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郷 土 考 古 学 の 実 践 ― 藤 森 栄 一 の 場 合 ―

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(1)

はじめに

史料の少ない地域の歴史叙述は、多くの自治体史がそうであるように、中央の歴史の焼き直しになりやすい。それは、歴史の材料

はあくまでも文献であり、文献がなければ歴史は描けないとする通念に由来する。

しかし、文献のない地域でも、確実に歴史は存在した。しかも、歴史の材料が皆無なわけではなく、遺跡・遺物などの考古資料は、

質量を問わなければ、大概の地域に存在する。考古資料を活用すれば、文献のない地域でも、歴史叙述が可能になるはずである。確

かに固有名詞こそ出てこないかもしれないが、その地域から出土した考古資料によって描かれた歴史は、その地域に密着した個性的

な歴史である。地域史の叙述に考古学が有効であることはまちがいない。

にもかかわらず、考古資料による地域史の叙述については、その方法を含め十分に議論されているわけではない。日本各地で発掘

調査がおこなわれながら、その成果をもとに地域史を復原する試みが至って少ないのも、そもそも考古学と地域史をリンクさせて考

える姿勢に乏しかったことが原因である。前方後円墳による古代国家の研究は盛んでも、その土台をなした地域の歴史への目配せは、

かならずしも十分ではなかったところに、日本考古学がもつ問題点の一つがある。

天下国家を論じる大文字の歴史こそが歴史であって、その研究に参画することこそが、考古学の価値を高めると多くの考古学者は、

現在でも考えている。名もない民衆の緩やかな生活の変化を研究することよりも、国家体制のドラスチックな変化を解明することの

ほうが、歴史として価値があると考える考古学者は多い。そのため、国家の動向が直接反映されにくい地域史は、どうしても脇に置

かれ勝ちである。 郷土考古学の実践―藤森栄一の場合―

時   枝    務

(三五)  

(2)

そうしたなかにあって、早くから地域史の考古学的研究に目を向け、みずから実践した考古学者に藤森栄一がいる。藤森の業績は

多岐にわたるが、その大部分が故郷である長野県諏訪市でまとめられたもので、しかも諏訪地方を中心とする長野県域に題材を求め

たものが多い。藤森は、彼のいう「郷土研究」を地道に実践したが、専ら考古学的方法に依拠したので、ここでは郷土考古学と呼ぼ

う。郷土考古学の用語は、一九三七年(昭和十二)発表の「古代史には脚がない」 (『信濃』第六巻第一〇号、信濃史学会)で用いて

おり、藤森自身のことばでもある。それは、彼の縄文農耕論に典型的に示されているように、故郷の考古資料の研究を基礎に、そこ

からより大きな歴史の水脈を突き止める独自なもので、考古学による地域史研究として大いに注目されるものである。

しかし、藤森の業績については多くの解説や研究があるが、郷土考古学という視点からは戸沢充則(一九三二―二〇一二)の研究

(戸沢「考古学における『地域研究』の方法・序説」 『信濃』第二六巻第四号、信濃史学会、一九七四年)があるもののかならずしも

十分に検討されてきたとはいえない。それは、藤森が研究した分野が旧石器時代から近現代までと多岐にわたり、研究論文以外に随

筆や小説として表現されたものがあるなど、業績の全体を把握しにくい面があることが一つの要因であろう。しかし、すでに指摘し

たように、地域史に対する考古学者の関心の薄さが、より決定的な理由として挙げられることは疑いない。

そこで、本稿では、藤森の郷土考古学の特色を整理し、藤森がおぼろげながらも描いていた全体像に迫り、今後の考古学による地

域史研究の基礎を固める作業をおこないたいと思う。

なお、以下藤森の文章の引用に際しては、全集に収録されたものについては『藤森栄一全集』によることとし、引用部分を全集の

巻と頁によって示すことにする。

一、研究拠点としての諏訪考古学研究所

藤森の人生は、諏訪で過ごした若き日々の第一期、一九三三年に奈良へ出奔してから大阪や東京で生活して出兵して帰郷するまで

の第二期、戦後再び諏訪で生活しながら考古学の研究と取り組んだ第三期に大別することができる。

第一期

藤森は、一九一一年(明治四十四)八月十五日、長野県諏訪郡諏訪町南本町(諏訪市)に、書籍文具商の益雄と志うの長男として (三六)  

(3)

生まれた。一九一八年(大正七)に高島尋常高等小学校に入学し、 一九二四年に卒業と同時に長野県立諏訪中学校に進学したが、 「中

学 へ は 無 断 で 受 験 し て は い っ た 」( 第 一 巻 一 七 三 頁 ) と い う。 両 親 は 家 業 を 継 い で く れ る こ と を 期 待 し て い た よ う で、 進 学 に は 賛 成

でなかったが、中学校のみということで許可されたようである。

在学中に、クラブ活動の地歴部で活躍し、一九二七年(昭和二)刊行の『諏訪中学校友会誌』二六号に「有史以前に於ける土錘の

分布と諏訪湖」を発表した。後年、 「中学三年のとき、私は、考古学研究者としての一声をあげた」 (第一巻一七三頁)と回顧するよ

うに、その頃の藤森にとって校友会誌とはいえ研究を発表したことへの自負は大きかったようである。しかも、地元の新聞に記事ま

で掲載され、自負心はいやでも盛り上がったらしい。

諏訪中学校は、三沢勝衛ら研究熱心な教員が多数おり、大正自由教育の余韻が残る学風で、藤森はすっかり感化されたようである。

藤 森 は、 三 沢 の 教 育 に 触 れ、 「 ど ん な に た く さ ん、 い ろ い ろ の こ と を 暗 記 し て い い 成 績 を と り、 そ の 人 が 世 の 中 へ 出 て 出 世 し て い っ

たところで、試験のためにむりにつめ込んだ知識は、やがて忘れ去られてしまうだろう。しかし、少年期に自分の力で考え、苦しん

でみてはじめて得る知識は、おそらくその人の生涯を通じて、けっして滅びることはないだろう、というのが先生の教育方針の基本

で あ っ た 」( 第 二 巻 五 〇 頁 ) と 述 べ て い る。 自 分 で も 研 究 さ え す れ ば、 新 た な 発 見 が で き る こ と に 気 付 い た 藤 森 は、 い つ し か 考 古 学

にのめりこんでいた。

この頃から、藤森は、郷土の考古学研究者で、諏訪中学校の先輩でもあった両角守一(一八九八?―一九三六)に接近した。両角

か ら 実 測 や 拓 本 な ど 考 古 学 の 基 礎 技 術 を 習 得 し、 一 九 二 七 年 に は 松 本 市 城 山 で お こ な わ れ た 発 掘 調 査 に 参 加 さ せ て も ら い、 「 発 掘 で

はじまった松本での日々は、私を完全に興奮させていた。ああ、いつまでもこのすばらしい幸福のなかにひたっていたい、何度そう

思 っ た ろ う か 」( 第 二 巻 六 五 頁 ) と い う ほ ど 考 古 学 に 心 酔 し た。 地 歴 部 の 部 長 に な っ た 藤 森 は、 部 員 と と も に 霧 ケ 峰 の 岩 陰 遺 跡 を 発

掘するなど、充実した学生生活を送った。

一九二九年、十八歳で諏訪中学校を卒業し、進学をあきらめて家業を手伝うようになった。藤森は、卒業後は東京帝国大学人類学

教室に選科生(現代の聴講生)として入学し、 「どんなに苦労しても考古学者になろうと考えていた」 (第二巻六七頁)が、この年に

選科生が廃止になり、進学は夢と消えた。

し か し、 研 究 心 が 萎 え る こ と は な く、 商 売 の 合 間 を 縫 っ て 地 元 の 考 古 資 料 の 調 査・ 研 究 に 従 事 し た。 「 荷 物 を つ ん だ 自 転 車 を と め

(三七)  

