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海麓哩鷆灘輔蠅蝿菫讓淵糊撫淵擬鯉純雛

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−1.−

︲︺

!●︲︒︒●二■︲

〃児玉信栄︒彼の経歴はいまだ明らかにされてはいない︒この氏名が仮名

草子作者の一人として今に残るのは一千時万治ユ年配正月中旬児玉氏信栄書之﹂と執筆年月﹃:作者名を記す﹃何物語﹄と題した上句中の下各一巻三冊の書物を﹁寛文七年霜月吉日書林田中文内﹂から公にしたこ

とによる︒・・︐

この書物の内容は︑上巻が﹁志学之大目鐸誰蜂燐馳挺鍛哩﹂と﹁儒宗

之次第鯉験溌蕊錨躍蟻雛鎚雛嫉溌道﹂の二章から成り︑前章が﹁四書と

ハ・⁝﹂へ﹁五経とハ・⁝﹂︑﹁天地⁝﹂から﹁安楽⁝.﹂ま雪一十一項目を設けての儒教語彙の解説︑後章が﹁伏犠﹂から﹁朱喜﹂まで十八人の聖賢の

簡略な事績と生没年月日を誌し︑中巻が﹁言悔﹂の副題をもち︑﹁農夫﹂と﹁我﹂との儒数に関する啓蒙的問答である︒副題を添えたのは﹁いひてくやしとよむ︑鵬侭Xとヘバとてしらぬ理を語るまじき事なれども其愼なく

妄に答し悔を記す故なり﹂であると副題の下に注記する︒︐また︑下巻は﹁見

聞記﹂と題して﹁是ハ仮名書などにて見し事また人の語れるを聞し事を記

したる也﹂ど注記している通りに油︲﹁数量﹂︑﹁升分量﹂︑﹁四時異名﹂︑

あるいは﹁摂政関白の事﹂︑︲﹁和歌﹂︑﹁保元乱﹈︑﹁平治乱﹂●.と続き︑

﹁高麗陣﹂まで八十四項目に及ぶ多種多様な記事の集合である︒これらの

記事に関しては︑﹁右此一●篇は見し事間し事の眞妄をゑらハずして直に書付ける故我ながら猶不審の事のミ多し﹂と末尾に付記するp︽

γところで︑この書物を上・中の二巻だけであると仮定するとしたら︑そ

の内容か崎推して︑これはへ:例えば︑・林羅山の︲﹃春鑑抄﹄・﹃三徳抄﹄︑松

永尺五の﹁騨倫抄﹂といった啓蒙的儒教仮名抄に属する作品として分類さ

れることになるに違いない︒が︑実際は雑纂的な下巻が加えられているこ

とによって︑上・中一一巻のもつ儒教仮名抄という分類概念は明蜥性を失う結果になっている︒どれは最初から作者の意図しだことだっだのかどうか︑

I

I

﹃可川望.物語﹄の性格1

つまり︑この書物を書くに際して︑当初からこの書物の属す分類項を意識していたのか︑無意識であって結果的にこうなったのか︑という疑問を抱

かせるのである︒

だが︑この疑問を解く前に︑三巻のもつ記述内容の特徴を明らかにしておかねばならない︒その結果が右の疑問を解く手掛りを与えてくれるはず

だからである︒︲

おしへ仏咽ふとあり︵傍点︑傍線︑筆者︒以後同じ︒︶

この短い文章中にく⁝・とあり﹀の結びが二度使われている︒他にも︿と云

り﹀・︿と見えたり﹀︿となり﹀の形も使われ︑これらが頻りに現れるので

ある︒以上の結びは︑言うまでもなく︑他書からの引用であることを提示している︒右の︿⁝・とあり﹀が指示する引用の典拠を探るならば︑初めの 傍点︑

海麓哩鷆灘輔蠅蝿菫讓淵糊撫淵擬鯉純雛

︲︒T一︺〃︑︒・ト今口︑ご●●じて動ハ性の欲なりとあり﹂︵上巻︑項目側︶の場合︑直接に﹁書﹂l﹃礼

記営楽記の﹁人生而静天之性也︒感荊物而動性之欲也︒﹂が典拠であるのと同じに︑原典からの直接の引用を指示していると判断してよさそうに思える︒だが︑どの言述には﹃論語﹄からの直接引用の口調とともに︑﹃論

語﹄の注釈書などとい?つた書からの引用という口調をも聴くことができるのではないか・・そしで︑後者の口調は次の中江藤樹の﹃翁問答﹄中の四教 まず︑上・中の二に︑次のような文章

ぷんかうちう四教とハ文行忠

時い聖人作し給ふ経の

︲一一マーー﹄0戸﹄こり出て其実の道

︒一︶Q﹄〃﹄其言の実なるをい

・ふ21を文信kの巻

言 是蓉祭(二)

行は性に率ふ道の行ひナ 孔子の人脈激へ給ふ四の道なりとあ恥文ハ古の が頻りに現れるのに気づく︒ ︑例えば︑上巻の各項目の文章を読み進むうち

忠ハ己が心中よりお

昭和。61年2月

■ー 一一一マーー

(2)

