アショ!カ王法勅の
g B σ c
岳 山
について
. " , ‑ ー 、 、
‑ ・
E・ ‑ 戸
4・
h¥、ー../
β 、
7
西
}
I 頂
ア シ
ョ
i カ王碑文が古代インド研究の上で比類のない重要性をもつことは広く承認されており︑改めて強調す
るまでもない︒これまでになされた研究の膨大な量がこの事実を何よりも雄弁に語っている︒
しかし碑文が古代インド研究上極めて重要な文字資料であるとは言っても︑碑文だけから法勅の意味内容を明
確に限定することは必ずしも容易ではない︒その理由は︑法勅が書かれた当時の歴史的背景が判然としていない
からである︒結局︑その時代の歴史的状況︑とりわけ政治史的・文化史的・宗教史的状況がどのようなものであっ
たかを推測し︑それらとの関連において法勅を理解するほかない︒そのためにこれまで様々な資料が参考として
取り上げられ︑それらの資料に沿った解釈が提出されてきた︒それにもかかわらず︑どのように解釈すれぼ︑法
結を正確に捉えたことになるのか︑文献解釈のもっとも基本的な陪題について︑なお検討の余地があると思われ
ヲ hv ︒
ア シ
ョ
i カ王の時代は︑政治史的には︑部族国家の分立状態から統一一国家の実現という︑古代インド史の上で
ももっとも激しい変動の時代であり︑宗教史的には︑すでに成立していた仏教が︑アショ i カ王による寂護も加
国 際
仏 教
学 大
学 競
大 学
研 究
紀 要
第 一
号
平成十年三月
三五
ア シ ョ
i カ
王 法
勅 の
g g σ
︒ 島
民 に
つ い
て ( 一 ) ( 今 西 )
プミ
わって︑著しく発展を遂げることになる時代でもあった︒他方︑アショ i カ王はこのような歴史の激動の中に埋
浸することのなかった︑インド史上類い稀な個性的存在であった︒大きな歴史的変革の時代の中枢に位置して︑
ア シ
ョ
i カという一入の人間がどのようにその個性を発揮しようとしたのか︒この間題は限りない関︑心を呼ぴ続
け る
で あ
ろ う
︒
これまでに法勅研究の参考資料として取り上げられたものが︑実捺どこまで参考資料・補助資料として有効で
あるかについての評僅には︑なお大きな問題が残されている︒例えばパシャムは︑蓋接︑アショ l カ王に関係す
る研究資料を次の三種に大別している︒
一 連
の 法
勅 碑
文 ︒
カ王自身の言葉を表していると患われる︒
一 、
これらの文書はアショ i カ王と厳密に同時代の唯一の文献であるとともに︑
ア シ
ョ
i
一 一 、
スリランカの年代記に保存されている上座部の伝承︒
三 ︑
﹁ ア
シ ョ
i カ・アヴァダ i
ナ ﹂
その他に︑中国の巡礼僧の記録︑
後代のものである︒
カルハナの
i i ﹁ ラ ジャタランギニ
﹄ ︑
プ ラ
i ナ
文 献
が あ
る が
︑ これらは
そしてバシャムは︑これら三種の資料には共通性が極めて乏しく︑
な統治者であった︑その首都誌パ i タリプトラであった︑彼は仏教に婦依して新しい覚醒した政策を採用した︑
と言い︑カリンガ戦争のように︑アショ i カ王法勅では極めて重要な意味を与えられてい
もまったく被れていない事実のあることを 一
致 す
る の
は せ
い ぜ
い ︑
ア シ
ョ
i カは強力 というくらいである︑
るにもかかわらず︑上屋部の伝承も ﹁アショ!カ・アヴァダ i
ナ ﹄
指 捕
し て
い る
︒
これら辻アショ i カ王に関する伝承であることを明言している資料であるにもかかわらず︑それら諸資料が実
質的にはこのような特異な性格をもっている︒それらは他者の立場から見たアショ i カ王像を︑しかも後代になっ
てから︑描いている︒その中には碑文には述べられていない︑興味深い様々な事柄についても記述しているが︑
それらがどれだけ事実を伝えているかについては︑十分な保証はない︒いわんやこれらの資料以外の︑広くイン
ド患葱史・宗教史上の資料ともなれば︑それらが法勅理解のためにどこまで真に参考資料たれソうるのか︑明確な
根 拠
を 示
す 宇
﹂ と
は 困
難 で
あ る
︒
しかしながらこのような困難な事需はアショ i カ王にのみ限られることではなく︑むしろインドに限らず極め
て一般的なことと言わなければならない︒例えば今から百年前の事柄であったとしても︑同じような問題がある
ことは︑しばしば経験するところである︒ましてインドでは︑古い資料の場合は資料そのものの信憲性が常に問
題になる︒その点で辻逆にアショ i カ王碑文にこそ大きな司有の意義があると言える︒バシャムも指摘するよう
に︑法勅は﹁アショ i カ王と厳密に問時代の唯一の文献であるとともに︑アショ i カ王自身の言葉を表している
と思われる)ものであって︑後代の付加・改変を経ることなく今 E に伝えられている︒そこにこそ法勅の重要性
がある︒この事実を再確認するならば︑法勅碑文を︑アショ i カ王に関する他の伝承資料にもとづいて解釈する︑
という方法自体に問題があると言わなければならない︒法勅辻インドの藍史の中で生み出されたものであるから︑
ア シ
ョ
i カ王に関する伝承資料以外にも︑広くインド文佑史の諸資料が参照きれなければならないのは当然であ
それらが法勅の解読に真に有効な資料であるか否かについては︑慎重な吟味検討が必要ときれるで
