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」の朝鮮的な受容植民地文化研究のための覚え書き

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(1)

﹁ 呉 鳳 伝

﹂ の 朝 鮮 的 な 受 容

植民地文化研究のための覚え書き

﹁ はじめに

富     鎮

個人的なことから話そう︒たまに頭をよぎるふとした記憶がある︒自分の生き方︑あるいは人生を考えるたびにその記

憶は表に出てくる︒韓国での高等学校一年生用の国定教札書国語で教わった﹁いかに生きるか﹂という表題のことであ竜l

つまり︑自分がいかに生きていくかを考える度毎に︑高校時代に教わった﹁いかに生きるか﹂という教科題目が思い出さ

れるのである︒その内容は台樽の首狩族をめぐる呉鳳の話である︒呉鳳の話が強烈な思春期の記憶として人生観と異様な

形で結びついている︒ある種の狭雑物として自分の思考に付着しているのである︒学校教育が残した効果であろうか︒と

はいえ︑とうした思考現象は私だけに限るもの至もなかろう︒二一〇〇三年韓国で︑﹃読み返す国語︹高等学校︺﹄という題

で︑もっとも感動的な高等学校国語の教科目とされるものがまとめられたが︑そこにも﹁いかに生きるか﹂は青春の郷愁

かりの高校生のとき︑この文章から正しい生き方について考えさせられた︒おそらくそれで一層記憶に残る文章かもしれ

(2)

・本論はこうした個人的な思いから出発した一種の植民地文化論である︒﹁呉鳳伝執﹂が残した朝鮮においての受容の問題

をたどるのが本論の目的になる?その過程で呉鳳伝説をめぐる朝鮮で・の受容と変容にかかわる植民地主義の政治性を紹介

する︒そして全体として植民地における文化研究のための﹂問題提起のひとつ.の覚え書きにしたい︒■

二︑呉鳳伝説の変容過程

の公学校︑.朝鮮の普通学校︶国語教科書に掲載された話である︒.それぞれには若干の相違があるが︑おおむね共通する話

は次のようなものである︒

昔︑■㌧台湾▲の先住民には首狩の風習があったが︑亜里山の先住民はいち早くその風習を止めた︒それは呉鳳のお陰であっ

た︒呉鳳はその地域の役人で亜里山の先住民にたいへん尊敬されていた︒呉鳳は首狩という野蛮な風習をなんとか止めさ

せようとしたが︑先住民はどうしてもそれだけは聞かない︒ちょうど先住民がすでに取ってある首が四〇余りあったので

それを毎年の祭りに提供してきた︒四十年余りがすぎ︑いよいよ提供する首がなか↓たので︑一年間だけ延ばして.くれと

いってそれを三年間繰り返した︒しかし︑先住民はこれ以上は待っていられないと強く首狩の実施を要求する︒先住民の

要求に窮した呉鳳欄︑■属目何時湛或る場所に行けば︑赤い瀾子をかぶって寒い服を着た通行人が通り過ぎるのでその人の

首を狩るように七指示する︒.尭値民が言われた=遣り叱指定の吸所に行って首を刈ると︑それは他でもない呉鳳であった︒

(3)

以上のような話が︑かつての戦前に︑日本・台湾・朝鮮の国語教科書にそれぞれ掲載され︑広まった呉鳳の話である︒

教科書を通したこうした認識が日本をはじめ︑旧日本植民地の共通認識として︑戦後の長きに渡り︑続■いてきたのである︒

呉鳳に関する議論は﹂■九八〇年代の初め︑台湾で始められ︑・多くの研究成果が重ねられてきた・︒こうした議論を踏まえ︑

台湾政府は戦後ま■でに続いた呉鳳教育による差別的で植民地主義的な側面を批判し︑・︑教科書から削除することを決める︒

それ以降もさまざまな研究による呉鳳伝説の変容過程が明らかになってきたが︑なかでも呉鳳伝説の変容過程については︑

従来の・論文をまとめた形になっている駒込武.﹁植民地教育と異文化認識

二年東京の博文館で刊行されたもので︑■佐久間台湾総督の捧毒︑大津蕃務本署長︑亀山警察本署長︑津田毅一嘉義庁長の

序が寄せられている︒著者の中田直久は嘉義庁警視課長である︒﹃通事典鳳﹄の刊行は︑総督府の肝いりで実施された呉鳳

顕彰事業の一環で行われたもので︑当初から植民地の政策的意図の強いものであった︒中田直久﹃通事呉鳳﹄によって呉 鳳のイメージは定着し︑それ以降聖典化されていくのである︒﹃通事典鳳﹄の典拠になっているのが劉家謀﹃海音詩﹄ ︵一

