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―イギリスの子どもの日常に関わる表現を手がかりに―

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(1)

松岡佑子訳

『ハリー・ポッターと賢者の石』研究

―イギリスの子どもの日常に関わる表現を手がかりに―

仲 山 可那子

1. 序論

1.1. 作品について

イギリスの作家 J.K.Rowling 作 Harry Potter シリーズは、日本でも人気のファンタ ジー作品である。1997年にイギリスで初版が発売されると瞬く間に売り切れとなり、何 度も増刷された。第 巻がアメリカで出版されると、1998年の児童書ベストセラー第 位となり映画化された。日本では1999年に第 巻の

(1997)の翻訳『ハリー・ポッターと賢者の石』が出版された。同シリーズは全 巻 からなり、初版から20年経った現在でも、国や世代を問わずその人気が衰えることはな い。

第 巻の魅力は次の 点である。 つめは、子どもの成長物語であるということであ る。ハリー、ロン、ハーマイオニーの 人が魔法学校で学び、様々な課題や大切な人の 死に直面し、それを乗り越えて一人前の魔法使いになる成長の過程が描かれている。

つめは、様々な魔法が描かれていることである。魔法によって現実にはありえない事柄 が表され、作品にユーモアが盛り込まれている。 つめは、イギリス特有の現実の子ど もの生活の様子が描かれていることである。物語の舞台であるホグワーツ魔法魔術学校 での授業や日常生活から、実際のイギリスの子どもの生活の様子が見て取れる。これら の魅力は、日本語に翻訳されても、日本の読者に伝わっているように思われる。その中 でも特に つめの、イギリスの子どもの生活の特徴が、翻訳において読者の理解の障壁 とならずにいかに乗り越えられているのかは、注目すべき点である。

1.2. 先行研究

Harry Potter シリーズについて、原文と訳文の英和対照に特化した研究は管見の限り

見当たらない。しかし、翻訳以外に焦点を置いて論じた学術論文は少なくない。坂田

東京女子大学言語文化研究

( )27(2018)pp.137‑159

(2)

(2014, 2015)は、イギリスの人種差別意識と階級意識についてシリーズ全 巻をそれ ぞれ分析し、現代社会との結びつきを明らかにしている。差別や階級制度はイギリスに 古くから存在する社会的な問題であり、本研究で論じるイギリスの子どもの生活全体に も密接に結びついている要素である。

また、菱田(2013)は、ハリー・ポッターシリーズが単に学校物語であるということ だけでなく、イギリスの伝統的な学校を描くことで、その学校に対する批判を表してい ると述べている。物語の舞台はホグワーツ魔法魔術学校であるが、そこにはイギリスの 伝統的な寄宿制のパブリックスクールの特徴が反映されている。それと同時に、菱田

(2013)は、イギリスの階級社会で重要な役割を果たすパブリックスクールが描れてい ることで、教育機関において特権的な人々がそれに属さない人を支配するというイデオ ロギーを批判していると述べている。このようにハリー・ポッターシリーズにイギリス の伝統的なパブリックスクールが描かれているとすれば、そこでの学校生活は日本の子 どもたちに馴染みのないことが多い。そのため、原文と日本語訳を対照することで学校 という場における両国の子どもたちの生活の違いを浮き彫りにでき、それらの文化的差 異が翻訳でどのように乗り越えられているかを検証することができる。

上記の他に注目したいものに、野波(2002)がある。これは、イギリス版とアメリカ 版における語彙の比較をしたもので、この論文によると、アメリカ版には次の つの特 徴がある。 つは、アメリカの子どもを対象とした語彙に変更されたこと、もう つは アメリカで馴染みのないものに、説明を付加している箇所があるということだ。英米の 文化の違いにより、そのようなずれが表れていると指摘しているのである。英語圏同士 でもそのような改変が対象とする読者のために行われるとなると、言語も文化も全く異 なる日本語版ではさらに大きな改変やずれが生じているのではないかと推測する。

以上の先行研究は、Harry Potter シリーズの翻訳研究ではないが、物語の様々な側面 を論じており、それらはイギリスの子どもの生活に関わっている。そのため本研究では、

先行研究で論じられた側面を踏まえ、原文と日本語訳とのずれを明らかにしていきたい。

1.3. 研究の動機と目的

Harry Potter シリーズ第 巻の (1997)では、

1.1.で述べたように、 つの魅力がある。その中でも特に、 つめのイギリスの生活の

特徴については、翻訳の仕方によっては読者の理解の障壁になりうる。そこで、本研究

では、それが松岡佑子訳『ハリー・ポッターと賢者の石』 (1999)においてどのように乗

(3)

り越えられ、読者に分かりやすく伝わっているかを考えたい。

そして、上述の「イギリスの子どもの生活」を表しているのは学校と学校外の日常生 活であると考え、イギリスと日本の学校や日常生活には、多くの違いがあることを確認 する。例えば、林(2001, p.76)によると、日本とイギリスでは、学校のカリキュラムや 学期わけの制度などが異なる。特に、物語の舞台であるホグワーツ魔法魔術学校は、イ ギリスの伝統的な寄宿学校の制度が反映された学校である。こうした寄宿学校は日本の 子どもたちには馴染みがないものである。そのため、訳文では、説明の付加や省略など、

様々な工夫がなされていると推測する。実際にそうした例もあり、イギリスの小学校を 舞台にした『わんぱくタイクの大あれ三学期』 (ケンプ著 松本訳, 1981, p.177)で翻訳 者は、 「英国の学校制度は大変複雑でわかりにくいので、便宜上、日本流に訳しましたこ とを、おことわりしておきます。」と述べている。

以上に述べたことを前提とし、原書と翻訳書の表現のずれを考察することにより、イ ギリスと日本の学校制度をはじめ、両国の子どもたちの日常生活の違いを浮き彫りにし、

そうした違いがいかに訳者の工夫によって乗り越えられているかを考察する。日本の子 どもたちにとってハリー・ポッターの魅力が減じることなく届けられたのか確認するこ とは、翻訳研究の課題である。

2. 本論

2.1. 研究の方法

「イギリスの子どもの生活」を表しているのは学校と学校外の日常生活であると考え、

この 点が表現された箇所のイギリス版、日本版、アメリカ版の原文と訳文を抽出し、

一覧表にまとめた。抽出する際、翻訳において言葉が付け加えられている点と省略され ている点に注目した。抽出した具体例の中には、物語の文脈や会話の表現によって付加 または省略されたものもあったが、本研究ではイギリスとは異なる文化を持つ日本の読 者がイギリスの子どもの生活を理解するための手助けになるよう、言葉の付加や省略が なされたと考えられるものに限定することとする。その考察の対象となる例のみに絞っ たものを新たに一覧表にまとめた。それらの具体例を分類し、見えてきた特徴を考察す る。