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ておいての短かい時間に、しかも農夫にみつからないようにこそこそと畑のなかを歩き、みつけたものを拾ってはいそいでそこを通

り ぬ け る と い う、 ま る で 畑 ど ろ ぼ う の よ う な 方 法 で 」 遺 物 を 採 集 し、 「 夜 は 店 の し ま る 十 一 時 ご ろ ま で、 店 の 売 り 台 の 上 で、 そ の 日

採集した遺物の図をかいたり、原稿をつくったりして、考古学の雑誌に投稿し、自分の名まえが活字になるのを、ただひたすら楽し

み に 待 っ た 」( 第 二 巻 六 七 頁 ) と い う。 こ の 年 七 月、 伏 見 宮 博 英 の 発 掘 調 査 が 湖 東 村 山 口( 諏 訪 市 ) と 豊 平 村 広 見( 茅 野 市 ) の 尖 石

遺跡でおこなわれ、藤森も参加した。

第二期

藤森は、一九二八年に岡谷市長地で出土した骨壺についての報告をまとめ、郷里の先輩である八幡一郎(一九〇二―一九八七)に

連絡しておいたところ、一九三〇年になって森本六爾(一九〇三―一九三六)から報告を雑誌『考古学』に掲載するよう求める手紙

がきた。森本六爾との出会いである。

そ の 後、 藤 森 は、 『 考 古 学 』 に 毎 号 の よ う に 原 稿 を 送 り 続 け た が、 「 本 屋 の 小 僧 」( 第 二 巻 七 〇 頁 ) と し て の 生 活 は 絶 望 感 を 増 す ば

かりであった。

藤 森 は、 「 私 の 気 持 は お さ ま ら な か っ た。 内 部 に た ま り き っ た 感 情 は つ い に 爆 発 し 」( 第 二 巻 八 八 頁 )、 一 九 三 三 年 に 春 ス キ ー に 出

掛 け た ま ま 家 出 し た。 「 奈 良 の 仏 た ち を み た か っ た 」( 第 二 巻 八 八 頁 ) と い う だ け の 軽 い 動 機 で 奈 良 へ 行 き、 「 夜 逃 げ 同 然 」( 第 二 巻

九二頁)の状態で上京し、下宿から上野図書館へ通う日々を過ごしたのち、遂に困窮して森本六爾を頼って自宅を訪れた。森本の命

令で伝香川鐸の拓本をもとに「銅鐸面絵画の原始農業的要素」を書上げ、十月に藤森は論文が収録された『日本原始農業』を土産に

帰郷した。

翌年七月には、森本が弥生土器の調査のために長野県を訪れ、藤森は同行して実り多い数日を過ごした。

し か し、 十 月 三 日 に 諏 訪 の 藤 森 宅 を 訪 れ た 森 本 は、 「 こ れ が、 い っ た い 同 じ 森 本 さ ん だ ろ う か と、 見 直 す ほ ど の ひ ど い や つ れ よ う

だった」 (第五巻二四六頁)といい、病状の悪化が急速に進んでいたことが知られる。

そ の 後 も、 森 本 と の 交 流 は 続 く が、 一 九 三 六 年 一 月 二 十 二 日 に 森 本 は 不 帰 の 客 と な っ た。 藤 森 は、 「 骨 と 皮 ば か り に や せ 黒 ず ん だ

黄色になっている森本さんの手をにぎりしめて、アマチュア考古学のために自分の一生をささげることを誓った」 (第二巻一〇一頁)

という。 (三八)  

(5)

藤森が森本と交流したのは、わずか六年足らずのことであったが、森本の影響は測り知れないくらい大きかった。

同年七月には、森本と小林行雄(一九一一―一九九七)が企画した『弥生式土器聚成図録』に収録する実測図作成のために、藤森

は九州へと飛んだ。その折のことは、 「九州廻記」として『考古学』に連載され、のちに『かもしかみち』 (一九四六年、一九六七年

再刊)に収められた。

一九三七年、小林の誘いで奈良県田原本町の唐古遺跡の発掘調査に参加し、弥生時代に農耕社会が成立していたという森本の学説

が実証されたのを自分の目で確認した。その後、坪井良平(一八七九―一九八四)の紹介で大阪鉄工所に入社し、社内誌『鉄華』と

『大阪鉄工所五十年史』の編集に携わることになった。

生活が安定したこともあり、翌年には偶然の機会から知り合った諏訪の女性と結婚し、新居を構えた。平日は会社に勤め、日曜日

に は 野 外 調 査 を お こ な う と い う「 日 曜 考 古 学 者 」( 第 二 巻 一 一 一 頁 ) と し て の 充 実 し た 日 々 が 続 い た が、 や が て 東 京 考 古 学 会 の 業 務

や仲間たちとのつきあいが優先されて会社を欠勤することが多くなり、終には病気になって、一九三九年に退社した。

そんな折、大阪鉄工所で知り合った「井上信夫君が『東京の五反田にあるぼくのアパートの管理をやってみないか、勉強もできる

だ ろ う し 』 と い っ て く れ た 」( 第 二 巻 一 一 七 頁 ) の で、 八 月 に 東 京 品 川 の ア パ ー ト 不 動 荘 の 管 理 人 に な っ た。 そ し て、 不 動 荘 の「 玄

関のすぐわきにあった外人用の洋室二間をつかって、東京考古学研究所がおかれることになった」 (第二巻一二四頁) 。

東京考古学研究所は、東京考古学会の拠点であり、杉原荘介ら多くの考古学者が集って研究会を定期的に開いた。しかも、藤森は、

神 奈 川 県 横 浜 市 南 堀 貝 塚 や 栃 木 県 藤 岡 町 野 渡 貝 塚、 果 て は 福 岡 県 北 九 州 市 立 屋 敷 遺 跡 と 各 地 を 飛 び 回 っ て 発 掘 に 参 加 し、 「 私 が ア パ

ートにいるのは、だいたい研究会のある日と、 『考古学』の編集校正の日だけであった」ためもあり、 「アパート経営も失敗におわっ

た」 (第二巻一二七頁) 。ここで、長女が生まれ、数ヵ月後に死んだ。

一九四〇年に不動荘を引き払い、 「また身重になっていたみち子に大八車のあとを押させ、軽くなった家財道具をひいて坂を登り」

(第二巻一二七頁) 、下目黒の住居に移った。その頃、学会統合の話が丸茂武重(一九一二―一九九〇)からもたらされ、東京考古学

会・考古学研究会・中部考古学会が合併し、それまで藤森が編集していた『考古学』は廃刊になった。後年、藤森は「おれのいいか

げ ん な 考 え の お か げ で、 私 た ち の 誇 り で あ っ た、 由 緒 あ る 雑 誌 を む ざ む ざ と つ ぶ し て し ま っ た 」 と い い、 「 こ の 時 の 私 の、 よ く 考 え

もしなかった軽率な判断は、いまもなお私の心を苦しめている」 (第二巻一三四頁)と懺悔している。

(三九)  

(6)

一九四一年、両親の出費で板橋に新居を構え、家族の平和な暮らしが始まったが、杉原荘介から雑誌『古代文化』を編集してほし

いと依頼され、杉原商店の二階を借りて杉原命名の葦牙書房を経営することになった。

食糧難から新居を手放し、神田岩本町に移り、そこに葦牙書房も移転した。一九四二年、藤森は召集され、十二月二日の入営まで

の 一 六 日 間 に「 出 版 店 葦 牙 書 房 の し ま つ、 日 本 古 代 文 化 学 会 の 編 集 や 諸 事 務 の 引 き つ ぎ、 私 自 身 の 研 究 の し め く く り な ど 」( 第 二 巻

一三九頁)をおこなわねばならなくなったのは、 「私はこれっきり死ぬかもしれないのだ」 (第二巻一三九頁)と思ったからであった。

南 京 か ら ボ ル ネ オ へ 転 戦 す る 途 中、 下 関 で 妻 子 と 面 会 し た と き「 藤 森 考 古 学 研 究 所 を 建 て て 待 っ て い る か ら 」( 第 二 巻 一 四 二 頁 )

