その試論のなかでもわたくしほ︑在来の掛家論の代表的な二つの思想として︑ヘーゲル的な観念的・理念的国家
観と︑マルクレズムにおける碓物的国家観を対比させ︑若干の私見を加え食のであったバ
いまここにトレツキイ紅1はるマルクス=−ニップルスの国家論を表する機会をゝを︑さ㌢の拙稿のための恵安資
料を加ええた思いである︒わたくしのこの覚え沓は︑†レツキイによりながらマルク欠=エンゲルス
する部分の拙稿を充実肇せるとともに︑なお私見あ二端をも述べることによって政舞主体論のための二つの素材を
マルクス主義の国家論 ︵四七︶ 四七 が き ー は し
わたぐしは本誌第二七巻第三号︵昭和こ九年十〟月︶で︑.﹁政策主体の問題﹂を取上げ︑研究砂山端を公にする機
会をもった︒これほわたくしの政葦主体論のわずか.に序章をなすにとどまるものであり︑一層立ち入った分析と論
考を将来に約束するものでほあるが︑しかしその序説的な概論においてもハ政策主体諭の中心瓢題が国家および政
治の本貿と実体に集中せられてゆくべきことは︑おのずから示唆されたことであった︒ 研究 ノート
マ ルクス主義の国家論
−− T−レツキイの所説にょる覚え書と私見 −
大 泉 行 雄
マルクス主義国家理論の発展 ノ
ーレツキイほマルクス=こ∵γゲルスの国家観が︑いかなる年代的な推移をたどって︑発展し成熟する紅いたったか
を明らかにするため軋︑大きく三りの段階を分ける︒
東段でほ︑㌃クレズムにおける国家理論とプロレタツアー
の目的のために︑当時の歴史的情勢を静粛としつつ︑仙八四四年以前のマルクス国家観から一八四八年の革命にい
たる諷での思想的発展が解明せられる︒第二段でほ︑血八四八年の革命から二八七山年のパリ・コシ︑︑\ユーンにい
たる時期における.マルクス=エンゲルスの国象観の温展が主題であり︑ブルードンの′﹃貧困の哲学﹄にたいする
﹃鞄学の貪盟や﹃共産党宣言﹄における思想が取り上げられ︑そして二八四八年の革命が︑凍っ意義が新しくかえ
りみられる︒加えてラッサールへのきぴしい批判がここで明らかにされ告第三段では︑そしてそれが最後の段野
であるが√一八七﹂年から二八九五年にいたる期間の︑マルクス=エンゲルスの国家観の成熟が課萄であり︑そ心
てまぁ二八七一年のパリノ・ユン︑︑\∴1ンの経験がもり忠義と︑それが〃マルクス主義学説にあたえた影響が明確にせ
られ︑同時匹敵政府主義とブルジョア的日和見主熟思想への仮借なき批判が展開せられ冬︒ことで思想の成熟と完
成を告げる代表印な成果軋︑声シゲルスの・﹃家族・︑私有財産および国家の起源﹄軋ほかならない︒以下紅Lれら三 積み患ねようとする仕事である︒
註 トレツキイの所説は︑
トレツキイ窄﹃マルクス=エソゲルス国家論﹄へ山静茂之訳︶叫九五四年による︒原著ほ﹃マルクスおよぴエンゲルスの
由家観の発展﹄と題きれて︑州九四九年軋公刊されキ︒邦訳ほ暢達明快︑訳者の苦心を多としたい︒ 斜二十八巻 第﹂苧 ︵四八︶ 四八
初期のマルクス国家観軋ほ︑当時の観念論的思想がこれに影響をあたえなかっセとはいわれないが︑しかしマル
クスほ1つとにヘーゲル思想の限界を知り︑これに対立する思想を確立するにいたっ掌﹂とは︑その学位論文紅つい
てこれを伺い知ることができる︒さら覧老人って鼠ずればへかれの唯物論的思想ほ早てもその中学時代貯認めら
れ︑革命家としての態度を明らかにし七いる︒こLでトレツキイが強調する盲州は重要である︒亘れほマルクスの
批判者たちが︑当時のマルクス賀ありきたりゐ急進主義者とか野党的ブルジョア民主主義者として歪曲すること
■ を退け︑当時すで軋マルクヌは完全な︑徹底した︑戦闘的草食的民主主義者であったことを強調する忘である︒
このための証左として﹃一アイン新聞﹄紙上の緒論文・が取り上げられ︑それらによって後にレトニンが明示したよう
竺八四n年代にはマルクスほ附自に観念論から唯物論へ︑革命的民主主義から共産主義へと移行していや克とと が知られるといわれるのてぁる︒
マルクスの国家観ほ︑二八四二年隻フィン州議会で行ゎれた﹁木材盗伐取締法紅関する望巴を取り鞭った論文
狂おいてまずその骨髄をあらわしている︒かれほ議会を目して﹁ニ琴甲特殊的利害を代表﹂するものと規定し︑そし
て︑森林所有者の具体的姿態を私有財産所奉者と搾取者との集約的な型とみなし︑﹁国家をその手代﹂とみなす︒
この思想ほ後にいたって買産茎喜﹄のなかに明確軋定式化されること常なったものにほかならない◇﹁残忍と
ほ︑怯嘱望叩ずるままに行動する法律の特徴である﹂という批判望嘉は︑私有財産制紅怠ら全法律制度へ\のマル
クスの態度であるが︑そこ紅かれの国家観わ兵務があらわ堅不されているノものとみられよう︒
﹃ヘーゲル法哲学批判﹄においてマルクスの国家観は表その成熟度を済サめ︑㌻ゲルの方向妃真正面から反\ マルクス主義の国家論 ︵四九︶四九 っの段階を︑そ・のおのおのkついて幾分詳細堅息ち入ってみよう︒