2.2. 学校について

イギリスの学校と日本の学校にはいくつもの違いがある。林(2001, p.76)によると、

(4)

日本とイギリスでは、学校のカリキュラムや学期わけの制度などが異なる。イギリスに は伝統的な寄宿学校の制度があり、寄宿学校の生徒はそれぞれが寮で生活する。物語の 舞台であるホグワーツ魔法魔術学校には、その寄宿制度が反映されている。しかし、そ のような学校生活は日本の子どもたちには馴染みのないものである。このような、日本 の読者が理解しにくいイギリスと日本の差を埋めるために翻訳でどのような工夫がなさ れたのかを検証する。

2.2.1. 学校制度

まず、学校制度について注目し、以下に例を挙げる。

原文例 )When September came he would be going off to

(1)

secondary school and, for the first time in his life, he wouldnʼt be with Dudley. Dudley had a place at

(2)

Uncle Vernonʼs old school, Smeltings. Piers Polkiss was going there, too. Harry, on the other hand, was going to Stonewall High,

(3)

the local comprehensive. (p.28, ll.15‑20)(下線引用者、以下同様)

翻訳例 )九月になれば

(1)

七年制の中等学校に入る。そうすれば生まれて初めてダ ドリーから離れられる。ダドリーはバーノンおじさんの母校、

(2)

「名門」

私立スメルティングズ男子校に行くことになっていた。ピアーズ・ポル キスもそこに入学する。ハリーは

(3)

地元の普通の公立ストーンウォー ル校へ行くことになっていた。(松岡 p.50, ll.12‑16)

原文例 ) Have a good

(1)

term, said Uncle Vernon with an even nastier smile.

(p.69, ll.7‑8)

翻訳例 )「新学期をせいぜい楽しめよ」

バーノンおじさんはさっきよりもっとにんまりした。(松岡 p.137, ll.11‑12)

例 ( )secondary school は「中等学校」のことだが、日本語訳では「中等学校」に

「七年制の」という説明が付け加えられている。実際には、イギリスに七年制の中等学

校は存在していないが、 「イギリスの学校系統図」 (文部科学省)によると、中等学校(日

本の中学校にあたる)に 年、その後シックスフォームと呼ばれる学校(日本の高等学

校にあたる)に 年、合わせて 年間在学することがこれに相当する。このため、学校

(5)

の就学年数が異なる日本の読者に向けて secondary school の訳出の際に「七年制」を 補ったと考えられる。この補いがあることで、日本の読者は、ハリーが11歳で入学して

年間の学校生活を送るということが分かる。

例 ( )Uncle Vernonʼs old school, Smeltings の日本語訳には「名門」 「私立」 「男子 校」が補われており、「名門」は鍵括弧をつけて強調している。これは、「普通の」と付 け加えられている例 ( )の the local comprehensive との差を明確にするためと考え られる。イギリスの中等学校は、public school, grammar school, comprehensive school の つに分けられる。public school は学費を支払えば入学できる私立の学校である一 方、grammar school と comprehensive school は公立で学費は無料だが、試験の結果に より、学力レベルの高い grammar school に行くか、それよりは低いレベルの compre- hensive school に行くかが決められる。最もステイタスが高いところが public school、

そ の 次 に grammar school、comprehensive school と い う 順 に な る(ベ ル ト ン 著 渡辺訳, 2004, pp.44‑45)。つまり、例 ( )で「『名門』私立」と補ったことにより、

イギリスの上流階級の子どもたちが通うパブリックスクールを表し、例 ( )で「普 通の」と補われていることから、comprehensive が名門校ではなく、階級の低い家柄の 子どもたちが通うということが分かる。

また、イギリスのパブリックスクールについて、オルドリッチ著 松塚・安原監訳

(2001, p.26)は「イングランドでは、男子パブリック・スクールは依然、政治家をはじ め、政府であれ産業・商業界であれ専門職の世界であれ、権力の座にある人々を育む主 たる苗床である。」と述べている。この記述から、例 ( )の「男子校」の補足は、

Uncle Vernonʼs old school, Smeltings を、パブリックスクールで且つ権力者を育成する ような男子校であることを表している。松岡は「男子校」と付け加えることで、Uncle Vernonʼs old school, Smeltings と the local comprehensive のステイタスに差をつけて表 現し、学校間のステイタスがはっきりしているというイギリスの学校制度の特徴を翻訳 で強調しようとしたと考えられる。

そして、例 ( )の Uncle Vernonʼs old school, Smeltings と例 ( )の the local comprehensive について、アメリカ版ではイギリス版の原文と同様に英語で書かれてい るにもかかわらず、異なる表現に変更されている。例 はアメリカ版(以下、A 版)

(Rowling, 1997)では次のように書かれている。

(6)

A 版例 )When September came he would be going off to

(1)

secondary school and, for the first time in his life, he wouldnʼt be with Dudley. Dudley had been accepted at

(2)

Uncle Vernonʼs old private school, Smeltings. Piers Polkiss was going there too. Harry, on the other hand, was going to Stonewall High,

(3)

the local public school. (pp.31‑32, ll.15‑4)

アメリカ版の例 ( )は Uncle Vernonʼs old private school, Smeltings と書かれてお り、 private が挿入されている。これは、イギリスとアメリカの学校制度が異なるから である。『リーダーズ英和中辞典第 版』 (2000)は public に「公立の、公共の」、private に「私有の、私の」という意味があることを示している。 つの単語は対義語であるが、

public school private school の意味がイギリスとアメリカでは逆転する。 public school はイギリスでは伝統的な私立中等教育学校を表すが、アメリカでは公立学校を 表すのである(菱田, 2013, p.95)。一方、アメリカでは私立の学校を private school という。同じ英語圏でも学校制度や名称の違いがあるため、アメリカ版ではアメリカの 読者に馴染みのある語彙に変更して理解しやすくしている。その反面、語彙が変更され ることで作品の舞台であるイギリスの学校制度や名称は読者に伝わらないと考えられ る。

例 では、term が「学期」でなく「新学期」と翻訳されている。この場面は、Harry がホグワーツに入学する前日の 月の最終日の会話である。イギリスでは 月から新学 年が始まるが、日本では 月が 学期または後期の始まりであるため、学期の区切りに 対して認識のずれがある。このずれが読者の理解を妨げることのないように「新学期」

