がそれぞれ絳雲楼と述古堂に有する蔵書の規模は海内に匹無く、その評判は国 外 に ま で 達 し て い る。 そ の 彼 ら で も せ い ぜ い 正 平 十 九 年( 一 三 六 四 ) に 刊 行 さ れ た「 正 平 版 」 を 目 に す る に と ど ま り、 《 集 解》原本は見ることができないでいる。ここにいわゆる「原本」は、何晏自筆の《集解》ではなく、日本国内に伝わる旧本 《集解》を指す。

  篁 墩 は さ ら に「 皇 朝 に 伝 は る 所 の《 論 語 》、 蓋 し 先 唐 の 旧 本 に 係 り、 皆、 昔 時 の 遣 唐 請 益 使 の 遺 す 所、 明 経 博 士、 守 り て 墜 と さ ず 」( 巻 一、 一 頁 ) と 述 べ、 旧 本《 集 解 》 は 遣 唐 使 が も た ら し た 唐 代 以 前 の《 集 解 》 に も と づ き、 朝 廷 で 儒 家 経 典 の 講授を担当した明経博士がこの「原本」のテキストを大事に守り伝えたと説 く

((

。日本国内でも「原本」自体は失われている が、最も普及している慶長刊本に七種の旧本を主とする対校本をもって校勘を施すことで、旧本《集解》のテキストを誰も がたどれるようになる、というのが恐らく篁墩の到達した見解であり、その見解の下に進められた校勘の成果が《論語集解

(5)

攷異》であると言える。

  本書執筆の誘因として、太宰春台(名は純、字は徳夫。一六八〇~一七四七)の校訂に係る《古文孝経》が中国の学界に おいて歓迎を受けたことが挙げられる。篁墩は春台の校勘事業を称賛して云う。 太 宰 徳 夫〔 純 〕 先 生、 《 古 文 孝 経 孔 安 国 伝 》 を 校 定 し、 之 を 序 し 之 に 音 し、 雕

し て 之 を 行 ふ は、 実 に 享 保 十 六 年( 一 七三一)辛亥の歳なり。……宝暦(一七五一~一七六三)の末年、清人の汪翼滄訪得し、長崎より中国に持ち帰り、鮑 廷 博〔 以 文 〕、 之 を《 知 不 足 斎 叢 書 》 の 中 に 刻 す。 盧 文 弨・ 呉 騫・ 鄭 辰 の 三 序、 援 拠 精 博、 攷 証 賅 脩 た り。 …… 皇 朝 の 稽古右文の化をして、遠く華域に覃被せ俾むるに、先生、力有り、猗なるか、偉なる哉。 (《近聞寓筆》巻一) 春台が《古文孝経》を校刊したのは、自ら次のように述べる通り、一つには《古文孝経》が中土から失われたためであり、 もう一つには日本国内で流通している諸本の文字には異同が多く、整理する必要があると考えたからである。 夫 れ 古 書 の、 中 夏 に 亡 び て 我 が 日 本 に 存 す る 者 頗 る 多 し。 …… 而 し て 孔 伝《 古 文 孝 経 》、 全 然 尚 ほ 我 が 日 本 に 存 す る は、豈、異ならざらん哉。……惟れ是れ国人相ひ伝ふるの久しきを経て、幾人の書写を歴るかを知らず。是を以て文字 の訛謬、魚魯すら辨ぜず。純既に数本を以て挍讐し、且つ旁ら他書の引く所に及ぶ。……十たび裘葛を更めて乃ち定本 を成す。 (太宰純〈重刻古文孝経序〉 ) 春台は校勘記を遺していないので、校訂作業の具体的なプロセスや内容は把握できない。林秀一の見るところ、その校勘は 武断に失することがあ る

((

。かように欠点があるものの、春台が校刊した《古文孝経》は、岡田宜生(一七三七~一八〇〇) が補輯した《孝経鄭註》と併せて《知不足斎叢書》に採録され、真偽に関する議論が湧き起こるほど清代の学者の耳目を集 め た

((

  こ の 二 書 以 外 で は、 山 井 鼎 が 経 伝 の 文 字 に 関 し て 作 成 し た 校 勘 記 で あ る《 七 経 孟 子 考 文 》 と 林 述 斎( 一 七 六 八 ~ 一 八 四 一)が中国で失われている古籍を集成・編刊した《佚存叢書》も清儒の関心を引いた。篁墩当時の学者は、この種の学術事

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業が国家の名声を轟かせることを共通認識として持っており、たとえば「御書物奉行」として江戸幕府の蔵書の管理を担当 し た 近 藤 重 蔵( 一 七 七 一 ~ 一 八 二 九 ) は、 「 予 窃 か に 他 日、 経 注 本 と《 正 義 》 単 本 と を 校 刊 し て、 漢 唐 の 旧 観 に 復 し て、 以 て西土に致し、目もて佚書の猶ほ存するを見 令

め、先王(=家康公)の尊経の盛意を揚げんと欲 す

((

」と述べている。近藤重 蔵は幕府内にある最良にして最新の学術情報を自由に利用できる立場にあったので、中国における儒家経伝の流通情況を熟 知しており、日本国内に残っている数多の古籍を利用して五経の経注本と単疏本とを校刊し、中国にもたらそうと考えた。 この企画は「先王の尊経の盛意を発揚」する国家的な文化事業と見なされ、かかる学術事業を計画し実行する学者にも相応 の栄誉が帰せられる、と重蔵も考えていたに違いな い

((

  日本人は古来、漢籍を受容しており、国内には、中国では見ることができない佚書と佚文が保存されており、それらの校 勘には国外の学界にも波及する学術的な意義がある。江戸時代の一群の学者はこのような認識に達して、国内所伝の貴重資 料を利用して古籍の校勘と整理に従事したのであり、吉田篁墩もその一人であった。

三   校勘の目的と校書理論

  篁墩は妄りに雌黄を下さず、明確な目的と方法論にもとづいて経伝の文字の是非を判断した。上述の通り、経書解釈にお い て は 古 い テ キ ス ト ほ ど 信 頼 性 が 高 い と 考 え て い る が、 《 論 語 集 解 攷 異 》 編 纂 の 目 的 が《 論 語 》 テ キ ス ト の 原 形 を 恢 復 す る ことに無かったことは注目に値する。 〈提要〉の中では、以下のように《論語》の伝授情況が概述される。 斉・ 魯・ 古 の 三《 論 》、 両 漢 迨 び 魏 晋 に 具 存 す る 所。 故 に 漢 儒 の 他 経 の 注 の 引 く 所、 及 び《 史 記 》・ 両《 漢 書 》・ 《 三 国 志》 ・《晋書》 、曁び漢世の諸書《潜夫》 ・《塩鉄論》 ・《論衡》 ・《説文》 ・《白虎》 ・《風俗通》 、諸もろの称引する所、皆広く 三《論》に渉り、異文互見し、本より画一するに難し。文既に異有れば、義も亦た転移す。夫れ三《論》の篇、之が伝

(7)

