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大久保貝塚

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Academic year: 2021

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大久保貝塚

はじめに

日本列島に展開した初期農耕文化について、従来は稲作栽培を基盤として生成展開されたこ とが様々な観点から論じられてきた。最近では花粉分析、 コラーケン分析、プラント ・オパー ル分析など各種の研究手法により、極めて多様な穀物が栽培されていたことが知られるように なり、中には縄文時代前期に遡上しての穀物栽培の存在が主張されるに至っている。

しかしこうした自然科学的手法による分析においても、それら資料自体では所属年代が決定 できないのであり、考古遺物との共伴状況の検討が重要な課題となっている。また、「共伴関係」

の認定においても、包含層検出の対象物の場合は穀物自体が微小な存在であるためにコンタミ ネーションへの配慮が必要であり、穀物の同定とともにその年代を如何に正確に把握するかと いう問題も残されている。このためには遺跡から穀物種子を検出して種を同定し、それ自体を AMS法による年代の測定を試みることが今日最も望まれる試みであろう。

日本列島において穀物栽培の起源がどこまで遡るにせよ、先史時代から古代にかけての長い研究の目的 スパーンと地域的な多様性を視点に据えて、栽培穀物のもつ生活上の比重を当時の生業形態全

体の中で位置づける必要があり、そのためにも個々の遺跡における種子を中心とする植物遺存 体の具体的な検出とその同定・年代把握の追求が肝要であることは言うまでもない。

今日、 日本考古学の資料は行政の緊急調査により得られるものが殆どであり、そこでは石器 や土器などの文化遺物や遺構の検出に重点がおかれ、費用と時間的余裕がないかぎり、微小な 植物遺存体については考慮されないのが実情である。このために文部科学省に科学研究費を申 請し、九州各地の行政調査に携わっている研究者と共同で、植物遺存体の検出の可能性力§高い 遺跡発掘において土壌のサンプリング調査を行うとともに、小規模の発掘調査を企画して植物 種子の採取にあたることとした。

今年度の調査は次の研究組織により行われた。

熊本大学:甲元眞之、木下尚子、小畑弘己、杉井健、大坪志子

研究協力者:山崎純男(福岡市教育委員会)、立石泰久・辻村美代子(佐賀県教育委員会)

赤崎敏男(八女市教育委員会)、高野晋司(長崎県教育委員会)、岩永哲夫・

谷口武範(宮崎県教育委員会)、中村悪(北谷町教育委員会)、

椿坂恭代(元北海道大学埋蔵文化財調査室)、杉山真二(古環境研究所)

今年度の発掘調査は、先史時代から古代にかけて、外剰直物が日本に伝来するルート上に位今年度調査 置する長崎県壱岐での調査計画を立て、高野晋司氏の紹介により石田町大久保貝塚で小規模の

発掘を行い、植物遺存体の採集に努めるともに、壱岐島での縄文時代遺跡の立地条件の検討を

試みた。

また長崎県福江市中島遺跡での発掘調査により得られたアズキとヒシの年代測定を古環境研 究所に依頼し、その結果が次のように得られた(半減期はリビーの5568年)。

C14年代 補正年代 暦年代(西暦) 測定番号 アズキ:2120±50 BP 2120±50 BP 交点BC160 160561 ヒシ :5850±50 BP 5820±40 BP 交点BC4700 160562

(甲元)

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一遺跡の位置と歴史的環境

一遺跡の位置と歴史的環境

地理的環境

壱岐は、九州と韓国を結ぶルート上に位置し、東西約15km、南北約17kmの本島と28の付属島

(有人島5,無人島23)からなる。本島と小属島を合わせると、面積は約138km2である。島の基 盤は第三紀層であるが、表面のほとんどが玄武岩によって覆われている。標高が100mを超え

る山地の割合は非常に少なく概して低平と言えるが、内陸部では開析谷が複雑に入り組み急激 な崖面を形成し、海岸線は出入りが複雑で岩礁性のところが多く、海岸平野の発達は乏しい。

その中にあって、島の東南部は海岸からなだらかな地形が比較的大きく広がり、砂浜が発達し ている場所も多く認められる。

大久保貝塚は、壱岐島東南部のこのような砂浜の一角にあり、砂浜から東方に突き出た小山 状の岬(標高14.2m)の基部に位置する。遺跡は、 この岬から西側に下った麓にあたり、周辺よ りやや高まった砂丘上に立地している。北側は海に向かって急激に落ち込んでいるが、 これは 波浪によって削平されたためと考えられる。岬の周辺には人頭大の礫が多くみられ、遺跡は現 況において、砂性と岩礁性の環境を合わせ持つ立地条件にあると言える。岬の高まりのやや下