と い わ れ た の を 励 み に、 一 九 四 六 年 六 月 に 傷 病 兵 と し て 氷 川 丸 で 復 員 し た。 東 京 の 焼 け 野 原 を あ と に、 妻 子 の 疎 開 し た 諏 訪 へ 戻 り、

藤森の戦後が始まった。

第三期

一九四八年十月、諏訪考古学研究所を開設したが、それは「小さな店を借りて、古書売買あしかび書房と、ささやかな諏訪考古学

研究所の看板をかかげた」 (第二巻一六九頁)もので、 「自分の考古学の眼に入れても痛くない本を、奥のかまちより上の、土間から

手 の 届 か な い と こ ろ に 並 べ、 そ の 前 へ 机 を 三 つ ほ ど 並 べ て、 そ っ ち は 諏 訪 考 古 学 研 究 所 と い う こ と に し た 」( 第 二 巻 一 七 〇 頁 ) だ け

の名ばかりの施設であった。

藤森は、そこで少年たちに考古学を教えたが、 「第一回目は完全に失敗におわった。少年たちはただ考古学に興味を感じただけで、

遺 物 を 集 め て 楽 し む と い う 収 集 家 の 域 を 脱 し な か っ た。 だ れ ひ と り、 考 古 学 を 学 問 と し て や ろ う と す る 少 年 は い な か っ た の で あ る。

これにこりて、第二回目はまず、考古学という学問の精神について教えることからはじめた。遺物や標本に執着する少年がいなかっ

ただけでも成功であった。このなかの二、 三人は考古学の専門家として第一線で活躍するようになった」 (第二巻一五〇頁)という。

藤 森 が い う「 考 古 学 と い う 学 問 の 精 神 」 は、 「 考 古 学 的 な 遺 物 な ん て も の は、 学 問 の 資 料 と し て 一 度 学 界 へ 発 表 し た 後 は、 抜 け が

らみたいなものでなんの価値もないもの」で、 「まず書いて報告することだ」 (第二巻一七一頁)というものであったようで、資料収

集癖をつけないための極論であったようである。

専 門 家 に な っ た の は、 の ち に 明 治 大 学 で 考 古 学 を 教 え た 戸 沢 充 則 や 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 で 石 器 を 研 究 し た 松 沢 亜 生 ら の こ と で、

藤森との出会いが彼らの人生を決めたといってよい。 (四〇)  

(7)

藤森はよき教育者であり、第二期の諏訪考古学研究所は、実質的には考古少年の学校というべき性格をもっていたのである。

この諏訪考古学研究所は、一九四八年に諏訪市北真志野大安寺遺跡・岡谷市小尾口海戸遺跡・下諏訪町高木殿村遺跡、五一年に岡

谷市川岸鬼戸窯跡、五二年に諏訪市茶臼山遺跡、五三年に富士見町新道遺跡、五五年に諏訪市四賀まわり場古墳、六〇年に富士見町

曽利遺跡、六五年に岡谷市庄之畑遺跡・同志平遺跡・富士見町井戸尻遺跡・岡谷市コウモリ塚古墳、六六年に岡谷市海戸遺跡、六七

年に富士見町新道遺跡 ・ 岡谷市志平遺跡 ・ 同海戸遺跡、七二年に岡谷市岡ノ屋遺跡 ・ 下諏訪町秋葉山遺跡などの発掘調査をおこなった。

いずれも小規模な発掘調査ではあったが、初期には少年たちが参加し、発掘調査を体験するという、大学の考古学実習のような側

面をもっていた。出土した遺物は、諏訪考古学研究所に運び込んで整理し、分担して報告書を作成するなど、本格的な研究活動を実

践した。もっとも、調査遺跡が諏訪地方に限られていることが示すように、諏訪考古学研究所は、名実ともに諏訪地方の考古学研究

の拠点となることを目指した施設であった。

ところで、藤森は、一九四九年十二月に博信堂を創立したが、一九五三年十月に脳出血で倒れ、半身不随の状態となり、以後リハ

ビリに専念することになった。しかも、一九五五年には、調査中の四賀まわり場古墳の石室内に転落し、腰骨を損傷するという事故

に遭遇した。

そのため、諏訪考古学研究所も実質的に休止に追い込まれ、藤森自身も考古学をやめようと一度は考えたが、一九六一年に國學院

大學で開催された日本考古学協会総会で学生の考古学研究会の勧誘のビラに『かもしかみち』の一節が引用されているのをみて、 「藤

森栄一はまだ生きつづけていたのだ」 (第二巻一五三頁)と思い直し、早速「自分が勉強するため」 (第二巻一五三頁)に諏訪考古学

研究所を再開したという。

この間、一九五六年に夫人を中心に開業した旅館「やまのや」が順調な伸びをみせ、藤森はようやく安定した生活を手に入れてい

た。再開された第三次の諏訪考古学研究所は、旅館の一画に置かれ、廊下の一隅には展示施設まで設けられ、訪れる人に開放された。

全国から研究者が訪れ、諏訪考古学研究所は、考古学者が交流するサロン的な場としても機能した。

また、諏訪考古学研究所の再開を契機に、藤森の旺盛な執筆活動が始まり、五十代とは思えない大量の著作を残した。

以 上 み て き た よ う に、 藤 森 は、 正 規 に 考 古 学 を 学 ん だ わ け で は な い が、 東 京 考 古 学 会 で の 活 動 な ど を 通 し て 最 新 の 考 古 学 に 触 れ、

生涯を通して考古学の研究を続けた在野の碩学である。郷土考古学という視座から特に注目されるのは、藤森が、一度郷土を離れて

(四一)  

(8)

考古学を学び、再度郷土に帰ってきてから本格的に郷土考古学の研究をおこなった点である。しかし、一九五三年の発病以来健康に

勝れなかった藤森は、一九七三年十二月十九日、六三歳という若さで没したが、その業績は没後『藤森栄一全集』一五巻としてまと

められている。

二、郷土の学史の重視と先学の顕彰

藤森の郷土考古学の第一の特色は、郷土における学史を重視するとともに、郷土の先学の人物と業績を顕彰したことである。

藤森は、多くの郷土の先学を取り上げ、その人生を時代のなかに位置づけるとともに、その業績を広く紹介した。その多くは、全

国的にはおろか、長野県内でもほとんど知られておらず、藤森の紹介によって広く知られるようになった人物である。藤森は、歴史

の流れのなかに埋もれていったそうした人物を掘り起こし、考古学者などとして顕彰したのである。藤森は、自分自身もやがてはそ

うした人物と同様に忘れ去られていく運命にあると考えていたようで、ときには同情を隠さないが、最終的には客観的な評価を下し

ている。 なかでも、 小沢半堂と保科五無斎は、 藤森によって発掘されるまで、 完全に忘れ去られていた人物であるので、 最初に取り上げよう。

諏訪市上諏訪の小沢半堂は、本名孝太郎といい、一九〇九年(明治四十二)の坪井正五郎(一八六三―一九一三)による曾根遺跡

の 調 査 以 来、 坪 井 と 交 際 し、 お も に 曽 根 遺 跡 の 石 器 を 研 究 し た 人 物 で あ る が、 そ の 生 涯 は「 不 遇 の 先 覚 者 」( 第 一 巻 一 三 三 頁 ) と い

うことに尽きるという。もっとも、採集した遺物はすぐに写生し、最初は東京帝国大学理学部人類学教室へ送ったが、のちには定価

を付けて土産物として販売し、 生活の糧としたという変人であった。家族から軽蔑され、 多くあった遺稿も夫人によって炉にくべられ、

「 半 堂 の 畢 生 の 努 力、 『 諏 訪 湖 底 遺 跡 曾 根 の 研 究 』 の 自 作・ 自 刻・ 自 費 出 版 の 全 版 木 」( 第 一 巻 一 七 四 頁 ) は 薪 と し て 売 却 さ れ、 そ の