説章句を為る者、孔安国より以下、包・周・馬・鄭・王・陳・周生あり、何氏、皆其の善を集めてよりして、衆家遂に 廃し、復た師説無し。六朝及び隋唐、茲に皇朝に迨び、何・鄭二家、学官に立つ。而して今又、鄭注も湮没し、当今に 行はるる所、唯だ何氏一本のみ。 (巻一、四頁) 先 秦 お よ び 漢 初 に お い て《 孔 子 》 と 称 さ れ て い た 孔 門 の 言 行 録

((

は、 劉 向・ 劉 歆 の 整 理 を 経 て 三 系 統 の《 論 語 》 に ま と め ら れ、魏晋以前にはこれら三《論》が並び行なわれていた。そのため、古書に引かれる《論語》の文字の間に違いが認められ ることがしばしばで、一つに正すことは難しい。魏の何晏が諸家の注釈を集めて《集解》を編纂した後、何晏・鄭玄を除く 古注の諸家は廃れてしまい、鄭注もやがて途絶え、何晏注本だけが残った。篁墩は、当時の文献条件の下では何晏注本、す なわち魏晋以後の各種の《論語》の祖本の原形を恢復するまでがせいぜい可能であって、漢代以前の《論語》祖本の原形を 追 求 す る こ と は 無 理 で あ る こ と を 承 知 し て い た。 つ ま り、 《 論 語 》 の 校 勘 に 関 し て、 ど こ ま で 可 能 か、 そ の 限 界 を 辨 え て い たのである。したがって、 「今の攷異、何本を校勘するに止めざるを得ず、故に漢人の引く所、槩して未だ録せず」 (巻一、 五頁)と述べるように、何晏より前の文献は引かないことを基本方針として掲げる。

  校勘を行なう際、テキストの系統に留意すべきことは、同じく〈提要〉の中で実例を挙げて次のように説明している。 「 貧 而 楽 道 」 章 の 如 き は、 邢 本、 「 道 」 字 無 く、 《 史 記 》・ 《 後 漢 書 》 に 引 く 所、 並 び に 旧 本 に 同 じ け れ ば、 則 ち 邢 本、 「道」字を脱するに似たり。然れども鄭注に考ふるに、 「楽は、道に志すを謂ふ」と云へば、鄭は「楽」字を以て句を絶 し、 明 か に 鄭 の 経 文、 本 よ り 此 の 如 し。 下 句 の 安 国 の 注 に 至 り て は、 「 楽 道 」 を 以 て 注 を 為 す。 是 れ 安 国 の 経、 正 に 「 道 」 字 有 り。 上 句 既 に 鄭 注 の 経 文 を 用 ふ れ ば、 亦 た 当 に 其 の 本 に 従 ふ べ け れ ば、 則 ち 未 だ 旧 本 及 び《 史 》・ 《 漢 》 を 執 りて邢本を難ずべからざるなり。 (巻一、五頁) 学 而 篇「 富 而 好 礼 者 」 句 の 上 に あ る 句 を、 《 史 記 》 と《 後 漢 書 》 に 引 く 文、 そ れ に「 旧 本 」 す な わ ち 篁 墩 が 引 く 日 本 の 旧 鈔 本 や 旧 刊 本 は、 い ず れ も「 貧 而 楽 道 」 に 作 る。 篁 墩 は「 旧 本 」 が 最 も 何 晏 注 本 の 原 形 に 近 い と 考 え る が、 「 邢 本 」 す な わ ち

(8)

注 疏 本 が「 道 」 字 を 誤 脱 し て い る と は 断 言 し な い。 《 集 解 》 所 引 の 鄭 注 は「 楽、 謂 志 於 道 」 に 作 っ て い る か ら、 鄭 玄 が 見 た 経文は「道」字ではなく「楽」字で句切っているのであり、このことは鄭本には「道」字がなかったことを示 す

((

。すると、 邢昺の底本は鄭本と同一のテキスト系統に属するわけであり、それを誤りと決めつけることはできないのである。

  篁 墩 は《 論 語 》 の 各 種 の テ キ ス ト 系 統 の 間 に 優 劣 の 差 を つ け、 「 旧 本 」 を 固 く 守 る よ う な こ と は せ ず、 別 の 系 統 に 属 す る テキストも排除しない。微子篇「子路曰、不仕無義」句の〈攷異〉に云う。 案ずるに、朱熹《集注》に「福州に国初の時の写本有りて、 『子路反、子曰』に作るも、未だ是否を知らず」 。重ねて案 ず る に、 鄭 注 に「 留 言 し て 以 て 丈 人 の 二 子 に 語 る 」 と あ れ ば、 則 ち 此 の 二 字 有 る は、 注 と 合 せ ず。 福 本 或 い は 是 れ 斉・ 古の遺、否なれば則ち後人妄りに加ふれば、未だ信ずべからざるなり。適たま《鶴林玉露》に載する所の古本《礼記》 檀弓の逸句と相ひ類するも、亦た鄭康成の注に較ぶるに、相ひ脗合せ ず

((

。蓋し後人の好事者の加ふる所。故に古本と雖 も、必ず須く数本もて参互錯綜すべく、而して後、始めて其の異同を言ふべきなり。 (巻九、一六七頁) 古いテキストに従って経伝の文字を改めるのは、校勘を行なう際に陥りやすい通弊であるが、篁墩は、経典の文字の是非を 判断する時には、数本を羅列して比べ合わせることで始めて論断を下し得る、と主張する。金谷治は「これは校勘学として の立派な見識であ る

((

」と述べ、篁墩が示す慎重な態度に高い評価を与えてい る

((

  さりながら、篁墩が提倡する校書理論は必ずしも実際の校勘作業に反映されていないことを指摘しなければならない。上 述の通り、 〈提要〉の中では「漢人の引く所、槩して未だ録せず」と宣言されているが、実際には、 〈攷異〉の中で《史記》 や《漢書》等が利用されることが稀ではな い

((

。さらに、 「貧而楽道」四字に対する〈攷異〉を見ると、 「諸旧本並びに此の本 に 同 じ。 邢・ 朱 の 二 本、 『 道 』 字 無 き は 欠 誤 な り 」( 巻 一、 二 〇 頁 ) と あ り、 明 ら か に「 旧 本 」 が 正 し く、 「 道 」 字 が 無 い 邢 本は誤りだと考えていて、 〈提要〉の中で示されている公平な態度と矛盾している。

  もう一例挙げると、先進篇「顔淵死、顔路請子之車」章のテキストについて、篁墩は〈提要〉の中で「諸旧本に『以為之

(9)

槨』四 字

((

無く、或いは旧本の脱を疑ひて、之を《史記》に証す。無き者未だ必ずしも誤と為さず。皆、両可に渉り、双つな が ら 美 な る を 妨 げ ず 」( 巻 一、 六 頁 ) と 述 べ、 「 以 為 之 槨 」 四 字 が 無 い「 旧 本 」 の 異 文 も 許 容 し て い る。 こ れ に 対 し て、 〈 攷 異〉においては以下のように考辯がなされている。 石 経 及 び 皇・ 邢・ 朱、 此 の 下 に『 以 為 之 椁 』 の 四 字 有 り。 皇、 「 槨 」 に 作 る。 大 永 本 に「 欲 以 為 之 槨 」 の 五 字 有 り。 案 ずるに、諸旧本並びに此の四字無きは、此の本に同じ。陸徳明も亦た後の「無槨」の下に於て音を 作