第︑一段
このよ㌢なマルクスの立場からほ︑フォイエルバッハやバクアーやその他の育年ヘーゲル学徒の国家観もきびし
く批判されねばならない︒それら匿たいする批判の中心をなすものほ︑かれらがいずれも国家間題を深遠な政治問
題として把握しえず︑唯物論的見解を社会的=政治的関係の領域に拡張できなくなったり︵フヵイ五ルバッハの場
合︶︑あるいほ国家問題を宗教問題に従属させ∪︑そのため・に政治的解放と人間的解放の関係を追求しなかったり
︵ブルノ1・バクアーの場合︶︑さら紅また国家の山成員としての個人の存在のみを個人の実在であると宣言した
り︵青年ヘーゲル学徒の場合︶宣告﹂と紅たいして集伸されたので莞た︒人権と民権宣言に関するマルクスの分
析ほ︑それが私有財産所有者︑言イス∴ブル汐ヨアのみの権利を宣言したものであると暴露し︑いわゆる人権
とは市民権とは異なって︑利己的な人間︑すなわち共同生活から組立した人間の権利にほかならないとい︑う︒いわ
ゆる白由も平等も安全も︑要するにそれらほ︑人間が個己閉鎖的な単位としてのそれであり︑私有財産にたいする
権利であう︵私有財産所有者¢平等であり︑︑そしで私禰財産とその所有者個人の不可侵性を意味するものである︒
もー1 ︵五〇︶五∩ 節子十八巻 第ごT
対し︑国家的・法的諸関係を決定する客観的条件が︑社会そのものの性質紅基づくことを主張する︒︒マルクスによ
れば︑ヘーゲルは国家を神格化して︑これを﹁理念﹂ないし﹁精神﹂として理解し︑それが市民社会と家族とに自
己せ分別していると1いう︒つ恵りそれほ︑市民社会上家族とが︑この﹁精神﹂の二つの活動面にほかならないとい
う論理的1・汎神論的神秘主義にほかならない︒これほマルクスによれほ︑国家と社会︒家族との関係の転倒であ
り︑寅実は︑家族と市民社会が国家桓転化するのであサ︑国家ほ家族という自然的基礎と苗民社会という人為的基
礎なく⊥てほ存在しえないのである︒ヘーゲルでほ履族と市民社会ほ国家によって創造きれることになるが︑マル
クスでほそれらは国家の必須条件なのである︒・このよう紅して︑ヘーゲルの神秘的=観念論的国家観把対立し七︑
マルクス主義の唯物論的国家理論の基調が設定されることになる︒
このようにしてマルクス紅よれば︑ブルジョア革命によって封建社会は︑その基礎たる人間紅まで解体されたが︑ ヽヽヽ ニ﹂れほ利己的な︑市民社会の﹁買たる人間であり︑そして政治的国家の基礎なのである︒それゆえ其の神と
ゲルのように国家でほなくて︑私有財産である︒国家とその政治ほ︑財産あ奴隷であり︑資本の奴隷であむとの結
論が導きだされる︒
エンゲルスもマルクスと同様紅︑当時すで紅革命的な結論紅到達してお畑︑﹁哀したととろ人間社会が志向す
べきものであるかに見えるブル㌻宇ア民主主義が︑人間的社会の組織の必然的形態では克く︑統治形態空つたる
政治形態にすぎないこと﹂を明白に把えていた︒すルクス=エンゲルスの国家本質論は山八四四年の﹃神聖家族﹄
で.まず共同の発零を示されているが︑そこではこれまでよりむ二層明瞭に︑唯物論紅よる国家本質の解明がなされ
てノい畠︒そして両省の哲学上ならぶ軋政治上の基本思想が︑さらに体系的に述べられたもゐ義二八四㌧五年の﹃ドイ
ツ・イデオロギー﹄であった︒′そのなかでかれらは︑ブルジョア国家かいわゆる普遍的・超階級的性格ということ
ほ山っの欺瞞紅すぎないこと︑それほブルジョア汐−が外的にも内的紅も自己d財産︑自己の利脊を相互保証する
′′ ために必然的に採用せねばならない仙つの細織形態転兼かならないことを指摘する︒これを賞するにマルクス=エ
ンゲルスの車命的な国家政論ほ︑⁝八四普∵1七年の時期払おいて︑すで犯その重要な基礎が確立されたといわれる
のである︒
マルクス=エンゲルスの国家論の第二段の廃展時期ほ︑一八四八年の革命を適しで︑仙八七一年のパリ・コン︑︑︑エ
ーンにいたる間である︒すでに山八四七年にほ﹃哲学の免囚﹄と﹃共産党重患が用意されたのであるが︑前者浸
いうまでもなく無政府主義者プルトドンへの批判であり︑かれが国家を﹁主要な慈﹂と瓢なし︑これを除去するこ 第二段
マルクス主義の国家論 ︵五一︶鼠一山
第二十八巻 第山号 ︵五二︶五二
とにノよって真の自由が出現すること︑そのためにはかれの登案した新社会制度によらねばならず︑これは暴力や支
配によって作られるものではなく︑契約によって作られをものであると説いて階級的和解を主張した︒これ紅たい
してマルクスほブルードンの理論構成がもう不合理性を衝き政治的闘争の必欝性を説く︒マルクス紅よれば︑そも
そも政治権力なるものがブルジョア社会内部の階級対立を示す公的表現であり︑労働摺扱が発展するにつれて︑こ
の対立をとり除く結社をもってブル汐ヨア社会紅代位することになる︒すなわち社会革命を政治革命とみなしへ階