八五五年︶.や悦賛元﹃雲林県来訪冊﹄±八九四年︶などであるが︑いずれも暖味な表現が多く∵毎通事呉鳳﹄のような纏

まった美談話ではない︒つまり︑以前の典拠が大きく曲げられ︑あるいは著しく変えられ︑﹃通事呉鳳﹄としてまとめられ

たのである︒それを示すかのように︑実際に﹃通事呉鳳﹄でも必ずしも美談話でない異伝が六つ︑載せられている︒それ

ぞれの典拠本や異伝では︑呉鳳が殺されたのではなく自殺をしたとか︑・あるいは蕃人に復讐を誓って闘ったという︑美談

話とは思えない部分が見られている︒さらに多くの典拠本や異伝には共通して︑■呉鳳が殺され︑家族が呉鳳にいわれた通

りに紙人を焼き︑先住民を呪う話が見られる︒呉鳳の呪いによって先住民の間に疫病が発生し︑死人が多く出たため︑呉

(4)

鳳の霊を祭って鎮めたというのである︒紙人に憑依した呉鳳の霊が原住民に崇りをもたらすモチーフである︒こうしたモ

チーフは先述の﹃雲林県来訪冊﹄をはじめ︑漢族の異伝ではとぐに強調されているが︑それが﹃通事呉鳳﹄や台湾総督府

の﹃公学校国語教科書﹄では簡略化され︑文部省﹃小学校国語﹄や朝鮮総督府﹃普通学校国語﹄に至ると︑ついに消滅す

る︒つまり︑自己犠牲︑﹁殺身成仁﹂のより完壁な美談に変わっていくのである︒こうして新たに彩色された美談話︑つま

り﹁呉鳳伝説﹂というものが学校教育の場を通して日本を始め︑台湾︑朝鮮に広まったのである︒

日本と台湾における呉鳳伝説の変容過程を詳細にたどった駒込は︑﹁呉鳳伝説﹂ の形成過程を次のように結論づける︒

呉鳳伝説の変容過程は二重の換骨奪胎過程として表象される︒対先住民戦争への漠族の動員を目的とした﹃通事呉

鳳﹄編纂段階では呉鳳﹁伝説﹂を﹁伝記﹂として実体化すると同時に先住民の文化に対する偏見を拡大再生産するよ

うな潤色がなされた︒さらに︑この段階で創出された自己犠牲の構造・﹁英霊﹂化の論理は教材化段階で﹁紙人﹂ のモ

チーフや﹁王法﹂の観念の剤除という﹁マイナスの操作﹂により徹底される︒先住民や漢族の文化はこうした呉鳳伝

説の﹁美談﹂化に必要な限りで換骨奪胎的に利用されるのであり︑歪んだ異文化認識の拡大再生産と自己犠牲の観念

を中核とする﹁日本的﹂な﹁美談﹂の形成とが表裏一体の形で進行したのであか︒

中田直久﹃通事典鳳﹄によって﹁換骨奪胎﹂された呉鳳伝説は︑台湾と日本の小学校国定教科書を通してさらに聖典化

され︑大日本帝国全体に広まっていくのである︒駒込の調査によれば︑日本と台湾における呉鳳に関する教材は以下のよ

うなものがある︒

(5)