す。此れ陸も亦た 此 の 四 字 無 し。 重 ね て 案 ず る に、 諸 旧 本 及 び《 経 典 釈 文 》 の、 此 の 四 字 無 き を 正 と 為 す。 《 史 記 》 弟 子 列 伝 に「 顔 囘 死 し、 顔 路 貧 な れ ば、 孔 子 に 車 を 請 ひ て 以 て 葬 ら ん と す 」 云 云 と 云 ふ も、 椁 を 為 る の 事 無 し。 弟 子 伝、 皆、 《 論 語 》 に 拠 りて文を為せば、是れ史遷の見る所も亦た此の文無きなり。故に唯だ「以て葬る」と云ふのみ。注家、下の「棺有りて 椁無し」の文に拠りて、遂に解して「売りて以て椁を為らんとす」と云ふも、其の実亦た推説のみ。後人却つて注及び 下文に拠りて、此の四字を挿入すること疑ひ無く、当に旧本を以て正と為すべし。 (巻六、一〇七頁) 。 当 該 の 章 に 二 種 類 の テ キ ス ト が あ る こ と に つ い て、 〈 攷 異 〉 で は ま ぎ れ も な く「 旧 本 」 が 正 し い テ キ ス ト で あ る と 論 証 し て お り、 こ こ で も〈 提 要 〉 に お い て 示 さ れ て い た 公 平 な 態 度 が 実 際 の 校 勘 作 業 に 反 映 さ れ て い る わ け で な い こ と が 看 取 さ れ る。 篁 墩 は《 史 記 》 所 引 の 文 に も と づ い て《 論 語 》 の 異 文 の 是 非 を 判 断 し て い る が、 《 漢 書 》 司 馬 遷 伝 の 賛 に「 経 を 采 り 伝 を摭ひ、数家の事に分散するは、甚だ疏略多く、或いは経伝に抵捂する有り」との評が記されているように、司馬遷による 経 注 の 引 用 の 仕 方 は 厳 格 と は 言 い 難 い。 高 禎 霙 に よ る と、 《 史 記 》 に お け る《 論 語 》 の 引 用 方 式 は 四 種 類 に 帰 納 さ れ る。 ( 一 ) 原 文 を 転 引 す る も の。 ( 二 ) 二 つ の 章 を 一 句 に 仕 立 て 文 意 を 融 合 す る も の。 ( 三 ) 部 分 的 に 改 変 を 施 し た り 新 た に 言 葉 を 附 け 足 し、 文 意 を 引 伸 す る も の。 ( 四 ) 原 文 を 載 せ ず に 文 意 を 引 伸 す る も の

((

。 つ ま り、 《 史 記 》 に 引 か れ る 文 は 必 ず し も 《 論 語 》 テ キ ス ト の 古 い 形 を 伝 え る も の と は 限 ら な い に も か か わ ら ず、 篁 墩 の 右 の 校 勘 は《 史 記 》 に 依 存 し す ぎ て い て 説 得 力を欠いている。

(10)

  《 史 記 》 に 限 ら ず「 他 書 資 料

((

」 に も と づ い て 古 籍 の 文 字 を 改 め る こ と は、 篁 墩 と 同 時 期 の 中 国 内 で も 普 通 に 見 受 け ら れ る 現象である。たとえば桂馥(一七三六~一八〇五)は次のように述べている。 古人、経を引くに、略ぼ大義を挙げて、多くは原文に非ず。……近人多く書伝の引く所に拠りて以て経文を増改す。経 を治むと曰ふと雖も、実は経を乱すなり。慎まざるべけんや。 (桂馥《札樸》巻七〈引經〉 ) 朱一新(一八四六~一八九四)も次のように述べている。 国朝の人、校勘の学に於て最も精にして、亦た往往にして喜びて他書を援きて以て本文を改む。知らず、古人同じく一 事を述べ、同じく一書を引くに、字句に多く異同有り。今の校勘家の、一字も敢へて竄易せざるが如きに非ざるなり。 今人、動もすれば此を以て彼を律し、専輒改訂し、古書をして皆、真面目を失は使む。此の甚だしき陋習は従ふべから ず。 (朱一新《無邪堂答問》巻三)

  以上の所説から、篁墩が陥った錯誤は清儒も免れ難いものであったことが理解される。別の見方をすれば、篁墩の校勘は 桂馥や朱一新から批判される清儒と同程度の水準には到達していた、と見ることができるかも知れない。

四   《論語集解攷異》における異文と「他書資料」

  個々の学者が行なう校勘作業が持つ価値は、どのような手法でもって校勘するかという方法論に加え、参照される資料の 質 と 内 容 に よ っ て 大 き く 左 右 さ れ る。 本 節 で は、 《 論 語 集 解 攷 異 》 に お い て 提 示 さ れ る 異 文 に 着 目 し、 七 種 の 異 本 と「 他 書 資料」とに見える異文が対校資料としてどの程度有用であるかについて論じる。

(一)国内流通の異文の利用

(11)

で、再度流通するようになったからであ る

((

の時に中土から久しく失われ、清代の雍正年間に至って根本遜志(一六九九~一七六四)の校刊本が日本から舶来したこと は「 説 」 に 作 る テ キ ス ト の み が 長 ら く 流 通 し て い た こ と が 知 ら れ る。 な ぜ な ら、 「 皇 本 」 す な わ ち 皇 侃《 論 語 義 疏 》 は 南 宋 を 見 る と、 「 蓋 し 古 人、 喜 悦 の 字、 多 く 仮 借 し て『 説 』 に 作 り、 唯 だ 皇 本 の み 倶 に『 悦 』 に 作 る 」 と な っ て い て、 中 国 内 で 通 し 続 け た こ と が わ か る。 対 し て 阮 元( 一 七 六 四 ~ 一 八 四 九 )《 論 語 注 疏 校 勘 記 》( 以 下「 阮 校 」) の 同 一 の 句 に 対 す る 校 語 こ の 校 語 か ら、 国 内 で は、 「 不 亦 」 に 続 く 一 字 を「 説 」 に 作 る も の と「 悦 」 に 作 る も の と 少 な く と も 二 系 統 の テ キ ス ト が 流 同じ。巻子古鈔本・旧版大字本・永禄鈔本及び皇侃《義疏》 、並びに「悦」に作り、注同じ。 (巻一、一九頁) 宣 賢 本・ 国 訓 本・ 伊 氏 本 及 び 邢 昺《 正 義 》・ 朱 熹《 集 注 》・ 陸 徳 明《 釈 文 》、 並 び に「 説 」 に 作 る は 此 の 本 に 同 じ く、 注 校語は以下の通り。 《 論 語 》 テ キ ス ト の 流 伝 が 中 国 と 異 な る こ と が 理 解 さ れ る。 た と え ば 篁 墩 は 学 而 篇 首 章「 不 亦 説 乎 」 句 の「 説 」 字 に 対 す る   《 論 語 集 解 攷 異 》 の 一 般 的 な 校 語 は 各 本 に お け る 文 字 の 違 い を 指 摘 す る に と ど ま る が、 こ の 単 純 な 校 語 か ら 日 本 に お け る