と表記していると考えられる。物語の文脈で 月とわかり、 「新学期」と訳すことで、イ ギリスでは 月に新学期が始まるということを伝えている。

学校制度に関する部分の翻訳では、言葉を付け加えることでイギリスの学校制度を日 本の読者が理解できるようにしている。イギリスは日本と就学年数や学期わけが異なっ ているため、日本の読者がそれに気づき理解できなければ、物語の内容理解が妨げられ てしまう。そこで、松岡は、言葉の付加によってイギリスの学校制度を翻訳でも表現し、

日本の読者にも分かるように表現している。また、イギリスの伝統的な階級制度が、学

校制度を通して子どもたちの生活にも密接に関わっていることも強調されている。イギ

リスの読者は階級意識に馴染みがあるため、説明を加えずとも文章から学校のステイタ

スの違いを読み取ることができるだろう。その一方で、日本の子どもたちにとって階級

(7)

意識は馴染みのないものであり、明確に書かれていなければイギリスの学校間の階級差 は伝わりきらないと考えられる。だが、日本でも「普通」の公立校と「有名」私立校に は違いがあるため、イギリスの学校間の階級差と近いものはある。そこで松岡は、原文 に書かれていないが日本でも学校の違いを表すときに用いる言葉を付加することで、階 級意識の薄い日本の読者に、イギリスの学校間の階級差を気付かせようとしている。

2.2.2. 学校の風習

次に、学校の風習に注目する。学校制度のように規則として定められたこと以外で、

イギリスの学校ならではの伝統や習慣が表れているところを抽出する。以下に原文と訳 文の例を挙げる。

原文例 ) Whatʼs your Quidditch team? Ron asked.

Er - I donʼt know any, Harry confessed. (p.80, ll.38‑39) 翻訳例 )「君、クィディッチはどこのチームのファン?」ロンが尋ねた。

「うーん、僕、どこのチームも知らない」ハリーは白 状 した。(松岡 p.161, ll.4‑5)

原文例 )Harry had never even imagined such a strange and splendid place. It was lit by thousands and thousands of candles which were floating in mid‑air over four long tables, where the rest of the students were sitting. These tables were laid with glittering golden plates and goblets.

(p.87, ll.18‑22)

翻訳例 )そこには、ハリーが夢にも見たことのない、不思議ですばらしい光景が 広がっていた。何千というろうそくが空 中 に浮かび、四つの長テーブ ルを照らしていた。テーブルには 上 級 生たちが 着 席し、キラキラ 輝 く金色のお皿とゴブレットが置いてあった。(松岡 p.173, ll.13‑15)

原文例 ) When I call your name, you will put on the hat and sit on the stool to be sorted, she said. (p.89, ll.11‑12)

翻訳例 )「ABC 順に名前を呼ばれたら、帽子をかぶって椅子に座り、組分けを受

けてください」(松岡 p.177, l.14)

(8)

例 では、「ファン」という言葉が補足されている。「ファン」という言葉によって、

Quidditch がリーグスポーツであることと、your team が応援しているチームであるこ とが日本の読者に分かる翻訳となっている。

また、この場面には、イギリスのスポーツと階級制度の関係が表れているとも考えら れる。階級制度が根強いイギリスでは、親しみのあるスポーツも階級によって異なる。

菱田(2013, p.94)は、イギリスでは階級によって楽しむスポーツが異なり、上流階級の 人はポロというスポーツ、労働者階級の人はサッカー(football)を楽しむことが多く、

「ハリー・ポッター」シリーズのクィディッチはイギリスの上流階級が楽しむポロに似 ていると述べている。また、ロンがサッカーを知らないことがわかる場面があり、魔法 族は人間(マグル)の生活に無関心であるとも指摘している。これらを踏まえると、クィ ディッチを楽しむ魔法族は、自分たちがマグルよりも階級が上だと認識していることが 分かる。つまり原文には、純血の魔法使いとマグルとの間に一線を画すロンのクィ ディッチに対する愛着と、代々魔法使いの家系(純血)のロンにとってはクィディッチ が一番身近で、魔法族なら知っていて当たり前のスポーツであるという考え方が表れて いる。

一方、日本では階級によって楽しむスポーツが異なるということには馴染みがないが、

日本人が自分の好きなものについて、その「ファン」であるという意識を強く表すこと は珍しくなく、ファンである自分とそうでない他者との間には差が生まれる。純血のロ ンがマグルの生活を知るハリーに対して、魔法界では知っていて当然のクィディッチを どのくらい知っているのかを試していることには、自分と相手の間に距離を置こうとす る階級意識が表れている。つまり、魔法族なら「ファン」として応援するスポーツにつ いて、マグルのもとで育ったハリーはその存在さえ知らないというところに、階級意識 が表れているのである。

例 では、「上級生」と訳されており、「学年が上」であるという意味が付け加えられ

ている。入学式に参加しているのは在校生ということだけでなく、生徒間の上下関係が

表れる翻訳になっている。この場面は、全校生徒が大広間に集まる場面だが、寮ごとに

着席しているため、寮内の生徒の関係が現れると考えられる。ホグワーツの寮では全学

年が共同生活をしており、優秀な上級生が寮生活を指揮する監督生を務めている。イギ

リスでは、生徒同士が学年を問わず名前で呼び合うなど、言語表現上では生徒間の上下

関係がはっきり分かるわけではない。しかし寮内では、下級生が各寮のリーダーである

監督生に従わなくてはならないなど、全学年が共同生活をする寮内で生徒の上下関係は

(9)

明確である。一方、イギリスの学校の寮生活は日本人には馴染みがない。そのため、寮 ごとに全校生徒が着席した場面で、the rest of the students を「上級生」と訳すことで、

日本の読者がイギリスの学校の寮内では生徒同士の上下関係が明確であることを認識で きる。また、日本には、生徒の間に先輩後輩といった年齢による上下関係があり、 「上級 生」という言葉で先輩後輩の関係を想起させる。イギリスの学校の寮生活は日本人には 馴染みがないが、その中にも生徒同士の上下関係という日本人に馴染みがあることが描 かれていることは、イギリスの寮生活における上下関係について、日本の読者の理解を 助けようとしていると考えられる。