級のない社会意義社会を目標とする闘争が︑プロレタリア一斗め課題であることを明らかにする︒
﹃共産党宣言﹄紅おいてほ右の思想ほ十段と進展ん︑プロレタリアート独裁国家の樹立の課題が発展をみる︒プ
ル汐ヨプ国家権力を﹁プル汐ヨア汐−の共同事業を管理する委員会﹂であると定義し︑ブルジョブ的法律を﹁法規
紅まで高められたプ・ルジョア汐−の意志﹂として定義し︑プロレタリアートの主要任務ほ﹁ブルジョア権力とプル
汐チア政府およびブルジョア法の廃止︑なら甘にプロレタリアート独裁の樹立﹂にあることが﹃共産党貫首﹄のう
らで説かれる︒
さてプノロレタリアートの独裁についてほ︑\﹃共爵党茎一盈軋おいて︑つぎの点が明確にされている︒それは︑国
家 消滅とともに消滅サるという命題であるァ階級的差別か漸減し︑すべての生産が個人の連合体の手中特集申される
ならば︑そのとき公的権力はその政治的性質を俣う︒本来の風味での激浪権力とほ︑山階扱が他の階級を抑圧する
ため⁚の組織された暴力である︒プロレダリアトト・︑h・が革命町よって友ずから支配階級となり︑古い生産関係を暴力的
に靡止するときは︑そこでこの生産関係ととも紅階級対耳の存立条件が廃止されること′になり︑また階級全体が僚 訝 止されヾしたがっ・てみずからの階級としての支配権をも廃止することになる︒そうなれば公的権力ほ︑ここでその
し買産覚書冒﹄でなお残された課題は︑プルミア国家とプロレタリア国家との交代の問題であり︑.これは荒
隠倍であった︒買産覚書畢でほ︑ブルジョア阻家城関破壊の︑具体的な明瞭な問題授起はまだみられなかっ ′ 野八年かむ五年にいたる革命期の新しい実践的体験を通じて解決されなければならなかったものであった︒ ∵八四八牢からズ五諒にいたる革命期間の突′践的経験からマルクスが到達した国家論の帰結は︑あらかじめ ブルジョア国家械関を破壊・転覆することなしには︑プロレタリア的社会主義国家体制の墾蒜不可能であ・るとの
たQしかし︑この革命期の体験によって﹁従来のすべての革命は︑国家械関を完成させたが︑しかし国家械閑を打
砕き破壊せねばならない﹂︵レー1≡という﹁マルクス主義国家学説賢ける主要かつ基本的な結論﹂人レ一言︶
がここに把握せられることに誉たのである︒これはレエ;虹よれば︑革命期の現実的な発展が︑論捜的考察を
こえてこの結論へと導いていったものであ聖=つまりこの段階に好けるマルクス主義国家論は︑\国家機関の破壌と
いえ偽さにまで進展したのであった︒
﹃資本論﹄のなかでほ︑国家の問題ほ独立な二満としてほ取り教われていないが︑しかし必箪なそれぞれのところ において︑種々の角度からその本箆笹追迫されていることはいうまでもない︒社会は支配弥少数者と被庄迫的多数
者の統言して理解される︒掌﹂で搾取国家が支配階級の重心空茶現し︑.この階級の利害を擁護しているかぎり︑ それは社会と結びついており社会軋依存している︒同時に︑それが庄倒的多数の被搾取者に対立している以上︑それ ほ最初から社会の上に位置している︒国家ほ階級社会における支配と隷属の政治組織の普遍的形態であり︑発生す
るやいなや敵対的な社会的カ\として社会正対立する︒−宕は契約の結果ではなく︑逆に社会的・歴史的過程の必然 的法則によるものである︒﹃資本論﹄においては︑政治的上部構造としての国家と︑法的上部構造としての法待と
︵五三︶五三 マルクス主義の国家論 階級的●政治的性質を突き﹂・とになり︑国家の存在腰凌ほ失われ︑羞会は国家なし匠存立しうるこ壱になるルんか
第二辛八巻 第一号 ︵五四︶五四
が︑.社会の経済的基礎から発生するという唯物弁証法的理解がつらぬかれている︒それゆえ国家ほ︑生産過程の発
展の結果として盆じた支配と隷属の一定の関係形態である︒したがってまた社会の経済由構造の変化が︑当然警﹂
の関係の政浄的上部構造︑すなわち国家の変化を不可避的正ともな㌢という結論を生ずる︒古代の奴隷所有者の政
治的支配︑中世の領喪の破滅等の事実はこれを実証するものといえる
ことほできないが︑しかし社会ほ生みの苦しみを縮め︑緩和することほできる︒それほもっばらカ憂経済的なら
びに政治的﹁・によって成しとげられる︒暴力の間潜とほ︑革命と国家の問題にほかならない︒新しい社会を生誕
させをキめの推進力ほ革命である︒つまり革命ほ︑古い国家権力の代りに新し中国家権力を︑すなわち新しい体制
力樹立を早める新しい支配階級の国家権力を置くのであるパー
ロレタワァーー独裁の思想が欠除しているというカタツキーの見解ほ誤っていることを指摘している︒
第三段
ふ八木二年のパリ・コン︑︑︑ユーンは︑ブロレタヅアートの最初の新しい︑革命的経験によってマルクス主義国家
論をさら竺段と発展させた︒それほプロレタツアー︼⁚Lト独裁慧宗︑革命的・実践的・現実的に転化されう㌢﹂と