る に
し て
も ︑
あ ろ
︑ フ
c
法勅の文章がどれ沼ど難解であるとしても︑出来るだけその文章に却してその意味内容を再吟味するほかない
ア シ
ョ
i
カ 王
法 勅
の
Z E C C
己 主
に つ
い て
( 一
) (
今 西
)
‑ ‑ t : ;
ア シ ョ
i
カ 王
法 勅
の
g 召 σ ︒
島 比
に つ
い て
‑ ‑ ‑ ー 、 、
一 、 、 . . /
( 今
西 )
f 、
それだけから厳密な理解を導くに必ずしも充分とは言
それにもかかわらず理解不能なほどに少ないわけではない︒広く諸種の資料を参考にせざるを
えない事情は少しも変わらないけれども︑それらの参考資料によって法勅を読むのではなく︑それとは逆に︑法
勅そのものの文賑を可能な眠り重視してその意味内容を汲み取る方法によりながら︑法勅が書かれた当時のア
シ ョ
i カ王とその時代を浮かび上がらせるように努めなければならないであろう︒ ことになる︒幸いなことに︑法勅辻︑文章の量としては︑ え
な い
に し
て も
︑
アショ!カ王の岩石法勅第八章には極めて重要な文賑の中で g 言ず︒島己という語が患いられている︒この語は
仏教語と見てよいものであり︑仏教においては第一義的には﹁正覚﹂すなわち[悟り﹂を意味する用語である︒
古代インドの最初の統一一臣家を完成した国王が︑その法勅において仏教的な悟りに言及しているとすれば︑統治
者である国王と仏教との関孫を考える上でも極めて重要である︒そのためにこの語が広く研究者の関心を集めた
のは当然である︒しかしこの一語をどう理解するかが容易な問題ではないのが実状である︒これまでにも種々の
解釈が出されているが︑それにもかかわらず誰もが納得出来るような解釈はいまだに提出されていない︒
問題の本質はどこにあるのだろうか︒岩石法勅第八章の当該文章の趣旨はほぼ次のごとくである︒
一 体 ︑
過去長期にわたって諸王たちは娯楽の巡行に出かけた︒そこでは狩猟やその他局種の楽しみがあった︒
神々に愛された喜見王は︑潅頂十年後に三菩提
( g E σ
︒ 舎
一 )
に 出
か け
た ︒
そ れ
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っ て
こ の
法 の
巡 行
が (
始 ま
っ た
) ︒
こ こ
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す ︒
島 民
の 語
が あ
り ︑
ア シ
ョ
i カ王の法勅ではここだけにしか用いられていない︒法勅研究の初期に
この語辻﹁正覚﹂の意味に理解されていた︒しかも研究の初期の段階においてウィルソン︑
ピュルヌフ等は﹁三菩提に出かけた﹂(巳
r r y 自 民 8 5 σ
︒岳山)の箇所を﹁正覚に達した﹂︑すなわち﹁正覚を得た﹂
と 解
し て
い た
︒
一 フ
ッ セ
ン ︑
お い
て は
︑ しかし亘書
5 5 2
は 法
勅 で
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の 王
に つ
い て
﹁ 娯
楽 の
巡 行
に 出
か け
た ﹂
( ︿
庄 町
田 円
ミ 笠
宮 召
E W
宵 E
5 2
c )
と ︑
かける︑外出する﹂意味で用いており︑パ i リ仏典でもそれが通常の用法であるか民︑﹁正覚に達した﹂と解する
のは無理がある︒その後︑仏教的待語としての用法において﹁出家する﹂﹁道に入る﹂意味があるので︑﹁正覚の
ために︑正覚を求めて︑正覚への道に︑出発した﹂と解された︒森鵠外・大村西産は﹁菩提(ぎ舎一正覚︑道)仁
入れれ円)﹂と訳し︑﹁道に入れり﹂とは小岩石法勅第一にいうところの﹁僧伽に近づきし﹂ことであるとすい)︒宇井
伯寿も﹁三菩提に往きぬ︒﹂と訳し︑﹁三菩提の途に上がった(口実 55Z
ご 号
︑ 泊 三 皇 室 ず
ο 亀 戸
E ‑ 5
︑三菩提を得る真
の途に上ったの髭ごと解している︒そして︑﹁三菩提は通常は正覚又誌等覚と訳され︑仏陀の大悟を指す︒然し
こ︑で辻正道に入ったの意味に解してよからうと患ふ﹂と注していが)︒
出
王が仏陀の悟を得たのではないから︑
らの解釈によれば︑
こ れ
ア シ
ョ
i カ王はコニ菩提を得た﹂とは言えないけれども︑ ﹁仏教の悟りの智慧を求めた﹂こと
に な
る ︒
これに対してパンダルカルは異議を唱えた︒彼はアショ i カ王と仏教の悟りとを結びつけることに反対して︑
むしろ﹁ブッダが正覚に達した所︑すなわちボ i ド・ガヤ i の菩提樹に参詣した﹂と解釈すべきであることを主
張した︒古の王たちが娯楽の巡行に出かけたのと司様 ζ
︑アショ
i カ王も具体的なある場所へ出かけたのであっ
て︑その場所が菩提樹であったとするのである︒その理由として︑ギルナ i ル・テキストにミ
. 3 £とあって︑出
発を意味する宮=立さではないこと︑飽のテキストには
E O 5 2 首 位
と あ
り ︑
覚 に
達 す
る ﹂
( E E E O H V
竜 彦
三 言
︒ ‑
‑ ぽ
2 2 )
という意味には取れないと言う︒そして
b g
き お 訟 ぎ に ぎ 色 止 が
いずれも物理的な意味を表し︑﹁正