例 では、「ABC 順に」が付け加えられている。この文のあとに、順番に新入生の名 前が呼ばれる場面が描写されるが、その順序が原文、翻訳ともにファミリーネームのア ルファベット順である。日本の学校では、名前を呼ぶときには姓の「あいうえお順」が 使用されることを考えると、日本の平仮名と対照させ、イギリスではアルファベット順 であることを明確にしているともいえる。「ABC 順に」と付け加えることで、日本の読 者が、登場人物の名前が呼ばれる順番に疑問を持つことのないように配慮した翻訳に なっている。

学校の風習に関する部分の翻訳では、魔法族とマグルや生徒同士の関係、イギリスの 学校の風習が読み取れるような工夫がなされている。学校制度にも階級が表れていた が、ロンとハリーの会話にもクィディッチを通して階級意識が読み取れるところがあっ た。日本の子どもたちは、自分の家柄や階級を意識して友達関係を構築する習慣はない だろうが、子どもの会話に表れる階級意識を翻訳を通して伝えようとしている。以上よ り、松岡は言葉を付け加えることでイギリスの学校の風習を失わずに伝えようとし、日 本の読者がイギリスの子どもの学校生活を感じとることができるように工夫している。

また、寮の生徒の間の上下関係は、翻訳によって日本の先輩後輩のような関係を読み取 ることができるため、日本の読者がイギリスの学校の寮生活の様子を理解することがで きる。反対に、原文にはない言葉を付け加えて、イギリスと日本の文化の違いを明確に しているところもある。これは、松岡がイギリスの学校の風習を言葉で明確に表現して、

物語の舞台がイギリスであるということが薄れないようにしたものであると考えられ る。

2.2.3. 学校についてのまとめ

ここまで、学校についての翻訳を分析してきた。これらの分析からいえることは、日

本の読者がイギリスの制度を理解することと、イギリスの特徴を引き立たせることの

(10)

つの理由から、言葉が付け加えられているということだ。日本の読者に分かりやすい表 現を目指すがゆえに、物語の舞台であるイギリスの雰囲気が失われる翻訳作品もあるが、

松岡は、日本の読者への分かりやすさと、イギリスの雰囲気の保持の両方を意識してい ると考えられる。

2.3. 日常生活について

イギリスの子どもの生活は、学校外でも日本とは異なることが多くある。ホグワーツ は寄宿学校であるため、生徒は授業以外の時間でも学校の敷地内で過ごしている。しか し、そこには学校外でも見られるであろうイギリスの子どもの日常生活が色濃く反映さ れている部分がいくつかある。そこで、物語の場面としては学校内の出来事であるが、

それらは家庭生活など学校外でも見られるイギリスの日常生活の特徴であるということ を前提に、日本とは異なるイギリスの日常生活の特徴を翻訳でどのように乗り越えたの かを検証する。

2.3.1. 食べ物

まず、イギリス固有の食べ物について、以下に原文と訳文の例を挙げる。例 、例 については、アメリカ版で語彙が異なっていたため併記する。

原文例 )They sat by the hour eating anything they could spear on a toasting fork

‑ bread, crumpets, marshmallows ‑ and plotting ways of getting Malfoy expelled, which were fun to talk about even if they wouldnʼt work.

(p.146, ll. 30‑34)

A 版例 )They sat by the hour eating anything they could spear on a toasting fork

‑ bread, English muffins, marshmallows ‑ and plotting ways of getting Malfoy expelled, which were fun to talk about even if they wouldnʼt work. (p.199, ll.12‑16)

翻訳例 )何時間も座り込んで、串に刺せるものはおよそ何でも刺して火であぶっ て食べた―パン、トースト用のクランペット、マシュマロ―そして、マ ルフォイを退学させる策を練った。(松岡 pp.290‑291, ll.15‑1)

原文例 )A hundred fat, roast turkeys, mountains of roast and boiled potatoes,

platters of fat chipolatas, tureens of buttered peas, silver boats of thick,

(11)

rich gravy and cranberry sauce ‑ and stacks of wizard crackers every few feet along the table. (p.149, ll. 30‑34)

A 版例 )A hundred fat, roast turkeys; mountains of roast and boiled potatoes;

platters of chipolatas; tureens of buttered peas, silver boats of thick, rich gravy and cranberry sauce ‑ and stacks of wizard crackers every few feet along the table. (p.203, ll.15‑19)

翻訳例 )丸々太った七面 鳥 のロースト百羽、山盛りのローストポテトとゆでポテ ト、大皿に盛った太いチポラータ・ソーセージ、深皿いっぱいのバター 煮の豆、銀の 器 に入ったコッテリとした肉汁とクランベリーソース。

テーブルのあちこちに魔法のクラッカーが山のように置いてあった。

(松岡 p. 297, ll.7‑10)

原文例 )Flaming Christmas puddings followed the turkey. (p. 150, l.4) 翻訳例 )七面鳥の次はブランデーでフランベしたプディングが出てきた。(松岡

p. 298, l.2)

例 のアメリカ版では English muffins と変更されている。crumpets はアメリカでは 馴染みがないが、English muffins はイギリスで生まれてアメリカで広まった食べ物であ る(井上, 2007, p.171)。そのため、アメリカの読者には English muffins の方が分かり やすい語であると判断したと考えられる。しかし、crumpets と English muffins は違う 食べ物である。つまり、イギリスの読者とアメリカの読者は別の食べ物を思い浮かべて 読み進めることになる。アメリカの読者にとって分かりやすく語彙が変更されている が、イギリス固有の食べ物の特徴が失われているのである。一方、日本語訳では、

crumpets に「トースト用の」と付け加えている。ベルトン著 渡辺訳(2004, p.118)に

よると、crumpet は、直火で焼いて食べる塩味のパン菓子である。イギリス人にとって

crumpets は馴染みのある食べ物だが、日本の読者は「クランペット」という単語だけで

は、どのような食べ物なのか想像できない。しかし、 「トースト用の」と食べ方の説明が

付け加えられると、読者は「クランペット」が焼いて食べるパンのようなものだと理解

できる。さらに、crumpet が塩味のパン菓子であることも日本の読者に伝えるとすれ

ば、本文中に「クランペット」とだけ表記し、注を付けて「イギリスでポピュラーな塩

味のパン菓子。直火で焼いて食べる。」という説明を付け加える方法があるだろう。

(12)