−2−

三浦邦夫

㈱︶したが両者の﹁行﹂についての解説が傍線箇所にみるように﹁率ふ﹂と﹁したが

ふ﹂の漢字と仮名の相違はあるものの一致し︑﹁文﹂を﹁鏡﹂とする解釈

も藤樹が﹁文﹂を忠信行の﹁鑑﹂と論定するものと一致し︑﹁明徳﹂を明ら

かにすることを到達目的に説くのも同じである︒したがって︑後の︿⁝・と

あり﹀は右の﹃翁問答﹄の文章の引用であることを語っている︒とすれば︑

初めの︿⁝・とあり﹀も﹃論語﹄を意識に措くとともに﹃翁問答﹄の﹁孔門

のおしへ︑文と行と忠と信との四也﹂をも確実に意識に措いていたと言え

るだろう︒以上のことは︑︿・⁝とあり﹀の結びが指示する引用には原典か

らだけに限らず︑前記の仮名抄からも︑就中︑﹃翁問答﹄からの引用が存

外多いのではないか︑つまり︑﹃何物語﹄と﹃翁問答﹄との間の密接な関

連を暗示していることを意味する︒とすれば︑この関連の密接さを明らか

にすることによって﹃何物語﹄の性格︑作者児玉信栄の思想を窺い知る手

掛りを得ることができよう︒

そこで︑この密接さに的を絞って﹃何物語﹄を読むと︑﹁神理﹂﹁不測﹂

﹁天徳﹂﹁聖神﹂﹁悪聖﹂などの文字の使用に出会う︒これらの文字は藤

樹が﹃翁問答﹄で語った彼の思想の端的な表現記号であり︑特に﹁神﹂の文字は﹁藤樹好み﹂と評蝕沌︑﹃翁問答﹄執筆期の藤樹思想の形成に深く

かかわっている︒﹁儒道はすなはち皇上帝・天神地示の神道なれば::其神

道を欽崇して受用するを孝行と名づけ︑又至徳要道と名づけ︑また儒道と

名づく﹂︵下巻之末剛︶に﹁日本の神道の意味﹂ではなく﹁儒道を太虚皇

上帝の神道として説き︑この神道の受用を孝と呼ぶところに︑藤樹の体系の梯繊﹂が明瞭に提示されていることは既に和辻哲郎によって指摘されて

いる通りである︒﹃何物語﹄上巻の後章の注記﹁儒とハ天神地祇乃神道を

聖人述作し後世に伝へ給ふ道の名なり﹂という儒教理解は﹃翁問答﹄受容

を明確に物語る証拠である︒そこで︑﹃翁問答﹄受容の様相を﹁天徳﹂︑

﹁悪聖﹂の文字についてみるならば︑まず︑﹁天徳﹂は﹃翁問答﹄におい 一注恕信は根本なり︒行は幹梢なり︒ についての文章と対比して読むことによって一層増幅される︒

孔門のおしへ︑文と行と忠と信との四也・文は六経の文也︒行は性に したがふ道のおこなひなり︒忠信は自満の心根をたちすてて誠の道を求

明徳をあきらかにする工夫なり︒文は忠信と行との鑑ナ 此四に本・末・衡鑑の差別あり︒

︵下巻之本 ては五常の議論に集中的に使用されている︒

五常は天神地示の大徳︑人生の天性にて⁝・妙覚の仏性よりも一位まし

たる無上無外の天徳なり︒︒⁝それ仁は天神地示の人物を発育したまふ神道にして︑人間慈愛の神理なり︒⁝義は天徳の利にして︑人間果断の神理︑⁝・礼は天徳の亨にして︑人間恭敬樽節の神理︑⁝信は天徳の至誠︑

人間真実無妄の神理︑五常百行の根本にして︑.⁝智は天徳の貞にして︑

人間是非の霊明︑衆理を妙にして万理を宰する神理なれば::︑︵下巻之

末㈱︶﹃何物語﹄はこの見解を受容して︑

仁は天徳の元にして万物発育の神道人心の大徳愛の理なり⁝・義ハ天徳

の利にして人心の制断なり.⁝礼ハ天徳の亨にして人心恭敬の神理なり::

智ハ天徳の貞にして人心是非の明理なり.⁝信は天徳の至誠にして人心真

実無妄の理万行の根本なり⁝.︑︵上巻︑項目側︶

と述べている︒﹁亜聖﹂は﹃翁問答﹄下巻之末㈹と側に︑道学して見性成道する位に上中下の三段あり︒中行は聖人の下や亜聖

の大賢なり︒㈹

儒教には⁝.一段向上精一の神化あり︒此神化の後を聖人と名く︒⁝・此

神化の結胎純熟半なるを亜聖の大賢と名く︒中行位なり︒側

と藤樹は聖賢の序列区分を規定し︑また︑下巻之本㈹では︑

文武合一の明徳十分にあきらかにして才徳千万人にすぐれ︑神明不測

の妙用あるを聖人といふ︒三皇︑五帝︑禺︑湯︑文︑武︑周公︑孔子こ

れなり︒聖人に一等おとりたるを賢人と云・伊尹︑傅説︑太公︑召公︑顔子︑曽子︑子思︑孟子︑孔明︑王陽明など是なり︒

と具体的に説く︒﹃何物語﹄は以上の規定を受容して︑﹁聖人﹂︵上巻︑

項目⑤︶︑﹁亜聖﹂︵同⑥︶︑﹁賢人﹂︵同側︶と項目化し︑記載順序が

聖賢の序列を表すように配慮したのがわかる︒﹁聖人﹂を最上位に︑すこしたがい亜聖是は天徳に微の差ある故亜の字を加へて聖と云︒賢人是ハ亜聖の徳より猶劣りたる名なり但大賢と云ハ亜聖に同じ︒

と解説して︑この序列は﹁天徳の勝劣﹂︵上巻︑項目︑︶によって定まる

と説く︒受容概念﹁天徳﹂を適用しての解釈である︒そして︑この序列に

該当する聖賢に挙げる名も﹃翁問答﹄のそれと︑若干の出入りを除けば︑

同じである︒

秋田高専研究紀要第21号

,■■■■■■

(3)

−3−

「何物信吾」の性格

以上のような受容の様相は﹃翁問答﹄からの部分的な字句︑断章の引用

という段階を遙かに踏み越してしまっている︒﹃何物語﹄の作者は﹁志学之大目﹂の最後に﹁安楽﹂の項目を掲げているが︑彼の言う﹁安楽﹂とは

富貴安逸に住することを否定し︑﹁唯聖人の教に従ひ天道にかなふ﹂を言い︑﹁劇べき位︑食べき所︑くふべき時にかなふてくふ趣嗽脚し﹂とする

が﹁万事﹂であり︑これが﹁心学しての楽﹂であると説く︒そして︑彼の

言う﹁位・所・時﹂とは﹃翁問答﹄において﹁時と処と位とによくかなひ

て相応したる義理を中庸となづけたり﹂と藤樹が提示した﹁時・処・位﹂

概念の適用に他ならない︒この概念こそは藤樹思想の創意に満ちた特徴で

あるのは周知のことである︒さらに言えば︑﹁安楽﹂は藤樹の﹃翁問答﹄

改正篇最後の巻上丁亥冬での最終の問答の主題である︒﹃何物語﹄の作者

は﹁安楽﹂を説く︑その冒頭に︑﹁是ハ人皆聖人の道を学ぶときは貴賤と

もに必この安楽の徳を得る故志学の終に記す﹂と書くが︑﹁聖人の道を学ぶ﹂目的を﹁安楽の徳を得る﹂にあると規定したのは藤樹であって︑この

問答の中で﹁人間世︑第一にねがひもとむべきもの﹂は﹁心の安楽に極れ

り﹂と述べ︑その道を﹁学問なり﹂と言明し︑﹁学問をよくつとめ工夫受

用すれば本の心の安楽にかへる﹂と論定している︒﹃何物語﹄の﹁安楽﹂

は藤樹のこの安楽論の受容なのである︒﹃何物語﹄の作者が﹁故に志学の終に記す﹂と書いたのは右に述たようにこの安楽論が﹃翁問答﹄の最後に

置かれているのを明確に意識に措き︑これが﹃翁問答﹄で藤樹の提示した

︵注4︶思想の締め括りと解釈したことを語っている︒

如上の事実は﹃翁問答﹄を通じての藤樹思想に寄せる﹃何物語﹄の作者

の共鳴を感得させずにはおかない︒そして︑この共鳴は次のような言語使

用にも認められよう︒彼は﹁明徳﹂︵上巻︑項目剛︶を解説して︑

是ハ天理を明に我心に受得たる所也︒故に常に明かにして万事に應ず

るもの也︒但人欲に蔽はるれ︵明徳くらき時有︒然共其本躰の明あきらかなる故に学問工夫をなして其昏す所の人欲を戴蓋ときハ則本躰の明に くや學

徹る︒是大学の二調領の第一なり︒民を新にするも至善に止も先明徳の

明なるより初まると見えたり︒

と記述している︒この解説は﹃大学﹄経第一節の﹁親民﹂の﹁親﹂を﹁新﹂とする程伊川の説に依拠して﹁新民﹂と読む朱子の注に従って読んでお

晒叩ノ︑ 明徳者人之所得平天而虚霊不味︑以具衆理而隠万事也︒但為気稟所拘︑人欲所蔽︑則有時而昏︒然其本体之明則消朱曹息意︵﹃大学章

句﹄︶|γ

からさるの朱子の注釈にほぼ忠実に従っている︒が︑朱注には﹁克去﹂の文字は見当たらず︑また︑藤原慢窩の﹃大学要略﹄︑林羅山の﹃大学﹄概論書とも

言うべき仮名抄﹃三徳抄﹄にも見出すことはできない︒しかし︑﹃翁問答﹄

には︑ただ一回だが︑この文字が使われているのである︒そして︑この文字の使用は藤樹独特のものであったと言うことが悠謝︑その意味するとこ

ろは意志的実践性を強く主張している点で︑朱注との差異が認められ︑それはまた︑﹃何物語﹄の作者の︑﹁明徳﹂の解釈は朱注に従いながら︑朱注との相違の主張であり︑藤樹思想の軌道に沿っての解釈であることを意

