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中学歴史・岩倉遣欧使節からみる明治維新

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(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

中学歴史・岩倉遣欧使節からみる明治維新

著者 小馬 祐見子

雑誌名 高円史学

巻 10

ページ 34‑49

発行年 1994‑10‑01

その他のタイトル The Meiji Restoration from the Iwakura Mission to the West −a Topic in Japanese History for Junior High School−

URL http://hdl.handle.net/10105/8716

(2)

中学歴史・岩倉遣欧使節からみる明治維新

大阪書籍の教科書によると︑岩倉遣欧使節の記載は<領土の確定>の中に

34

小   馬   祐   見   子

﹁政府は一八七一︵明治四︶年幕府が結んだ不平等条約を改正するため︑岩倉具視を代表とする使節団を欧米に送りました︒

条約改正はできませんでしたが使節団は欧米の制度や文化を学んできました︒﹂

﹁・・・︒西郷隆盛らは︑新政府に不満な士族の関心を海外に向けさせるためもあって︑武力に訴えてでも日本と国交を結

ばせようとし︑征韓論を主張しました︒しかし欧米視察から帰国した岩倉・大久保利通らに反対され︑西郷らは政府から去

りました︒ところが︑一八七五年︑政府は軍艦を派遣して朝鮮を挑発したので︑江華島砲台とのあいだに砲撃戦がおこりま

(3)

資料① 大阪書籍 中学社会 研究と資料 指導書3よりの指導計画

本時のねらい

・日本の近代国家としての領土の確定のようすを理解 する。

・領土確定交渉のなかで、新政府の外交方針がどのよ うなものであったかを知る。

板書事項

<領土の確定>

1外国との関係

・欧米諸国

不平等条約改正のため欧米へ使節(岩倉具視 ら)

→交渉不成立    (1871年〜1873年)

・中国 日清修好条規(1871年)……平等

・朝鮮 征韓論(1873年)

政府に不満な武士の関心を海外に向 ける

江華島事件(1875年)

日朝修好条規(1876年)……不平等 2 領土の確定

・ロシア 樺太・千島交換条約(1875年)

・英・米 小笠原諸島を日本の領土と通告

(1876年)

−35−

と衷されている︒

今までに何度か岩倉遣欧使節を授業で扱ってきた︒その時の板書事項及び指導の流れは次のようであった︵資料①︶︒

(4)

このように遣欧使節について︑教科書の視点から教えながらも何かひっかかるものを感じていた︒明治政府の主要メンバー

を含む総勢四十六名の人数をみると国家の大型事業であったはずだからだ︒すると︑瓜全権委任状もなし・外交のいろはの

知識不足から条約改正失敗︒そのため︑途中から欧米文化の視察に目的を替えたⅤこのような教え方で本当に正しく時代の

動きを生徒に認識させたことになるのだろうか︒また遣欧使節後の大久保の指揮する日本の動きは︑明治維新にみられた民

衆とともに進む点から離れ︑世界の中の国家としての日本を確立する動きが主になっている︒この点から︑今までの私の授

業では<遣欧使節>を時代をかえた出発点になったできごととしてのとらえかたも欠けていたように思えたからだ︒

そこで少しでも文献にあたりながら︑岩倉遣欧使節とは本当はどんな背景から派遣が決まり︑その目的は何だったのか︑

何を得て帰国し︑その結果が明治政府にどのような影響を与えたのかを考察し新たな授業の展開をこころみてみようと思う︒

一本当は大隈遣欧使節のはずだった

日本史用語集によると岩倉遣欧使節とは︑﹃一八七一年︑条約改正の意図をもって︑岩倉具視を大使とし︑木戸孝充・大

久保利道らが副使として欧米を巡遊︑一八七三年帰国﹄とある︒中学校の教科書と扱いが違う点はA予備交渉の意図をもっ

てVという点である︒そこで条約改正の方針を確認してみると︑

一八六八年一月 条約改il三を約束

一二月 列国外交官に条約改正の意向を通知

(5)

一八六九年一月 北ドイツ連邦と修好通商条約を結ぶ

二月九月

一八七〇年一二月

一八七一年 三月 条約改正の審議を外務省に命ず︵制度・法律の未整備な状況では︑とても列国は改正交渉に応じないだろうから︑しばらく延期すべLとの結論を出す︶オーストリア・ハンガリーと修好通商条約を結ぶ条約改正取調掛︑各国の条約を翻訳・研究