例 の fat chipolatas について、OED オンラインによると、chipolata は chipolata sausage を省略した語であり、 a small spicy sausage; also, a dish or garnish containing these sausages. とある。アメリカ版では fat が書かれていない。アメリカ人に fat を chipolata の形容詞として用いることについて尋ねたところ、fat をソーセージなどの食 べ物の形容詞として用いることに違和感はないが、fat chipolatas というフレーズには馴 染みがないということだった。なお、chipolata というソーセージはアメリカにもある が、よく出回っているというわけではないという。このことから、fat は食べ物の形容詞 として用いられるが、fat chipolata というフレーズには馴染みがないため、アメリカ版 で fat を除いた表記がなされていると推測する。

一方、日本語では「太いチポラータ・ソーセージ」と翻訳されており、「ソーセージ」

が付け加えられている。日本人は「チポラータ」という言葉に馴染みがない。しかし、

「ソーセージ」だと分かればそれをイメージすることはできる。「チポラータ」という英 語の音を残し、 「ソーセージ」を付け加えることで、イギリスの食べ物であることを生か しつつ日本の読者がチポラータを知らずともソーセージの一種であることが理解できる ような翻訳がなされている。

例 では、 「ブランデーで」が付け加えられている。クリスマスプディングはイギリス

のクリスマスの食卓には欠かせないものである。このイギリスのクリスマスプディング

は「ナッツと果物の入った、ブランデー風味の重厚なケーキ。」(ベルトン著 渡辺訳,

2004, p.118)と説明されている。「ブランデーでフランベした」と翻訳することで、ク

リスマスプディングがブランデーの風味であり、炎を見せて演出することが伝わる。日

本人はプディングというと、いわゆるカスタードプリンを想像するが、 「フランベ」の意

味が分かる読者であれば「ブランデーでフランベしたプディング」から、日本のカスター

ドプリンのような冷たいものではないということが分かるだろう。しかし、イギリスの

Flaming Christmas pudding 独特の色や形、イギリスのクリスマスに欠かせない普段よ

りも豪華なケーキであることは伝わりきらないと考えられる。翻訳において、その色や

形、華やかさも表現しようとすれば、 「ブランデーでフランベした、ナッツや果物が入っ

たクリスマスプディング」のように説明を加えることになる。しかし、この説明が文章

中に書かれると、読者にとって読みやすい文章であるとはいえない。文章の読みやすさ

とイギリスの食べ物の特徴をより分かりやすく伝えることを考えると、文章中では「フ

レーミング・クリスマス・プディング」とカタカナ表記で翻訳し、注を付けてその説明

を付け加えることが つの手段として考えられる。このように、イギリス固有の食べ物

(13)

である Flaming Christmas pudding の食べ方や味、食感、イギリスの子どもたちがそれ を見た時の期待感を日本の読者にも分かりやすく伝えようとすることを考えると、文化 的差異を乗り越えることがいかに難しいかということが分かる。

例 から例 までは食べ物について説明加えられている部分について述べてきた。そ の一方で、翻訳において言葉を省略している部分もある。以下にその原文とアメリカ版、

訳文の例を挙げる。

原文例 )[…] they bought him a cheap lemon ice lolly. (p.24, l.31) A 版例 )[…] they bought him a cheap lemon ice pop. (p.26, l.11)

翻訳例 )(中略)しかたなしにハリーにも安いレモン・アイスを買い与えた。(松 岡 p.42, l.4)

例 の ice lolly について、アメリカ版では ice pop に変更されている。ice lolly と ice pop は同じ「棒つきのアイスキャンディー」を示しているが、主にイギリスでは ice lolly を用いる。イギリス英語とアメリカ英語には違いがあり、アメリカでよく使われる ice pop に置き換えたと考えられる。一方、日本語では「レモン・アイス」と訳されており、

「棒つき」であることは省略されている。この訳文からは必ずしも「棒つきのアイスキャ ンディー」を想像するとは限らないため、ice lolly の翻訳として「レモン・アイス」は不 十分である。この文章の直後でアイスをなめている様子が描かれていることから棒つき のアイスキャンディーであることがわかるため、 「棒つき」の意味が訳文に反映されてい なくとも大きなずれは生じさせないと考えることもできる。しかし、省略せずに訳した ほうが、a cheap lemon ice lolly は棒つきのレモン・アイスであるということが明確にな るとともに、その安さが際立つ。例えば、 「レモン味の棒つきアイス」や「レモン味のア イスバー」という訳であれば、棒つきであることも伝わり、 「〇〇味」とすることで安さ が際立つのではないだろうか。この点で、 「棒つき」の意味は省略せず、安さが強調され る言葉を付け加えるほうが、日本の読者の理解をさらに深める効果があるのではないか と考える。

以上が食べ物についての翻訳の分析である。いずれも、食べ物そのものの名前をカタ

カナで表記し英語の音を残すことで、日本にはないイギリスの食べ物であるということ

を残しているが、カタカナ表記だけでは読者にとっての分かりやすさという点で不十分

であると考えられる。そのため、松岡は、日本の読者にとって少しでも分かりやすい表

(14)

現にしようと、食べ方や風味の情報を加えるという工夫をしたと考えられる。しかし、

その工夫には不十分なものもあり、原文に登場した全てのイギリスの食べ物の見た目や 味の特徴が、翻訳で分かりやすく表されているとは言い切れない。また、省略されたと ころについては、省略することによって読者の理解を妨げているわけではない。しかし、

省略せずに訳すか、文章の流れを配慮して注を付けるなどするほうが場面をより細かく 描写し、日本の読者にとっては分かりやすいと考えられる。

2.3.2. 衣服

次に、衣服について、原文と訳文の具体例を つ挙げる。

原文例10)They pulled on their dressing‑gowns, picked up their wands and crept across the tower room, […] the Gryffindor common room. (p.115, ll.25‑27)

翻訳例10)二人はパジャマの上にガウンを引っ掛け、杖を手に、寝室をはって横切 り、塔のらせん階段を下り、グリフィンドールの談話室に下りてきた。

(松岡 p.228, ll.10‑11)

例10の dressing‑gowns の表記について、野波(2002, p.181)がアメリカ版では bathrobes (Rowling, 1997, p.155)に変更されていることを指摘している。語彙の 変更は、アメリカの読者にとって分かりやすくするための工夫であるといえる。しかし、

アメリカでよく使われる語彙に変更してしまっているため、物語の舞台がイギリスであ るという事実が薄れ、反対にお風呂上がりに着るもの連想させてしまう。一方、日本語 では「パジャマの上に」と付け加えられている。dressing‑gown は「パジャマの上に着 る部屋着」 (『リーダーズ英和中辞典第 版』2000)と定義されている。現代の日本では、