  先 進 篇「 有 顔 回 者 好 学 」 の 一 句 に 対 す る 校 語 は、 「 巻 子・ 旧 版・ 大 永 本、 並 び に 此 の 下 に『 不 遷 怒 不 貳 過 』 の 六 字 有 り 」 ( 巻 六、 一 〇 七 頁 ) と な っ て い て、 雍 也 篇 の「 有 顔 回 者 好 学 」 句 の 直 後 に 見 え る の と 同 じ「 不 遷 怒 不 貳 過 」 六 字 が 先 進 篇 の 同一句の直後にも見える一群の版本が存在することが指摘されている。阮元はこの句に関して異文の存在を確認していない が、黄懐信は「正平本・スタイン〇七八二号・ペリオ二六二〇号・ペリオ三四七四号写本には、下に『不遷怒不貳過』六字 が 有 る 」 と 指 摘 し て い る か ら、 日 本 国 内 に は、 中 国 内 で は 伝 承 が 途 絶 え た 系 統 と 同 様 の《 論 語 》 の テ キ ス ト が 流 通 し て い た。 黄 氏 は さ ら に 按 語 を 附 し て「 『 不 遷 怒 不 弐 過 』 の 六 字 は 有 る べ き で は な く、 そ れ が 有 る の は 恐 ら く 雍 也 篇 の 記 述 に よ っ て増し加えられたのであ る

((

」とも主張するが、敦煌本にもこの六字がある以上、李方が「この章の文字が各本の間で食い違 うことが比較的多いのは、伝本が異なる結果だと思われ る

((

」と説くのも妥当な見解である。つまり、篁墩が引く巻子本以下

(12)

の三本は有力な古い異文資料として扱うことができる。

  述而篇首章「述而不作、信而好古、窃比於我老彭」の末句に対して、篁墩は考辯を加えて云う。 巻 子・ 大 永、 「 比 我 於 老 彭 」 に 作 る。 案 ず る に、 二 本 の 字 法、 包 咸 注 と 合 す れ ば 正 と 為 す。 皇 疏 の 一 本、 「 比 於 我 於 老 彭」に作るは、恐らく一の「於」字を剰す。 (巻四、六七頁) 阮校は該句に対して校勘を加えておらず、黄懐信は「定州簡本は『我』字が『於』字の前に在る。……《集解》では『包氏 曰 』 を 引 い て『 我 若 老 彭、 祖 述 之 耳( 我、 老 彭 の 若 く、 之 を 祖 述 す る の み )』 と 云 う。 《 集 解 》 本 で は も と も と 前 に あ っ た 『 我 』 字 を、 今 本 が 誤 っ て 位 置 を 逆 に し て し ま っ た に 過 ぎ な い

((

」 と 説 く。 と す る と、 包 咸 が 目 に し た テ キ ス ト は、 巻 子 本 や 大永本と同様に「比我於老彭」に作っていたのであり、この種のテキストの由来は少なくとも紀元前五十五年以前に鈔写さ れた「定州 本

((

」まで溯ることができる。

(二) 「他書資料」を利用した考辯

  篁墩の校勘は《論語》諸本の文字のみを利用して進められるわけではなく、前節で取り上げた《史記》を利用した校勘と 同 様、 「 他 書 資 料 」 を 援 引 し て 経 伝 の 字 句 を 考 証 す る こ と も 珍 し く な い。 た と え ば、 学 而 篇「 孝 弟 也 者、 其 為 仁 之 本 与 」 の 句に対して考辯を加えて云う。 巻 子 古 鈔 本・ 旧 版 大 字 本・ 宣 賢 本・ 国 訓 本、 並 び に「 仁 之 本 」 に 作 る は、 此 の 本 に 同 じ。 永 禄 本・ 伊 氏 本・ 皇 侃・ 邢 昺・朱熹、並びに「為仁之本」に作る。案ずるに、 《臣軌》注に《論語》を引いて云ふ、 「『孝弟也、其為人之本与』 、鄭 玄 曰 く、 『 言 ふ こ こ ろ は、 人 に 其 の 本 性 有 れ ば、 則 ち 功 を 成 し 行 を 立 つ 』」 。 此 に 拠 れ ば、 鄭 注 本、 「 者 」 を「 其 」 に 作 り、 「仁」を「人」に作る。 (巻一、一九~二〇頁) 日 本 国 内 で 流 通 し て い る 一 部 の 版 本 は「 其 仁 之 本 与 」 に 作 っ て い て、 「 為 」 字 が 無 い。 阮 校 は 僅 か に「 《 攷 文 》( =《 七 経 孟

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子考文》 )の引く足利本には『為』字無し」 (巻一、一二頁)と指摘するだけだから、中国内には「為」字の無いテキストは 流通していなかったと推測される。兪樾(一八二一~一九〇六)が該句について、 「『為』字は乃ち語詞、阮氏《校勘記》に 曰 く、 『 足 利 本 に「 為 」 字 無 し 』。 蓋 し 語 詞 に 実 義 無 し、 故 に 之 を 省 く な り。 『 其 為 仁 之 本 与 』 は、 猶 ほ『 其 仁 之 本 与 』 と 云 ふがごとし」 (《群経平議》巻三十〈論語一〉 )と述べているのによると、 「為」字は虚詞と見ることもできるので、それが無 くても文意は成立する。

  篁墩は日本国内だけに流通するテキストの系統を紹介するのみならず、同時に武則天《臣軌》注所引の《論語》経文と鄭 注を援引し、鄭本は元来「其為人之本与」に作っていて通行本と異なっていたと指摘する。劉宝楠(一七九一~一八五五) の 見 解 に よ る と、 「 案 ず る に、 『 仁 』・ 『 人 』、 当 に 斉・ 古・ 魯 の 異 文 に 出 づ べ く、 鄭 は、 見 る 所 の 本 の『 人 』 字 に 就 き て 之 を 解 す。 『 為 人 之 本 』、 上 文 の『 其 為 人 也 』 句 と 相 ひ 応 じ、 義 も 亦 た 通 ず べ し 」( 《 論 語 正 義 》 巻 一 )、 つ ま り「 仁 」 と「 人 」 の 相 異 は 伝 本 の 違 い に よ る の で あ っ て、 「 為 人 之 本 」 に 作 っ た と し て も 文 意 が 通 じ る。 実 際、 敦 煌 本《 論 語 》 ペ リ オ 二 六 一 八 号写本は「仁」を「人」に作ってい る

((

から、 《臣軌》注所引の鄭注を簡単に退けることはできない。なお、 《臣軌》は中国で は佚書になっていたが、林述斎《佚存叢書》の中に採録されたことで、中国内で再び流通するようになった書物であ る