大隈重信︑大蔵省出仕吉田構成両名を条約改正御用掛に任ず

このように国民向けには改正の旗はあげられていたが︑現実には国内政治の充実後に改正との路線がひかれていたようで

ある︒この動きの中で熱心だったのが大隈重信だった︒大久保利謙氏の研究によると︑使節団の派遣の提案は一八七一年八

月二〇日ごろ大隈重信がおこない︑大隈自身がその使節となるべく閣議の内諾まで取り付けていたらしい︒ところが大久保

利通は廃藩置県が断行され︑次なる政治的課題は外交問題︵条約改正のみではないようだが︶に移ると予想し︑薩長の主導

権を保持するためにも大隈案を否定し新たな使節団をつくった︒つまり大久保は派遣問題を主導権争いと位置づけ︑ライバ

ルの監視・抑制までねった使節団のメンバー構成をし︑留守政府のメンバー構成まで考え抜いている︒当面のライバル木戸

は同じ副使の立場で誘い︑肥前・土佐の開明派に対しては西郷を残し︑かつ使節団と留守政府の間に相互監視の約定書まで

作成して出発している︒その全権委任状には﹁岩倉二全権ヲ委任シ貴国及ビ各国二派出シ聴問ノ礼ヲ修メ・・・﹂とある点

からも条約改正が主たる目的ではなかったのである︒また大隈の構想の下敷きになったフルベツキのブリーフスケッチを岩

〜37−

(6)

倉は要請し新たな使節団の構想を練るのに利用もしている︒フルベツキは四九の項目を掲げ︑近代国家の調査研究を勧めて

いる︒大久保も自分自身の眼で海外をみて︑新時代の方向を築きたいと望んだことも︑毛利敏彦氏がその著﹃大久保利通﹄

においても指摘している︒このように︑遣欧使節は政治家の主導権争いのエネルギーに︑新たな政治課題造りのエネルギー

が加わり調査研究の目的をもってつくられたとみてよいと思う︒これらの点から教科書の記述にある︑﹁途中から目的を・・・﹂

ではなく︑最初から条約改正よりもっと重要な課題として欧米視察を掲げた使節団であり︑視察団としての存在を大きくク

ローズアップして見た方が実像に近づけると思う︒

二 留守政府との約束

派遣は政治上の主導権争いであったために︑お互いを拘束する十二款の誓約書を作成している︒第一では使節団を制約す

る条目なのだが︑十項目は留守政府の動きを抑えるものである︒﹁お互いを﹂と記したが大久保らが土佐の後藤や肥前の江

藤らを封じる意味でつくられたのが主な目的のようである︒以下姜 範錫著﹃明治六年の権力闘争 征韓論政変﹄よりの抜

ー38−

・御国書並びに通使の旨趣を奉じ︑一致勉力︑議論矛盾・目的差異を生ずべからず

・中外要用の事件は︑其の時々互に報告し︑一月両次の書信は必ず欠くべからず

・内地の事務は︑大使帰国の上大いに改正する目的なれば︑その間成るべき丈新規の改正要すべからず︒万一やむを得ずし

(7)

て改正する事あらば︑派出の大使に照会をなすべし

・諸省長官の欠員なるは別に任ぜす︑参議之を分任し︑其の規模目的を変革せず

・諸官省とも勅・奏・判を論ぜず︑官員を増益すべからず︒若しやむを得ずして増員を要するときは︑其情由を具して決裁

を乞うべし

・右院︑定日の会議を休め︑議すべき事に方りては︑正院より其の旨を下し︑毎回期日を定むべし

・款内の条件︑之を遵守して違背すべからず︒此の条件中︑若し増員を要するときは︑中外照会して之を決すべし

ところが︑お互いに約束に背く行動にでている︒

其の一予定にない条約改正交渉を試みる

アメリカでの歓待ぶりに功名心がくすぶられ︑伊藤らの強い説得のもと︑初めの予定になかった条約改正を試みていく︒

改正のための全権委任状を取りに帰り︑留守政府に反対されながら委任条を手にし︑一方アメリカで交渉を続けていた一行

は交渉上の溝が大きく︑さらに最恵国待遇により他の国々にも連動していく事実に気づかされ対米交渉は打ち切っていく︒

こうして不成功に終わるが︑初めの予定にない行動をとった事で︑使節側に大きく負い目ができた︒

其の二 人事の移動

明治五年 江藤が左院副議長から司法卿に転任

(8)