子どもたちがパジャマの上にガウンを羽織ることはほとんどない。そこで、「パジャマ の上に」と付け加えることで、ガウンの着方を明確にしている。しかし、英語の発音を そのままカタカナ表記にすると「ドレッシングガウン」と書くことができるが、松岡は dressing の部分を表記していない。「ドレッシング」は、サラダに使う「ドレッシング」

を連想させるため、あえて英語の読みを生かさなかったのではないかと思われる。日本 の読者は、パジャマの上にガウンを着る習慣がなくとも、 「ガウン」という言葉から上着 のような羽織るものを連想することができると推測される。これらを踏まえて、松岡は

「ドレッシングガウン」よりも「ガウン」の方が日本の読者にとって分かりやすい訳で

(15)

あると判断したのではないかと考えられる。

2.3.3. 宗教

次に、宗教に関する事柄の翻訳について、以下に原文と訳文の具体例を挙げる。

原文例11)Once the holidays had started, Ron and Harry were having too good a time to think much about Flamel. (p.146, ll.27‑28)

翻訳例11)クリスマス 休 暇になると、楽しいことがいっぱいで、ロンもハリーもフ ラメルのことを忘れた。(松岡 p.290, ll.13‑14)

原文例12)They piled so much homework on them that the Easter holidays werenʼt nearly as much fun as the Christmas ones. (p.167, ll.25‑27)

翻訳例12)山のような 宿 題が出て、復活祭

イースター

の休みは、クリスマス 休 暇ほど楽しく はなかった。(松岡 p.335, ll.4‑5)

例11では、the holidays に「クリスマス」が付け加えられている。この文がある第12章 の冒頭で、クリスマスが近いということは分かる。松岡は、クリスマスがきて学校が休 暇になった場面で、あえて「クリスマス休暇」と翻訳し、クリスマスと休暇との関係を 強調している。ホグワーツ魔法魔術学校の休暇とイギリスの学校の休暇の時期は全く同 じであり、クリスマスは秋学期と春学期の間の休みになる(ベルトン著 渡辺訳, 2004, p.120)。イギリスでは、イエス・キリストの誕生日であるクリスマスに学校が休みにな り家族や親しい者が集まって食事をしてお祝いするため、クリスマスが 年の中の重要 な行事とされている。この期間は、日本の学校では冬休みに当てはまる。しかし、日本 の学校の冬休みの場合、年末年始が休みになり、初詣など伝統的な新年の行事が大切に されているが、クリスマスは必ずしも休みになるとは限らない。そのため、イギリスと 日本の休暇の時期は同じでも、休暇中に両国の伝統として重んじているものが異なる。

このクリスマスを重視するイギリスの生活を翻訳に反映するために、 「クリスマス」を付 け足したと考えられる。

例12では、 「復活祭」と訳した上で「イースター」のルビを付け加えている。復活祭は イエス・キリストの復活を祝う行事で、イギリスの子どもたちにとってはクリスマスと 同様に一年の中で欠かせない行事とされている(ベルトン著 渡辺訳, 2004, p.125)。

近年は日本でもクリスマスやハロウィンに次いで、イースターのイベントが増えてきて

(16)

おり、日本でも「イースター」という言葉は浸透しているが、それがイエス・キリスト が復活したことを記念する「復活祭」というキリスト教の重要な行事であることを強く 認識している人は少ない。このように考えると、日本でも浸透している「イースター」

という言葉がルビで付け加えられたことで、 「イースター」が「復活祭」つまりイエス・

キリストの復活を祝う祭りであることが分かり、イギリスでは休暇になるほど重要な行 事であることが表現されているといえる。また、イギリスの学校には春休みがなく、そ の代わりにイースターの休暇がある。寄宿舎で生活する生徒たちにとっても帰省や旅行 の機会となっていると考えられる。

以上の宗教に関する部分では、キリスト教の重要な行事の翻訳において、言葉を付加 することにより、イギリスの子どもたちの日常生活における宗教的な行事の重要性を強 調していると考えられる。クリスマスやイースターはキリスト教の行事であるが、その 重要性やイギリス文化の中での意味合いが日本でも知れ渡っているかどうかというと、

疑問である。そこで、翻訳において語を付け加えたり、ルビを付けたりすることで、イ ギリスにおけるキリスト教の行事の意味と重要性を明確に伝え、学校の休暇など子ども の生活に影響しているということが読み取れるようにしている。何よりも、イギリスの 子どもたちの生活にはそれらの行事が日常生活から切り離せないものであるということ が分かる。

本作品にはキリスト教と魔法の両方が描かれているが、中世ヨーロッパの魔女狩りや 魔女裁判からも分かるように、古くから魔法とキリスト教が共存することは禁制されて きた。魔法が本作品の魅力の つとして描かれているにもかかわらず、キリスト教の行 事も色濃く描かれていることには、原文の著者であるローリングの意図が込められてい るのではないかと考える。ホグワーツ魔法魔術学校では、人種や階級を問わず、様々な 背景を持った生徒が共に生活している。ローリングはそのような様子を描くことで、人 種や階級は違えども同じ空間に共存することができるということを伝えようとしている のではないかと考えられる。つまり、作品の中で魔法とキリスト教の描写を両立させて いることは、相反するものが共存していても、平等で差別のない社会が成り立つという ことを伝えていると推測する。その一方で、翻訳ではキリスト教の行事の重要性が伝わ るが、魔法とキリスト教の共存に対して問題意識を持たせるというわけではない。だが、

読者が日本の子どもであると考えると、魔法とキリスト教についての歴史的背景を翻訳 で表現したとしても、それを理解することは難しく読みやすさに欠けると考えられる。

著者の意図やそれに伴う歴史的背景など、作品に込められたメッセージを翻訳で表現す

(17)

ることと文章の読みやすさの両方のバランスを保つことの難しさが見てとれる。

2.3.4. 日常生活についてのまとめ

ここまで、日常生活についての翻訳を分析してきた。これらの分析からいえることは、

イギリスの人々の生活を日本の読者に分かりやすく伝えようとするとともに、イギリス の特徴が薄れないようにするために、言葉を付け加えた翻訳がなされているということ と、付加・省略では乗り越えられないものがあるということだ。松岡は、イギリスの日 常生活の特徴を生かすことと日本の読者にとって分かりやすいことの両方を成り立たせ るための工夫として、言葉を付加したと考えられるが、その工夫が十分とはいえない部 分があることも確かである。また、イギリスの歴史的背景や宗教事情、それに対する子 どもたちの考え方や気持ちを翻訳で表現することは、言葉の付加や省略では乗り越えら れない問題であると考えられる。