A︑台湾総督府編纂教科書

‖﹃公学校用国民読本﹄巻十一第二四課︑一九一四年 目﹃公学校用修身書﹄巻四第四課︑一九一四年

輌﹃公学校修身書﹄巻四第一四課︑一九二九年 国﹃公学校用漢文読本﹄巻六第一九課︑一九三三年 的﹃公学校用国語読本第一種﹄巻八第一八課︑一九四〇年 B

H﹃第二種尋常小学読本﹄自習用乙第二課︑一九一七年 目﹃尋常小学国語読本﹄巻八第六課︑一九二一年 目﹃尋常小学読本﹄修正版巻十一第二課︑一九二二年

戦前期︑教科書で登場した呉鳳伝説は日本の敗戦後もなお︑国民党政府の国定教科書に長いあいだ掲載されつづけてき

た︒ようやくの一九八七年︑台湾立法院は教科書から呉鳳伝説を削除する︒削除理由というのは︑﹁日本人が意識的にねじ

曲げて︑呉鳳の人格の崇高さを突出させ︑対照的にツオウ族の人格をおとしめた︒呉鳳を神化することで︑原隊民を醜化

した﹂ことであ聖典鳳伝説がもつ植民地主義︑あるいは戦後国民党による政治性を認識したからであろう︒つまり︑呉

(6)

鳳伝説は日本占領期だけではなく︑云口湾内部の政治性にあいまっ七︑■またそうした内的要求から戦後においても生き続け

ていたのである︒そしてここで問題にしたいのは︑同様のケースが朝鮮・韓国にも見られることである︒

前述の駒込論をは七め従来︑呉鳳伝説はおもに植民地台湾研究の一環として扱われてきた︒呉鳳に関する先行論はほと

んどそうである︒そのため︑呉鳳伝説がおもに白木と台湾の問題として一般的に理解されてきた︒しかし︑呉鳳伝説はじ

つは︑朝鮮・韓国にも共通して存在していた︒日本や台湾同様︑朝鮮においても普通学校の教科書などで掲載されてきた

のである︒朝鮮総督府編纂の教科書︑あるいは戦後の韓国文教部編纂教科書に掲載されている呉鳳伝説を扱ったものは以

下のようなものがある︒

‖普通学校国語読本︵一九二三年〜一九二四年発行︶第二次朝鮮教育令期 巻八第六課

目普通学校国語読本三九三〇年〜一九三五年発行︶第二次朝鮮教育令改正期 巻八第十七課

使

上記のうち日は1■日本の去尋常小学国語読本﹄︵巻八第六課︑一九二一年︶を基本的にそのまま使ったものである︒句点

と読点における細微な相違はあるが︑内容はほぼ同じである︒巻八第六課という掲載順番も日本町教科書と同じである︒

戦前の植民地の教科書は日本の教科書の内容をそのまま使ったものが多く︑呉鳳も日本からの影響で朝鮮の教科書に掲載

(7)

されたものと思われる︒■つまり︑■日本の国定教科書の内容を受容するかたちで呉鳳は朝鮮に紹介されてきたのである9■と

なると﹂ 呉鳳伝説の朝鮮で.の受容は︑台湾1日本l朝鮮という経路をたどったことになる︒教材として..の呉鳳伝説の重要

な特徴は∵それが日本←植民地︵台湾︑朝鮮︶・の一般萬な経路ではなく︑台湾1日本1植民地︵台湾︑朝鮮︶∴という経路

r

しかし︑・ここで注目したいのは臼のことである︒臼の高等学校国語︵一九七五年〜一九八九年︶ は戦後しぼちく経って

の︑しかも割合近年にまで続いたものである︒戦前の大日本帝国の美談話が︑戦後の韓国国定教科書に再登場したのであ

る︒すでに述べたように︑台湾でも呉鳳伝説は国民党の政治性と相侯って一九八七年までに続いている︒とすれば︑日本

では帝国の崩壊とともに滅びた呉鳳伝説が︑なぜ朝鮮と台湾に長いあいだ存続しっづけてきたのだろうか︒

その前に︑戟後につづく韓国国定教科書の呉鳳の話はいかなるものであろうか︒またそれがどのように受容・解釈され

たのだろうか︒以下︑高等学校国語に掲載された呉鳳伝説の全文を翻訳・紹介する︒

孫 明絃

この問いは実践の問題である︒したがって︑それを言う人自身がその言葉とおりに実践窮行しないかぎり︑千万の

(8)