味している︒

だが︑﹁意﹂の解説については︑その中にいささか目を惹く解釈の箇所が認められる︒藤樹は﹃大学考﹄において﹁意者万欲百悪ノ淵源ナリ︒故二意アルトキハ︑明徳昏昧︑五味顛倒錯乱出﹂と悪と規定している︒しか

し︑﹃何物語﹄の作者は﹁是ハ心の発して思慮念慮をなすを云意にハ善悪

の不同あり大学に欲正其沁渚洗誠鷲︲意とあるハ其心の発する所を実にすれば必其心正しとなり︒意の邪なるを私意と云なり﹂と記し︑朱注の﹁意者

心之斯聡也︒実其心之所曉︒欲撫其必自懐而自欺池︒﹂に従い︑藤樹や松永尺五の﹁意⁝.思ヒハカル心ゾ︒::心ヨリマッスグニ出ルヲフリチガヘテ︑

ワタクシニタクム心モチアルヲ云ナリ︒タトヘバ心ニョキトオモヘドモ︑欲ニヒカサレテアシ︑トイヒ︑悪キコトモワタクシニヒカレテョキト一念

ヨコシマ一三クヲ意ト申ナリ︒﹂︵﹃葬倫抄﹄︶の解釈は採らない︒この

点に作者が儒教思想を学習するに際して︑先学の思想の受容を取捨選択した姿勢が認められるのは注目してよいことであろう︒

しかし何と言っても︑﹃何物語﹄の﹃翁問答﹄受容の実態を明瞭に提示しているのは中巻の儒仏道についての問答である︒特に︑﹁農夫﹂の最後

の問い﹁儒仏の義に付︑常々我等行ひ申べき事を一紙に書付て下され候へ

かし﹂に対して︑﹁我﹂の書き与えた﹁二十箇條﹂の対構成の條目︑その

第一と第二にそれは象徴的に提示されている︒

仏法と云名をすて︑

昭和61年2月

(4)

−4−

三浦邦夫

神道と云名を覚えよ⁝:⁝1梵天帝釈と云名をいばずして﹄︽

天皇上帝と云名をいへ.⁝.⁝②・:

第一の対の﹁神道﹂は藤樹の規定した﹁儒道﹂の意味であるのは言うまで

もない︒第一一の対の﹁天皇上帝﹂は﹁太虚皇上帝﹂の語で﹃翁問答﹄・に使われ︑宇宙の根源的生命力の天を意味して︑人格神化して天を捉えた藤樹思想を象徴苑¥一鶏

そして︑/i﹃何物語﹄・の作者が﹁神道﹂﹁天皇上帝︺を儒教の象徴語とし

て就中︑排仏の象徴的意味を担わせて使っていることは右の二つの対の

條目から瞭然としている︒﹁太虚皇上帝﹂が﹃翁問答﹄の問答の中で現れてくるのは釈迦I狂者の規定に関連して展開される儒仏論の箇所において

である︒したがって︑﹁天皇上帝﹂の語は﹃翁問答﹄の儒仏論が﹃何物語﹄の排仏論に受容された事実の疑いのない指標たり得るのである︒

.そこで︑その受容の実態を言えば︑﹃何物語﹄の作者が主張する排仏の

論拠の一つは?仏教が﹁無実の作事﹂の上に成立している点にある︒例え

ば︑﹁たうとき神道はおとろへいやしき仏法の繁昌すること不審に存候﹂

と問う﹁農夫﹂に答えて︑

尤仏法も深ぐ経文の理に至て一心の工夫などする事ハさのみ儒道に劣・●●●●●る事ハなきやうに聞え候︑しかれども無実の作事多く殊に其作法天理に

・そむいて人外の修行をするによって聖人の道よりハいやしみ申事なり彼

法日本に来し比是を国土にひろめんための方便に色々作言を説き或は木

像絵像の仏体より光をはなつ怪術をなし或は金紙金泥の仏経など土にう

づみ年経て是をほり出し人に奇異の信心をさせ又或時ハ太神宮の御宮中に推参して神託と号して仏文を述神道仏道一味のやうに云ぐみ弱か類其

数多し︒

と﹁方便﹂の﹁作言﹂︑﹁怪術﹂︑﹁奇異﹂︑﹁云くらます﹂などの﹁無

実の作事﹂を数え上げ︑仏教の詐術性を指弾する︒﹁作言﹂の語は︑さら

に︑

我も人も死後の事おぽつかなく思ふものなり是によって近来仏者其迷

ひたる凡夫の心をうか今︑ひ見て︑種々の作言をなして釈迦の教法なりと

号して人を証かす⁝・祖又仏法を頼れば死して地獄と云悪所に生れて⁝・夫

々の苦を見る義なりとおしへらるる事悪をいましめんためとハ云ながら 無実の作言にしてよからぬ仮説なりの具合に頻出する︒そして︑この語こそ﹃翁問答﹄で藤樹が仏教批判の論拠にした語であっ煮・

︿かたいぢにひがみたる沙門仏学ばかりをきはめて⁝・仏道より上なる道

なしと自満十分なるによって︑儒者の仏法を斥るをいかりて我慢の邪心甚しけれ共︑|道理のさたにて云かつべき覚悟なきによってつぐ恥ごとを

して釈迦におふせて儒者の斥るをふせぐものなり⁝.浅ましきつくりごとをして釈尊をへをい比丘とすること︑誠に釈尊の罪人なるべし︒さてそ

凸隅¥︿︾一︾00﹄のつくり言のすじなき子細は::釈尊の仏力をもて仏弟子を大唐へ遣し孔

子と化身させめされたるなどといへるは片腹いたきつくりごとなるべし︒

⁝・惣じて仏書は皆寓言にてかきたるものなり︒その愚民をたぶ弓かす寓言の筆法をならゐて儒道をしりぞけんとおもへる沙門の心根おろかにいと浅まし・それのみならず︑我慢の邪心ふかくて種々のつくりごとをな