ア シ
ョ
i カ
王 法
勅 の
S5
ぎ岳山について
/ " " ー 、 、 、
一 、 、 ̲ ̲ . /
( 今 西 )
ナ」
ア シ ョ
i カ
王 法
勅 の
S E σ o
止について a
" ー 、 弘
一
、.̲./( 今
西 )
l 2 E C 二 〉
菩提樹の意味で用いられていることを指摘し旬︑ず
C E v Z
芸 答
︒ 量 と 同 様 に 話 芸 ぎ 主 も 菩 提 樹 の 意 味 に 解
してよいと主張すいよさらにパンダルカルは
5 5
哲ぎ岳山富岳山(ア宅 u ℃
‑ N 8 )
において g 召ぎ岳山が菩提
樹の意味で患いられている例があるのを見出して︑邑説を補強した︒ただし︑このジャ!タカでも︑表題ばかり
でなく︑本文においても︑菩提樹を表すためには σ
︒ 岳 民
w z m y
号︒己主が繰り返し使われており︑ g 召 σ
︒ 島
民 は
た
だ一一箇所においてのみ用いられている︒しかも一つの写本は
g H 唱
す ︒
島 岡
山 の
と こ
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Z 召
昌 σ c
弘 同
七 と
し て
い る
︒
これについてパンダルカルは︑この読み方拡ファウスペルが用いた五写本のうちただ一本のみにあるものであり︑
しかもその写本はビルマからもたらされたものである︒そしてピルマでは地域的特性のため ω を正しく発音出来
ず︑代わりに同と発音するとして︑このピルマ写本でも
2 5 σ o
岳山吉という形が実際には意罰されている︑と言
う︒パンダルカルは以上の根拠から法勅の
Z B
ず︒己主は菩提樹の意味であることを︑彼の著書込さぎの中でも
力 説
し た
︒
パンダルカルのこの説はフルチュがその著営号︑合ささミ込さ雪 ( 5 N U )
モ ン
ト が
︑
g 召ず︒色回目が菩提樹を意味する例を﹃ジャ!タカ﹄(ア︿
C 戸
円 ぐ
. w
℃ ‑ N ω
岱 )
例指播したため︑菩提樹の意味に解するのが定説のようになった︒
わが国では菩提樹説に対して宇井信寿が︑ Z5 ぎき‑は三菩提すなわち正覚として理解すべきものあって︑菩提
樹の意味で用いられていると主張するには︑﹁三菩提なる字が仏陀の成道した場所を指す意に用ひられ得ることを
明にせねばならぬ筈である﹂と反論していだけれども︑以上の研究状況の進展に伴って︑菩提樹とする解釈が一
殻に採用されるようになった︒
( 同 日 )
において採用した︒
さらにエッガ i
の ほ
か に
︑
﹃ 島
史 ﹄
にも六
と こ
ろ で
︑
ア シ
ョ
i カ王のルンミンデ l
イ 法
勅 に
よ れ
ば ︑
ル ン
ピ ニ
i 塵へは潅頂二十年後に参詣していること
が確かめられる︒岩石法勅第八章の g 苦ず︒色比を菩提樹ととるならば︑菩提樹への参詣は︑目下検討している法
勅によって︑潅頂十年後のことである︒ところが仏教伝承によると︑
の中で菩提樹にも参詣したという︒すなわち︑長老ウパグプタに導かれて︑まずルンピニ l 匿を訪い︑次いでサー
キヤ族の故都カピラヴァストゥ︑それからブッタガヤ i の菩提樹を訪れた︒さらにサ i
ル ナ
i ト
︑ ク
シ ナ
ガ ラ
︑
祇園精舎︑舎利錦︑呂連などの塔を訪れたことになってい(旬︒従って法勅とは参詣の頗淳が違うのみならず︑参
詣の年次にも大幅な縞たりがあることになる︒そこで︑仏跡巡礼という点での共通性を重視して︑年次・煩序の
桔違を無一読する材︑それともアショ
i カ玉吉身が法効に記している年次・頗序を重く見て︑伝承の方を軽く見る
かによって︑その評価は異ならざるをえない︒
法勅と伝承とが一致しないのであるから︑われわれとしては法勅を重視する立場から︑法勅の
Z H M H
一 σ c
己が菩 a
提樹を意味するという解釈がはたしてどれだけ確実であるのかを︑さらに検討しなければならない︒
ル ン
ピ ニ
i 匿への参詣に始まる一連の巡礼
現在では菩提樹説が有力な解釈として支持されているけれども︑なお問題が残されている︒従って必ずしも法
勅が菩提樹の意味でこの語を愛用していると麟定することは出来ないから︑現在でも菩薩樹説が疑問の余地のな
い確定的なものとして︑必ずしも評倍されているわけではな(旬︒プサンは研究史を大観した上で︑スナ i
ル の
﹁ 正
覚を求めて出発する﹂という解釈に好意的であった︒そして第二次世界大戦後間もなくブロックは﹁正覚のため
に出発した﹂という訳を採用した翻訳を公刊した︒彼は菩提樹説については︑動詩
E r r F m
凶 E a
が実際の旗行を意
味するので︑そこから
Z E
ず c a
己を菩提樹の意味に解そうとする人がいるが︑この解釈の唯一の難点は︑パ i リ
語でもパ
i ルフトの碑文でも︑菩提樹は通常は σ
︒ 岳
山 で
表 さ
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い る
こ と
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る ︑
と 批
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る ︒