った所には弥生時代の大久保石棺墓がある(')。

大久保貝塚 の立地環境

歴史的環境

壱岐は、古くから対馬と並んで、 日本と朝鮮半島・大陸を結ぶ重要な役割を果たしてきた島 である。上述のような地理的条件が半島と九州地方の交流をより活発化させたものと思われる。

実際、先史時代から両者が活発に交流していたことを示す考古遺物が、壱岐の各遺跡から出土

している(2)。

壱岐では旧石器〜古墳時代までの遺跡が450ケ所以上確認されている。時代別に見ると、旧石 器・縄文時代の遺跡数は少ないが、弥生時代になると遺跡数は増加し、北部のカラカミ遺跡、

南部の原の辻遺跡に代表されるような大規模遺跡も見られるようになる。中国の史書『魏割 の「東夷伝倭人条」には弥生時代後期の壱岐の様子も描かれており、文献資料と考古資料の両 者から当時の様子をうかがうことができる。古墳時代になると、現存する古墳だけでも250基以 上が確認されており、中でも6世紀代の大型石室を持つ古墳が集中して分布することは、 日本 と朝鮮半島との関係における壱岐の地理的重要性をよく物語っていると言えよう。奈良時代以 降は、律令体制の施行に伴い、壱岐にも国府、国分寺が設置され国の扱いを受けるようになる。

中世には、文永・弘安の役、いわゆる蒙古襲来により相当の被害を受けるが、その後は倭冠松 浦党の根拠地として支配を受ける。以後藩政時代は平戸藩領となり明治までその統治下に置か れる。明治4年(1871)には廃藩置県により平戸県となり、同年長崎県に編入され現在に至って いる。

(呉)

註(1)藤HI和裕編「大久保遺跡」 「長崎県埋蔵文化財調査集報Ⅲ」長崎県文化財調在報告譜第91"1988年。

(2)龍田考古会編「海峡を越えて」 2001年。

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出土遺物 三

出土遺物

一 一 一

土器本調査区からは縄文時代後・晩期の粗製土器が出土したが、約50点と少なく細片がほと んどである。これらは締により採取したもので、 3 . 4層を中心に散発的に検出された。ここ では図化に堪えうるものと表採品を合わせて掲載した。

口縁部(1〜4) 1はほぼ直立し、端部力:外反気味の口縁である。内外面ともに貝殻条痕調 整を施し、内面はその上からナデ調整が施されている。胎土は綴密で、浅黄灰色。 2は若干内 湾気味である。外面は貝殻とハケ状の原体による粗い条痕調整を施し、内面は横方向に丁寧に ナデを施している。胎土には石粒や貝殻粉が混入する。にぶい燈色。 3は直線的に開く口縁で、

端部は平坦である。端部にむかって内側が外反するように薄くなる。他の土器に比べかなり厚 手で、胎土は石英など白色石粒の混入が著しい。口縁端部に棒状工具で押さえたとみられる凹 文が一ヶ所確認できる。器表面は磨耗しており調整などは不明であるが、元来無文であったと 思われる。にぶい黄榿色。 4はほぼ直立し、内外面とも指による押さえ・ナデにより調整され ている。外面は比較的滑らかな感があるが、断面や内面を観察すると胎土にはやや大きめの石

粒が含まれる。にぶい黄榿色。

胴部(5〜8) 5は無文で内外面とも部分的に縦方向の指ナデを施す。胎土には黒色・浅緑 色等の石粒を多く含む。にぶい黄榿色。 6は「〈」の字に屈曲する鉢形土器の胴部である。内 外面に細い箆状工具で条痕調整を施す。胎土には砂・黒雲母・白色石粒を含む。黒色。 7は内 外面とも貝殻条痕調整を施すが、外面は特に顕著で、内面は部分的に指でナデ消す。胎土は粗 く白色石粒のほか金雲母を含む。暗褐色。灰黄褐色。 8は外面を箆状工具、内面を貝殻でそれ ぞれ条痕調整を施す。内面は条痕調整を行った後にナデが施されている。胎土は雲母や白色石 粒をわずかに含むが級密であり、 1の口縁と同一個体と思われる。

表面採集品 9は調査区付近で調査以前に表面採集されていたものである。深鉢形土器の口縁 部で外に開く。内外面とも細い箆状工具で粗い条痕調整を行っており、器面の凹凸が顕著であ る。 口縁の外側に棒状工具による凹線を施すが、一周していない。 また、外器面には格子状の