し⁝恥︐︵下巻之末側︶

﹃林氏剃髪受位弁﹄での初期の排仏論を経て︑﹃翁問答﹄執筆期にあって

は︑藤樹は釈迦を﹁道の皮膚をみて︑いまだ骨髄をよくさとらざる﹂﹁狂者﹂と規定することによって︑儒教の範蠕に包摂する考えを示して踊都が︑

釈迦末流へは厳しい批難を浴びせている︒その論拠が﹁つくりごと﹂﹁寓

言﹂による詐術性なのである︒﹃何物語﹄の排仏のもう一つの論拠は︑

仏法ハ無実の理を元として儒道の力をかりて作りたる法なり

という点である︒これも﹃翁問答﹄の︑

一らが:ママ︶或は儒書の文義の皮膚ばかりをまなび︑骨髄の理味をぱ露もさとせず

︵下巻之末剛︶︐

を受容した結果の論拠である︒つまり︑この排仏論は﹃翁問答﹄の仏教批難の視座を受容し︑それに従ったものなのである︒したがって︑仏教の成

立に関しても︑﹁天竺と云ハ::開悶より以後終に聖人出給ぬによって天神地祇の神道の本意を失ひ万人まよひ常闇の代なりし﹂故に﹁迷ひたる凡夫

の悪行をこらし︑善行をすすめ給はんための慈悲の方便﹂に釈迦が﹁仏法﹂を立てたとする見解も︑﹃翁問答﹄の﹁天竺には終に聖人一人も出たまはず八開關より釈尊の時分までやみのよの戎國﹂であって︑﹁元来釈迦・達磨の法を立めされたる心根は衆生のまよひてあさましきていをあはれみか

なしびて⁝・勤善懲悪のため﹂︵下巻之末側︶であるとの解釈に従ったもの

秋田高専研究紀要第21号

(5)

−5−

「何物語」の性格

であるのは当然と言うことになる︒

だが︑ここで留意しておくべきことは︑﹃何物語﹄の作者が﹃翁問答﹄

に提示された藤樹の思想を受容したということがその受け売りを意味して

いるわけではないことである︒彼は終始受け売りではないという姿勢をと

る︒この姿勢については︑﹁意﹂の解説について言及した際︑藤樹の解釈

は採らずに朱注に従い︑そこに彼の儒教思想受容に際しての取捨選択とい

う主体性の主張が認められることを指摘したが︑この排仏論にも︑藤樹の

批難は︑釈迦末流の仏教の在り方に向けられ︑釈迦は﹁すぐれたる狂者な

れば︑聖人にあひめされたらば︑かならず中庸精微の密に悟入して中行の

位に至めさるべし﹂︵下巻之末側︶と評して儒教に包摂するのに対して︑

彼は仏教そのものの排斥を主張し︑﹁儒道はたっとく仏道ハいやしき法﹂

﹁邪法﹂と難じ︑朱子の﹃大学章句﹄序の﹁異端虚無寂滅之教︑其高過於大

﹀扉而鉦嘆﹂を論拠に﹁仏法を異端虚無のおしへなりとて賢人そしり絵ぷ事をしるなり﹂と断じて︑主体的な選択の姿勢をとっているのである︒

こうした姿勢は神道理解に明瞭に現れている︒﹁神道﹂I﹁儒道﹂とい

う藤樹の規定を受容しつつも︑﹁農夫﹂の﹁神道﹂についての問いに答え

て︑﹁日本の神道なり﹂と述べ︑﹁今神道と申すハ天照太神の御法なり﹂

と断定する︒﹁神道﹂に思想としての儒道と日本古来の宗教としての神道

との二重の意味を彼は与えているのである︒この論拠は﹁此御神則天神地祇の神理を其まま御身に具足して化生し給ふ故に﹂と説明されているが︑

この説明は︑

國所︑世界の差別いる/︑様々ありといへ共︑本来みな太虚神道のう

ちに開關したる國土なれば︑神道は十方世界みなひとつなり︒しかるに

よりて國隔りぬればことば風俗はかはるといへども︑その心のくらゐは

本来同一体の神道なるによりて︑唐土も天竺も我朝も︑またその外ある

とあらゆる國土のうちも毛頭ちがふことなし︒︵下巻之末㈹︶

とする藤樹の見解に基づきながらも︑これを︑

神道儒道仏道などとて人間の行ふ道にかハリある事ハ三國の法の差別

なり︒根本天神地祇の神國にして一國一理なれども其國々に始て生じ給

ふ御神を元祖として末々に至て其國法をたて給ふ所より名のかハリありと見えたり

と解釈したことによっている︒藤樹が具体相のもつ差異の根底に普遍的同 一性を注視するのに対して︑﹃何物語﹄の作者は具体相のもつ差異性に力点を置いているのであって︑この相違が藤樹の﹁神道﹂観を核にしつつも︑

﹁日本の神道﹂の意味をも求める方向に進む分岐点であることが分かろう︒ただ︑巨視的に観るならば︑﹃何物語﹄の神道論は当時の神・儒双方からの習合の風潮の中での儒教側の神道承認という枠組みを出ていないと言うことができ︑この枠組みは︑また︑﹃翁問答﹄執筆期の藤樹にも該当する

一面を認めることができる︒﹁日本の神道の礼法に︑儒道祭祀の礼にあひかなひたることあり︑其上三社の神託の意義︑儒者の神明につかふまつる心もちによくかなひぬれば︑本朝は后穆之窟なりといへる説まことに意義あることなり︒﹂︵下巻之末側︶の﹃翁問答﹄の言説は﹁儒教と神道との

礎浬いふ時代的な傾向が響き込ん言るであう.﹂という和辻哲郎の指摘はその証左の一つであろう︒さらに言えば︑藤樹は﹃翁問答﹄執筆の翌年夏

﹁二三子トトモ一勢州大神宮二参詣﹂する︒それは﹁士庶人モ亦神ヲ祭ルノ礼アリ︒然ラバ則チ神二詣スルコトモナクンバァルベヵラズ︒且︑

大神宮ハ吾朝開關ノ元祖ナリ︒日本二生ルゞ者︑一タビ拝セズンバァルベカラズト︒﹂という考えに到ったからであった︵﹃藤樹先生年譜﹄三十四歳の項︶・藤樹のこの参詣に呼応するかのように︑﹃何物語﹄の例の二十箇条の一つに﹁高野山への参詣を止て/太神宮へまいれ﹂があって︑藤樹

の太神宮崇拝参詣の思想の受容を推量させる︒したがって︑﹃何物語﹄の

神道論は藤樹思想の内含していた神道についての観念が︑神儒習合の風潮

を触媒にして顕在化すべくしてしたものと観ることもできるかもしれない︒

しかし︑こうした枠組みの中にあっても︑少なくとも右で述たように︑﹃何物

語﹄が﹃翁問答﹄からの一方通行の受容ではないことは了解できるであろう︒

こうした一方通行ではない受容の例をもう一つだけ挙げておきたい︒ど7しよむまれLづかかんうごくよく是ハ性の動なり書に日人生て静なるは天の性物に感じて動ハ性の欲なひんきどあいノ§あいお卜す︑りとあり亦是に七品あり喜怒哀權愛悪欲なり人よろこぶべき理によるご

率縄いかる妙嘩おぞる蛾蝉にくむねがふ

びいかるべき理にいかりかなしむべき理にかなしミおそるべき理におそれあわれむべき理にあわれミにくむべき理ににくミねがうべき理にねが

十勺〃︑心の〃︑ふ是情なり性中より直に出る欲なり故に其理善なり悪なる欲を︵情とハ

しよくいはずして私欲と云とあり︵上巻︑項目側︶これは﹁情﹂についての解説だが︑冒頭の﹁性の動なり﹂の規定は︑例え

昭和61年2月

一ヨシ屯三一争己ェ 一一・一ー6−

(6)