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川 口
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己によって説明されているから︑そこでは菩提樹の意味
ぎ (
関 川
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亀 戸 一 言
z r m )
ア シ
ョ
i カ
王 法
勅 の
2 5 σ
︒ 昌
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( 今
西 )
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ア シ ョ
i カ
王 法
毅 の
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︒ 島
民 に
つ い
て
( 一
) (
今 西
)
l Z 9
で使われていることは認めている︒ブロックにとってむしろ問題は︑ ﹁正覚のために出かけた﹂ということが︑ア
シ ョ
i カ王が正覚を得ょうと企てたことを意味するとすれば︑そのことは大乗仏教の教義を思わせるということ
であっ問︒この最後の点については︑すでにリス・デヴイツズが大乗仏教との関係を認めてい問︒
ブロックのこの開題提起はパシャムによっても支持きれていか)︒︒すなわち︑
て Z 召ぎ己主に菩提樹の意味があるとしても︑スワランカで数世紀後に書かれた文献の中で時に菩提密が g 召ぎ岳山という語で表されることがあったとしても︑西紀前二五 O 年頃の︑仏教について特別の知識をもた
ない︑平均的な教養をもっインド人はそう理解せず︑アショ l カは正覚を求めていたという意味に説明した
で あ
ろ ︑
7 ︒
二︑プッダガヤ i
は パ
i タワプトラから一
00
キロメートルしか離れていないから︑何度か訪れることは出
来た︒法勅の文を︑準頂十年後に訪れたことを表していると解するならば︑荷故それまで待たねばならなかっ
た の
か ︒
三︑ギルナ
l ルのテキストのみは動詞可凶 γ 頭を用いるが︑他はすべて宵
5 5
t を用いているから︑付
5 5
s が
正 しい読み方であろう︒そして}内
E B
z は到達よりは出発に力点を置いている︒これに対して
3 1
は特定の目的
地への到達を指示する︒アショ i
カ 誌
Z E
ず孟豆に出かけたがまだそこに到達していないことを表現しよう
と し
た ︒
四︑プロックは Z 召
σ c
己を正覚と歌った場合に大乗仏教との関孫が問題になるとするが︑これ辻重大な問 a
題ではない︒大乗経典が書かれた経典となる前に︑どれだけ長期の問︑口承で伝承されていたか︑われわれ
は承知していないからである︒
パシャムは以上の理由から︑菩提樹説を退けて正覚説を採用する︒そして︑その時代に発展しつつあった仏教
正覚を追求するという厳粛な誓願をたてる習慣がすでに存在していたと考えて︑大乗仏教的な精神を法勅
こ 十
品 ︑
に読み込もうとする︒
パシャムは︑ブロックを承けて︑正覚説を採用した場合には︑誓願を立てる大乗仏教との関係が当然不可避に
なる︑という前提に立って︑むしろこの立場を肯定的に推進しようとしている︒またわが国においても︑前述の
ように菩提樹説が有力視されるに至っているが︑西義雄は正覚説をとるのみならず︑﹁正覚に達した﹂と解してい
る︒そして︑アショ!カ王の他の法勅を検討して︑心性本浄説︑﹃法華経﹂の﹁警蛾品﹂にある﹁一切衆生はわ
が子なり﹂の思想︑﹃十地経﹄の第六現前地などの大乗仏教思想との関連性を想定し︑アショ i
カ 王
が ︑
一 二
菩 提
(正覚)を覚証したことの﹁意義の深さを考え直すべきであろうと痛感する﹂と︑問題提起を試みている︒
正覚説を採用して︑むしろ積極的に大乗仏教との関係を求めようという研究の一つの方向がここに見られる︒
しかし仏教史的に見る時に︑はたしてそこまで主張出来るのかどうかがむしろ大きな問題になるであろう︒
ア シ
ョ
i カ王時代の仏教教団の状況については︑当然部汲分裂の開題を中心に考察せざるをえない︒しかるに
法勅の理解の仕方によっては︑そこへきらに大乗仏教の成立あるいは存在という大きな問題まで持ち上がって来
ることになる︒しかしこの問題提起自体の根拠は︑最初期の大乗仏教運動がアショ l カ王の時代にすでに存在し
たことを論証したで︑その大乗仏教運動が法勅にも反映している︑というのではない︒むしろその反対に︑法勅
の解釈によって︑最初期の大乗仏教運動の存在を推測しようとするものである︒そこで︑アショ l カ王の法勅が
実際にそこまで含意しているのかどうかという点が改めて関われなければならないであろう︒それ故われわれは
あくまでも法勅そのものの理解という出発点に立ち帰って︑さらに考察を進めなければならない︒
ア シ
ョ
i
カ 王
法 勅
の
S E σ c
己 a
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( 一
) (
今 西
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I ‑ Z E