2.4. ことばの暗示的意味

次に、ここまで述べてきた分析の項目に当てはまらなかったものもある。その中で重 要なものに、ことばに暗示的意味があると考えた。以下に原文と訳文の例を挙げ、分析 する。

2.4.1. 建造物の古さ

建造物について、原文と訳文の例を挙げる。

原文例13)Harry looked behind him and saw a wrought‑iron archway where the ticket box had been, with the words

on it. (p.71, ll.7‑9)

翻訳例13)振り返ると、改札口のあったところに / と書いた鉄のアーチが見 えた。(松岡 p.141, ll.11‑12)

例13は、翻訳において省略がなされている。wrought‑iron は「錬鉄」という意味の単 語だが「鉄のアーチ」と訳している。錬鉄は鉄の一種で、19世紀のヨーロッパで建造物 に多く利用されていた。しかし、現在は使われておらず、鉄を種類によって言い分ける こ と の な い 現 代 の 日 本 人 の 日 常 生 活 に は 馴 染 み の な い も の で あ る。そ こ で、

wrought‑iron の wrought の意味を省略して「鉄」と訳すことで、読者がそのアーチを想

像しやすくなっている。しかし、 「錬鉄」としなかったことで、昔の wrought‑iron で作

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られたアーチの古さが、翻訳では伝わりきらないと考えられる。実際に古い建物、古い ものがそのまま残っていることは、イギリスの人々にとって珍しい光景ではない。イギ リスでは、今では使われていない素材で作られた古いものに触れる機会が多いと思われ る。その一方で、日本では、人々が最新のものを求める傾向が強いために、世界遺産な どの特別な理由から残されるものを除き、古いものが次々に新しいものに変えられてい き、古いものが常に身近に感じられる生活は実現されにくい。この古さが分かるように 表現するとすれば、 「古い鉄のアーチ」や「古びた鉄のアーチ」のように、古さを表す形 容詞を補う方法があるのではないかと考える。読者に分かりにくいという理由で現在は 使用されていないものを訳出から省いていくことは、読者の理解を促す反面、古いもの が身近にあるというイギリスの生活の特徴が十分に伝わらないということにつながる。

そのため、イギリスの文化的特徴を失わず分かりやすさを考えた訳出が必要であると考 える。

2.4.2. 植物

植物について、以下に原文と訳文の例を挙げる。

原文例14)As for monkshood and wolfsbane, they are the same plant, which also goes by the name of aconite. (p.103, ll.14‑15)

翻訳例14)モンクスフードとウルフスベーンは同じ 植 物で、別名をアコナイトとも 言うが、とりかぶとのことだ。(松岡 p.205, ll.8‑9)

例14では、aconite を「アコナイト」と訳した上に「とりかぶと」と付け加えている。

アコナイトととりかぶとは同じ植物を表す。しかし、日本でアコナイトという名称はよ

く知られているものではなく、 「とりかぶと」の方がよく耳にする名称であり、毒がある

植物という強い印象を持たせる。また、モンクスフードとウルフスベーンと並べて aco-

nite の英語の音を生かし「アコナイト」と訳されている。つまり、英語の音を残して「と

りかぶと」という毒のある植物だと分かる日本語を付け加えることで、原文を生かしな

がら日本の読者が理解できるような訳になっているといえる。さらに、例13の文の話者

は魔法薬の授業を行うスネイプ先生で、この場面では、生徒が恐れるほど不気味な雰囲

気を醸し出すスネイプ先生が描かれている。「アコナイト」が「とりかぶと」だと認識さ

れ、毒を持つことが明確になることで、場面の不気味さを強調するという効果を持つと

も考えられる。

(19)

2.4.3. ことばの暗示的意味のまとめ

以上がことばの暗示的意味がある 例の翻訳の分析である。現代のイギリスと日本の どちらでも使われていないものは言葉が省略されている。日本の読者が滞りなく読み進 められるようになっているが、現代には馴染みがないという理由で省略されていなけれ ば、イギリスの実際の生活環境や原文に表れている情景がさらに細かく読者に伝わった のではないかと考える。また、言葉が付加されたものでは、英語の発音を残しつつ、日 本の読者も場面の状況がより明確に理解できるようになり、言葉に暗示的に含まれた意 味も分かるようになっている。

2.5. 個別言語の特徴

以上の分析の他に、登場人物の名前に隠された意味について言及する。ハリー、ロン、

ハーマイオニーの 人の名前を見ると、Ronald(Ron:ロン)と Henry(Harry:ハリー)

は、イギリスらしい名前であるのに対し、Hermione(ハーマイオニー)はギリシャ神話 に関係するような名前である。発音やアクセントを見ても、Henry と Ronald はどちら も 音節で第一音節に強勢を持つが、Hermione は 音節で第三音節に強勢を持つ。こ の名前の特徴は、ハリーとロンは魔法族でハーマイオニーはマグルの魔法使いという、

人の生い立ちや背景につながると考えられる。原文の読者が登場人物の名前を見た 時、ハーマイオニーの名前には他の 人とは違うイメージを持ち、魔法使いの家系にイ ギリス風の名前、人間に異国風の名前が付いている点に作者のひねりを感じ取るのが、

翻訳を読んだ人には、カタカナの人名であることしか伝わらない。また、主要な登場人 物の 人である Hagrid(ハグリッド)の名前にも、隠れた意味がある。OED によると、

hagridden が hagrid という形でも用いられ、その意味は「悪夢」 ・ 「醜い姿に悩まされた」

など、非常にネガティブな意味である。原文でもハグリッドが話す英語は訛っており、

読者に他の登場人物とは違う風変わりな人だという印象を持たせる。その一方で、物語 の中では、ハグリッドはいつもハリーの味方で優しくユーモアにあふれた人物として描 かれている。イギリスの読者であれば、原文から Hagrid の意味と人物の性格に違いに 気付き、そこに面白さを感じることができるかもしれないが、日本語で「ハグリッド」

と書かれていても、人名であること以外に意味は読み取れない。このように英語の名前 であるからこそ読み取れる意味は、日本の読者がカタカナで書かれた名前を見るだけで は全く想像もつかない。その中で、カタカナ表記でもハーマイオニーの名前がハリー、

ロンと並ぶと際立って長いこと、ハグリッドの名前に濁音が 個入っていることは、日

(20)