言葉を並べ立てたとしても答えにはならない︒

﹁朝に道を聞かば夕に死すとも可なり﹂

これは孔子の言葉で︑人々はこの言葉を ﹁いかに生きるか﹂ のよい答えとして信じてきた︒しかし︑昔の普通の儒

生でもこの程度の言葉は口に出来ただろうし︑実際に口にもしたであろう︒しかし︑孔子のこの言葉だけがそれに対

する答えとして信じられてきたのは何故であろう︒それは孔子の実践窮行を考えざるをえない︒

数年前︑私は五台山に行ったことがある︒そこには名剃の月精寺と上院寺がある︒月精寺は一度焼かれて新たに建

てられたので昔の痕跡をみることができなかったが︑上院寺は昔のままに残っていた︒私はそこで︑上院寺が朝鮮動

乱の中でもそのまま残された由縁を聞いた︒

上院寺は方漢岩禅師が住職として命を終えた場所である︒朝鮮戟争の時であった︒国軍は南進する侵略軍を撃退し

て北上したが︑中共軍の介入で撤退せざるをえなくなった︒その時︑国軍はこの二つの寺が敵に有利な掩蔽物になる

ので作戦上焼かざるを得なくなった︒それで国軍はまず月精寺を焼き︑上院寺の僧たちにも避難するよう伝えた︒方

住職は寺の放火に何日間の猶予を願い出た︒その間︑住職は寺の僧たちを避難させ︑一人で残っていた︒放火の約束

の目に国軍が寺に赴くと︑住職は椅子に端座したまま絶命していた︒その荘厳な光景を目の当たりにした国軍は放火

を断念し︑そのまま撤退せざるをえなかったという︒それで上院寺は焼かれずに残ったのである︒

作戦上からすれば︑寺を守る住職にも︑寺を焼かずに撤退した国軍にも問題がないとはいえない︒しかし︑信念のた

めに身命を賭けた住職の貴い行動︑また軍人としては間違っ■たとしても住職の貴い行動に敬意を表して寺を焼かなかっ

た軍人たち・のいとも人間的な行動は︑私たちに感動を与えるとともに︑﹁いかに生きるか﹂ということを暗示してくれる︒

私が幼い時に読んだ呉鳳の話も︑思い返すたびにこうした感動と暗示を与えてくれる︒∵昔︑台湾の山間には人の首

(9)

を別ねて祭祀を行う風習があった︒しかしその中でも︑阿里山の土人たちは他の土人たちより先にこの悪習を捨てた が︑それは呉鳳という人の殺身成仁の結果であった︒

呉鳳は中国から渡ってきた宣教師で︑阿里山の土人たちの教化に勤め︑ついには彼らの酋長として推戴された︒土

人たちは呉鳳を神様のように崇め︑慕った︒しかしうその悪習はどうしても捨てようとしなかった︒呉鳳は仕方なく︑

来年は許すので今年だけは我慢するように説得した︒それで一年を無事に過ごした︒そして翌年もそうしてまた一年

を無事に過ごした︒しかし三年目にはまったく聞き入れられず︑反乱でも起こしそうな勢いであった︒■その時︑呉鳳

は某日何時に或るところに行けば︑赤い帽子をかぶって赤い服を着た旅人が通り過ぎるのでその人の首を別ねて祭祀

をするようにと指示した︒土人たちは悦んで︑指定の日時に指定の場所に行ってみるとはたして酋長の言ったとおり

の旅人がいた︒それでなにも考えずに首を別ねてみると︑それがほかではなく彼らが神様のように崇拝して慕った呉

鳳ではないか︒彼らは大声痛果し︑旧来の悪習を捨て︑それ以降︑呉鳳の忌日になると赤い服を着て彼の徳を慕った・

というのである︒

呉鳳の行動が最善の道であったかどうかについてはさまざまな意見もあろう︒しかし︑教えを実行して生命を革芥

のように捨てた彼の貴い行動は私たちに大きな感銘と︑いかに生きるかについて暗示してくれる︒

人類歴史上︑いや我が国の歴史だけでもこのような殺身成仁を遂げた人たちは数多ある︒同時にそれとは反対の場

合もある︒﹁君子は義に喩り︑小人は利に喩る﹂というが︑私たちがすでに提起した﹁いかに生きるか﹂という問題も

結局は︑君子の道を歩むか小人の道を歩むかという問題に帰結するといえる︒

しかし︑このような問題を提起し︑千万の言葉で答えたとしてもそれになんの意味があろう︒方漢岩のように︑呉

鳳のように実践しない限りでは⁝⁝︒︵全文翻訳︶

(10)