ア シ ョ
i カ
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︒ 島
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一
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( 今 西 )
g ョ
立 主 主
四
アショ!カ王は
Z E
ず C 色ユという語をいかなる意味に績は用したのであるか︑なお断定するに困難な状況にあ
り︑問題は法耕研究の最初の当時に一戻った観がある︒そこでこの問題をひとまず措いて︑別の角度から検討する
ことにしたい︒それは︑アショ i カが国王であったという極めて昌明の事柄をめぐってである︒
ア シ
ョ
i カ王は小岩石法勅第一の中で二年半宥余の関ウパ i サカ(優婆塞︑在家信者)
で み
り ︑
サンガに近づ
いていたことを告白している︒すなわち︑'アショ i
カ玉はウパ
i サカとなって︑初めの一年間誌熱心に精励する
ことはなかったが︑次の一年余は﹁サンガに近づいて熱心に精励した﹂︑そして﹁かつて人々はジャンプディ i パ
において神々と交感することがなかった
( ω 5 5 8
が︑今や神々と交感するに至った
( 5 苦 悩
} S 3 u s ‑ g g
E 仲 間 ) ︒
これは実に精励の果報である﹂とこの法勅に記している︒リス・デヴイッズや V
・ ス
ミ ス
は ア
シ ョ
i
カ王がウパ
i
サカであって︑サンガに近づいていたことを念頭に量いて︑
25
ぎ昌弘を正覚の意味に解そうとしたのであり︑森
鴎外'大村西崖や宇井泊寿なども正覚説の立場からウパ i サカとしてのあり方について若干の考察を加えていた︒
今この点を国王としてのアショ l カという立場から考察するとどうなるであろうか︒
この法勅の阜でここでまず取り上げなければならないのは神々との﹁交感﹂(邑器削)という問題である︑碑文が
発 見
さ れ
た 当
初 ︑
S Z
剖
( 2 ‑ z m 同
) は
m w z ‑
芸品問に相当すると考えられていた︒そしてビュ i
ラーは︑﹁それまで
真実であると考えられていた人々︑すなわちヴィシュヌ汲やシヴァ滋などを説く苦行者やバラモンが︑アショ i
カ王の努力の結果︑その高い位董を失って︑神々もその人々とともに失墜した﹂という趣旨に解した︒スナ i ル
も ビ
ュ
i ラ i の読み方に従ってい封︒森鴎外・大村西庄の訳では﹁轄部洲人の真に神と以為ひしところのもの︑
患妄なることを顕揚せワ﹂となっている︒
( 拘 )
シ ル
ヴ ァ
ン ・
レ 慌
) イ
は
5 2
畠
を E
S
で あ
る と
解 し
︑
さらにこの法勅にある己雲山富は﹁神々﹂で誌なくて︑
﹁王達﹂であると主張した︒すなわち︑人々は号︿皆と交感するにいたった︑とアショ i カ王が言うとき︑その
(︼ぬぐ安とは﹁神々﹂なのではなく﹁王達﹂である︒アショ
l カ詰仏教僧錦に近づき︑彼の熱意を表すために︑仏
教僧に定められた巡礼を行い︑人々と交わった︒そのことから革命が起こった︒何故ならアショ i カは人間であ
るとともに︑王という資格において号︿岱でもあるからである︒それまで人民は王に近づくことはできなかった
が ︑
ア シ
ョ
i カは人々の間をめぐることによって︑王と人民との関の橋てを打ち破った︒人々が号︿営と交わる
4 4 } E
︐ ‑ っ ︐
‑ ︑
F む を し
f 宇 f ︐ というのはこのことを意味するのである︑
と 一 一 言 ︑
7 ︒
シルヴアン・レヴィのこの説をスナ i ルは前述のように碑文の解読を根拠に批判したが︑ フルチュはレヴィと
同じ読みを採用しつつも︑レヴィのその解釈を否定した︒その理由として︑母ぐ山の語は︑法勅でその他には
己 ミ
宮 割
高 戸
a 買
ぞ
m に見られるのみであり︑この場合の込雪山誌﹁王﹂を意味しないからであると言河︒サンスク
ワットとパ i リ語では号︿ ω が王を意味する用法があるが︑それは呼格での用法であって︑三人称ではこれは稀
有 で
あ る
︒
確かにアショ i カ王は巡行したのみならず︑別の法勅において︑いかなる時でも上奏してよいと定めており︑
王と行政ならびに人民との関係を密接にすることに務めたのは事実である︒しかしそれを人々と神々との交惑と
して表現したというのは無理がある︒アショ i
カ 王
が 自
身 を
﹁ 神
﹂ (
品 ︒
g )
と考えたとするならば︑法勅が何故
﹁神々﹂という複数形にしたのかが説明困難であろう︒
円 同 雪 山
ω は文字通り﹁神々﹂と理解すべきであろうが︑その意味に関しては種々の意見が提出されている︒トー
マス詰神々との交惑とは︑バラモンの神々を︑
種 族
に 知
ら し
め た
の で
あ る
︑ と
解 し
て い
い 針
︒
これまでそれについて無知であったインドの人民︑すなわち未開
すなわちアショ i カ王の政治もバラモン文色が拡張していった一盛史
ア シ
ョ
i カ
王 法
勅 の
g B σ
︒ 島
民 に
つ い
て
‑ ‑ ー 、 、
一 、 、 . . /
( 今
西 )
四 五
ア シ
ョ !