明治六年 後藤を文部卿・大木を司法卿・江藤は参議となる

正院に内閣をおき︑参議に権限集中︵官制改革︶

その他華士族・卒の職業選択の自由を許可︑卒身分の廃止︑土地永代売買解禁︑学制公布︑府県裁判所設置開始︑家抱・水呑百

姓の解放と農民職業選択自由を許可︑人身売買と娼妓・年季奉公人の解散︑太陽暦実施︑徴兵令公布︑地租改正条例公布

もちろんお互いに連絡をとりあってはいただろうか︑不信もつのらせていたようで︑大久保は絶えず西郷に手紙を送り︑事

態のとりまとめを頼んでいる︒しかし︑強い藩閥意識の下︑<ここで何らかの名を馳せておこう>との行動が留守政府によっ

て新たな政策として次々に打ち出されていく︒政策の中で徴兵令・地租改正にあっては明治政府の基礎となる政策でもある︒

使節側はアメリカでの失敗をとり戻すべく初期の目的に立ち戻り︑さらに予定をこえて視察と外交に突き進んでいった︒

140−

三 使節団のみたもの

みてきたもの−久米邦武の﹁特命全権大使米欧回覧実記﹂でまとめてみよう︒久米の眼を通じてではあるが︑実際の視察

の状況や印象がよく描かれている︒まずその内容でなく滞在日数と記録ページ数の比較で各国への興味度をはかってみた︒

田中氏の﹃﹁脱亜﹂の明治維新﹄に回覧実記の巻数とページ数の一覧が見られたので︑各国への到着日と出発日よりおおよ

その滞在日数を割り出し︑指数として表を作成してみた︵資料②︶︒

(9)

資料② 滞在日数と記録ページ数の比較

到 着 日 − 出 発 日 日  数 巻  数 ペ ー ジ数 ペ ー ジ/ 日数

ア メ リ カ 18 7 2 . 1 .1 5 − 1 8 72 . 8 . 6 2 0 3 2 0 3 9 7 1 .9 6

イ ギ リス 1 8 7 2 . 8 .1 7 − 18 7 2 . 1 2 .1 6 1 2 1 2 0 4 4 3 3 .6 7

フ ラ ンス 1 8 7 2 .1 2 .1 6 − 18 7 3 . 2 .1 7 6 3 9 18 5 2 .94

ベ ル ギ ー 2 .1 7 −     2 .2 4 3 8 3 6 4 1 . 6 9

オ ラ ン ダ 2 .24 −     3 . 7 14 3 5 6 4 . 0 0

ドイ ツ 3 . 9 −     3 .2 8 19 1 6 2 1 5 1 1 . 3 2

ロ シ ア 3 .30 −     4 . 14 15 5 1 0 8 7 . 2 0

デ ンマ ー ク 4 .18 −     4 .2 3 5 1 2 5 5 . 0 0

スウェーデン 4 .2 4 −     4 .2 9 5 2 4 5 9 . 0 0

イ タ リア 5 . 9 −     6 . 2 2 4 6 1 25 5 . 2 1

オース トリア 6 . 3 −     6 .1 8 15 3 6 5 4 . 3 4

ス イ ス 6 . 19 −     7 .1 5 2 6 3 6 0 2 .3 1

ヨー ロ ッパ

総   覧 5 12 6

ウ ィ ー ン 2 4 0

ス ペ イ ン

ポル トガル 1 2 7

帰  路 7 12 2

ー41−

(10)