の実証をえたものであったぺマルクス︑エンゲルスほバツ・コン︑︑\ユーンを何よりもまず岳い国家樵関の破壊を許
的とした革命であるとみなした.︒それととも払﹂屡重要な発展は︑﹁破堺された国家機関を何とおきかえるか﹂秒
間題にたいして︑具体的な回答をあたえたことである︒
その後のマルクスと草γゲルスは︑無政府主義者の﹁あらゆる形態の国家﹂および権威の靡止という命題にたい
して︑.はげしい攻撃を加えた︒ことにグルードン主義者に代︑つてバクーよ∴/の支持者たちが︑マルクス主義の国家
学説を批判す㌃紅およんで論争はいちじるしく激化した︒
り国家は必要不可軟な存在なのである︒しかるにバクーニシめ恋政府主義では由家の即時廃止が主張きれ︑︑労働者
階級による国家隠力獲得の合目的性ほ否定される︒つまり︑そこでほプロレタリアーr独裁の必要性が認められて
いない︒うまり︑あらゆる形態の国璽般の即時的靡血が主張されるのである?練政府状攣﹂そ︑﹁拘束なき人民
生活のもっとも完全な異型であり︑そこ瞥﹂そ権威と強制が消滅するとみる︒そして新しい社会秩序はこの紙
政府状態からのみほじ草るのであり︑したがって議の国家体制ほ︑プロレタリァ約国家体制も含め七︑帯命の直
後に除去されねほならないといちこれにたいしてマルク蒜︑国家なき体制ほ︑階級の靡止されたのちに︑襖眉
すれほ少数者が社会の大多数を束縛するための園庭権力が消滅して︑政府の緒機能が単なる行政上の披飴とな思と
き軋︑ほじめて到来することを明らか軋する︒バクーニン主義とマルクス=⁝ゲルスの思想の相異は︑前者が主
要な害意を資本ではなく国家であるとt︑国家が資本をつくりだしたのであ㌢︑資本家はただ国家のおかげでその ヽヽ
資本を所有しているにすぎないゆえに︑何よりもまず国家を破壊することが必要であって︑そうすれば資本恨おの
ずから滅びると主張する︒マルクス主義はその反対で奉る︒資本を廃止することに告てお︑のずから国家も崩壊す
る︒定会変革をまず行わずに国家を溌止するのほ無意味だというのである︒つまサ︑国家の廃止ということほ︑プ
ロレタリア革命の終局覧いてあらわれること√であり︑国家を簸みだした社会的諸髄係が溌止されるよヶ以前虻田
家 ある以上︑そして階級闘争と階級の存在の根底をなす経済的条件がなお消滅していない以上︑そこに榛強制的な変
革過程が必翠であう︑・そこにプロレタリアートの独裁が存在する︒ レ︑︑ マルクス=エンゲルスの国家放論匿・ついて︑その起源︑本賀および発達をJ般的に把握したものが︑∵⁚
︵五吾五五 マルク歪義の国家論 マルクス‡義国家論においては︑国家は階級対立という現実から生ずるものであるから敵対関係が存在す古か
の﹃家族︑私有財産および国家の起源﹄紅ほかならない︒原始無階級社会の崩域︑氏族制度の磯城の上に︑階級が 発生してくる原因を分析し︑階級的矛盾の緯菅して発生する階顔支配のもっとも重苦組織としての国家の起源
を明らかならしめるのである︒すなわちこの書賢って︑社会の国家的J法的組織の歴史性が示され︑それほ社会
発展の忘段階の産物であること︑国警法ほ支配階級の階級的支配の必要から発生して姦戯の優駿覧いす る暴力械関となったこと︑しかし時の経過と共紅︑それは必然的に労働者階級の異に︑プロレタサブーー独裁の真 紅転化してゆくこと︑そしてプロレタリアートの独裁は︑無階級的︑無国家的社会への過渡期紅ほかならないこと が明ちか妃されているのである︒質するに︑国家ほ外部から社会監しつけられたカでほなく︑差へ 道徳的想念の現実でもなく︑琴性の形象・渡英でもない︒国家は三言発展段階監ける社会の産物であり⁚それ ほ社会示それ自体解決しが漉い矛盾紅掃えられ︑和解しえない諸対立に分裂したことの表現である︒つまり︑階級 的矛盾が客観的に和解されえなくなっでいるその場所紅︑国家は発垂するのであり︑国家の存在そのことが階級的
矛盾の非和解性を証明しているとみられ.るのである︒
三 マルクス主義国家理論の本質
われわれほ比較的忠実にトレツキイの房説にしたがってマルクス=エンゲルスの国家論の発展をたどってみたの であるが︑ハそのあいだかち理解されるマルクス主義国家論の本質ほ大体つぎのように要約されえよう︒ 第血にほ︑国展は観念的・理念的・道徳的な所産でほなく︑じたがってなんらか外部から社会に強制された権力 と・いうようなものでほなく︑ 社会に階級的対立が発生し︑︑相互に和解し掛たい状態覧皿ちいたったをこそ︑まさにその段階なのであるっ
● ● 第二十八巻 欝ご骨 ︵五六︶五大
野蒜︑このような階級的対立の非
権ガがすなわち国家である︒つまりそれは階級的支配の披関でぁり︑ナつの階故による他の階級の抑圧を使命とす
る︒資本主義経済体制についていえほ︑国家はもともと勢力ある経済的支配階級の国家にほかならない︒
第三に に︑せられる︒それは無政府主義者による国家の即時廃止論にたいするきびしい批判の形とし七示される︒いわゆる