カ 王
法 勅
の
g E
ず ο 己 E
に つ
い て
〆 ' ー 、
一 、 、 ー , 〆
( 今
西 )
四 六
の一端を担ったとする立場である︒これに対してム i ケルジは神々と交感することのなかった人々︑すなわち神々
や宗教と無縁であった人々をアショ i カ王は僧伽に結びつけたという解釈︑あるいは﹁神々が和合していない
人々﹂が﹁神々の和合せる人々﹂となった︑すなわち神々とその信者との関の争いが止んだという解釈の︑二説
を提示し︑後者を採君している︒
ところで菩提樹説の最初の提唱者であったパンダルカルが︑この点では微妙な説を打ち出している︒すなわち︑
h k v g
吉 選
E '
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F Q
喝 さ S
ミ ミ
( H
・ H
HHaH)
に﹁かつてこの世において神々と人間は一緒に住んでいた︒ところが神々は
祭詑(宮司ヨき)によって天に行き︑人間は取り残された︒彼ら(神々)の祭記を同様に営む者は(死後に)かの
世界において神々及び党天と共住す話︒﹂と説かれているのを引用し︑人間と神々との共住はバラモンの文献に知
ア シ
ョ
i カ王は人民が法を実践して︑死後においてのみならず︑
ら れ
て お
り ︑
むしろこの世において︑神々と交
感出来るように︑法の道に導き入れようとしたのである︑
教的世界観に依存していると主張するごとくであるが︑きらにパンダルカルは初期仏教の文献においても︑入慢
の霊的高揚が完成するや否や︑この世において発天および彼の神々によって崇敬される︑と説かれる例が存在す
・ ( e
8 H )
を引用して指接して
と言う︒その限ワでは︑
ア シ
ョ
i カ王はバラモンの宗
ヲ ハ
V こ
﹀ 工
乞 ︑
い ぷ
) ︒
そ し
て ︑
次 の
よ う
に 言
う ︒
﹁ ア
シ ョ
l カの時代に法に従い︑清らかで高貴な生活を送るジャンプドゥヴィ i
パの人間はただちに聖者と見なされ︑神々と結びついていると信じられていた︑と想定するの辻不合理ではない︒﹂
パンダルカルの説によれば︑アショ l カ王の足場はバラモンの祭式的伝統に深く根ざしているとともに︑仏教
という微妙な関係にあることになる︒
? ア
i
ラ・ガ
i タ i ﹄
( e e
・ 0N 吋
z a ω c w H C ∞
ω 2 H C
∞ ω
) ︑
ア
ガ タ
と も
矛 盾
し な
い ︑
同じことがパルアについても言える︒バルアは一面でバラモンの伝統に重心を移そうとしている︒役によれば︑
王の即位式すなわち潅頂儀礼(与
E t E )
から見るとき︑王は神々(色︒ユ
ω )
と密接不可分の関保にある︒潅頂儀
礼としては︿旦去
) m q p m g 品 ︺
口 三 一 注
目 ) 己
D R a m H ず
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内 }
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巴 ロ 門 町
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弘 F
己 宮
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富 山 門
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円 ロ ロ
ω 巴
F R B m
老町淳一という神々に対して捧げ物を
す る
︒ ℃
C H
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円
Bm き
z z r m
は王が他の王国を勝ち取ったときに執行され︑その王は岱昌弘司丘町凶と呼ばれる︒従って︑
期 位 儀 礼 を 通 じ て 王 は 神 々 と 関 係 を 保 っ て い る こ と に な る
︑ そ の 限 り で は 法 勅 の 神 々 は ヴ ェ
i ダの神々
のために行われるが︑
そ の
際 に
∞ ミ
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部 三
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口 日
∞ 0 5
ω
︿ 岱 己 主
山 円
) m 注 目
と 言
︑
7 0
であることになる︒
次にバルアは︑アショ i カの称号号︿ m 富 山
B 耳目ヨを郎位儀礼と関係づける︒この称号自体は宮可
m w
︻ 寄
間 宮
山 吉
F 泊 三 叩
5 m
g 円と同様に敬稔(℃旦皆川凶のさとに過ぎないが︑即位儀礼を考憲すると︑﹁神々に愛された者﹂
ということは︑部位儀礼において祭官によって種々の神々の加護が祈類された者を意味す封︒
の意味は潅頂儀礼によって説明出来るものでみると言うのでみる︒ σ 日戸何回︿
ω P
つ ま
り 号
︿ 悶
g f ロ
℃ 吋 同 日
︑ 山
そうであるならばアショ i カはバラモ
ンの伝統に根ざしていることになるであろう︒
ところがパルアは︑
この語のパ
i リでの意味はこれとは別であると注意を促見︑ 仏典における人間と神々との
交流を歌り上げるとともに︑
あ り
︑
法勅の﹁交感﹂
﹁手に手を取って身体が触れ合う﹂
されていることを指摘する︒そしてギリシア人の記録に︑
ていたことを引き合いに出して︑マ﹂の羨むべき地位が沙門たちによって︑ について
﹃ ジ ャ