((

  篁墩は憲問篇「不逆詐、不億不信」云云章の注にも考辯を加えて云う。 案ずるに、此の章の注、 《群書治要》に載する所に云ふ、 「人の来たる有り、之を逆へて以て詐ると為さず、之を 億

おもんぱか

り疑 ひて以て信ぜられざること有りと為さず。然り而して人に詐り有りて信あらざること、以て先づ之を発き知ること有る は、是れ人の賢。詐りを逆へ、信ぜられざるを億るは、之を恨み恥づる所以な り

((

」。案ずるに、 《治要》に載する所、当 に是れ鄭玄注なるべし。唐の時、 《論語》 、鄭・何の二家を立つ、故に其の然るを知るなり。今、録して以て考に備ふ。 (巻七、一三三頁) 何 晏《 集 解 》 が 該 章 に お い て 引 い て い る の は、 「 先 づ 人 情 を 覚 る 者、 是 れ 寧 ん ぞ 能 く 賢 と 為 さ ん や。 或 い は 時 に 反 つ て 人 に

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怨まる」という孔安国の注であり、この注の文は、明らかに篁墩が提示する《群書治要》所引《論語》注と異なっている。 金 谷 治 が「 《 鄭 玄 注 論 語 》 は、 そ れ が ま だ 失 わ れ な い ま え

五 代 か ら 北 宋 の 初 め、 す な わ ち 十 世 紀 よ り 以 前 と 思 わ れ る が

ひろく種種の書物の中で引用され て

((

」いることを指摘しているから、唐代に成立した《群書治要》の中で引かれている 《 論 語 》 注 の 一 部 が 鄭 玄 注 に も と づ い て い る、 と 見 る の は 憶 測 で は な い。 魏 徴《 群 書 治 要 》 も ま た 中 国 で 一 旦 失 わ れ、 後 に 日本から戻って来た文献であ る

((

  本節の検討から知られるのは、篁墩は七種の旧本《論語》を利用し校語の中で異文を臚列するのみならず、同時に「他書 資料」を活用して校勘を進めていることである。これらの「他書資料」は中国で早くに失われているものが多い。篁墩の考 辯は全てが正しいというわけではないが、古い異文や「他書資料」が使われていることで、後代の学者の校勘に裨益する部 分が少なくない。

五   《論語集解攷異》に引かれる古籍の来源

慧琳《一切経音義》に対する依存

  篁墩が《論語集解攷異》の中で提示する異文は多岐に渉っており、これまで紹介したのはその一部に過ぎない。本節では 《論語集解攷異》における古籍利用の情況に重点を置いて考察を加え、 「他書資料」を含め、篁墩が引用する古籍の来源の一 端を解明してみたい。

(一)慧琳《一切経音義》を利用した佚書・佚文の引用

  篁墩は子罕篇「衣敝縕袍」句の「敝」字に対して考辯を加えて云う。 諸旧本及び皇、 「弊」に作る。陸云ふ、 「『弊』 、本に今、 『敝』に作る」 。案ずるに、 《考声切韻》に云ふ、 「弊は壊なり、

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悪なり。壊敗する衣の形に象る」 。此に拠れば「弊」に作るを正と為す。 (巻五、八八頁) 阮 校 で は「 案 ず る に、 《 説 文 》、 『 袍 』 字 の 下、 《 論 語 》 を 引 い て 亦 た『 弊 』 に 作 る。 弊 な る 者 は、 敝 の 俗、 《 説 文 》 に 無 き 所 」 と 説 い て い る か ら、 「 弊 」 と「 敝 」 の い ず れ が 正 し い か を 確 定 す る の は 簡 単 で は な い。 そ れ は と も か く、 こ こ で 注 目 に 値するのは、篁墩が校語の中で《考声切韻》を引用していることである。この書物は唐の張戩が編纂した韻書であり、八世 紀 初 頭 に 成 立 し て い る。 〈 攷 異 〉 の 中 に 時 折 引 用 さ れ る が

((

、 唐 よ り 後 の 漢 籍 目 録 等 に 著 録 が 確 認 で き ず、 早 い 時 期 か ら 人 々 の 目 に 触 れ る こ と が な く な っ た 書 物 だ と 思 わ れ る が、 篁 墩 は な ぜ 引 用 で き た の で あ ろ う か。 子 罕 篇「 与 衣 狐 貉 者 立 而 不 恥 者」句の「貉」字に対する考辯を調べると、その理由が判明する。 諸 旧 本 及 び 皇、 「 狢 」 に 作 る。 陸 云 ふ、 「 貉 は、 戸 各 の 反。 字 に 依 れ ば 当 に

に 作 る べ し 」。 案 ず る に、 慧 琳 云 ふ、 「

は、何各の反。 《考声切韻》に『

は獣の名なり。狐に似て小さきなり』と云ひ、 《論語》に『狐

之厚以居也』 。『狢』 に作るは俗字」 。(巻五、八八頁) こ の 記 載 か ら、 篁 墩 の 校 語 に 引 か れ る《 考 声 切 韻 》 は 慧 琳《 一 切 経 音 義 》 か ら 転 引 さ れ た も の で あ る こ と が わ か る

((

。 慧 琳 《 音 義 》 は 元 和 十 二 年( 八 一 七 ) 以 後 に 完 成 し た 仏 典 音 義 書

((

。 中 国 で は 元 代 に 失 わ れ た よ う で、 日 本 に は 室 町 時 代 に 朝 鮮 か ら数部がもたらされており、中国には清末に日本の獅谷白蓮社蔵版元文二年(一七三七)刊本が中国に渡って再度流通する ようになっ た

((

。先の「衣敝縕袍」句の「敝」字についても、篁墩が引いたのと同じ《考声切韻》の記述が慧琳《音義》に確 認でき る

((

から、篁墩が文中に出典を明示していなくても本書からの転引であることが容易に理解される。

  篁墩が慧琳《音義》から採録した佚書の文章は《考声切韻》にとどまらない。郷党篇「子路共之、三嗅而作」句の「嗅」 字に対する考辯に云う。 慧 琳、 《 論 語 》 を 引 い て 云 ふ、 「 子 路 拱 之、 三 齅 而 作 」。 《 説 文 》 に「 鼻 を 以 て 臭 に 就 く を 齅 と 曰 ふ 」。 《 韻 英 》 に 云 ふ、 「鼻、気を取るなり」 。「嗅」に作るは俗字にて、正しきに非ざるなり。 (巻五、九二頁)

(16)

《論語》の異文のみならず、引用文中に見える《説文》および《韻英》の記述も慧琳《音義》からの転引であ る

((

。《韻英》と 題する韻書は数種あるようだが、ここに引かれているのは唐の元庭堅が編纂したものであ り

((

、篁墩はやはり慧琳《音義》か らこの佚書の字句を間接引用している。同様に慧琳《音義》から佚書の引用が確認できる例としては、子路篇「夫如是則四 方之民襁負其子而至矣」句の「襁負」二字に対する校語が挙げられる。そこには、 「唐の慧琳、 《文字集訓》を引きて云ふ、 『 被 襆 を 以 て 孩 子 を 裹 み て 之 を 負 ふ を 襁 負 と 曰 ふ な り 』。 録 し て 以 て 考 に 備 ふ 」( 巻 七、 一 二 七 頁 ) と 記 さ れ て お り、 古 い 字 書と思しい《文字集訓》が引かれてい る