すると︑滞在日数ではアメリカ・イギリスとなるのであるが︑日数に比べ記録が多く残されているのがドイツなのである︒

ドイツに対しては︑出発前から大いなる期待をもって臨んでいる︒日本と同じ時期に小国プロシアを中心に統一し︑ビスマ

ルクの名も日本に轟いていたからだ︒アメリカでは条約改正の委任状をとりにかえった分が増えているし︑イギリスでは女

王旅行中で待機日数が増えているのである︒この中で︑使節団は各国にたいして様々な印象を抱いていっている︒まず︑自

由の国アメリカに対しては︑歓待に感謝しっつも︑その自由の弊害を強く感じている︒風俗的にはレディ・ファーストの習

慣や︑解放的な男女交際にたいしてはびっくりするし︑共和制に対しては強い批判すら口にしている︒自由選挙で選ばれた

政治家が必ずしも優秀だとは限らない点︑議論による為議事が進まない点︑金権・賄賂による政治のある点などから︑共和

政治は非能率で野放図なものと述べている︒さらに国王も皇帝も存在しない政治形態は︑使節団にとって異質な考え方とし

て受け入れがたかったようである︒さらに二打を歓待しっつもいざ条約改正になると厳しい要求を打ち出し改正を打ち砕か

れた二打にとっては二重のショックがあったわけで︑アメリカの印象は決してよい物とはいえない︒次に出向いたイギリス

ーこの国には日本と同じ島国であることから︑手本として大いなる期待を抱いていたようである︒二打が見た物は予想をは

るかに越えるイギリスの繁栄ぶりで当時の日本との差がたいへん大きくモデルとなり得ないと感じている︒日本に大使とし

てきていたパークスによって視察のアレンジが行われたようだが︑日本の役人の態度や言葉に反発し衝突が多くみられてい

る︒そんな雰囲気の中での視察であるから︑イギリス側はますます日本をアジアの小国として見下し︑産業施設見学では生

産行程を無視して見学させ︑かつすべても見せないものであったのでたいへんわかりにくいものになったようである︒それ

でも大久保は期待以上の大国イギリスに脅威を感じ﹃私のような年取ったものは此から先の事はとても駄目ぢゃ︑もう時勢

に応じられんから引く計りぢゃ﹄と述べたと回覧実記に記されている︒此の挫折感を背負いつつフランス・ベルギー・オラ

一42一

(11)

ンダをへて目的の人ビスマルクに会うべくドイツに入る︒風俗的にもアメリカ・イギリスのように女性をあがめたてる態度

がなく好感をもつ︒ビスマルクの演説では

﹁本日ノ享会二於テ︑侯親ラ幼時ヨリノ実歴ヲ話シテ言フ︑方今世界ノ各国︑ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイへドモ︑

是全ク表面ノ名義ニテ其陰私二於テハ︑強弱相凌ギ︑大小相侮ルノ情形ナリ︑予ノ幼時二於テ︑我普国ノ貧弱ナリシバ︑諸

侯モ知ル所ナルベシ︑此時二当り︑小国ノ情態ヲ親ラ閲歴シ︑常二憤洒ヲ懐キシコトハ︑今二秋秋トシテ脳中ヲ去ラズ︑カ

ノ所謂ル公法ハ︑列国ノ権利ヲ保全スル典常トハイへドモ︑大国ノ利ヲ争フヤ︑己二利アレバ︑公法ヲ執へテ動カサズ︑若

シ不利ナレバ︑翻スニ兵威ヲ以テス︑・・・﹂

ー43−

と︑小国プロシアを中心に大国ドイツ帝国ができあがっていったプロセスと国際政治において何が必要であるのかを訴えた

ようである︒特に万国公法がヨーロッパでは大国の都合でつくられ︑都合が悪くなると無視され﹁力﹂による政治が行われ

ている事を力説している︒イギリスでは政治への絶望感を抱いた大久保であったが︑ビスマルクの演説を聞き﹁我一人ヲ以

テ国家ヲ維持スル﹂とまで思わせている︒そしてベルリンでは︑

宮殿・議会・兵器庫・印刷寮・天文台・兵営・病院・造幣寮・牢獄・府庁・陶器製造場・曹達水製造場・製鉄場・漁業会社

の展示場・小学校・動物園・水族館・劇場・公園・博物館など

あらゆる物を貧欲に視察し記録している︒ただ進んだ欧米という観点からしか視察が行われず︑欧米と日本を比して落胆し

(12)

たり希望を抱いたりで︑帰路のアジアにたいしては﹁気候が温暖で資源も豊富なために︑怠惰になり進取の気性に乏しい﹂

と評し︑唯一その資源に着目し﹁今の日本が文明国より輸入している物の材料はアジアにあり﹂と記し︑アジアの資源は

﹁日本富強ノ実﹂としか見ていない︒そしてこの考え方は︑近代日本が大東亜共栄圏としてアジアへの侵略を目指したこと

につながっていっている︒一方同じ時期にフランスへ渡った中江兆民はパリのはなやかさだけでなく下級労働者の現実にも

触れ︑ルソーの社会契約論に日本の民主主義を兄いだしている︒さらに帰路フランス領ベトナムでフランス人による植民地

支配のむごさを見て怒りと悲しみを感じている︒

﹁英・法︵フランス︶諸国ノ民此土二乗ルモノ意気倣然トシテ絶エテ顧慮スル所無ク︑其土耳古人若クハ印度人ヲ持ツノ

無礼ナルコロ︑合テ犬豚ニモ之如シカズ︑一事心ニカナハザルコト有レバ︑杖ヲ揮フテ之ヲ打チ︑若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ

過ギ視ル者惜トシテ之ヲ怪シマズ・・・﹂︵﹃歴史誕生7﹄﹁ワレ亜細亜ノ民ナリ﹂より引用︶

ところが使節団はパリコン︑︑︑ユーンを批判的にみ︑これを弾圧したティエール大統領を高く評価し︑国民生活より国家体

制維持のための﹁富国強兵﹂を見て戻ってくる︒大久保と中江それぞれの視点の違いでいかにみえる点が適ってきているか

−44−

四 大久保独裁へ

帰国後︑征韓論争というより政権争いをへて大久保の独裁が始まる︒教科書での扱いも征韓論だけに終わっているが︑西

郷の主張は﹁即韓国を討つ﹂でなく﹁使者としての話し合いを﹂だったからである︒毛利氏の﹃大久保利通﹄によると﹁閣

(13)

議に於いて大久保は七ヵ条をあげて征韓論︵西郷を使節としてつかわすこと︶に反対したが︑真の動機は他にあって︑それ

は岩倉と大久保による政局主導権の奪回であった﹂と述べている︒副島が対清交渉で成功し︑西郷が朝鮮で成功を修めれば

留守政府が優位になって︑使節側は条約改正の失敗があるだけにますます不利になるとみたのである︒だから西郷の朝鮮行

きを宮廷工作までして止めたというのである︒妻氏も同様に征韓論争でなかったと述べている︒こうして﹁我一人を以て・・﹂

の決意をそのまま政治に反映した大久保独裁政治が始まっていくのである︒しかも悪い事に遣欧使節が抱いた印象のままに︑

アジアの日本でなく︑世界の日本として欧米的開化を目指す事になる︒そして内務省の設置によって近代国家づくりに力が

注がれていき︑勧業寮によって殖産興業を進め︑警保寮によって独裁体制を固める︒まさにビスマルクに励まされ強い国家

のリーダーとして着々と事を進めていく︒

彼の殖産興業政策は農業の近代化とイギリスやフランスで視察してきた紡績業の充実を手本として行われている︒まず︑

農業の近代化に向けて勧業寮にて内藤・新宿試験場︑三田育種場をつくり︑一般農業技術を始めに牧畜・養蚕・製糸等の技

術を研究︑また教育機関として駒場農学校を設立︵大久保個人で五︑四〇〇円を寄付︶している︒次に︑紡績業においては︑

大蔵省より官営富岡製糸場︵群馬︶と堺の綿糸紡績所を引き継ぎ︑内務省直轄で屑糸紡績所︵群馬︶千住製織所︵東京︶そ

して愛知・広島の各地に綿糸紡績所をつくらせている︒まさに︑得た知識と有能な官僚を上手に使いこなし政策の実現に全

力を注いでいる︒さらに国内の反政府勢力により始まる自由民権運動や氏族の反乱をことごとく抑え︑台湾の問題について

は出兵を決意し国内の不満を外へのエネルギーにかえる政策も見せている︒戦争を利用して士族の不満をそらそうとしたの

である︒その際︑軍事輸送手段が不足しており︑アメリカの太平洋郵船や日本国郵便蒸気船会社へ輸送を依頼するが断られ︑

三菱との交換条件︵戦争協力のかわりに政府買い付けの大型貨物船一三隻を兵力輸送後も三菱に使わせる︶で解決し乗り切っ

〜45一

(14)

ていく︒その後三菱は政府に大きく眼をかけられ︑ライバル社とのダンピング競争に勝ち残っていく︒こうして官民一体と

なって産業を保護奨励し財閥をうみ︑日本の経済的発展を可能にしていったのである︒

まとめとして

このようにみてみると︑岩倉遣欧使節はまさに政権争いの中でつくりだされたもので︑留守政府と使節団とのライバル意

識が︑留守政府による積極的な政策の数々を生みだし︑また使節団側では無理な条約改正交渉への取り組みが生み出され︑

帰国後には大久保政権を作るべく征韓論争を用い西郷まで在野にしてしまう︒そして内務卿として明治維新の第二段階の幕

開け︑富国強兵で徴兵令の基礎をなすべく殖産興業に力を入れていく︒政策の数々も強い国家をつくることで︑ビスマルク

のように国民からも国家からも支持される政治家を目指した訳である︒歴史に﹁もしも﹂は禁句であるので︑逆の言い方を

すれば︑遣欧使節はただ其の目的だけをもってつくられたものでなく︑権力争いの中で生まれ且つ新たな対立を生み︑そこ

で得た知識や考え方を支えにして新たな国家観を生みだした事柄だとはいえはしないだろうか︒だから︑外交問題の側面だ

けでとらえず︑殖産興業−外国産業を学んだ物として︑また政治闘争の場面として大久保対江藤としてみるほうが︑明治を

生き生きととらえられるような気がした︒ここまで調べてきた点から遣欧使節を説明する資料③のようなプリントを作成

してみた︒資料④の板書事項の補足として用いながら︑遣欧使節の政治的状況を少しでも生徒に理解してもらえるような

授業の展開をこれからも考えていく必要も感じている︒

−46一

(15)