国家死滅の問題の本義の把握である︒これは後にレーニンの﹃国家と革命﹄賢いても特に漁網された=見でふり
ブルジョア国家がプnレタリア国家にとって代られるのほ︑けっして国家の死滅によるのではなく︑それほ暴力革
命によらねばならぬ過痙である︒そしてその後にいわゆるプ月レタリア1⁝トの独裁の段階がくる︒この段階の経過
のうち陀︑階級そのものが廃止されてゆく状態を出現することによって︑そこにはじめて階級的支配の観閲として
の国家ほその存在理由を失って︑いわゆる﹁国家の死滅﹂・が顕現することになるb
これを要するに︑マルクス主義の国家本質観軋ぉいては︑国家ほ階級塑止の事琴と不可分の醜係にあるものであ
り︑国家ほ三富歴史的発展段階における支配階級の機関たるものにほかならない︒そ・れゆ㌧ぇまた国家の死滅とい
うことも︑いやしくも階級阻係の存続するかぎりは実現しえられないことであり︑たとえ暴力革命によってプロレ
タリアートの独裁を出現させたとしても︑伝統の階級関係がすべて∴輔されないかぎりは︑階級的史配の械関︑とし
ての国家ほ依然として存在するわけであり︑国家の死滅ほいまたあらわれるこ之なく︑それ紅先立つ社会主義国家
が成立することになる︒そしで社会主義の建設と成熟が進展し︑その予定計画が実現し︑こうして時の経過ととも
竺切の階級対立的残痕がその跡をたっ償いたるとき︑そこでほもほや階級塑止そのものが消滅するー﹂とになり︑
したがりてまたその事実から自然に国家の終鳶︑つ掌り国家の死滅がもたらされることになる︒そこにはもはや階
マルクス主義の国家論 ︵五七︶五七
︵五八︶五八 第二十八巻 第一号
紋の対立が存在しないがゆえに︑階級的受配を本質とする国家なる実体は在りようがない理である︒マルク子宝義
におけ.る国家の死滅Q意味ほ︑このようなものである︒
四 権力支配の間題
通常われわれほ︑国家の活動を広く政治として理解している︒国家という概念ほもとむと抽象的な山般概念であ
り︑これを歴史的現実において︑行為め具体的な担当者として捉えるときほ︑そのときときの政府たる為政体だと
いわなければならない︒いうまでもなく政府をもって︑そのまま国家と山体化させることは必ずしも正当でほない
であろう︒由一の国家のもと紅おいて︑幾多の政府が交代してゆく事実ほ︑国家と政府がおのおのその範疇を異に
するものであることの証左と庵いわれよう︒それに庵かかわらず︑われわれが国家の現実的な側面を政府において
捉えようとするのほ︑国家が活動の主体として︑つまり政策の主体としてその械繕を実践に移すのほ︑為政体とし
ての政府の機構を通じ七ほじめてなされるものだからである︒そのかぎりにおいて︑政府は国家叩の政治め担当者で
あるといいうる︒
それでほ国家機構の具体的な実践とし七の政治ほ︑いかなるところにその本質的な性格をもっているか︒これを
一義的に論定し去ることほ必ずしも正鶴をえたものとほいわれぬかも知れぬ︒しかし政治の本質として仙般に理解
せられるものが︑権力的支配を基礎とすること秒車実ほ多くの場合みとめられる所であろう︒たとえば人も知る
ゼとくゴソトルほ︑人間共同姓活の教本的な構成を追求するにあた︑つて︑これを三つの契機軋みいだした︒その仙
ぼ︑いわば生の自然的・先天的な和合の契機であり︑ここ軋運命的な共同的社会生活の成立を見る︒その二は︑和
合の反面としてみられる盤の不和・対立・抗争の契機であり︑この不和を意識的努力紅よって調和.へ左もたらそう
とするところ紅︑理性的・意志的な共同生活が成立を求められご﹂︵のような共同関係実現の⁚ための勝介は.権力で臥
り︑︑てこに権力社会への構成が実現する・︒これが政治で為る︒
を克服し調和するための手段ほ︑すなわち欲求にたいする目的物の調達と支配であぺこの関係匿おいて経済生活
が据えられるというぺゴツール払おい︑ても右にみられ︑るように︑政治弥関係の本質的契械は共同生活ぬおける権力
紅みいだされている︒
政治の概念を厳密に網羅的紅規定しょうとすれば︑単に権力的契機だけ軋よってすべてをづくすことは不可能に
相違ない?国家における政治の全面的な凰解のため匪ほ︑権力関係に七どまらず︑さらに諸他の翠件と山先の必箪
なる形式が問われねぼならぬであろう︒一定の人口を支える地域的限界や運命的な民族集団︑鼠ら紅共通
情・思攣・文化・言語・信仰︒慣習等々の諸要素が政治の存立に基礎をあたえていることは事実である︒同時にま
た国家ほ︑国内的にも国際的にも二疋の法樺制度紅よ勺て︑形式的な規範をあたえられていることも事実である︒
しかし政治を成り立たせぐいる品切の要素を通じて︑いまこれをその他の生活関係との対比において本質的なる
ものを求めれば︑−般正それは権力関係︑つ卦りカの・関係においてみいだされるのであり︑意共をか.えればそれは