((

  書物自体は伝存していても、そこから失われてしまったと思われる記述が慧琳《音義》を引いた文中に認められることが あり、郷党篇「食悪不食、臭悪不食」句の「臭」字に対する考辯に次のようにある。 永、 「 臭 」 を「 臰 」 に 作 る。 案 ず る に、 経 文 の「 臭 悪 」 は 気 の 悪 し き を 謂 ひ、 「 色 悪 」 と 対 す。 顧 野 王《 玉 篇 》 に「 臭 者、物気之総名(臭なる者は、物気の総名) 」と云ふ、是れなり。臰は是れ臰敗の義、転じて本旨を失ふ。 (巻五、九一 頁) 篁墩は顧野王《玉篇》を援引して、永禄本が「臭」を「臰」に改めているのが誤りであると指摘する。その指摘の当否はさ て お き、 《 玉 篇 》 は 大 同 九 年( 五 四 三 ) に 成 書 の 後、 数 次 の 修 訂 を へ て お り、 現 在 通 行 し て い る《 玉 篇 》 は 宋 の 大 中 祥 府 六 年( 一 〇 一 三 ) 重 修 の《 大 広 益 会 玉 篇 》 三 十 巻 で あ り、 修 訂 を 経 る 前 の 諸 本 は 全 て 失 わ れ て い る。 「 臭 」 字 に 対 し て《 大 広 益 会 玉 篇 》 は 二 箇 所 で 注 解 を 下 し て お り、 一 箇 所 は「 臭、 赤 又 切。 悪 気 息( 臭 は 赤 又 の 切、 悪 し き 気 息 )」 、 も う 一 箇 所 は 「臭、尺又切。香臭之揔称也(臭は尺又の切、香臭の揔称なり) 」であ り

((

、いずれも篁墩が引く《玉篇》の文とは異なってい る。 「 臭 者、 物 気 之 総 名 」 の 句 は、 慧 琳《 音 義 》 に 引 く《 玉 篇 》 の 中 に の み 見 え、 恐 ら く こ れ が 修 改 を 経 る 前 の 原 形 だ と 推 測 さ れ る

((

。 以 上 の 事 例 か ら 知 ら れ る 通 り、 〈 攷 異 〉 の 中 で 引 か れ る 少 な か ら ぬ 佚 書 や 佚 文 は 慧 琳《 音 義 》 か ら 転 引 さ れ た も のと判断される。さりながら、篁墩が来源を慧琳《音義》と明示しているとは限らないことも既に見た通りである。

(17)

(二)慧琳《音義》を利用した経注異文の指摘   篁墩が慧琳《音義》から採録するのは佚書や佚文だけではない。経注の異文が転引されて考辯に利用されることがあり、 先の郷党篇「子路共之、三嗅而作」句の異文「子路拱之、三齅而作」はその一例に数えられる。まず経文の異文について言 うと、子罕篇「韞匵而蔵諸」句の「匵」字に対する考辯に次のようにある。 大永本、 「櫝」に作り、注同じ。陸云ふ、 「匵、本に又、櫝に作り、徒木の反」 。案ずるに匵・櫝同じ。 《漢書》楊王孫伝 「木を 窾

りて匵を為る」は、即ち櫝なり。唐の慧琳、 《論語》を引きて、又、 「櫝」に作る。 (巻五、八七頁) 通行本と異なり、慧琳《音義》に引く経文は「韞櫝」に作ってい る

((

。李方によると、敦煌写本スタイン三九九二号、スタイ ン 六 〇 二 三 号 白 文、 そ れ に ペ リ オ 三 七 八 三 号 白 文 は、 い ず れ も「 櫝 」 に 作 っ て い る

((

。 と す る と、 唐 代 に お い て は 経 文 を 「櫝」に作るテキストも確かに流通していたのであり、大永本はその系統に連なるのである。

  公冶長篇「雖在縲絏之中」句の「縲」字に対する校語の中でも、篁墩は慧琳を引いて云う。 唐の慧琳云ふ、 「孔注《論語》に云ふ、 『纍は黑い 索

なは

なり』 、累に従ひて縲に作るは、非なり。縲は 紘

つな

なり、此の義に非 ざるな り

((

」。 (巻三、四九頁) 通行本何晏《集解》に引く孔安国注は「縲、黑索」に作っていて、慧琳《音義》が引く孔安国注と異なっている。篁墩は経 文 と 注 文 と の 文 義 上 の 対 応 を 考 え、 《 音 義 》 所 引 の《 論 語 》 孔 安 国 注 に 見 え る「 纍 」 が 原 来 の 経 文 の 文 字 で あ る と 見 な し て いる。ただし、 〈攷異〉において「纍」に作る版本は提示し得ていない。

  次に注の異文について言うと、公冶長篇「乗桴浮于海」句の注に対する考辯において、篁墩は同様に慧琳《音義》を引用 して次のように述べる。 唐の慧琳云ふ、 「馬注《論語》に、 『編竹木 浮於水上 、大者曰

、小者曰 桴

((

(竹木を編みて水上に浮かべ、大なる者を

(18)

と曰ひ、小なる者を桴と曰ふ) 』」 。(巻三、五〇頁) 通行本何晏《集解》に引く馬融注は「桴、編竹木、大者曰栰、小者曰桴」に作り、 「浮於水上」の四字が無いのに加え、 「大 者曰」に続く一字が異なっている。

  憲問篇「危行言孫」句に対する校語の中で、篁墩はこの句の注について次のように述べる。 巻子・旧版・大永、 「遜」に作る。案ずるに、唐の慧琳云ふ、 「

は孫寸の反。孔注《尚書》に曰く、 『

は順なり』 。何 晏集註《論語》に、 『

は恭な り

((

』」 。慧琳の引く所、未だ是否を詳かにせず、姑く録して考に備ふ。 (巻七、一二九頁) 通行本何晏《集解》は「孫は順なり」に作り、慧琳が引く何晏注と異なっている。ここの異同に関しては、篁墩は校勘の参 考にするため注の異文を引用するにとどめており、論断を下していない。

  以上と同様の事例は更に挙げることが可能であり、八佾篇「天将以夫子為木鐸」注「木鐸、施政教時所振也」に対する校 語( 巻 二、 三 六 ~ 三 七 頁 ) と 憲 問 篇「 羿 善 射 」 注「 羿、 有 窮 之 君 」 に 対 す る 校 語( 巻 七、 一 三 二 頁 ) の 中 で も、 慧 琳《 音 義》所引の孔安国注の異文を提示してい る