−6−

邦夫

ジヤウジャウセイぱ︑﹃葬倫抄﹄には﹁ウゴクハ情ナリ︒﹂︵心の項︶︑﹁情トテ性ノウゴ

ロトコロク所セッアリ︒﹂︵情の項︶と説くが︑この言説は陳北渓の﹃性理字義﹄の﹁情﹂の﹁情者︑性之動︒﹂に基ついて蠅種︑﹃何物語﹄は直接に﹃性

理字義﹄のこの規字に従ったとみられる︒と言うのは︑﹃何物語﹄の﹁心﹂

9しか琴ごい︵上巻︑項目⑭︶の解説﹁是ハ蹄一徹を部て一身の主宰たる者也人ハ天地の

理を得て性とし天地の気を得て躰とす其理と気と合して心をなすと有﹂が

﹃性理字義﹄の﹁心﹂の規定﹁心者一身之主宰也﹂と﹁大抵人得天地之理一

為性︒得天地之気為聯︒理置春方成箇心﹂をそのま︑に採ったことが認二一か工手れ︲峰つかめられるからである︒またこれに続く﹁書に日人生て静なるは天の性物にかんうごク︑よ〃︑.感じて動ハ性の欲なり﹂はHで既に指摘したように﹃礼記﹄楽記に依拠北示そして︑七情の解説は﹃一二徳抄﹄の﹁詠室﹀・怒︿喝﹀・哀奪﹀・擢 一︐JO

Tフク﹃.旬〃︿喝﹀・濁へ湖﹀.悪く三・欲︿崎﹀ノセ情トテセッノ心アリ︒⁝・道理

ニカナヒテョロコプベキ時ハョロコビ︑イカルベキ時ハイヵリ︑悲シムベ

キ時ハカナシミ︑權ルベキ時ハヲソレ︑イトヲシムベキ時ハイトヲシミ︑

︵注Ⅲ︶ニクムベキ時ハニクミ︑欲スベキ時ハホッスベシ︒﹂の説明に従い︑﹁悪

なる欲をぱ情とハいはずして私欲と云とあり﹂は﹃葬倫抄﹄の﹁過不及ナ

キヲ情卜云う︒過不及アルハ情ニテハナキナリ︒私欲ト云モノナリ︒﹂の

解釈に従っている︒羅山は朱子学の見解に従って﹁七情ニハ善卜悪トアリ﹂

︵﹃三徳抄﹄︶と言述しており︑﹃葬倫抄﹄のこの解釈は朱子学の見解に

従ったものではない︒したがって︑﹃何物語﹄はこの箇所は尺五の解釈を

採ったのである︒ところで︑﹃何物話﹄の作者は﹁五経﹂を解説した記述

の中で次のように言っている︒

大学をよみならふにも及がたきものハ近代日本にて名儒者のかき給へ

る春鑑抄三徳抄葬倫抄翁問答などのやうなる仮名がきの書を見たるがよ

し皆是四書五経の理をやはらげて見よく聞易やうに書たまふ書なり

彼のこの言葉は儒教初学者に向けての親切な入門書紹介の意図を語ってい

るのだが︑﹁情﹂の解説の記述のみならず︑これまで指摘してきた﹃何物

語﹄に認められる右の引用で彼が挙げた仮名抄からの受容の実態をみれば︑

この言葉で彼は自身の儒教学習の実状l﹃論語﹄︑﹃大学﹄︑﹃礼記﹄︑

﹃大学章句﹄︑﹃性理字義﹄などの学習は勿論のこと︑入門書と彼が言う

仮名抄をも︵そこに提示された思想の差異にかかわらず︶貧欲に学び受容

していることを思いがけず洩してしまったのを知ることができる︒そして︑ こうした学習にあって︑﹃翁問答﹄の思想に共鳴し感化されると同時に︑彼が学習した諸書から彼なりに取捨選択し︑﹃翁問答﹄を基盤に︑取捨選択した見解をそれに組み込んで︑独自の儒教思想を形成しようとする意欲の表れを︑ここまでの指摘から︑読み取ることができよう︒その思惟の未成熟︑その論理の不整合は認められるにしても︒

この独自性への志向が具体的な形をとって提示されたのが儒教の葬祭の

礼法についての見解であろう︒排仏論を展開したその終着点としてへ仙﹁農ぃ夫﹂との間に交わされる︑これは問答である︒﹃何物語﹄の作者は抑仏論

の後に要請されるのが仏教の葬祭の仕方に替わる儒教の葬祭の礼法であり︑それが当然の論の道筋だと考えたからに相違ない︒儒教の葬祭の礼法に関

しては﹃春鑑抄﹄﹃三徳抄﹄には一切記されていないし︑尺五が僅かに﹁冠

・婚・葬・祭ノ礼ヲ儒道ヲ以テ行ハ寺︑︑イョイョ人ノ心モハヤク道ニス︑

ムベキナリ﹂と﹃葬倫抄﹄の最後に述べ︑﹁此葬祭ノ礼︑日本ニハナキュ

ヘニ︑皆仏法ヲ以テ行ハル︑也︒此四礼ヲ儒道ノ法ヲ以テ行﹂われるなら

ば︑国民の教化︑﹁國家富貴安全﹂になる︑と説くに過ぎない︒また︑﹃翁

問答﹄には先に触れた神信仰の問答が載っているだけである︒ただ︑藤樹は﹃孝経啓蒙﹄において︑﹃孝経﹄が説く葬祭の礼について︑これを注釈

しているが︑﹃孝経啓蒙﹄には文献上の問題があり︑これに関しては﹁﹃孝経啓蒙﹄の諸問題﹂︵加地偲唾に詳細を譲るが︑これによれば︑﹃何物

語﹄の作者は﹃孝経啓蒙﹄の存在を知らなかったか︑あるいは知っていて

も︑覧ることができなかった︑と推測される︒したがって︑儒教の葬祭の

礼法についての記述は﹃何物語﹄の作者の独自性の主張の提示と見倣すこ

とができるのである︒

今︑その独自性を明らかにするために︑彼の説く葬祭の礼法を掲げれば︑

例えば︑﹁農夫﹂が﹁葬﹂の﹁礼法のやう﹂を問うのに答えて︑

我等ごときの賎民は諸礼ともに其法にあたる事ハ叶ざる義なれば大名の葬礼の法を︵しらでもくるしからずただ貧賎のものハ其死者の一族寄しかばねあつまりて其戸をよく取かくして.⁝哀痛の実を尽すを礼の本として担撰

はその人の貧富に随ひ作法行義はいかやうなりとも定たるがよし

と述べ︑﹁年忌﹂を﹁祭る﹂には︑の問いには︑高位の御方ハ儒者におほせて其祭礼を行たまひたるがよし各我等がご

ときの貧賎のものハ仮一飯の手向をなさずとも孝志深く敬をなしてまつ

秋田高専研究紀要第21号

(7)

−7−

「何キ娠吾」の性格

りたるがよし

と説く︒これらの答えで注目すべきは︑﹁我等ごときの貧賎﹂の礼法を説

くことに目的が置かれている点である︒﹃孝経啓蒙﹄においては﹁貧賎﹂

の葬祭の礼法にまでは藤樹の注釈の筆は及んではいない︒この葬祭の礼法

の見解が作者の学習の独自の成果であることは︑例えばか﹁賎民﹂の﹁葬﹂

の説が︑﹃論語﹄先進の︑顔回の死に際しての﹁門人欲惇葬芝︒子日不可︒門人厚蕊篭︒﹂を引いて︑﹁此心は顔回が賢名は類なしといへども家まづしきによってなり︒貧して厚く葬るは理にかなハずとの御事なり﹂という