業績は永遠に失われたという。

半堂の考古学は、詳細は不明であるが、坪井正五郎の影響を受け、曾根遺跡を中心とした石器時代の研究であったと推測できる。

藤森は、 考古学を志した若い日に、 父から 「半堂の悲劇の一生を私に話してきかせ」 (第二巻三九頁) 、「考古学はいかん。 半堂はだめだ」

と怒られ、灸をすえられたと回顧している(第一巻一七三頁) 。 (四二)  

(9)

半堂の場合、業績がまったく不明であるため、単なる好事家であったのか、ある程度考古学を本格的に学んだ人物であったのか判

断できないが、藤森は郷土における考古学の先駆者として位置づけたのである。

保科五無斎は、本名百助といい、北佐久郡で一八六八年に生まれ、長野師範を卒業して教員を勤めたのち、筆墨と地学標本を商う

よ う に な っ た 人 物 で あ る。 五 無 斎 の 号 は、 「 金 も な し 子 も な し も と よ り か か も な し 地 位 も な け れ ば 死 に た く も な し 」( 第 五 巻 三 六 頁 )

という狂歌に由来するもので、教員を辞してから名乗ったらしい。

彼も、曾根遺跡に興味を抱いて六〇〇個の石鏃を採集し、遺跡は「湖中の一小島であったものが地辷りによって沈下したもの」と

考えた(第五巻三七頁) 。彼は、曾根遺跡の学術的価値を高く評価し、 「世の御好連が、無暗に古墳を掘って、矢鱈に採集された遺物

を売買、金持ちの宝物にしている如き現象が、曾根に起こることを厳に粛むべし。故に、上諏訪警察署においては、シジミ掻き、魚

釣 り 一 切 相 成 ら ぬ 旨、 公 衆 一 般 殊 に 漁 民 等 に 厳 命 せ ら れ ん こ と を 希 望 す る も の な り 」( 第 五 巻 三 八 頁 ) と 説 い た。 い わ ば 文 化 財 と し

て曾根遺跡を認識し、遺跡破壊を食い止め、史跡として保護する必要性を説いたのである。

しかし、彼は、一九〇七年に読売新聞が主催した日本百奇人の投票で全国一位を獲得したほど変人であったらしく、生涯独身を通

して一九一一年に亡くなった。

藤森は、五無斎の曾根遺跡研究を、郷土人による科学的な研究として高く評価している。

坪井の曾根調査に関わった人物には、半堂のほか、両角新治と増沢寅之助がいた。

両角は、長年坪井と交流を続けたが、 「代表的田舎紳士」 (第五巻四四頁)で、自ら研究に手を染めることはなかった。

ところが、息子の両角守一は、遺物の収集癖が昂じて考古学に興味をもつようになり、諏訪地方の考古学的調査に着手した。彼は、

銀行員として勤務する傍ら、 『諏訪史』 の編纂のために諏訪を訪れた鳥居龍蔵 (一八七〇―一九五三) に接するなどして考古学を学んだ。

そ し て、 諏 訪 地 方 の 考 古 資 料 を、 『 人 類 学 雑 誌 』 や『 考 古 学 雑 誌 』 に 報 告 し た。 藤 森 に よ れ ば、 両 角 は 図 面 が 上 手 で、 地 形 図 や 遺 構

平面図、土器や石器の実測図を折りに触れて作図したという(第二巻六四頁) 。しかし、得意な図面を付して投稿したが、 『人類学雑

誌』や『諏訪史』では図面が省略され、本文のみが掲載されることが多かったため、その度に彼は痛く残念がったという。

藤 森 は、 そ れ を 中 央 の 学 者 の 図 面 軽 視 と み な し、 「 東 京 の 中 央 学 会 は、 両 角 さ ん よ り は る か に お く れ て い た と も い え る 」( 第 二 巻

六四頁)とまで評している。遺物実測図は、モース(一八三八―一九二五)が大森貝塚の報告書に掲載して以来、必要性が認識され

(四三)  

(10)

たにもかかわらず、なぜか継承されず、明治時代から大正時代にかけては簡略なスケッチで十分とする風潮が蔓延した。先住民論争

に明け暮れた考古学界は、考古資料を客観的に扱う姿勢に欠けており、実測図を軽視しがちであった。その点では、考古資料を研究

の対象として正当に位置づけ、じっくりと観察・記録した両角が一歩先んじていたとしても不思議はない。

また、 両角は、 「昭和初年、 郷土学者のナンバー ・ ワンとして、 いまも残る中間式土器論(のち杉原さんの接触式土器論に発展した)

や 弥 生 式 石 器 論 を 展 開 し 」「 趣 味 の 域 を 通 り 越 し て、 ど ん ど ん 本 格 的 に 変 わ っ て い っ た。 そ の 報 告・ 論 文 の 類 は、 ほ と ん ど 月 二 篇 ぐ

らいの割で、中央誌をにぎわすようになった」 (第五巻四五頁)という。

しかし、折からの不況で銀行が閉鎖に追い込まれ、懊悩のなかで病を得、一九三六年(昭和十一)二月四日にわずか三九歳の若さ

でこの世を去った。

藤森は、諏訪中学校の後輩でもあり、両角にかわいがられたようであるが、できる限り客観的に両角の人と学問を位置づけること

に努めている。

一 方 の 増 沢 寅 之 助 は、 花 梨 と 地 蜂 の 缶 詰 工 場 を 創 業 し た 男 で、 趣 味 も 多 彩 で あ っ た。 「 曾 根 の 石 器 も、 そ の 彼 の 激 し い 追 求 心 の 一

環としてであった。彼は、その石片と石材を分類して、おもしろいことには、まったく同じ組み合わせの模造品を作っている。つま

り、曾根標本が二組あって、模造品は、来客用、実物は彼の秘庫に収められていたわけである。こうしたきわめて変則的な追求心と

いうものは、いうまでもなく、ほんのわずかな指導力の欠 除

(如か)

からきたもので、まさにディレッタントの悲劇といっていいだろう。増

沢寅之助さんにとって、曾根の標本は、まったく愛玩物のほかの何ものでもなかったわけである」 (第五巻四六頁)と評価は厳しい。

増沢にとって、坪井の撒いた種は、コレクションの種類を増やしただけに終わったのである。

両角と比較できないばかりでなく、半堂や五無斎にさえ到底及ばなかったことを、藤森は冷徹な眼で描いた。

ま た、 橋 本 福 松 が、 曾 根 遺 跡 の 成 因 を 論 じ た、 一 九 〇 九 年 五 月 に『 人 類 学 雑 誌 』 に 発 表 し た 論 文 と 同 年 十 月 に『 信 濃 博 物 学 雑 誌 』

に掲載した論文を、藤森は「最高の橋本論文」 (第五巻三〇頁)と讃える。

し か し、 そ の 後 研 究 か ら 離 れ て 出 版 社 を 興 し た 彼 を、 藤 森 は「 『 諏 訪 湖 の 研 究 』 の 論 功 行 賞 だ ろ う か、 高 島 小 学 代 用 訓 導 か ら、 諏

訪高女、 松本高女へと進んだ。ところが、 栄進とともに研究はほとんどみられなくなった。そして、 長野県を去った」 (第五巻四六頁)

としたうえで、曾根遺跡をめぐる「アマチュアの諸系譜のうち、もっとも悲劇的だった人が、成功者として富をつんだ橋本さんでは (四四)  

(11)