((

。この二例を含め、公冶長篇「乗桴浮于海」以下の孔安国注の異文五条はいずれ も阮校に言及がなく、貴重な異文と言える。

(三)慧琳《一切経音義》所引の典籍を利用して作成した校語

  篁墩の校語と慧琳《音義》の記載を比較すると、校語の中で引かれる経伝や字書は、異文資料を提示するために引く際の みならず、考察を進める参考資料として引用される場合であっても、直接引用ではなく慧琳《音義》からの間接引用の場合 が多いことが推察される。先進篇「人不間於其父母昆弟之言」の「昆」字に対する考辯に次のようにある。 案 ず る に、 「 昆 」、 又、 「 晜 」 に 作 る は 同 じ。 《 爾 雅 》「 昆、 後 也 」 郭 璞 注 に「 謂 兄 後 也( 兄 の 後 を 謂 ふ な り )」 。 又、 《 説 文》に「周人謂兄為昆(周人、兄を謂ひて昆と為す) 」。 (巻六、一〇七頁)

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ここに引かれる《爾雅》注と《説文》はいずれも通行本と異なっているが、篁墩はそのことには触れず、標準テキストとし て提示している。通行本《爾雅》釈言「昆、後也」の郭注は「謂先後、方俗語」に作り、通行本《説文》の「晜」の説解は 「 周 人 謂 兄 為 晜 」 に 作 る の で あ る。 篁 墩 の 校 語 は 以 下 に 引 く 慧 琳《 音 義 》 の 二 箇 所 の 注 と か な り 重 複 し て お り、 こ の 二 条 の 注を組み合わせて作成したものであろう。 《爾雅》 「昆、後也」郭注云「謂兄後也、方俗異言 耳

((

」。 《爾雅》 「昆、兄也」 。《説文》 「周人謂兄為 昆

((

」。

  篁墩はまた顔淵篇「虎豹之鞟、猶犬羊之鞟」の「鞟」字に対して考辯を加えて云う。 巻子・旧版・皇、 「鞟」を「鞹」に作り、上下及び注同じ。案ずるに、 「鞹」を正と為す。 《説文》及び古本《毛詩伝》 、 並びに「鞹」に作る。 (巻六、一一一頁) 按語の中では、 《説文》と古本《毛詩伝》にもとづいて、 「鞟」字は「鞹」に作るべきだと主張しているが、この按語を以下 に引く慧琳《音義》と比較すると、やはり引用の仕方や正字の認定から見て、前者は後者を利用して作成されたものである ことが推察される。 《毛詩伝》に云ふ、 「鞹は革なり」 。《論語》 「虎豹之鞹、猶犬羊之鞹」孔注に「皮、毛を去るなり」 。《説文》に云ふ、 「革 に従ひ郭の声な り

((

」。 通行本《毛詩》大雅、韓奕「鞹

浅幭」の毛伝も「鞹は、革なり」と同文だから、篁墩が《毛詩伝》の書名の上に何故「古 本」の二字を冠したか、その理由は不明である。

  次に挙げるのも、常見の書を利用して校勘を行なう際、やはり慧琳《音義》に依存している事例である。篁墩は衛霊公篇 「雖蛮

之邦」の「

」字(通行本は「貊」に作る)に考辯を加えて云う。 巻子・宣・皇、並びに「

」を「狛」に作る。案ずるに、慧琳云ふ、 「《周礼》 『職方掌九

之人』鄭衆注に云ふ、 『北方

(20)

と曰ふ』 。「狛」に作り、碧を音とするは 非

((

」。 (巻八、一四五頁) 慧 琳 は、 《 周 礼 》 お よ び 鄭 衆 の 注 を 引 用 し、 「

」 を「 狛 」 に 作 る 版 本 を 誤 り だ と 退 け る。 た だ、 通 行 本 に よ る と、 《 周 礼 》 夏 官、 職 方 氏 の 原 文 は「 職 方 氏 掌 天 下 之 図、 以 掌 天 下 之 地、 辨 其 邦 国・ 都 鄙・ 四 夷・ 八 蛮・ 七 閩・ 九 貉・ 五 戎・ 六 狄 之 人 民」云云に作っており、慧琳が引用する《周礼》は節録であるのみならず、通行本の「貉」を「

」に作っていて、むしろ 異文に属するものと言える。しかしながら、篁墩は慧琳の文を引用するばかりで、通行本《周礼》との文字の異同について は全く触れておらず、右の校勘はあまり意味のあるものになっていない。

  以上の二例を見ると、篁墩の校語には、佚書や佚文のみならず常見の書までも、慧琳《音義》から転引されている場合が あ る こ と が わ か る。 つ ま り、 〈 攷 異 〉 の 中 で 引 証 さ れ て い る 典 籍 は、 篁 墩 が 自 分 で 探 し 出 し た も の と は 限 ら な い の で あ り、 その扱いには注意を要するのである。

(四)仏典音義書を利用することの学術上の意義

  慧琳《音義》は典籍の古いテキストを伝える貴重資料であり、そのことに気づいた篁墩が《論語集解攷異》の中で活用し ていたことは既に見た通りであるが、管見によると、中国においても仏典音義書の学術上の価値が認識されるのは清代乾嘉 期に入ってからであり、その点に関しては、以下に引く荘炘(一七三五~一八一八)の陳述が参考になる。 唐 の 釈 玄 応《 一 切 経 音 義 》 二 十 五 巻、 ……《 釈 蔵 》 の 中 に 存 す。 唐 よ り 以 来、 伝 注・ 類 書、 皆 未 だ 引 く に 及 ば ず、 通 人・碩儒も亦た未だ覧るに及ばず。千餘年を閲て、吾が友任礼部大椿、 《字林考逸》を著し、孫明経星衍、 《蒼頡篇》を 集むるに、始めて其の書を見て、其の撰述を成 す

((

。 荘炘の説明によると、任大椿(一七三八~一七八九)と孫星衍(一七五三~一八一八)が玄応《一切経音義》の利用に先鞭 を附け、輯佚作業を展開した。玄応《音義》二十五巻は、慧琳《音義》百巻より前に完成した現存する最も古い仏典音義書

(21)

であり、荘炘によって乾隆五十一年(一七八六)に始めて単行本として刊行された。

  十八世紀に至り、日中両国の学者は期せずして同時に仏典音義書に着目し始めたと言えるが、日本で最初に仏典音義書を 利用して学術活動に従事したのは篁墩ではない。荻生徂徠(一六六六~一七二八)は《論語徴》において里仁篇「無適也、 無 莫 也 」 句 に 対 し て 注 解 を 加 え て、 「《 華 厳 》 の 慧 苑《 音 義 》 に 引 く《 蜀 志 》 に、 諸 葛 亮 曰 く、 『 事 は、 疎 を 覆 ひ 奪 を 易 ふ る を 以 て 益 と 為 し、 適 無 く 莫 無 き を 平 と 為 す 』」 云 々