見解に基づいているのだが︑これが﹃論語集注﹄︵朱子︶の﹁貧而厚葬︑

祁猫理也︒﹂に拠っていること︑また︑﹁年忌﹂を﹁祭る﹂礼法の説も﹃論

語﹄為政の﹁子日︑生津Z以靴︑死葬之以礼︑祭之以礼﹂と︑﹃礼記﹄王制

vじけし

の﹁喪従花者一祭従塗者﹂を論拠にしていることによって知ることができる︒つまり︑﹁貧賤﹂﹁賤民﹂の葬祭の礼法の説は直接に原典の右の箇所

を学習した結果として︑これまでの﹃翁問答﹄や仮名抄を受容しての記述

とは対礁的に︑ここに提示したと解釈しうるであろう︒

以上へ上巻か中巻の記述内容の検討を通じて︑﹃何物語﹄の﹃翁問答﹄

を介した藤樹思想の受容とその様相感及び︑﹃三徳抄﹄︑﹃葬倫抄﹄の仮

名抄の受容の様相︑そして︑ごれらの書からの受容が語る﹃何物語﹄の作

者の儒教学習に対する姿勢とを明らかにしえたと考える︒

しかし︑世に無名の作者が何故この書を公にしようとしたのだろうか︒

と疑問を抱くのも︑この書が︑端的に言えば︑作者の学習の過程における︑

その手控えを整理したものという性格の記述といった印象を与えるからで

ある︒そして︑この疑問への答えを得る手掛りに︑次の事柄を指摘するこ

とができると考える︒

四#一・︲

﹃何物語﹄が上巻に﹁志学之大目﹂と﹁儒宗之次第﹂の章を設け︑前章

二十一項目︑後章十七項目を各々立てて︑これに簡潔な解説を試みている

ことは既述した︒これから指摘する一つはこの項目立ての発想についてで

ある︒﹃何物語﹄上巻︑中巻の記述が﹃翁問答﹄︑﹃三徳抄﹄︑﹃葬倫抄﹄

を典拠とした箇所が多いという事実を踏え︑この項目立ての発想の契機を

考えるとき︑﹃葬倫抄﹄.の記述の仕方に注目しなければならない︒︲﹃葬倫

抄﹄は︑例えば︑五常の解説を︑﹁五常トハ︑仁・義・礼・智・信ナリ︒﹂

トハ⁝.︒﹂と記述していく︒あるいはまた︑﹁儒道ニハ先ヅ命・性・心・

情・意ノ沙汰ヲ仕ルナリ︒﹂とあって︑﹁命トハ・⁝︒﹂﹁サテ性トハ・⁝︒﹂

﹁サテ心卜云ハ⁝.︒﹂﹁又情トテ..:︒﹂﹁又意トテ⁝.︒﹂と記述してゆく

仕方を採っている︒儒教概念語をまず﹁トハ﹂で提示し︑次いでその解説の記述に筆を進めるのである︒啓蒙を目的にしたF1トハ⁝︒︒﹂の﹃葬倫抄﹄のこの記述形式は﹃何物語﹄における項目の記述形式︑例えば︑﹁四

書トハ・⁝︒﹂と軌を一にする︒しかも︑﹃何物語﹄が採り上げた項目のうち︑﹁命﹂﹁性﹂﹁心﹂﹁情﹂の項目と記述順序とは﹃葬倫抄﹄が扱ったのと全く一致しており︑その解説の文章もまた﹃葬倫抄﹄の右の語の解説の文章を典拠にした箇所が認められることは︑例えば︑前章の﹁情﹂の解説について言及した際︑指摘した通りで姥馳︒ところで︑﹃葬倫抄﹄が取

り上げた語は﹃性理字義﹄所収の項目から採っており︑その記述も↓﹃性理

︵注胸︶q

字義﹄に拠っていることが玉懸博之氏によって指摘されているそしてまた︑﹃何物語﹄も﹃性理字義﹄に基づく所のあることは前章で述べた通り

である︒と言うことは︑﹃何物語﹄の作者には﹃葬倫抄﹄が﹃性理字義﹄を受容して成った仮名抄であることは十分に推察できたはずであり︑かつまた︑﹃葬倫抄﹂が﹃性理字義﹄所収の項目の語をどのような形式で記述しているのかを明瞭に知ることができたはずである︒したがって︑以上の

こうした事実に基づけば︑︲﹃何物語﹄の項目立てとその記述形式との発想

は﹃葬倫抄﹄から得たのだと判断するのが筋道であろう︒また︑﹁儒宗之次第﹂の記述は羅山の﹃童観抄﹄︑の﹁道統ノ次第﹂に

拠っている︒︿伏犠←神農←黄帝←唐尭←虞舜←禺王←湯王←文王←武王←周公旦←孔子←顔回←曽子←子思←孟子←程明道←程伊川←朱喜﹀の項目が﹃童観抄﹄の︿伏義←神農J黄帝←尭帝←禺←湯←文王武王←周公←孔子←曽子←子思孟子←︵周茂叔︶←程明道程伊川←︵場亀山謝上察←羅

仲素←李延平︶←朱文公﹀の道統の次第に拠り︑その事績の叙述も勿論﹃童観抄﹄に拠って峰馳︵﹃何物語﹄では周茂叔を程明道の項目の中で﹁学を

周茂叔と云人にうけ﹂と触れ︑場亀山から季延平までは除き︑代りに顔回

を入れる︶︒さて︑次は︑中巻の問答体についてである︒仮名草子にあっては︑﹃清

水物語﹄以後問答体が叙述形式の一つとして採られてきた︒﹃何物語﹄中

昭和61 年2月

画、一ー

一一一=ーー−,一一●一一一一 句■凸一 LL−戸■■■■一

(8)