なかったか」 (第五巻四七頁)とし、 「灯を消した人」 (第五巻四六頁)という手厳しい評価を下す。

総じて、藤森の学問に生涯を捧げた人物に対する評価は高く、学問を棄てて立身出世した人物に対する評価は低い。そこに藤森の

価値観を見出すことができるが、それは彼の学問への真摯な姿勢の現われでもあり、自分自身への人生訓でもあったに違いない。

ここで、考古学者ではないが、藤森の学問を考えるうえで見落とすことのできない三沢勝衛(一八八五―一九三七)について触れ

ておこう。

三沢について藤森は、 『信州教育の墓標』と題した評伝を著し、その人と学問の特色を描き出した(第六巻) 。藤森は、諏訪中学校

で三沢に学び、その影響で一九二七年刊行の『諏訪中学校友会誌』二六号に「有史以前に於ける土錘の分布と諏訪湖」を発表したほ

ど私淑したことがある。

三沢の学問は地理学であるが、実地で調査・観察することを基本とし、書物の知識の受け売りをしないところに特色があった。諏

訪地方の実態を知るためのフィールドワークに生徒たちを連れ出し、観察したデータをもとに考えることを教え、学問を身に付けさ

せる教育をおこなった。

三沢は、 諏訪地方をフィールドに数々の論文を執筆し、 郷土地理学を提唱した。最初の単行本は、 昭和六年に古今書院から出た『郷

土地理の観方―地域性とその認識―』で、地域での調査研究法を主軸に据えたものであった。それは、地理学の方法によって郷土の

特質をあきらかにし、郷土の産業や文化の育成に資したいという思いに支えられた実学的な研究でもあった。しかも、その研究は教

育活動と密接不離の関係にあり、生徒が研究に参加するなかで学習する方法が採用されることもあった。

藤森は、三沢の教育力を高く評価し、 「死んだ信州教育の最高点である」 (第一五巻五八頁)とまでいっている。藤森は、信州教育

が ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 後 ま で 継 承 さ れ ず、 三 沢 が そ の 最 後 の 輝 き を 放 っ た 人 物 で あ る と 考 え て い た た め、 戦 後 の 信 州 教 育 は「 死 ん だ 」

存在と把握されたのである。三沢が死去したのは、 一九三七年八月十七日のことで、 アジア太平洋戦争が本格化する前のことであった。

こ の よ う に み て く る と、 藤 森 に よ る 先 学 の 顕 彰 は、 学 問 的 な 業 績 を 評 価 す る も の と い う よ り も、 研 究 者 が「 少 年 の 日 の 灯 」( 第 四

巻一四七頁)を消すことなく、紆余曲折しながらも学問を続けた生き方への賛辞であることがわかる。その点、限りなく文学的なの

で あ る が、 研 究 者 が ど の よ う な 思 い で 研 究 を 続 け た か が 明 白 に な り、 研 究 の 意 図 を 炙 り 出 す こ と に 成 功 し て い る。 諏 訪 地 方 か ら は、

八幡一郎のような日本考古学の重鎮が輩出しているが、藤森はそうした成功者よりも地域に埋もれた敗残者に温かい眼を向けている。

(四五)  

(12)

なにを成し遂げたかではなく、なにをやろうとしたかに注目することによって、藤森は諏訪地方を中心とした考古学史を紡ぎ出し

た。小沢半堂や保科五無斎らが登場する考古学史は限りなく稗史に近い歴史であるが、彼らが遭遇した悲惨な現実に眼を向けること

で、はじめて地域における考古学の苦渋に満ちたあゆみがあきらかになることも確かである。

藤 森 の 絶 筆 で あ る「 考 古 学 者 は 何 を し て き た か 」 の 未 完 の 末 尾 で、 小 沢 の 曾 根 遺 跡 研 究 に 触 れ た の ち、 「 小 沢 半 堂 の 人 生 の 仕 事 は

まったく消えた。しかし、半堂は地下でいっているかもしれない。―人が仕事の中途で斃れるということは、ちっとも恥にはならん

のだよ―と」 (第一五巻八五頁)と書き留めているが、これが藤森の学史に対する考え方であったとみてよかろう。

藤森による先学の顕彰は、途中で斃れた研究者たちへのオマージュであり、未完の可能性を引き出すための基礎固めであったとも

いえよう。

しかし、藤森は、諏訪地方を中心とした考古学史をその地域で完結したものとはみなさず、より大きな文脈のなかに位置づける努

力を惜しまなかった。藤森は、郷土考古学の動向を整理したのち、それが日本考古学のあゆみのなかでどのような位置にあるのかを

検討した。ミクロなレベルの郷土考古学の歴史が、マクロなレベルの日本考古学の学史とどのような接点をもち、相互にどのような

影響関係にあるのかを考えた。

一九六五年に刊行された『旧石器の狩人』 (学生社)は、題名だけみると旧石器時代の狩猟民についての研究書のようにみえるが、

実は旧石器を追いかけた考古学者たちの物語なのである。

しかも、藤森が「序」において「本州の中央、諏訪湖の底にある曾根という遺跡に焦点を絞って、湖底の村の不思議さの追求に没

頭した人々の執念を軸に、その研究を飛躍的に進める契機になったいくつかの発見のかげの人たちの情熱をおりこんで、一編の物語

にまとめてみた」 (第五巻一四頁)と述べているように、物語は曾根遺跡の研究史から始まる。藤森の語りを辿ってみよう。

一九〇八年十月八日、高島小学校の代用訓導橋本福松は、諏訪湖の微地形測量の実施中、曾根の諏訪湖底から多くの石鏃を鋤簾で

引上げた。発見の重要性を感じた彼は、信濃教育会諏訪部会から諏訪湖調査を依頼されていた東京帝国大学の田中阿歌麿(一八六九

―一九四四)に、石鏃発見の電報を打った。翌年五月十五日、田中の要請でやってきた東京帝国大学の坪井正五郎が、曾根遺跡で採

集を試みた。坪井は調査報告を 「諏訪湖底石器時代遺跡の調査」 と題して 『東京人類学会雑誌』 第二四巻二七九号~二八五号 (一九〇九

年) に分割して掲載するとともに、 「石器時代杭上住居の跡は我国に存在せざるか」 を『東京人類学会雑誌』 第二四巻二七八号 (一九〇九 (四六)  

(13)

年)に発表し、曾根遺跡を杭上住居跡とする学説を打ち出した。

藤 森 に よ れ ば、 杭 上 住 居 跡 説 は す で に 飯 田 幸 太 郎 が『 諏 訪 史 稿 』 一 巻 で 主 張 し た と こ ろ で、 「 坪 井 博 士 も、 こ れ に は あ き れ た よ う

である。西欧遊学の新知識で、よもや、信州の山奥まできて、こういう頭を敲かれるような、先説にあうなどとは思わなかっただろ

う」 (第五巻二九頁)という。

この坪井説に対して、やはり東京帝国大学の神保小虎(一八六七―一九二四)は、 「諏訪湖底の石器と湖上生活論と土地の陥没?」

を『東京人類学会雑誌』第二四巻二八二号(一九〇九年)に発表し、地質学の立場から土地陥没説を唱えたが、それは最初に報告し

た橋本福松が 「諏訪湖底より石器を発見す」 『東京人類学会雑誌』 第二四巻二七八号 (一九〇九年) ・「諏訪湖底より石器を発見すの訂正」

『東京人類学会雑誌』第二四巻二七九号(一九〇九年) ・「諏訪湖底の曾根について」 『信濃博物学雑誌』三四号(一九〇九年)におい

て 主 張 し て い た 説 と 基 本 的 に 同 じ で、 し か も 橋 本 は「 曾 根 は 陸 地 端 が 断 層 地 形 に よ っ て 水 底 に 没 し た も の で あ る 」( 第 五 巻 三 二 頁 )