朝鮮戦争のしばらく後︑韓国の教科書に再登場した呉鳳伝説であるが︑それは従来とはやや枠組を変えている︒細部に

おいて多くの変容が認められる︒まず︑題目として︑従来の歴史伝記風の﹁呉鳳﹂ではなく︑﹁いかに生きるか﹂という生

き方への本質的な問いと主張に変えられた︒作者の伝聞によるエッセイ形式で︑全体として人生観の強い主張になってい

るのである︒戦前の呉鳳が︑歴史的な逸話︵あるいは教訓話︶ であるとすれば︑戦後のものはそれに止まるのではなく︑

殺身成仁という教育指標の ﹁実践﹂を主張している︒構成においても︑呉鳳だけではなく︑朝鮮戟争時の方漢岩住職の逸

話まで組み込まれ︑一層強い ﹁実践﹂が要求されている︒ほかにも細部において多くの異同がみられる︒

れている︵戦前は四〇年余りにさらに三年延期させたが︑戦後は二年間だけ延期させている︶︒また︑呉鳳が戦前では亜里

山の国籍不明の﹁役人﹂で為ったが︑それが中国から渡った﹁宣教師﹂に変えられ︑さらに呉鳳は先住民の﹁酋長﹂に推

戴されたことになっている︒さらに︑兵鳳は生存時から﹁神様のように崇め﹂られ︵戦前では﹁親のやうにしたはれ﹂た

とされている︶︑呉鳳の忌日になると赤い服を着て彼の徳を慕った︵戦前には死後神に祭ったという︶というようにつけ加

えられている︒ほかにも先住民の首狩への強い要求が戦前では﹁もうどうしても待ってゐられません﹂という表現に止まっ

ていたが︑戦後では土人たちが﹁反乱でも起こしそうな勢いであった﹂と具体的に強調されている︒

このように︑戦後の韓国における呉鳳伝説は︑戦前のものとはやや違う形で再受容されている︒構成においても内容に

おいてもストーリが強化されている︒それでは︑帝国の当事者であった日本では消滅した呉鳳の話が︑なぜ戦後の韓国︵あ

るいは台湾︶に再受容され続けてきたのであろうか︒いかにも日本帝国の植民地政策用だったものがいかなる理計によっ

て旧植民地に継続していったか︑ということである︒そこには受容と変容による旧植民地の戦後的な政治性があり︑それ

によって植民地主義を再生産する内部要因がある︒

(11)

四︑呉鳳伝説の政治性と植民地主義

すでに指摘したように︑戦後の台湾での呉鳳伝説の継続的な受容は︑戦後台湾の政治性と切り離して考えることができ

ない︒国民党一党支配体制を長く敷いてきた台湾では︑いわゆる本省人と外省人の対立が存在してきた︒そして呉鳳伝説

は漢族系の外省人による支配体制にも好都合のものであったと思われる︒つまり︑戦後の台湾の政治性が呉鳳伝説をみず

から要求したのである︒戦前の植■民地主義と戦後の政治との共謀関係が成立していたといえる︒同様のことは朝鮮・韓国

にも当てはまる︒

呉鳳伝説は戦後の韓国において大きく変容したが︑まず呉鳳が宣教師に変えられたことの意味である︒国籍不明の役人

︵だから日本人も可能であった︶から宣教師への書き替えであるが︑宣教師というのは一般的にキリスト教の布教に関わ

る西洋人のイメージが強い︒宣教師による﹁土人﹂の教化という︑いかにも西洋植民地主義の装いを呈しているのである︒

役人と先住民の関係が西洋人宣教師と﹁土人﹂ の関係に変えられることで︑台湾に住んでいる人はことごとく﹁土人﹂と

いうイメージが強められている︒さらに呉鳳が﹁土人﹂ の ﹁酋長﹂に推戴され﹁神様﹂ のように崇められたというのであ

る︒役人が﹁酋長﹂に変えられているが︑なぜ呉鳳が﹁土人﹂によって﹁酋長﹂に推戴されたのか︑必然的な理由は存在 しない︒西洋人宣教師が﹁土人﹂の住む南方の島に行き﹁土人﹂を教化し︑﹁酋長﹂になったというような設定である︒西