強制の関係ともいわれよう︒少なく七も今日蜜で政治という掛清閑係が︑現実の共同関係においてもつ意義ほなん
らかの形態における強制関係だといっても決して不当でほない︒それほカによる庄カの関係といってもよい︒こ
の事実ほ︑われわれの日常生活の体験においても︑まさ紅そのような意味において浸透している︒ひとはし成し
ほ﹁かれほ政治性をもつ﹂とか︑ノ﹁問題を政治的に解決する﹂などという︒そもそもこのような政治性や政治的など
の日常語におけゾ∂﹁政治﹂とほ︑いかなる含意を予覚するものであろうか︒もし事物の道理がそのまま社会坐活を
支配するものならば︑いわゆ為政治性や政治力ほ意味ないものとなろう︒道理や法理や論選が︑そのま季正当に生
︵五九︶五九 ヤルクス主義の国家論
二ハ○︶ 六〇 第二十八巻 第仙骨
清関係にあらわれうるかぎり︑合法なるもの・適法なる滝の・公正なるものは︑そ①場合︑主張者のたれであるか
を問わず︑正当な判断をうけるからでぁる︒それはあたかも数理の公式に宜しく従うかぎり︑小学生徒が計算して
も罫務大臣が計算しても︑その答にちがいがないのと同様である︒とこ
カの庄カによって可能となる手法を︑世人ほ一般に政治性とよび政治力と名づけている︒数理をふみ笹じった答を
だす手法であり︑そのために科学の公式を踪掬する勇気と暴力が必要なのである︒それはまさに力であり︑日常語
の政治性や政治力という言葉紅含意されるものほ︑このカによる強葵カの予定だとみられよう︒そして考たこの点
に︑政治という概念が権力関係を本肇とすると二醍に理解されていることの証左がみられる︒
これまでの正統的な観念において︑国家行動の現実的な関係を形成する要因は︑いま述べてきたように権力的な
契機だといっでよい︒そこから国展そのものの瘍合でほなくとも︑一さかに社会生活山般の関係においても︑権力葦
素が作用する側面紅﹁政治レ概念を類推して適用する.ことにもなる︒つまり人間の共同生活匿おいて︑これを力め
関係の側面として把握するとき︑そこでの簸活関連が政治の璧心に通ずるものでノあ■るというのが.副紛的な儲念であ
る︒
しかるに︑マルクス主義の国家慧珊では︑政治のこのような権力的基調を︑ただちに国家の本肇へと係わらしめ
ることは許されない︒権力支配の質素ほ︑国家自体の本貿からほ切り一ほなされて理解される︒もちろん︑階級的支
配①基礎町立つかぎり︑その場合の国家が階級的女配の機関たる本質から﹁政治的権威﹂を具現することはもとよ
りである︒・権威は仙つのカだといわねばならなぃ︒それでは階級的支配の消滅tた場合︑・すなわち共産主義が広汎
に実現された場合に︑一そこにほもはやなんらの権威も︑した欄って力も存在しないのであろうか︒そうではない︒
そとには右の意味での政治的権威濾存在しないとしても︑それとほ別の権威および権威への従属は必要に相連ない
● ●
てどうして存立しうるのであろうか︒﹂と︒︵トレツヰィ︑小八玉東︶︒ ︵−レゾキイ︶︒エンゲルス自身こ′のことを明言している用すなわち∵いかなる社会組織であろうとそれに係わりな
/ − く︑一方払おけるある権威︑他方におけるある従属ほ︑生産およ︑び生産物の流通が生ずる物質的藷条件のカ濫よっ て︑われわれ紅とって養腐的のものとなると︒言ンゲルス﹃権威について﹄︒・トレツキイ︑劇爪七−仙八八頁︶︒ここ虹橋 威といわれるものを︑わたくし料つのカに︑ほかならぬと解する︒そ⊥ておよそ人間共同の関係が存するところに ほ︑との権威すなわちカの開陳が存在するし︑また存在しなければならないと見るのである︒このことは︑ふたた び声ンゲルスによって︑かれみずからの言葉によって語ら患るこ
た
いという見解にたいして痛烈な批判を加える︒いわく﹁これらの諸君ほ︑最終段階払お小て決定を下す意志をもた
ずに︑また統〟的な指導なしに︑どの守うにして工場や鉄道を動かし︑船を動かすつもりなのか?﹂と︒そしてさ
らにつづける︒﹁しかし︑たとえ二人の人間から成る社会でも︑各人がその月治性の幾分かを放棄することなぐし
そこで問題はつぎのよう紅要約される︒つまり現実的な国家につ心て!道徳翠念の発展というような観念論的
見解からほなれて︑具体的な︒経験的な国家について1−1乍の本質的要素を求めるときに︑これせ階級的対立紅も
とめるか︑それとむ権威的支配の関係にもとめるかという問寛である︒ヤルクス主義国家野論では︑われわれがト
レツキイ監耽ってこれをたどりてきたように︑前者がその本質規定であ藩︒それゆえ真紅階級的瀾係の全く消滅し
た時︑それほある期間のプロレ㌢リアート独裁の後紅ほじめて出現するものと考えられるが︑その時にはもほや国
家は存在しえなくなる︒国家の死滅である︒しかし﹂その場合紅も︑エンゲルスのいうように権威は依然として存
在するものであり︑また存在しなければならない︒およそ社会があるかぎり︑そこにほ社会という共潤め事実紅内
マルクス主義の国家論\ ︵六こ六川