と具体的な要因にまで説き及んでいた。

藤森は、橋本説を断層地変説と名付け、 「最高の橋本論文」と讃える(第五巻三〇頁) 。

さらに、 保科五無斎は、 「石器時代の遺物 ・ 湖中の山岳曾根について」 『信濃公論』 第三五号 (一九〇九年) ・「諏訪湖ソネに関する臆説」

『 信 濃 博 物 学 雑 誌 』 三 四 号( 一 九 〇 九 年 ) で、 「 ソ ネ は 湖 中 の 一 小 島 で あ っ た も の が 地 辷 り に よ っ て 沈 下 し た も の 」( 第 五 巻 三 七 頁 )

とする島嶼地辷り説を唱えた。

曾 根 遺 跡 発 見 の 第 一 報 を 受 け た 田 中 阿 歌 麿 は、 『 湖 沼 学 上 よ り 見 た る 諏 訪 湖 の 研 究 』 下( 一 九 一 八 年、 信 濃 教 育 会 諏 訪 部 会 ) で、

地辷り説を肯定した。

そ の 後、 一 九 二 〇 年 に『 諏 訪 史 』 第 一 巻 の 調 査 の た め に 来 訪 し た 鳥 居 龍 蔵 は、 曾 根 遺 跡 の 調 査 を 実 施 し た が、 地 元 の 収 集 家 が 保

管していた「少々あやしい品物まで、真正の曾根出土品として数えこんでしまった」ために「研究を混乱に導」き(第五巻五一頁) 、

デンマークの事例に似ているというだけの理由で筏上住居説を唱えるに至った。

このように、藤森は、中央の学者と郷土の研究者の学説を対峙させながら示すことで、中央の学説の受け売りではない郷土の研究

者の学説を浮き彫りにした。藤森は、資料の正確な観察にもとづいて合理的な解釈を示せば、郷土の研究者でも中央の学者と同じ土

俵で学問ができるといいたかったのに違いない。そして、地域の小さな研究課題でも、より大きな研究課題に繋がっていることを主

(四七)  

(14)

張したかったのであろう。

と こ ろ で、 こ こ ま で の 旧 石 器 文 化 と は な ん の 関 係 も な さ そ う な 曾 根 の 調 査・ 研 究 史 が、 一 九 三 六 年 に 八 幡 一 郎 が、 曾 根 の 石 器 の

一部が「中石器時代の細石器」 (第五巻五五頁)である可能性を指摘したことによって、俄かに旧石器探求の学史と結び付いてくる。

藤森は文献を明示していないが、おそらく『ミネルヴァ』第三巻二号に掲載された「信州諏訪湖底曾根の石器時代遺跡」のことであ

ろう。 残念ながら、八幡の論文からそこまで読み取ることは難しいが、藤森は「もし、八幡さんが、昭和十 ・ 十一年に、日本には旧石器、

一歩ゆずるとしても中石器時代に属する文化があったと、その信念のほどを、強引に発言していたら、もっとたたかれたことではあ

ろうが、すくなくとも十年は早く、日本旧石器文化の実体は明らかにされていただろうと思われる」 (第五巻五五頁)といい、 「私も、

八 幡 さ ん も、 本 当 は 旧 石 器 を み た。 け れ ど も、 私 は よ く み え な か っ た し、 八 幡 さ ん は み え た が 勇 気 が た り な か っ た の で あ る 」( 第 五

巻五七頁)と断じるのである。

こ う し て、 『 旧 石 器 の 狩 人 』 は、 よ う や く 本 題 に 入 り、 明 石 原 人 を め ぐ る 動 向、 岩 宿 遺 跡 の 発 見、 諏 訪 湖 畔 の 茶 臼 山 遺 跡 の 発 掘 と

筆を進め、当時の最新の研究動向に触れたのち、再び曾根遺跡の問題に戻る。そして、曾根遺跡の石鏃には片方の脚を欠くものが多

いことに着目し、片側を棒状の幹部に差し込んで銛として用いた可能性を指摘する。結局、曾根遺跡の再評価の必要性を示したとこ

ろ で、 『 旧 石 器 の 狩 人 』 は 終 わ る の で あ る が、 曾 根 遺 跡 が 旧 石 器 研 究 と の 関 連 で 注 目 さ れ た 時 期 は 短 く、 直 接 旧 石 器 研 究 に 影 響 を 与

えたとは思えない。にもかかわらず、無理をしてまで、藤森が曾根遺跡に拘るのは、郷土の遺跡の調査・研究のあゆみを、旧石器の

探求という学界の大きな潮流と関連づけて理解しようとしたからに違いない。

このように、藤森は、郷土における学史を克明に辿り、中央の動向との関連性を考察した。そして、不遇なまま生涯を終えた郷土

の 先 学 た ち を 掘 り 起 こ し、 未 完 の ま ま 終 え た 業 績 を 讃 え て 顕 彰 し た。 明 言 し て い る わ け で は な い が、 郷 土 考 古 学 の 樹 立 の た め に は、

まずその郷土においてなされた先人の業績を振り返る必要があると考え、資料の少ないなかで可能な限り具体的に学史を叙述したの

であろう。 (四八)  

(15)

三、風土論としての諏訪湖研究

藤森の郷土考古学の第二の特色は、自然と人間が織り成す地域性である風土を、考古資料を用いて解明しようとする姿勢が強くみ

られることである。とりわけ、藤森が生涯を通じて論じ続けた諏訪湖は、諏訪地方の郷土考古学にとって重要な研究課題であった。

藤森が諏訪湖について最初に論じたのは、すでに触れた処女論文「有史以前に於ける土錘の分布と諏訪湖」であり、一五歳の少年

の日の執筆である(第一二巻一四頁) 。その論文では、まず土錘の形式を四種類に分類し、 (1)形式は「大体厚手派土器使用民族」 、

(2)形式は「薄手派土器使用民族」 、(3)形式は「厚手派土器使用民族」が担い手であるとし、 (4)形式は「弥生派土器発見地か

ら発見されてゐるが」不明であるとした(第一二巻一一~一二頁) 。

そのうえで、各形式の土錘の分布を図示し、原始時代の湖岸線を解明しようとしたのである。そして、だいたい八〇〇mの等高線

ラインが湖岸線であったと推測し、諏訪湖は「沖積物が湖を縮小埋没する場合(河成沖積物湖成沖積物) 」「人工的に湖を縮小埋没す

る場合(河口埋下、沿岸埋没) 」「排水口が湖の堰止堤上に河床を深刻し為めに湖の水位が低下せられた場合」の「原因に依りて縮少

せられ又将来は前の三原因のもとに消滅に至るであらう」と結論づけたのである(第一二巻一四頁) 。

藤森は、冒頭で「此の研究は先生の指導を受けた訳では無く、又今までに多数の人が研究した様な者とは全然異つて唯自分一人の

貧しい頭で研究した」 (第一二巻八頁)と述べているが、その発想が三沢の郷土地理学に由来するであろうことは容易に推察が付く。

いわば、郷土地理学の課題を、土錘という考古資料を用いておこなった研究であったといえる。

ここで論じられているのは、原始時代の湖岸線がどこかということであるが、この問題はすでにみた曾根遺跡をめぐる研究史と密

接に関連している。もし湖岸線が現在のそれよりも遥かに低い位置であったとすれば、曾根が地上であった可能性も浮上し、原始時

代の生活領域が現在の湖底にまで広がっていたことになる。しかも、湖沼学における諏訪湖の水位問題にも一石を投じることができ

るわけで、藤森ならずとも魅力的なテーマであると考えるであろう。

つまり、たかが湖岸線を復元するだけの考察なのであるが、歴史的にも自然科学的にも重要な課題を解決する糸口がつかめるかも

しれない研究だったのである。

(四九)  

(16)

土錘の担い手を「厚手派土器使用民族」と「薄手派土器使用民族」に分けて論じているあたり、先住民に拘っていた明治・大正時

代の考古学の片鱗を見出すことができるが、取り組んだ課題そのものは自然と人間の接点に位置づけられる、すぐれて風土論的なも

のであった。

その後、一九六〇年になって、藤森は「諏訪湖底曾根の調査」を『信濃』第一二巻第七号に発表し、曾根遺跡について「曾根は湖

中 の 岬 で あ り、 旧 石 器 時 代、 或 は 中 石 器 時 代、 石 槍 文 化 の 末 期 頃 に 相 当 な 聚 落 が 営 ま れ、 縄 文 時 代 が 始 ま る 直 前 に、 地 殻 の 変 動 に