資料③ 補 足 資 料 岩倉遣欧使節1871−1873

(》条約改正せまる

期限1872年5月26日

改正は無理な状況(国内法律の未整備や国家機構の未完成)

大隈が外交使節に(予備交渉と視察を目的に)

②大久保の割り込み

(大久保・木戸)

政治上の活躍は我ら薩長に 外国を知る良い機会

(塾約束を交わしての出発 使節団一目的を守る

留守政府一新たな政策は掲げない

④功をあせる

使節団一条約改正を試みて失敗

留守政府1人事刷新、地租改正、徴兵令と廃藩後の体制維持に 努力するが財政赤字

⑤使節団のみたもの

アメリカー共和制に不満(王がいない、議会政治で物事進まず)

イギリス1産業革命後大いに栄えるが日本との差が大きすぎる ド イ ツー国際法は力で無視される、強い国家が必要

ア ジ アー豊富な資源

(沙征韓論争は政変だ

(留守政府 対 使節斑)

征韓論  対 内治優先でなく主導権争い 相手の主張をっぶせ−大久保の勝利

江藤・西郷・板垣・後藤・副島野に下る(氏族反乱・自由民権 運動)

(彰大久保独裁 殖産興業

台湾出兵

−47−

(16)

資料④ 資料を調べてからの指導計画

本時のねらい

・日本の近代国家としての領土の確定のようすを知る。

・政府の外交方針を岩倉遣欧使節派遣問題や領土確定交渉のなか で理解する。

板書事項

<領土 の確定>

新政府 による外国への政策 l

l

ア ジアに対 して       欧米 に対 して

① 領土を確定す る    

千島 ・樺太交換条約 (1875 年 )    条約 改正 の努力

小笠 原諸 島を領有 (1876 年 )      岩倉使 節団

琉球領有→沖縄県 (1879 年 )      187 1−1873

診東 アジアへの進 出

日清修好条規 (1871 年 )       条約 改正 は失敗

台湾出兵 (1874 年 )   I近代化 の必要

日朝修好条規 (1876 年)←征 韓論←対立→ 国内政治 優先 l

I

欧米 のよ うな近代的で強 い国家 をめざす (プ ロシア)

ー48−

(17)

毛利 敏彦著﹃大久保利通﹄ 中央公論社 昭和五七年

毛利 敏彦著﹃江藤新平﹄ 中央公論社 昭和六二年

大江志乃夫著﹃木戸孝允﹄ 中央公論社 昭和五六年

歴史教育者協議会編﹃日本の歴史﹄より 田中 彰著﹁岩倉使節団の見たもの︑見なかったもの﹂ 昭和六三年

姜 範錫著﹃明治六年の権力闘争 征韓論政変﹄ サイマル出版会 平成二年

田中 彰著﹃﹁脱亜﹂の明治維新﹄ 日本放送出版協会 昭和五九年

中村 哲著日本の歴史⑬﹃明治維新﹄ 集英社

連山 茂樹編 入物日本の歴史⑬﹃維新の群像﹄

NHK歴史発見取材班﹃歴史発見8﹄ 角川書店

﹃近代日本史の基礎知識﹄ 雄斐闇 昭和五一年

﹃近代日本史の基礎知識﹄ 雄斐閣 昭和五一年

NHK歴史誕生取材班﹃歴史誕生7﹄ 角川書店

NHK歴史誕生取材班﹃歴史誕生10﹄ 角川書店 平成四年読売新聞社 昭和五〇年平成5年田中 彰著16﹁中央集権制の確立と岩倉道外使節団﹂中塚 明著28﹁征韓論﹂平成二年より ﹁行ケヤ海二火輪ヲ転ジ﹂﹁ワレ亜細亜ノ民ナリ﹂

平成三年より ﹁株式会社ニッポンここに始動す﹂

︵大和郡山市立郡山中学校教諭︶

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