○
︵六二︶六二 第二†八巻丁鹿γ号
在する個人の自治性のある程度の放棄があり︑そしてそのことが権威の基調なのである︒この基調に立つのでない
かぎり︑此ハ同に内在する流山的秩序や指導や山般的決定は存立するよすがもなく︑そのことほもともと社会そのも
のの否定を意味サることにほかならない︒それゆゝ且マルクス主義国家論紅おいても権威はつわ虹共同め事琴ととも
に認也られる︒しかし階級対立のな∨い社会では﹂そのような権威ほもほや国家の倣治的権威でほないと・いわれるの
である︒
しかるに伝統の国家観では︑権威的支配の関係にその本質的要素をもとめる︒したがってこの立場からサれば︑
およそ権威的支配の事実のあるところに国家の実貿は存在するのであり︑形式的に完臆し発達した国家はいまだな
しとするも︑国家の本質に通ずるものが認められることになる︒
にこのような意味を反映するものがあるといわれよう︒もともと家族の生事ほ︑けっしてそのまま国家でほない︒
それ︑紅もかかあらずわれわれがこれを﹁家政﹂という概念をもって理解することほ︑政治の概念に通ずるものがあ
るからだとみられる︒家の共同生活に存在する権威︑それは時にほ家長権として︑時には民主的な権威として︑種
々の形態をとるであろうが︑ともかくも家の共同生活む形成し︑その秩序を維持する基調としての権威ほ常住のも
る思想に通ずるものがあると見られる︒マルクヌ主義国家論ではこれと趣を異にする︒それによれば氏族制度紅よ
る社会組織はいまだ国家のない組織でぁり︑そこに
は︑民族制度にもまた家族のなか軋も存在するが
てのことほマルクス主義国家理論紅おいて︑国家とほある特殊の公約権力であることを思えば当然の結論である︒
社会がなんらかの契機転キっ七階級的紅分裂対立し︑そこに支配的地位覧旦つ階級と被支配的地位.覧且′っ階級の のとして存在するのであり︑これが共同の車実に 在す右カであるかぎり︑そこに政治の本質を権力関係にもとめ
特殊な関係が成立するとき︑国家が支配階級の械関たる実賀をもつにいたる零笑劇︑とれを否澄セフづく釘ない︒
少くとも人間歴史の跡に徹するかぎり︑国家は︑したがっで政治はへ一その社会における勢力集団︑支配階層∵権力 /√
階級によってつねにその手軋虹収められてき琴﹂との事実はまさ乾その通りである︒今日の民主国家といわれる社 Q
会の現段階に徹しても⁚﹂の車券はきわめて明白である︒衰主政億の一つのジムボルたる政党政治といわれるもの
が︑今日その実賀において勢力集団による政権の掌握以外の何ものでもなヤ﹂とは被いうべくもないことである.︒
これを階級という角度から見て︑階級対立の存在する観ざにおいて︑国家が階級的支配の機関となるという事実に
欄輿論のさしはさむ余地ほないように思われる︒しかしマルクス主義周家論からわれゎれを分つものは︑階級対立
の全く消滅し′た社会において国家は死滅するというマルクス=エンゲルス説︑したがってまたレーニン国家論への
疑問にかかわるつマルクス主義においてほ︑このような勝間ほただ争紅否定される︒つまり国家の特質を強制的権
−
︑払 カたけに求める思想は︑マルクネ主義のきびしく否定するところだからである︒
国家が階級的支配の機関︑たる機能を歴史的に遂行してきたことほ争われぬ事実だとしても︑国家の国家としての
機能がただそれだけですべてをつくすかどうかほ別の問題だと・いわねばならない︒訃家は階級対立の関係のうちに
捕われながらも︑それはまたつねに人間共同生活自体に内在する特質をもち︑またそれの要請をになってき雪﹂上
註 この節の考察については︑本誌第二七巻第三号の拙稿﹁政策主体の問題﹂の四参照︒
隻 の事実を無視できるであろうか︒国家ほ階級的支配の機関だとの定義をあたえること揉自由である︒しかしをの国 家がもつ諸他の機能の本貿を触祝することは許されないことである︒
マルクス主拳の国家論 ︵六三︶ 六三
昇 秩序形成者として.の権威
われわれは国家という社会関係の本質のうちに︑秩序形成者としての権威の存在を認めようとする︒国家が歴史
的現実態として︑階級的支配の機関たる現象形態を示してきたことは事実であるとしても︑国家を形成する契機に
ほ︑蒜的な虹会的秩序の形成\と保持という薫のつらぬかれていることも否遥できぬことで毒そしてその稚 序が強制的なカの・関係において︑すなわち権力的支配の関係におい・て維持されてゆくところに国家の職能の基底が
ある︒そして問題は︑この強制力の基調がいかなる鴻のであるかに存する︒時にほそれが個人的な英雄的勢力であ
るかも知れず︑時にほ少数者の寡頭勢力であるかも知れぬ︒そして時紅ほ広く民衆の総意︵W般悪童であるかも
知れぬ︒そのいずれであれ国家がともかくもこのような基調紅おいて︑全体の秩序を維持する任務を軋なってきた
ことほ争われない︒