−8−

三浦邦夫

巻の問答体は当然この仮名草子の叙述形式を継承したものとしての位置を

占めるのだが︑﹃何物語﹄の作者が問答体という形式を採択した直接の契

機を求める場合には︑﹃翁問答﹄受容という事実を無視するわけにはいかな

い︒

﹃翁問答﹄が師天君と門下生体充との間で交わされた﹁人倫日用の受容

のたより﹂としての儒教に関する問答体であるならば︑﹃何物語﹄は我と

農夫との儒教に関する問答体において︑各々の記述形式は軌一する︒﹃翁

問答﹄が﹃何物語﹄の作者にとって最も身近な共鳴する存在であったから

には︑両者の右の軌一は﹃何物語﹄の問答体は﹃翁問答﹄に学んだ形式に

他ならないことを意味している︒

両者の人物設定を取り上げてみると︑体充が俊秀な学問探求者に設定さ

れているのに対して︑一方は農夫として庶民そのものであり︑学問探求と

はおよそ縁遠い人物設定である︒この点に﹃何物語﹄を書き公にしようと

した作者の意図を窺うことができはしないだろうか︒問答の内容が農夫へ

の儒教啓蒙を目的とした解説であり︑儒仏論︑就中排仏論を中心にして︑

儒教による﹁貧賤のもの﹂のための葬祭の礼法を説くことは︑庶民の日常

生活を大きく規定している仏教に替って︑庶民の日常生活に最も密着した

形で文字通りの儒教を啓蒙することに狙いがあった︒そこには藤樹が﹁人

倫日用の受用のたより﹂として儒教を﹃翁問答﹄で語ろうとした意図の受

容があることであり︑問う人としての農夫は︑こうした意図に恰好の実質

的な人間像であると言えるだろう︒そして︑﹃何物語﹄を読み返してみる

ならば︑この意図が際立って現れている箇所があるのに気づく︒先にも引

用した︑

大学をよみならふにも及びがたきものは近代日本にて名儒者のかき給

へる春鑑抄三徳抄童観抄葬倫抄翁問答などのやうなる仮名がきの書を見

たるがよし︒皆是四書五経の理をやはらげて見よく聞易やうに書きたま

ふ書なり︵上巻︑項目②︶

彼がこれを書いた意識に沿って読めば︑彼が挙げた仮名抄は﹁仮名がき﹂

であることに意義がある︒それと言うのも︑﹁四書五経の理﹂を初学者の

ために﹁やはらげて見よく聞易﹂く配慮した︑そのことのゆえに︑という

意識であろう︒彼はこれらの仮名抄の啓蒙性を自分の学習を通じて十分に理解できたのである︒この彼の意識には︑今︑自分が書いているものがこ れら仮名抄と同じ意味と意義を持つという意識も同時に明確に措定されていたことは疑いないことだろう︒上巻︑中巻を書いた彼の意図は彼の言う﹁近代の名儒者﹂に倣って儒教啓蒙の仮名抄を書くことにあった︑可能ならばこの仮名抄でこれら仮名抄に伍してみたいという意欲を潜めていた︵彼のこの書での独自性の主張はその意欲の現れであろうから︶︑と言うことができる︒

さて︑最後は﹁見聞記﹂の副題をもつ下巻の性格を検討することである︒

既述のように︑この巻は多様多種の記事の集積という雑纂性をもつ︒それ

を敢えて分類してみるならば︑ほぼ次の七分類になろうか︒すりやうますでん忠くの仙数と度量衡の呼称と単位についてl﹁数量﹂・﹁升分量﹂.﹁田畠分

量﹂など八項目︒しいじのいミやうかん②時についてl﹁四時異名﹂・﹁五節句﹂・﹁十幹﹂・﹁十二支﹂など

二十一項目︒やう綴く側神儒仏についてI﹁天照太神﹂・﹁楊墨﹂・﹁仏法乃日本へ渡りしは

︒⁝﹂など八項目︒側官位についてl﹁摂政関白の事﹂・﹁月卿﹂・﹁官と位と相当なれば

⁝・﹂など十一項目︒

⑤文字︑和歌についてl﹁和歌の道ハ・⁝﹂・﹁折句﹂・﹁紀貫之﹂など

十二項目︒

㈲武将の官位と生没年について五項目︒

︑合戦について二十一項目︒㈹と㈲の項目の出典は今明らかにできかねるが︑②と側と㈲の項目には

︵也胴︶﹃増嚢妙﹄出典の記事が多いのを知る︒㈲と例は︑例えば︑﹁尊氏﹂を扱

って﹁太平記にて見たるに﹂の記述が語るように︑各種の合戦記を参照して抜き書きしたものである︒これらの記事は自ら述べているように﹁仮名書などにて見し事﹂を﹁記したる﹂ものに間違いはない︒つまり︑これら

は︑記述内容から判断して︑自分の知識上の関心のままに諸書から抜き書き︑整理しようとした︑謂わぱ手控えとでも言った印象を強く与える︒こうした意味で︑私的な性格を帯びた記事の集積という感は否めないのであ

一︿︾︒

そこで問題は︑こうした性格の下巻を公にしようとした意識︑しかも︑

秋田高専研究紀要第21号

(9)

−9−

「何キ娠吾」の性格

上巻︑中巻の仮名抄としての完結した性格︵I枠組み︶を壊してまで異な

る性格の巻を加えて一つの書物として編んだ意識は一体いかなる意識なのか︑ということである︒そして︑この問いに答えることが冒頭に提出して

おいた問いに答えることになるはずであると考える︒

下巻のもつ性格を私的な手控え的なものと言ったが︑各記事の内容について言えば︑初学者向けの知識といった程度を出ない︒早くは︑﹃口遊﹄

︵源為憲著︑九七○年︶がもつ年少者の学習の便宜︑手引きという意図と︑

その意図の点で︑繋る類の性質のものであり︑記事の内容面でも︑それに

類するものである︒特に︑分類⑥といが武将と合戦の記事であるのは︑あ

るいは︑作者が読者を武士階級の年少者に想定していたのかもしれぬことを憶測させもする︒また別の観点に立てば︑分類側から例を見て判るよう

に︑﹃重宝記﹄的な性格をもつとも言えるのである︒つまりは︑年少の初

学者のために基本的日常的知識の提供を目的に集めた記事で︑それは簡便

な事典的な性格をもつということになろう︒

そこで︑﹃何物語﹄上︑中︑下の各巻を︑これまでの考察に基づいて︑

総体一つの書物としてその性格を規定しようと試みるならば︑次のよう

に言えるのではなかろうか︒

上巻と中巻の儒教仮名抄の性格と下巻の初学者のための基本的日常的知

識の学習の簡便な事典的性格との複合した性格であると︒

このように複合的性格として把握するならば︑上巻と中巻も︑上巻が儒

教語彙の解説︑中巻が儒仏神の問答︑と各々記述形式を異にし︑上巻の﹃葬

倫抄﹄に倣った記述形式︑中巻の︐﹃翁問答﹄に倣った記述形式という先行

の儒教仮名抄のもつ二つの記述形式の複合体として把握できる︒ただし︑上巻と中巻が儒教仮名抄という共通項で括れるのに対して︑下巻はこの

項が適用できないことで︑異なった性格の複合体という特徴を際立たせる︒

しかし︑この顕著な複合性を一つに統べ括る力が強く働いている︒︲それは作者の啓蒙意識に他ならない︒啓蒙という意識を網にしてなしえた複合化

である︒啓蒙意識こそが異った性格の巻を統括する力学である︒

そして︑この強い啓蒙意識が儒教仮名抄としての完結性を突き破り︑儒

教仮名抄という分類意識を押し退けて︑各巻︑就中ふ上︑中巻と下巻とを

一つに組み合せて編むという形態をとらせる結果に導いたのだと言うこと

ができるのではなかろうか︒ ︵1︶﹁日本思想大系別﹃中江藤樹﹄﹂︵岩波書店︑一九七四年七月刊︶

所収の﹃翁問答﹄による︒以下も﹃翁問答﹄からの引用はこれに従う︒

︵2︶﹁日本思想大系的﹃中江藤樹﹄﹂︵岩波書店︑一九七四年七月刊︶

所収解説︵山下龍二︶三八二頁︒

︵3︶和辻哲郎著﹃日本倫理思想史﹄︵岩波書店︑昭和二十七年刊︶下巻第四章﹁江戸前期の民間の儒学﹂四○七頁〜四○八頁︒

︵4︶﹃翁問答﹄には慶安二年板と同三年板とある︒﹃藤樹先生全集﹄三の解題によると︑慶安二年板←天保二年本㈲︑天保二年本⑧の系統と︑慶安三年板←同四年本←万治二年本の系統があり︑改正篇は慶