洋︑あるいは一九二〇年代の日本の︑南方に対する植民地主義の典型的な姿を踏襲するものといえる︒当然ではあるが︑

戦後の韓国における呉鳳伝説は必ずしも戦後的な文化状況から発生したものではない︒戦前からの︑帝国の視点を胚胎し

たものである︒宣教師による南方の島での﹁土人﹂の教化︑﹁土人﹂の暴力性と宣教師の文化性などは︑日本帝国のもっと

(12)

もありふれた大衆文化現象でもあ.ったのである︒つまり︑孫明鉱による呉鳳伝説のさらなる変容は︑南国に蔓延した日本

的な植民地主義の一姿なのである︒帝国め植民地主義は植民地においてもっとも強化され︑植民地はそうした帝国の植民

地主義が氾濫する場所だったのである︒・つまり︑戦後の韓国における呉鳳伝説のい■びつな変容は︑植民地主義がもたらし

たもっともグロテスクな姿であると同時に︑旧植民地に内在する植民地主義の一証左である︒旧帝国が戦後に古い植民地

主義と表面的に決別していくのに対し︑旧植民地はそれを遺産として保持していたのである︒台湾と朝鮮において呉鳳伝

説が生き残る根拠がそこにあ■つたといえる︒近代国家を目指す旧植民地の政治性が遺産の保持と再生産を内的に要求して

孫の呉鳳伝説はいうまでもなく︑旧来のものを借り︑新たな戦後的な伝説をつけ加えたものである︒そのなかで︑もう

一つの伝説として朝鮮戦争時の方漢岩禅師の死がつけ加えられる︒国軍︵韓国軍︶に協力する方禅師の死が呉鳳の死と重

ねられているのである︒同時に︑寺を焼かなかった国軍の行為も︑いちおうは呉鳳の線上にあるものとして讃えられてい

る︒方禅師の死にまつわる国軍の行為︑さらにその延長で想定される朝鮮戦争時における国軍兵士の戦死なども︑暗に殺

身成人の﹁実践﹂を暗喩するものになっている︒つまり︑呉鳳の死は方禅師の死と同列のものであり︑国軍の行為もそれ

に類似するものとして想定され︑その延長線で国軍兵士の戦死が想定されているのである︒殺身成仁の﹁実践﹂による愛

国犠牲主義の再生産.であるといえよう︒呉鳳伝説は︑分断国家である韓国の︑いわば愛国犠牲主義の教材になり近代国民

国家の枠組のもと機能していたのである︒旧植民地の近代国家建設のための︑内部的な必然性から呉鳳神話は再利用され︑︑

またそれに合致するようにさらなる変容が要求されたといえる︒そのような事情は台湾においても同様であったと思われ

る︒

(13)