よ り 汀 線 附 近 ま で 陥 没、 以 降 そ の ま ま 無 人 の 州 と し て の 相 当 時 期 の 後 に、 再 び 陥 没 し て 水 深 二 ㍍ で 安 定 し た も の の よ う で あ る 」( 第

一二巻一四〇頁)とし、曾根遺跡が辿った地形環境の変化をあとづけた。

つまり、曾根遺跡は、石槍文化の末期頃には地上の岬で、集落が営まれていたが、縄文時代直前に陥没して遺物が湖水にさらされ

た後、再び陥没して湖底に沈んだというのである。その証拠は、曾根遺跡から採集された遺物が、土器は磨滅し、石器は独特の光沢

を放っている点にある。最初から水流の穏やかな湖底に沈没したのであれば、磨滅が急激に進むことはないから、汀線にあった時期

があると考えたのである。

さ ら に、 藤 森 は、 「 脚 の 長 い 鏃 形 の 石 器 が 大 発 達 を と げ た が、 こ れ は 弓 矢 の 鏃 と い う よ り は、 む し ろ 銛 の よ う に 複 合 石 器 と し て 使

われた公算が多い」とし、 「生活立地や器具から考えて、最初漁撈生活が始まった」 (第一二巻一五〇頁)と考えた。かつて、少年の

日に、漁具である土錘の分布から湖岸線を復元しようとした藤森であるが、ここでは縄文時代以前に諏訪湖で漁業が展開していたこ

とを説いたのである。

長脚鏃を銛のような複合石器と認めることができるのかなど、多くの問題が残されているが、諏訪湖畔周辺の遺跡を漁業との関連

で捉える視点は、少年の日から持続していたものとみられよう。藤森にとっての諏訪湖論は、諏訪湖周辺で暮らした人々の生業のあ

り方と密接な関係にあり、単なる自然の問題ではなく、すぐれて歴史的な課題であったのである。

ところが、一九六二年に仲浜町遺跡、一九六四年に片羽町遺跡が発見され、曾根遺跡よりも低い位置から遺物が発見されるに及び、

それまでの理解では十分に説明できなくなった。とりわけ、片羽町遺跡の包含層は、曾根遺跡と一連の地層であると考えられるとこ

ろから、藤森は曾根層と名付けた。

そ し て、 「 必 ず し も 湖 底 で な く て も、 こ の 低 湿 地 の 現 水 面 下 二 ― 三 ㍍ の 深 さ に は、 先 土 器 末 か ら 縄 文 草 創 期 に か け て の 遺 跡 が あ り (五〇)  

(17)

得る。それは、特定個所の陥没とか断層と考えるより、水面の変化、水位の増減と考える方がより合理的であると考えられるように

なった。これを、藤森の予想した増減水周期から見れば、曾根期は縄文草創期で約一万年前、沖積世に入って第一回の減水期、諏訪

湖 の 水 位 は 現 水 面 下 二 ㍍ を マ キ シ マ ム に す る と い う こ と が は っ き り し て き た わ け で あ る 」( 第 一 二 巻 一 五 六 ~ 一 五 七 頁 ) と 説 き、 従

来の陥没説では説明がつかず、水位の変化によって説明できると主張したのである。

こうして、諏訪湖の湖水面よりも低い位置にある遺跡は、湖底遺跡だけではなく、陸上の低湿地遺跡も同様であることがあきらか

になり、そのことを正しく評価した藤森によって、従来通説の位置を占めてきた陥没説は否定されることになった。

しかし、通説を否定した以上、それに代わる学説を示さねばならない。藤森は、それに応えるべく、昭和四十年に「考古学的資料

よりみた沖積世における諏訪湖の水位変動」を『地学雑誌』第七四巻第二号に発表した。

そ こ で、 湖 畔 の 遺 跡 の 分 布 図 や 層 位 図 を 示 し な が ら、 「 約 一 万 年 前 と 思 わ れ る 先 土 器 時 代 末 か ら 弥 生 後 期 に 至 る 約 八 千 年 の 間 に、

四つの波形によって示される湖水位の変動がうかがえる。現在の湖面をかりに〇㍍とすると、縄文草創期の曾根期と、縄文後・晩期

から弥生中期にかけての二時期の湖面がそれぞれ約マイナス三㍍以下で、これが第一、第四の大減水期に相当する。次に、縄文早期

末葉から縄文前期中葉にかけての時期と、縄文中期に第二、第三のやや小規模な減水期が存在した。第三、第四の減水期の直後には、

杉ノ木・海戸、さらに仲浜町・三の丸などの遺跡の層位が示す増水期が存在するが、これが第三、第四の増水期である。また縄文早

期中葉と、縄文前期末葉から中期にかけての時期には、遺跡の位置の相対的上昇によって第一、第二の増水期が想定されたが、この

ときの水位は、湖の東岸および西岸に分布するかつての湖底面の一部と考えられる小段丘の高度、すなわち、海抜七八〇―八〇〇㍍

にほぼ近い価を示したものと考える」 (第一二巻一八〇頁)と述べ、少年の日からの課題の結論を出した。

さ ら に、 藤 森 は『 旧 石 器 の 狩 人 』 で、 そ の 論 文 の 後 日 談 に 触 れ て い る。 そ れ は、 「 京 大 琵 琶 湖 臨 湖 実 験 所 の 堀 江 正 治 さ ん の、 諏 訪

湖底コア採集のデータによれば、やく二千年前の湖底最深部の堆積に泥炭層がある。同じ現象は、より古くいくども認められる。湖

心 の 底 に 泥 炭 が で き る は ず が な い。 沼 か 湿 低 地 だ っ た ろ う と い わ れ る の で あ る 」( 第 五 巻 一 四 五 頁 ) と い う 学 説 で、 藤 森 は 坪 井 正 五

郎以来の学史を踏まえながら「六十年の追求は、一回の地学調査でかたづいたようにおもえた。学問というものは、そういうものな

のである」 (第五巻一四五頁)と感想をもらしている。

藤森は、 『蓼科の土笛』に収められた随筆「湖の大きかった時と小さかった時」 (第四巻)でも、苦労話を交えて同じ主張を繰り返

(五一)  

(18)

しているが、諏訪湖論へのこだわりを示すものであろう。

当時、詳細は不明であるが、曾根遺跡の場所を埋め立ててホテルを建設するという計画があったようで、藤森は反対の意志を明確

に 示 し て い る。 「 諏 訪 湖 底 の 曾 根 は、 世 界 で も 珍 ら し い、 中 石 器 時 代 の 大 漁 撈 集 落 だ っ た わ け で す。 全 国 の 考 古 学 者 は、 ひ と 目 で い