l
夕 方
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に
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2 包
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( ア ︿
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の 語
が それが
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宮 守
山 }
内 川
山 富
5 2 ω
同 町 宮
g 間
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冨哲
g
・ )
と注釈
インドのバラモンは﹁神々に愛された者﹂と見なされ
さ ら
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た 門
戸 ︒
︿
m 古
川 四
日 胃
ぞ ω という称
号 を
' 有
す る
ア シ
ョ
i
カのような正義の一帝王によって︑競われたのである﹂と言沌︒
この視点かちすれば︑アショ l
カの立脚地は仏教に近いものとなるであろう︒
仏教文献に登場する神々となるであろう︒ それとともに﹁神々﹂もまたヴェ i ダの神々という限定から離れ
濯頂儀礼についての考察はこれとどのような関
て ︑
そ う
だ と
す る
と ︑
ア シ
ョ
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カ 王
法 勅
の
g E U c
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/ " " ー 、 、
一 、 、 ‑ ‑ '
( 今 西 )
豆 主 主
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ア シ ョ
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カ 王
法 勅
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g 召 σ
︒ 島
己 に
つ い
て
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一 、 、 ー "
( 今
西 )
四 八
係になるのだろうか︒
バルア自身は以上の二つの立場を諒整することがなかった︒
はっきりと仏教への重心移動を示したの辻メイルである︒後はレヴ
J q
の説を退けるとともに︑仏典からの資料
( e
F S ∞
a g p H C ∞
N z H C
∞ ω )
などを挙げて︑次の
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・ ニ
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p A
山
N
∞ )
i ﹃ テ
ラ ︑
ガ i タ i ﹂
として ように結論している︒﹁アショ
l カは神々との交感というヴェーダの決まり文句を継承したが︑そこから議格な犠
礼的価値を剥奪し︑思うに︑黄金時代のイえ i ジと道徳的観念をそこに含ませたのである︒﹂
しかしながらフィリオザはメイル説に一反対し︑レヴィの説に共感を示している︒アショ l カ王法勅のどこを晃
人民が神々と交感したことを示す記述はないが︑
と 言
う の
で あ
る ︒
て も
︑
﹁神々﹂が﹁玉達﹂を意味すると解するならば︑問題は永
解 す
る ︑
フ ィ リ オ ザ は 神 々 の 実 質 内 容 に つ い て 次 の よ う に 考 察 し て い る
︒ 村 の 神 (
ぬ B
E m
君 E
主 制
) ︑
圏 の
神
( 尚 早
E 立︒︿州民間)を始めとする地上の神々は常に人間と共にある︒また︑天上の神々が地上に降臨することもある︒
ブッダの生涯にそれが見られるし︑聖者が酉心したときにもそうである︒例えば賎しい清掃人である∞己
ES
が
僧となったとき︑天上の神々が地上に降臨して敬われた︒神々がブッダを訪れたことについては﹃棺応部﹄の
a o g g i S
恒 H
三 件
冨 (
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戸 {
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召三片言(戸ロ)︑﹃増支部﹄の三群の己雪山 Z
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︿ 戸
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二 種
の 己
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S 2 2 片 片
山 ( ﹀
z w Firg ︿
一 一
M F F 5 )
などに繰り返し説かれている︒
このように︑神々が人間と関わりを持つという告仰は確かに存在したから︑アショ i
カ王がそれを知らず︑
の信仰を分かち持たなかったということはありえない︒それ故︑アショ i カ王が︑かつてインドには起こらなかっ
たと述べているのは理解しがたい︒
、 , . .