五︑終わりに

以上︑呉鳳伝説の台湾での受容過程を概観したうえ︑朝鮮での受容過程について考察した︒それを簡略に整理すると︑

呉鳳伝説は台湾の教材で最初に扱われ︑それが日本に受容され︑さらに植民地朝鮮の教科書にも受容された︒その過程で

呉鳳伝説は大日本帝国の共通の美談話として共有されてきた︒しかし︑台湾と朝鮮においては戟後さらなる変容を経て存

続しっづけた︒それには戦後的な政治性が強く関係している︒呉鳳伝説のもつ重要な文化的意味は戦後においても旧植民

地の朝鮮と台湾にそのまま受容され︑あるいは変容する形で存続しっづけてきたことである︒大日本帝国の植民地政策的

な意図を強く胚胎したものが︑戦後における旧植民地の政治的・文化的な状況のなかで︑内発的に要求されたのである︒

というのは︑戦後における植民地主義は必ずしも旧帝国ではなく︑被植民地もしくは旧植民地国家によってさらに強化さ

れた側面があることを示している︒.植民地という制度が終わっても旧植民地の内部構造として植民地主義は維持されつづ

骨︑さらに■は内部の伝統として定着していくのである︒そうした呪縛される連鎖の過程こそ︑いわゆる新植民地主義とも

いえよう︒

をおいて忘れられないものとして息吹つづける﹂﹁まさにあなたの最も純粋な青春の光﹂であると意義づけている︒呉鳳伝

説に限っていえば︑編集者のいう﹁あなた﹂こそまさに旧植民地国家自身であり︑﹁最も大事﹂ で﹁最も純粋な青春の光﹂

こそ内部に刻印された植民地主拳であろケ︒そうした構造が旧植民地国家には近代の原体験として果てしなく反復・再生

産されているように思われる︒

(14)

仙高等学校﹃国語1﹄︵第三・第四次教育課程期︑一九七五年〜一九八九年︶︒第三次教育課程は一九七四年に︑第四次教育課程は一九八一年

にそれぞれ公布された︒教育課程の公布と教科書が実際に使われる期間には若干のずれがあるが︑本論では使用期間を重視した︒

②﹃読み返す国語︹高等学校︺﹄ ︵知識工作所︑二〇〇二年︑ソウル︶

稿

関する記述はおもにこれらを参照した︒

m

(15)

234

30.可望刀1せ召虻7t

増 車(孫明鑑)

叶望刊 せ蚕虻7t?

01号♀♀づ召(賓洩)句意凋(問題)ヰ・ユ 司三五,要す与斗督オ刃(自身)01ユ句 ■宮 相互づ童子増(廣洩身弓行)斗司 没与せ(限)尋せ可(千鶴藷)

号ヰ望(羅列沌中朝三周曾(封答)01耳可溶せ蚕回■軋 0博明エ(邁)号音ヱ唱司当用号可工尊ヰ・

01せ♀普ヰ(孔子)7tせせ且,斗脅せ♀ 01せせ 可習珂

10せ蚕吏7回 増せ尊号せ印せ且主導可阜ヰ・ユ司寸,喫せ 句増せ智弁増(儒呈)号可叶唱,01各エ(牡鹿)句 官舎 キ千 ヰ督午恕エ,監斗71エ戴富蚕01ヰ・ユ亀瑚ユキ号(増額)

骨ヰ句せせ01土印せヱ旦望叶ス1盲蚕♀キ喜オ詠史7t?

部四日は雫牒阜朴中目黒.−.÷訳叶

15 午増量(穀阜前川 ヰ与且こ帰は巷J・j)増 せ望可 ̄裏ヰ.

司71主音増せ且を(せ刺う聖等/車十鯖キ)斗音型人目上院寺)

7ト計れ ユ屯嘲,望瑠′斗与せせ 月刊 人目且 司敦71増号可1 嘆且寺せせ召 出患且寸,廿里やせ♀ユ朝丘甘叶裂裏ヰ・

ヰ与.司71月,01望01ユ奄せ(覿軋)今朝月エ ユ朝丘 甘司 20早、喧阜(線せ)号音忠ヰ・

.せ包斗与 せ せ甘(オ浅慮)也や二郎乎)井手ス1(住持)且月

(l)朝間道夕死可奏.く阜可(論語)〉

く参考資料一〉『国語1』(高等学校一年生用、一九八三年三月発行、韓国文教部)

(16)

30.可雪月1せ召里フt−235

瑠璃(生命)与中巻 テ01寸.6・25 斗里(事変)嘲忠ヰ.千号

(国軍)♀甘召(南侵)斗与・召華子(侵略軍)せ‥召可(撃退)舌回 すせ(北上う更ヰ7㌦号骨子(中共軍)雪7梢(介入)且王手可(後

埴)外力ト■司虫叶∴ユ嘲,号音♀ 01キ・召可 雪子(敵軍凋珊

♀司(有利沌望画せ(掩蔽彿)01月フ上申モ軒キ召せ(.作戦上〉

せ嘲キス1せせ午奴与 可ス1(虞地)叫 毀盟叶.ユ軋札 ̄千号

♀瑠璃斗号音E11♀且,せ型斗呈_オ土増号音ヰ車中ユ憩叶.