安三年板系統と天保二年本㈲︑⑧に収められているのが知られる︒したがって︑﹃何物語﹄の作者は︑この作品の成立年万治二年から

推して︑慶安三年板か同四年本を読んだことになる︒

︵5︶﹁克去﹂の用例は﹃大学蒙註﹄︑﹃論語解﹄︑﹃中庸続解﹄にも見

出す︒○格物ノ功ヲ励ミ︑攪雑ノ意欲ヲ克去トキハ︑純粋精一ノ至善二復

ル︒︵﹃大学蒙註﹄︶

○私欲二克去テ本体呈露スレバ凡心即仁ノ本体ナリ︒︵﹃論語解﹄

顔淵篇︶

●子●此○人欲ヲ克去テ良知二致ルトキハ︵﹃中庸続解﹄︶

この用語は藤樹思想の実践性を特徴づけるであろう︒﹃何物語﹄の作者は︑あるいは︑﹃翁問答﹄以外の藤樹の著述に接していた可能

性を︑この用語の使用は推量させる︒

︵6︶注︵2︶と同︑三五九頁〜三六○頁︒

︵7︶注︵2︶と同︑三七三頁〜三七五頁︒

︵8︶︲注︵3︶と同︑四○八頁︒︵9︶﹃葬倫抄﹄が﹃性理字義﹄に拠っていることは玉懸博之氏が﹁松永

尺五の思想と小瀬甫庵の思想I﹃葬倫抄﹄と﹃童蒙先習﹄とをめぐってl﹂︵﹁日本思想大系塊﹃藤原慢窩林羅山﹄﹂解説所収︶で指摘されている︒﹃何物語﹄の作者もこの両書の関係は気づいたと

↓考えられる︒︵蛆︶﹃葬倫抄﹄︑﹃三徳抄﹄の引用は﹁日本思想大系躯﹃藤原握窩林

昭和61年2月

一色一

(10)

−10−

司捕

︵補注︶﹃何物語﹄は﹃寛文十年刊書籍目録﹄仮字和書の部に詞何物語︑

熊沢了海﹂と載るのを初めとして︑﹃寛文十一年書籍目録﹄も同記載︑﹃延

宝三年刊書籍目録﹄には仮字和書の部に﹁一葬祭弁論熊沢二郎八﹂の隣

に﹁三何物語同﹂と載りへ﹃貞享三年刊﹄︑﹃元禄五年刊﹄︑﹃延宝三

年新増﹄︑﹃元禄十二年刊新版増補﹄の各書籍目録︑また﹃宝永六年正徳 ︑・羅山﹄・﹂所収による︒︵u言注︵2︶と同︑四五四頁〜四六二頁参照︒L篭︵皿︶;;﹃何物語﹄五常の項目の︐﹁仁義礼智乃人生ハ則天の元亨利貞なり﹂は﹃葬倫抄﹄の誠の項の﹁人ニロ・鶉・拙・智・億ノ五鵠プルナリ︒

ジャウスナハ子ゲンヵゥリテイナリ︾天ニアッテハ五常則元・亨d利竪貞也﹂に拠ることも指摘できる︒

︽︵・昭︶注︵9︶︐参照︒↑一句■

︵M︶﹁儒宋之次第﹂の記述が﹃童観抄﹄に拠る例として伏犠八神農︑黄

︲帝の場合を次に掲げる︒

ろへ︑﹄︒○伏犠.︒:﹃何物語﹄l﹁天地萬物乃道理を見て易を作給ふ︵中略︶

キザィ.1在位百十年とあり﹂も﹃童観抄﹄I﹁伏義在位百十年︒︵中略︶天

地万物ノ道理ヲ見テ︒易ヲツクリ︒::﹂︒

か︐文7︑Lやう惑い○神農・⁝﹃何物語﹄1﹁耕作商買乃道を始めて民にをしへ草木をな

めて医薬をしらしめ給ふとあり在位百四十年也﹂・﹇童観抄﹄1﹁在

I子・シヤウバー位百四十年︒︵中略︶耕作事ヲオシヘ︒市ヲ立テ︒商買スルコトヲ

オシヘ・草木ヲナメテ医薬ヲシラシメ︒・:.﹂・せいでんぱう些鼠連めい0塁γ7かん〃︑ハつ〃︑ふれ○黄帝⁝・﹃何物語﹄l﹁井田の法を定衣裳干戈を作り亦舟を作りし

めて﹂・︾﹃童観抄﹄l﹁爽撫ヲツクリ︒干戈ヲ作リテ︒︵中略︶又

七fデ・グ舟ヲツクリテ︒初テノル︒井田ノ法モックレリ︒﹂︒﹃童観抄﹄の舟ヲツクリテ︒初テノル︒井田ノ法子

︵妬︶一例を次に挙げる︒︲﹃何物語﹄の﹁官と位と相当なれば先官次に位を書なりたとへば中

納言と云官ハ従三位乃佐に相当なり価官上にあり左大辨従四位上大

溌猫慾餡雌蕊謙灘艦緤謹塔醐跳舘

左大辨従四位上大弁者而

位下官也︒・自余以芝可知﹂ 位ナラパ先官次二位ヲ可譽︒中納言従三位中納言者従三位官也︒

左大辨従四位上大弁者四位上之官也︒左小弁正五位下少弁者子少弁者五 引用は東京大学附属図書館蔵による︒

による︒ 五年﹄の書籍目録も同記載である︒以上の書籍目録に従う限り︑﹃何物語﹄の作者は熊沢了海︑熊沢二郎八︑つまり︑﹃葬祭弁論﹄の作者熊沢蕃山ということになるが︑﹃何物語﹄初版奥付の作者名を信頼すべきであると考えるし︑現在の蕃山学においても彼の著述と認められてはいない︒このような錯誤の起った原因は中巻の﹃翁問答﹄の受容とそれに基づく排仏論と儒法による葬祭論にあ︲ったと考えられる︒蕃山が藤樹学の継承者であり︑その彼が寛文七年に﹃葬祭弁論﹄を刊行したことが蕃山に﹃何物語﹄の作者を擬した理由であったろう︒事実︑蕃山自身﹃集義和書﹄︵寛文十二年︶初刊本の中で︑彼の著作に擬せられた所謂偽書の仮名書が多かったことを︑﹃五倫書﹄の蕃山の名に擬した偽書であることを例に挙げて︑﹁其外我等の名もしらぬ書に︑我等の作と申が多きよし承候︒又我等の作と申候も無余義と存候ほどよく似たるも有芝候︒我等の書物を朝夕見て取用たることたるべく候︒﹂と述べているのである︒﹃葬祭弁論﹄の論述と比較してみると︑﹃何物語﹄の葬祭論は蕃山の論とは似るべくもないと言わなけれぽI.ならない︒

なお︑﹃何物語﹄からの引用は東北大学附属図書館狩野文庫所蔵本によ

った︒

︵S・帥・岨・略︶

秋田高専研究紀要第21号

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参加者は自分が HLAB で感じたことをアラムナイに ぶつけたり、アラムナイは自分の体験を参加者に語っ たりと、両者にとって自分の

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を