、 ー 圃 '
神人関係が長期にわたって中臨しており︑それ故に︑ その最初の顕現というよりは再確立を祝ったとアショ i
と取ることが出来るかもしれない︒プサンの克解がそうであった︒しかしアショ l カ王が遇
カ 王
誌 考
え た
の だ
︑
去に言及するとき︑神々と人間との交感はそれまで起こらなかった︑
第一の後半でアショ i カは賎しい身分の者たちには︑地上の楽冨を約束しているのではなく︑死後に天に昇るこ
とを約束している︒賎しい者たちにはこの世における神々との交感は排除されている︒これは仏典とは違ってい
る︒アショ
i
カ 王 の 号 品
ω が王たちを意味するとするなら︑この困難やその他の問題は解消する︒ と述べているのである︒ さらに小岩石法勅
フィリオザは潅頂儀礼が王と諸神格を同一視することを
示とは神格が異なるけれども︑その趣旨は同じである︒
﹃ マ
ヌ 法
典 ﹄
( ︿
口 w A
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示 す
︒
パルアの椀
ア シ
ョ
l カ王は実際には民衆ではなく︑少数の主だった人々と交わっただけであるから︑少数者がアショ i カ
吉身である﹁神﹂とアショ i カの内にある﹁神々﹂から恩恵を得︑その健の大衆は﹁神々﹂との交感からは排除
されて︑天上においてのみ期待することが出来た︒アショ i カに﹁革命﹂を見ょうとするレヴイの説が正しい︒
岩石法勅第八章には︑法の巡行に h おいて神々と人間との交惑があったことを示すような記述はまったくない︒
小岩石法勅第一が記す込ミ宏との交感辻︑あくまでも熱心な精励に対してアショ i カ王自身が得た果報なので
あって︑岩石法勅第八章の法の巡行においては︑天上の神々が降臨したことは述べられず︑単に王が人々を訪問
したことのみを記している︒そして王が法の巡行によってどのような利益を得たかを明示しており︑その利益と
辻︑神々との交感で誌なく︑単に王がその善行において得た喜びのうちにあるに過ぎない︒
フィワオザの見解の要点は以上のごとくである︒そして彼は︑仏
2 ω
を王と解することについて︑レヴィ説に対
してなされた批判︑すなわち︑アショ i カ法勅では己ミ ω
の も
う 一
つ の
用 例
で あ
る 己
雪 山
首 岡
山
H 官
官 守
ω においては
己 2
m
辻神の意味で震われているという批判に対して︑同一人が含︿岱を神と王との二つの意味で便用しではな
と 反
論 す
る ︒
らないという理由はない︑
ア シ
ョ
l カ
王 法
勅 の
Z 5 C C
己 主
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一
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( 今
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豆豆 : : f t . .
ア シ ョ
i カ
王 法
勅 の
g ヨ σ
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つ い
て
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一 、 、 ‑ '
( 今
西 )
三五 仁 二 コ
五
小岩石法勅第一の門同雪山の意味については一般には﹁神﹂と解しており︑それできしっかえないと思われるが︑
それに対しても根強い反論が存在している︒しかし問題を解き江ぐす糸口がないわけではないと考える︒
まず第一に号︿営陣吉宮ュヨの解釈を取り上げたい︒この称号については︑アショ i カ王以前から春在してい
たものとの見方が一毅である︒その一つの理由に︑岩石法勅第八章において︑
と ダ
ウ リ
の 法
勅 は
品 ︺
凶 ロ
p ‑ m C
帥 ロ
ゆ を
用 い
る が
︑
﹁古の王達﹂を表すのにギルナ
l ル
その他のものは含︿官宮口℃
q m w
を用いていることが挙げられる o
s E ロと同じ意味で含︿
M Z ω
言℃ぞ"が使われていると考えられているからである︒しかし法勅ではアショ l
カ 王
自身のこと詰通常含品口密口℃
q m
℃ q
m E
g ご丘町山と表している︒岩石法勅第八章でもそうである︒ ところが小岩
石法勅第一においては単に含︿鈎
5 5
立三と稔するのみである︒もっとも小岩石法勅第一に属するマスキ法勅で
は 号
︿ 倒
H E
召 立
三 一
宮 山
﹀ き
} s g m
2 ︑グジャッラ法勅では己 w
吉 川
凶 召
立 苫
g ﹀
g w
民 間
g 宮
と あ
る ︒
﹁ ア
シ ョ
i
カ ﹂
と い
う固有名詞はこの二つの法勅に見られる︒
円目︒︿間口町己資比三を伝統的な称号と考えることが出来るならば︑以上のこと辻荷等問題なく説明しうると考えら
れている︒しかしながらこの語の意味を︑潅頂儀礼やヴェーダの観念との関連で理解しようとするならば︑潅頂
を受けた古来の王達はいずれもそう称してきしっかえないはずである︒
潅環儀礼を重視したパルア自身はアショ!カ王に関して次のように論じている︒
﹃ シ
ヤ タ
パ タ
・ ブ
ラ i
フ マ
ナ ﹄
や
i ﹁ ヵ
ティヤ
i ヤナ・シュラウタ・ス i
ト ラ
﹄
に よ
れ ば
︑
S Y D
の称号は芸吾芯︺より劣る統治者の地金を
示 し
︑
E Y Z E
によってその称号を獲得する
ob
寺 内
N 令
官 誌
の 記
述 従
う な
ら ば
︑ 彼
は 円
丘 町
山 一
宮 町
山 向
山 門
ω ︒ ‑ Z ﹀
} 8
と し
ところで邸玄ミ喝さむに﹁マヒンダが十四歳のときにアショ l カ て最初の準頂を受けたと考えられなくはない︒
( ︿
F N A F
) (
2 0
召 E
m w Z E
邑 3
三 3
苦 )
﹂ (
︿ 戸
N N
) ︑続いて﹁溝二十歳のときに喜見を潅頂した
と記述されているのを捉えて︑パルアは次のように主張する︒最初の潅頂においてアショ
i カの名
この第二の濯頂が事実で
( ℃ ‑ M 1 m
ヌ凶何回
m w m
山唱