せノ軋斗(オ禅師)主宰望与や当サ叶(猶線)与尋憩ヰ・ユ号 せゼ斗古と望合せ且干.斗せ(下山)刃ヲ1コ1喜ヰ 甘敦叶.攣 キ(約束)せせ可1号子可7t且リ,也斗モ句斗叶せ卑(端坐)10

せ.朴召す(絶命)朝∵奴奴ヰ・ユ 杏増(荘厳)せ せ召(光景)含

阜干せ♀ユ叫且幸司督 午甘酢奴乳軋 ユ朝耳,せ包斗さ せ♀蚕01軋

.可塑(作戦)飼主.司ス1用人卜且更,召せ 千旦(守護)を・心木

せ竜ヰ

(17)

236−4包ヰ更増

(療師)姉和ヰ召合せ嘲キス1皆♀音更(軍人)告朝刊ヰ♀司

与ヰ沓01督.せ01裂含 蚕01ヰ・ユ司ヰ,刃増(借金)せ 胡 卑可 心増(身命)せエ(賭)せ ゼ斗句 音量 嘲号(行動),ユ申 立可与 子亀ヱ且主 音貴01年 曹司叶もユ 恵与 尊号 曽 5 珂貪妻妾可可工 申せユ号生き句 7摘・更衣司(人間的)吏 嘲与♀♀司増刊 号有望(鹿弟)ヰ曹司,可習増 せ蚕更7回

印せ 曾刃(嗜示)号音珂 号キス1皆♀7ト

朴叶可司月 夏用∴生せ(異風)句 0lot71も 増耳管嘲叶ヰ 01電 着増ヰ甘ス1号告ヰ.倒せ,ヰ01単(婁樗)句 ノせ社(山間)

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(18)

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(19)

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(20)

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へ る 風 が

は ︑

鈍 の

異風は今 は共鳳と

あ り ま す が 盈 望 山 の 番 人 に だ け

︑し

︑︺

風が早くから止みました︒これ ふ

人 の お か げ だ と 申 し ま す

︒ らこ青草程前の人で︑盈里山の

弟六 異風

く参考資料=〉『普通学校国語読本』(巻八、一九二四年八月発行、朝鮮総督府)

(21)

第六 異風

心 た

︒ 大 を う 番 人 を か は い が り ま し た

の で 雇 人 か ら は 親 の や う に し た は れ ま した︒異風は役人になった時から︑どうかし

て 骨 家 の 患 嵐 を 止 め さ せ た い も の だ と 思 かました︒ちゃうど番人が︑鼻の前の年に歌

った骨が四十鎗ありました.ので︑それ■をし

まって置かせて︑鼻の後のお祭には︑苺手鼻

の 骨 を ー っ づ つ 供 へ さ せ ま し た

︒ 四

十 除 草 は い つ の 間 に か 亀 ぎ て

(22)

竜 骨 が を く 浸 り ま し た

︒ そ こ で 番 人 ど も が 呉

鳳 へ

︑ 骨 を 承 る こ と を 許 し て

﹂ れ と い っ て出ま心た︒兵鳳はお祭の為に.人を殺すの

は よ く を い と い ふ こ と を 説 き 聞 か せ て

︑ も ぅ

一 竿

︑ も う 一 手 七 の ば き せ て ゐ 蛮 こ レ た が

四草月に覆ると︑

﹁ も う

︑ ど う し て も 待 っ て ゐ ら れ ま せ ん 山

といって東ました︒具鳳は

﹁それ程骨がほしいなら︑明甲の書項︑赤い.

第六 典鳳

(23)
(24)

して︑骨を敢月ました︒見ると宣れ・は宴鳳の 骨でございました︒番人どもは啓を上げて

泣きました︒

さて番人どもは兵鳳を神にまっ・つ.て演牒 前で︑姥の後は決して人の骨を駄本や土ち

かひまし.た︒さうして今も鼻の通守や←セ

ゐ る の だ と い ひ ま す

第七

固音館

第七 図書館

参照

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