((

と 説 い て い る。 徂 徠 が 引 く 慧 苑《 大 方 広 仏 華 厳 経 音 義 》 に 引 く《 蜀 志 》 の記述は、現在の《三国志》蜀志に見当たらない異文であるが、里仁篇の同じ「無適也、無莫也」句に対する篁墩の校語の 中でも、やはり次のように《蜀志》の異文が引かれている。 案 ず る に、 適・ 莫 の 字 義、 唐 の 慧 琳 云 ふ、 「 適 は 主 適 な り、 亦 た 敵 な り。 適 は、 匹 な り。 莫 は、 猶 ほ 慕 の ご と き な り、 慕ひ欲するを言ふなり」 。此れ何注の釈。又、澄観の引く《蜀志》に「諸葛亮曰く、 『適無く莫無きを平と為す。人情、 親を親として踈を踈とするに苦しむ、故に適莫の道廃するなり』 」。今本《蜀志》に見ゆる無し。 (巻二、三八頁) 一見すると、慧琳《音義》の利用は前半部分にとどまるような書きぶりであるが、そうではない。後半部分に名前が見える 澄観が《大方広仏華厳経疏》の作者であり、引かれている《蜀志》の異文は慧苑がこれに対して附した音義に見えるのであ る

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。 徂 徠 は 仏 典 音 義 書 を 最 も 早 く 利 用 し た 日 本 の 学 者、 と い う こ と に な る か も 知 れ な い が、 《 論 語 徴 》 に お け る 利 用 は 右 の 一箇所にとどま り

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、篁墩による慧琳《音義》の利用に影響を与えたとは考え難い。仮に徂徠の影響を受けていたとしても、 篁墩は慧琳《音義》の校勘上の価値に気づいて意識的に利用した最初の学者であった、と言えるであろう。

六   結論

  吉田篁墩《論語集解攷異》は時代の気風が産んだ著述である。江戸時代における一部の漢学者は国内に貴重な漢籍が保存

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されており、中国では目にできないものが少なくないことを認識していた。彼らは、これらの文献を利用して進める校勘作 業 に は 学 術 的 価 値 が あ り、 中 国 で 高 い 評 価 が 得 ら れ る 可 能 性 が あ る こ と を 承 知 し て お り、 篁 墩 も そ の 一 人 で あ っ た。 《 論 語 集 解 攷 異 》 に お け る 校 勘 の 目 的 は《 論 語 》 の 原 形 を 恢 復 す る こ と で は な く、 何 晏《 論 語 集 解 》 の 原 形 に 近 づ く こ と に あ っ た。 篁 墩 は 所 与 の 文 献 条 件 の 下 で は、 《 論 語 》 の 原 形 に 溯 る こ と は 無 理 で あ り、 せ い ぜ い 流 布 本《 論 語 》 の 祖 本 た る 何 晏 注 本に近づくことが可能であることを承知していた。それのみならず、現存する《論語》の諸本がいくつかのテキスト系統に 属 す る こ と も 了 解 し て お り、 こ れ ら の 系 統 の 間 に は 優 劣 の 違 い が な く、 《 論 語 》 の テ キ ス ト が 統 一 し 得 る も の で な い こ と も 理解していた。 《論語》テキスト流伝に関するかかる見方は、当時の学者としては傑出したものと言える。

  対校資料に関して、篁墩は日本国内に残っていた《論語》旧本のみならず、 「他書資料」も利用して考辯を進めた。 《論語 集 解 攷 異 》 の 中 で 引 用 さ れ る 異 文 と 佚 文 は、 往 往 に し て 阮 元《 校 勘 記 》 に 指 摘 さ れ て い な い も の で あ り、 《 論 語 》 の 異 文 に ついて言うと、篁墩が引用する経伝の文字が敦煌鈔本のテキストと一致することも珍しくなく、古い異文が随所に提示され て い る こ と が《 論 語 集 解 攷 異 》 が 持 つ 学 術 上 価 値 を ま ず 保 証 し て い る。 篁 墩 が 利 用 す る「 他 書 資 料 」 に つ い て 言 う と、 《 臣 軌》や《群書治要》など中国では失われたものが少なくないことが目を引くが、とりわけ注目に値するのは、慧琳《一切経 音義》が活用されていることである。慧琳《音義》は中国では失われた仏典音義書であり、篁墩はその中から佚書・佚文や 《 論 語 》 経 注 の 異 文 等 を 探 し 出 し て 校 勘 を 進 め て い る。 仏 典 音 義 書 の 文 献 価 値 に つ い て 言 う と、 中 国 で は、 篁 墩 と 同 時 期 の 任大椿や孫星衍が玄応《一切経音義》に着目し始め、以後、校勘と輯佚に役立つ資料であるという認識が広まった。篁墩は 恐 ら く 全 面 的 に 仏 典 音 義 書 を 対 校 資 料 と し て 利 用 し 始 め た 最 初 の 日 本 の 学 者 で あ り、 こ の 一 事 を も っ て し て も、 そ の 名 を 《論語》校勘学史上に留めるに値する。

述の通り、篁墩は《論語》にはいくつかのテキスト系統が存在することを認識した上で、いずれか一方だけを是としてはな   《 論 語 集 解 攷 異 》 は《 論 語 》 を 校 勘 す る 上 で の 有 用 な 文 献 で あ る が、 理 論 と 実 践 の 間 に 乖 離 が 認 め ら れ る こ と も あ る。 上

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らないと主張していたが、校語の中には一方のテキストがもう一方に優ると明言しているものも認められるのである。典籍 の引用方法にも問題があり、校語の中で引用される「他書資料」や参考資料は往往にして直接引用ではなく、慧琳《音義》 からの転引であって間接引用であることが明示されないことも珍しくない。引用文献について言うと、同時期の中国の士人 にとっては常見の書に属する《説文》や《爾雅》等も慧琳《音義》から転引されていることも、考察の結果、明らかとなっ た。漢籍を引用する際、辞書や類書などの編纂型の文献から転引するのは、篁墩に限らず日本漢学史においてよく見受けら れる現象であり、国内に流通する漢籍の数量と種類が中国と較べると遥かに乏しかったことがその理由の多くを占めると思 われ、この点の実態解明は後日を期したい。本稿の考察を通してその一端が明らかとなったように、日本における漢籍の校 勘は独自の展開を示しており、学術的意義も少なくない。今後、この論題に関する関心が高まり、全面的な整理と解明に近 づくことを期待したい。

1)  中、は、子〈永・  〉(三号、一九九九年)、同〈安永・天明期の吉田篁墩二─《足利学校蔵書附考》上〉(《一橋論叢》第百三十一巻三号、二〇〇四年)、同〈安永・天明期の吉田篁墩─《足利学校蔵書附考》下〉(《一橋大学研究年報  人文科学研究》第四十二号、二〇〇四年)が参考になる。2)  台《二〈〉。文「按、為、曽・元・衍・裁・震・等諸家之所言暗合者多矣」中の「多」一字および「士」は衍字、「畢元」の「元」は「沅」の誤字。3)  は「聞、也。学、始、唐、晋・魏、漢、愈得其実」(阮元《揅経室二集》巻七〈西湖詁経精舎記〉)と述べている。4)  は、冊〈い。稿は、本(号:九一〇〇七一三三)を利用した。5)  が、る。編《(店、)頁。は、長〈ついて─〉(《ビブリア》第八十三号、天理大学出版部、一九八四年)を参照。

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