いから、諏訪湖の水をひかせ、曾根遺跡の顔をみたいものだと願っています。硬いから、安あがりだからという理由で、調べてもみ

ず、これを永久に埋めたててしまったとすれば、これは暴挙といわれても、弁明の余地はありません。むろん、現住民の福祉をのぞ

いて、文化などというものはあり得ません。遺跡よりは、むろんそれは優先します。しかし、完全な調査もなく永遠に葬るわけには

いきません。どうか、市民の皆さん、曾根遺跡を守ってください。万やむを得ないならば、完全な調査が行なわれるよう、どうか監

視していてください」 (第六巻二九八頁)と訴えている。

藤森が曾根遺跡をはじめ諏訪湖の問題と取り組んだ時期は、遺跡保存問題や環境問題があり、その現実的な要請に応えるべく研究

を進めていた可能性が高い。郷土のシンボル的な存在である諏訪湖と曾根遺跡を、将来にまで伝えるためには、こうした研究が必要

であったのである。

藤森は、 『新信濃風土記―諏訪』 (第六巻)のなかで、諏訪湖についての曾根遺跡以外の話題として、シジミやサケ・マス、御神渡

り、丸木舟、漁法、五六郎田圃、スケートなどさまざまな事象について語っている。それらが、そのまま藤森の研究成果というわけ

ではないが、彼が広い関心をもって諏訪湖を見つめていたことが判明する。

そうした諏訪湖をめぐるさまざまな事象を総合的に把握し、諏訪湖を中心とした諏訪地方の風土に、深い関心を抱いていたことは

疑いない。曽根遺跡への関心は、その一角を担うものであり、基盤となるものであった。

このことから、郷土考古学の基礎に、郷土の風土への関心と深い理解があることを、われわれは読み取らねばなるまい。

四、縄文農耕論

藤 森 の 郷 土 考 古 学 の 特 色 の 第 三 に 挙 げ ら れ る の は、 活 発 な 論 争 を と も な っ た 縄 文 農 耕 論 の 提 唱 で あ り、 そ の 代 表 的 な 著 作 が

一九七〇年に学生社から刊行された『縄文農耕』である。 (五二)  

(19)

一見、地域に囚われない全国的な研究のようにみえるが、実は八ヶ岳山麓という限られたフィールドで立てられた学説であり、ま

さに郷土考古学の産物である。郷土で研究した成果をもとに打ち出した学説が、全国的な問題を提起し、考古学のみならず農学・地

理学・文化人類学などにまで大きな影響を与えた点で、縄文農耕論は見落とすことのできない業績といえよう。

藤森の縄文農耕論の嚆矢は一九四八年十一月に『夕刊信州』に掲載された「原始焼畑陸耕の諸問題」に遡るが、論文として発表さ

れたのは翌年の『歴史評論』第四巻四号に掲載された「日本原始陸耕の諸問題」が最初である。その後、約二〇年にわたり発表され

た論考を集成したのが『縄文農耕論』であるが、それに先立って一九六五年には縄文農耕論の基礎になる発掘調査報告書である『井

戸尻』が公刊され、縄文農耕をめぐる議論が盛んになった。

藤森の縄文農耕論は、縄文時代中期の八ヶ岳山麓で焼畑農耕がおこなわれていたという学説であるが、その発想の根源は森本六爾

に あ っ た。 藤 森 は、 森 本 の「 弥 生 式 文 化 の 水 稲 農 耕 論 」( 第 九 巻 二 〇 〇 頁 ) に 学 び、 「 森 本 氏 の 学 問 と 生 き 方 を、 ま の あ た り に 見 て、

そして戦後、郷里の信州に生活の本拠をおくようになった筆者は、その地に繁栄を極める縄文中期文化が、どうしても縄文式的では

な い、 い や 弥 生 式 的 だ と 考 え ざ る を え な い と い う 疑 問 に 逢 着 し た の で あ る 」( 第 九 巻 二 〇 一 頁 ) と 述 べ て い る。 つ ま り、 森 本 の 着 眼

点に学びながら、郷里の縄文中期の遺跡をみると、農耕をおこなっていた可能性が考えられるという疑問から、縄文農耕論は構想さ

れたのである。

実際、藤森は、一九三四年に刊行された『日本原始農業新論』所収の「農業起源と農耕社会」の結びで、森本が「縄文式では農業

の 有 無 の 解 決 が 目 下 の 問 題 で あ り、 弥 生 式 で は 農 業 存 在 の 仕 方 が 問 題 で あ る 」 と 説 い て い た こ と を、 「 今 に 至 る 透 徹 し た 卓 見 と い う

べ き で あ ろ う 」 と 高 く 評 価 し て い る( 第 九 巻 一 七 七 頁 )。 も っ と も、 そ の 時 点 で 森 本 の 脳 裏 を か す め た に 違 い な い 縄 文 農 耕 は、 お そ

らく晩期の西日本における農耕の存否であって、中期の中部高地のものではあるまい。藤森の縄文農耕論は、森本の発想の延長線上

にあるかもしれないが、むしろ八ヶ岳山麓における地道な調査の積み重ねのなかから生み出されたものである点を見落としてはなる

まい。 さらに、藤森は、 「昭和十二年、山内氏は、森本氏の縄文時代農耕存在説を激しく論難し、 『歴史公論』誌上に『現在では、縄文式

に農作物の存在の証拠がないことは、著明な事実である』と、きめつけている」 (第九巻一七七頁)ことに注目し、 「今日までの縄文

農耕存否論を、思考の型から、大きく二つに分けると、まず、肯定論は森本六爾型、否定論は山内清男型と大別して差支えなさそう

(五三)  

(20)

である。というよりも、それぞれ、この二つの原型の外に出ないといっていいだろう」 (第九巻一七八頁)とまでいって、 「縄文農耕

論における二つの原型」 (第九巻一七七頁)を設定している。

この原型論は、二人の先学の考古学観の反映であり、やがて『ひだびと』論争に発展する問題を孕むものであるが、藤森は山内清

男(一九〇二―一九七〇)の考古学の本質を「編年」 、森本六爾のそれを「文化構成」と捉え、今後の考古学は「編年から文化構成」

へと進まなければならないと考えていた(第九巻二〇〇頁) 。

藤森は、一九六九年刊行の『考古学ジャーナル』第三五号に「いつまで編年をやるか」を寄稿し、次のように主張した(第一五巻

三三頁) 。

編年いまだしの頃、学者は文化論を蛇蝎の如くきらった。大系いまだしの時、これももっともな次第であった。しかし黙認の

かたちの黙殺、意識あるなしに拘らず、これが学界のそうした動向に対する対策であった点に問題があった。――それは思いつ

きだ――とはきだすようにきめつける点に、研究者の勇気をくじく毒素があった。いま編年作業がほぼ完了に近く、古代史家や

その他の思想家たちが競って考古学の成果を利用して古代文化の編成に向う機運に遭逢して、むろん事実を資料としてあつかっ

た考古学者がやればいちばんいいにきまっているのに、一向にそうした冒険を試みようとしないのは、長い習慣よりくる勇気の

喪失である。

通 常 な ら ば、 も っ と も な 主 張 と し て 受 け 入 れ ら れ る よ う に 思 う が、 考 古 学 界 で は 反 発 が 強 く、 「 考 古 学 の あ る 限 り 」 編 年 を 続 け る

と応じた考古学者が支援されるような状況が現実であった。

いずれにせよ、藤森は、考古資料を用いて文化を再構成し、考古学による歴史を叙述したかったのである。それを八ヶ岳山麓にお

いて実践したのが縄文農耕論であったことはいうまでもない。

藤 森 は、 縄 文 農 耕 論 を 手 が け た 動 機 に つ い て、 「 自 分 の 専 門 と 思 っ て 疑 わ な か っ た 西 日 本 の 弥 生 式 文 化 的 風 土 か ら 離 れ て、 こ う し

て 山 国 の 明 け 暮 れ が 第 二 の 人 生 の 宿 命 の よ う に な っ て み れ ば、 目 の あ た り い っ ぱ い に 栄 え た 縄 文 中 期 の 文 化 の 本 質 を 追 っ て み る の

も、戦争から生きて帰れた命の、一つの存在の意義にもなりうるだろう。私は、あしかび書房が古本屋になるころ、ガラス戸の外を

流れていくリュック姿の買い出しの人の群れをながめながら、 こんなことを考えていたわけである」 (第二巻一七五頁)と述べている。

弥生文化の研究で鍛えた視点で、縄文中期の本質を解明したいと思ったというのであるが、縄文農耕論の可能性も問題点も、この動 (五四)  

参照

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︵4︶両ずの冒邑Pの.﹄四m 西ドイツ協約自治の限界論︵一︶ ﹀領域﹂に属するに至る︒ ︵名古︶

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