へラ描き文様がある。

ここで取りあげなかった他の土器片も同様の所見を持つものである。縄文時代後期末の所産 と思われる口縁部細片が調査区下方(5層以下)から出土しており、これらを勘案すれば、本 調査区出土土器は後期末〜晩期前葉の範晴におさまろう。 (大坪)

石器10は表採資料で、玄武岩製の打製石斧である。上端を一部欠損している。現存するのは 最大長11.1cm、最大幅5.9cm、最大厚2.4cm、重量202gである。

11は玄武岩製の石皿である。上面は深く凹んでおり、他の面に比べて摩耗度が強い。周囲が 破損しているため、本来の形状を復元することはできない。現存するのは最大長13.5cm、最大

幅12.3cm,最大厚4.7cm、重量1040gである。

松本幡郎先生によると、 これらの石器素材は、遺跡周辺で容易に獲得できるものである。

骨角器12はシカの中指骨製刺突具の基部である。先端を大きく欠損しているため、全体の形 状を復元することはできない。基部は丁寧に加工され、擦痕が顕著にみられる。 (河合)

出土土器の 時期

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五まとめ

五まとめ

大久保貝塚は、壱岐島東南部にある岬の基部に位置する縄文時代後・晩期の貝塚である。今 回、本遺跡を調査地に選定したのは、先史時代から古代にかけて大陸と日本を結ぶルート上に 位置する壱岐において、初期農耕文化がもたらされる時期の植物遺存体を検出する可能性があ

ると判断したためである。

遺跡の立地 本遺跡は、壱岐島東南部を南北に広がる砂浜から、その砂浜より東側に突出した小山状の岬

と環境 にいたる砂丘上に立地している。また、遺跡の東に位置する岬の周辺には人頭大の礫が多くみ られ、遺跡付近の海岸は砂と岩礁で成り立つという、壱岐における縄文時代後・晩期の遺跡立 地と多くの点で共通している。遺跡北側では岩礁の間は約100mの幅をもって砂浜が海中に没 していて、砂地を好む貝類に格好の棲息場所を提供していることが他の壱岐に分布する縄文時 代遺跡と比べ特徴的である。

出土遺物の 本遺跡の層位は7層に分層でき、第3層から第7層までが縄文時代の遺物包含層である。こ

時期 れらの遺物包含層から出土した土器は判別できる限り、縄文時代後・晩期に位置づけられるが、

細片が多いために詳細な時期を決定できる資料は少なかった。そのため、 これらの包含層から 出土した遺物を一括して縄文時代後・晩期の資料として扱うこととした。ほとんどの土器は胎 土に貝粉を多く含み、器壁が概して厚いことが特徴であり、九州本土のものとは異質である。

生態環境 動植物遣存体等の自然遺物を検出するため、遺物包含層の廃土をすべて2mmのメッシュにか け、多くの自然遺物を得た。また、ブロック・サンプリングやコラム・サンプリングを行い、

微細な種子や、微小貝の検出に努めた。今回検出した動物遺存体は、魚類が多数であり、その ほとんどはベラ科を中心として沿岸付近で棲息する類で占められていた。微小貝を含めた貝類 遺存体には岩礁に棲息するものと砂泥底に棲息するものの両者がみられ、 このことから遺跡周 辺の当時の生態環境は、現在のものと大差ないことがわかった。貝類の中で貝輪製作に使用さ タマキガイれることの多いタマキガイが、稚貝から貝輪製作が可能な大きさのものまで出土しており、 こ のことは、今後この遺跡のもつ意味を評価する折には重要な要素となるものである。一方検出 した植物遺存体は西日本の沿岸地域に一般的に見られるものであり、残念ながら栽培植物を確 認することはできなかった。

調査の成果 大久保貝塚は、壱岐の東海岸において数少ない縄文時代遺跡の一つであり、その概要を把握 できたことは一定の成果と言える。また、微細な自然遺物の検出を行ったことで、遺跡周辺に おける古環境の概要を復原することができた。 しかしながら、当初に意図したような、穀物を 中心とする植物遺存体の検出は、果たすことができなかった。

今後の課題 先史時代とりわけ初期農耕文化の萌芽期において、栽培穀物のもつ生活上の比重を当時の生 業形態全体の中で求めるため、個々の遺跡における種子を中心とする植物遣存体の検出とその 同定.年代把握の追求が課題となっている。そのため、継続して土壌の水洗などによって多く の資料を蓄積することが、この分野の研究において重要である。

(河合)

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参照

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