本語の読者にもこれらのキャラクターの異質性を感じさせる幸運な結果となっている。

このように、登場人物の名前は、本作品の翻訳において乗り越えることが困難な言語的 特徴の つといえる。

3. 結論

本研究では (1997)の松岡佑子訳『ハリー・

ポッターと賢者の石』 (1999)において、イギリスの子どもたちの生活がどのように訳出 されたのかを考察してきた。

まず、学校に関して、イギリスと日本では学校の制度や風習が異なっており、それら について読者の理解を補うために言葉が付け加えられている。日本の制度や風習に置き 換えて翻訳するのではなく、イギリスの制度や風習を生かしつつ日本の読者がそれらを 理解できるように言葉を補っている。

日常生活に関しては、日本の読者に馴染みのないものについて、その見た目や特徴の 詳細を補うことで、日本の読者にとって分かりやすく、イギリスの日常生活の特徴が生 かされた翻訳になっている。イギリス特有の事物を日本のものに置き換えてしまうので はなく、カタカナ表記やルビを入れて英語の発音を生かし、単語の意味や説明を補うこ とで、松岡がイギリスの子どもの生活の特徴や固有の事物の特徴を失うことなく、日本 の読者に伝えようとしていると考えられる。しかし、付加された言葉にはその事物の説 明や描写として十分とはいえないものも見受けられる。また、日常生活についての翻訳 では言葉が省略されているところがあった。省略されたことによって原文と訳文の内容 に大きな違いが生じているところはない。しかし、省略せずに翻訳していれば、その場 面の状況やイギリスの生活の特徴がさらに細かく日本の読者に伝わっていたはずだと見 受けられるものもあった。

学校と日常生活の両方に共通して言えることは、イギリスの文化的特徴を強調するた めに言葉を付け加える場合があるということである。階級をはじめとした、イギリスの 子どもの生活に根づく文化的な要素を翻訳する際に、イギリスの子どもの生活には欠か せないものが強調されたり、原文では直接表記のない事柄がむしろはっきりと描かれた りしている。松岡は、言葉の付加を施すことで、イギリスの子どものリアルな生活を翻 訳においても露わにしようとしている。

このように、翻訳における言葉の付加によって、日本の読者が日本とは異なるイギリ

スの制度や風習を理解できるようにするとともに、イギリスの文化的特徴を明確にして

(21)

いると考えられる。また、言葉の省略については、省略することによって原文と翻訳の 間には内容の違いは生じていないが、その言葉を省略しなければ、イギリスの文化の特 徴がさらに細かく伝えられたといえるものもあった。

しかし、翻訳における言葉の付加や省略では乗り越えられない問題もある。イギリス の歴史的背景や宗教事情など現実の問題に、筆者の意図やイギリスの子どもたちの感情 の変化も盛り込まれている。また、本作品ではハリー、ロン、ハーマイオニーなどの人 名も、英語の音だけを生かして翻訳されているが、実は彼らの名前にもそれぞれ読み取 れる意味があり、キャラクター設定に影響していると考えられる。これらを翻訳で表現 しようとすれば、文章中でさらに細かく説明を加えたり、言葉を選んで翻訳したりする 必要があると考える。このような手段をとることは、文章の読みやすさや読者である子 どもの読解力を考えると、必ずしも最良の方法であるとは言えない。英日の文化的差異 と言語的差異を埋め、歴史的背景や著者の意図をできる限り翻訳で表現しようとするこ とと、読者が滞ることなく読み進められることのバランスをとることが翻訳には求めら れる。原文の言葉ひとつひとつには、文章の表面上では見えない意味が込められている ことがある。文化的差異や言語的差異を乗り越えることだけでなく、著者の意図や思い など、言葉に表れていないが読み取ることに意味があることを表現することは非常に困 難である。しかし、それらを翻訳で伝えようとすることこそが、海外の作品を翻訳し日 本の読者に届けることの本来の意義であると考える。

参考文献

〈テキスト〉

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Rowling, J.K. (1997) NewYork: Scholastic.

〈引用文献〉

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ケンプ, ジーン著、松本享子訳(1981)『わんぱくタイクの大あれ三学期』評論社

坂田薫子(2014)「ハリー・ポッターのイギリス( )―「ハリー・ポッター」と現代イギリスに

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おける人種問題―」『日本女子大学英米文学研究』49, pp.125‑142 日本女子大学英語英文 学会

坂田薫子(2015)「ハリー・ポッターのイギリス( )―現代イギリス社会における階級問題と政 治―」『日本女子大学英米文学研究』50, pp.71‑89 日本女子大学英語英文学会

野波侑里(2002)「『ハリー・ポッターと賢者の石』におけるイギリス版とアメリカ版の比較研究」

『大手前大学社会文化学部論集』3, pp.177‑191 大手前大学 林雪絵(2001)『「ハリー・ポッター」の秘密の教科書』データハウス

菱田信彦(2013)「学校物語の伝統からみる『ハリー・ポッター』シリーズ」『平成24年度国際子 ども図書館児童文学連続講座講義録 イギリス児童文学の原点と展開:家庭小説・冒険小説・

創作童話・学校物語』 pp.91‑111 国立国会図書館国際子ども図書館

ベルトン, クリストファー著、渡辺順子訳(2004)『「ハリー・ポッター」Vol.1が英語で楽しく読 める本』コスモピア株式会社

文部科学省ホームページ

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OED オンライン

<http: //www. oed. com/view/Entry/31827? redirectedFrom=chipolatas#eid> 2017/11/24 閲覧

Abstract

(1997), written by J. K. Rowling, is one of the most popular works of childrenʼs literature. While it is a fantasy story, there are also some real aspects of British childrenʼs lifestyles. The present article examines how some aspects of British childrenʼs lives are represented in the Japanese translation by Yuko Matsuoka.

First, in order to compare the original and its Japanese translation, some translated sentences containing the elements of British culture were selected. When choosing these sentences, additions and omissions in the translation were focused on. Next, these samples were classified into (1) school life, (2) daily life, or (3)connotation. Additions seem to explain and emphasize things peculiar to Britain. However, they are not always sufficient to explain and emphasize the significance of British culture in the original story, and some omissions appear to be unnecessary. In addition, it was found that the images evoked by charactersʼ names in the

(23)

original language are sometimes difficult to retain in translation.

The examination shows that Matsuoka was conscious of the importance of the cultural background of the story, helping Japanese readers to understand British culture, and thereby preventing certain significances peculiar to Britain from being lost in translation. Still, it is difficult to reflect the authorʼs intention in translation.

参照

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