l われわれはすてにわれわれのさきの研究︵拙稿﹁政界主体の問題﹂︶において︑共同という事実紅内在する強制の問
題を解明した︒およそ共同生活の存在するところには︑必ずやそこに強制という事態が存在する︒二僧正確にいえ
ば強響いう豊︑つまりカの関係の内在する︒とがハ南関係を存警せ姦機であると富れねばならないの
である︒社会はそのような共同生活の関係であり︑虚史にあらわれた国家は︑その社会のもっとも一般的な恕括的
な仙つあ形態だとみられる︒それは現実に階級交配の機関む実相を呈しねとしても︑しかし共同生活の葵体である
かぎりは︑必然に共同に内在する強制を体現するものであり︑それ虹よって一般的秩序の形成と維持を職能とする
ことの事実を看過することほ許されないことであ︸︒.ざき匿家の鴎活を﹁家政﹂という概念で把えることのうちに /イ■/
政治め実質軋つらなるもののしあることを指摘したことも︑実軋
〃
第二十八巻∵第﹂骨 ︵六四︶ 六四
い家族関係であれ︑あるいほ民主主義的法制に基づく新しい家族関係で︑あれ︑それらの両者をつらぬいイゝ家族と
いう共同関係紅内在するものは︑こめような血族的・自然的集団の秩序を形成し維持している強制力である︒それ
は共同という事実のもつ権威である︒家の生活軋おける相互扶助の原理は︑共同虹内在する秩序の維持者であり︑
成員にたいする権威であり強制力である︒これを無視し︑牒捕し︑破壊するものは︑したがって家の生活の成員た
■ .≠−− りえない︒・それはあたかも﹁働かざるものほ食うペからず﹂という社会秩序をもつ共同生活において︑そのことが 絶対の権威として︑強制力として秩序の形成者となっているのと同様である︒そしてこの共同に内在する強制ほ︑ およそ共同関係のあるところつねに存在する事実である︒もっとも広義の政治的といわれるものが︑これを意味す るのであり︑その完備し︑路二され︑包括的な︑二軍閂体現を国家払おいてみるといわれようり現実の国家活動は 階級利害に左右され︑経済的勢力集団によってゆがめられる事実はきびしく批判され・なければならぬとしても︑現 実の国家のうちに共同の事実に内在する強制の存在と︑それに基づく山般的秩序形成の翠論を単純に見のかすこと ほ不当である︒
マルク・ス主義国家理論に︑おいては︑階級対立そのものの消滅した晦﹂滝はや国家は存在しえない︒そ︑の時国家ほ
死滅する︒けれども共同社会の強制は︑いかなる場合軋も依然とし︑て存在する︒われわれはことでもう山度エンゲル
スの意味ふかい言葉をくノ叛かえし.たい︒↓たとえ二人の人間から成る社会でも︑︑各人がその自治性の幾分かを放粟
することなくして︑どうして存在しうるのであろうか︒﹂.と︒吏こと紅各人が︑すなわち社会の成員たる個々人が︑
その自治性のいくぷんノせ放棄することによちてむみ社会が存立しうるのであり︑これをいいかえれぼ社会成員がそ
れぞれ紅放来した自治性の全体が︑実はとりもなおさず共同関係の成立なのであり︑そしてこひ共同関係に各人が
服従するところに社会の秩序が形成され︑立たこの共同の秩序軋適応するのでなけれぼ社会生活は不可能である・と
マルクス主義の国家論 ︵六五︶六五
ヽ
︵六六︶六大 第二†八巻 常州骨
ころ紅︑この秩序のもつ権威と強制力が存在する︒われわれほ現実なる由家の性格として︑このような隊序形成者
としての権威をみとめようとする︒したがってマルクス主義紅いわゆる国家の死滅Q後といえども︑そこに共同生
活が存在し︑そこ紅秩序を形成し︑これを維持してゆく二筋的な強制力の存在するとき︑われわれはそと紅政治が
存在し︑国家は依然として生計ていると考える︒そのような事態ほ︑♪もほや国家とは名づ一けないということは厨由
である︒けれどもわれわれは︑その事態のうち紅︑これまでの史上に存在した国家の本質に共通するものがひとし
く把握できかと考える︒むしろここまでぐれば︑それは現実なる人間共同生活の仙つの理想状態を実現させたもの
といわれるであろうし︑そのかぎり牢おいでほ人間生活紅おける理想としての魂念の具現とすらいわれるかも知れ
ない︒もしそのような理解を許すとすれば︑むしろ階級対立の消滅した社会︑したがってマルクス的にほ国家の死 一
滅した社会把泳いてこそ︑実は題く車代から取り上げられてきた人間生活の究極的な価値としての国家の理念が︑
まさに現実化されたものといいうるあでほなかろうか︒それはギリシャの古代において︑プラーンによって仰望さ
れた哲人国家紅つらなるものであり︑ヘーゲルにおける人倫的理念の現実態に接するものともいいうる︒マルクス
11エンゲルスの国家の死滅紅おいて︑実ほ人間共同生活の黄正なる秩序形成者としての国家が︑その実柏を示すこ
とになるのではなかろうか︒
註 この節については︑髄掲拙稿の三を参照︒
敏弘1日爪V
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